江戸期版本を読む

当コンテンツは、以下の出版物の草稿です。『翻刻『道歌心の策』』『翻刻・現代語訳『秋の初風』』『翻刻 谷千生著『言葉能組立』』『津の寺子屋「修天爵書堂」と山名信之介』『津の寺子屋「修天爵書堂」の復原』。御希望の方はコメント欄にその旨記して頂くか、サイト管理者(papakoman=^_^=yahoo.co.jp(=^_^=を@マークにかえてご送信ください))へご連絡下さい。なお、当サイトの校訂本文及び注釈等は全て著作物です。翻字自体は著作物には該当しませんが、ご利用される場合には、サイト管理者まご連絡下さい。

カテゴリ:狂言 > 芳賀矢一校「狂言五十番」(1926刊)

校訂 鷺流「狂言五十番」 目次

芳賀矢一「狂言五十番はしがき


凡  例

  1:底本は『狂言五十番』(芳賀矢一校。1926年冨山房刊 国会図書館デジタルコレクション)です。
  2:右肩に「*」のある作品は、『狂言記』(野村八良校 1925年刊)および『和泉流狂言大成』(山脇和泉著 1916~19年刊)にない作品です。
  3:校訂方針は、野村八良校『狂言記』の表記を基準とし、古文として読みやすくことを主眼に置き、古文文法および辞書に従って底本テキストを適宜修正しました。
  4:底本の旧漢字は現在通用の漢字に改めました。
  5:二字以上の繰り返し記号(踊り字)はテキストにないため文字化し、適宜読点を加えました。
  6:底本の登場人物は▲を付して示しました。
  7:読みやすさを考慮し、人物の交代、及び割注が挿入される毎に改行しました。
  8:底本の「強」「泣」「詞」「和歌」「次第」「節」などの注記は《 》で示しました。
  9:現在では差別的とされる表現も、底本を尊重し一切変更を加えていません。ご了承願いますとともに、取り扱いには十分ご留意願います。

狂言五十番はしがき

 我が国文学には、諧謔的方面は、概して尠(すくな)い。その最も古く、最も発達した形としては、狂言を推さなければならぬ。狂言の起源に遡(さかのぼ)つたならば、恐らくは、神代に帰着{*1}するだらう。天窟戸(あまのいはと)の舞楽を天鈿女命(あまのうずめのみこと)が奏された時、「爾(か)くありて、高天原(たかまがはら)動(とよ)みて、八百万の神、共に咲(わら)ひき。」とあるのを見ても、火闌命(ほのすそりのみこと)が、「是(こゝ)に、兄、犢鼻(たふさき)を著(つ)け、赭(あか)を以(も)ち掌(たなごゝろ)に塗り、面(かほ)に塗り、弟に告(まを)さく、『吾が汚なき身(からだ)、此(か)く如(あ)り。永く汝が俳優(わざをき)と為(な)りたまはめば。』と曰(まを)しき。乃ち、足を挙げ、踏み行なひ、その溺れ苦しみし状(さま)を学(まね)び。」とあるのを見ても、最初に発達した舞楽は、滑稽を主としたものであつたことが分かる。西洋の詩歌学者が、戯曲としては、滑稽的のものが最初に発達するといふのは、正に我が国の場合にも恰当(かふたう)する。それが、下つて中古の時代までも、猿楽といへば、常に滑稽の動作を主としたものであつた。鎌倉の末頃から、元劇の影響と時代の進歩に促されて、最初に田楽の能が発達し、次に猿楽の能が発達する様になり、猿楽の能は、悲劇的を主としたものとなつたが、昔からの猿楽の実質そのものは、決して消滅はしない。能楽の発達に伴つて、同じく整頓され、面目を改めて、今日の狂言の様なものと発達して来た。そうして、能に伴うて行はれる一種の滑稽劇となつて、能の悲哀・真面目なのと相対して、玩(もてあそ)ばれる様になつたのである。それ故、能の発達が義満将軍の頃から始まつて、豊太閤頃に大成したとすれば、狂言も、それと並行して、同時代の間に発達したものらしい。謡曲の作者がよく分からぬと同様、狂言の作者も、まづ分からぬとしておかねばならぬ。その分からぬことが、かへつて面白いのである。謡曲の方は、昔からの文学から材料を採り、古文句を補綴して文章を為(つく)つたので、技術詩の性質をもつて居るが、狂言は、古来の伝説や童話に基づいて、昔から国民に親密な滑稽を結び付けたので、いはゆる国民詩の性質を備へて居る。作者の詮索は、強(あなが)ちせぬでも良いのである。狂言の中の話は、今でも童話の様になつて、伝はつて居るものである。それは、狂言が本になつて、童話が出来たのでは無い。童話を本にして、狂言が出来たのだと、私は信ずるのである。それ故、太古以来の国民の滑稽・諧謔の趣味が、すべてこの狂言の上に発展されたものとして、非常に価値のあるもの、面白いものと信ずるのである。後世の滑稽文学との関係も又、忽(ゆるが)せにしてはならぬ。徳川の世に出来た落(おと)し噺や、「七偏人」「八笑人」「膝栗毛」などの類、皆、その淵源を狂言に{*2}
ある。一例を挙げていへば、本書に収めた「とぶかつちり」の如きは、「膝栗毛」の中にも取られて居る。しかし、さすがに上流の間に行はれただけ、後世の滑稽の様な卑猥なものはない。足利の世は、概していへば、国民文学の種々な萌芽の生じた時代である。歴史の上では、戦国争乱の最中で、生民塗炭に苦しんだ時代として知られて居るが、連歌の方面でも、俳諧などの発達もある。又、お伽草紙の発達もある。それらと相並んで、狂言も、この時代の重要な産物の一つであつた。狂言の主人公は、シテ、即ち「為手(して)」の義である。ワキは「脇」で、シテの相手になる人物。これは、能にもある。その外に、アド。これも、脇と同様、シテの相手となる客である。シテに取られた人物は、大名・山伏・僧侶の類から、鬼・閻魔などまである。多くは、主人公の無学なこと、無風流なこと、無作法なこと、弱みそなこと、臆病なこと、忘れつぽいこと、気のきかぬこと、等を材料として、滑稽を巧んだもので、偶然の行き違ひから、滑稽な結果の生ずる場合は、あまりない。謡曲の方では、僧侶も、山伏も、霊験のある立派なものが多いが、狂言では、全くの売僧(まいす)坊主、えせ山伏ばかり。古英雄の偉いのに引き較べて、大名・太郎冠者のふがひない有り様。これが、謡曲と相対して、一日の歓を尽くさせたのである。曲の性質から、成立の順序やらによつて分類すれば、面白いが、今は、それは省いた。能に諸流のある様に、狂言にも、大蔵・鷺・和泉の三流があつて、演ずる狂言の数にも違ひがあり、言葉にも異同がある。狂言のこれまで版になつて居るものには、『狂言記』といふのがあつて、続・拾遺を合はせて十五巻、百五十番ある。これは、幸田露伴氏の校訂本で、世に行はれて居る。尚、三流を通じて異つた物を集めたならば、少くとも二百五十番内外はあらう。
 終りに、この本には、世に特に多く、流布しない鷺流のものを採つて、題名を「狂言五十番」としたが、頁数が意外にかさんで、その中、数番を割愛するのやむなきに至つたことである。ひとへに、読者諸君の御諒恕を乞ふ次第である。

