江戸期版本を読む

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カテゴリ: 狂言

狂言二十番 18 口真似(くちまね)

▲主「これは、この辺りの者でござる。まづ召し使ふ者を呼び出いて、談合致す事がござる。
太郎冠者。居るかやい。
▲シテ「はあ。
▲主「あるか。
▲シテ「お前に。
▲主「汝を呼び出すは、別の事でもない。只今さる方より御酒を貰うたが、この口が開きたいが、誰も良い相手はあるまいか。
▲シテ「こゝに良いお相手がござる。
▲主「それは誰ぢやぞ。
▲シテ「私。
▲主「いやいや。汝が様に、酒を呑むばかりでは相手にならぬ。酒を参りさうで参らいで、又、参らぬかと思へばよう聞こしめすお方を、汝が才覚を以て呼びまして来い。
▲シテ「その儀ならば、畏つてござる。
▲主「早う行て来い。待つて居るぞ。
▲シテ「はあ。
扨も扨も、難しいお使ひを仰せ付けられた。酒を参りさうで参らいで、又、参らぬかと思へばよう聞こしめすお方は、どなたが良うござらうぞ。いや。こなたを呼びまして参らう。則ちこれぢや。
物申。案内申。
▲アド「いや。表に物申とある。案内とは誰そ。物申とは。
▲シテ「私でござりますよ。
▲アド「いや。太郎冠者。何と思うて来たぞ。
▲シテ「頼うだ人のお使ひに参つてござる。
▲アド「何と云うて越されたぞ。
▲シテ「頼うだ人、申されまする。只今さる方よりごしゆを貰うてござるが、この口が開きたうござる程に、ご大儀ながら御出なされて一つ参つて下されうならば、忝からうと申し越されてござる。
▲客「思ひ寄つて人を越されたれども、今日は叶はぬ暇入りがあるによつて、行く事はなるまいよ。
▲シテ「こなたのお暇入りはいつもの事でござらう程に、お暇を欠かれて御出なされて下されうならば、私までも大慶に存じまする。
▲客「今日は叶はぬ暇入りがあれども、そちまでが何かと云ふにより、暇を欠いて行かうまで。
▲シテ「それは別して大慶に存じまする。
▲客「それならば、いざ行かう。さあさあ。来い来い。
▲シテ「畏つてござる。
▲客「最前も云ふ通り、今日は叶はぬ暇入りがあれども、そちまでが何かと云ふにより、暇を欠いて行く事ぢや{*1}。
▲シテ「お暇を欠かれて御出なさるゝご様子{*2}を頼うだ人へ申したならば、さぞ満足致さるゝでござらう。
▲客「扨、某は久しう行かねば不案内な程に、行き着いたならば教へい。
▲シテ「畏つてござる。いや。何かと申す内に、これでござる。それにちと待たせられい。
▲客「心得た。
▲シテ「申し。頼うだお人。ござるか。ござりまするか。
▲主「いや。太郎冠者が戻つたさうな。太郎冠者。戻つたか
▲シテ「ござるか。
▲主「戻つたか、戻つたか。
▲シテ「ござるか、ござるか。
▲主「戻つたか。
▲シテ「只今帰つてござる。
▲主「して、どなたを呼びまして来たぞ。
▲シテ「あれは誰殿とやらを呼びまして参つてござる。
▲主「誰を呼うで来たか。
▲シテ「中々。
▲主「汝はあの人の事を知らぬか。
▲シテ「いや。存じませぬ。
▲主「あれは大の酔狂人で、酒を一盃呑めば刀を一寸抜き、二盃呑めば二寸、度重なれば辺りへも寄れぬ程の酔狂人ぢや程に、某は会ふ事はならぬ。良い様に云うて戻しませい。
▲シテ「もう往なせられいと申したならば、帰らせられませうが、重ねてお会ひなされてのご挨拶がござりますまい。
▲主「誠、重ねて会うての挨拶があるまい。それならば、ちよつぽりともてなして帰したいものなれども、かの人は京田舎を駈け廻り、つゝと目恥づかしい人ぢやにより、かの人の前で使はう者がないよ。
▲シテ「私を使はせられませい。
▲主「いやいや。おのれが様に腰の高いやつが使はれてこそ。
▲シテ「腰をばいかやうにも低うつかまつりませう。
▲主「いやいや。その事ではない。腰の高い低いと云ふは、辞儀作法を知つた知らぬを云ふ。今かう云うても是非がない。何なりとも某の口真似をせうか。
▲シテ「お口真似ならば致しませう。
▲主「それならば、あれへ行て云はうには、幸ひ表に待ち受けて居りまする程に、かう通らせらるゝ様に云へ。
▲シテ「それは走つて参りませうか。但し、静かに参りませうか。
▲主「目恥づかしい人ぢやと云へば、はや臆して色々の事を云ふ。只、常の通りに歩いて行かう。
▲シテ「畏つてござる{*3}。
あゝ。申し。ござりまするか。
▲客「何事ぢや。
▲シテ「頼うだ人申されまする。幸ひ表に待ち受けて居りまする。
▲客「それならば、通らうか。
▲シテ「良うござりませう。
▲客「只今は太郎冠者を下されて、忝うござる。
▲主「人を進じまする処に早速御出、忝うござる。もそつとそれへ寄らせられい。
▲客「いや。これが良うござる。
▲シテ「人を進じまする処に早速御出、忝うござる。もそつとそれへ寄らせられい。
▲客「いや。これが良いよ。
▲主「太郎冠者。盃を出しませい。
▲シテ「太郎冠者。お盃を出しませい。
▲主「あいつは何事を申すか知らぬ。
やい。来い。
▲シテ「何事でござる。
▲主「その真似をせいと云ふ事ではない。あそこへ本のお盃を早う出しませい。やい。
▲シテ「あゝ。
やい。来い。
▲客「何事ぢや。
▲シテ「その真似をせいと云ふ事ではない。
▲客「はて扨、むざとした事を申す者でござる。
▲主「不調法な者を使ひますれば、面目もござらぬ。
▲客「少しも苦しうござらぬ。
▲シテ「不調法な者を使ひますれば、面目もござらぬ。
▲客「苦しうないよ。
▲主「おのれ。立ち居れ。
▲シテ「あ痛、あ痛、あ痛。
▲主「その真似をせいと云ふ事ではない。気がちがひはせぬかい。やい。
▲シテ「おのれ。立ち居れ。
▲客「あ痛、あ痛、あ痛。
▲シテ「その真似をせいと云ふ事ではない。気が違ひはせぬかい。やい。
▲主「お耳が痛うござらう。まつぴらご許されませい。
▲客「苦しうござらぬ。
▲シテ「お耳が痛うござらう。まつぴらご許されい。
▲客「いや。苦しうないよ。
▲主「それにござれば、あいつが何かと云うてなぶりまする。かう奥へ通らせられい。
▲客「いや。これが良うござる。
▲シテ「それにござれば、あいつが何かと云うてなぶりまする。かう奥へ通らせられませい。
▲客「いや。これが良いよ。
▲主「いや。こちへ通らせられい。
▲シテ「いや。こちへ通らせられい。
▲主「おのれはまだその様な事をぬかすか。
▲シテ「あ痛、あ痛、あ痛。
▲主「おのれが様なやつは、こゝにかうして置くが良い。覚えたか。
▲シテ「おのれはまだその様な事をぬかすか。
▲客「あ痛、あ痛、あ痛。
▲シテ「おのれが様なやつは、こゝにかうして置いたが良い。覚えたか。
▲客「これは迷惑な処へ参り掛かつてござる。

