江戸期版本を読む

当コンテンツは、以下の出版物の草稿です。『翻刻『道歌心の策』』『翻刻・現代語訳『秋の初風』』『翻刻 谷千生著『言葉能組立』』『津の寺子屋「修天爵書堂」と山名信之介』『津の寺子屋「修天爵書堂」の復原』。御希望の方はコメント欄にその旨記して頂くか、サイト管理者(papakoman=^_^=yahoo.co.jp(=^_^=を@マークにかえてご送信ください))へご連絡下さい。なお、当サイトの校訂本文及び注釈等は全て著作物です。翻字自体は著作物には該当しませんが、ご利用される場合には、サイト管理者まご連絡下さい。

カテゴリ:狂言 > 和泉流狂言大成(1916-19刊)

和泉流狂言大成 目次

和泉流狂言集の出版に際して

第一巻
21 目近    22 三本柱    23 粟田口    24 雁礫    25 靱猿
第二巻
第三巻
第四巻

凡  例

  1:底本は『和泉流狂言大成』全四巻(山脇和泉著。1916~19年わんや江島伊兵衛刊)です。
  (第一巻第二巻第三巻第四巻。国会図書館デジタルコレクション)
  2:右肩に「*」のある作品は、『狂言記』(野村八良校 1925年刊)にない作品です。
  3:底本の仮名遣いはそのまま、旧漢字は現在通用の漢字に改め、ふりがなは適宜省略しました。
  4:二字以上の繰り返し記号(踊り字)はテキストにないため文字化し、適宜読点を加えました。
  5:底本の登場人物は▲を付して示しました。
  6:読みやすさを考慮し、人物の交代、及び割注が挿入される毎に改行しました。
  7:底本の割注は{ }、(笑ふ)「詞」「謡」「上」などの注記は《 》で示しました。
  8:校訂本文の後に翻字を、底本そのままの形で載せました。
  9:校訂本文は、野村八良校『狂言記』の表記を基準として、翻字を読みやすくしたものです。
  10:現在では差別的とされる表現も、底本を尊重し一切変更を加えていません。ご了承願いますとともに、取り扱いには十分ご留意願います。

和泉流狂言集の出版に際して

 狂言文集の出版は余程の難事業である。言ふ迄もなく狂言は至醇なる笑の芸術であつて、その起原は其附属する能よりも遥かに古い所にある。而して其笑の中には皮肉があり諷刺があつて最も適切に其時代の思想風習を反射したものである。
 それだけに其組立、其用語文章等は必ずしも今日いふ如き正確なる語法句法に従つたものではない。此故に狂言集の出版は頗る困難なのである。
 此破格な句法又は当時全く耳馴れぬ古き時代の俗語等は、舞台に上せて実演せられる場合には、聴衆観者にとつて何等の不自然もなく不都合もなく円転流露し来るが如く思惟せらるゝも、一度之を文章として見る時は、其処に百の不都合、千の不自然が露出し来つて宛ら別種のものを見るか如き趣きを呈する事がある。即ち此欠陥を補はんが為に、此出版を文学者の手に委して其検閲を経るとせば、或は単なる文章として比較的完全なる所まで修正され得るかも知れぬ。乍然それは専門家=狂言師又は狂言を解する者にとつては全く無価値なものとなり畢るので、従来の版本が全く此方面に無視され閑却されたのも無理ならぬ事である。
 さらば全く文学者の縁を離れて、全然之を専門家の手に委ぬるとせんか、舞台上のものと一致せるものは庶幾し得べきも、文章としては自然粗雑不統一なりとの譏を脱るゝ事は出来ない{*1}。従つて舞台上にも効果あり又読物としても充分の統一を有するものでなければ此種の出版は全く無意味の事になる。即ち此両者を完からしむる事が難中の至難事なのである。
 既に此欠を補はんが為に故大和田建樹氏と先代山脇氏との間には、相協力して之が完成を期すべき約があつたとの事であるが、両氏共幾何もなく天堂の人となつて、空しく歳月は過ぎた。偶当代山脇氏先代の素志を貫徹せんとの志厚く、夙に其実行に意ありしも、病弱の故を以て其進行遅々たりしが、小早川、藤江の諸氏は師の情を思ひ、其病の不治なるを見て、切めては其生前に之を完成せんと協力して其出版を江島書肆に托さるゝ事となつたのである。
 乍然和泉流は其流義の歴史が古く、且其勢力範囲が広かつたゞけに流中に二三の派があり、其用ふる所の曲にはそれぞれ相違の点がある、従つて其中の何れを採らんかとの問題等もあつて着手後種々なる渋滞を来したが、結局現在東京の舞台に於て最も多く用ゐられつゝあるものを基礎として公定せんとの事に一決し爾来着々としてその歩を進めたのである。勿論前述の欠陥を互ひに相補つて比較的完全な狂言文集たらしめんと努めた事は勿論である。
 然るに其第一巻将に成らんとして幾度かの校を了せし際、突如として山脇和泉氏の訃音を聞くの不幸に際会した。嗚呼山脇氏逝く、此書は遂に氏の遺著として氏に代つて世に出づる事になつた。氏の臨終に於ける感慨や想見すべきであるが、然し又此書完成の近きを思へば氏も亦安んじて瞑するであらう。
 殊に又頃者、氏を中心とする諸氏と、全然別派の観ありし野村氏との関係昔日の如き円満に帰り、相携へて流義の統一発展に努むとの吉報に接した。然らば此多事なる秋に生れた本書の意味は甚だ重大なるものであると考へる。聊か本書の成立と山脇氏を悼むの意とを叙して序に代へる。
   大正五年三月
わんや 江島書肆編輯局