   大正十五年十一月上旬
校訂者しるす


校訂者注
 1:底本は「起着」。
 2:底本画像に難があり、約23字分判読不能。

連歌毘沙門(れんがびしやもん)

▲アド「これは、この辺(あた)りに住居(すまひ)致す者でござる。今日(けふ)は初寅なれば、鞍馬へ参詣致さう。と存じて、罷り出でた。まづ、急いで参らう。それに付いて、こゝに、分けて心安う話す仁(じん)がござるが、内々約束でござる程に、これを誘うて参らう。と存ずる。いや。行く程に、これぢや。物まう。案内まう。
▲次アド「表に物まう。とある。誰も出ぬかやい。物申とは、どなたでござるぞ。
▲アド「某(それがし)でござる。
▲次アド「えい。ようこそ出でさせられた。
▲アド「只今参るは、別の事でもござらぬ。今日(けふ)は、初寅なれば、鞍馬へ参詣致さう。と存ずるが、内々の御約束でござるに付いて、誘ひに寄りましてござる。参らせられますまいか。
▲次アド「はて扨、御失念もなう誘はせられて、満足致してござる。何が扨、御供致しませう。
▲アド「で、ござるか。
▲次アド「中々。
▲アド「それならば、いざ、ござつて。
▲次アド「まづ、こなたからござれ。
▲アド「それならば、参らう。さあさあ、ござれ、ござれ。
▲次アド「心得ました。
▲アド「何と思し召すぞ。鞍馬を信仰致いてよりこの方、何事も富貴富貴と、吹き付ける様に仕合せがある。と存ずるが、こなたには、その思し召し当たりはござらぬか。
▲次アド「仰せらるゝ通り、毘沙門天を信仰致す故に、思ひの儘にござれば、いよいよ信心がいや増しまする。
▲アド「いや、程なう参り着いてござる。
▲次アド「誠に、御前(おんまへ)でござる。
▲アド「いざ、拝みませう。
▲次アド「ようござらう。
▲アド「南無多門天王、福徳自在に守らせ給へ。
▲次アド「諸願成就、皆令(かいりやう)満足なさしめ給へ。
▲アド「何と思し召すぞ。いつ参つても、しんしんと致いた宮立ちではござらぬか。
▲次アド「仰せらるゝ通り、神さびて、殊勝な事でござる。
▲アド「さらば、今夜はこれに、通夜を致しませう。
▲次アド「ようござらう。
▲アド「はあ、はあ、はあ。扨も、ありがたい事かな。や。多聞天王より、御福(おんふく)を授けさせられた。扨も扨も、ありがたい事かな。
▲次アド「あゝ、申し申し。なぜに、その方ばかりとらせらるゝ。こちへもおこさせられい。
▲アド「いや。某に下された物を、こなたへ遣らう仔細がござらぬ。
▲次アド「それは、こなたの言ひ訳がすみませぬ。両人の中へ下された物を、こなた一人(ひとり)してとらせらるゝ筈はござるまい。その上、毎年(まいねん)相変らず、こなたと同道致いて参詣申すに、二人の間へ与へさせられた御福を、いかにしても、一人(ひとり)で取られは致されまいぞ。
▲アド「まこと、仰せらるれば、さうぢや。両人の中へ、名ざしもなう下されたを、身共へ与へさせられたと限つた。と申す事もござるまい程に、その儀ならば、この下された梨について、当座を致いて、どうなりとも句がらの出来た者が、主(ぬし)にならう。と存ずるが、これは、何とござらうぞ。
▲次アド「これは、面白い批判でござる。まことに、歌の道には、鬼神までも納受ある。と申せば、いよいよ神慮に叶ふ様に当座を致いて、その上での事に致さう程に、急いで案じて見させられい。
▲アド「中々。どちなりとも、出勝(でが)ちに致しませう。
▲次アド「ようござらう。
▲アド「かうもござらうか。
▲次アド「殊の外、お早うござる。
▲アド「毘沙門の福ありの実と聞くからに。
▲次アド「これは、一段と面白うござる。
▲アド「さらば、脇をさせられい。
▲次アド「かうもござらうか。
▲アド「何とでござる。
▲次アド「闇(くら)まぎれにて蜈蚣(むかで)喰ふなり。
▲アド「これも、殊の外出来ましてござる。いざ、吟じて見ませう。
▲次アド「ようござらう。
▲アド「《強》{*1}毘沙門の福ありの実と聞くからに。
▲次アド「くらまぎれにて蜈蚣(むかで)喰ふなり。
▲アド「あら、不思議や。社壇が殊の外鳴りまする。
▲次アド「まことに、不思議な事でござる。
▲アド「まづ、これへ寄つて、様子を見ませう。
▲次アド「ようござらう。
▲シテ一セイ「《強》毘沙門の福ありの実と聞くからに、闇(くら)まぎれより歩み行き。
▲アド「これは、見慣れぬ御方の出でさせられた。言葉を掛けませう。
▲次アド「ようござらう。
▲アド「いかに申し。これは人間とも見えず、唐(から)びたる体(てい)にて御出現は。
▲二人「いか様なる御方にて候ふぞ。
▲シテ「当山より鉾(ほこ)を持ち、あらはれ出でたるを、いかなる者ぞ。と問ふ程、鈍では。
▲アド「扨は、毘沙門天にてばしござるか。
▲シテ「遅い推(すい)かな。
▲二人「はあ。ありがたう存じまする。まづ、かう御来臨なされませい。
▲アド「扨、只今は、何のための御出現でござりまする。
▲シテ「これへ出現するは、別の事でもない。最前、両人の中へ福を与へたれば、それを汝等が論ずるによつて、配分をしてとらせん。と思ひ、これまで出現してあるぞとよ。
▲アド「扨も扨も、これは神慮に叶ひ、ありがたい事でござりまする。その儀ならば、良い様に配分なされて下されませい。
▲シテ「まづ、ありの実をこちヘおこせい。
▲アド「畏つてござる。
▲シテ「扨、これをば何で割らうぞ。
▲アド「何がようござりませうぞ。
▲シテ「両人の内に、刃物は持たぬか。
▲アド「折節、刃物は持ち合(あは)せませぬ。
▲シテ「それならば、この鉾で割らう。但し、錆びようか。
▲次アド{*2}「されば、何とござりませうか。
▲シテ「いやいや、苦しうない。割つてとらせう。いでいで、ありの実割らんとて、いでいでありの実割らんとて、南蛮の鉾を柄(え)長くおつ取り延べて、梨の真ん中ざくり。はあ。二つになつたわ。
▲アド「まこと、二つになりましてござる。
▲シテ「さあさあ、汝から取れ。
▲アド「畏つてござる。
▲シテ「汝も取れ。
▲次アド「ありがたう存じまする。
▲シテ「扨、最前、汝等が高声(かうしやう)に云うたは、何であつたぞ。
▲アド「その御事でござる。梨につきまして、及ばずながら連歌を致しましてござる。
▲シテ「はて扨、汝等は、しほらしい者どもぢや。その連歌が、今一度聞きたいよ。
▲二人「何が扨、申し上げませう。
▲シテ「扨々、今の連歌はいかに。
▲二人「毘沙門の福ありの実と聞くからに、くらまぎれにて蜈蚣(むかで)喰ふなり{*3}。
▲シテ「毘沙門、連歌の面白さに、毘沙門、連歌の面白さに、悪魔降伏、災難を払ふ鉾を汝に取らせけり。
▲次アド「あらあら、けなりや、けなりやな。我にも福をたび給へ。
▲シテ「欲しがる事こそ道理なれ。と、忍辱(にんにく)の鎧に、兜を添へて取らせけり。これまでなり。とて毘沙門天は、これまでなり。とて毘沙門天は、この所にこそ納まりけれ。{*4}えいやいや。

