江戸期版本を読む

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カテゴリ:佐佐木信綱と「心の花」 > 「心の花」 他関連記事

佐佐木信綱関連・「心の花」掲載文章選

WEB目次
(以下、巻号は「心の花」所載)

 1巻1号  こゝろの華第一 発行の詞 明治31年(1898年)
 1巻1号  佐々木信綱「われらの希望と疑問」 明治31年(1898年)
 3巻3号  正岡子規「はがきノ歌」 明治33年(1900年) 及び関連投稿二編
 3巻7号  福地桜痴「歌と調」 明治33年(1900年)
 3巻7号  伊藤左千夫 雑報 倶楽部欄投稿 明治33年(1900年)
 3巻8号  鉛漢 雑報 倶楽部欄投稿 明治33年(1900年)
 5巻7号  依田学海「源氏物語に就て」 明治35年(1902年)
 5巻7号  正岡子規「病床歌話」 明治35年(1902年)
 5巻8号  佐々木信綱「雨窓閑話」 明治35年(1902年)
 8巻3号  チェンバレン「思草をよみて」 明治37年(1904年)
 8巻6号  佐々木信綱「国歌君が代の撰定者」 明治37年(1904年)
 8巻7号  坪内逍遥「『浦島』を作せし顛末」 明治37年(1904年)
 8巻8号  佐々木信綱「家書二則」 明治37年(1904年)
 9巻1号  佐々木信綱「心の花第九巻巻頭の辞」 明治38年(1905年)
 9巻1号  依田学海「玉手箱の打こわし」 明治38年(1905年)
 9巻1・2号  巌谷小波「少年文学弁」 明治38年(1905年)
 9巻2・3号  小笠原長生「海軍雑話」 明治38年(1905年)
 9巻3号  依田学海「新々浦島玉手箱の爆裂薬」 明治38年(1905年)
 9巻4・5号  宮部光利「艦の上」 明治38年(1905年)
 10巻1号  佐々木信綱「第十巻第一号のはじめに」 明治39年(1906年)
 10巻12号  佐々木信綱「本居宣長の歌学」 明治39年(1906年)
 11巻1号  高楠順次郎「日本文明に於ける外来の原素」 明治40年(1907年)
 11巻3号  森鴎外「高梁の話」 明治40年(1907年)
 12巻3号  佐々木信綱「歌学に就て」 明治41年(1908年)
 12巻12号  佐々木信綱「伊勢路大和路」 明治41年(1908年)
 13巻1号  芳賀矢一「能狂言の滑稽」 明治42年(1909年)
 14巻4号  佐佐木信綱「和歌入門(二)茸狩と歌」 明治43年(1910年)
 14巻5号  姊崎正治「時代の告白としての叙事詩」 明治43年(1910年)
 14巻8号  佐佐木信綱「和歌入門」 明治43年(1910年)
 15巻1号  チェンバレン「ラフカディオ・ハーン」 明治44年(1911年)
 15巻5号  幸田露伴「月上女(日本の古き文学の一つに就きて)」 明治44年(1911年)
 樋口一葉「随感録」 (『一葉全集 後編』(明治45年(1912年)刊 博文館))
 佐佐木信綱「一葉歌集のはじめに」 (『一葉歌集』(大正元年(1912年) 博文館))
 18巻7号  杉亨二「日本文明の曙光」 大正3年(1914年)
 19巻2号  佐佐木信綱「亡父の書簡」 大正4年(1915年)
 19巻3号  高楠順次郎「奈良朝文明の外来的要素」 大正4年(1915年)
 19巻8号  佐々木信綱「大平の宣長観」 大正4年(1915年)
 19巻8号  佐々木雪子「西片町より 常夜灯 他」 大正4年(1915年)
 20巻9・10・11号 佐佐木信綱「初めて歌を詠まうと思ふ人の為に」 大正5年(1916年)
 26巻12号  樋口邦子「姉のことども」 大正11年(1922年)
 26巻12号  佐佐木信綱「一葉女史と当時の歌壇の回顧」 大正11年(1922年)


