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カテゴリ:狂言 > 幸田露伴校大蔵流狂言(『狂言全集』(1903))

校訂 幸田露伴校大蔵流狂言脚本
安田善之助蔵本 『狂言全集』(1903)所収)

上巻 狂言記
01 抜殻    02 宗論    03 萩大名    04 酢薑    05 鞍馬参

中巻 続狂言記
60 惣八    61 禁野    62 猿座頭    63 狐塚    64 牛馬
65 入間川   66 呂蓮   67 蟹山伏   68 素襖落

下巻 狂言記拾遺
  108 八尾   109 布施無経   110 米市   111 鎧

凡  例

  1:底本は『狂言全集』全三巻(凡例)です
  (。幸田露伴校。1903年博文館刊。国会図書館デジタルコレクション)
  2:古文として読みやすくことを校訂方針としました。
  3:かなの清濁・送り仮名・仮名遣い・漢字等は適宜改め、いちいち注記しません。
  4:二字以上の繰り返し記号(踊り字)はテキストにないため文字化しました。
  5:底本の登場人物は▲を付して示し、呼称は適宜修正しました。
  6:読みやすさを考慮し、人物の交代毎に改行しました。
  7:底本の( )書きの注記は《 》で示しました。
  8:使用文字は、野村八良校『狂言記』の表記を基準とし、読みやすさを主眼としています。
  9:現在では差別的とされる表現も、底本を尊重し一切変更を加えていません。ご了承願いますとともに、取り扱いには十分ご留意願います。