校訂者注
 1:底本は「▲強「」。
 2:底本は「▲アド次「」。
 3:底本は「むかで喰ふ。」。
 4:底本は「▲シテ「えいやいや。」。

底本『狂言五十番』(芳賀矢一校 1926刊 国立国会図書館デジタルコレクション

前頁  目次  次頁

船頭聟(せんどうむこ)

▲シテ「これは、矢橋(やばせ)の渡し守でござる。最前は、松本へ越してござるが、又、戻り船もあらば、乗せて参らう。と存ずる。まづ、あれへ船を寄せて、待たう。と存ずる。えいえい。
▲聟「これは、都方(みやこがた)の者でござる。某(それがし)、矢橋に舅を持つてござるが、いまだ聟入りを致さぬ程に、今日(けふ)は、日柄もようござるによつて、参らう。と存じて、罷り出でた。まづ、そろりそろりと参らう。疾(と)うにも参りたうはござれども、我等如きのことなれば、渡世に隙(ひま){*1}を得いで、今まで延引致いてござる。この段は、参つて断りを申さう。と存ずる。いや、行く程に、大津松本ぢや。これから渡しに乗りませう。船はどれに居るぞ。いや、あれに居る。呼びませう。ほういほうい。なうなう、船頭殿、船頭殿。
▲シテ「やあやあ。こちの事か。
▲聟「申し申し。それは、矢橋への渡し船か。
▲シテ「申し申し。矢橋への戻り船よ。
▲聟「それは、幸ひぢや。乗らう程に、これへ船を寄せさしませ。
▲シテ「心得た。えいえいえい。さあさあ、乗らしませ。
▲聟「心得ておりやる。某は、急ぐ者ぢや程に、早う出いてくれさしませ。
▲シテ「心得ておりやる。今一両人乗せたいものぢや。
▲聟「なうなう。早う出いてくれさしませ。
▲シテ「心得た。せめて今一両人乗せたいが。いや、あれへ見ゆる。おゝいおゝい。矢橋への出船がござる。早うござれ、ござれ。
▲聟「これこれ、今も云ふ通り、急ぐ者ぢや程に、早う出(だ)いてたもれ。
▲シテ「いや、なう。いかに急ぐと仰(お)しやればとて、この大事の渡りが、一人(ひとり)や二人で出さるゝものではない。もそつと待たしませ。
▲聟「いや、これこれ。我御料(わごれう)の骨折りは、無にせまい程に、早う出いてくれさしませ。
▲シテ「やあやあ。骨折りは、無にせまい。
▲聟「中々。
▲シテ「それならば、船を出しておまさう。えいえいえい。さて、そなたは、この寒空に、いづくからいづ方へ行かします。
▲聟「都方の者ぢやが、矢橋へ所用あつて参るよ。
▲シテ「それは、遥々(はるばる)と大儀にござる。さて、例年の事とは云ひながら、当時ほど冷ゆる事はござらぬが、都では何とも取り沙汰はござらぬか。
▲聟「仰(お)しやる通り、いつもよりは冷えが強いとあつて、都でも、その風聞でおりやる。
▲シテ「その筈でござる。あれ、あの比良の山、伊吹が嶽の雪を見さしませ。冷ゆるは尤でおりやる。
▲聟「まこと、夥(おびたゞ)しい雪でおりやる。
▲シテ「いや、なう。その前なは、良いものでおりやる。
▲聟「これは、よそへ進上に持つて行くよ。
▲シテ「某も、さう見受けておりやる。さて、何とも云ひかねてござるが、その酒を一杯振舞ふ事はなるまいか。
▲聟「まこと、某も呑うだり、そなたへも振舞ひたいものなれども、今申す通り、先へ進上に持つて行く程に、振舞ふ事はなるまいよ。
▲シテ「仰(お)しやるは尤なれども、あの日枝(ひえ)の山嵐が烈しうて、別して寒(かん)じて、艪も押されぬ程に、平(ひら)に一杯呑まさしませ。
▲聟「そなたは、聞き分けもない事を云はします。進上にするものを、何と、路次であらさるゝものぢや。これは、思ひきらしませ。
▲シテ「あゝ、我御料(わごれう)は、律義な事を云ふ人ぢや。一つやなど、振舞はしましたと云うて、何の知れうぞ。手が凍えて、艪が押されぬ程に、平(ひら)に一つ呑まさしませ。
▲聟「まだ、くどい事を仰(お)しやる。何程云うても、ならぬ。と云へば。
▲シテ「さては、これ程に云うても、しかとならぬか。
▲聟「いかないかな。ならぬよ。
▲シテ「それは、まことか。
▲聟「まことぢや。
▲シテ「真実か。
▲聟「真実ぢや。
▲シテ「一定(いちゞやう)か。
▲聟「一定(いちゞやう)ぢや。
▲シテ「あゝ、是非がない。手が凍えて、艪を押されてこそ。おゝ、寒やの、寒やの。
▲聟「こりやこりや。何とするぞ。船が流るゝわ。早う止めておくりやれ。止めておくりやれ。
▲シテ「船は流れうと、山へ上らうと、儘よ。手が凍えて、艪が持たれてこそ。寒やの、寒やの。
▲聟「これこれ。酒を振舞ふ程に、早う船を止めてたもれ。
▲シテ「いやいや、進上に召さるゝ酒を、呑まう。といふは、僻事(ひがごと)ぢや。呑まう事ではおりない。
