江戸期版本を読む

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カテゴリ:地誌・地方史 > 校訂『鎌倉旧蹟地誌』(1891刊)

   〇政所蹟
蹤蹟詳(つまびら)かならず。小名、横大路に在りしなるべし。始めは、公文所と称す。元暦元年八月、始めて造営せらる。十月、安芸介{**1}広元を別当とす。建久{**2}三年八月、頼朝、政所始めとして出座あり。其後、嘉禄元年、幕府を宇都宮辻に移さるに、政所を壊ち、改め造られしならん(凡て、此所にて政事の下文を行ひしなり。元弘三年、北條滅亡の後、廃絶す)。
    三浦泰村畠山重忠宅蹟
三浦邸は、鶴岡社の東、筋替橋の辺にあり。『東鑑』、西御門宅とは、此所なり。畠山邸は、橋の坤方にあり(宝治元年五月、北条時頼、軽服にて三浦の邸に止宿ありしが、俄に帰館す。是、泰村が一族、陰謀あるを察せしなり。六月、時頼、平左衛門入道盛阿をして、之を諭さしむ。泰村、悦びて許諾す。安達泰盛、祖父・高野入道(景盛)が勧めに因りて、甘縄の館を出て、鶴岡域内薬師堂の門前より、鬨を作りて泰村の宅を襲ふ。泰村、驚きて、家子郎従等をして防ぎ戦はしむ。時頼も、今は宥むるに由なく、時定を大将として之に向はしめ、南隣の人家に火を放ちて攻撃しければ、泰村は支ふる事能はず、法華堂に至り、遂に自害す)。
   〇大蔵幕府蹟
里俗、頼朝屋敷と唱ふ。大蔵町の北にて、方六町許りの地なり。地形を以て其境界を計るに、南は大蔵町の街道、西は鶴岡、北は法華堂に辺し、艮の方に荏柄天神社あり。四面に門を設け、其方位を以て之を称す。門外の地名を、東御門・西御門・南御門など唱ふる、是なり(北御門の地名は、所見なけれど、『東鑑』に、「建保元年五月二日、尼御台所並御台所等、営中を去り、北御門を出、鶴岡別当坊に渡御す。」とあれば、北方にも門ありし事、知るべし)。抑(そもそも)、此地は、伊予守頼義の居蹟たりし事、『保暦間記』に載す。又、陸奥守義家が舘を大倉谷に造営せしと、准后親房の記に見ゆ。其後、頼朝始めて舘を造営し(治承四年十月)、実朝・政子に至るまで、政を聴く。嘉禄元年十月、政子薨じて、幕府を宇津宮辻(宇都宮幕府は十二年間なり。)に徙(うつ)す(通じて四十六年間なり){**3}。
 和田義盛、幕府を囲むや、朝比名三郎義秀{**4}、総門を破り、南廷に乱入す。此時、放火に依りて、府内の舎屋、悉く焼亡す。実朝、火を法華堂に避けらる。其年八月、造営なる。造営の間は、将軍家、大江広元の第にあり。
 幕府内
    大御所
頼朝の遺跡にて、政子居住ありし事、『東鑑』に見へたり。
    小御所
養和元年五月、造営あり。建仁の頃は、一幡、此に住す。
 建仁三年九月、比企能員誅せられ、其一族、此所に籠りて謀反す。政子、軍兵を遣り、之を討たしむ。彼輩、防戦の後、館に火を放ちて自尽す。一幡も、其殃に罹れり。大輔房源性{**5}、一幡の遺骨を収め、高野山に納む。
其他、北向御所・兵御所・常御所(実朝、此所に政事を見ると云ふ。)等の名あり。
   〇若宮大路幕府蹟{*1}
土俗、親王屋敷と唱ふ。分内、方一町許り、平田を闢(ひら)けり。東は小町大路を隔て、宝戒寺に対す。嘉禎二年八月、将軍頼経、宇津宮辻の幕府を此地に移し、守邦親王に至るまで、六世相継ぎて、此に居住あり。
 幕府を宇都宮辻に移さるべきの議ある時に、『東鑑脱漏』曰、「十月三日、相州・武州、御所へ参り給ふ。当御所、宇津宮辻に地を移さるべきの由、其沙汰有り。又、若宮大路東頬(つら)に立たせらるべきかの由、同じく群議に及ぶ。云々。廿日、珍誉法眼申して云く、[中略]若宮大路は、四神相応の勝地なり。西に{**6}大道南行し、東に河有り、北に鶴岡有り、南に海水を湛へ、池沼に准(なず)らふべし。云々。依りて此地用らるべきの旨、治定し畢んぬ」。此文に拠れば、大蔵幕府を若宮大路に移したりし如くなれども、嘉禎二年六月廿六日條に、宇津宮辻に幕府ありし事見えたり。
建長四年四月、頼嗣帰洛、宗尊親王東下に依りて{**7}、幕府を改造せらる。元弘三年五月、北條氏滅亡の時、幕府も兵燹に罹り、守邦親王は、遁れて出家せられしが、八月逝去あり。其後、足利尊氏、此に舘を構へし事、『梅松論』に見えたり。詳かならず。
  府内二棟御所、小御所・中御所の名目あり。