校訂者注
 1:底本は、「隙(ひま)をかいて行(ゆ)くぢや」。
 2:底本は、「御出(おいで)なさるゝ様子」。
 3:底本、ここに「畏つてござる」はない。

底本『狂言二十番』(芳賀矢一校 1903刊 国立国会図書館D.C.

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狂言二十番 17 仁王(にわう){*1}

▲シテ「これは、この辺りの者でござる。某、身上不如意にござつて、渡世の営みがなりにくうござるによつて、まづ他国致いて見ようと存じて罷り出でた。それに付いて、こゝに別してお心安うお目を懸けさせられて下さるゝお方がござるほどに、お暇乞ひながらこれへ立ち寄つて参り、もし又、良いご思案もござらば、お差図に任せ当所に足を止めうと存ずる。まづ急いで参らう。何と、お宿にござれば良うござるが。常々お暇なしでござるによつて、かやうにわざわざ参つても、自然お留守なれば、いかゞでござる。あはれ、お宿にござつて下されいかしと存ずる。いや。参る程に、則ちこれぢや。
物申。案内申。
▲アト「いや。表に物申とある。案内とは誰そ。物申とは。
▲シテ「私でござる。
▲アト「いや。誰。ようこそおりやつたれ。
▲シテ「この間は久々お見舞ひも申しませぬが。
▲アト「中々。変る事もない。して、そなたは旅立ちの体ぢやが、いづ方へ行かしますぞ。
▲シテ「さればその御事でござりまする。こなたへ申し上ぐるも、近頃お恥づかしうござれども、殊の外身上不如意になりまして、もはや当所の住居もなりませぬによつて、他国を致さうと存じて、おいとま乞ひに伺候致しましてござる。只今までは、何かとお目を懸けさせられて下されて、忝う存じまする。
▲アト「はて扨、それは気の毒な事でおりやる。他国をせずとも、ひと稼ぎ稼いで見る様な分別はおりないか。
▲シテ「いや。申し。かたがたを塞げましたによつて、いづ方へもご無心申さうかたもござりませぬ。
▲アト「して又、他国をすれば、基く事でもおりやるか。
▲シテ「いや。左様の事もござりませぬが、ふと思ひ付きましでござる。
▲アト「はて扨、そなたは無分別な人ぢや。心当たりもなうて他国するといふ事があるものでおりやるか。
▲シテ「はあ。
▲アト「某の聞いて、聞き捨てにはならぬ。何とぞしておませたいものぢやが。
▲シテ「良い様にご分別なされて下されませい。
▲アト「なうなう。良い事を思ひ出いた。我御科は、物真似などはならぬか。
▲シテ「物によつて真似ませうが、何の真似を致す事でござる。
▲アト「仁王の真似は、なるまいか。
▲シテ「あの、楼門に立たせられた仁王の真似でござるか。
▲アト「中々。
▲シテ「これは幸ひ、辺り近い楼門に仁王がござつて、見覚えてをりまするによつて、仁王の真似ならば致しませう。
▲アト「それならば良い事がある。そなたを仁王の体に拵へ、扨、当所の上野へあらたな仁王が降らせられた程に、いづれも参らせられいと触れたならば、定めて参詣があまたあらう。
▲シテ「これは左様でござりませう。
▲アト「その散物を以て基く様にしたならば良からうが。これは何とおりやらうぞ。
▲シテ「これは良い事を思し召し出されて、忝うござる。それならば、左様になされて下されませい。
▲アト「その儀ならば、これへおりやれ。仁王の体に拵へておまさう。
▲シテ「心得てござる。
▲アト「まづこの頭巾を着けさしませ。
▲シテ「心得ました。
▲アト「肩を脱がしませ。
▲シテ「心得てござる。何と、良うござりまするか。
▲アト「大方出来ておりやる。いざ上野へ同道致さう。さあ。おりやれおりやれ。
▲シテ「心得てござる。いや。申し。かやうに何かとお世話をなされて下さるゝ様な、大慶な事はござりませぬ。
▲アト「云ふまではなけれども、随分見顕はされぬ様にさしませ。
▲シテ「その段はお気遣ひなされまするな。見顕はさるゝ事ではござりませぬ。
▲アト「いや。何かと云ふ内に、これは早、上野へ参つた。どこ元が良うおりやらうぞ。
▲シテ「されば、どこ元が良うござりませうぞ。
▲アト「いや。こゝ元が良からう。まづこれヘ寄つて、仁王の体をさしませ。
▲シテ「心得てござる。
▲アト「なうなう。その儘の仁王でおりやる。某は触れう程に、参詣を待たしませ。
▲シテ「心得ましてござる。
▲アト「やあやあ。皆々聞かせられい。当所の上野へあらたな仁王の降らせられた程に、志のともがらは、皆々参らせられいや。
▲立頭「いづれもござるか。
▲皆々「これに居りまする。
▲立頭「当所の上野へあらたな仁王の降らせられたと申すが、いづれも聞かせられてござるか。
▲二ノ立衆「中々。承つてござる。
▲立頭「それならば参詣致しませう。
▲皆々「良うござらう。
▲立頭「さあさあ。ござれござれ。
▲皆々「心得てござる。
▲立頭「仁王の降らせらるゝと申すは、珍らしい事でござる。
▲二ノ立衆「仰せらるゝ通り、これは不思議な事でござる。
▲シテ「もはや参詣がありさうなものぢやが、いや。あれへ見ゆるは参詣さうな。急いで真似を致さう。
▲立頭「いや。何かと申す内に、これは早、上野へ参つてござる。扨、どこ元に立たせられてござるぞ。
▲二ノ立衆「されば、どこ元に立たせられてござるぞ。