▲聟「さう云はずとも、まづ船を止めて、一杯呑うで、温(あたゝ)まつて漕がしませ。
▲シテ「で、おりやるか。
▲聟「中々。
▲シテ「それほどに仰(お)しやるものを、船を止めいで何とせう。何と、止めたでおりやらう。
▲聟「げに、止まつておりやる。さて、盃があるか。
▲シテ「されば、何も盃はないが。いや、こゝに、良いものがある。これへ注(つ)がしませ。
▲聟「それは、何でおりやる。
▲シテ「これは、船の垢をかゆる、柄杓でおりやる。
▲聟「はてさて、夥しいものでおりやる。一つならで、ならぬぞ。
▲シテ「まづ、注がしませ。
▲聟「どぶどぶどぶ。
▲シテ「おゝ、一つおりやる。あゝ、良い気味でおりやる。も一つ注がしませ。
▲聟「いや、一つならでは、ならぬと云うたに。もはや、いらぬものにさしませ。
▲シテ「はてさて、一つ振舞うたも、二つ振舞うたも、同じ事ぢや程に、も一つ振舞はしませ。
▲聟「それならば、半杯ならではならぬぞや。
▲シテ「さう云はずとも、まづ注がしませ。
▲聟「どぶどぶどぶどぶ。もはや、それで堪忍さしませ。
▲シテ「扨も扨も、良い気味ぢや。も一つ注がしませ。
▲聟「はてさて、しつこい人ぢや。もはや、ならぬよ。
▲シテ「さう仰(お)しやらずとも、平(ひら)に、も一つ注がしませ。
▲聟「それならば、今度は少しならではならぬぞ。
▲シテ「その様なことを仰(お)しやらずとも、平(ひら)に注がしませ。
▲聟「どぶどぶどぶ。もはや、軽うなつた。
▲シテ「扨も扨も、良い酒ぢや。爪の先まで温(あたゝ)まつておりやる。この勢ひにひと精出したらば、矢橋へは、忽ち漕ぎ着けうぞ。
▲聟「早う出いてくれさしませ。
▲シテ「えいえいえい。何と、船の足が早うなつたでおりやらう。
▲聟「まことに、早うなつておりやる。
▲シテ「ちと、謡ひませう。山田矢橋の渡し舟の、夜は通ふ人なくとも、月の誘はゞおのづから、船も漕がれて出づるらん。{*2}いや、船が着いた。上がらしませ。
▲聟「心得ておりやる。
▲シテ「又、戻りにも、某の船に乗らしませ。
▲聟「中々。乗せておくりやれ。
▲二人「さらば、さらば。
▲聟「扨も扨も、思ひの外の事で、手間を取つてござる。急いで参らう。と存ずる。さて、舅の方(かた)は、この辺で、柴垣とやら、葭垣(あしがき)とやらがある。と聞いたが。さればこそ、これさうな。まづ、案内を乞はう。物まう。{*3}案内まう。
▲女「表に、聞き馴れぬ声で、物まう。とあるが。案内とは、どなたでござるぞ。いや、これは、見馴れぬお方でござるが、何方(いづかた)から出でさせられてござるぞ。
▲聟「私は、都方の者でござるが、誰殿の宿は、これでござるか。
▲女「中々。これでござる。さては、こなたは聟殿でござるか。
▲聟「中々。聟でござる。
▲女「内々、待ちましたに、ようこそござつたれ。まづ、かう通らせられい。
▲聟「心得ました。これは、今日(けふ)の祝儀に、持参致してござる。
▲女「これには及びませぬものを。さりながら、幾久しう申し受けておきませう。何と、おごうは、息才で居りまするか。
▲聟「随分達者でござる。
▲女「それは、嬉しうこそござれ。
▲聟「舅殿に、お目にかゝりませう。
▲女「舅は近所へ出られてござる。追つ付け帰られませう程に、ちと、それに待たせられい。
▲聟「心得てござる。
▲女「これのは、何をして居らるゝぞ。
▲シテ「思ひの外、手間取つてござる。急いで宿へ罷り帰らう。と存ずる。いや、女共。何として、これへおりやつたぞ。
▲女「こなたには、今まで何をしてござつたぞ。
▲シテ「何をして居るものぢや。矢橋への戻り船を越して居たによつて、それ故、手間取つておりやる。
▲女「それなれば、尤でござる。都より、聟殿の参られてござる。
▲シテ「やあやあ、聟がわせた。
▲女「中々。
▲シテ「なうなう、嬉しや。内々、待ちかねて居たところぢや。急いで会はう。
▲女「早う会はせられませい。
▲シテ「どれどれ、出て会ひませう。
▲女「申し申し、舅、戻られてござる。申し申し、こなたには、なぜに会はせられぬぞ。
▲シテ「あれが、聟でおりやるか。
▲女「中々。聟殿でござる。早う出て会はせられませい。
▲シテ「あれが聟ならば、某は会はれぬ程に、そなた、良い様に云うて、戻さしませ。
▲女「はてさて、都から遥々(はるばる)わせた聟殿に、なぜに会はせられぬぞ。さあさあ、早うあれへござつて、会はせられい。
▲シテ「いやいや、某は、会ふ事はならぬ。早う帰さしませ。
▲女「はてさて、こなたには、異な事を云はせらるゝ。会はれぬとは、いか様(やう)な事でござるぞ。早う云うて聞かさせられいの、聞かさせられいの。