二行割書注
 1:『鎌倉志』に、「今其所を知らず。宝戒寺の辺ならん。」と云ふは、誤りなり。(〇若宮大路幕府蹟)

校訂者注
 1・2:ともに、『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之十六 政所蹟」に従い訂正。
 3:政子死去は嘉暦元年(1225年)七月、大蔵幕府破却決定が同年十月である(『東鑑脱漏』同年同月四日「旧御所破却さるべし云々。」)。
 4:底本は「朝夷名三郎義秀」。
 5:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之十三 管領邸蹟 小御所」に従い訂正。
 6:『東鑑脱漏』嘉暦元年十月廿日の條に従い訂正。
 7:『東鑑』によれば、建長四年(1252年)三月廿一日、前将軍・藤原頼経一家が宇都宮辻幕府を出、同年四月一日、新将軍・宗尊親王一行が鎌倉到着、同年十一月十一日、新将軍が完成した新御所へ移っている。

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   〇政所蹟
蹤蹟詳ナラス小名横大路ニ在リシナルヘシ始ハ公文所ト称ス元暦元年八月始メテ造営セラル十月安芸守広元ヲ別当トス{**1}延久三年八月頼朝政所始トシテ出座アリ{**2}其後嘉禄元年幕府ヲ宇都宮辻ニ移サルニ政所ヲ壊チ改メ造ラレシナラン(凡テ此所ニテ政事ノ下文ヲ行ヒシナリ元弘三年北條滅亡ノ後廃絶ス)
    三浦泰村畠山重忠宅蹟
三浦邸ハ鶴岡社ノ東筋替橋ノ辺ニアリ東鑑西御門宅トハ此所ナリ畠山邸ハ橋ノ坤方ニアリ(宝治元年五月北条時頼軽服ニテ三浦ノ邸ニ止宿アリシカ俄ニ帰館ス是泰村カ一族陰謀アルヲ察セシナリ六月時頼平左衛門入道盛阿ヲシテ之ヲ諭サシム泰村悦テ許諾ス安達泰盛祖父高野入道(景盛)カ勧メニ因リテ甘縄ノ館ヲ出テ鶴岡域内薬師堂ノ門前ヨリ鬨ヲ作リテ泰村ノ宅ヲ襲フ泰村驚キテ家子郎従等ヲシテ防キ戦ハシム時頼モ今ハ宥ムルニ由ナク時定ヲ大将トシテ之ニ向ハシメ南隣ノ人家ニ火ヲ放チテ攻撃シケレハ泰村ハ支フル事能ハス法華堂ニ至リ遂ニ自害ス)
   〇大蔵幕府蹟
里俗頼朝屋敷ト唱フ大蔵町ノ北ニテ方六町許ノ地ナリ地形ヲ以テ其境界ヲ計ルニ南ハ大蔵町ノ街道西ハ鶴岡北ハ法華堂ニ辺シ艮ノ方ニ荏柄天神社アリ四面ニ門ヲ設ケ其方位ヲ以テ之ヲ称ス門外ノ地名ヲ東御門西御門南御門ナド唱ル是ナリ(北御門ノ地名ハ所見ナケレド東鑑ニ建保元年五月二日尼御台所並御台所等去営中出北御門渡御鶴岡別当坊トアレハ北方ニモ門アリシ事知ルヘシ)抑此地ハ伊予守頼義ノ居蹟タリシ事保暦間記ニ載ス又陸奥守義家カ舘ヲ大倉谷ニ造営セシト准后親房ノ記ニ見ユ其後頼朝始メテ舘ヲ造営シ(治承四年十月)実朝政子ニ至ルマテ政ヲ聴ク嘉禄元年十月政子薨シテ幕府ヲ宇津宮辻(宇都宮幕府ハ十二年間ナリ)ニ徙ス(通シテ四十六年間ナリ)
 和田義盛幕府ヲ囲ムヤ朝夷名三郎義秀総門ヲ破リ南廷ニ乱入ス此時放火ニ依リテ府内ノ舎屋悉ク焼亡ス実朝火ヲ法華堂ニ避ケラル其年八月造営ナル造営ノ間ハ将軍家大江広元ノ第ニアリ
 幕府内
    大御所
頼朝ノ遺跡ニテ政子居住アリシ事東鑑ニ見ヘタリ
    小御所
養和元年五月造営アリ建仁ノ頃ハ一幡此ニ住ス
 建仁三年九月比企能員誅セラレ其一族此所ニ籠リテ謀反ス政子軍兵ヲ遣リ之ヲ討シム彼輩防戦ノ後館ニ火ヲ放チテ自尽ス一幡モ其殃ニ罹レリ大輔房源{**3}一幡ノ遺骨ヲ収メ高野山ニ納ム
其他北向御所。兵御所。常御所。(実朝此所ニ政事ヲ見ルト云フ)等ノ名アリ
   〇若宮大路幕府蹟{*1}
土俗親王屋敷ト唱フ分内方一町許平田ヲ闢ケリ東ハ小町大路ヲ隔テ宝戒寺ニ対ス嘉禎二年八月将軍頼経宇津宮辻ノ幕府ヲ此地ニ移シ守邦親王ニ至ルマテ六世相継テ此ニ居住アリ
 幕府ヲ宇都宮辻ニ移サルヘキノ議アル時ニ東鑑脱漏曰十月三日相州武州参御所給当御所可被移於宇津宮辻地之由有其沙汰又可被立於若宮大路東頬歟之由同及群議云々廿日珍誉法眼申云[中略]若宮大路者四神相応勝地也大道{**4}南行東有河北有鶴岡南湛海水可准池沼云々依此地可被用之旨治定畢此文ニ拠レハ大蔵幕府ヲ若宮大路ニ移シタリシ如クナレドモ嘉禎二年六月廿六日條ニ宇津宮辻ニ幕府アリシ事見エタリ
建長四年四月頼嗣帰洛{**5}宗尊親王東下ニ依テ幕府ヲ改造セラル元弘三年五月北條氏滅亡ノ時幕府モ兵燹ニ罹リ守邦親王ハ遁レテ出家セラレシカ八月逝去アリ其後足利尊氏此ニ舘ヲ構ヘシ事{**6}梅松論ニ見タリ詳ナラズ
  府内二棟御所小御所中御所ノ名目アリ