抜殻(ぬけがら) 大蔵流本

▲主「これはこの辺りに住居致す者でござる。この間は久しうかの人の方へ便りを致しませぬ。今日は太郎冠者を使ひに遣はさうと存ずる。まづ呼び出して申し付けう。《常の如く呼び出し》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。この間は久しうかの人の方へ便りをせぬによつて、今日は大儀ながら行てくれい。
▲シテ冠者「畏つてござる。
▲主「行て云はうは、この間は久しう便りをも承らぬが{*1}、変らせらるゝ事もござらぬか。あまり遠々しうござるによつて太郎冠者を遣はしますると云うてくれい。
▲シテ「畏つてござる。
▲主「早う戻れ。
▲シ「心得ました。
▲主「えい。
▲シ「はあ。これはいかな事。かの人の方へお使ひに行けと仰せ付けられた。いつもかの人の方へお使ひに参る時分は御酒を下さるゝが、今日はなぜに下されぬ事ぢや知らぬ。定めて忘れさせられたものであらう。立ち戻つて気を付けて見ようと存ずる。申し、頼うだ人ござりまするか。
▲主「汝はまだ行かぬか。
▲シ「かう参りまするが、何とお文でも遣はされませぬか。
▲主「いやいや。そなたを遣るによつて文をば遣らぬ程に、文程に云うてくれい。
▲シ「すればお文は遣はされませぬの。
▲主「中々。
▲シ「それならば、かう参りませう。
▲主「早う行け。
▲シ「はあ。
▲シ「えい。
▲主「はあ。これはいかな事。まだ思ひ出されぬ。何と致さう。はあ、それそれ。一度ばかり御酒を呑まぬと申して苦しうない事ぢや。さらばまづお使ひに参らうか。とかく人といふものは、この様な事をば得て例にしたがるものぢや。これが例になつては迷惑な。今一度戻つて思ひ出さるゝ様に申さうと存ずる。申し、ござりまするか、ござりまするか。
▲主「誰ぢや。
▲シ「私でござる。
▲主「汝はまだ行かぬか。
▲シ「いや、かう参りまするが、いつも私が参つた後で、あれを忘れたの、これを忘れたのと仰せられまするが、今日は何も忘れさせられた事はござらぬか。
▲主「いやいや。今日に限つて何も忘れた事はない。
▲シテ「いやいや。何ぞ忘れさせられた事がござらう程に、篤と思ひ出して見させられい。
▲主「いやいや。今日に限つては、何も忘れた事はないが。はあゝ。ちと忘れた事があるわやい。
▲シ「それそれ。それごらうぜられい。
▲主「まづそれに待て。
▲シ「心得ました。
▲主「これはいかな事。最前から太郎冠者が再々小戻りを致すを、何とも合点の行かぬ事ぢやと存じてござれば、いつもかの人の方へ使ひに遣はす時分は酒を呑まさせまするが、今日は失念致いて呑ませませぬによつて小戻りを致すと見えた。一つたべさせて遣はさうと存ずる。《腰桶の蓋持ち扇開きて》
やいやい、太郎冠者。近頃面目もない事があるわ。
▲シ「それは又いかやうな事でござるぞ。
▲主「いつも酒を呑ませて遣るを、はつたと忘れた。一つ呑うで行け。
▲シ「はあ。忘れさせられたと申すは、その事でござるか。
▲主「中々。
▲シ「私は又、外に何ぞ忘れさせられた事があると存じてござる。その事ならば、まづお使ひに参りませう。
▲主「あゝ、これこれ。いつも呑ませつけた物を呑ませねは、心に掛かつて悪しい。平に呑うで行け。
▲シ「その上今日は、ちと呑みにくい事がござる。
▲主「それは又、いかやうな事ぢや。
▲シ「さればその事でござる。お文でも遣はされませぬかの、何ぞ忘れさせられた事はござらぬかのと申して度々小戻りを致いたも、畢竟この御酒がたべたさの儘ぢやと思し召す処が迷惑にござる。
▲主「これはいかな事。何として身共がその様に思ふものか。平に呑うで行け。
▲シ「それならば、戻つてからたべませう。
▲主「いやいや。いつも呑ませつけた事ぢやによつて、是非とも呑うで行け。
▲シ「すれば、どうあつても呑うで行けでござるか。
▲主「中々。
▲シ「それならば、たべて参りませうか。
▲主「それがよからう。まづ下に居よ。
▲シ「はあ。これは例の大盃が出ましてござるの。
▲主「手間のとれぬ様に大盃を出いた。さらば呑め。
▲シ「お酌はこれへ下されい。
▲主「いやいや。身共が注いでやらう。
▲シ「これは慮外にござる。それならば注がせられて下されい。
▲主「心得た。
▲シ「おう、恰度ござる。
▲主「誠に恰度ある。
▲シ「さらばたべませう。
▲主「それがよからう。《この処「素襖落」と同断。五盃程呑んでよし》もはや呑まぬか。
▲シ「あゝ。もう厭でござる。
▲主「それならば取るぞや。
▲シ「早う取らせられい。扨も扨も結構な頼うだ人ぢや。大盃で三つ五つ。{*2}
▲主「《笑うて》やいやい。行かぬか。
▲シ「どこへ。
▲主「これはいかな事。どこへと云うて。かの人の方へ行かぬか。
▲シ「むゝ。かの人の方への。
▲主「中々。
▲シ「それを忘れてなるものでござるか。さらば参りませう。《と云うてこける》
▲主「これはいかな事。酔うたさうな。
▲シ「酔ひは致しませぬが、暫く居敷いて居りましたによつて、しびりがきれました。慮外ながら手をとつて下されい。
▲主「心得た。そりや立て。
▲シ「やつとな。
▲主「はあ。酔うたさうな。
▲シ「中々酔ひは致しませぬ。扨お文でも下されませぬか。
▲主「いやいや。汝を遣るによつて文は遣らぬ。
▲シ「何ぢや。文は遣らぬ。
▲主「中々。
▲シ「それならば、良い様に取り繕うて申しませう。
▲主「良い様に云うてくれい。
▲シ「扨、かう参りまする。
▲主「早う戻れ。
▲シ「心得ました。
▲主「えい。