▲シテ「それならば、云ひもせうが。あの聟は、樽など持参せなんだか。
▲女「中々。樽を持つてわせてござる。
▲シテ「それならば、いよいよ会ふ事はならぬよ。
▲女「それは猶々、心元なうござる。さあさあ、早う訳を仰せられい、訳を仰せられい。
▲シテ「そなたにも、恥づかしうて云はれぬ事でおりやる。
▲女「いやいや、是非ともに、聞かねばなりませぬ。早う云はせられい、云はせられい。
▲シテ「それ程に仰(お)しやらば、云うて聞かせう{*4}。最前、この者を、松本より矢橋まで乗せたところに、あまり冷えて手が凍ゆるにより、聟とは知らいで、あの酒を所望して呑うだによつて、会はれぬ。との云ひ事でおりやる。
▲女「はてさて、こなたには、さもしい。その様な事がござらうかいの。さりながら、船中の事なれば、見知りもござるまい程に、出て会はせられい。
▲シテ「いやいや、呑ませまい。と云うたを、一つ二つ、口論をして呑うだによつて、中々見忘れはあるまい。良い様に云うて帰さしませ。
▲女「はてさて、苦々しい。こなたにも、嗜ませられい。いかに寒いとて、その様なさもしい事をなさるゝといふ事が、あるものでござるか。又、わざわざ、遥々(はるばる)とわせたものを、只帰さるゝものでござらうか。何とぞ分別をして、会はせられい。
▲シテ「されば、何として会はうぞ。我御料(わごれう)、良い様に思案をしてくれさしませ。
▲女「何と致しませうぞ。いや、申し。良い事を思ひ出してござる。総じて人は、髪が生ゆれば年が寄つて見ゆるものでござる程に、その髪を剃つて、頭巾を脱いで出させたらば、よもや見知りもござるまい程に、さうさせられい。
▲シテ「これは、一段と良い分別ぢや。それならば、髪を剃つてたもれ。
▲女「心得ました。これへござれ。
▲シテ「心得た。何と、良いか。
▲女「申し申し。髪を剃らせられたれば、殊の外、若やがせられた。
▲シテ「それは、嬉しうおりやる。急いで会はう。
▲女「申し申し、聟殿。舅、戻られましてござる。
▲シテ「聟殿、内々待ち受けましたに、ようこそ出させられた。
▲聟「早々参りませうを、かれこれ、隙(ひま)を得ませいで、今まで延引致いてござる。
▲女「これは、聟殿の御持参でござる。
▲シテ「これは、いらぬことを召されて、忝うござる。
▲聟「わざと、祝儀ばかりに持参致しましてござる。
▲シテ「女共、めでたう開いておくりやれ。
▲女「心得ました。盃を持ちましてござる。
▲シテ「今日(けふ)の事でござる程に、某から始めて進じませう。
▲聟「ようござらう。
▲シテ「慮外ながら、こなたへ進じませう。
▲聟「戴きまする。
▲シテ「一つ、参りませい。
▲聟「何が扨、一つ下されませう。扨、これを慮外ながら、こなたへ進じませう。
▲女「妾(わらは)が戴きませう。
▲聟「恰度(ちやうど)、参りませい。
▲女「一つ、下されませう。又、これを、聟殿へ進じませう。
▲聟「私の、戴きませう。
▲女「こなたにも、一つ、参りませい。
▲聟「何が扨、たべませいでは。扨、これを、慮外ながら、舅殿へ進じませう。
▲シテ「中々。これへ下されい。も一つ参りませぬか。
▲聟「もはや、下されますまい。
▲シテ「それならば、納めに致しませう。
▲聟「それが、ようござらう。申し、あれが舅殿でござるか。
▲女「中々。舅でござる。
▲聟「いやいや、あれは、舅殿ではござるまい。矢橋の船頭でござる。おのれ、又、これへ出でをつたか。
▲シテ「あゝ、これこれ。某は、舅ぢやが。そなたは何事を仰(お)しやるぞ。
▲聟「何事とは。汝は、又酒を呑まう。と思うて、うせをつたな。
▲シテ「あゝ、これこれ。聊爾を仰(お)しやるな。
▲女「申し申し、聟殿。何事を仰(お)しやる。あれは、舅殿でござるわいの。
▲聟「いやいや、こなたには、御存じござるまい。あれは、矢橋の船頭で、最前、船の中で酒を貪(むさぼ)つて呑うだが、又これへねだりに来たか。おのれ、只置く事ではないぞ。
▲シテ「あゝ、これこれ。はてさて、我御料(わごれう)は、聊爾な事を仰(お)しやる。矢橋の船頭は、某も知つて居る。ふつさりと髪があるが、これを見やれ。某には、髪がないよ。
▲聟「おのれに髪を剃つてうせをつて、憎い奴の。只置く事ではない。叩き倒(たふ)いてのけう。
▲シテ「これこれ、聊爾を召さるな。女共、取りさへてくれい。
▲女「申し申し、聟殿。何事をさしますぞ。
▲聟「何事とは。横着者め。逃す事ではないぞ。
▲シテ「許いてくれい、許いてくれい、許いてくれい。
▲聟「どちへ行くぞ。人はないか。捕らへてくれい。やるまいぞ、やるまいぞ。

