江戸期版本を読む

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カテゴリ:狂言 > 野村八良校「狂言記」(1926刊)

解題
 殿の情人の許へ使せんとて、冠者、酒が飲みたさに屡々帰る。さて酔うて途中に臥し、殿に鬼の面を被せらる。

抜殻(ぬけがら)

▲との「罷出(まかりい)でたるは御存じの者。太郎冠者あるか。
▲くわじや「御前に。
▲との「念なう早かつた。汝喚び出すは、別義でない。彼(か)の様{*1}へ参りて、此中(このぢう)はお人でもしんぜぬが、何事もござらぬか、冠者を見舞に進ずると申して、急いで行(い)て来い。
▲くわじや「畏つてござる。
▲との「急げ。
▲くわじや「はあ。さてもさても、頼うだる人は、何時も彼(か)の様へ行くをりは、酒をくれらるゝが、今日は何と致してやら、忘れられてござる。ま一度もどつて、たべるやうに致そ。申し殿様、ござりまするか。
▲との「何としてもどつた。
▲くわじや「その事でござりまする。久しうて人を進ぜらるゝほどに、御状を遣(つかは)されたらようござりませう。
▲との「いや、状まではいらぬ。急いで行(い)て来い。
▲くわじや「畏つてござる。これは扨、何としても呉(く)れられぬ。いや、思ひ付けた事がござる。申し殿様。
▲との「何としてもどつた。
▲くわじや「その御事でござりまする。殿様は、何事もないかなどゝ、問はしやる時には{*2}、何と申しませうぞ。
▲との「はてさて、いらざる念を使ひ居る事かな。はあ、思ひ付けてござる。いつも彼奴(きやつ)に酒を呉れまするが、今日は呉れずに遣れば、まひもどりまひもどり致す。飲ましてやりませう。やい、冠者、これへよつて酒を一つ飲うでいけ。
▲くわじや「はて、ひよんなことをおしやれまする。身共が、かうして戻りまするも、酒がたべたいではござらぬ。も、かう参りまする。
▲との「一つ飲うで行け。
▲くわじや「あゝ、そりや、ようござりませう。
▲との「さあさあ。
▲くわじや「いや、御酌慮外にござりまする。これへ下されませう。
▲との「さあさあ受けい受けい。
▲くわじや「はあ。
▲との「よい酒か。
▲くわじや「いや、何とござつたも、覚えませなんだ。
▲との「然らば、ま一つ飲め。
▲くわじや「はあ、あゝ、ござりますござります。申し殿様、身共に、此の様にお気を付けられますをば、朋輩共もいかうけなりう思ひまする。も一つ、たんませう{*3}。
▲との「過(す)げうがな。
▲冠者「いや、数が悪うござりまする。
▲との「さあ飲め。
▲くわじや「はあ、あゝ、いかう酔うたかな、いや。
▲との「急いで行て来い、やい。
▲くわじや「何処へ。
▲との「彼の様へ。
▲くわじゃ「行きまするわいの。
▲との「早う行てうせう。
▲くわじや「はて、行きまするていに{*4}。あゝ、いかう酔うたことかな。これでこそなれ。ようその、この男が飲まずに行かうよ。
《ふし。》めがゆくめがゆく、おめがゆき候。
あゝ、いかう酔うた。まづ、ちつと寝て行かうず。
▲との「やれさて、冠者を使に遣つてござるが、又彼奴(きやつ)めが酒に酔ひて、臥して居るかして、遅うござる。行(い)て見て参らう。さればこそ、余念もなう寝て居る。何と致さうぞ。思ひ付けたことがござる。これに鬼のおもてがござるほどに、著(き)せて置きませう。まんまんと著せました。まづ急いで帰らう。
▲くわじゃ「はあ、いかう寝たことかな。枕下(まくらさがり)に寝たかして、はあ、顔が重うござる。あの清水へ行(い)て、手水を使ひませう。なう、悲しやの、許さつしやれませい。扨も扨も、清水に鬼のあると事は{*5}、存ぜなんでござる。さしまへ{*6}があるならば、彼奴(きやつ)を為留(しと)めたうござるが、頼うだ人に為留めさせませう。さりながら、ま一度、とつくりと見ませう。これは如何なこと。己(おれ)が為(す)るやうに為るが、いやこれは、己が鬼になつたげな。はあ、悲しや。扨も扨も、人悪かれとも存ぜぬが、親、祖父(おほぢ)の報(むくい)でござるか。鬼になるならば、生(しやう)をかへてなりともならいで、生きながら鬼になると事は、何の因果でござるぞ。さりながら、是れでは、何処へ参つたとも、抱人(かゝへて)はござるまいが、何と致さうぞ。何と致したとも、馴染のかどでござる程に、頼うだ御方へ参り、どうぞ申して見ませう。殿様ござりまするか。
▲との「冠者戻つたか。
▲くわじや「はあ、帰りましてござる。
▲との「なう、恐(おそろ)しや。鬼をば冠者には使はぬ。やれそちへ行け。
▲くわじや「申し殿様、冠者は冠者でござる。何といな、因果でござるやら、このやうに鬼になりました。今までの様にこそは使はされませずとも、門の番なりともさして下されませう。
▲との「やい、そこな者、鬼に番をさせたらば、人出入もあるまい。そつちへ行(い)てくれい。抱へる事はならぬぞ。
▲くわじや「お馴染のかどにさへ、さやうでござる程に、身共も覚悟致してござる。もとの清水へ行(い)て身を投げませうず。扨も扨も、このやうなる、因果の有様になりても、命といふものは惜しいものでござる。これから寝転(ねころび)うつて、あの池へ陥(はま)るならば、なんなく、身は投げませうず。えい、こゝな、抜けたは{*7}。申し申し殿様、ござりまするか。
▲との「又こりや冠者が来たか。そつちへ行け。
▲くわじや「いや、申し、本々(ほんぼん)の冠者でござる。
▲との「何としたぞ。
▲くわじや「これごろんじやれませい。鬼の抜殻(ぬけがら)でござる。
▲との「何でもない事、退(しさ)り居(を)れ、え。
▲くわじや「はつ。

