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カテゴリ:地誌・地方史 > 校訂『鎌倉旧蹟地誌』(1891刊)

WEB目次 校訂版

鎌倉旧蹟地誌目次

 01 〔鎌倉ノ称〕{**1} 沿革略史〔鎌倉〕
 02 沿革略史〔建武・室町〕
相模国鎌倉郡
 03 鶴岡 八幡宮 白旗明神社 柳営明神社 八ツ橋 池
 04 赤橋 新宮 二十五院[別当] 飯山両社権現 置石町 琵琶橋及下馬橋 横小路及若宮小路
 05 政所蹟 三浦泰村・畠山重忠宅蹟 大蔵幕府蹟 大御所 小御所 若宮大路幕府蹟
 06 法華堂 源頼朝墓 島津忠久墓{**2} 大江広元墓
 07 荏柄天神社{**3} 和田平太胤長宅跡 覚園寺 鎌倉宮
 08 理智光寺 護良親王石塔 観音堂 永福寺蹟 瑞泉寺 浄妙寺
 09 公方屋敷蹟 小八幡宮 宅間谷
 10 絹張山 報国寺 明王院 梶原屋敷跡 光触寺 朝比奈切通 浄林寺 上総介墓 滑川 宝戒寺執権第蹟
 11 葛西ヶ谷 足利左馬頭義氏第蹟 土佐房昌俊宅蹟 塔ノ辻 大巧寺 本覚寺 勝長寿院廃蹟 左馬頭義朝墓 二位禅尼如実墓 右府実朝墓
 12 文覚屋敷蹟 比企妙本寺 蛇苦止明神社 一幡袖塚 比企氏一門塚 比企判官能員夫妻二墓 能本入道日学夫妻墓 佐竹上総入道常元主従墓 竹御所蹟 祇園天王社 足利持氏墓
 13 安養院 安国寺 妙法寺 佐竹屋敷蹟 名越屋敷跡 由比若宮旧地 来迎寺 三浦義明墓 補陀落寺 光明寺
 14 小坪坂{**4} 飯嶋崎及住吉城蹟
 15 小袋坂 建長寺 長寿寺 管領邸蹟 山内上杉家ノ系図
 16 禅興寺 円覚寺 舎利殿 洪鐘 東慶寺・秀頼息女墓
 17 浄智寺 葛原岡神社[藤原俊基卿墓] 仮粧坂 冷泉為相墓 上杉定正邸蹟 扇ヶ谷上杉家ノ系図
 18 英勝寺・太田道灌旧趾{**5} 寿福寺 画窟 境内十景 源氏山 相馬次郎師常邸蹟 鍛冶正宗宅蹟 仏師運慶宅蹟 和田義盛宅蹟 千葉介常胤第蹟[諏訪屋敷]
 19 上総介平直方屋敷跡 問注所蹟 佐介ヶ谷 国清寺蹟 笹目ヶ谷 畠山六郎重保石塔 無常堂塚 甘縄神明社 安達藤九郎盛長第蹟 稲瀬川
 20 四條金吾頼基宅蹟 染屋太郎大夫時忠邸蹟 大仏 光則寺
 21 観音堂 御霊社 星井 霊仙山 由比ヶ浜 極楽寺坂{**6} 陣鐘山 稲村崎
 22 成就院 極楽寺 重時墓 日蓮袈裟掛松 阿仏尼第蹟 十一人塚 七里浜 行合川 金洗沢 腰越村 満福寺 硯池
 23 片瀬村 片瀬川 竜口明神社 竜口寺 江ノ嶋 弁天社 十二窟 江島建寺碑
 24 大船村 離山 常楽寺 鐘楼 北條武蔵守泰時墓 姫宮塚 木曽冠者義高塚 長尾氏壘蹟{**7}
 25 清浄光寺 応永戦死供養碑{**8} 禅秀乱ノ始末{**9} 長生院
 26 大谷帯刀左衛門公嘉城蹟 俟野五郎景久宅蹟 玉縄城蹟 竜宝寺 首塚 北條政村邸蹟 平義政邸蹟
相模国高座郡
 27 大庭城蹟 国分寺 磯部城蹟 無量光寺
相模国三浦郡
 28 田越川 六代御前墓 鐙摺古城 森戸明神社 御殿蹟 久明親王廟 三浦道香墓 和田義盛塚
 29 新井古城 三浦陸奥守義同入道道寸墓{**10} 三浦弾正少弼義意墓 義士塚 三浦氏系図
 30 三崎城蹟 城ヶ嶋村 三浦駿河守義村墓 津久井二郎義行墓[及舘蹟] 衣笠古城 満昌寺 御霊明神社 五輪塔一基 三浦氏古墓 松樹 沼田城蹟
武蔵国久良岐郡
 31 金沢山称名寺 金沢顕時墓 同 貞顕墓 金沢文庫旧趾 瀬戸明神社 瀬戸弁財天 上行寺 六浦 三艘浦 海蔵山太寧寺