校訂者注
 1:底本は「脱るゝ事は出事ない」。

大黒連歌(だいこくれんが)(脇狂言)

▲アト「この辺りに有徳な者でござる。毎年(まいねん)、嘉例で、子祭(ねまつり)を致す。当年も相替らず、めでたう大黒天を祭らうと存ずる。それにつき、いつも連歌を致すによつて、知音の衆を申し請(う)くる。まづ、太郎冠者(くわんじや)を呼び出し、各(おのおの)を呼びに遣(つかは)さうと存ずる。
{と云ひて、呼び出す。出るも常の如し。}
▲アト「今日(けふ)は嘉例の通り、子祭(ねまつり)をする。汝は、太儀ながら、いづれもへ行(い)て、漸(やうや)う時分もようござる、お出なされて下されいと云うて、行(い)て来い。
▲小アト「畏つてござる。
{常の如く、つめる。うける事、同じ。}
▲小アト「なうなう、嬉しや嬉しや。今日は子祭(ねまつり)で、いづれもお出なさるゝ。定めて賑々しい事であらう。扨、これはどなたへ参らうぞ。いや、某(なにがし)殿が近い。誰殿へ参らう。ものも。案内もう。
▲立頭「表に案内がある。案内とは誰(た)そ。
▲小アト「私でござる。
▲立頭「ゑい、太郎冠者、何として来た。
▲小アト「頼うだ者、申しまする。漸う時分もようござる。追つ付けお出なされて下されいと、申し越してござる。
▲立頭「成程。いづれもお出なされうとあつて、早これにお揃ひぢや。
▲小アト「すれば、御銘々へ参るには及びませぬか。
▲立頭「それには及ばぬ。追つ付け、同道して行かう程に、汝は先へ行け。
▲小アト「畏つてござる。申し上げます。
▲アト「何事ぢや。
▲小アト「只今、誰殿へ参つてござれば、いづれもあれにお揃ひで、追つ付け、これへお出なされまする。
▲アト「お出なされたらば、奥へ通しませい。
▲小アト「畏つてござる。
▲立頭「なうなう、いづれもござるか。
▲立衆「これに居まする。
▲立頭「某殿から人が参りました。追つ付け参りませう。
▲衆「一段とようござらう。
▲立頭「さあさあ、ござれ。
▲衆「心得ました。
▲立頭「太郎冠者、来たぞ。
▲小アト「ようお出なされました。
▲立頭「今日(こんにち)は目出たうござる。
▲アト「いづれも、ようお出なされました。まづ、つゝと奥へお通りなされませ。
▲各「心得ました。
▲アト「さて、相替らずお出、忝うござる。
▲立頭「相替らず子祭に召し寄られて、忝う存じまする。
▲アト「扨、嘉例の通り、連歌を致さう。各(おのおの)の内、御発句をなされて下されい。
▲立頭「今日(けふ)は珍らしく、御亭主の御発句が、ようござりませう。
▲アト「いやいや、客発句に亭主脇と申す。とかく、お客の内からなされて下されい。
▲立頭「いやいや、これは格別の御参会で、殊に、そこもとの御発起でござる。是非とも、発句をさせられい。
▲アト「それならば、御意次第に致しませうか。
▲各「一段とようござらう。
▲アト「何とござらうぞ。いや、かうもござらうか。
▲立頭「何とでござる。
▲アト「大黒の年貢納むる今宵かな。
▲衆「これは面白うござる。
▲立頭「私、脇を致しませう。
▲アト「ようござらう。
▲立頭「かうもござらうか。
▲アト「何と。
▲立頭「こゝやかしこに俵多さよ。
▲衆「これも出来ました。
▲アト「さあさあ、いづれもの内から、第三をなされて下されい。
▲立弍「かうもござらうか。
▲アト「何と。
▲立弍「鼠ども人の物をや論ずらん。
▲アト「扨々、いづれも面白うござる。今日は別(わ)けて、連歌もよう出来てござる。まづ、急いで奉納致さう。太郎冠者、盃を出せ。
▲小アト「畏つてござる。
▲アト「あら、奇特や。何とやら、気色が替りました。
▲立頭「いかさま。異香薫じ、唯ならぬ様子でござる。
▲アト「まづ、いづれもこれへ寄らせられい。
▲各「心得ました。
《一セイ》▲シテ「そもそもこれは、衆生に宝を与ふなる、大黒といへる福天なり。
▲アト「これへお出なされたは、どなたでござる。
▲シテ「これは、汝等が信仰する大黒天なるが、毎年相替らず、子祭(ねまつり)をして連歌をするゆゑ、悦びの余り、これまで出現してあるぞとよ。
▲アト「ありがたう存じまする。まづ、これへお通りなされませ。
▲小アト「これへ御来臨なされませ。
▲シテ「やいやい、汝等は、常々この大黒天を信仰して、子祭をする。何のため、この大黒を信ずるぞ。
▲アト「惣じて、大黒天は福神(ふくじん)でござる。富貴を祈りましての事でござる。
▲シテ「身共が推量に違(たが)はぬ。内々(ないない)、福を与やうと思へども、何かと取り紛れ、延引した。追つ付け、福を与やうぞ。
▲アト「それはありがたう存じまする。
▲シテ「扨、これにゐる者どもは、いつも子祭をする時分は、参会する。定めて、友達であらう。
▲アト「成程、知音の者どもでござる。毎度、子祭の時分には、伽(とぎ)をしてくれまする。この者どもへも、御福を下されませうならば、ありがたう存じまする。
▲シテ「扨も扨も、奇特な者どもぢや。惣じて、人は賢に仕へよ、賤しきに交(かは)るべからず。伽をするも、信心ありての事ぢや。同じく、富貴に守らうか。さりながら、この大黒も気が弱うて、衆生(しうせい)を見ては、皆悉く、よかれかしよかれかしと思ふによつて、方々へ福をとらせたい。別して、此節は所々の子祭で、大黒天も隙(ひま)を得ぬ。惣じて、富貴になるは、たゞ薄紙を重ぬる様に、そろりそろりと楽しうなる様に、ゆるゆると思うて、猶々信心をせい。
▲立頭「畏つてござる。
▲シテ「扨、最前吟じたは、何であつたぞ。
▲アト「あれは、連歌でござる。
▲シテ「いよいよ奇特な者どもぢや。扨、その連歌は、いかにいかに。
▲アト{*1}「大黒の年貢納むる今宵かな。
▲立頭「こゝやかしこに俵多さよ。
▲衆弍「鼠ども人の物をや論ずらん。
▲シテ「大黒連歌の面白さに、
{三段の舞。太鼓打上。}
▲シテ「《詞》大黒連歌の面白さに、
《地》七珍万宝打ち出す、打出の小槌。これをば和殿にとらせけり。
▲立弍「やらやらけなりや、けなりやな。我にも福をたび給へ。
▲シテ「ほしがる所も尤なり、ほしがる所も尤なりとて、一体三千大千世界の、宝を入れたる大黒の、袋を汝にとらせけり。あそこのをのこの物いはぬは、あそこのをのこの物いはぬは、もし大黒を恨みやすると、色々の宝の衣裳をぬいで、かれにとらせ、これまでなりとて大黒は、これまでなりとて大黒天は、この所にこそ納まりけれ。