底本:『狂言記 上』「狂言記 巻の一 四 抜殻」

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底本頭注
 1:彼の様――殿の情人。
 2:殿様は云々――先方にて尋ねらるる詞。
 3:たんませう――「たべませう」。
 4:行きまするていに――「ていに」は、「と云ふに」の約。
 5:あると事――「あるといふ事」。
 6:さしまへ――指料刀。
 7:抜けたは――仮面とれたる也。

解題
 酒飲みの男の妻、あきれて里に帰る。男、追うて舅に逢ふ。かくれ居りし妻、子供の事をいはれ、男に負はれてかへる。

貰聟

▲をな「妾(わらは)は此の辺(あたり)の者でござる。妾がつれやひ、何ともかともならぬ酒飲(さゝのみ)でござるが、酔狂(ゑひぐるひ)を為(し)られて、迷惑致します。それにつき意見を申したれば、暇をくれてござる。別に参らう所はござらぬほどに、恥(はづか)しや、親のかたへ帰りませう。ものも、お案内。
▲をなが親「聞いたやうな声がするが、誰も出ぬか。や{**1}、をなは何として来たぞ。這入りはせいで、余所(よそ)余所しい有様な。
▲をな「いや父(とゝ)様、己(おれ)が此(か)うして来るは、別の儀ではござらぬ。内の食(くら)ひ倒(だふ)れが言事(いひごと)をしたによつて、戻りました。
▲おや「何といふぞ。子中(こなか)をなしたる中を、出るぞ引くぞと云ふ事はあるまい。一時(じ)も置かぬ。御帰りやす。
▲をな「なう、父(とつ)様、さう仰しやるは合点でござる。さらば往(い)にまする。最早(もはや)逢ひますまいぞや。
▲おや「やいやい、それは何事を云ふぞ。身をも捨てうといふ言葉か。
▲をな「なかなか。
▲おや「いや、それほどに思ふならば、まづ這入れ。
▲をな「心得ました。
▲おや「してまた、われは確(しか)と往(い)ぬまいといふ気か。かまひて親に恥をかゝすなよ。
▲をな「は、父(とつ)様、何しに往(い)にませうぞ。
▲おや「おう、したら、えいは。
▲をな「なう、父(とつ)様、其の恥知らずが、尋ねてなど来る事がござろほどに、此処へは来ぬとおしやれい。
▲おや「おう、ぬかることでは無いぞ。
▲むこ「罷出でたるはこの辺(あたり)の者でござる。夜前めぢや者と言葉論を致したれば{*2}、ついと出てござるが、そこら辺(あたり)を尋ねますれども、居りませぬ。定めて親の所へいんだものでござろ。尋ねにまゐりたうござれども、つひに未(ま)だ聟入を致さぬよつて、何とも参り悪(にく)うござる、と申しても、参らずばなりますまい。いや、程なうこれでござる。ものも。お案内。
▲おや「やら、奇特や{*3}、表に案内がある。お案内はどなたでござる。
▲むこ「は、いや苦しうない者でござる。
▲おや「見馴れぬ御方でござるが。
▲むこ「やあ、見馴れさつしやれぬはお道理でござる。此方(こなた)には{**2}、をな上臈と云ふて、娘子がござらうが。
▲おや「なかなか、ござる。
▲むこ「したが、それについて参りましてござる。
▲おや「それは、なんといな事でござつたぞ。
▲むこ「いや、ちよつと両人(ふたり)諍(いさかひ)をめされまして、お出やりましてござる。恥かしながら、尋ねて参りました。
▲おや「ふん、扨は此方(こなた)は、聟殿でござるか。
▲むこ「はゝ。
▲おや「はて、こちへは帰りませぬが、随分其方(そなた)を尋ねて下されい。
▲むこ「畏つてござる。これは如何なこと、此処へも戻らぬと申すが、何と致したものでござろぞ。
▲をな「なう、父(とつ)様、恥知らずが来ました。
▲おや「さればいやい。
▲むこ「はゝ、女共の声がする。ものも。
▲おや「いや、又表に案内がある。しゝ{*4}。こなたは何としてござつたぞ。
▲むこ「何としてと事があるものぞ。女共の声がした。通さつしやれい。
▲おや「やい、そこな者、おぬしがところへは、最早彼(あ)の娘はやらぬぞ。
▲むこ「なう、舅殿、あの内に居るかな法師は{*5}、此方(こなた)の娘のあには子(ご)ではござらぬか{*5}。又、戻すまいと仰(おし)やる。そなたの為には、孫ではおぢやらぬか。母を尋ぬるが、かはゆうはおぢやらぬか。
▲おや「何ほど其の様にほえたとても、往(い)なす事ではないぞ。
▲をな「なう、父(とつ)様、彼(あ)の様に来て又泣きやれば、往(い)ないでも叶ひますまいほどに、往(い)なして下されい。
▲おや「いや、往(い)なすことではない。
▲むこ「をな、それぢや。しうと、しうと、一度再び呉(く)れた女房をば、戻すまいと云ふか。連れて行(い)て見せう。
▲おや「やることではないぞ。
▲むこ「何の連れて行かいでは。
▲おや「こりや何とするぞ。
▲むこ「舅覚えたか。をな、これへ負はれい。
▲をな「父(とつ)様、祭には来ませうぞや。
▲おや「親を踏倒して行き居る奴は、何女房なれや。其方(そつち)に居れ。