▲立頭「いや。申し申し。これに立たせられてござる。
▲二ノ立衆「違ひもない。これでござる。
▲立頭「いざ拝みませう。
▲皆々「良うござらう。
▲立頭「まづ散銭を上げさせられい。
▲皆々「心得ました。
▲立頭「いよいよ息災延命に守らせ給へ。
▲二ノ立衆「富貴繁昌に守らせ給へ。
▲三ノ立衆{*2}「家内安全に守らせ給へ。
▲立頭「私には力を授けさせられて下されい。この刀を寄進に上げまする。
▲二ノ立衆「私はこれを上げまする。
▲立頭「扨々、あらたな仁王ではござらぬか。
▲二ノ立衆「誠、あらたな仁王でござる。
▲立頭「いざ下向致しませう。
▲皆々「良うござらう。
▲立頭「いづれもへこの由を申して、参詣致さるゝ様に申しませう。
▲皆々「一段と良うござらう。
▲立頭「さあさあ。ござれござれ。
▲皆々「心得てござる。
▲シテ「《笑》なうなう。嬉しやの、嬉しやの。これは夥しい散物でござる。まづ急いで持つて参つて広めませう。
申し申し。ござりまするか。
▲アト「何事でおりやる。何と参詣はおりやつたか。
▲シテ「いや。夥しい参詣でござつて、鳥目の事は申すに及ばず、この様な物まで寄進致されてござる。
▲アト「はて扨、それは仕合せな事ぢや。それを以て基く様にさしませ。
▲シテ「何が扨、基く様に致しませう。まづこれをばこなたへ預けませう。
▲アト「中々。某の預からう。
▲シテ「扨、申し。私は今一度参りたうござりまする。
▲アト「いやいや。もはやいらぬものでおりやる。
▲シテ「お気遣ひなされまするな。見顕はさるゝ事ではござりませぬ程に、今一度遣はされて下されませい。
▲アト「いやいや。もはや無用にさしませ。
▲シテ「何とぞ今一度、遣はされて下されませい。
▲アト「それ程に思はしますならば、いかやうともさしませ。
▲シテ「まづは近頃、忝う存じまする。
▲アト「今度は独鈷を貸しておまさう。
▲シテ「それはひとしほ、忝うござる。
▲アト「これを貸しておまさう程に、必ず必ず見顕はされぬ様にさしませ。
▲シテ「何が扨、お気遣ひなされまするな。随分見顕はさるゝ事ではござりませぬ。
▲アト「早う行かしませ。
▲シテ「心得てござる。
▲シテ「扨も扨も、ありがたい事でござる。急いで参らう。良いご思案をなされて下されて、かやうの仕合せな事はござらぬ。いや。はや上野へ参つた。今度は吽の仁王を致さう。何と参詣はないか知らぬ。いや。あれへ参詣が見ゆる。
▲立頭「いづれもござるか。
▲皆々「これに居りまする。
▲立頭「当所の上野へあらたな仁王の降らせられたと申す程に、参詣致さうと存ずるが、何とござらうぞ。
▲二ノ立衆「一段と良うござらう。お供致しませう。
▲立頭「それならば、いざ参りませう。さあさあ。ござれござれ。
▲皆々「心得てござる。
▲立頭「何とこれは不思議な事ではござらぬか。
▲二ノ立衆「仰せらるゝ通り、不思議な事でござる。
▲立頭「いや。何かと申す内に、これは上野でござる。
▲二ノ立衆「誠、上野でござる。
▲立頭「いづ方に降らせられてござるぞ。
▲二ノ立衆「されば、いづ方に降らせられてござるぞ。
▲立頭「則ちこれでござる。
▲二ノ立衆「誠に、これに立たせられてござる。
▲立頭「いざ拝みませう。
▲皆々「良うござらう。
▲立頭「まづ散銭を上げさせられい。
▲皆々「心得ました。
▲立頭「さあさあ。拝ませられい。
▲皆々「心得ました。
▲立頭「いよいよ福徳自在に守らせ給へ。
▲二ノ立衆「子孫繁昌に守らせ給へ。
▲立頭「申し申し。殊の外、殊勝な事でござる。
▲二ノ立衆「その通りでござる。
▲立頭「さながら正真の人の様にござる。
▲二ノ立衆「その通りでござる。
▲立頭「申し。これへござれ。
▲二ノ立衆「何事でござる。
▲立頭「何と思し召すぞ。お目の内を見ますれば、玉眼が動く様にござるが、いづれもにはお気が付かせられぬか。
▲二ノ立衆「誠、仰せらるゝ通り、おぐしも動く様にござる。
▲三ノ立衆{*3}「はて扨、これは合点の行かぬ事でござる。
▲立頭「かやうの事には売僧があるものでござる程に、誠か偽りか、ちとこそぐつて見ませうが、何とござらうぞ。
▲二ノ立衆「これは一段と良うござらう。
▲立頭「さあさあ。これへ寄らせられい。
▲皆々「心得ました。
▲立頭「これは、殊勝に良う出来させられてござる。
▲二ノ立衆「その通りでござる。
▲立頭「何とやら、お髪が動く様にござる。
▲二ノ立衆「その上、玉眼も動きまする。
▲立頭「さながら人の様にござる。
▲二ノ立衆「その通りでござる。
▲立頭「こそこそこそ。
▲皆々「こそこそこそ。
▲シテ「《笑》面目もござらぬ。
▲立頭「やい。あの横着者。
▲シテ「真つ平許いて下されい、許いて下されい。
▲皆々「人誑し。どちへ行くぞ。人はないか。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。

校訂者注
 1:底本は、柱に「狂言記」とあるが、本文は1903年刊『狂言全集』、1925年刊『狂言記』とは異なり、後年、鷺流の伝本を芳賀が校訂した『狂言五十番』(1926刊)と、ほぼ同文である。
 2:底本は、「▲二ノ立衆「」。
 3:底本は、「▲立頭「」。

底本『狂言二十番』(芳賀矢一校 1903刊 国立国会図書館D.C.