▲シ「はあ。《笑うて》扨も扨も結構な頼うだ人ぢや。かの人の方へ使ひに行くと云うて、大盃で三つ五つ。ほつてと酔うた。ちと唄うて参らう。ざゞんざ。《唄うて》やあ。いつもこの道は一筋ぢやが。今日は二筋にも三筋にも見ゆる。これでは中々行かれまい。ちと休んで参らう。やつとな。
▲主「太郎冠者をかの人の方へ使ひに遣はしてござるが、殊の外たべ酔うてござる。心元なうござる。後から参つて見ようと存ずる。何とぞかの方まで参り着けばようござるが。何とも心元ない事でござる。これはいかな事。この道の真ん中に寝て居る。扨々憎い奴でござるが、何と致さう。いや、思ひ出いた事がござる。《と云うて武悪の面を被せて置く》
これで目が覚めたならば、定めて肝を潰すでござらう。《と云うて座へ着く》
▲シ「はあ。よう寝た事かな。誰ぞ湯をくれい。茶をくれい。これはいかな事。宿ぢや宿ぢやと思うたれば、これは道の真ん中ぢや。何としてこゝに寝て居た事か知らぬ。はあ、それそれ。かの人の方へお使ひに参るとて御酒を下されたが、それにたべ酔うてこの所に寝て居たものであらう。はあ、身共は頭下がりに寝たと見えて、しきりに頭が重うなつた。いや、いつもこの先に綺麗な清水がある。さらばあれへ行て手水をも使ひ、水をもたべうと存ずる。扨も扨も酔うた事かな。正体もなう酔うてござる。さればこそこれぢや。さらば水を汲まう。《と云うてつかつかと行き、水を見て》
あゝ、悲しや悲しや悲しや悲しや。真つ平命を助けて下されい。武辺立てゞはござらぬ。頼うだ者の用事でさる方へ参るとて、御酒にたべ酔うてこゝに臥せつて居りました。何とぞ命をお助けなされて下されい。申し申し。なぜに物を仰せられぬぞ。物を仰せられいでは迷惑にござる。許すと只一言仰せられて下されい。申し申し。《段々と顔を上げて見、そつと抜けて》
なうなう、怖ろしや怖ろしや。清水にいかめな鬼が居る。急いでこの由を頼うだ人へ申さうか。頼うだお方はつゝと念の入つたお方ぢやによつて、その鬼を見届けたかと仰せられた時分に、いゝや、しかと見届けは致しませぬとも云はれまい。こは物ながら見届けて参らう。はあ。何とぞ取つて出ねば良いが。《と云ひて、そろりそろりと抜き足にて行き、覗きて見て》
あゝ、悲しや悲しや。真つ平命を助けて下されい。申し申し。なぜに物を仰せられぬぞ。申し申し。はて合点の行かぬ。確かに鬼が居るが、何として取つて出ぬか。今一度見て参らう。《又そろりそろりと見て、びつくりして後ろへ少し退き又見る。今度は我が顔故不審に思ひ、袖を映し手を映し両手を上げて映し、色々しても我が影に違ひなき故、泣きて後ろへ下がり下に居て》
扨も扨も、清水に鬼が居ると存じてござれば、鬼ではなうて某が面がいつの間にやら鬼になつてござる。今まで人悪かれと存じた事もござらぬに、何の因果でこの様な鬼の面になつた事ぢや知らぬ。これはまづ何としたものであらうぞ。おう、それそれ。こゝ元にうかうかとして居たならば、人が見付けて鬼が出たと云うて、定めて打ち殺さるゝでござらう。何と申しても頼うだ人は御馴染ぢやによつて、あれへ参つて御扶持を貰うてたべうと存ずる。扨も扨も是非もない事かな。頼うだ人もこの面を見させられたならば、さぞ肝を潰させらるゝでござらう。いや、何かと申す内に戻り着いた。まづ顔を隠して戻つた通りを申し上げう。申し頼うだ人、ござりまするか。太郎冠者が戻りましてござる。
▲主「いゑ。太郎冠者戻つたさうな。太郎冠者戻つたか戻つたか。
▲シ「ござりまするかござりまするか。
▲主「えい。戻つたか。
▲シ「只今戻りました。
▲主「なう、恐ろしや。いかめな鬼が来た。早う出ていけいやい出ていけいやい。
▲シ「申し申し。鬼ではござらぬ。これは太郎冠者でござる。
▲主「又そのつれな事を云ふ。鬼の太郎冠者は持たぬ。早う出て行け出て行け。
▲シ「さりとては、左様ではござらぬ。面こそいかめな鬼でござれ、心は太郎冠者に違ひはござらぬ。声でなりと聞き知らせられたでござらう程に、何とぞ御扶持をなされて下されい。
▲主「何と鬼が使はるゝものぢや。早う出て行け出て行け{*3}。
▲シ「只今までの通りに召し使はるゝ事がならずば、お子様のお守りなりと致しませう。
▲主「何とその面で子供の守りがなるものぢや。早う出て行け。
▲シ「それならば、御門番なりと仰せ付けられて下されい。
▲主「その面で門番をして、誰が出入りをするものぢや。
▲シ「是非に及びませぬ。お釜の下の火なりと焚きませう。
▲主「いやいや。その様な面の者は置く事はならぬ。早う出て行け。あちらへ失せう失せう失せう失せう。
▲シ「《太郎冠者泣いて下に居て》扨も扨も頼みに思うた御慈悲深い頼うだ人でさへあの体に仰せらるゝ。この上外へ行たと云うて誰が扶持をせう。さればまづ何としてよからうぞ。おう、それそれ。某がゝうなつたも清水へ行たによつてぢや。人に打ち殺されうよりは、かの清水へ行て身を投げて死んでのけう。扨も扨も是非もない事かな。人悪かれとも思はぬに、何の因果でこの体になつた事ぢや知らぬ。来る程に清水ぢや。さらばこの辺りから走り込まう。やあ、ゑい。《飛び込みながら面をとりて下に置く》
はて合点の行かぬ事ぢや。申し申し、頼うだ御方ござりまするか、ござるか。
▲主「何事ぢや。
▲シ「申し。これに珍しい物がござる。
▲主「それは何かあるぞ。
▲シ「これへ出させられい。
▲主「心得た。
▲シ「また出させられい。
▲主「心得た。
▲シ「これに鬼の抜け殻がござる。
▲主「何の抜け殻。
▲シ「いで食らはう。
▲主「あゝ。《と云うて両手上げる》