校訂者注
 1:底本、ここ以降全て傍点がある。

底本:『和泉流狂言大成 第一巻』(山脇和泉著 1916年刊 国会図書館D.C.

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大黒連歌(ダイコクレンガ)(脇狂言)

▲アト「此辺りに有徳な者で御座る、毎年嘉例で子祭を致す、当年も相替らず目出たう大黒天を祭うと存る、夫に付毎も連歌を致すに依て知音の衆を申請る、先太郎冠者を呼出し各を呼に遣さうと存ずる{ト云て呼出出るも如常}▲アト「今日は嘉例の通子祭をする、汝は太儀ながら何れもへいて、漸時分もよう御座る御出被成て下されいと云ていてこい▲小アト「畏つて御座る{如常つめるうける事同}▲小アト「なうなう嬉しや嬉しや、今日は子祭で何もお出なさるゝ定て賑々敷事で有う、扨是は何方へ参らうぞ、いや何某殿が近い、誰殿へ参らう、物も、案内もう▲立頭「表に案内が有、案内とは誰そ▲小アト「私で御座る▲立頭「ゑい太郎冠者何として来た▲小アト「頼うだ者{*1}申まする、漸時分もよふ御座る、追付お出被成て下されいと申越て御座る▲立頭「成程何れもお出なされうと有つて早是にお揃ひぢや▲小アト「すれば御銘々へ参るには及ませぬか▲立頭「夫には及ばぬ追付同道して行う程に汝は先へゆけ▲小アト「畏て御座る、申上ます▲アト「何事ぢや▲小アト「只今誰殿へ参て御座れば、何もあれにお揃で追付是へお出被成まする▲アト「お出被成たらば奥へ通しませい▲小アト「畏つて御座る▲立頭「なうなう何も御座るか▲立衆「是に居まする▲立頭「何某殿から人が参ました、追付参りませう▲衆「一段とよう御座らう▲立頭「さあさあ御座れ▲衆「心得ました▲立頭「太郎冠者来たぞ▲小アト「ようお出被成ました▲立頭「今日は目出たう御座る▲アト「何もようお出被成ました、先つゝと奥へお通りなされませ▲各「心得ました▲アト「扨て相替らずお出忝なう御座る▲立頭「相替らず子祭に召寄られて忝なう存じまする▲アト「扨嘉例の通連歌を致さう、各の内御発句を被成て下されい▲立頭「今日は珍ら敷御亭主の御発句が{*2}よう御座りませう▲アト「いやいや客発句に亭主脇と申す、兎角お客の内からなされて下されい▲立頭「いやいや是は格別の御参会で殊にそこ許の御発起で御座る、是非共発句をさせられい、▲アト「夫ならば御意次第に致ませうか▲各「一段とよう御座らう▲アト「何と御座らうぞ、いやかうも御座らうか▲立頭「何とで御ざる▲アト「大黒の年貢納る今宵かな▲衆「是れは面白う御座る▲立頭「私脇を致しませう▲アト「よう御座らう、▲立頭「かうも御座らうか▲アト「何と▲立頭「爰やかしこに俵多さよ▲衆「是れも出来ました▲アト「さあさあ何もの内から第三を被成て下されい▲立弍「かうも御座らうか▲アト「何と▲立弍「鼠共人の物をや論ずらん▲アト「扨々何も面白う御座る、今日は別て連歌もよう出来て御座る、先急で奉納致さう、太郎冠者盃を出せ▲小アト「畏つて御座る▲アト「荒奇特や何とやら気色が替りました▲立頭「いか様異香薫じ唯ならぬ様子で御座る▲アト「先何も是へよらせられい▲各「心得ました▲シテ一セイ「抑是は衆生に宝をあたうなる大黒といへる福天也▲アト「是へお出被成たは何方で御座る▲シテ「是は汝等が信仰する大黒天成が、毎年相替らず子祭をして連歌をするゆへ悦びの余り是迄出現して有ぞとよ▲アト「難有う存じまする先是へお通り被成ませ▲小アト「是へ御来臨被成ませ▲シテ「やいやい汝等は常々此大黒天を信仰して子祭をする何の為此大黒を信ずるぞ▲アト「惣て大黒天は福神で御座る、富貴を祈ましての事で御座る▲シテ「身共が推量に違はぬ内々福をあたやうと思へ共、何かと取紛れ延引した、追付福をあたやうぞ▲アト「夫は有難う存まする▲シテ「扨是にゐる者共は毎も子祭をする時分は参会する定て友達で有う、▲アト「成程知音の者共で御座る、毎度子祭の時分には伽をして呉まする、此者共へも御福を下されませうならば難有う存じまする▲シテ「扨も扨も奇特な者共じや、惣て人は賢に仕へよ賤敷に交るべからず、伽をするも信心有ての事ぢや、同敷富貴に守らうか、去ながら此大黒も気がよわうて衆生を見ては皆悉くよかれかしよかれかしと思ふに依て、方々へ福をとらせたい、別して此節は所々の子祭で大黒天も隙を得ぬ、惣じて富貴に成はたゞ薄紙を重る様に、そろりそろりとたのしう成様にゆるゆると思うて猶々信心をせい▲立頭「畏つて御ざる▲シテ「扨最前吟じたは何で有たぞ▲アト「あれは連歌で御座る、▲シテ「弥奇特な者共ぢや、扨其連歌はいかにいかに▲アト「大黒の年貢納る今宵かな▲立頭「爰やかしこに俵多さよ▲衆弍「鼠共人の物をや論ずらん▲シテ「大黒連歌の面白さに{三段ノ舞太鼓打上}▲シテ詞「大黒連歌の面白さに▲地「七珍万宝打出す、打出の小槌、是をば和殿にとらせけり▲立弍「やらやらけなりやけなりやな我にも福をたび給へ▲シテ「ほしがる所も尤成ほしがる所も尤成とて一体三千大千世界の宝を入たる大黒の袋を汝にとらせけり▲シテ「あそこのおのこの物いはぬはあそこのおのこの物いはぬは、もし大こくを恨やすると、色々の宝の衣裳をぬいで、かれにとらせ、是迄成とて、大黒は、是までなりとて大こく天は、此所にこそ納りけれ。