凡  例

  1:底本の「心の花」は復刻版です。それ以外はそれぞれの記事に示しています
  2:底本の仮名遣い、踊り字はそのままとし、旧漢字は基本、現在通用の漢字に改めました。
  3:二文字以上の繰り返し記号(踊り字)はテキストにないため、文字に改めました。
  4:横棒は「一(漢数字)」との区別を明確にするために「――」あるいは「~」としました。
  5:ふりがなおよび傍点は必要と判断したもののみ、半角括弧( )で示しました。
  6:原文細字および割注は{ }で示しました。
  7:文章は引用を含めて全てUPしましたが、写真は全て割愛しました。
  8:誤植誤字と思われるもの、読みにくい箇所は訂正し、校正者による注{*}で示しました。

心の花第九巻巻頭の辞
佐々木信綱

こゝに明治三十八年を迎へ、本誌また第九の巻を重ねむとす。過ぎ来し方をかへり見るにつけても、色もうすく香も浅きこの心の花をおほしたてゝ、今日あるをえしめ給ひし先輩諸君をはじめ、読者諸君、さてはわが竹柏会会員諸君の厚情、何の辞を以てか謝せむ。吾人はなほ将来に於ても諸君の同情の深きを希ひ、またこれあるを信じて疑はず。
思ふに今は世のつねの時にあらず。幾十万の同胞遠く海のあなたに戦へり。連戦みな勝ち、国威日に月に揚がると雖も、日々幾その人々は、その犠牲となりて、骨を異境の山海に埋めつゝあるなり。日々いくその家族は、あるは父を失ひ、子を失ひ、夫を失ひし悲しびの涙にくれをるなり。しかも前途なほ遼遠。我ら安きに眠る時にあらず。
この時に際して、吾人文芸の徒のとるべき態度は如何。或は世に貶けかへりみられざらむとする風潮におそれ、時流を追ひて、所謂戦争文学に之くものあり。或は冷然として、所謂超越の態度をとり、たゞ自家空想裡に遊ぶものあり。思ふにともに正しからじ。文芸の事たる、今の時に適はざる閑事業にあらず。又つとめて世と相離るべきものにあらず。否、文芸は人生の最も切実なる方面なり。詩歌文章は人心の深奥の声なり。理想にあこがれ現実に満足せざる人の心が、現実にふれて発するまことの調なり。すなはちこれ人文の根底よりおひいでし花にして、世に最も美しくたふときものなり。
人生と相ふれて人生とはなる。文芸の真義こゝにあらむ。故に、あるは惨絶胸を痛ましめ、壮烈心を躍らしめ、あるは吾人をして感激せしめ、同情せしむる等の刺激いといと多き.即ち吾人の心をしてこの世にふれしむること最も切なる今の如き時に於てこそ、益々その価値の大なることは認らるべきなれ。従つて又かゝる時にすぐれしものゝあらはるべきもおのづからの事にて、あるは遠征の空にうたはれ、あるは留守もる人の胸をもれし歌などに、しみじみとあはれ深きものの少なからぬもうべなり。故に本誌は従来の如く時局に関する作品を掲ぐるにつとめむとす。しかもこれ文芸の本領をこゝに認めての上の事なれば、もとより之が為に、あるは思ひ邪なき純なる空想の作、あるは縹渺人をして夢みこゝろならしむるたぐひを疎んずるが如き事をなさず。{*1}たゞかたく文芸の本領をまもりて、我等が当初の旨趣を達せむとす。殊にいはむや、今日の戦の真意義たる、実に文野の争たるをや。思ふに心を文芸の理想界に遊ばしめ、慰藉をここに求め、沈静をここに得て、はじめてこの現実の世に処してまことなるをうべし。かくの如きを以て真の活動をなしうるの人とせば、兵馬倥偬の間に於て、なほ文芸を味ひうる国民にして、はじめて真に活動しうるものといふべきなり。
我等の主張と所信とかくの如し。時と共に推し移れども、時と共に変せず。その志す所に進んでたゆまざらんには、たとひ微力といへども、諸君が助をかりて、この名もなき木かげの小さき花に、とこしへの光あらしむることをうべけむ。本誌のうちよりして、我等が望むが如きまことの詩歌、まことの作品をいだすことをえむ。我等の願ふところたゞこれのみ。
いさゝか思ふところを記して巻頭の辞にかふ。