校訂者注
 1:底本、「承」字は判読困難。後の「富士松」冒頭(底本2行目)に似た字があり、「承」とした。
 2:底本は、「《笑うて》」。岩波文庫本(『能狂言』1943刊)に従い改めた。
 3:底本は、「出て行けゆけ」。

底本:『狂言全集 上巻』「巻の一 四 抜殻」(国立国会図書館D.C.

宗論(しゆうろん) 大蔵流本

▲アト「《あたりて出る》南無妙法蓮華経。蓮華経の経の字を、きようせんと人や思ふらん。
これは都六條辺の出家でござる。某未だ甲斐の身延へ参詣致さぬによつて、この度思ひ立ち身延へ参り、只今が下向道でござる。まづそろりそろりと参らう。誠に我が宗体を褒むるではござらぬが、甲斐の身延程ありがたい所はござらぬ。これから再々身延参りを致さうと存ずる。あゝ。連れもなや。まづこの辺に休らうて、似合はしい者も通らば言葉を掛け、同道に致さうと存ずる。
▲シテ「《次第》南無阿弥陀仏の六つの字を、南無阿弥陀仏の六つの字を、むつかしと人や思ふらん。
これは都黒谷の出家でござる。某未だ信濃国善光寺へ参詣致さぬにより、この度善光寺へ参り、只今下向道でござる。まづそろりそろりと参らう。誠に我が宗体を褒むるではござらねども、善光寺程ありがたい所はござらぬ。これからは度々参詣致さうと存ずる。あゝ。連れもなや。良い連れが欲しい事ぢや。道々雑談を致いて参らうものを。
▲ア「いや。これへ似合はしい者が参る。急いで言葉を掛けう。いや、なうなう。しゝ申し。
▲シ「やあやあ。この方の事でござるか。何事でござる。
▲ア「いかにもそなたの事でござる。聊爾な申し事ながら、こなたはいづ方からいづ方へござるぞ。
▲シ「愚僧の。
▲ア「中々。
▲シ「都へ上る者でござる。何ぞ御用ばしござるか。
▲ア「何ぢや。都へ上ると仰せらるゝか。
▲シ「中々。左様でござる。
▲ア「それは幸ひの事でござる。愚僧も都へ上る者でござるが、連れ欲しうてこゝに休らうて居ました。苦しうなくばお供致しませう。
▲シ「只今もひとり言に、良い連れがな欲しいと申してござる。成程お供致しませう。
▲ア「扨は御同心でござるか。
▲シ「いかにも同心でござる。
▲ア「それならば、まづこなたからござれ。
▲シ「先次第にござれ。
▲ア「先と仰せらるゝによつて、愚僧から参らうか。
▲シ「それが良うござらう。
▲ア「さあさあ、ござれござれ。
▲シ「参る参る。
▲ア「まづお笠を召せ。
▲シ「心得ました。
▲ア「扨、かやうにふと言葉を掛け同道致すも、他生の縁でがなござらうぞ。
▲シ「仰せらるゝ通り、他生の縁でがなござらう。かう参るからは、互に虫腹がかぶらうとも都までは篤とお供致さう。
▲ア「何が扨、篤とお供致さうとも。
▲シ「扨こなたは、いづ方から都へは上らせらるゝぞ。
▲ア「愚僧は自体、都の者でござる。
▲シ「都では。
▲ア「六條辺の出家でござるが。
▲シ「ふう。
▲ア「この度、法の水上なれば甲斐の身延へ参り、只今下向道でござる。
▲シ「ふうー。和御料のなりを最前からつくづくと見るに、身延参りをせいで叶はぬなりでおりやる。
▲ア「こなたは良い目利きでござるの。
▲シ「ちとお待ちやれ。
▲ア「心得ました。
▲シ「これはいかな事。例の情こは者に寄せ合はいた。何と致さう。道すがらなぶつて参らうと存ずる。
▲ア「いや、申し申し。
▲シ「何事でおりやる。
▲ア「こなたは又、いづ方から都へは上らせらるゝぞ。
▲シ「愚僧の。
▲ア「中々。
▲シ「某も自体、都の者でおりやる。
▲ア「都では。
▲シ「つゝと辺土。
▲ア「辺土では。
▲シ「東山。
▲ア「東山では。
▲シ「黒谷の出家でおりやる。
▲ア「ほう。
▲シ「この度信濃の善光寺へ参り、只今が下向道でおりやる。
▲ア「ふうー。そなたのなりを最前からつくづくと見るに、善光寺参りをせいで叶はぬなりでおりやる。
▲シ「和御料も良い目利きでおりやるの。
▲ア「ちとお待ちやれ。
▲シ「心得た。