 校訂者注
  1:底本は、「頼うた者」。
  2:底本は、「御発句か」。

夷大黒(えびすだいこく)(脇狂言)

▲アト「帰る嬉しき古郷(ふるさと)に、帰る嬉しき古郷(ふるさと)に、行きて妻子に逢はうよ。これは、河内の国交野(かたの)の里に、住居(すまひ)する者でござる。某(それがし)、親に孝を尽くす故にや、次第に富貴の身となつてござる。さりながら、猶も子孫繁昌に致す様に、比叡山三面六臂の大黒天に、祈誓申してござれば、西の宮夷三郎殿へ参詣申せと、新たに御夢想を蒙つてござる。それ故、すぐに西の宮に参詣申してござれば、家の内に勧請申せと、乃ち、三郎殿のお告げでござる。かやうのありがたき事は、ござらぬ。まづ、急いで帰つて、勧請致さうと存ずる。誠に、信心あるは徳ありと申すが、日頃、某が正直に致すによつて、かやうの御利生もござると存じて、別(わ)けて忝い事でござる。いや、何かと申す内に、私宅ぢや。かやうの事は、妻子にも知らさぬ事ぢや。まづ、密(ひそ)かに注連飾りを張り、勧請致さうと存ずる。一段と良い。まづ、様子を伺はうと存ずる。
{下り段、二人出るなり。一の松にて留る。太鼓打上。}
▲シテ「大黒と、大黒と、夷は心合(あは)せつゝ、多くの宝取り持つて、衆生にいざや与へん、衆生にいざや与へん。
▲アト「これへ、賑々(にぎにぎ)とお出なされたは、何方(どなた)でござる。
▲恵「これこそ、西の宮にて契約したる、夷三郎。これまで顕れ出であるぞとよ。
▲シテ「これは、比叡山三面六臂の大黒天なるが、汝が歩みを運び、信仰する故に、福を与へんと思ひ、これまで出現してあるぞとよ。
▲アト「はあ、ありがたう存じまする。とてもの事に、家の内へ御来臨なされませ、扨、恐れ多うござれども、何とぞ、御両所様の御威徳を、この家の内に仰せ残されて下さるならば、ありがたう存じませう。
▲恵「さあらば、追つ付け、威徳を語らう。よう聞け。
▲アト「畏つてござる。
▲恵「《語》そもそも夷三郎といつぱ、伊弉諾・伊弉冉(いざなぎ・いざなみ)の尊(みこと)、天(あま)の岩倉の苔筵(こけむしろ)にて、男女夫婦の語らひをなし、日神(にちじん)・月神(ぐわつじん)・蛭児(ひるこ)・素盞(すさのを)の尊を儲け給ふ。蛭児(ひるこ)とは、某が事。天照太神(てんせうだいじん)より三番目の弟なるによつて、西の宮の夷三郎と崇(あが)められ、氏素性、誰にか劣り申すべき。貧なる者には福を与へ、富貴万福に栄えさするも、皆、某が守る故なり。なんぼう奇特なる子細にてはなきか。
▲アト「これは、ありがたい御系図を承つてござる。乃ち、大黒天へも願ひまする。
▲シテ「某は、さぶ殿の系図には劣らうずれども、追つ付け、語らうぞ。
▲アト「それは、ありがたう存じまする。
▲シテ「《語》そもそも、比叡山延暦寺は、伝教大師、桓武天皇と御心を一つにして、延暦年中に開闢し給ふ。されば、一念三千の機を以て、三千人の衆徒を置き、仏法、今に繁昌なり。その時、伝教大師、三千人を守らん天夫(てんぷ)をと、祈誓し給ふ。その時、この大黒、出現す。伝教のたまはく、いや、大黒は、一日に千人をこそ扶持し給へ。この山には、三千の衆徒あれば、それを守らん天夫をこそ、安置あるべけれと、ありしかば、その時この大黒天、大きに怒りをなし、いで、さらば奇特を見せんとて、忽ち三面六臂と現ず{*1}。これこそ三面六臂の謂(いは)れなり。なんぼう奇特なる事にては、候はぬか。
▲アト「扨々、これもありがたい事でござる。いよいよ行く末、繁昌にお守りなされて下さりませ。
▲恵「さあらば、宝を与へて取らせうぞ。
▲シテ「某も、宝を与ようぞ。
▲アト「ありがたう存じまする。
▲恵「{*2}治まる御代のお肴に、
{舞ひ働き一段。太鼓打上。}
治まる御代のお肴に、夷は釣りを垂れんとて、鼠啼(ねずな)きをしつゝ棹を垂れ、めでたいを釣り上げたる、宝を和殿に取らせけり。
▲シテ「その時、大黒進み出で、
{夷の通り、舞ひ一段。太鼓打上。}
その時、大黒進み出て、打出の小槌を押つ取りのべて、大地を丁々と打つあとよりも、七珍万宝湧き出たる、数の宝を袋に入れて、汝にこそは取らせけり。
