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カテゴリ:壺阪霊験記 > 壺坂霊験記(古態) 

壺坂霊験記(古態)
『歌舞伎名作選 第三巻』
(戸板康二編 昭和28年(1953年) 創元社刊)

WEB目次

 1 座頭沢市住家の場
 2 壺坂寺観音堂の場
 3 同谷間御利益の場


凡   例

  1:底本は「壺坂霊験記」(『歌舞伎名作選 第三巻戸板康二編 昭和28年(1953年) 創元社刊)です。
  2:底本の歴史的仮名遣いはすべて現代仮名遣いに直しました。
  3:底本の旧漢字と踊り字はすべて現在通用の漢字とかなに改めました。
  4:底本の漢字送り仮名は適宜補い、ふりがなは適宜省略しました。
  5:底本の画像およびその説明はすべて割愛しました。
  6:各頁最初に場の題を示しましたが、誤植と思われる3の「門」を「間」に訂正しました。
  7:現在では差別的とされる表現も、原典を尊重し一切変更を加えていません。ご了承願いますとともに、取り扱いには十分ご留意願います。

座頭沢市住家の場
壺坂寺観音堂の場
同谷門御利益の場

役名 盲人沢市。女房、お里。壺坂の神童。


―― 座頭沢市住家の場 ―― 

本舞台一面の平舞台、正面押入れ、真中納戸口、暖簾掛けあり、下手鼠壁、上手一間折廻し障子家体、いつもの所門口、下手忍び返し付きの塀、すべて大和の国壺坂辺り、沢市住居の体。ここに女房お里、やつし形(なり)、前掛、座布団の下に出来上がりの畳付け有る、着付の上に住まい、針仕事をして居る。傍に針箱、焼こて、仕事畳紙(たとう)など取りちらし、正面の壁に三味線、胡弓をかけ、きたなき琴、稽古箱、本などあり。下手台所の心にて、下家(したや)の内に台所道具、出刃包丁、俎板などよろしく。こゝに講中四人、肩入、半股引、草鞋にて、畚(もっこ)を置き煙草を呑み居る。在郷唄にて幕開(あ)く。