▲ア「これはいかな事。例の黒豆数へに寄せ合はいた。何と致さう。思ひ出いた。外さうと存ずる。いや、申し申し。
▲シ「何事でおりやる。
▲ア「愚僧はこなたに逢うて、近頃面目もない事がござる。
▲シ「それは又、いかやうな事でおりやる。
▲ア「さればその事でござる。こゝに待つ連れのあつたをはつたと忘れて、こなたと同道致さうとお約束致いてござるが、待たいで叶はぬ連れでござるによつて、こなたは先へござれ。
▲シ「こゝな人は。一旦出家沙門の云ひ交はいた事を、翻すといふ事があるものか。はて、そなたが待たば愚僧も待たうわ扨。
▲ア「その連れが一日二日で参らうやら、廿日三十日手間が取れうも知れぬ程に、平に先へ行て下されい。
▲シ「廿日三十日の事は扨置き、一年が二年なりとも待たうわ扨。
▲ア「何ぢや。一年が二年なりとも待たう。
▲シ「中々。
▲ア「それは誠か。
▲シ「誠ぢや。
▲ア「真実か。
▲シ「一定ぢや。
▲ア「愚僧はその様に待つてはならぬ。待ちたくば、そなたばかり待たしめ。
▲シ「和御料が急がば愚僧も急がう。
▲ア「のかしめ。
▲シ「何と召さる。
▲ア「この広い街道を、人にかぶりつく様にせねば歩けぬか。
▲シ「そなたが急ぐによつて愚僧も急いだ。
▲ア「いかに急げばとて。《一笑一怒》
▲シ「なうなうなう。そこな人。
▲ア「何事ぢや。
▲シ「何が腹が立つぞ。
▲ア「何も腹は立てぬ。
▲シ「その様に腹をお立ちやるな。愚僧はそなたにちと意見をしたい事がある。
▲ア「いや。そなたに何も意見を受くる覚えはないが。あらば仰しやれ。
▲シ「それならば云はう。そなたの宗体を世間で情がこはいと云ふ。
▲ア「さうは云ふまいがの。
▲シ「まづお聞きやれ。法華経の一部の八巻のといふ長い経を読まうより、某が宗体にならしめ。愚僧が宗体のありがたさは、経を読む事は扨置き、たゞ南無阿弥陀仏とさへ唱ふれば決定往生疑ひがない。これ、この珠数は法然上人の持たせられた珠数なれども、さる仔細あつて愚僧が手へ渡つた。これを戴かせて身共が{*1}弟子に致さう。
▲ア「いや。その法然とやらが生臭い珠数は厭ぢや。
▲シ「と云うても戴かせずには置くまい。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
▲ア「厭ぢやと云ふに、厭ぢやと云ふに、厭ぢやと云ふに。あゝ。けがらはしい事かな。
▲シ「扨も扨も、身にも笠にもつく様に厭がるわ。
▲ア「いや。なうなう。
▲シ「何事でおりやる。
▲ア「愚僧は又、そなたに意見をしたい事がおりやる。
▲シ「身共こそ何も意見を受くる覚えはないが。あらば仰しやれ。
▲ア「それならば云はう。まづそなたの宗体を、世間で愚鈍なと云ふ。
▲シ「さうは云ふまいがの。
▲ア「まづ聞かしめ。あそこの隅へ行てはくどくど、こゝの隅へ行てはくどくどゝ、先へも行かぬ黒豆を数へうより、愚僧が弟子にならしめ。某が宗体のありがたさは、南無妙法蓮華経と唱ふる事は扨置き、お経を戴いても即身成仏は疑ひない。この珠数は、元祖日蓮大聖人の持たせられた珠数なれども、さる仔細あつて愚僧が手へ渡つた。これを戴かせて身共が弟子に致さう。
▲シ「いやいや。その様な情のこはい珠数は、戴きたうもおりない。
▲ア「と云うたりとも、勧むる功徳共に成仏。南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経。
▲シ「厭ぢやと云ふに、厭ぢやと云ふに、厭ぢやと云ふに。それ程戴きたくば、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
▲ア「あゝ。厭ぢやと云ふに。厭でおりやる、厭でおりやる、厭でおりやる。あゝ。けがらはしい。何と致さう。いや、こゝに宿を取らう。物申。案内申。
▲ヤド「案内とは誰そ。どなたでござる。
▲ア「旅の修行者でござる。一夜の宿を貸して下されい。
▲ヤ「易い事。貸して遣はしませう。つゝと通らせられい。