▲二人「いづれも劣らぬ夷・大黒、帰らんとせしが、又立帰り、猶も所の福殿とならむ、猶も所の福殿とならむと、この所にこそ収まりけれ。
{ヤ、エイヤイヤ、と、くわつし留めで、入るなり。}

校訂者注
 1:底本は、「現(あらは)す」。
 2:底本、ここ以降、全て傍点がある。

底本:『和泉流狂言大成 第一巻』(山脇和泉著 1916年刊 国会図書館D.C.

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夷大黒(ヱビスダイコク)(脇狂言)

▲アト「帰る嬉敷古郷に、帰る嬉敷古郷に、行て妻子に逢ふよ、是は河内の国交野の里に住居する者で御座る、某親に孝をつくすゆゑにや、次第に富貴の身と成て御座る、乍去猶も子孫繁昌にいたす様に比叡山三面六ツぴの大黒天に祈誓申して御座れば西の宮夷三郎殿へ参詣申せと。あらたに御夢想を蒙つて御座る、夫故直に西の宮に参詣申して御座れば、家の内に勧請申せと。乃ち三郎殿のお告で御座る、か様の難有事は御座らぬ、先急いで帰つて勧請致さふと存ずる、誠に信心有は徳有と申すが{*1}。日頃某が正直に致すに依て。か様の御利生も御座ると存じて、別て忝ない事で御座る、いや何かと申す内に私宅ぢや。か様の事は妻子にも知らさぬ事ぢや、先づ密にしめかざりをはり勧請致さうと存ずる。一段とよい、先様子を伺ふと存ずる{下り段二人出るなり一の松にて留る太鼓打上}▲シテ「大黒と大黒と夷は心あはせつゝ、多くの宝とり持て、衆生にいざやあたへん、衆生にいざやあたへん▲アト「是へ賑々とお出被成たは何方で御座る▲恵「是こそ西の宮にて契約したる夷三郎、是迄顕れ出で有ぞとよ{*2}▲シテ「是は比叡山三面六ツ臂の大黒天成が、汝があゆみをはこび信仰するゆへに、福をあたへんと思ひ。是迄出現して有ぞとよ▲アト「はあ有難ふ存じまする、迚もの事に家の内へ御来臨被成ませ、扨恐れ多う御座れ共。何卒御両所様の御威徳を。此家の内に仰残されて下さるならば有難ふ存じませう▲恵「さあらば追付威徳を語うよう聞け▲アト「畏つて御座る▲恵「《語》抑夷三郎といつぱ{*3}、いざなきいざなみの尊。あまのいはくらのこけむしろにて。男女夫婦のかたらいをなし、日神月神蛭児素盞の尊を儲け給ふ。ひることは某が事。天照太神より三番目の弟成に依つて、西の宮の夷三郎と崇られ、氏素性誰にかおとり申べき貧成者には福をあたへ富貴万福に栄えさするも皆某が守るゆへなり。なんぼう奇特成子細にてはなきか▲アト「是は有り難い御系図{*4}を承つて御座る、乃はち大黒天へも願ひまする、▲シテ「某はさぶ殿の系図{*5}にはおとらうづれ共。追付語らうぞ、▲アト「夫は有難う存じまする▲シテ「《語》抑比叡山延暦寺は伝教大師桓武天皇と御心を一つにして、延暦年中に開闢し給ふ。去ば{*6}一念三千の機を以て。三千人の衆徒を置き、仏法今に繁昌也、其時伝教大師三千人を守らん、天夫をと祈誓し給ふ。其時此大黒出現す、伝教の給はく。いや大黒は一日に千人をこそ扶持し給へ、此山には三千の衆徒あれば、夫を守らん天夫をこそ安置有べけれと有しかば、其時此大黒天大きにいかりをなし、いでさらば奇特を見せんとて忽ち。三面六つぴと現す、是こそ三面六ツぴの謂なり。なんぼう奇特成事にては候はぬか▲アト「扨々是も有難い事で御座る。いよいよ行末繁昌にお守り被成て下さりませ▲恵「さあらば宝をあたへてとらせうぞ▲シテ「某も宝をあたやふぞ▲アト「有難う存じまする▲恵「治る御代のお肴に{舞はたらき一段太鼓打上}治る御代のお肴に夷は釣をたれんとて、鼠啼をしつゝ棹をたれ、めでたいを釣上たる宝を和とのにとらせけり▲シテ「其時大黒すゝみ出{夷の通舞一段太鼓打上}其時大黒すゝみ出て、打出の小槌を押取のへて、大地を丁々と打つ跡よりも、七珍万宝わき出たる数の宝を袋に入て、汝にこそはとらせけり▲二人「いづれもおとらぬ夷大黒帰らんとせしが、又立帰り、猶も所の福殿とならむ猶も所の福殿とならむと。此所にこそ。おさまりけれ、ヤエイヤイヤ{トクワツシ留メテ入ル也}{*7}