底本:『狂言記 上』「狂言記 巻の一 五 聟貰

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底本頭注
 1:をな――をんなの略。親が娘のことをいふ。
 2:めぢや者(もの)――妻なる女。
 3:奇特や――不思議や。
 4:しゝ――呼び掛けの詞。
 5:かな法師――子供の名。「法師」は今、男子を「坊」といふが如し。
 6:あには子(ご)――長子。

校訂者注
 1:底本は「や をなは」。
 2:底本は「此方(こたな)には」。

解題
 都・本国寺の坊主、身延参詣の下向道にて、東山・黒谷の僧、善光寺より帰るに遇ふ。宿を倶にして法問を為す。

宗論(しうろん)

▲法華「《次第{*1}》妙法蓮華経、蓮華経の経の字を、きやうせんと人や思ふらん{*2}。
罷出でたるは、都(みやこ)本国寺の坊主でござる。このたび思ひ立ち、甲斐の身延に参詣致し、只今下向道(げかうだう)でござる。やれさて、身延と申す所は、聞き及うだよりは、殊勝な所でござる。若い折にかやうに修行を致さねば、老いての物語が無いと申す。先(ま)づそろそろ上(のぼ)りませう。いや、程は参らねども、草臥(くたび)れてござるほどに、まづこの所にすこし休らひませうず。
▲浄土「《次第》南無阿弥陀仏の六の字を、むづかしく人や思ふらん。
罷出でたるは、東山黒谷(くろだに)の愚僧でござる。信濃国善光寺へ参り、只今下向道でござる。まづそろそろ上りませう。あれへよささうなる道づれが行かるゝ。呼びかけ道づれに致さうと存ずる。しゝ、申し。
▲法華「こなたの事でござるか。
▲浄土「なかなか。
▲法華「何の御用でござるぞ。
▲浄土「して、こなたはどれからどれへござるぞ。
▲法華「いや、かう上方へ参る愚僧でござる。
▲浄土「え、身共も上りまする。率爾ながら、道づれにもならしやるまいか。
▲法華「いや、身共も、つれ欲(ほし)いと存ずる所に、合うたり叶うたる事でござる。都までは同道申さう。はれさて嬉しや。さ、ござりませい。
▲浄土「まづござれ。先(せん)でござる程に。
▲法華「参らうか。
▲浄土「ござれござれ。なう申し、かうして、同道申すからは、乃至は、こなたの方(はう)にも、又身共が方にも、五日十日暇のいる事がござろと、まゝよ、待合せ同道致さうぞ。
▲法華「なかなか。五日十日の事はさて置かつしやれい、一貫日でも待合せ{*3}、都までは同道申す。
▲浄土「はれさて、よい御坊に出逢うた事かな。して、こなたは、都は何処許(どこもと)にござるぞ。
▲法華「いや、本国寺の愚僧でおぢやる。
▲浄土「いや、きやつは家例の情強(じやうごは)でおぢやる。道すがら争ひませうず。
▲法華「なうなう、御坊、して、そなたは又何処許でおぢやるぞ。
▲浄土「いや、も、何処と申したらば、京辺土の者でおぢやる。
▲法華「いや、さう仰やれば、心にくうおぢやるほどに、名乗らしやれ。
▲浄土「その儀ならば、名乗りませう。黒谷の坊主でおぢやる。
▲法華「はれさて、おとましい者とつれだつた事ぢや。
▲浄土「いやはや、も、いやがると見えました。
▲法華「なう、坊(ぼん)、して、其方(そなた)は又、此方(このはう)へは、どれへ行かしましたぞ。
▲浄土「いや{**1}、信濃国善光寺へ参りておぢやる。
▲法華「やあ、参らいで、叶ひそむない坊主ぢや。
▲浄土「して又、其方は何(ど)の方へ行かしましたぞ。
▲法華「いや、甲斐の身延へ参詣致した。
▲浄土「おゝ、参らいで、叶はぬ御坊ぢや。
▲法華「なうなう、御坊、其方に意見したうおぢやるわいの。
▲浄土「何でかおぢやるぞ。
▲法華「彼所(あそこ)の隅でも、此処でも、黒豆を数へ{*4}、ぐとぐとと、願はうよりも、其方、その数珠を切つて、法華にならせませ。
▲浄土「いやいや、法華にはなりともなうおぢやる。其方にも意見がしたいは。一部八巻の二十八品(ぼん)などとて{*5}、事むづかしい事を願はうよりも、南無阿弥陀仏とさへ、申すればよいに、某(それがし)が法にならせませ。
▲法華「いやいや、なりともなうおぢやる。なうなう。
▲浄土「何でかおぢやる。
▲法華「はつたと忘れた事がおぢやる。彼(あ)の向(むかふ)に見ゆる在所へ、某は寄らねばならぬ。
▲浄土「いや、某も寄らう。
▲法華「いや、先へ行かしませ。
▲浄土「いや、待合せうと約束でおぢやろ。なうなう。
▲法華「其方のやうなる人に、かまはうよりも、某は先へ行(い)たがようおぢやる。はあ、嬉しや、逃げ延びてござる。
▲浄土「なう、御坊、はてさて人に走らしやつた。
▲法華「え、こゝな、其方とおれと、あみつれた身かいの。
▲浄土「いや、都までは同道申すとの約束でおぢやろ。
▲法華「いやはや、つれだてならば、つれだたうほどに、某が数珠は辱(かたじけな)くも、日蓮上人より、伝(つたは)りの数珠ぢやほどに、ちつと戴きやれ。
▲浄土「戴きたか{*6}、そち戴け。
▲法華「いや、是非共戴かせう。こりやこりや、はゝ、嬉しや、思ふまゝに戴かした。
▲浄土「なうなう、某が数珠も辱(かたじけな)くも{**2}、法然上人よりも伝(つたは)りの数珠、ちつと戴きやれ。これこれ、はあ、嬉しや、戴かした。まつと戴かせう。いやこりや、見失うて、はてさて、もつけな事した。