▲ア「それは忝うござる。それならば通りませうか。
▲ヤ「つゝと通らせられい。
▲ア「心得ました。
▲シ「《この言葉の内に笑うて》扨も扨も、身にも笠にも付く様に嫌がる。かやうに致いて参らうならば、いつ参り着くともなう、都へ上るでござらう。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。《云ひ掛け》
これはいかな事。今一人の者は、いづ方へ行た事か知らぬ。定めて宿を取つたものであらう。愚僧も宿を取らう。物申。案内申。
▲ヤ「又、表に物申とある。案内とは誰そ。どなたでござるぞ。
▲シ「旅の出家でござるが、只今これへ我等の如きの者は参りませぬか。
▲ヤ「いかにも御出で、お宿を申してござる。
▲シ「私は、かの者の連れでござる。私にも何とぞ宿を貸して下されい。
▲ヤ「易い事。かう通らせられい。
▲シ「忝うござる。
▲ヤ「つゝと通らせられい。
▲シ「心得ました。なうなう嬉しや。まんまと宿を借り済まいた。扨、きやつはどこ元に居る事ぢや知らぬ。《見て》さればこそ、あれにつゝくりとして居る。《笠を落として》
いや、なう。和御料は、宿を取るならば取ると云はいで。出し抜いて宿を取つたの。
▲ア「そなたは又、これへ来たか。
▲シ「はて、来いで何とせう。連れぢやものを。
▲ア「編みつれた身ではあるまいし。
▲シ「又、どれへやら行くわ。
▲ア「申し、ござりまするか、ござるか。
▲ヤ「何事でござる。
▲ア「私は、あの出家と一つに居とむなうござる程に、別の間があらば貸して下されい。
▲ヤ「いやいや。別の間はござらぬ。見ますれば御出家同士の事でござるによつて、一緒にござつたが良うござる。
▲シ「申し。別の間はござるまいがの。
▲ヤ「中々。ござらぬ。
▲ア「あるやらないやら、何をそなたが知つて。
▲シ「はて、あれ程ないと仰しやるを。借らうと云ふは情がこはい。なうなう。そこな人。
▲ア「あゝ、喧しい。何事ぢや。
▲シ「何がその様に腹が立つぞ。
▲ア「何も腹は立てぬ。
▲シ「それ程に腹を立てずとも、愚僧が思ふは、夜も長し、夜もすがら宗論をして、いづ方なりともありがたいと聞き入つた方の弟子にならうと思ふが、これは何とあらうぞ。
▲ア「むゝ。最前からそなたの云ふ事に、一つとしてこれぞと思ふ事はないが、これは耳寄りな。それならば、愚僧が宗体をありがたいと聞き入ると、その儘某が弟子にするぞや。
▲シ「おう、中々。そなたの弟子にならうず。又、某が宗体をありがたいと聞き入ると、その儘愚僧が弟子にするぞや。
▲ア「それは、その時の様によらう。
▲シ「それが、情のこはい。まづ法文を説かしめ。
▲ア「それならば説いて聞かさう程に、良うお聞きやれ。
▲シ「心得た。
▲ア「それ、法文様々あると云へども、中にも五重展転の随喜の功徳とも、又ありがたければ涙とも説かれた法文。何と聞いた事があらう。
▲シ「いか様、どこやらで聞いた様な。
▲ア「聞かいで何とせう。日本にはびこる程の法文ぢや。
▲シ「したゝかな事を投げ出いた。その心を説かしめ。
▲ア「この心は、春たけなはに芋といふ物を植ゑるわ。
▲シ「おう、中々。植ゑるとも。
▲ア「雨露の恵みを承け、一株に四五十ばかり芽を出し、てんでんに幡を上ぐる。こゝを以て五十てんでんと名付く。
▲シ「ほう。
▲ア「まんまと成長させすまし、片端より刃物を以て薙ぎ取り、丈一寸ばかりに料理して行へば、あら旨やと思ひて涙がほろりとこぼるゝ。こゝを以て、五十てんでんのずいきの功徳とも、又ありがたければ涙とも説かせられた法文。何とありがたい法文ではないか。
▲シ「いや、なう。いらぬ料理話をせずとも、早う法文をお説きやらいで。
▲ア「今のが法文ぢや。そなたが耳には入らぬか。
▲シ「何ぢや。今のが法文ぢや。
▲ア「中々。
▲シ「それは誠か。
▲ア「誠ぢや。
▲シ「真実か。
▲ア「一定ぢや。
▲シ「《笑うて》いつ釈迦のずいきを料理してお参りやつた事があるぞ。