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狂言二十番 16 附子(ぶす){*1}

▲主「これは、この辺りの者でござる。召し使ふ者を呼び出いて、申し付くる事がござる。
太郎冠者。居るかやい。
▲シテ「はあ。
▲主「次郎冠者をも呼べ。
▲シテ「畏つてござる。
次郎冠者。召す。
▲次郎冠者「心得た。
▲両人「両人ともに、お前に。
▲主「汝らを呼び出すは、別の事でもない{*2}。某は、さる方へ遊山に行く程に、両人とも、よう留守をせい。
▲両人「畏つてござる。
▲主「それについて、汝らに預くる物がある程に、それに待て。
▲両人「はあ。
▲主「やいやい。これを汝らに預くる程に、よう番をせい。
▲シテ「して、あれは何でござる。
▲主「あれは、附子ぢやよ。
▲両人「それならば、両人にいち人。なあ。
▲次郎冠者「中々。
▲両人「お供に伺候致しませう。
▲主「汝らは何と聞いたぞ。
▲シテ「あれが留守ぢやと仰せられまするによつて、両人にいち人お供に参らうとの事でござる。
▲主「それは、汝らが聞きやうが悪い。あれは附子と云うて、人の身に大毒の物で、あのかたから吹く風に当たつてさへ忽ち滅却する程に、必ず傍に寄らぬ様にして、よう番をせい。
▲シテ「して、その大毒の物を、何とてこなたには、もて扱ひをなされまするぞ。
▲主「不審、尤ぢや。あれは主を思ふ物で、そのしゆが取り扱へば何事もなし。余人が取り扱へば、そのまま滅却する程に、必ず傍に寄らぬ様にして番をせい。
▲シテ「その儀ならば。
▲両人「畏つてござる。
▲主「やがて戻らうぞ。
▲両人「やがてお帰りなされませい。
▲シテ「いや。なうなう。今日は頼うだ人のお留守ぢやによつて、ゆるりと居て話さうぞ。
▲次郎冠者「何が扨、ゆるりと居て話さうとも。
▲シテ「まづ下におりやれ。
▲次郎冠者「心得た。
▲シテ「いや。なう。何と思はしますぞ。いづ方へ御出なさるゝとあつても、両人にいち人お供に召し連れられぬといふ事はないが、今日は両人ともにお留守に置かせらるゝは、あの附子は、よくよく大切な物と見えておりやる。
▲次郎冠者「和御料の云ふ通り、両人を留守に仰せ付けらるゝは、よくよく大事の物と見えておりやる。
▲シテ「そりや、そりや、そりや。
▲次郎冠者「これは何事でおりやる。
▲シテ「あのかたから暖かな風が吹いて来たによつて、すわ滅却する事かと思うて驚いたよ。
▲次郎冠者「今のは風ではなかつたよ。
▲シテ「それならば良うおりやる。扨、某はあの附子を、ちと見て置かうと思ふ。
▲次郎冠者「はて扨、和御料はむざとした事を仰しやる。頼うだ人の仰せらるゝは、そのしゆが取り扱へば何事もなし、余人が取り扱へば忽ち滅却すると仰せられたによつて、これはいらぬものでおりやる。
▲シテ「そなたの仰しやるは尤なれども、さりながら、自然どなたぞ、そちが所には附子といふ物があると聞いたが、いかやうな物ぢやと仰せられた時、いや。何とござるをも存ぜぬと申しては、いかゞぢや程に、ちよつと見て置かうと思ふ。
▲次郎冠者「和御料の仰しやるも尤なれども、あのかたから吹く風に当たつてさへ、その儘滅却すると仰せられた程に、これは無用にさしませ。
▲シテ「さればその事ぢや。風に当たれば滅却するによつて、風に当たらぬ様に、こなたからあふぎながら見ようではないか。
▲次郎冠者「扇ぎながらか。
▲シテ「中々。
▲次郎冠者「これは一段と良うおりやらう。
▲シテ「それならば某が扇がう程に、和御料、紐を解かしませ。
▲次郎冠者「某は紐を解かう程に、随分扇いでくれさしませ。
▲シテ「心得た。
▲次郎冠者「扇げ、扇げ。
▲シテ「扇ぐぞ、扇ぐぞ。
▲次郎冠者「解くぞ、解くぞ。
▲シテ「解け、解け。
▲次郎冠者「さあ。解いたわ。
▲シテ「でかさしました。ついでに蓋をも取らしませ。
▲次郎冠者「某が紐を解いた程に、和御料、蓋を取らしませ。
▲シテ「それならば、身共が蓋を取らう程に、随分扇がしませ。
▲次郎冠者「心得た。
▲シテ「扇げ、扇げ。
▲次郎冠者「扇ぐぞ、扇ぐぞ。
▲シテ「取るぞ、取るぞ。
▲次郎冠者「取れ、取れ。
▲シテ「さあ。取つたわ。
▲次郎冠者「でかさしました。
▲シテ「まづは、生類ではないと見えた。
▲次郎冠者「それはなぜに。
▲シテ「生類ならば、その儘飛んでも出さうなものぢやが、まづは生類ではないと見えた。
▲次郎冠者「その通りでおりやる。
▲シテ「これから、とつくりと見ようではないか。
▲次郎冠者「良うおりやらう。
▲シテ「随分扇がしませ。
▲次郎冠者「ぬかる事ではない。
▲シテ「扇げ、扇げ。
▲次郎冠者「扇ぐぞ、扇ぐぞ。
▲シテ「扇げ、扇げ。
▲次郎冠者「扇ぐぞ、扇ぐぞ。
▲両人「扇げ、扇げ、扇げ。
▲シテ「さあ。見たわ、見たわ。
▲次郎冠者「何と見さしました。
▲シテ「某は、白うどんみりと見ておりやる。
▲次郎冠者「身共は、鼠色にどんみりと見ておりやる。
▲シテ「扨、某はあの附子を、ちと喰ひたうなつた。
▲次郎冠者「はて扨、和御料はむざとした事を仰しやる。風に当たつてさへ滅却すると仰せられた物を、何と聊爾に喰はるゝものでおりやる。
▲シテ「いやいや。某は附子に領じられたやら、しきりに喰ひたうなつた。行て喰はうぞ{*3}。
▲次郎冠者「これこれ。まづ待たしませ。頼うだ人のお留守に凶事があつては、某いち人の迷惑ぢや程に、これはいらぬものでおりやる。
▲シテ「いやいや。苦しうない。放さしませ。
▲次郎冠者「某のこれに居る内は、遣る事はならぬ。いらぬものでおりやる。
▲シテ「いや。苦しうない。放さしませ。
▲次郎冠者「はて扨、いらぬものでおりやる。
▲シテ「放さしませいと云へば。
▲次郎冠者「いらぬものでおりやる。
▲シテ「名残の袖を振り切りて、附子の傍にぞ寄りにける。