▲法華「はあ、嬉しや。逃げ延びてござる。まづこの所に宿をとりませう。ものも。お案内。
▲やど「や、表に案内がある。お案内はどなたでござるぞ。
▲法華「いや、旅の坊主でござる。一夜の宿を貸さつしやれい。
▲やど「易い事でござる。奥の間へ通らしやれい。
▲法華「畏つてござる。亭主、出家の相宿厭でござるぞ。
▲やど「心得ました。
▲浄土「これは扨、これほどに行き延びはせまいが、日も晩じてござるほどに、宿をとりませう。ものも。お案内。
▲やど「や、表に案内があるが、案内はどなた。え、最前のやうな御坊ぢや。
▲浄土「なうなう、最前も、某がやうなる坊(ぼん)が、宿を取つてござるか。
▲やど「なかなか、宿を取らつしやれてござる。
▲浄土「某にも貸して下されい。
▲やど「いや、出家の相宿はなりませぬ{*7}。
▲浄土「いや、さきほどの御坊と某は、弟子兄弟でござるが、言葉論を致し、先へでござるほどに、某にも貸して下されい。
▲やど「心得ました。
▲浄土「なうなう、御坊{**3}。
▲法華「いや、其方は何として来たぞ。なう御亭主、別の間ではおぢやらぬか。
▲浄土「はてさて、ないとおしやるわいの。
▲法華「其方が構うてのやうわいの。して其方は、某に後先に附いてまふは、法問(はふもん)ばし為(し)ても見やうと思やるか。
▲浄土「いや、まことに、よいところへ気がついた。夜長にもおぢやる程に、いざ、法問を致さうず。
▲法華「まづ、したらば、其方(そなた)からおしやれ。
▲浄土「まづ、そつちおしやつたがよいわ。
▲法華「ふん、其儀ならば語らうほどに、どちらなりとも、負けた方を、数珠を切らするほどに、さう心やれ{*8}。
▲浄土「まづお語りやれ。
▲法華「耳の垢を取りて聞かせませ。まづ、五すゐ展転(てんでん)、随喜(ずゐき)の功徳といふ事がある{*9}。聞きやつた事があらう。
▲浄土「まことに、どこでやら聞いておぢやる。
▲法華「聞かいで何とせう。三国に憚るほどの法問ぢや。
▲浄土「まづ、いかい事をいはずとも、語らせませ。
▲法華「まづ、五すゐてんでん、ずゐきの功徳、又は涙とも、解かせられたる法問な、大地を割り、芋の子を植ゆる、天地の潤(うるほひ)を以てずゐきを出す。丈(たけ)ゆるゆるとせいじんしたるを、刃物で以て薙倒(なぎたふ)し、芥子で辛(から)々と虀(あ)へ、檀方(だんばう)がたで下さるゝ時は、尊うて、ありがたうて、涙がこぼるゝを以て、五すゐてんでん、ずゐきの功徳、又は、涙とも解かせられたる法問は、有難いことではおぢやらぬか。
▲浄土「たつた解かせませ。
▲法華「いや、これまででおぢやる。
▲浄土「して、それはまことでおぢやるか。それは芥子が辛うて、涙がこぼれたものでおぢやらう。
▲法華「まづ、小言を言はずとも、其方(そなた)も解かせませ。
▲浄土「をゝ、宗論(しうろん)でおぢやるほどに、某も申そ。これへよりて聞かせませ。一念弥陀仏、即滅無量罪と云ふ事がある。お聞きやらうのう。
▲法華「をを、まことに聞きはつつたやうにおぢやる。
▲浄土「其方(そなた)の身の上にもある事、又某が身の上にもある事、だんばう方(がた)へ斎(とき)に参れば、事足らうたる御方へ参れば、醍醐の烏頭芽(うどめ)、鞍馬の木の芽漬、はべん、麩、椎茸、無量のさいを満ち満ちて下さるゝ。彼(か)の事足らはぬ御方へ参れば、焼塩一菜で下さるゝ。彼(か)の、無量の菜が満ち満ちてあると思ふて、心に観念して下さるゝを以て{**4}、一念弥陀仏、即滅無量罪、又は菜(さい)とも、解かせられたる法問な、ありがたうはおぢやらぬか。
▲法華「たつた解かせませ。
▲浄土「これまででおぢやる。
▲法華「して、それがまことでおぢやるか。
▲浄土「なかなか。
▲法華「悉皆たゞ、それはむざいがきといふものでおぢやる{*11}。
▲浄土「いやいや、むざいがきではおぢやらぬ。
▲法華「無いものを有ると思ふて食へば、むざいがき、ではおぢやらぬか。
▲浄土「いや、そちがやうな者に構をよりも、非学者論義に負けじとことがある。まづ、念仏しゆ致したが好(え)い{*12}。
▲法華「いや、まつと云はしまさいで。いや、某もちとまどろみませう。
▲浄土「いや、とかう申す間に、御経時(どき)になつた。くわくわくわ{*13}。なまいだ。
▲法華「悉皆彼(あ)の坊主は、夜の目が寝られぬと見えた。某も看経(かんきん)を致さう。
▲浄土「いや、負けじ劣らじと精を出さるゝ。何とがなして、彼(あ)の坊(ぼん)を浮かしたいと存じまする。いや、思ひつけた事がござる。一遍上人の踊(をどり)念仏がござる。これを申しませう。なもだなもだ{*14}。
▲法華「いや、某も負けは致すまい。蓮華経々々々{*15}。
▲浄土「南無(なも)だ。
▲法華「蓮華経々々々。
▲浄土「南無(なも)だ。
▲法華浄土「これは如何な事、取り違へてのけた{*16}。
実に今思ひ出したり{*17}。昔在霊山妙法花(しやくざいりやうぜんめうほつけ){*18}、今在西方妙阿弥陀(こんざいさいはうめうあみだ)、娑婆示現観世音(しやばじげんくわんぜおん)、三世利益同(ぜりやくどう)一体(たい)と。この文(もん)の聞く時は、法華も弥陀も隔(へだて)はあらじ、今よりしてはふたりが名をば、今よりしてはふたりが名をば、妙阿弥陀仏とぞ付かうよ。