▲ア「この様なありがたい法文は、そなた達の耳へ入る事ではあるまいぞ。
▲シ「この後で愚僧が法文を説くは惜しけれども、こゝが宗論ぢや。説いて聞かさう。耳を澄まいてお聞きやれ。
▲ア「耳を澄まさずとも承らう。
▲シ「それが情こはな。それ、法文様々多しといへども、中にも一念弥陀仏、即滅無量罪とも、又ありがたければ、さいとも説かれた法文。何と聞いた事があらう。
▲ア「むゝ。風の便りに聞いた様な。
▲シ「聞かいで叶はうか。唐土・天竺・我が朝、三国にはびこる程の法文ぢや。
▲ア「夥しい事を投げ出いた。早う心を説かしめ。
▲シ「この心は、世間に事足らうたお方もあり、又事足らはぬお方{*2}もあるものぢや。
▲ア「おう。いかにもあるとも。
▲シ「その事足らうたお方より、お斎を下されうとありて行けば、中には麩・鞍馬の木の芽漬け・醍醐の独活芽・牛房・半べん、色々様々の物を取り調へて下さるゝによつて、あら旨やと思うてまんまと斎を行ふ。
▲ア「ほう。
▲シ「又、事足らはぬお方より、お斎を下されうとあつても、出家の役ぢやによつて行かねばならぬ。
▲ア「中々。行かねばならぬ。
▲シ「その時は最前のとは引き違へ、焼き塩一菜で下さるゝ。その時観念の仕様があるが、そなたは知つて居るか。
▲ア「いゝや。何とも知らぬ。
▲シ「まづ膳に向かひ目を塞ぎ、南無阿弥陀仏{*3}、即滅無量菜々と云うて、目をほつちりと開いて見れば、最前の如く、中には麩・鞍馬の木の芽漬け・醍醐の独活芽・牛房・半べん、色々様々な物が満ち満ちてあるあると思うて、まんまと斎を行ふ。こゝを以て、一念弥陀仏、即滅無量罪とも、又ありがたければ菜とも説かれた法文。何ぼうありがたい法文ではないか。
▲ア「なうなう。いらぬお斎話をせうより、法文を説かしめ。
▲シ「今のが法文ぢやが。そなたが耳へは入らぬか。
▲ア「何ぢや。今のが法文ぢや。
▲シ「中々。
▲ア「それは誠か。
▲シ「誠ぢや。
▲ア「真実か。
▲シ「一定ぢや。
▲ア「《笑うて》何を云ふか何を云ふかと思うたれば、それは悉皆、有財餓鬼といふものぢや。
▲シ「有財餓鬼とは。
▲ア「はて、ないものをあるあると思うて食ふは、有財餓鬼ではないか。
▲シ「へ。所詮、非学者論議に負けずと云ふ事がある。某はもはや念仏者致さう。
▲ア「いや、これこれ。もそつと起きて居て雑談を云はいでな。さうもおりやるまい{*4}。そなたが念仏者するならば、身共は寝法華を致さう。
▲シ「あゝ、良う寝た。これはいかな事。後夜起きの時分ぢや。さらば勤めを致さう。南無至心帰命礼四方。にやもにやも。《と云うて、経を読みてアトの寝て居るを見てうなづき、そろそろと立ちて傍へ寄り、耳へ口を寄せて、高らかになまうだなまうだと云ふ。元の所へ座り、又経を読む》
▲ア「あゝ。喧しい。きやつは夜の目も寝ぬさうな。いや後夜起きの時分ぢや。愚僧も勤めを致さう。妙法蓮華経。《じやぶじやぶと云うて経を読む。シテ強く読むと、アトも負けじと読みて、後には段々とすり寄るを、シテ見て笑ひながら立つ》
▲シ「扨も扨も、負けじ劣らじと経を読む。ちと踊り念仏を始めて、きやつを浮かいてやらう。《珠数を懐へ入れ、扇にて笠を叩きて》
くわんくわんくわんくわんくわんくわんくわん。なまうだ、なまうだ。《アト聞きて、肝を潰して》
▲ア「きやつは気が違うたさうな。愚僧も負くる事ではない。踊り題目を始めて、浮かいてやらう。《同じく笠を叩きて》
とんとんとんとんとん。南無妙法蓮華経。
▲シ「なまうだ。
▲ア「蓮華経。
▲シ「は。なまうだ。
▲ア「は。蓮華経。
《段々詰めて、後には法華が念仏を唱へ、浄土が題目を唱へて、互に口を塞ぎて》
▲シ「げに今思ひ出したり。昔在霊山妙法華。
▲ア「今在西方阿弥陀。
▲シ「娑婆示現観世音。
▲ア「三世利益。
▲二人「同一体と、この文を聞く時は、この文を聞く時は、法華も弥陀も隔てはあらじ。今より後はふたりが名を、今より後はふたりが名を、妙阿弥陀仏とぞ申しける。