講一 イヤこちのお里殿は、器量なら心立てなら、人一倍勝れて居ながら、
講二 たとえにも片端(かたわ)根性という、盲を夫に持って居るのみか、
講三 貧苦をいとわず賃仕事や何やかやと、心を尽くして居やるとは、
講四 誠に見上げたお里どの。ほんに此の人の事を貞女の鏡というのであろう。
講一 それに付けても沢市どの、中々の利口ものじゃ。
講二 どうか眼を明かしてやりたいものじゃ。
講三 ほんにそうなった事なれば、夫婦の悦びはどんなであろう。
講四 これが世にいう、ないものねだりというものじゃ。
四人 ハハハハ。
講三 それよりは壺坂の観音さまへ行き、
講四 早くお参り申して来ると仕ましょう。
 ト四人下手へ入る。お里暖簾口へ入る。これより床の浄瑠璃になる。
 〽よしあし曳きの大和路や、壺坂の片辺(ほと)り土佐町(まち)に、沢市という座頭有り、生まれ付いたる正直もの、琴の稽古や三味線の、糸より細き身代に、妻のお里は健(まめ)やかに、夫の手助け賃仕事、つづれさせちょう洗濯や、糊かいものを打盤(うちばん)の、音もかすかな暮らしなり。
 ト上手の障子を明ける。内に沢市三味線をひいて居る。
 〽鳥の声鐘の音さえ身に泌みて、思い出す程涙が先へ、落ちて流るる妹背の川に、
 トよろしく唄う。唄の切れに奥よりお里膳を持ち、お鉢を抱えて出て来り、捨ぜりふにて、
お里 モシこちの人、今日は何と思うてか、三味線出してよい機嫌でござんすなア。
沢市 わしが三味線を弾いたのが、よい機嫌に見ゆるかや。
お里 見ゆる段じゃござんせぬ。
沢市 ハテな。おりゃそんな気じゃない。モウモウ気がふさいで、いっそ死んで、トサア死んで仕舞う程気がふさいでならぬわいな。コレお里、わしゃそなたに、チト尋ねたい事が有るわいの。
お里 改まった、尋ねたいとは、そりゃ何の事でござんす。
沢市 ハテマア下にいやいのう。イヤ外でもないが、いつぞや聞こう聞こうと思うて居たが折もなく丁度幸い。光陰は矢の如しとやら、月日の立つのは早いもので、我が身とわしが一緒になってからもう三年、幼い時よりの許嫁、互いに心も知り合って居るに、なぜ我が身はそのように物を隠すのじゃ。いっそさっぱり打ち明けて、いうてたもや。
 〽どこやら濁る詞のはし、お里は更に合点行かず、不審ながらにすり寄って、
 トこの内沢市、思入にていう。お里合点の行かぬこなし。
お里 コレ沢市殿、そりゃお前何を言わしゃんす。嫁入りしてから三年(みとせ)越し、ほんにほんに露程も隠し立てした事はござんせぬ。それに又お前の気に済まぬ事がござんすなら、夫婦の中じゃござんせぬか。何なりというて聞かして下さんせ。
沢市 オオ言わいでかいの。コレお里、よう聞けよ。
 トめりやす上下(うえした)。
我が身と夫婦になってより丸三年、毎晩七つから先寝所(ねどころ)に居たためしがない。そりゃもうわしはこのような盲目なり、殊にはえらい疱瘡で見る影もない顔形、どうで我が身の気に入らぬは無理ならねど、外に思う男があるならさっぱりと打ち明けてくれ。人の噂にお里は美しい美しいと聞く度毎に、おりゃあきらめて居る程に、決して悋気はせぬぞや。コレ、どうぞ明かして言うてたも。