底本:『狂言記 上』「狂言記 巻の一 六 宗論

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底本頭注
 1:次第――謡曲の節の名なり。此の文句は謡ふところ。
 2:きやうせんと――「仰山と」か。
 3:一貫日(くわんにち)――一千日。
 4:黒豆を数へ――悪口にて、数珠を揉むことをいふ。
 5:一部八巻云々――法華経のこと。
 6:たか――「(戴き)たくば」。
 7:相宿――一室に合宿すること。
 8:心やれ――「心得やれ」。「心得よ」。
 9:五すゐ云々――法華経に「五十展転随喜功徳」の語あり。芋を随喜といふより、滑稽的に説けるなり。
 10:たつた――「唯(ただ)」に同じ。
 11:むざいがき――「有財餓鬼」を、「無菜」と洒落たる也。
 12:しゆ致し――「しゆ」は「修」か。
 13:くわくわ――鉦の音。
 14:なもだなもだ――曲にかゝる。
 15:蓮華経々々々――曲にかゝる。
 16:如何(いか)な事云々――法華・浄土の二坊主が、われ知らず御題目を混じて間違ふるを滑稽とす。
 17:実(げ)に今云々――終り迄、曲がゝりとなる。
 18:昔在霊山云々――南岳大師の語。

校訂者注
 1:底本は「いや 信濃国善光寺」。
 2:底本は「辱(かたじけ)くも」。
 3:底本は「なうなう、御妨(ごばう)」。
 4:底本は「下さゝるを以て」。

解題
 下京の庭好きなる方へ、大名、冠者をつれて遊山に行く。冠者に教へられし歌の末を忘れて{**1}、亭主に怒らる。

萩大名(はぎだいみやう)