「心の花」九巻一号(明治38年(1905年)1月号)所載

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校訂者注
 1:底本は「なさすただ」。誤植と見て訂正。

月上女
(日本の古き文学の一つに就きて)
幸田露伴

 今日此楽しい御集りの席に出まして、御話を申上げまするのは甚だ光栄とする所であります、既に私は此竹柏会には十年ばかり前に一度出て御話を申上げました事がござりましたし、又佐々木先生に御交際を願つて居りまするし、又平常心の華を拝見して居る、それ等の縁故よりして余り話栄えのするやうな、御話も出来ないのでありますが、何か少々御話するやうにと云ふ佐々木先生の御依頼を受けて、つまらぬながら短い御話を致します、既に題は日本の古い文学の一つに就てとして掲げてあります……今日はさうやかましい御話をすると云ふ心持は一向ないのであります。
 御話は月上女と云ふ人の上の話であります、此話は日本の古い文学には差当つて何の接触する所はないのでありますが、併し私が話を申上げて居る中には、或方々は是は斯う云ふ所に接触して居やしないかと云ふ事が御心付が致しはすまいかと思ひます{*1}、懸離れて居る御話を申あげるのでありますが、それが此方の或事に付くと云ふ事になりますと云ふと、それは自然と謎を解くやうな訳になりますが、今私は、一つの謎のやうな御話をすると御思ひ下すつて差支ないのであります、此月上女といふ人は何様いふ人でありますかと申しますと、それは丁度仏在世の時分の人であります{*2}。仏が毘耶離国と云ふ所に居られた時分に、此毘耶離国に一人の長者が居りました、其長者の名は毘摩羅詰と云ふ人でありまして、其家は大層富むで居りまして、さうして倉には穀物の充満して居るものが澤山にある、又四足の動物二足の動物も沢山に飼養してあると云ふやうな大層な長者であります、其人に妻があって其名を無垢と云ふのであります、さうして其二人の間に一人の女子が生れた、それが即ち月上であります、非常に美しい綺麗な子でありまして、さうして其子が生れた時に大層美しい光が射したと云ふ事であります、其光が家内に充満する、それのみならず、大地が震動する、或は樹木からして美はしい食物たる蘇油が出るとか、或は又ビアリの城中の楽器が誰も鳴さなくても自ら鳴つたとか、それから又は習慣として天竺に伏蔵と云ふものがあります、其伏蔵と云ふものは良い物を土中に埋めて置くのであります、地中に物を蔵めて置く倉というてよいのであります、日本でも伏蔵を昔はした事がありますが、其伏蔵なぞも自ら開らけてさうして色々な結構な物が出たと云ふやうな事であります、さて其生れた子供、即ち月上は泣きも騒ぎもしませぬで、さうして静かに偈を説いたといふのであります、勝れた人の出生に際しての是の如き事は多く仏経にもある事でありまして、生れた時の様に即ち言換れば其喜びの姿を言つたのでもありましやう、其偈は非常に長くて今一々申上げる事は出来ませぬが、丁度仏が御誕生の時に偈を説かれたと同じやうな談であります、さて其月上の生長するのは唯の者とは成長し方が違つて居るのでありまして、幾許ならずして八才位の大きさになつたと云ふ事であります、大に普通の者とは違つて居ります、さうして其娘は大変に光る所から月上女と云ふ名を付けられたと云ふ事でありますが、此月上女が段々と生長して大きくなるに従つて、誠に立派なものになり、身体の毛孔よりは栴檀の香を放つとか、或は口よりは優鉢羅花の香を放つとか、是等は皆形容の言葉でありますが、誠に立派な美しい嬢さんになりました、そこで有ゆるビアリの城の色々の身分のある人達、或は王族でありますとか、大臣でありますとか、婆羅門でありますとか、長者でありますとか、さう云ふ者達の子弟が、皆此月上と云ふ者を得て妻にしやうと思ひましたから、人々が争うて月上のお父さんの所に之を申込むで来ました、皆各々貴い宝を餽らうとしたり、象や馬などの家畜を多く贈らうとしたり致しまして、月上女を得ることに骨を折りました、中に脅迫ヶ間敷い事を云ふ人も出来、或は権威を以て或は暴力を揮つても此月上を取らうと云ふやうになりましたから、そこで月上の父は大に困りました、色々の脅迫が段々激しくなつて圧力が段々加つて来るやうになりましたからして、父は大変恐れ愁うるやうになりました、さうすると月上は自身の父が何故さう心配して居るかと云ふ事を聞きました所が、父の云ふには是々々々の訳で、お前が余り美しい為に、却つて斯う云ふ禍が出て来たと申しますと、月上が言ひますには、それは甚く御心配になるには及ばない事であります、私は自ら如何にもして其事を処理致しませう、で先づ此ビアリの城の四方に触を廻させて是より後七日経つた時に月上が自ら家の外に出まして、さうして其時に自ら自分の夫としやうと云ふものを撰むで、自分の夫とすると云ふ事に致さう、それに付ては城中の月上を得たいと思ふ所の人達は、各々其の好むところの衣服荘厳をして、そして月上の所に来るが宜しく、其場に於て誰が撰ばれるかは知らぬが、月上の夫は月上の撰むに任す事として欲しい、又城中をも綺麗にして万般不束な事の無いやうにして欲しい、といふ触をなすつたら、其激しい争も止み、お父さんも御安泰でありませうからと申しました、そこで成程と云ふので父は其通り触を致しました、さうするとさう云ふ触を致したのでありますから、予てより月上を得たいと云ふ人選は大騒ぎを致して、沐浴したり、衣服を飾つたり、荘厳の具をとゝのへたり致しました。城中の人々は又自分の家々の周囲を綺麗に掃除致したりなどして其の日を待設けました、さう致しまする中に六日目になりました、中には慾念甚しき人が有りまして、若し月上が我が許に来ぬならば強奪せよと従僕に命ずるものもありました、六日目になつた時に丁度其夜は十五夜でありました、父は申す迄もなく非常に月上の為に行末を危んで、どう云ふ事になるかと思ふて心配をして憂へ悲で居ります、月上は其の月の明かなる夜楼上を独で行つ戻りつして居りました、所が自ら予て信じて居る所の仏神力に依つて、月上の右手の上に一つの蓮華が生へたと云ふ事であります、さうして其の華の光明と云ふものは大変美はしくて、綺麗なもので、其蓮華の中に一つの化仏が現はれました、そして其の化仏は光明赫奕たる微妙殊勝の相を現じ、月上と種々様々の問答を取交はします、それは一々申上げる事は煩はしうございますから申上げませぬが、其化仏と問答を致しましてそれから後に月上が蓮華及び化仏を将ちましてさうして楼より下りてまゐり、父母の所に至つて色々物語を致しました、父母も大いに驚くと云ふやうな訳であります、六日が過ぎて七日の日に至りますると云ふと、約束でございますから城中の人は月上に撰ばれて夫とならんとする為に大騒ぎやつて、或場所に出でると云ふやうな事であります{*3}、さうして又其騒ぎを見る為に寄つて来る人