 〽立派に言えど目に洩るる、涙呑み込む盲目の、心の内ぞせつなけれ。聞くにお里は身も世もあられず、
お里 そりゃ胴欲じゃ胴欲じゃ胴欲じゃわいな。いかに賎しい私じゃとて、現在お前を振り捨てて、外に男を持つような、そんな女子(おなご)と思うてか。父様(ととさん)や母(かか)様に別れてから、伯父様のお世話になり、お前と一緒に育てられ、三つ違いの兄(あに)さんと、
 〽いうて暮らして居る内に、情なやこなさんは、生まれも附かぬ疱瘡で、
目かいの見えぬ其の上に、
 〽貧苦に迫れど何のその、一旦殿御の沢市さん、たとえ火の中水の底、未来迄も夫婦じゃと、思うばかりかコレもうし、
お前のお目を治さんと、この、
 〽壺坂の観音様へ、明けの七つの鐘を聞き、そっと抜け出で只一人、山路厭わず三年(みとせ)越し、せつなる願いに御利生(ごりしょう)の、ないはいかなる報いぞや、観音様も聞こえぬと、今も今とて恨んで居た、わたしの心も知らずして、
外に男がある様に、今のお前の一言(ひとこと)が、
 〽私は腹が立つわいのと、口説き立てたる貞節の、涙の色ぞ誠なり。初めて聞きし妻の誠、今更何と沢市が、詫びる詞も涙声。
沢市 コレお里、何にもいわぬ忝い。あやまったあやまった。そうとも知らず、片端(かたわ)の癖に愚痴ばかり。コレ堪忍してくれ、コレこの通りじゃ。
 〽こらえてたもとばかりにて、手を合わしたる詫び涙、袖や袂をひたすらん。
お里 アモシ、連れ添う女房に何の詫びる事がござんしょう。そんなら疑いはれたかいの。
沢市 オオ晴れたとも晴れたとも。日本晴れがしたわいの。
お里 お前の疑いはれた上は、私ゃ死んでも本望じゃわいの。
沢市 イヤモウ、そう言うてたもる程、わが身の手前面目ないわいのう。がそれ程にまで信心してたもっても、おれがこの目はコレ、治りはせぬわいの。
お里 そりゃお前、何を言わしゃんす。この年月の艱難辛苦、雨の夜雪の夜霜の夜も、厭わぬ私がはだし参り、その一心でもお前の眼病、その目が明かいでなろうかいなア。
沢市 それ程に祈誓(きせい)を掛け、願うてたもった志、有難いとも嬉しいとも、その貞節のそなたをば、この年月の廻り根性、観音様じゃとて罰こそ当てれ、何のまアこの目が明いてたまるものか。
お里 そんな愚痴を言おうより、ちゃっと心を取り直し、観音様へ共々に、お願い申して下さんせ。
 〽夫を思う貞心の、心遣いぞ哀れなり。沢市涙にくれながら、過分ぞや女房ども、
沢市 それ程迄にそなたが一心、すわった上は御仏の、枯れたる木にも花咲くたとえ、見えぬこの目は枯れたる木、どうぞ花が咲かせたいなア。というた所が罪の深いわしが身の上、せめて未来を、イヤサ女房ども、手を引いてたも。
お里 アイアイ。
 〽手を引いてたべいざいざと、いうに嬉しく女房が、身拵えさえそこそこに、
 トこの内薄く雨の音をあしらい、沢市捨ぜりふにて足袋をぬぐ事などよろしく、お里火鉢の火を消す事あって、仏壇にある鉦と撞木(しゅもく)を腰につけ、
 〽いたわり渡す細杖の、細き心も細からぬ、誓いは深き壺坂の、御寺をさして、
 トお里介抱して、沢市花道よき所へ留まる。
お里 モシ溝でござんす。
沢市 どっこいしょ。
 〽出でて行く。
 ト三重にて、両人向うへ入る。