鎌倉旧蹟地誌目録[終]

鎌倉旧蹟地誌目次 校訂者注
 1:〔鎌倉ノ称〕〔鎌倉〕〔建武・室町〕は底本目次にはない。
 2:底本は「嶋津忠久墓」。底本29頁に従い訂正。
 3:底本は「荏抦天神社」。底本30頁に従い訂正。
 4:底本60頁は「小坪阪」。
 5:底本は「英勝寺太田道權旧趾」。底本80頁に従い訂正。
 6:底本97頁は「極楽寺阪」。
 7:底本は「長尾壘蹟」。底本113頁に従い訂正。
 8:底本は「応永戦死共養碑」。底本114頁に従い訂正。
 9:底本は「冗禅秀乱ノ始末」。底本115頁に従い訂正。
 10:底本は「三浦陸奥守義同入道導墓」。底本134頁に従い訂正。

凡  例

  1:底本は『鎌倉旧蹟地誌』(山名留三郎編 1891年 冨山房刊)です。
  2:底本の旧漢字は現在通用の漢字に改めました。
  3:底本の合略仮名は、それに相当する漢字・仮名に直しました。
  4:底本の括弧はそのまま( )とし、フリガナは( )、一行割書注は[ ]に入れて示しました。
  5:底本の二行割書注は{*}、校訂者注は{**}とし、それぞれ最下段に示しました。
  6:底本の傍点は省略しました。
  7:翻字版は、底本をそのまま翻字しました(明らかな誤植は訂正の上、校訂者注で示しました)。校訂版は、翻字版本文を読みやすくしたものです(テキストの誤記・誤植を正し、カナを平仮名とし、句読点・濁点を付し、送り仮名を整え、適宜ふりがなを付しています)。校訂者注のある箇所については、両版をご対照の上でご確認下さい。
   なお、校訂の際に参照した資料(全て国会図書館デジタルコレクションで閲覧可)は以下の通りです。
  ・『新編相模国風土記稿 第3-5輯』(1885-8年刊。事実上の種本)。
  ・『大日本地誌大系 新編鎌倉志 鎌倉攬勝考』(1915年刊)
  その他、『大日本地誌大系 新編武蔵国風土記稿四』(1931年刊)・『東鑑』『同脱漏』・『太平記』・『大日本史』・『鎌倉大草紙』等を参照しました。
  8:系図はテキスト化せず、画像としてUPしています。
  9:当コンテンツは底本をそのままUPしたものであることに御留意下さい。