二行割書注
 1:鎌倉志ニ今其所ヲ知ラス宝戒寺ノ辺ナラント云{**7}ハ誤リナリ(〇若宮大路幕府蹟)

校訂者注
 1:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之十六 政所蹟」割注に、「十月六日未刻。新造公文所。吉事始也。安芸介中原広元。為別当着座。」とある。
 2:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之十六 政所蹟」に、「(建久三年)八月(頼朝)政所始トシテ出座アリ。」とある。
 3:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之十三 管領邸蹟 小御所」に、「大輔房源性。一幡ノ遺骨ヲ拾ヒ。高野山ニ納ム。」とある。
 4:『東鑑脱漏』に、「珍誉法眼申云(中略)若宮大路者四神相応勝地也西大道南行」とある。
 5:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之十六 若宮大路幕府跡」に、「(建長)四年二月。頼嗣帰洛アリ。四月。宗尊親王下向ニ依テ幕府ヲ改造セラル。(中略)十一月。鎮定ノ法ヲ行ヒ。親王。北条時頼ガ亭ヨリ移徙アリ。」とある。
 6:底本は「搆ヘシ事」。
 7:『新編鎌倉志』「巻之二 頼朝屋敷」に、「今其所不知。按ずるに、今の宝戒寺の地、江間屋敷の辺と見へたり。」とある。