校訂者注
 1:底本は、「申すか」。
 2:底本は、「有そとよ」。
 3:底本は、「夷三郎といつは」。
 4・5:底本は、「景図」。
 6:底本は、「去(され)は」。
 7:底本は、「ヤエイヤイヤトタソツン留メヲ入ル也」。

夷毘沙門(えびすびしやもん)(脇狂言)

▲アト「この辺りに住居致す、有徳な者でござる。某(それがし)、美人の独り娘を持つてござる。誰にはよるまい、氏素性気高うして、富貴にあらうずる者を、聟にとらせて下されいと、鞍馬の毘沙門天、西の宮の夷三郎殿へ、祈誓申してござれば、まづ、高札(かうさつ)を打てよと、御示現を蒙つてござる。急ぎ、高札を打たうと存ずる。
《一セイ》▲毘沙門「{*1}そもそもこれは、鞍馬の毘沙門とは、我が事なり。さる程に、辺り近い所に有徳な者があつて、美人の独り娘を持つて、誰にはよらず、氏素性(うぢすじやう)気高うして、富貴な者を聟にとらせてくれいと、某に祈誓する。まづ高札を打てよと、示現を下(おろ)いた。惣じて某程、氏素性気高うして、富貴な者はあるまい程に、参つて聟にならうと存ずる。
▲アト「表に案内がある。案内とは何方(どなた)でござる。
▲毘「高札の表について、鞍馬辺より聟の望(のぞみ)で参つです。
▲アト「鞍馬辺と仰らるゝは、もし、多門天にてばしござるか。
▲毘「まず、その様な者ぢや。
▲アト「さてさて、これまでの御来臨、ありがたう存じまする。まづ、奥へ御移座(ごいざ)なされませ。
《一セイ》▲シテ「{*2}そもそもこれは、西の宮の夷三郎殿にて、おりやらします。こゝに有徳な者、美人の独り娘を持つ。氏素性気高く、福寿そなはりたる聟をとらせてくれいと、我に祈る。まづ高札を打ていと、示現を下(おろ)いた。およそ、某程の福人はあるまいによつて、参つて聟にならうと存ずる。誠に、舅は仕合者(しあはせもの)ぢや。某が聟になつてござらば、その身の事は云ふに及ばず、隣郷までも富貴する事は、うたがひもない事ぢや。何かと云ふ内に、これぢや。さればこそ、これに高札がある。扨も扨も、黒々に書いた。まづ、これは某が引くです。西の宮より聟の望で参つた。
▲アト「さう仰らるゝは、もし、夷三郎殿でばしござるか。
▲シテ「遅い推、遅い推。夷三郎、これまで出現してあるぞ。
▲アト「これまでのお出、ありがたうござる。さりながら、最前、鞍馬の毘沙門天、先に聟の望で、お出なされてござる。
▲シテ「何、毘沙門が来た。あれは、仏体を得た者ぢや程に、聟の望というては、来まい事ぢやが。
▲毘「舅々。
▲アト「はあ。
▲毘「表に聟せんさくのあるは、何事ぢや。
▲アト「西の宮の夷三郎殿のお出でござる。
▲毘「何じや、西の宮のさぶが来た。
▲アト「早、これへお通りなされてござる。
▲毘「やいやい、それへ来たは、西の宮のさぶかいやい。
▲シテ「さう云ふは、鞍馬の毘沙か。
▲毘「舅々、あのさぶが此所(こゝ)へ来たを、急度推量した。
▲アト「何と御推量なされてござる。
▲毘「某が聟入をする事が、西の宮の果(はて)まで隠れがなうて、定めて、生肴が大分いらうと思うて、魚を商売に来た者であらう。
▲シテ「舅々、あの毘沙の此所(こゝ)へ来たを、夷三郎が急度推量した。