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WEB目次 翻字版

鎌倉旧蹟地誌目次

 01 〔鎌倉ノ称〕{**1} 沿革略史〔鎌倉〕
 02 沿革略史〔建武・室町〕
相模国鎌倉郡
 03 鶴岡 八幡宮 白旗明神社 柳営明神社 八ツ橋 池
 04 赤橋 新宮 二十五院[別当] 飯山両社権現 置石町 琵琶橋及下馬橋 横小路及若宮小路
 05 政所蹟 三浦泰村畠山重忠宅蹟 大蔵幕府蹟 大御所 小御所 若宮大路幕府蹟
 06 法華堂 源頼朝墓 島津忠久墓{**2} 大江広元墓
 07 荏柄天神社{**3} 和田平太胤長宅跡 覚園寺 鎌倉宮
 08 理智光寺 護良親王石塔 観音堂 永福寺蹟 瑞泉寺 浄妙寺
 09 公方屋敷蹟 小八幡宮 宅間谷
 10 絹張山 報国寺 明王院 梶原屋敷跡 光触寺 朝比奈切通 浄林寺 上総介墓 滑川 宝戒寺執権第蹟
 11 葛西ヶ谷 足利左馬頭義氏第蹟 土佐房昌俊宅蹟 塔ノ辻 大巧寺 本覚寺 勝長寿院廃蹟 左馬頭義朝墓 二位禅尼如実墓 右府実朝墓
 12 文覚屋敷蹟 比企妙本寺 蛇苦止明神社 一幡袖塚 比企氏一門塚 比企判官能員夫妻二墓 能本入道日学夫妻墓 佐竹上総入道常元主従墓 竹御所蹟 祇園天王社 足利持氏墓
 13 安養院 安国寺 妙法寺 佐竹屋敷蹟 名越屋敷跡 由比若宮旧地 来迎寺 三浦義明墓 補陀落寺 光明寺
 14 小坪坂{**4} 飯嶋崎及住吉城蹟
 15 小袋坂 建長寺 長寿寺 管領邸蹟 山内上杉家ノ系図
 16 禅興寺 円覚寺 舎利殿 洪鐘 東慶寺・秀頼息女墓
 17 浄智寺 葛原岡神社[藤原俊基卿墓] 仮粧坂 冷泉為相墓 上杉定正邸蹟 扇ヶ谷上杉家ノ系図
 18 英勝寺太田道灌旧趾{**5} 寿福寺 画窟 境内十景 源氏山 相馬次郎師常邸蹟 鍛冶正宗宅蹟 仏師運慶宅蹟 和田義盛宅蹟 千葉介常胤第蹟[諏訪屋敷]
 19 上総介平直方屋敷跡 問注所蹟 佐介ヶ谷 国清寺蹟 笹目ヶ谷 畠山六郎重保石塔 無常堂塚 甘縄神明社 安達藤九郎盛長第蹟 稲瀬川
 20 四條金吾頼基宅蹟 染屋太郎大夫時忠邸蹟 大仏 光則寺
 21 観音堂 御霊社 星井 霊仙山 由比ヶ浜 極楽寺坂{**6} 陣鐘山 稲村崎
 22 成就院 極楽寺 重時墓 日蓮袈裟掛松 阿仏尼第蹟 十一人塚 七里浜 行合川 金洗沢 腰越村 満福寺 硯池
 23 片瀬村 片瀬川 竜口明神社 竜口寺 江ノ嶋 弁天社 十二窟 江島建寺碑
 24 大船村 離山 常楽寺 鐘楼 北條武蔵守泰時墓 姫宮塚 木曽冠者義高塚 長尾氏壘蹟{**7}
 25 清浄光寺 応永戦死供養碑{**8} 禅秀乱ノ始末{**9} 長生院
 26 大谷帯刀左衛門公嘉城蹟 俟野五郎景久宅蹟 玉縄城蹟 竜宝寺 首塚 北條政村邸蹟 平義政邸蹟
相模国高座郡
 27 大庭城蹟 国分寺 磯部城蹟 無量光寺
相模国三浦郡
 28 田越川 六代御前墓 鐙摺古城 森戸明神社 御殿蹟 久明親王廟 三浦道香墓 和田義盛塚
 29 新井古城 三浦陸奥守義同入道道寸墓{**10} 三浦弾正少弼義意墓 義士塚 三浦氏系図
 30 三崎城蹟 城ヶ嶋村 三浦駿河守義村墓 津久井二郎義行墓[及舘蹟] 衣笠古城 満昌寺 御霊明神社 五輪塔一基 三浦氏古墓 松樹 沼田城蹟
武蔵国久良岐郡
 31 金沢山称名寺 金沢顕時墓 同 貞顕墓 金沢文庫旧趾 瀬戸明神社 瀬戸弁財天 上行寺 六浦 三艘浦 海蔵山太寧寺