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   〇法華堂
 西御門村北の丘上にあり。頼朝の墳墓にして、元は持仏堂なり。故に土俗は頼朝の持仏堂とも称す(「当時の人、多く法華を信ず。故に、持仏堂を法華堂と称す」。此の『鎌倉志』の説{**1}、是にあらず。『東鑑』に「法華堂」と称するは、皆、墳墓の堂名なり。実朝・政子・義時共に、其卒後に葬る地の堂を称して「法華堂」と云ふ。生前、未だ此堂ある事を載せず。頼朝薨逝の後、其館後堂丘上を塋域とし、別に墳墓堂を創せず。生前の持仏堂を以て、直に墳墓堂となせしならん)。

apic021

 和田の乱、義盛、火を幕府に放ちしかば、実朝、火を此に避く。宝治元年六月、三浦泰村、戦敗れて此に籠り、弟・光村と猶健闘して、自殺せり。
   〇源頼朝墓
法華堂後の山上に、五輪塔(高五尺余)一基を建つ。正治元年正月十三日に薨し、法号は武皇嘯原大禅門と云ふ。『東鑑脱漏』、嘉禄元年十月の條{**2}に、「西方丘上に右幕下{**3}の御廟を安んず」と見え、〇『塵塚談』(小川顕道著。元文年中の人。文化十一年、七十八歳になれり。)に曰く、「頼朝、五十三歳、正治元年正月十三日、薨逝せらる。鎌倉に墓あり。余、十七歳の時参詣せしに、長さ三尺許の苔むしたる五輪の石塔なり。然るに、薩州の大守、小石塔を見苦しと思ひ給ふにや、安永年間に、八九尺の五輪の塔に建替られたり。薩州先祖の墓も、東の方、二三十間奥にありけり。同時に建直し給ふ。日本総追捕使・頼朝の墓の小石塔を、そのまゝに置き給ふ時は、古(むか)しの質素の証拠にして、諸人の教訓にもなるべきに、建替給ふは、余り心なき事ともいふべし。」とあり。
   〇島津忠久墓
法華堂の後阜岩窟の内にあり。忠久は、頼朝の庶子なり。民部大輔惟宗広言が婿となりて、惟宗氏を冒す。始め、左兵衛尉となり、左衛門尉に遷り、後、豊後守に転じ、薩・隅・日の三国を領す。安貞元年六月十八日、卒す。六十歳。法名を浄光明寺得仏と云ふ(忠久は、比企判官能員妹・丹後局の生む所。局、政子の嫉妬を避けて、西国に赴き、住吉に生まる)。按ずるに、忠久の墓、此地に在る事、疑ふべし。今、碑に「安永八年已亥二月、薩摩中将重豪(しげひで)建之。承薩州侯之命、東都竜湖親和八十歳、謹書す。」と彫す。古墳を修飾せしにも非ず。此に頼朝の墳墓あるにより、新に遠祖の碑を造立せしものと覚ゆ。
   〇大江広元墓
同所にあり。広元は、中納言匡房の曽孫、式部大輔維光の子なり。始め、中原氏にて、安芸介に任じ、頼朝に仕へて、開国の功臣たり。其後、本氏に復し、累遷して陸奥守に任ず。嘉禄元年六月十日、卒す。七十八歳。按ずるに、広元の墳墓と土人の口碑に伝ふるのみ。其証、考ふる所なし。或は、「義時が古墳。」と云へり(元仁元年六月、此地に義時が墳墓を営ずる事、『東鑑』に見ゆ)。然して、其墓蹟、此辺、他に遺蹟なければ、其説近しと云へども、今、是非を決し難し。

校訂者注
 1:同説は『新編鎌倉志』「巻之二 法華堂」に見える。
 2:『東鑑脱漏』嘉禄元年十月廿日の條に見える。
 3:「幕下」(ばくか)は「近衛大将」「将軍」の異称。「右幕下」は頼朝を指す。

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   〇法華堂
 西御門村北ノ丘上ニアリ頼朝ノ墳墓ニシテ元ハ持仏堂ナリ故ニ土俗ハ頼朝ノ持仏堂トモ称ス({**1}当時ノ人多ク法華ヲ信ス故ニ持仏堂ヲ法華堂ト称ス此説{**2}是ニアラス東鑑ニ法華堂ト称スルハ皆墳墓ノ堂名ナリ実朝政子義時共ニ其卒後ニ葬地ノ堂ヲ称シテ法華堂ト云生前未タ此堂アル事ヲ載セス頼朝薨逝ノ後其館後堂丘上ヲ塋域トシ別ニ墳墓堂ヲ創セス生前ノ持仏堂ヲ以テ直ニ墳墓堂トナセシナラン