―― 壺坂寺観音堂の場 ―― 

本舞台、三間の高二重、岩組の蹴込み、正面下寄りに九尺の観音堂、扉格子、開閉(あけたて)、下手に手水鉢、手拭沢山掛けあり、上下杉の梢を見せ,切出しの灯入りの月、すべて壺坂寺本堂の模様。時の鐘、山おろしにて幕明く。

 〽伝え聞く、人皇(じんこう)五十代、桓武天皇奈良の都にまします時、御眼病甚だしく、この壺坂の観音へ御祈誓あり、時の方丈道喜(どうき)上人、一百七日(なぬか)の御祈願にて、忽ち御平癒あらせられ、今に至りて西国の、六番の札所とは、皆人々の知る所、実(げ)に有難き霊場なり。折しも坂の下よりも、詠歌を道の栞にて、沢市夫婦ようようと、御寺間近く詣で来て、
 ト向うより沢市お里出て花道にて、
お里 コレ沢市殿、信心は大事なれど、病いは気からというからは、お前の様にそうしおしおと、ふさいでばかり居やしゃんすと、おのずと目にも悪いぞえ。オオそうじゃ、こんな時には、日頃覚えの唄なりと唄わしゃんせいなア。
沢市 ほんにそうじゃ。わが身のいやる通りくよくよ思うは目の毒じゃ。そんなら浚(さら)えと思うてやって退(の)きょうか。然し誰も居やせぬか。
お里 何の、今頃辺りに聞くものはござんせぬ。
沢市 エエ儘よ、てんぽの皮、やって退きょう。
お里 それがよいわいの。わたしが拍子を取りましょう。一二三(ひいふうみい)。
沢市 〽憂きが情か情が憂きか、チンツチツンチツンツ露と消え行く、テチン我が身の上は、チンチチチリンツテツテンシャン。
 ト石に躓(つまず)く。
アイタタ。
お里 オオあぶない。どこも怪我はせぬか。
沢市 オオ怪我はせぬが、今躓いた拍子に、後の合(あい)の手を忘れてのけた。
両人 ハハハハハ。
 〽唄を暫しの道草に、御本堂へと登り来て、
 ト両人舞台へ来りて、
お里 コレこちの人、ここが観音様でござんすぞえ。
沢市 ア有難い有難い。そんならそなたも共々お願い申せお願い申せ。
 トこの内両人捨ぜりふにて、うがい手水を遣う事あって、本堂へ賽銭を上げて、
お里 モシこちの人、今宵こそゆっくりとこの御堂で、御詠歌を夜もすがら上げようではござんせぬか。
沢市 オオそうしましょうそうしましょう。ドレ御詠歌に、
両人 掛かりましょうか。
 〽と夫婦して唱うる詠歌の声澄みて、いとしんしんと殊勝なり。
 ト両人よろしくあって本堂へ向かい、お里腰より以前の叩鉦(たたきがね)を出し叩く。
沢市 {詠歌}〽岩を建て、水をたたえて壺坂の、
お里 〽庭の砂(いさご)も浄土なるらん。
 〽沢市お里に打ち向かい、
沢市 コレお里、叶わぬ事とは思えども、そなたの詞を力草、来る事は来ても中々に、この目が治りそうもないの。
お里 又そのような事言わしゃんす。この壺坂の観音様は、その昔高位のお方が眼病にてお悩みありしに、この観音様へ御立願(ごりゆうがん)なされしより、早速お目が明いたという事じゃわいな。
沢市 そりゃ貴人高位のお方、御利益も格別であろうが、わしの様なものに何の御利益があろうぞいの。
お里 そりゃお前の愚痴というもの。兎角信心というものは、気を長う歩みを運び心を静め、一心にお縋り申せば、何事も叶えてやろとのお慈悲じゃわいの。そんな事いう手間で、早うお唱え申しましょう
 〽力を付くれば、
沢市 いかさま、そういえばそんなもの。そんならわしは今宵から三日の間、ここで断食する程に、そなたは早う内へ行き、何かの用事を仕舞うておじゃ。
お里 オオよう言うて下さんした。それ聞いて私も嬉しゅうござんす。そんならわたしは内へ去(い)んで、用を片付け直ぐに来る程に、待遠でも暫しの間待って居て下さんせ。シタがこちの人、このお山は嶮しい山道、殊にこの御堂の左は幾何丈(いくなんじょう)ともしれぬ谷間じゃほどに、必ずどこへも往(い)て下さんすな。
沢市 何のどこへ行くものぞ。今宵から観音様と首っ引きじゃ。ハハハハ。