校訂者注
 1:底本は「隙(すき)」。
 2・3:底本、ここに「▲聟「」がある。
 4:底本は「云うて聞  う」。

底本『狂言五十番』(芳賀矢一校 1926刊 国立国会図書館デジタルコレクション

前頁  目次  次頁

萩大名(はぎだいみやう)

▲シテ「隠れもない大名です。召し使ふ者を呼び出(い)だいて、談合致す事がござる。太郎冠者、ゐるかやい。
▲太郎冠者「はあ。
▲シテ「あるか。
▲太郎冠者「御前に。
▲シテ「汝を呼び出すは、別の事でもない。この間は、何方(いづかた)へも行かねば、気が屈したによつて、今日(こんにち)は、いづ方へぞ遊山(ゆさん)に出よう。と思ふが、何とあらうぞ。
▲太郎冠者「内々、私の方(かた)より申し上げう。と存ずるところに仰せ出だされた。ちと、どれへぞお出なされたらば、良うござりませう。
▲シテ「いづ方へ行かうぞな。
▲太郎冠者「されば、いづ方が良うござりませうぞ。
▲シテ「とてもの事に、一日ゆるゆると慰む方へ行かう。と思ふ程に、汝、思い出(い)だいて見よ。
▲太郎冠者「一日ゆるゆると御見物なさるゝ所は、いづれが良うござりませうぞ。
▲シテ「やあら、どこが良からうぞ。
▲太郎冠者「いや、申し。どれこれと仰せられうよりも、宮城野を御見物なされませい。
▲シテ「宮城野とは、何の事ぢや。
▲太郎冠者「これより奥に、宮城野と申して、萩の名所がござるを、東山辺の仁(じん)が、庭前にこれを移いて、持つて居られまする程に、これを御目にかけませう。
▲シテ「それは良からうが、いつ行つても、見物は自由になるか。
▲太郎冠者「亭主と私とは別懇(べつこん)でござる程に、何時(なんどき)御出なされても、御見物は自由になりまする。
▲シテ「それは、一段の事ぢや。それならば、いざ行かう。さあさあ、来い来い。
▲太郎冠者「まづ、待たせられい。
▲シテ「何事ぢや。
▲太郎冠者「亭主が、御仁体(ごじんてい)と見受けますると、御当座を。と申して、歌を所望致しまするが、こなたには、歌を詠ぜられませうか。
▲シテ「歌とは、小唄の事か。
▲太郎冠者「いやいや。その様な、むさとした事ではござらぬ。三十一字(みそひともじ)の言の葉を連ぬる、歌の事でござる。
▲シテ「いやいや。その様な難しい事を詠む事は、なるまいよ。
▲太郎冠者「はあ。歌一首に詰まらせられて、これを御見物なされぬ。と申すは、お残り多い事ではござらぬか。
▲シテ「残り多いけれども、歌が詠まれぬによつて、是非に及ばぬ。いづ方へぞ、外へ行かう程に、外を思ひ出いて見よ。
▲太郎冠者「何とぞ致いて、御目にかけたいものでござるが。いや、思ひ出いた事がござる。これも、お若い衆の、宮城野を御見物なされう。とあつて、歌の下詠みをなされたを、私の覚えて居まする程に、これをこなたへ御相伝申して、何(いづ)れも様より先へ御出なされて、詠ぜられたならば、こなたのお歌になりませうが。これは、何とござりませうぞ。
▲シテ「これは、一段と良からう。して、その歌は、何といふ歌ぢや。
▲太郎冠者「七重八重、九重とこそ思ひしに、十重咲き出づる萩の花かな。と申す歌でござる。
▲シテ「まづは、面白さうな歌ぢや。して、それは、誰が詠む事ぢや。
▲太郎冠者「こなたの詠ぜらるゝのでござる。
▲シテ「某(それがし)一人(いちにん)で。
▲太郎冠者「はあ。又、幾人(いくにん)して詠むものでござる。
▲シテ「いかないかな。二日三日稽古しても、中々ひとりやなどで、詠む事はなるまいよ。
▲太郎冠者「詠ぜらるゝ事は、なりませぬか。
▲シテ「中々。
▲太郎冠者「それは、気の毒な事でござる。何と致いたならば、ようござらうぞ。いや、申し。物によそへては、詠ぜられませうか。
▲シテ「よそへ物によつて詠まうが、何によそふるぞ。
▲太郎冠者「私の御傍(おそば)で、慮外ながら、扇を遣ふ体(てい)を致いて、七重と申す時は、扇の骨を七本、御目にかけませう。
▲シテ「何ぢや。七重と云ふ時は、扇の骨を七本見せう。
▲太郎冠者「中々。八重と申す時は、八本。
▲シテ「八本。
▲太郎冠者「九重に、元より九本。
▲シテ「九本。
▲太郎冠者「十重咲きに、ぱらりと皆、御目にかけませう。
▲シテ「何ぢや。十重咲きに、ぱらり。
▲太郎冠者「中々。
▲シテ「ぱらり、ぱらり、ぱらり。おゝ、詠まうとも。
▲太郎冠者「萩は、詠ませられませうか。
▲シテ「何ぢや。萩。
▲太郎冠者「中々。
▲シテ「萩、萩、萩。まだ、萩を詠む事は、なるまいよ。
▲太郎冠者「これも、詠ぜらるゝ事は、なりませぬか。
▲シテ「中々。
▲太郎冠者「これは、何によそへたものでござらうぞ。申し。良い事がござりまする。私は、故殿様より召し使はれてござるが、何事も御気に参らぬ時は、あの臑脛(すねはぎ)の延びた奴が。など、御意なされてござる程に、萩と申す時は、慮外ながら、私の臑(すね)を御目にかけませう。
▲シテ「何ぢや。萩と云ふ時は、汝が臑(すね)を見せう。
▲太郎冠者「中々。