▲大名「罷出でたるは、隠れもない大名。此中(このぢう)御前(ごぜん)に詰めてあれば、心が何とやら屈してござる。太郎冠者を喚(よ)び出し、何方(いづかた)へぞ、遊山に参らうと存ずる。あるかやい。
▲くわじや「御前に。
▲大名「汝を喚出すは別義ではない。何方へぞ遊山に行かうと思ふが、何とあらう。
▲くわじや「は、内々(ないない)は、御意なうても申し上げたう存ずるところに、一段でござりませう。
▲大名「よからうな。
▲くわじや「は。
▲大名「何と、西山東山はいつもの事。様子の違うた所へ行きたいが、何処許(どこもと)がよからうな。
▲くわじや「まことに御意の通り、西山東山はいつもの事でござる。されば、何処許が好うござりませうぞ。はあ、思ひ付けてござる。これよりも下京辺に、心やさかたな御方がござる。殊の外の庭好きでござる。これへの御遊山が好うござりませう。
▲大名「おう、これが一段よかろ。それへ向けて行かうぞ。
▲くわじや「は、さりながらこれへござれば、お歌をなされねばなりませぬ。
▲大名「それは如何(いか)やうな事を詠むぞ。
▲くわじや「三十一文字の言の葉を、伝へた事でござる。
▲大名「あゝこりや、なるまいわい。
▲くわじや「は、申し上げまする。
▲大名「何とした。
▲くわじや「某(それがし)上京辺を通つてござれば、若い衆の見物にござらうとあつて、萩の花に付(つけ)て、句づくろひをなされたを、聞いて参りましてござる。御前(おまへ)に教(をす)へませう。
▲大名「やい、冠者、その庭にも、萩の花があらうかな。
▲くわじや「殊に亭主すきまするのが、萩でござりまする。
▲大名「ふん、その義ならば、急いで教(をす)へい。
▲くわじや「畏つてござる。七重八重九重とこそ思ひしに、とよ咲き出づる萩の花かなと{*1}、申す事でござる。
▲大名「ふん、してそればかりか。
▲くわじや「はあ。
▲大名「いや、これほどの事ならば詠まうほどに、急いで来い。
▲くわじや「畏つてござる。
▲大名「来い来い。やい、冠者、して、今の歌のいひ出しは何であつたぞ。
▲くわじや「忘れさつしやれてござるか。七重八重でござりまする。
▲大名「おう、それぢや。して、その後は。
▲くわじや「申し、殿様、これではなりますまい。
▲大名「おう、なるまいわい。急いで戻れ。
▲くわじや「申し、殿様。
▲大名「何ぢや。
▲くわじや「さりながら、物によそへたら、覚えさつしやれませうか。
▲大名「よそへ物によつて、覚えうず。
▲くわじや「すなはち扇の骨によそへませう。七重八重と申す時に、七本八本広げませう。九重と申す時に、九本広げませう。とよ咲きと申す時に、皆広げませう。
▲大名「おう、これはよいよそへ物ぢやわい。やい、して又その後があるぞよ。
▲くわじや「はあ、これは猶よそへ物がござる。
▲大名「それは何によそへるぞ。
▲くわじや「すなはち身共をば、臑脛(すねはぎ)ばかり伸び居つて、厚く折檻なされまする。その脛をば、思ひ出さつしやれませう。
▲大名「おう、これが一段ぢや。来い来い。
▲くわじや「疾(とつ)とござりました。すなはちこれでござりまする。それに待たしやれませ。
▲大名「やい、くわじや、亭主に、大名ぢや程にこれへ迎(むかひ)に出よと云へ。
▲くわじや「畏つてござる。御亭、内にござるか。
▲ていしゆ「いえ、くわじや殿、何としてござつたぞ。
▲くわじや「その事でござる。頼うだ人が、此方(こなた)の庭を聞及うで、見物にでござるほどに、表へ迎に出さつしやれい。