▲次郎冠者「これはいかな事。たつた今に滅却致すでござらう。扨も扨も、苦々しい事でござる。
▲シテ「さあ。たまらぬわ、堪らぬわ。
▲次郎冠者「やいやい。何としたぞ、何としたぞ。
▲シテ「気遣ひさしますな。旨うて堪らぬ。
▲次郎冠者「何ぢや。旨うて堪らぬ。
▲シテ「中々。
▲次郎冠者「して、何でおりやる。
▲シテ「砂糖でおりやる。
▲次郎冠者「何ぢや。砂糖ぢや。
▲シテ「中々。
▲次郎冠者「どれどれ。某も舐めて見よう。
▲シテ「和御料も舐めて見さしませ。
▲次郎冠者「誠、これは砂糖でおりやる。頼うだ人に騙されておりやる。
▲シテ「いや。なうなう。そなたひとり舐めずとも、こちへおこさしませ。
扨も扨も、旨い事ぢや。手も離さるゝ事ではない。
▲次郎冠者「いや。なうなう。そなたひとり舐めずとも、こちへおこさしませ。
▲シテ「これはいかな事。又、どちへ持つて行た。
いや。なうなう。そなたひとり舐めずとも、こちへおこさしませ。
▲次郎冠者「又、どちへやら。
いや。なうなう。和御料ひとり舐めずとも、こちへおこさしませ。
▲シテ「これはいかな事。又、どちへやら持つて行た。
いや。なうなう。そなたひとり舐めずとも、こちへおこさしませ。
▲次郎冠者「こちへおこさしませ。
▲シテ「こちへおこさしませ。
▲次郎冠者「こちへおこさしませ、おこさしませ、おこさしませ、おこさしませ。
▲シテ「ほう。良い事をさしました。皆になつておりやる。
▲次郎冠者「誠、皆になつておりやる。
▲シテ「頼うだ人のお帰りなされたならば、真つ直に申し上げう。
▲次郎冠者「和御料がねぶりそめて置いて。某の真つすぐに申し上ぐる。
▲シテ「これはざれごとでおりやる。扨、何としたものであらうぞ。
▲次郎冠者「何としたならば良からうぞ。
▲シテ「まづ下におりやれ。
▲次郎冠者「心得た。
▲シテ「扨、なう。頼うだ人のお帰りなされたならば、何と申し上げたものでおりやらうぞ。
▲次郎冠者「されば、何と申し上げたならば良うおりやらうぞ。和御料、分別をして見さしませ。
▲シテ「いや。なうなう。良い事を思ひ出いた。あの床の掛け物を破らしませ。
▲次郎冠者「はて扨、和御料はむかつな事を云ふ人ぢや。あの附子を喰ふさへあるに、何と御秘蔵の掛け物が破らるゝものぢや。
▲シテ「いやいや。言ひ訳の種になる。
▲次郎冠者「それならば、破らいで何とするものぢや。さらさらさら。
▲シテ「ほう。良い事をさしました。頼うだ人のお帰りなされたならば、その儘申し上ぐるぞ。
▲次郎冠者「和御料が破れと云うて破らせて置いて。某の真つ直に申し上ぐる。
▲シテ「これも戯れ言でおりやる。
▲次郎冠者「それならば良うおりやる。
▲シテ「扨、あの台子、台天目をも打ち割らしませ。
▲次郎冠者「いや。なう。和御料、気でもたがひはせぬか。あの御秘蔵の掛け物を破るさへあるに、何とあのだいす、台天目が打ち割らるゝものか。
▲シテ「いやいや。これも言ひ訳の種になる。某も手伝はう程に、打ち割らしませ。
▲次郎冠者「それならば、打ち割らいで何とするものぢや。
▲シテ「まづ、この天目から打ち割らう。
▲次郎冠者「良うおりやらう。
▲シテ「くわらり、ちん。
▲次郎冠者「ちん、くわらりん。
▲両人「《笑》
▲シテ「微塵{*4}になつておりやる。
▲次郎冠者「その通りでおりやる。
▲シテ「台子をも踏み砕かう。
▲次郎冠者「良うおりやらう。
▲両人「めりめりめりめりめり。《笑》
▲シテ「みぢんになつておりやる。
▲次郎冠者「その通りでおりやる。
▲シテ「扨、頼うだ人のお帰りなされたならば、さめざめと泣いて居よう。
▲次郎冠者「泣けば済む事か。
▲シテ「中々。済む事ぢや。やうやうお帰りなされう程に、これに寄つておりやれ。
▲次郎冠者「心得た。
▲シテ「ゆるりと遊山を致いてござる。急いで宿へ帰らうと存ずる。両人の者どもが待ち兼ねて居るでござらう。
やいやい。太郎冠者、次郎冠者。戻つたぞ、戻つたぞ。
▲シテ「お帰りなされた。泣け、泣け。
▲次郎冠者「心得た。
▲両人「《泣》
▲シテ「これはいかな事。某の戻つたといふ事を聞いたならば、その儘飛んでも出さうなものぢやが。
さめざめと泣くは、何事ぢやぞ。
▲シテ「そなた、申し上げさしませ。
▲次郎冠者「和御料、申し上げさしませ。
▲主「どちらからなりとも、早う云はぬか。
▲シテ「それならば、私の申し上げませう。お留守になつてござれば、あまり淋しうなりましたによつて、次郎冠者が相撲を取らうと申しまする程に、私はつひに取つた事がないと申してござれば、是非ともにと申して、かひなを取つて引き立てまするによつて、それが迷惑さの儘、あの床の掛け物に取り付いてござれば、あの如くに。な。
▲次郎冠者「中々。
▲両人「裂けましてござる。《泣》
▲シテ「これはいかな事。某の秘蔵の掛け物を、あの如くに引き裂いて。只置く事ではないぞ。まだあらば、早う云へ。
▲シテ「それより右左へ取つて引き廻し、あの台子、台天目の上へ、ずでいどうと投げられてござるによつて、あの如くに。な。
▲次郎冠者「中々。
▲両人「打ち割れましてござる。《泣》
▲シテ「扨も扨も、憎い奴ぢや。台子、台天目をも、あの如くに打ち割つて。只置く事ではない。まだあらば、早う云へ。
▲シテ「この上は、生けては置かせられまいと存じて、附子を喰うて死なうと思うて。な。
▲次郎冠者「中々。
▲シテ「ひと口喰へども死なれもせず。
▲次郎冠者{*5}「ふた口喰へどもまだ死なず。
▲シテ「三口、四口。
▲次郎冠者「いつくち。
▲両人「十口余り、皆になるまで喰うたれども、死なれぬ事のめでたさよ。あら、かしらかたや候ふ。
▲主「何のおのれ、かしらかたや。
▲両人「まつぴら許いて下されい、許いて下されい。
▲主「あの横着者。人たらし。どちへ行くぞ。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。