▲シテ「すね萩、はぎ臑。おゝ、詠まうとも。
▲太郎冠者「花かなは、詠ぜられませう。
▲シテ「花は、世上に多い物ぢやによつて、詠まいで何とするものぢや。
▲太郎冠者「それならば、ざつと済んでござる。いざ、お越しなされませい。
▲シテ「それならば、いざ、行かう。さあさあ、来い来い。
▲太郎冠者「畏つてござる。
▲シテ「やい。汝が才覚を以つて、宮城野を見物せう。と思へば、かやうの悦ばしい事はないよ。
▲太郎冠者「私も、ふと申し上げましたところに、御供致す様な、大慶な事はござりませぬ。
▲シテ「某は、不案内ぢや程に、行き着いたならば、知らせい。
▲太郎冠者「いや、参る程に、これでござる。御出の通りを、申しませう。それに、ちと待たせられい。
▲シテ「心得た。
▲太郎冠者「物まう、案内まう。
▲亭主「表に物まう。とある。案内とは誰(た)そ。物まうとは。
▲太郎冠者「私でござる。
▲亭主「えい、太郎冠者。ようこそおりやつたれ。
▲太郎冠者「この間は、お見舞ひも申しませぬが、変らせらるゝ事もござらぬか。
▲亭主「中々。変る事もない。今日(こんにち)は、何と思うておりやつたぞ。
▲太郎冠者「只今参るは、別の事でもござらぬ。こなたの御庭前の事を、頼うだ人の聞き及ばれまして、見物致したい。とあつて、これまで参られてござる程に、見せさせられて下されうならば、忝う存じまする。
▲亭主「尤、御目にかけたけれども、この間は不掃除なによつて、え御目にかける事はなるまいよ。
▲太郎冠者「いや、不掃除な分は、苦しうござらぬ。思ひ寄つて参られてござる程に、何とぞ見せて下されうならば、私までも大慶に存じまする。
▲亭主「それ程に仰(お)しやるならば、御目にかけう。かうお通りなされい。と仰(お)しやれ。
▲太郎冠者「心得てござる。
▲亭主「さらさらさら。
▲太郎冠者「申し、ござりまするか。
▲シテ「これに居るよ。
▲太郎冠者「御出の由(よし)を申してござれば、この間は殊の外不掃除にござるによつて、御目にかける事はなるまい。と申してござるを、不掃除ならば苦しうない。と申してござれば、かうお通りなされい。と申されまする。
▲シテ「それならば、通らうか。
▲太郎冠者「ようござりませう。
▲シテ「汝も続いて来い。
▲太郎冠者「畏つてござる。
▲シテ「やい、この柴垣の体(てい)を見よ。結(ゆ)ひ目のしほらしさ。殊に、この枝折戸(しをりど)は、良い取り合(あは)せぢやな。
▲太郎冠者「良い取り合(あは)せでござりまする。
▲シテ「さあさあ、来い来い。
▲太郎冠者「畏つてござる。
▲シテ「これは、見事な飛び石を、ひつしりと据ゑられたよ。
▲太郎冠者「左様でござりまする。
▲シテ「腰掛の付け所といひ、亭主は物数寄者(ものずきしや)と見えた。
▲太郎冠者「御亭主でござる。
▲シテ「不案内におりやる。
▲亭主「初対面にござる。
▲シテ「ふと参つて、庭を所望致すところに、見せておくりやつて、過分に存ずる。
▲亭主「見苦しい所へ御腰をかけられて、忝うござる。
▲シテ「とてもの事に、一日ゆるゆると見物したいが、床机をお許しやらうか。
▲亭主「何が扨、ゆるりと御見物なされませい。
▲シテ「太郎冠者、床机を持て来い。
▲太郎冠者「畏つてござる。
▲シテ「まづ、今日(こんにち)は、天気は良し、良い遊山ぢやな。
▲太郎冠者「左様でござりまする。
▲シテ「やい。亭主が、不掃除などは仰(お)しやれども、かう見渡す泉水に、木の葉が一葉(ひとは)も浮かばず、綺麗な事ぢやな。
▲太郎冠者「左様でござりまする。
▲シテ「やい。あの、向かうの遠山(とほやま)の体(てい)を見たか。
▲太郎冠者「見ましてござる。
▲シテ「数々ある山の内に、どれ一つ、似た形(なり)の山もなう、上手の作つた庭ぢやな。
▲太郎冠者「左様でござりまする。
▲シテ「やい。あの、右の島先へ架けられた反(そ)り橋の体(てい)を見たか。
▲太郎冠者「見ましてござる。
▲シテ「架け所といひ、良い取り合(あは)せぢやな。
▲太郎冠者「左様でござる。
▲シテ「あの橋の本(もと)なは、古木さうなが、何ぢやな。
▲太郎冠者「されば、何でござるか。
▲シテ「やうやう見れば、梅の古木さうな。
▲太郎冠者「げに{*1}、梅さうにござる。
▲シテ「方々へ枝配りをして、はて扨、木つきの良い梅ぢやな。
▲太郎冠者「左様でござりまする。
▲シテ「中にも、左へづゝと延びた枝を見たか。
▲太郎冠者「見ましてござる。
▲シテ「下から中程までは何事もなう、末となつて、猿猴(ゑんこう)の肘(ひぢ)を歪めた様なは、何にぞなりさうなものぢや。
▲太郎冠者「はあ。
▲シテ「あの歪うだ所を挽(ひ)き伐(き)つて、茶臼の挽木(ひきゞ)には、何とあらう。
▲太郎冠者「しい。左様の事は、仰せられまするな。
▲シテ「挽木(ひきゞ)には、いらざるものぢや。
▲太郎冠者「左様でござる。
▲シテ「なうなう、御亭主。あの橋の本(もと)なは、梅の古木さうなが、殊の外、木つきが面白いによつて、必ず枝などを手折らぬ様にさしませ。