鎌倉旧蹟地誌目録[終]
鎌倉旧蹟地誌目次 校訂者注
 1:〔鎌倉ノ称〕〔鎌倉〕〔建武・室町〕は底本目次にはない。
 2:底本は「嶋津忠久墓」。底本29頁に従い訂正。
 3:底本は「荏抦天神社」。底本30頁に従い訂正。
 4:底本60頁は「小坪阪」。
 5:底本は「英勝寺太田道權旧趾」。底本80頁に従い訂正。
 6:底本97頁は「極楽寺阪」。
 7:底本は「長尾壘蹟」。底本113頁に従い訂正。
 8:底本は「応永戦死共養碑」。底本114頁に従い訂正。
 9:底本は「冗禅秀乱ノ始末」。底本115頁に従い訂正。
 10:底本は「三浦陸奥守義同入道導墓」。底本134頁に従い訂正。

凡  例

  1:底本は『鎌倉旧蹟地誌』(山名留三郎編 1891年 冨山房刊)です。
  2:底本の旧漢字は現在通用の漢字に改めました。
  3:底本の合略仮名は、それに相当する漢字・仮名に直しました。
  4:底本の括弧はそのまま( )とし、フリガナは( )、一行割書注は[ ]に入れて示しました。
  5:底本の二行割書注は{*}、校訂者注は{**}とし、それぞれ最下段に示しました。
  6:底本の傍点は省略しました。
  7:翻字版は、底本をそのまま翻字しました(明らかな誤植は訂正の上、校訂者注で示しました)。校訂版は、翻字版本文を読みやすくしたものです(テキストの誤記・誤植を正し、カナを平仮名とし、句読点・濁点を付し、送り仮名を整え、適宜ふりがなを付しています)。校訂者注のある箇所については、両版をご対照の上でご確認下さい。
   なお、校訂の際に参照した資料(全て国会図書館デジタルコレクションで閲覧可)は以下の通りです。
  ・『新編相模国風土記稿 第3-5輯』(1885-8年刊。事実上の種本)。
  ・『大日本地誌大系 新編鎌倉志 鎌倉攬勝考』(1915年刊)
  その他、『大日本地誌大系 新編武蔵国風土記稿四』(1931年刊)・『東鑑』『同脱漏』・『太平記』・『大日本史』・『鎌倉大草紙』等を参照しました。
  8:系図はテキスト化せず、画像としてUPしています。
  9:当コンテンツは底本をそのままUPしたものであることに御留意下さい。

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鎌倉旧蹟地誌
山名留三郎編

鎌倉の称、『古事記』「景行帝」の條に、「足鏡別王は鎌倉の別が祖。」と見ゆ。『古風土記』残本に、「鎌倉は屍蔵(かばねくら)なり。」と見ゆ。「神倭磐余彦天皇、東夷を平らげんと欲し給ひし時、大山に当りて一国あり。其国の夷、天皇に矢を放たんとするの勢あるを以て、天皇之を察し給ひ、毒を箭に塗りて自ら射給ひ、箭に中りて死ぬるもの、万を以て数ふ。其屍、積みて山をなす。今の鎌倉の山、是なり。鎌倉なるものは屍蔵の訛(なま)りなり。」と。『詞林釆葉抄』には、「大職冠鎌足、鹿嶋神に参詣の帰途、由井里に宿し、霊夢に感じて、大蔵の松岡に鎌を埋めしより、鎌倉の唱あり。」と云ふ。

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   〇沿革略史
中臣鎌足の後裔・染屋太郎太夫時忠、文武天皇の御宇より、聖武天皇神亀年中まで、鎌倉に居住して、東八箇国総追捕使となり、東夷を鎮し、国家を守ると。其後、平将軍貞盛の孫・上総介直方、此に居住し、伊予守源頼義、相模守に任じ東下せし時、直方が婿となり、義家を生み、鎌倉を譲りしより、遂に源家に伝ふるを得るなり。
源頼義
源義家
源為義
  義家の孫。義親の子。義親、反を以て誅せらる。義家、因りて為義を以て嗣となす。
源義朝
  下野守。坂東に生長し、驍武勇略ありと云ふ。
源頼朝
  治承四年八月、石橋に義兵を挙げ、敗走して安房に至り、安房(安西景益)上総(平広常)下総(千葉常胤)を徇へて其年十月鎌倉に遷り、平氏を亡して幕府を鎌倉に開き、後鳥羽帝文治二年、始めて兵馬の権を執り、土御門帝正治元年、薨ず。〇二十年。
源頼家
  頼朝の子。建仁二年、将軍となる。元久元年、北條時政の為に、伊豆の修善寺に弑せらる。〇五年。
源実朝
  頼家の弟。元久元年、将軍となる。承久元年、公暁の為に弑せらる。〇十七年。
 以上、鎌倉三代将軍と唱ふ。
藤原頼経
  道家の子。順徳帝承久二年より、後嵯峨帝寛元元年まで。〇二十四年。
 執権
  〇北條義時[時政の子]
  〇北條泰時[義時の子]
  〇北條経時[泰時の孫。時氏の子]
藤原頼嗣[頼経の子]
  後嵯峨帝寛元二年より、後深草帝建長三年まで。〇八年。
   北條経時
  〇北條時頼[経時の弟]
宗尊親王
  後嵯峨帝第二子。後深草帝建長四年より、亀山帝文永二年まで。〇十四年。
   北條時頼
  〇北條時宗[時頼の子]
惟康親王
  宗尊親王子。亀山帝文永三年より、伏見帝正応元年迄。〇廿三年。
   北條時宗
  〇北條貞時[時宗の子]
久明親王
  後深草帝第三子。伏見帝正応二年より、後二條帝徳治二年まで。〇十九年。
   北條貞時
  〇北條師時[時頼の孫。宗政の子]
守邦親王
  久明親王の子。花園帝延応元年より、後醍醐帝元弘三年まで。〇二十六年。
   北條師時
  〇北條高時[貞時の子]

鎌倉旧蹟地誌
山名留三郎編

鎌倉ノ称古事記景行帝ノ條ニ足鏡別王ハ鎌倉ノ別カ祖ト見ユ古風土記残本ニ鎌倉ハ屍蔵ナリト見ユ神倭磐余彦天皇東夷ヲ平ケント欲シ給ヒシ時大山ニ当リテ一国アリ其国ノ夷天皇ニ矢ヲ放タントスルノ勢アルヲ以テ天皇之ヲ察シ給ヒ毒ヲ箭ニ塗リテ自ラ射給ヒ箭ニ中リテ死ヌルモノ万ヲ以テ数フ其屍積ミテ山ヲナス今ノ鎌倉ノ山是ナリ鎌倉ナルモノハ屍蔵ノ訛ナリト詞林釆葉抄ニハ大職冠鎌足鹿嶋神ニ参詣ノ帰途由井里ニ宿シ霊夢ニ感シテ大蔵ノ松岡ニ鎌ヲ埋メシヨリ鎌倉ノ唱アリト云フ

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   〇沿革略史
中臣鎌足ノ後裔染屋太郎太夫時忠文武天皇ノ御宇ヨリ聖武天皇神亀年中マテ鎌倉ニ居住シテ東八箇国総追捕使トナリ東夷ヲ鎮シ国家ヲ守ルト其後平将軍貞盛ノ孫上総介直方此ニ居住シ伊予守源頼義相模守{**1}ニ任シ東下セシ時直方カ婿トナリ義家ヲ生ミ鎌倉ヲ譲リシヨリ遂ニ源家ニ伝フルヲ得ルナリ
源頼義
源義家
源為義
  義家ノ孫義親ノ子義親反ヲ以テ誅セラル義家因リテ為義ヲ以テ嗣トナス
源義朝
  下野守坂東ニ生長シ驍武勇略アリト云
源頼朝
  治承四年八月石橋ニ義兵ヲ挙ケ敗走シテ安房ニ至リ安房(安西景益)上総(平広常)下総(千葉常胤)ヲ徇ヘテ其年十月鎌倉ニ遷リ平氏ヲ亡シテ幕府ヲ鎌倉ニ開キ後鳥羽文治二年始メテ兵馬ノ権ヲ執リ土御門帝正治元年薨ス〇二十年
源頼家
  頼朝ノ子建仁二年将軍トナル元久元年北條時政ノ為ニ伊豆ノ修善寺ニ弑セラル〇五年
源実朝
  頼家ノ弟元久元年将軍トナル承久元年公暁ノ為ニ弑セラル〇十七年
 以上鎌倉三代将軍ト唱フ
藤原頼経
  道家ノ子順徳帝承久二年ヨリ後嵯峨帝寛元元年マテ〇二十四年
 執権
  〇北條義時[時政ノ子]
  〇北條泰時[義時ノ子]
  〇北條経時[泰時ノ孫時氏ノ子]
藤原頼嗣[頼経ノ子]
  後嵯峨帝寛元二年ヨリ後深草帝建長三年マテ〇八年
   北條経時
  〇北條時頼[経時ノ弟]
宗尊親王
  後嵯峨帝第二子後深草帝建長四年ヨリ亀山帝文永二年マテ〇十四年
   北條時頼
  〇北條時宗[時頼ノ子]
惟康親王
  宗尊親王子亀山帝文永三年ヨリ伏見帝正応元年迄〇廿三年
   北條時宗
  〇北條貞時[時宗ノ子]
久明親王
  後深草帝第三子伏見帝正応二年ヨリ後二條帝徳治二年マテ〇十九年
   北條貞時
  〇北條師時[時頼ノ孫宗政ノ子]
守邦親王
  久明親王ノ子花園帝延応元年ヨリ後醍醐帝元弘三年マテ〇二十六年
   北條師時
  〇北條高時[貞時ノ子]