▲アト「何と御推量なされてござる。
▲シテ「この度、某の聟入が、鞍馬の山のづゝとの奥まで、隠れがなうて、定めて、生肴が大分散りばはうによつて、虫をおこさせてはなるまいと思うて、山椒の皮を売りに来たと存ずるよ。
▲アト「互ひの御雑言はお止めなされて、とかく、何(いづ)れなりとも、御威光めでたい富貴なお方を、聟に定めたうござる。
▲毘「舅々、これはよい所をおしやつた。惣じて、我と我が事は、云ひにくい。さぶが身の上を、語つて聞せう。
《語》それ、多門といつぱ、四王寺(わうじ)の主(しゆ)として、須弥(しゆみ)の衆生を守り、貧なる者に福を与へ、富貴万福に栄えさするも、偏(ひとへ)に、この多門が守る故なり。さるによつて、年の初めの初寅と祝はれ、威光を顕はす。又、あのさぶが身の上を語つて聞せう。神と言はれば、いかなる森林にも住まずして、市の中に住んで、草鞋(わらんず)履き物に踏み越えられ、たまたま思ひてせんとては、小船に取り乗り、沖の方へ出、穂すべの先にて造酒を呑み、絹の立つはつし、布の立つはつし、着たる分に、衆生済度はなるまいぞ。
▲シテ「それこそ、衆生済度の為なれいで。某が身の上を、語つて聞かせう。
《語》伊弉諾・伊弉冉の尊、天(あま)の岩倉の苔むしろにて、男女夫婦の語らひをなし、日神(にちじん)・月神(げつじん)・蛭子(ひるこ)・素戔嗚(すさのを)の尊を儲け給ふ。蛭子とは、某が御事。天照太神(てんせうだいじん)より三番目の弟なるによつて、西の宮の夷三郎殿と祝はれ、氏素性、誰にか劣り申すべき。又、あの毘沙は、仏とならば、人間近き所に住みもせで、鞍馬のづゝとの山の奥に住んで、敵も持たぬ詰要鎮、この先以て無用なり。その上、あの毘沙には、主(しう)があるぞとよ。
▲毘「主があらう事は。
▲シテ「増長広目多門持国と云ふ時は、大仏は、汝が為に主ではないか。
▲毘「主でない。
▲シテ「いや主ぢや。
▲毘「突かうぞよ。
▲シテ「釣らうぞよ。
▲アト「{*3}いかにやいかにや、聞き給へ。誠の聟に成りたくば、宝を我にたび給へ。
▲毘「いでいで宝を与へんとて、
{舞働一段。太鼓打上。}
▲毘「いでいで宝を与へんとて、悪魔降伏、災難を払ふ、鉾を舅にとらせけり。
▲シテ「和殿におれも劣るまじ
{舞一段。太鼓打上。}
▲シテ「和殿におれも劣るまじとて、造り冥加、商ひ冥加、万の幸ひあらする釣針を、魚ながらこそは、とらせけれ。
▲毘「猶も舅に欲しがりて、甲を脱いで、舅にとらせ、
▲シテ「烏帽子を脱いで、舅にとらせ、
▲二人「何れも劣らぬ福殿なれば、何れも劣らぬ福殿なれば、この所にこそ納まりけれ。ヤ、エイヤイヤ。
{と、両人、くわつし留めで、入るなり。}

校訂者注
 1:底本、「そもそもこれは、鞍馬の毘沙門とは、我が事なり」に、傍点がある。
 2:底本、「そもそもこれは、西の宮の夷三郎殿にて、おりやらします」に、傍点がある。
 3:底本、ここ以降、全て傍点がある。

底本:『和泉流狂言大成 第一巻』(山脇和泉著 1916年刊 国会図書館D.C.

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夷毘沙門(ヱビスビシヤモン)(脇狂言)