apic021

 和田ノ乱義盛火ヲ幕府ニ放チシカハ実朝火ヲ此ニ避ク宝治元年六月三浦泰村戦敗レテ此ニ籠リ弟光村ト猶健闘シテ自殺セリ
   〇源頼朝墓
法華堂後ノ山上ニ五輪塔(高五尺余)一基ヲ建ツ正治元年正月十三日ニ薨シ法号ハ武皇嘯原大禅門ト云フ東鑑脱漏嘉禄元年十月ノ條ニ西方丘上ニ右幕下ノ御廟ヲ安スト見エ〇塵塚淡{**3}(小川顕道著元文年中ノ人文化十一年七十八歳ニナレリ)ニ曰ク頼朝五十三歳正治元年正月十三日薨逝セラル鎌倉ニ墓アリ余十七歳ノ時参詣セシニ長サ三尺許ノ苔ムシタル五輪ノ石塔ナリ然ルニ薩州ノ大守小石塔ヲ見苦シト思ヒ給フニヤ安永年間ニ八九尺ノ五輪ノ塔ニ建替ラレタリ薩州先祖ノ墓モ東ノ方二三十間奥ニアリケリ同時ニ建直シ給フ日本総追捕使頼朝ノ墓ノ小石塔ヲソノマゝニ置キ給フ時ハ古シノ質素ノ証拠ニシテ諸人ノ教訓ニモナルヘキニ建替給フハ余リ心ナキ事トモイフヘシトアリ
   〇島津忠久墓
法華堂ノ後阜岩窟ノ内ニアリ忠久ハ頼朝ノ庶子ナリ民部大輔惟宗広言カ婿トナリテ惟宗氏ヲ冒ス始メ左兵衛尉トナリ左衛門尉ニ遷リ後豊後守ニ転シ薩隅日ノ三国ヲ領ス安貞元年六月十八日卒ス六十歳法名ヲ浄光明寺得仏ト云フ(忠久ハ比企判官能員妹丹後局ノ生ム所局政子ノ嫉妬ヲ避ケテ西国ニ赴キ住吉ニ生ル)按スルニ忠久ノ墓此地ニ在ル事疑フヘシ今碑ニ安永八年已亥二月薩摩中将重豪(シゲヒテ)建之承薩州侯之命東都竜湖親和八十歳謹書スト彫ス古墳ヲ修飾セシニモ非ス此ニ頼朝ノ墳墓アルニヨリ新ニ遠祖ノ碑ヲ造立セシモノト覚ユ
   〇大江広元墓
同所ニアリ広元ハ中納言匡房ノ曽孫式部大輔維光ノ子ナリ始メ中原氏ニテ安芸介ニ任シ頼朝ニ仕ヘテ開国ノ功臣タリ其後本氏ニ復シ累遷シテ陸奥守ニ任ス嘉禄元年六月十日卒ス七十八歳按スルニ広元ノ墳墓ト土人ノ口碑ニ伝フルノミ其証考フル所ナシ或ハ義時カ古墳ト云ヘリ(元仁元年六月此地ニ義時カ墳墓ヲ営スル事東鑑ニ見ユ)然シテ其墓蹟此辺他ニ遺蹟ナケレハ其説近シト云ヘトモ今是非ヲ決シ難シ

校訂者注
 1:この「(」に対応する「)」は底本にない。
 2:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之二十四 法華堂」割注に、「鎌倉志ヲ閲スルニ。当時人多ク法華ヲ信ス。故ニ持仏堂。皆法華堂ト称スト載ス。此説恐ラクハ是ニアラス。」とある。
 3:正しくは『塵塚談』。