▲亭主「あれは、私の秘蔵の梅でござるによつて、中々枝などを手折る事ではござりませぬ。
▲シテ「さう見えておりやる。やい。あの山間(やまあひ)に白う見ゆるは、何ぢや。
▲太郎冠者「州浜(すはま)。
▲シテ「州浜。
▲太郎冠者「中々。
▲シテ「州浜は、良い取り合(あは)せぢやな。
▲太郎冠者「良い取り合(あは)せでござる。
▲シテ「やい。あの左の方の滝を見たか。
▲太郎冠者「見ましてござる。
▲シテ「大ざわやかに、ゆつたりとして、潔い事ぢやな。
▲太郎冠者「潔い事でござる。
▲シテ「滝壺の両方の石を見たか。
▲太郎冠者「見ましてござる。
▲シテ「海石か、山石か。しかしかとは見え分かぬが、種々の致景(ちけい)があつて、まづは性(しやう){*2}の良さゝうな石ぢや。
▲太郎冠者「左様でござる。
▲シテ「中にも、右の方(かた)の石を見たか。
▲太郎冠者「見ましてござる。
▲シテ「これも、下から中程までは何事もなう、末となつて、握り拳かなどを、によんによと握り出(だ)いた様なは、何にぞなりさうなものぢや。
▲太郎冠者「はあ。
▲シテ「あの出た所を打ちかいて、火打石には何とあらう。
▲太郎冠者「しい。左様の事は、仰せられまするな。
▲シテ「火打石には、いらざるものぢや。
▲太郎冠者「申し、御亭主。頼うだ人は、ちとお戯言(ざれごと)深うござる。
▲亭主「左様にお見えなされてござる。
▲シテ「やい。あの山間(やまあひ)に赤う見ゆるは、何ぢや。
▲太郎冠者「宮城野。
▲シテ「宮城野。
▲太郎冠者「中々。
▲シテ「宮城野は、咲いたり、咲いたり。赤い花の上には、白いが咲き、白い花の上には、赤いがくわつくわと咲き乱れた体(てい)は、さながら、赤飯を蒔いた様な。
▲太郎冠者「しい。左様の事は、仰せられまするな。
▲シテ「紙がひらひら。
▲太郎冠者「短冊。
▲シテ「短冊。
▲亭主「申し。太郎冠者殿。何(いづ)れも、これへ御腰を掛けさせらるゝ御方は、御当座を。と申して、歌を所望致しまする程に、頼うだ御人(おひと)にも、一首詠ませらるゝ様に、仰せられて下されい。
▲太郎冠者「心得てござる。
▲シテ「なうなう、これで聞いておりやる。某は、終に歌などを詠んだ事はないによつて、これをばお許しあれ。
▲亭主「それは、定めて御卑下でござらう。平(ひら)に一首、詠ませられませい。
▲太郎冠者「亭主の所望でござるによつて、ちと御案じなされたならば、良うござりませう。
▲シテ「いかさま。亭主の所望ぢやによつて、それならば、ちと案じても見ようか。
▲太郎冠者「良うござりませう。
▲シテ「何とが、良うおりやらうぞ。
▲亭主「何とが、良うござらうぞ。
▲シテ「かうおりやらうか。
▲亭主「お早うござる。
▲シテ「七本、八本。
▲亭主「やあやあ、何と、何と。
▲太郎冠者「七重八重。
▲シテ「七重八重。
▲亭主「七重八重。
▲シテ「九品(くほん)の浄土。
▲亭主「やあやあ、何と、何と。
▲太郎冠者「九重とこそ思ひしに。
▲シテ「九重とこそ思ひしに。
▲亭主「九重とこそ思ひしに。
▲シテ「ぱらりと開く。
▲亭主「やあやあ、何と、何と。
▲太郎冠者「十重咲き出づる。
▲シテ「十重咲き出づる。
▲亭主「十重咲き出づる。ちと、吟じて見ませう。七重八重。九重とこそ思ひしに。十重咲き出づる。十重咲き出づる。これは、殊の外、面白い事でござる。定めて、この先が聞き事でござらう。早う仰せ聞かされませい。申し申し。なう、申し。
▲シテ「何事でおりやる。
▲亭主「今の御歌は、殊の外、面白い事でござる。この先が、承りたうござる。早う仰せ聞かされませい。
▲シテ「今の歌の先が、何がおりやらうぞ。
▲亭主「それでは、歌が短うござる。
▲シテ「何ぢや。短い。
▲亭主「中々。
▲シテ「短くは、十重咲き出づる。と、引いてお読みやれ。
▲亭主「それでは文字が、足りませぬ。
▲シテ「何ぢや。文字が足らぬ。
▲亭主「中々。
▲シテ「文字が足らずば、易い事。十重咲き出づる、十重咲き出づる、十重咲き出づる。と、良い様に足しておみやれ。
▲亭主「やあら、そなたは人をなぶる様な事を仰(お)しやる。この先を仰(お)しやらねば、後へも先へもやらぬが。定(てい)と仰(お)しやらぬか。
▲シテ「やあ。何とやら云うたが。なうなう、今の歌の先を、思ひ出いておりやる。
▲亭主「何と、何と。
▲シテ「物と。
▲亭主「何と。
▲シテ「物と。
▲亭主「何と。
▲シテ「十重咲き出づる。
▲亭主「十重咲き出づる。
▲シテ「十重咲き。
▲二人「出づる。
▲シテ「太郎冠者が向かう臑かな。
▲亭主「何でもない事。とつとゝ行かしませ。
▲シテ「面目もおりない。
▲亭主「あのやくたいなし。

校訂者注
 1:底本は「実(じつ)」。
 2:底本は「生(しやう)」。

底本『狂言五十番』(芳賀矢一校 1926刊 国立国会図書館デジタルコレクション

前頁  目次  次頁

↑このページのトップヘ