もある、御祭のやうな大騒ぎになつて、大層ビヤリの城は混雑を致しました、そこで其時になつて月上は其場所に望みますると云ふと、人々は皆声を上げて月上に向つて月上を得むと欲して騒ぎますると{*4}、其時に月上は身を躍らして可也高き空中に登つて、さうして偈を説いて寄集つた人々を諭し覚すのであります、其時に大地は震動し、又虚空には無量の天子が現はれまして、声を上げて大いに叫び、身衣を舞はし、詠歌歎嘆し、華を雨ふらし音楽をなすといふやうな訳であります、そこで寄集つたものも貪瞋癡の三毒を脱して仕舞ふのでございます、今まで申上げた所より先にまだ沢山話は長く連続するのでありますが、それは多く理屈に亘つて居る問答の話でございますから、是で話は先づ切つてしまひますが、此話は月上女経の中にある事であります、是は我が邦の古い文学とは何の交渉もないやうな事でございますが、併し今まで申上げて居ります中に、既に御考への御付きになつた所の方もございませう、此月上女の話と云ふものは日本に於て一番古い物語とも言つても宜しいでせう、皆さんも始終御存じの彼の竹取物語と云ふものと大変似た所があるのであります、竹取物語と云ふものは今までの話では宝楼閣経から出たと云ふ事を多くの人が言つて居つて、さうしてそれをさも真実であるかのやうに信じて居るのであります、一番初めにさう云ふ事を言はれたのは、何方でありますか、私は精しくは知りませぬが契沖阿闍梨と云ふ方が、或書、たしか河社の中に書かれたのに基くのでないかと思ひます、此宝楼閣経と云ふものはどう云ふものでありますかと云ふと、其中に竹の中より人の出る話、三本の竹が或道を求める人が身を捨てたところに生ひて、さうして其の三本の竹の内より人が出ると云ふ話があるのであります、是は宝楼閣経の序品の中にあるのでありますが、是は竹の中から出ると云ふかくや姫の話が是と能く似て居りますからして{*5}、竹取物語は宝楼閣経からでも出たのであるかと、契沖は唯軽く疑うて居るのであります、宝楼閣経にある所の竹の中より出たのは男でありましてさうして一人でなく三人で、三本の竹より一人づゝ出た、三本より三人出たと云ふのであります、竹取の話とは竹と云ふ事が似て居るだけで、後は余りさう深くは似て居らぬのであります、それから又後漢書の西南夷伝と云ふものゝ中にある所の竹王夜郎の話、其の話がやはり竹取に似た節が有りますからして、それ等の事もやはり竹取を研究した古人が言つてあるのであります、併ながら唯似寄つたと云ふ事は竹と云ふ事だけ言つてあるのです、それから又昔から言つて居りますのは、此木の中より物の出たと云ふ事の因縁に依つて[木奈]女耆域因縁経と云ふものを引いて居ります、それは柰(からなし)と云ふ木であります{*6}、其柰の瘤の中より直接に出るのでありませぬが、柰と云ふ木に瘤があつて、其瘤から出た枝の中より人が出て来ると云ふのであります、是は女が出るのであります、それが御医者さんの先祖の耆婆のお母さんになるのであります{*7}、此話も古来、竹取の註釈をするに付ては人が直きに持出す話であります、さてさう云ふ風の話は何処の国にもある事でありまして、唯単に一ヶ処二ヶ所が似て居る点を挙げれば、まだまださう云ふ事は多く取出す事も出来やうかと思ひます、前に申上げました月上女経と竹取物語との似て居る所を申上げますれば、丁度月上女経の中には僅かにして八才程の大きさになつたとあるのは、三月ばかりになる程によきほどなる人になりぬればとあるかくや姫の談と、ほんに能く似て居るのであります、又光り赫くに依つて赫奕姫(かくやひめ)と云ふ名が片方は付て居りますが、彼方は月上と云ふ所の名が付て居るのであります、此点も大変似て居るのであります、又月上の方はお父さんが素より長者でありますが、赫奕姫の方のお父さんは素は長者ではないが、併し竹の中よりかくや姫を得た後は長者になつたと云ふ事が本文にあるのであります、それから又屋の内は暗きところなく光満ちたりと云ふ事が本文にありますが、是は殆んど経の有大光明照其家内処々充満といふのを其儘写したと云ふても宜しい程に似寄つて居ります、それから又人々が此かくやひめや月上を得むと欲すると云ふ話も殆んど彼と是とは能く似て居るのであります、それからそれ等の人々が互に月上を得むと思ひ或はかくやひめを得むとする為に、其人の父たる者が心に苦むと云ふ事も亦能く似て居るのであります、又かくやひめは自ら撰ぶと云ふ……さう月上のやうに云うたのではありませぬが、併ながら心の知れぬ人に見える訳にならぬからと云うて、志厚き人を自ら撰まむとする所は彼と是とは大層能く似て居るのであります、かくやひめの方法は末の方の話に至つて帝が姫を得むためにさまざまに仰せられるので其の父の苦しむ所がありますがそれも似てゐます、月に対してものを思ふと云ふ事もかくやひめの話にもあります、又月上の方には物思ふとは有りませぬが、月に対する情景は似てゐます、又たけとり物語の方は姫が月中よりもともと来つた人であるから月を見て物おもふと云ふ事があるのであります{*8}、是は尤でありますが、月上の話も丁度月の十五夜の事に係はつて居ります、たけとりの話もやはり八月十五日と云ふ事が話にあります、竹取の方は月上の天に……空中に昇ると云ふ事とは意味が違つて、一度行つて又帰らぬやうに行つて仕舞ふのでありますが、其地を離れる時の有様は月上と赫奕姫の有様は大層能く似て居るのであります、月上の方は空中に昇つて偈を説いて人々を覚し{*9}、其時に各種々なる天子が現はれて来て月上と共に空中に立つのであります、片方は空中よりして人が来て姫をつれて行くと云ふ事の話であります{*10}、其相似て居る事は争ひのない事であります、それから又昇る時に至つて、予めたけとりの方は昇らうとする時にそれを防うとする為に、弓矢をもつてゐる人があつて、さうして天に連れて行く所の者があつたら、之を堰止めやうとしたものがあつたが遂に人々も其天に昇るに任して仕舞ふと云ふ、即ち人間の此恨みとか或は怒るとか愚痴とかと云ふやうなものは離れて仕舞ふ所の有様は、彼と是とやはり同じであります、遂に天に昇つて仕舞ふと云ふ事はかくやひめの方の話である、月上女の方も遂に塵寰の此世の中の只の普通の人でなくなって仕舞ふと云ふ事は同じで、月上女の方は菩薩の授記を受けて、菩薩となつて仕舞ふのであります、さう致しますると云ふと宝楼閣経でありまするとか、或は西南夷伝の夜郎王の話でありますとか、柰女耆域因縁経の話であるとかは、此たけとりと大層能く似ては居りますが、若し似て居ると云ふ事ばかりから言ひますれば、此月上女とそれから又たけとりの話のかくやひめとは大変似て居るのであります、似て居る所は決して唯竹の中より出た、或は木の瘤より出たと云ふやうな、只一つ二つの似て居ると云ふ事とは違ひます、全体の話の調子が似て居るのであります、勿論契沖阿闍梨は唯ふと思ひ付て似寄つたものを