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   〇荏柄(えがら)天神社
二階堂村にあり(頼朝、奥州凱旋の後、奥{**1}の二階堂に擬して、二階堂を建立し、永福寺と号す)。往還の北側にあり。荏柄山と号す。菅公束帯の座像を祀る。大蔵幕府の鬼門の鎮神とす。享徳四年六月、今川上総介範忠、成氏追討とし、鎌倉に乱入し、神社仏閣を焼払ふ。此時、当社に入り、菅公自画の像を奪ひ去れり。其後、長享元年、先の画像、駿州より還座すと。
   〇和田平太胤長宅跡
荏柄天神社の前なり。胤長配流の後、昵近の諸士、之を所望す。然るに、義時に授与せらる(義時、胤長の在りし時より、之を奪はんとす)。義時、金窪左衛門尉行親・安東兵衛忠家に割き与ふ。各々、此に移住せりと云ふ。
   〇覚園寺{*1}
鷲峰山真言院と号す。四宗兼学。建保六年七月、北條義時、霊夢に因りて創立すと(『東鑑』曰、「建保六年七月九日、夢に薬師十二神将内戌神、枕上に来て曰く、『今年、神拝、無事なり。明年拝賀之日、供奉せしめ給ふこと莫かれ。』」云々。蓋し、明年は、承久元年なり。所謂、鶴岡の変、義時、仲章に剱を執らしめ、己(おの)れ、其禍を避くるの事なり)。元弘三年十二月、綸旨を下され、勅願寺とせらる。
 黒地蔵あり。火焼地蔵と云ふ。地蔵、地獄の苦を見るに忍びず。自ら己の身を焼き、黒色に変ずと云ふ。〇弘法護摩壇蹟、寺後の山上にあり。〇又、此辺山腹に、法王窟と唱ふる穴あり。其由来、詳(つまびら)かならず。〇大楽寺は、此寺の末なり。
   〇鎌倉宮
後醍醐帝第三皇子・護良親王を祀りし所なり。明治二年七月、詔して、二階堂の土牢の前の地を卜(ぼく)して、之を造営し給ふなり。同六年、官幣中社に列せられたり。抑、此地は、往昔、東光寺のありし所なり。東光寺は、医王山と号して、一の禅刹なり。建武元年十月、足利直義、親王を東国に下し、土牢を構へて禁獄せしは、即、此所にして(薬師堂谷とも云ふ。)、北方の山腹に窟あり。窟中二段に穿てり{*2}。二年七月、直義、淵辺義博をして生害し奉るとぞ。
 『太平記』曰、「建武二年五月三日、宮を直義朝臣に渡しければ、数百騎を以て路次を警固し、鎌倉へ下し奉りて、二階堂の谷に土の牢を塗りて、置進(まゐ)らせける。」云々。又曰、「建武元年十月、親王を二階堂の土牢に入れ奉り、二年七月、害し奉る。御在牢は、殆んど十ヶ月とぞ」。或は説をなして曰く{**2}、「『太平記』の文意を推考すれば、土もて塗り籠めたる獄舎を云へるにて、土穴中に禁籠せしにあらざるなり。又、『太平記』の淵辺義博が宮を弑する條に、『牢の御所に参る。』と記し、『御輿を庭に舁居ゑたるを御覧じて」などあるを見ても、土穴ならざるを識るべし。』と云ひけれども、元来、『太平記』は、当時足利将軍を尊むの余りより作りたる書にして、之を引きて証となすに足らず。余は、山腹に土窟を穿ちて、宮を置き奉ると思ふ。記して、以て後の識者を俟つ。

二行割書注
 1:大倉新御堂と称せり。今、此地の小名を薬師堂谷と唱ふ。京師・泉涌寺末。(〇覚園寺)
 2:濶(ひろさ)二間計。(〇鎌倉宮)

校訂者注
 1:「奥」は「奥州」、平泉を指す。『新編鎌倉志』「巻之二 永福寺旧跡」に、「【東鑑】に、文治五年十二月九日、永福寺の事始也。奥州に於て、泰衡管領の精舎を御覧ぜしめ、当寺の華構を企てらる。彼梵閣等並宇之中、二階堂あり。大長寿院と号す。専これを摸せらるに依て、別して二階堂と号す。」とある。
 2:『新編相模国風土記稿』「鎌倉郡巻之二十三 東光寺蹟」に、「足利直義。大塔宮ヲ東国ニ下シ。土牢ヲ搆ヘテ禁獄セシハ。即此所ナリ。」とあり、その割注に、「按スルニ。此太平記ノ文意ヲ正シク土穴中ニ禁籠セシト見違ヘ。此辺山腹ノ土穴ヲ。彼宮土籠ノ跡ナリト云フハ。後世附会ノ妄誕ニ近シ。太平記ノ文意ヲ推考スレハ。土モテ塗籠タル。獄舎ヲ云ルニテ。元ヨリ山腹ナトヲ堀穿シ。土穴トハ見ヱス。(中略)土穴ナラサルヲ識ヘシ。」とある。「同 東光寺蹟 大塔宮土籠蹟」には、「前寺廃跡。北方ノ山腹ニアリ。窟中二段ニ穿テリ。是建武二年。直義大塔宮ヲ。禁獄セシ所ト云ヘト。疑フラクハ前條ニ弁セシ如ク。後人ノ所為ニシテ。全ク附会セシモノナラン。」ともある。

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