校訂者注
 1:底本は「源頼義相摸守ニ任シ」。

建武中興
成良親王
  後醍醐帝第七子。建武元年十二月、上野太守となり、出でゝ鎌倉を鎮す。〇二年。
  足利直義[尊氏の弟。相模守となりて、親王の輔佐たり。]
    建武二年秋七月、北條時行の鎌倉を攻むる、直義、親王を奉じて、出て走る。
 足利義詮
   尊氏の子。建武二年より、後村上帝正平四年(北朝貞和五年)まで。〇十六年。建武二年十月、尊氏、時行を破り走らし、自ら征東将軍東国管領と称す。十二月、官軍を追蹤して西上するや、義詮を留めて鎌倉を守る。
管領
  相模、伊豆、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野、甲斐、信濃、越後、佐渡、(明徳二年、氏満の時)陸奥、出羽を加ふ。凡て十五国を管領す。
 足利基氏
   尊氏第二子。正平四年より、正平二十二年(北朝貞治六年)まで。〇十八年。
 足利氏満
   基氏の子。正平二十三年より、後小松帝応永五年まで。〇三十一年。
 足利満兼
   氏満の子。応永六年より、同十六年まで。〇十年。
 足利持氏
   満兼の子。応永十七年より、後花園帝永亨十一年まで。〇三十年。
   永亨十一年、足利義教、上杉憲実をして之を永安寺に殺さしむ。是より、成氏に至るまで、中絶九年なり。
  上杉憲実
    弟清方をして、己に代りて執事たらしむと雖も、其実、己れ自ら関東の政務を執るなり。
 足利成氏
   持氏の子。後花園帝文安五年より、康正元年まで。〇八年。
   康正元年、上杉氏と隙を生ず。足利義政、今川範忠をして之を討たしむ。成氏、下総の古河に走る。是より成氏の子孫を古河公方と云ふ。成氏より政知に至るまで、二年の中絶、是の後、関東公方、両分するものゝ如し。
   渋川義鏡[関東探題]
   上杉房顕[関東管領]
     両人、仮りに関東の政務を執る。
 足利政知
   将軍義政の弟。長禄元年より、後土御門帝延徳三年まで。〇三十五年
 管領
  上杉房顕[憲忠弟]
  上杉顕定[越後上杉房定子]
     政知滅亡の後、顕定、管領を以て関東を統ぶるものゝ如しと雖も、両上杉相抗して下らず、関東兵乱、全く主帥なし。然れども、後北條まで聊か其後を附す。
  上杉顕定
  上杉憲房[顕定子]
  上杉憲政[憲房子]
    後土御門帝明応元年より、後奈良帝の天文二十年まで。〇六十年
   古河公方
     康正元年より、天文二十一年まで。〇九十八年間
  足利成氏
  足利政氏[成氏の子]
  足利高基[政氏の子]
  足利晴氏[高基の子]
  足利義氏[晴氏の子]
    天文二十一年、北條氏康、古河を陥(せめやぶ)り、晴氏・義氏執へられ、後、関宿に徒さる。

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