挙げられただけで、必ずしもたけとりの話が宝楼閣経より出たと云ふやうに言はれたのではありませぬ、経には男子なるを女子にとなして、これを本としてかき出せる歟、と軽く言はれた位に止まつて居りますが、併ながら彼のやうな有力な方がさう云ふやうに書かれた為に、後の人は竹取物語が宝楼閣経より出て来たものだと云ふ程に強く思つたり、或は言つたりして居るやうな人もありますが、本の事は決してさうでありませぬ、極く極く軽く言はれて居るのでありますから、決定して宝楼閣経より竹取は出たと云ふやうに言はれたと思ふとちと違ふだらうと思ひます、単に似て居ると云ふ事を探しますると、まだまだもつと似て居るものがあるかも知れませぬが、先づ今申した通り月上の如きは大変能く似て居るのであります、又後の人達が宝楼閣経と云ふものは、丁度高野大師の将つて来られた経文の中にあるものでありますから、竹取の作られた時代なぞまでさう云ふ所から臆断したらば、それはいかゞな事でしやう{*11}。それ等の事は又自ら別の問題だらうと思ひます、で此月上女経がそれでは日本に竹取の出来た時分に渡つて居つたらうか、否やと云ふ事が疑ひたくなります、月上女経と竹取が余りよく似て居ると云ふ事になれば、さう云ふ疑を入れて、若しひよつとしたら月上女経から竹取は出たのであるまいかと云ふやうに疑ひたくもなるのであります、然しそれも別問題です、月上女経が渡来した時を考へて見ると云ふとそれはまだ確たる証拠を得ませぬ、月上女経が竹取の出来た時分には来て居つたか否やと云ふ事は分りませぬ、併ながら月上のお父さんの毘摩詰と云ふ人は、他の訳本で云ふと維摩詰と云ふ人であります{*12}、此人は大変長者であつてさうして弁才もあり学識もある人であつて、此維摩詰の話と云ふものはやはり経文になつて居ります、それはどなたも御承知の維摩詰所説経となつて居りますのです、月上女経は古く我が邦に伝つて居たか否やは知らぬが、維摩経なら日本には大変古くから伝はつて居たのでありまして、殊に古い人は之を喜んで見たのであります、既に日本の仏教伝播に尽力された一番初めの有力者たる聖徳太子の如き{*13}、維摩経の註釈は自ら作つて居られる位であります、今日も現存して居るのであります、さう致しますると云ふと月上女の話は兎に角、お父さんの維摩の方に付ては多くの人に明かに知られて居たのであります、月上女経なる経が古い人に読まれた痕跡は明らかでない、古の人が月上女の談を聴いて居つたか居らぬか知れませぬが、月上女経を読んで居らないにしても、維摩の事に付て関連して月上女の話も人々の間に或は伝はつて居たかも知れませぬ、今日の此話は唯月上女経を竹取と似て居る点があると云ふ事を申した御話でありまして、決して竹取が月上女経から出たと云ふやうな事を申したのでありませぬから、誤解をなさらぬやうに御聴きを願ひます、古い文学の研究と云ふものは幾ら研究しても、殆んど際限のないやうなものでありまするが、或人が何事か言いますると云ふと一犬虚を吠え万犬実を伝へて、それが段々と高まつて来て、一つの極つた事になつて仕舞ふのが世の常でありますが、それはいやな事です、今申した通り竹取物語は宝楼閣経より出たと言はれ勝で居りますが、それはいかゞでしやうか、私は又やはりそれと同じ道理をもつて月上女経から竹取が出たなどとは決して申さぬのであります、唯似寄つて居ると云ふ事を申しただけの話なのであります。(佃速記事務所員速記)