校訂者注
 1:底本は、柱に「狂言記」とあるが、本文は1903年刊『狂言全集』、1925年刊『狂言記』とは異なり、後年、鷺流の伝本を芳賀が校訂した『狂言五十番』(1926刊)と、ほぼ同文である。
 2:底本は、「別でもない」。
 3:底本は、「行(い)てくうぞ」。
 4:底本は、「塵微(みぢん)」。
 5:底本、ここに「▲次郎冠者「」はない。

底本『狂言二十番』(芳賀矢一校 1903刊 国立国会図書館D.C.

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狂言二十番 15 伊勢物語(いせものがたり){*1}

▲シテ「罷り出たる者は、西国方の者でござる。某、未だ伊勢参宮をつかまつらぬによつて、この度思ひ立ち、参宮の志で罷り出でた。まづそろりそろりと参らう。誠に、遥々の海上なれども、天照大御神の御利生を受くるか、順風なれば浪も静かにして船中快く乗り、又、くがになれども、天気よく打ち続き足も軽くして、祝ふ事でござる。
いや。こゝ元は何と申すぞ。やあやあ。何ぢや。近江の国、湖ぢや。
これは、国元で承り及んだよりも広々として、眺めひとしほある湖水ぢや。扨は、この橋は隠れもない、かの瀬田の長橋でござらう。扨も扨も、良い景かな。古歌にも、真木の板も苔生ふばかりなりにけり幾代経ぬらん瀬田の長橋。と詠まれたるも、この所での事でござらう。扨々、海上とは違うて、くがぢを通れば心面白い事かな。
扨、こゝ元は何と申す所ぞ。何ぢや。伊勢の国、安濃ごほりぢや。
扨は、はや伊勢の国へ着いた。やれやれ。嬉しい事かな。はるばる日向の国を発つて伊勢路に来るまで、つゝがなう足手息災で、これひとへに大神宮の御利生と存じ、ありがたい事でござる。いや。殊の外草臥れたれば、幸ひこれにみ堂がある。この御堂の縁に、ちと休んで参らう。
▲アト出家「これは、この辺りに住居致す、斎夢坊と申す者でござる。今朝さるかたへ斎に参り、只今帰る。まづそろりそろりと参らう。いつもとは申しながら、取り分き当年は殊の外、世間ともに雨続き良うて、田がよく植わるゝと申して、いづ方の在所にも、これのみ祝ふ事でござる。いや。この御堂の縁に、快う昼寝をして居る者があるよ。これは伊勢参宮の者と見えたよ。一炊の眠りに千年を延ぶると申すが、この事であらう。これは羨ましい事かな。愚僧もこれに、ちと休らうで参らうよ。
▲二のアト「これは、この在所に住居致す百姓でござる。今朝は志の事ありて、在所の衆中へ茶を煎じて供養致し、何か今までひま入り多くして、只今やうやう早苗を分けに罷り出でた。まづ参らう。雨続きが良うござる程に、早苗を分けて、今日明日の内に田を植ゑさせうと存ずる。いや。この御堂に、斎夢坊の余念もなう昼寝しておぢやるよ。これは誰ぢや。伊勢参宮道者ぢやよ。これは旅の疲れにて、前後わきまへず寝入りたるは尤ぢやが、斎夢坊は今朝某のかたへ斎に来て、左程に草臥るゝ事もあるまいに。これは又、出家に似合はぬ事ぢやよ。誠にこの御坊は、いづ方へ斎非時に参りても、先々にてよく眠るによつて、ときの夢と書いて斎夢坊と名付けたと申すが、誠ぢやよ。これは余りな事ぢやに、起こしませう。
こりやこりやこりや。やれ。起きよ。
▲両人「はつ、はつ。
▲シテ「いや。何右衛門殿か。はて、快う夢を見、寝て居るに、急な起こしやうで肝を潰したよ。
▲二のアト「和御料は誰ぢや。某は近付きではないが。何とて某が名を知りたるぞ。
▲シテ「今朝程そなたに斎に参つたわ。
▲二のアト「某は、斎にそなたは呼ばぬよ。
▲出家「こゝは何と申す所でござるぞ。
▲二のアト「御坊は寝忘れたか。そなたの在所でおぢやるわ。
▲出家「某は日向の者ぢやに、某が在所とは。そちは何者ぢや。
▲二のアト「何者と云ふ事があらうか。そなたはうろたへたの。
▲出家「やあら、うろたへたとは憎い奴の。所を尋ぬるに、所の者ならば教へはせいで、男に向かつてうろたへたとは推参な。参宮道者なれども堪忍せぬぞ。