お里 オホホホホ。
 〽笑いながらに女房は、後に心は置く露の、散りて跡なき別れとも、知らでとっかわ急ぎ行く。
 トお里思入あって向うへ入り、
 〽後に沢市只一人、こらえし胸のやるせなく、かっぱと伏して泣き居たる。
沢市 コレお里嬉しいぞや嬉しいぞや。この年月の優しい介抱、又其の上に目かいの見えぬ片端のわしに、愛想もつかさず剰(あまつさ)え、大事に掛けてくれる心ざし嬉しいぞや。そうとも知らず最前疑うたはわしが誤り。堪忍してたも堪忍してたも。
 〽今別れてはいつの世に、又逢う事のあるべきか。不便のものやいじらしやと、大地にどうと身を打ち伏せ、前後不覚に歎きしが、ようように顔を上げ、
アア歎くまい歎くまい、三年が間女房が信心こらして願うても、何の利益もないものを、いつ迄生きても詮ない此の身、わしが死ぬのがそなたへ返礼、かかる霊地の土となれば、未来は助かる事もあらん。幸い今がよき人絶え、そうじゃそうじゃ。
 〽立ち上がり、乱るる心取り直し、上る段さえ四つ五つ、早や暁の鐘の声、いざ最期時急がんと、杖を力に盲目の、探り探りてようようと、こなたの岩にかきのぼれば、
 ト沢市よろめく、杖を傍(かたえ)に突き立て、きっと見得。
 〽いと物凄き谷水の、流れの音もどうどうと、響くは弥陀の迎いぞと、
 ト二重より谷を見おろし、水の音を聞く事よろしくあって、
南無阿弥陀仏。
 〽がばと飛び込む身の果ては、哀れなりける次第なり。
 ト沢市上手岩組へ飛び込む。
 〽かかる事とも露しらず、息せき道より女房が、とって返すも気はそぞろ、常に馴れたる山道も、すべり落つやら転ぶやら、ようよう登る坂の上。
 トこの内向うよりお里走り出て二重に上り、沢市が見えぬゆえ、
お里 コレこちの人こちの人。
 〽尋ね廻れど声だにも、人影さえも見えざれば、あなたへうろうろ、こなたへ走り、
沢市さんいのう沢市さんいのう。
 〽ここかしこ、木(こ)の間を洩るる月影も、すかせば何やら物ありと、立ち寄り見れば覚えの杖。
ヤア、こりゃ夫の杖草履、扨はこの谷へ、エエ。
 〽はっと驚き遥かなる、谷を見やれば照る月の、光に分かつ夫の死骸。
ヤヤア、ありゃ夫の死骸、コリャどうしょうどうしょう。
 〽のう悲しやと狂気の如く身をもだえ、飛び下りんにも翅なく、呼べど叫べどその甲斐も、答うる物は山彦の、谺より外なかりける。
エエこちの人、聞こえぬわいな聞こえぬわいな。この年月の艱難も、厭わぬわたしが辛抱は、只一筋に観音様へ願込めて、どうぞ夫の目の明きますよう、お助けなされて下されと、祈らぬ日とてもないものを、今日に限って此のしだら、どうしょうどうしょうどうしょうぞいなア。是を思えば最前に、唄わしゃんしたあの唄は、どうやら心に掛かったが、今で思えば其の時から、死ぬる覚悟であったのか。エエ知らなんだ知らなんだ。斯ういう事なら、何のまアお前を無理に連れて来ましょう。モシ沢市さん、堪忍して下さんせ。ほんに思えば此の身程はかない者があろかいな。
 〽二世と契りし我が夫(つま)に、長い別れとなる事は、神ならぬ身の浅ましや。かかる憂目は前(さき)の世の報いか、
罪か。
 〽エエ情なや。
此の世も見えぬ盲目の、
 〽闇より闇の死出の旅、誰が手引をしてくりょう。迷わしゃるのを見るようで、いとしいわいのとかきくどき、歎く涙は壺坂の、谷間の水や増さるらん。ようよう涙の顔を上げ、
アア悔やむまい悔やむまい。皆何事も前の世の定まり事、夫を先立て何楽しみに長らえん。此の世の縁は薄くとも、せめて未来は末長う、どうぞ添うて下さんせ。夫と共に死出三途(さんず)。
 〽急ぐは形見のこの杖を、渡すは此の世を去って行く、行先導き給えや、南無阿弥陀仏弥陀仏と、声諸共に谷間(たにあい)へ、落ちてはかなき身の最期、貞女の程こそ哀れなり。
 ト道具廻る。