▲ていしゆ「心得ましてござる。はつ、これは又、見苦しい所へ、御腰掛けられうとござりまする。辱(かたじけ)なうこそござりますれ。
▲大名「やい、くわじや、ありや亭主か。
▲くわじや「はあ。
▲大名「御亭、不案内におぢやる。かう通りまする。
▲ていしゆ「はつ。
▲大名「やい、太郎冠者、床几々々。
▲くわじや「はつ。
▲大名「やい、亭主に、これへ出られいといへ。
▲くわじや「はつ、御亭これへ出さつしやれい。
▲ていしゆ「畏つてござる。
▲大名「御亭々々、聞及うだよりも、いかう庭が見事でおぢやる。
▲ていしゆ「はつ、このぢうは手入もいたさぬによつて、いかう穢(むさ)うござりまする。
▲大名「いやいや、さうもおぢやらぬいの。なう御亭、あの向(むかふ)な松は、女(め)松でおぢやるか、男(を)松でおぢやるか。
▲ていしゆ「いや、あれは男松でござりまする。
▲大名「ふん、いかう見事おぢやる。やい、冠者、見事なな{**2}。
▲くわじや「はつ。
▲大名「あの左の方ヘすつと出た枝を見たか。
▲くわじや「なかなか、見ましてござる。
▲大名「鋸おくせい{*2}、引切(ひきき)つて心に立てうに{*3}。
▲くわじや「はゝ。
▲大名「はゝ、御亭、不案内におぢやる。
▲ていしゆ「これこれ。
▲くわじや「何でかござるぞ。
▲ていしゆ「いや、彼(あ)の殿様に仰しやれませうには、いづれもの、御腰掛けられては、あの萩の花につけて{**3}、短冊を掛けさつしやる。殿様にも遊ばしませいと仰しやれい。
▲くわじや「心得ましてござる。申しまする。
▲大名「何とした。
▲くわじや「亭主申しまするのには、いづれもが短冊をなされまするほどに、花につけて、お歌をば詠まつしやれいと申しまする。
▲大名「ふん、亭主にこれへ出よといへ。
▲ぐわじや「はつ。
▲大名「御亭、只今は歌を詠めとおしやる。久しう詠まぬが、何とおぢやろ、一つ詠まうか。
▲ていしゆ「遊ばしませう。
▲大名「かうもおりやろか。七重八重九重とこそ思ひしに{**4}、とへさき出づる萩の花かな。
▲くわじや「あゝこれは、いかう出来(でけ)さつしやれてござりまする。
▲大名「亭主、身は歌よみでおりやるいの。
▲ていしゆ「あゝ、いかう出来さつしやれてござる{*5}。
▲大名「やい、冠者、亭主が出来たてゝ、いかう喜ぶわ。汝は何方(いづかた)へぞ行け。暇を出すほどにゆるりと行(い)て寛(くつろ)いで来い。
▲くわじや「畏つてござりまする。
▲ていしゆ「申し殿様。
▲大名「御亭、何でおぢやるぞ。
▲ていしゆ「只今短冊に書きまする。も一度吟じさつしやれませう。
▲大名「おう、心得ておぢやる。七重八重九重とこそ思ひしに、とへ咲き出づる、いづる、いや、冠者奴(め)は、どこもとに居るぞぢやまでい。
▲ていしゆ「申し殿様、御歌に冠者はいりますまい。急いで後を詠まつしやれませい。
▲大名「して、短うおぢやるか。
▲ていしゆ「なかなか、字が足りませぬ。
▲大名「したらば、出づるを幾個(いくつ)も書いて置きやれ。
▲ていしゆ「いや、それではなりませぬ。
▲大名「はて、冠者めが、早う戻り居らいで。
▲ていしゆ「申し殿様、急いで詠まつしやれませい。
▲大名「こゝな奴は、諸侍(しよさむらひ)に手を掛け居つて、憎い奴の。
▲ていしゆ「でも、字が足りませぬ。
▲大名「あゝ、思ひ付けたは。
▲ていしゆ「何と。
▲大名「ものと。
▲ていしゆ「何と。
▲大名「太郎冠者が向脛(むかうずね)に、某が鼻の先。
▲ていしゆ「何でもないこと、疾(とつ)とといかしませ{*5}。