▲シテ「まさしく今朝、斎にまで呼うで愚僧を近付けて、存ぜぬと。そなたは何事を云ふぞ。斎夢坊は愚僧ぢや。
▲二のアト「これは一円、合点が行かぬわ。まさしう斎夢坊は、そなたではおりないか。
▲シテ「斎夢坊はこれ、愚僧ぢやわ。
▲出家「某は、日向より伊勢参宮する者ぢやよ。
▲二のアト「いよいよこれは合点が行かぬ。
まづ、心を静めてよくお聞きやれ。そなた、何程日向より参宮すると仰しやつても、まさしく衣を着し、坊主ではないか。
▲出家「某を坊主とは。
やあやあ。これはこれは。これはどうした事ぢや。
▲二のアト「そなた、何程斎夢坊ぢやと仰しやつても、そなたは俗人ぢやわ。
▲シテ「何と、愚僧を俗人ぢやとは。
▲二のアト「でも、坊主ではないわ。
▲シテ「これはこれは。これは又、何とした事ぢやぞ。
▲二のアト「いかさま、これは合点が行かぬが、何とした事ぞ。誠、思ひ出した。最前、某が両人を慌たゞしう急に起こしたによつて、これは魂が入り替つたものであらう。
▲出家「某は、疑ひもない日向の者で、心にたがうた事もなし、そなたをつひに見た事もないが、姿は衣を着、坊主ぢや。これは合点の行かぬ事ぢや。
▲シテ「いかさま、何右衛門殿の仰しやる通り、今朝そなたの所へ斎に参つたは、紛ひもない事なり。斎夢坊は愚僧ぢやが、又、そなたの仰しやれば、髪を結ひ俗体ぢやが、これは不思議な事ぢやよ。
▲二のアト「とかくに、これは今一度こゝに両人寝させて、某が起こしやうがある程に、今一度両人ともに寝さしませ。
▲シテ「その儀ならば、今一度寝よう程に、出家は出家、俗は俗と、体も心も一同する様にしておくりやれ。
▲二のアト「心得た。まづ早く寝さしませ。
▲シテ「心得た。
▲二のアト「これは不思議な事かな。誠に、昔よりも、人の寝入りたるを急に起こさぬものぢやと申すが、かやうの事でござらう。これは前代未聞の物語になる事でござる。いや。やうやう寝入りませうに、まづ斎夢坊から起こしませう。
これ。なうなうなうなう。
▲出家「むうむう。良う寝た。
よいや。何右衛門殿か。まづ、今朝は忝うござる。いかうお斎の上で御酒にたべ酔うて、これにちと休みましたよ。
▲二のアト「尤でおぢやる。こちらも起こさう。
これこれ。なうなうなう。
▲シテ「あゝゝ。扨々、良う寝たよ。これは、殊の外日がたけたわ。
これはどなたでござるぞ。ようこそ起こして下されました。某は、西国方より遥々参宮を致す者でござるが、殊の外草臥れまして、これにまどろみましたよ。
▲二のアト「それそれ。いづれもそれでこそ良けれ。最前の通りでは、某の迷惑致すよ。
▲シテ「最前の通りとは、それは又、何事でばしござるぞ。
▲二のアト「扨は、様子を知らぬか。
▲シテ「中々。何事も存ぜぬよ。
▲二のアト「又、斎夢坊はお知りやらぬか。
▲出家「夢にも存ぜぬよ。
▲二のアト「それならば、話して聞かせう。最前、両人がよくこの所に余念もなう寝て居さしましたを、某が何心なく、慌たゞしく急に起こしたれば、魂が入り替りたるものであらうわ。斎夢坊は参宮の志と仰しやる。又、日向の道者は、某に今朝の斎の礼を仰しやる。何とも心と体とが替りたるによつて、某も起こして迷惑致し、よく思案をして、両人を又寝させて、只今そろそろと起こしたれば、誠の俗は俗、出家は出家と分かりておぢやるよ。
▲シテ「これは夢にも存ぜぬ。只今の様子を承れば、これは不思議な事でござる。これは後々までの物語になる事でござるよ。扨、日もたけてござる程に、もはやお暇申さう。さらば暇申さん。
▲両人「あら名残惜しや。
▲シテ「こなたも名残惜しけれど、あの日を向かうては、遥かの伊勢に参りける。
▲両人「げにもさあり、やよがりもさうよの、やよがりもさうよの。
▲シテ「下向道の土産には、下向道の土産には、伊勢菅笠や千度祓、鯨物差貝杓子、青海苔ふのり簫の笛、買ひ集め取り集め、日向の国に帰りけり、日向の国に帰りけり。