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―― 壺坂寺谷間御利益の場 ―― 

本舞台、一面の平舞台、上手大滝のある岩組、上下岩組の張物(はりもの)にて見切り、所々に松杉の立木、下手へはすに滝壺より流れの水布、丸木橋掛けあり、すべて壺坂谷間の体。山おろしにて納まる。

 ト山幕を切って落とす。大薩摩がかりの浄瑠璃になる。
 〽頃は如月中空(なかぞら)や、早や明け近き雲間より、さっと輝く光明に、つれて聞こゆる音楽の、音も妙(たえ)なる其の中に、いとも気高き上臈の、姿を仮りに観世音、出現あるぞ有難き、
 ト真中に沢市、岩の陰にお里悶絶して居る。杖草履など傍に有り、文句の止まり、どろどろにて滝壺の中より仕掛にて神童現われる。
 〽微妙(みみょう)の御声うららかに、
神童 いかに沢市承れ。汝前生(ぜんしょう)の業(ごう)滅せずして盲目(めしい)となり、しかも両人ながら今日に迫りし命なれども、妻が貞節、二つには日頃信心の功徳により、寿命を延ばし与うべし。この上はいよいよ信心渇仰(かっこう)して、三十三所を順礼なし、仏恩報謝なし奉れ。コリャお里お里、沢市沢市。
 〽宣う御声諸共に、かき消す如く失せ給えば、早や晨朝(しんちょう)の鐘の声、四方に響きて明け行く空、ほのぼの暗き谷間には、夢ともわかず沢市は、むっくと起きて、
 ト此の内神童仕掛にて滝の中へ消える。沢市気附きしこなしにて目を明き、辺りを見廻し、ほっと思入。
 〽松の露がうるおいしか、ふっと気の附く女房お里、
 トこれにてお里気のつくこなし、沢市を見て、
お里 ヤヤお前は沢市殿じゃござんせぬか。オオ沢市殿じゃ沢市殿じゃ。お前は目が明いたじゃないか。
 ト沢市あたりを見、手などを見ることあって、
沢市 ヤヤコリャほんに目が明いた目が明いた。
お里 これというのも観音様の皆御利益。
両人 有難うござります。
 ト両人手を合わせ顔を見合い、沢市はお里の顔を不審そうに見て、
沢市 一体こなたはどなたじゃえ。
お里 エエ何をいわしゃんす。私を忘れるという事があるものかいな。私ゃお前の女房里でござんす。
沢市 エエわしの女房じゃ。ドレ立って見せい。(ト色色あって)これはお初にお目にかかりました。
お里 何を言わしゃんす。
沢市 それに付いても不思議なは、どうしてここへ。
お里 まア聞いて下さんせ。その折お前に別れてから、帰る途中の胸さわぎ、合点行かずと引き返し、御本堂へ来てみれば、お前の身投げ藻抜けの殻、夫に別れ何楽しみと、跡に続いてこの谷へ、
沢市 そなたもわしへの貞節に、この谷間に身を投げてか。
お里 あいなア。
沢市 エエ忝い、今に初めぬそなたの貞心、忘れは置かぬ、嬉しいぞや。
お里 エエ何を言わしゃんす。女房に何の礼言うことが。
沢市 しかしこの目が明いたのも、これも偏えに観音様の、
お里 重ね重ねの皆御利益、
両人 エエ忝い。
 〽勇み立ったる川端に、思わず写る水鏡。
 ト沢市土橋を渡りながら川中を見てびっくり、
沢市 アレあそこに化け物が居る。
お里 何を言わしゃんす。化け物などが居てよいものか。
 トお里橋の上を見て、捨ぜりふあって、
アモシありゃお前の姿が水に写ったのじゃわいな。
沢市 ドレ。オオ。
 ト又橋の上より覗き見て、
 〽初めて見たる我が姿、悦びあうぞ道理なり。
 ト沢市我が姿を写しよくよく見て、両人嬉しきこなしにて、互いに辞儀をするおかしみあって、お里杖を拾い取り、
お里 これも皆御利益ゆえ、これより直ぐに御礼参りに、
沢市 杖を納むる新玉(あらたま)の、誠に目出度う候いける。
 〽年立ち返る如くにて、水も漏らさぬ夫婦が命も助かりけるは、誠に目出度う候いける。
 トこの内沢市嬉しきこなし、杖を持ちよろしくあって、
サア嬶、行こうか。
 ト両人つかつかと花道へ行く。この時どろどろにて後ろへ観音の姿再び現われる。
 〽尊かりける。
 ト両人下(した)に居て手を合わせる。この時谷間へ日の出、鳥笛、三重にて。


 ト幕外、沢市嬉しきこなし、鳴物にて向うへ入る。跡シャギリ。

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