▲アト「此辺りに住居致す有徳な者で御座る、某美人の独り娘を持て御座る、誰にはよるまい、氏素性気高うして。富貴に有うずる者{*1}を聟にとらせて下されいと、鞍馬の毘沙門天西の宮の夷三郎殿へ祈誓申して御座れば、先高札をうてよと御示現を蒙つて御座る、急ぎ高札をうたうと存ずる▲毘沙門「《一セイ》抑是は鞍馬の毘沙門とは我事也、去程に辺り近い所に有徳な者が有て、美人の独り娘を持て。誰にはよらず{*2}氏素性気高うして。富貴な者を聟にとらせて呉いと。某に祈誓する先高札をうてよと示現をおろいた、惣て某程氏すじやうけ高ふして。富貴な者は有まい程に。参つて聟に成うと存ずる▲アト「表に案内が有る、案内とは何方で御座る▲毘「高札の表に就鞍馬辺より聟の望で参つです{*3}▲アト「鞍馬辺と仰らるゝは若多門天にてばし御ざるか▲毘「先其様な物ぢや▲アト「扨て扨て是迄の御来臨難有う存じまする、先奥へ御移座被成ませ▲シテ「《一セイ》抑是は、西の宮の夷三郎殿にて。おりやらします、爰に有徳な者。美人の独り娘をもつ。氏素性気高く、福寿そなはりたる聟をとらせてくれいと我に祈る、先高札を打ていと示現をおろいた、凡そ某程の福人は有まいに依つて。参つて聟に成うと存ずる、誠に舅は仕合者ぢや、某が聟に成て御座らば、其身の事は云ふに及ばず、隣郷迄も富貴する事はうたがひもない事ぢや、何かと云ふ内に是ぢや、去ばこそ{*4}是に高札が有る、扨も扨も黒黒に書た、先是は某が引です{*5}西の宮より聟の望で参つた▲アト「さう仰らるゝはもし夷三郎殿でばし御座る{*6}▲シテ「おそい推おそい推夷三郎是迄出現して有るぞ▲アト「是迄のお出有難う御座る、乍去最前鞍馬の毘沙門天先に聟の望でお出被成て御ざる▲シテ「何毘沙門が来た、あれは仏体を得た者ぢや程に。聟の望といふてはこまい事ぢやが▲毘「舅々▲アト「はあ▲毘「表に聟せんさくの有るは何事ぢや▲アト「西の宮の夷三郎殿のお出で御ざる▲毘「何じや西の宮のさぶが来た▲アト「早是へお通り被成て御座る▲毘「やいやい、夫へ来たは西の宮のさぶかいやい、▲シテ「さう云ふは鞍馬の毘沙か▲毘「舅々あのさぶが此所へ来たを急度推量した▲アト「何と御推量被成て御座る▲毘「某が聟入をする事が。西の宮の果迄隠れがなうて。定めて生肴が大分いらうと思ふて魚を商売にきた者で有う{*7}▲シテ「舅々あの毘沙の此所へ来たを夷三郎が急度推量した▲アト「何と御推量被成て御座る▲シテ「此度某の聟入が鞍馬の山のつゝとの奥迄隠れがなうて定めて生肴が大分散ばおふに依て、虫をおこさせては成まいと思ふて、山桝の皮を売りに来たと存ずるよ▲アト「たがひの御雑言はお止め被成て、とかく何れ成共御威光目出たい、富貴なお方を聟に定めたう御座る▲毘「舅々是はよい所をおしやつた、惣て我と我が事は云にくい。さぶが身の上を語つて聞せう「《語》夫多門といつは四王寺の主としてしゆみの衆生を守り、貧成者に福をあたへ富貴万福に栄えさするも、偏に此多門が守る故也。去るによつて年の初めの初寅と祝はれ威光を顕はす、又あのさぶが身の上を語つて聞せう、神といはれば。いか成る森林にも住ずして、市の中にすんでわらんずはき物にふみこへられ、たまたま思ひてせんとては小船に取乗沖の方へ出穂すべの先にて造酒を呑絹の立はつし、布の立はつし着たる分に衆生済度は成るまいぞ▲シテ「夫社衆生さいとの為なれいで某が身の上を語て聞かせう《語》伊弉諾伊弉冉{*8}の尊天まの岩倉の苔むしろにて、男女夫婦のかたらいをなし、日神月神ひるこすさのをの尊{*9}をもうけ給ふ、蛭子とは某が御事天照太神より三番目の弟成るに依て、西の宮の夷三郎殿と祝はれ、氏素性誰にかおとり申すべき。又あの毘沙は仏とならば人間近き所に住もせで。鞍馬のづゝとの山の奥に住んで{*10}。敵も持たぬ詰要鎮、是先以て無用成、其上あの毘沙には主か有ぞとよ{*11}▲毘「主が有う事は{*12}▲シテ「増長広目多門持国と云ふ時は大仏は汝が為に主ではないか{*13}▲毘「主でない▲シテ「いや主ぢや▲毘「突うぞよ{*14}▲シテ「釣うぞよ{*15}▲アト「いかにやいかにや聞給へ。誠の聟に成たくば。宝を我にたび給へ▲毘「いでいで宝をあたへんとて{舞働一段太鼓打上}▲毘「いでいでたからをあたへんとて。悪魔かうぶく災難をはらう鉾を舅にとらせけり▲シテ「和殿におれもおとるまじ{舞一段太鼓打上}▲シテ「わとのにおれもおとるまじとて造り冥加商ひ冥加、万の幸ひあらする釣針を魚ながらこそはとらせけれ▲毘「猶も舅にほしがりて、甲をぬいで{*16}しうとにとらせ▲二人「烏帽子をぬいで{*17}舅にとらせ▲二人「何れもおとらぬ福殿なれば、いづれもおとらぬ福殿なれば此所にこそ納りけれヤエイヤイヤ{ト両人くわつしとめて入なり}

校訂者注
 1:底本は、「有うする者」。
 2:底本は、「誰にはよらす」。
 3:底本は、「参つてす」。
 4:底本は、「去(され)はこそ」。
 5:底本は、「▲シテ「西の宮より」。
 6:底本は、「夷三郎殿てばし御座る」。
 7:底本は、「者て有う」。
 8:底本は、「伊弉伊弉冉(いさなぎいさたみ)」。
 9:底本は、「そさなうの尊」。
 10:底本は、「つくとの山の奥に」。
 11:底本は、「主(しう)か有(あり)そとよ」。
 12:底本は、「主(しゆ)か有(あら)う事は」。
 13:底本は、「主(しう)しはないか」。
 14:底本は、「突(つき)うそよ」。
 15:底本は、「釣(つり)うそよ」。
 16:底本は、「甲をぬいて」。
 17:底本は、「烏帽子をぬいて」。

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