校訂者注
 1:底本は、柱に「狂言記」とあるが、本文は1903年刊『狂言全集』、1925年刊『狂言記』とは異なり、後年、鷺流の伝本を芳賀が校訂した『狂言五十番』(1926刊)と、ほぼ同文である。

底本『狂言二十番』(芳賀矢一校 1903刊 国立国会図書館D.C.

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狂言二十番 14 栗焼(くりやき){*1}

▲主「これは、この辺りの者でござる。召し使ふ者を呼び出いて、見する物がござる。
太郎冠者。居るかやい。
▲シテ「はあ。
▲主「あるか。
▲シテ「お前に。
▲主「汝を呼び出すは、別の事でもない。ちと見する物がある程に、それに待て。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「やいやい。只今、さるかた方より重の内を貰うたが、何であらうぞ。推量して見よ。
▲シテ「されば、何でござらうぞ。蜜柑ではござりませぬか。
▲主「いやいや。
▲シテ「葡萄か、梨の類でござりませう。
▲主「いや。こりやこりや。見よ。栗ぢやわ。
▲シテ「扨も扨も、見事な栗かな。かやうの大きな栗は、つひに見ました事がござりませぬ。
▲主「それについて、不思議な事がある。かやうな物を下されようならば、三十か五十下されう筈ぢやに、四十あるが、合点の行かぬ事ぢや。汝、ちと考へて見よ。
▲シテ「されば、何と致いた事でござらうぞ。いや。申し。私のめでたう判じましてござる。あなたとこなたと、始終仰せ合はされうとの下心でがな、ござりませう。
▲主「これは、よう推量した。さうでがなあらう。扨、幸ひな事がある。今晩、客来を申し受くるによつて、この栗を出したう思へども、客は七、八十人程あり、栗は只四十ならではないが、これをもてなす分別はあるまいか。
▲シテ「これは又、格別な儀でござりまするが、何と致いたらば、おもてなしになりませうぞ。申し。良い事がござりまする。
▲主「何とするぞ。
▲シテ「まず、それを火取りまして、大薬研へ入れて、ぐわらりぐわらりと下ろいて出させられたならば、七、八十人の事は扨置きまして、二百人にも三百人へも出させられませう。
▲主「はて扨、むざとした事を云ふ。それではこの栗の見事なが、賞翫にならぬよ。
▲シテ「扨は、その栗の見事なを、ご賞翫にとある事でござるか。
▲主「その通りぢや。
▲シテ「これは又、何と致いたものでござりませうぞ。いや。申し。致し様がござる。まづ、それをとつくりと火取りまして、扨、ぬる湯にて洗ひ上げ、それを銀の鉢かなどに入れて、お座敷へ出させられたならば、参るお方も参らぬお方も、やれやれ。見事な栗かなとあつて、一同にお褒めなされたならば、いづれも様へのおもてなしになりませう。
▲主「これは一段と良からう。それならば、火取りにやらう。
▲シテ「良うござりませう。
▲主「則ち、汝に云ひ付くる。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「云ふまではなけれども、数の揃うたものぢや程に、随分念を入れて火取つて来い。
▲シテ「何が扨、畏つてござる。
▲主「早う火取つて来い。待つて居るぞ。
▲シテ「はあ。
これは難しい事を仰せ付けられた。扨、どこ元で火取らうぞ。お次で火取つたならば、いづれもの何かと仰せられては、いかゞな。づゝとお末へ持つて参り、火取らうと存ずる。いや。これなる囲炉裏に幸ひの火がある。こゝで火取りませう。まづ炭を継がう。ぐはらぐはらぐはら。じようが立つ。おゝ。おこるわ、熾るわ、熾るわ。さらばくべませう。おゝ。火取れるわ、火取れるわ、火取れるわ。ぽん。《笑》これはいかな事。したゝかに飛んでござる。栗を焼くには、芽を取つてくぶるはずを、はたと失念致いた。さらば、芽を取つてくべませう。これでは中々、跳ぬる事ではござるまい。おゝ。火取れるわ、火取れるわ、火取れるわ。最前の処は、大方良うござらう。これも良い、これも良い、これも良い。《笑》あゝ。あつやの、熱やの。《笑》手を焼いた。はて扨、粗相な事ぢや。扨も扨も、火取つたれば、ひとしほ見事な栗ぢや。狐色と申すはこれでござる。これなどは、別して見事な栗ぢや。もはやないさうな。まんまと火取つてござる。急ぎお目に掛けて、御感に預からうと存ずる。扨も扨も、心地良い事かな。あゝ。これを一つ、試みを致したい事でござるが。さりながら、数の揃うたものぢや程に、念を入れいと仰せられたによつて、喰うてはいかゞな。只持つて参らう。さりながら、自然どなたぞ、この栗の風味は何とあるぞと仰せられた時、いや。何とござるをも存ぜぬと申しては、いかゞな。その上、一つばかりは苦しうござるまい。たべて見ませう。扨も扨も、旨い事かな。これは一つでは堪忍がならぬ。も一つたべう。これは風味の良い栗ぢや。手も離さるゝ事ではござらぬ。も一つたべう。おとがいが落つる様な。むゝ。旨い事ぢや。ほう。これはいかな事。口当たりが良さに、一つ喰ひ二つ喰ひ、皆に致いた。何としたものでござらうぞ。いや。頼うだお方は、どこやらがづゝとお正直な程に、面白可笑しう申し上げて置かうと存ずる。
申し。頼うだお人。ござるか。ござりまするか。
▲主「いや。太郎冠者が栗を火取つて参つたさうな。太郎冠者。火取つて来たか、火取つて来たか。
▲シテ「ござるか、ござるか。ござりまするか。
▲主「何と、栗を火取つて来たか。
▲シテ「さればその御事でござる。仰せ付けられた栗を火取らうと存じて、お次へ参つてござるが、自然、若君様方の御らうじられて、何かと仰せられてはいかゞぢやと存じまして、づゝとお末へ参り、まんまと焼き栗に致いて、これへ持つて参れば、あとから、太郎冠者、太郎冠者と呼びまするによりて、後ろをきつと見てあれば、もうせん頭に戴き、鬢髪に黒き髪もなき老人と老女と、夫婦来り給ひて、我はこれ竈の神、三十四人の父母なり。汝、栗をくれいよ。栗をくれたらば富貴になすべしと、事詳しくものたまへば、あら尊やと思ひて、夫婦に栗を奉る。いや。申し{*2}。竈の神の出でさせられてござる。
▲主「何ぢや。かまどの神の出でさせられた。
▲シテ「中々。
▲主「はて扨、それはめでたい事ぢやな。
▲シテ「中々。めでたい事でござる。又、あとが殊の外賑やかにござるによりて、立ち帰つて見てござれば、三十四人の公達だちの、おぐしをからこに揃へさせられたもござり、或いはふきあげなどに結ばせられて、やいやい。太郎冠者。とゝかゝにはおませて、何とておれらにはくれぬぞ。くれい、くれいと仰せられて、何が優しい楓の様なお手を出させられまするによつて、何が進ぜいでは置かれましてこそ。ようこそ仰せられたれ。頼うだ人、息災延命に守らせられい。進上、進上、進上と申して、三十四人のきんだちだちに、残らず進じましてござる。
▲主「それはよう進じました。扨、残つた栗は何としたぞ。
▲シテ「いや。残つて何があるものでござる。
▲主「いや。残る筈ぢや。まづよう聞け。三十四人の公達だちに三十四、夫婦に二つ。残つて四つある筈ぢや。こちへおこせい。
▲シテ「それは、こなたの算用がぬるうござる{*3}。まづ、夫婦に二つと仰せられませい。
▲主「夫婦に二つ。
▲シテ「三十四人の公達だちに三十七、八なれば、残つて何がござらうぞ。
▲主「いやいや。残つて四つある筈ぢや程に、こちへおこせい。
▲シテ「その中には確か、虫喰ひもござりました。
▲主「多い内ぢや程に、一つやなどはあるまいものでもない。それならば、残つて三つあらう程に、早うおこせい。
▲シテ「いや。申し。かやうの事に付きまして、栗焼く言葉がござるを、御存じでござるか。
▲主「いや。知らぬよ。
▲シテ「申して聞かせませう。
▲主「云うて聞かせい{*4}。
▲シテ「栗焼く言葉には、栗焼く言葉には、逃げ栗、追ひ栗、灰まぎれとて、三つは失せて候はず。お主ごぜんのご心中、お恥づかしう候ふ。
▲主「何でもない事。あちへうせう。
▲シテ「はあ。
▲主「まだそれに居るか。
▲シテ「はあ。

校訂者注
 1:底本は、柱に「狂言記」とあるが、本文は1903年刊『狂言全集』、1925年刊『狂言記』とは異なり、後年、鷺流の伝本を芳賀が校訂した『狂言五十番』(1926刊)と、ほぼ同文である。
 2:底本は、「いやもし」。
 3:底本は、「ぬるござる」。
 4:底本は、「いうて聞(きか)せ」。

底本『狂言二十番』(芳賀矢一校 1903刊 国立国会図書館D.C.

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