「心の花」第十五巻五号(明治44年(1911年)5月)所載

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校訂者注
 1:底本は「接触して居やしない云ふ事」。脱と見て二字補った。
 2:底本のまま。句点はここと本文末尾ともう一ヶ所{*11}の三ヶ所だけである。
 3:底本のまま。
 4:底本は「騒きますると」。「き」に濁点を補った。
 5:底本のまま。底本はすべて「かくや姫」であり、「く」に濁点はない。
 6:底本は「[木奈](木偏に旁が奈)」。この字はテキストがなく、本字と考えられる「柰」で表記した。
 7:底本は「あります此話も」。脱と見て読点を補った。
 8:底本は「あります是は」。脱と見て読点を補った。
 9:底本は「偈を解いて人々を覚し」。誤字誤植と見て訂正した。
 10:底本は「つれて行く云ふ事」。脱と見て一字補った。
 11:底本のまま。二ヶ所目の句点である。
 12:底本は「維摩詰 と云ふ人」。空欄一字分を削除した。
 13:底本は「有力者たる、聖徳太子の如き維摩経の」。読点の位置を修正した。
 14:底本は「居らないにしても維摩の事に付て、関連して」。読点の位置を修正した。

こゝろの華 第一
発行の詞

こゝろの華は、ふかくみ国風の文をきはめ、歌をひろめむと、おほけなくも、我らのおこしゝなり。わが国の文を品さだめする人のいへらく、優におほらかにうるはしうはあれど、いかめしく、大ぎく壮なるはあらず、めゝしき情はうつし得れど、男々しき心はいひあらはしがたしと。又歌については三十一字は、早くいひふりて 千万と歌ひ出る数はさはなれど、そのこゝろ、そのことば、皆とほき昔のあとをおひて、昔に及ばず、古をきはめて しかも新らしきを、えいはず{*1}。おもふに文も歌も進むべき勢なく、油つきたる灯火の如く、漸く哀へて漸く消えむのみと。あはれ果してかくの如きものなるか、思ふにいふ人のあやまりにこそ。国には自ら国の姿あり、国の魂あり{*2}。わが姿とわが魂とを、いひあらはすは、わが国人ならざるべからず。かのあしさまにいひおとす人は、自らわが姿とわが魂とをすてゝ顧りみぬともがらなり。おしおよぼせば、わが国をもうらむ心おこるべき輩なり。いふべきかぎりにあらず。わが国のことはわれらがかにかくにすべき責あり、務あり{*3}。はたして今のまゝにてあかずとすれば、いかにせばよからむと、大にきはめ、大にはげみて、ますます進めゆかしめざるべからず。これわが国人たらむものゝせめならずや、務ならずや{*4}。さてつとめて怠らずば、神代ながらのわが日本に恥ぢぬ装ともなりぬべし。われらは、この心をもて本誌を発行せり{*5}。われらは、わが国の万代をうたふと共に、この文の万代にさかえむことを祈る。そはわが国の姿をとゝのへ、わが国の魂をうしなはぬことにつとめむとする人のしをりなればなり。

 明治三十一年二月      編者しるす

「心の花」第一(明治31年(1898年)2月)所載

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校訂者注
 1:底本は「えいはず、おもふに」。読点を句点に修正した。
 2:底本は「国の魂あり、わが姿と」。読点を句点に修正した。
 3:底本は「務あり、はたして」。読点を句点に修正した。
 4:底本は「務ならずや、さて」。読点を句点に修正した。
 5:底本は「発行せり、われらは」。読点を句点に修正した。


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われらの希望と疑問
佐々木信綱

花てふものなからましかば、春秋のながめもいかにさびしからまし。歌てふものなからましかば、人々のおもひをいかでかやらむ。歌はやがて人の心の花なり。この花のにほひをいよゝ世中にゆきたらはし、人々のおもひをやらむたづきにせむとて、わが竹柏園の社友なる石榑千亦、井原義矩の二君の、心の花をいださるゝに、にほひなき言の葉を添へむより、むしろわれらの望み思ふこと、思ひうたがふふしをあげて、かつは世の人々にとひ、かつは先達の教をこはむとす。
年の始ごとに、和歌詠進の事ありて、われら臣民のよめる歌を、雲の上にさゝげまつるは、外国にもいまだためしきかぬ事にて、この大御代に生れあひし人々の、こよなきよろこびなりかし。かゝるよろこびにつけて、猶こひねがはくは、新続古今集の後、勅撰のこと絶えにたるをおこし給ひて、撰集の御沙汰あらば、いかに天の下のよろこびならまし。これわれらの望み思ふ第一なり。
歌体の変遷を考ふるに、長歌あり、短歌あり、片歌あり、旋頭歌あり、神楽催馬楽あり、今様あり。そが中に、短歌の形他にすぐれて、おのがじゝの思をのぶるにたよりよかりしかば、こをのみもてはやして、遂に歌としいへば、短歌のやうになりぬ。さればこの体はこの体として{*1}、長き思をうたはむとするには、いかなる形によらばよからむ。長歌によらむか。今様によらむか。はた神楽催馬楽の如く長短句をまじへたる一体を物せむか。これわれらの疑ひおもふ第一なり。
望み思ふ事、うたがはしきふしは、猶あまたあなり。その第二第三は、いまつぎつぎに物してむ。

「心の花」第一(明治31年(1898年)2月)所載

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校訂者注
 1:底本は「さばれこの体は」。誤植と見て訂正した。

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