底本:『狂言記 上』「狂言記 巻の一 七 萩大名」

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底本頭注
 1:とよ――「十重」のこと。
 2:鋸おくせい――「鋸を持ち来たれ」。
 3:心に立てう――「生花の心(しん)に立てん」。
 4:身は歌よみで――大名の自慢の語。
 5:いかしませ――「御帰りなされ」。

校訂者注
 1:底本は「冠者に歌教へられし歌の末を忘れて」。
 2:底本は「見事なな、」。
 3:底本は「つけて 短冊を」。
 4:底本は「思ひしに。」。
 5:底本は「出来さつしやれてござる、」。

解題
 山城の薑売と和泉の酢売と途にて遭ひ、各その系図を語り秀句をいふ。

酢薑(すはじかみ)

▲はじかみ「罷出でたるは、山城の国、薑売(はじかみうり)でござる。又今日も商売に、参らうと存ずる。それ商人(あきうど)とは、足をはかり、声をはかりに商(あきな)はねばならぬと申す。まづこれからよばはりませう。はじかみこん{*1}。
▲す「罷出でたるは、和泉の国の酢売でござる。又今日も商(あきなひ)に参らうと存ずる。やれさて、一段の日和に出合せたる事かな。先づ売りませう。すこん。
▲はじかみ「はじかみこん。
▲す「すこん。
▲はじかみ「やい、其所(そこ)な者、耳の辺(はた)へ寄りて、何をつこんつこんといふぞ。
▲す「やい、其所な者、おぬしは又、何をはじかまろはじかまろといふぞ。
▲はじかみ「や、そちが何事を云うたとまゝよ。この藁苞(わらづとう)などには、いかう系図のあるものぢや{*2}。
▲す「何といふぞ。その藁苞(わらづとう)に系図があるといふか。
▲はじかみ「なかなか有る。
▲す「ちつと聞きたうおぢやるの。
▲はじかみ「いや、知らずは云うて聞かせう。藁苞(わらづとう)に黄金(こがね)と云ふことある。其上薑(はじかみ)などには、いかう系図の多いものぢやが、そちが其の酢などには系図があるまい。
▲す「いや、酢にこそ系図がおぢやれ。
▲はじかみ「何ぢや、酢にも系図があると云ふか。
▲す「なかなかおぢやる。
▲はじかみ「や、ちつと聞きたうおぢやるの。
▲す「お、なかなか、語つてきかせうが、して、位に負けたらば、其方(そのはう)は売子(うりこ)になるか。
▲はじかみ「おんでないこと、どちらなりとも売子にならうず。
▲す「さらば、これへ寄つて聞かせませ。昔推古天皇の御時に、一人(にん)の酢売、禁中を売りまはる。その時わうゐん{*3}、酢売々々と召されしが、すの門をするりと通り、簀子縁(すのこえん)にすくと立つておぢやる。その時わうゐん、透張(すきはり)障子をするりとあけ、するすると御出であつて、すきの御酒(おさけ)を下された。一つたべ、二つたべ、三つ目に御詠歌を下された。お主(ぬし)これを聞かうずるよ。
▲はじかみ「急いで語りやれ。
▲す「住吉の隅に雀が巣を懸けて、さぞや雀は住みよかるらんと、下された。これに増したる系図はあるまい。売子にならせませ。
▲はじかみ「まづ某(それがし)がもお聞きやれ。昔からく天皇の御時{*4}、薑売(はじかみうり)と召されしが、唐門のからりと通り、から縁(えん)にかしこまる。その時わうゐん、唐紙障子をからりとあけて、からからと御感あり。辛き御酒を下されたり。一つたべ、二つたべ、三つ目にお肴とて、御歌を一首下された。これへ寄つて聞かせませ。からし、からもの{*5}、から木でたいて、からいりにせんと、下された。これに増したる系図はあるまい。お主、売子にならせませ。
▲す「いやはや、これもよつぽどの系図でおぢやる。さりながら、すゐこ天皇も、からく天皇も、位は同じ事。いまからは、相商(あひあきなひ)に参らず。
▲はじかみ「お、まことに、仰る通り、酢のいる所には薑(はじかみ)もいらうず。さゝ、まづ売らせませ。どれへ向けて参らうず。
▲す「真直(まつすぐ)に、行かせませ。
▲はじかみ「やあ、某(それがし)は烏丸通りへ参らうず。
▲す「まづ売らしませ。
▲はじかみ「心得ておぢやる。はじかみこん。
▲す「すこん。
▲はじかみ「なうなう、あれを見させませ。いかい紙店でおぢやらぬか。あれは皆唐紙(からかみ)でおりやるほどにの。
▲す「なう、側(そば)に積んだは杉原でおりやる。
▲はじかみ「おぢやらしませ。此店を見さしませ。
▲す「はて好(え)い生物(いけもの)。
▲はじかみ「あれを見さしませ。唐(から)のかしらがおぢやるわいの。
▲す「立物(たてもの)は、水牛でおぢやる。
▲はじかみ「なうなう、此の藪を見さしませ。はれ、いかい大竹でおぢやるの。なう、皆唐竹でおぢやる。
▲す「あけをすつかと切りて{**1}、酢筒にしたらばおぢやろ。
▲はじかみ「は、よつぽどにおしやらいで。
▲す「いや、思ふことが、色外(ほか)にあらはるゝとやらで、酢筒が欲しいと思ふことぢやによつて、申した事でおぢやる。
▲はじかみ「なう、よつぽど来ておぢやる。
▲す「此処は何処でおぢやる。
▲はじかみ「お番所(ばんじよ)へ著(つ)いておぢやる。彼(あ)の桃を見さしませ。
▲す「はれ、いかい桃でおぢやる。
▲はじかみ「あれが皆唐桃でおぢやる。
▲す「なう、これを見さしませ。杏(すもゝ)でおぢやる。
▲はじかみ「なう、程なう五條河原へ著いておぢやる。時のものとて、やさしや、唐(から)えもきが{*6}、いかい事おぢやる。
▲す「なう、杉菜も丈比(せくら)べして居るわ。
▲はじかみ「あれ上(かみ)を見さしませ。あれ子供がからかふは。
▲す「あれは角力(すまひ)でおぢやる。
▲はじかみ「なうなう、あれあれ川上をからげて渡るは。
▲す「いやあれは、裾を濡らすまいが為でおぢやる。
▲はじかみ「なうなう、清水寺(せいすゐじ)には、おちごなりとやら、かしきなりとやらがあるといふが{*7}、其方(そなた)は、望(のぞみ)はおぢやらぬか。
▲す「いや身共も参らう。
▲はじかみ「程なう著いておぢやる。
▲す「なう、おちごなりとやらは、すぎたと申すわ。
▲はじかみ「その義でおぢやるならば、某はせんくに一くで{*8}、からからと笑うて、帰らうと存ずる。
▲す「いや某も、住家(すみか)へ向けてすつこも。

底本:『狂言記 上』「狂言記 巻の一 八 酢薑」

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底本頭注
 1:こん――売り物の声。
 2:系図――来歴の事。
 3:わうゐん――「王院」か。
 4:からく――「華洛」か。
 5:からしからもの――これにては、歌として整はず。一本に「辛き物からしから蓼からひるや(あるいは「辛大根」)から木を焚いてから煎りにせん」とあり。
 6:唐えもぎ――「唐蓬」にて、蓬の一種か。
 7:かしき――「喝食」とて、禅寺などの小姓。給仕の役をなす者。
 8:せんくに一く――「千句に一句なり」と云ふ。

校訂者注
 1:底本のまま。

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