校訂者注
 1:底本は、「身が」。
 2:底本は、「事足らはぬ方」。
 3:底本は、「南無弥陀仏」。
 4:底本は、「さうもむりやるまい」。

底本:『狂言全集 上巻』「巻の一 六 宗論」(国立国会図書館D.C.

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萩大名(はぎだいみやう) 大蔵流本

▲大名「遠国に隠れもない大名です。永々在京致せば、心が屈して悪うござるによつて、今日はどれへぞ遊山に出ようと存ずる。《常の如く太郎冠者呼び出して》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。永々在京すれば心が屈して悪いによつて、今日はどれへぞ遊山に出ようと思ふが、何とあらうぞ。
▲冠者「御意なくば申し上げうと存じてござる。これは一段と良うござりませう。
▲大「さりながら、この辺りは大方見尽くいたによつて、今日はどれへぞ珍しい所へ行きたいものぢや。
▲冠「誠にこの辺りは大方見物なされましたによつて、今日はどれへぞ珍しい所へお供申したうござるが、どこ元が良うござらうぞ。
▲大{*1}「汝分別して見よ。
▲冠「さればどの辺りが良うござらうぞ。
▲大「どこ元が良からうぞ。
▲冠「いゑ。下京辺に良い庭を持たれたお方のござるが、これに只今宮城野の萩が盛りでござる。これへお供致しませう。
▲大「それは行きたいものぢやが、先の亭主と知る人でないによつて、え行かれまい。
▲冠「それは苦しうござらぬ。かねて私の知る人になつて置きましてござる。
▲大「いゑ。それならば追つ付けて行かう。さあさあ来い来い。
▲冠「まづ待たせられい。
▲大「待てとは。
▲冠「あれへお腰を掛けさせらるれば、定まつて亭主が歌を所望致しまするが、それがなりませうか。
▲大「はて、亭主が所望するならば、恥づかしい事ぢやが一つ二つ謡はうまでよ。
▲冠「こなたの仰せらるゝは小歌の事。私の申すは三十一字ある歌の事でござる。
▲大「こゝな者は。三十一字ある歌もあらうず。又五十字百字ある歌もあらうわ扨。
▲冠「さりとては、その小歌の事ではござらぬ。三十一字に限つて萩の花を折り入れ、当座に詠む歌の事でござる。
▲大「その様な難しい所ならば、行くまいまでよ。
▲冠「はて、これ程までに思し召し立たせられて御出なされぬと申すは、残念な事でござる。いや。それについて、辺りの若い衆の萩を見に行くとあつて、歌の下詠みをして置かれたを、私が承つて覚えて居りまする。これをこなたへ教へませうが、何とでござる。
▲大「扨その歌は、何といふ歌ぢや。
▲冠「別に難しい事でござらぬ。七重八重九重とこそ思ひしに、十重咲き出づる萩の花かなと申す歌でござる。
▲大「まづは面白さうな事ぢやが、扨それは誰が云ふ事ぢや。
▲冠「こなたの仰せらるゝ事でござる。
▲大「身共一人で。
▲冠「歌を幾人で詠むものでござる。
▲大「いかないかな。その様な難しい事が、一年や二年習うて云はるゝ事ではないやい。
▲冠「これ程の事がなりませぬか。
▲大「中々。
▲冠「扨々それは苦々しい事でござる。はあ。何と致いて良うござらうぞ。
▲大「されば何として。
▲冠「いゑ。物によそへては何とでござる。
▲大「いかに某が愚鈍なと云うて、物によそへて覚えられぬ事はあるまいが。扨何によそへるぞ。
▲冠「まづこの扇子と申す物が、大数、骨の十本ある物でござる。
▲大「おう。十本ある物ぢや。
▲冠「七重八重と申す時は、七本八本開きませう。九重に九本、十重咲き出づるにはらりと開きませうが、何とでござる。
▲大「一段と良からうが、まだ後に何やらあつた様な。
▲冠「この後の萩の花かなは、なりませう。
▲大「むゝ。これもなるまい
▲冠「これ程の事がなりませぬか。
▲大「中々。ならぬ。
▲冠「扨々気の毒な事でござる。これは何によそへたものでござらうぞ。
▲大「されば何が良からうぞ。
▲冠「これも良いよそへ物がござる。
▲大「何によそふるぞ。
▲冠「常々こなたの私を叱らせらるゝに、臑はぎの伸びての屈うでのと仰せらるゝによつて、慮外ながら向かう臑と鼻の先をお目に掛けませう。
▲大「これは一段良からう。それならば追つ付けて行かう。
▲冠「それが良うござらう。
▲大「さあさあ来い来い。
▲冠「参りまする参りまする。
▲大「扨その庭は、景の良い庭か。
▲冠「つゝと打ち開いた景の良い庭でござる。あれへ御出なされたならば、お褒めなされませ。
▲大「いか程も褒めうもの。程は遠いか。
▲冠「今少しでござる。急がせられい。
▲大「心得た。
▲冠「いや。参る程にこれでござる。
▲大「これか。
▲冠「こなたのお供致した通り申しませう。まづそれに待たせられい。
▲大「心得た。
▲冠「物申。案内申。
▲亭主「表に案内申とある。案内とは誰ぞ。どなたでござる。
▲冠「私でござる。
▲亭「えい。太郎冠者。そなたならば案内に及ばうか。なぜにつゝと通りは召されぬぞ。
▲冠「左様には存じてござれども、お客ばしござらうかと存じて案内を乞ひました。扨只今参るも別なる事でもござらぬ。私の頼うだ者がこなたのお庭を聞き及ばれまして、何とぞ見せて下されうならば忝うござると申されまする。
▲亭「近頃易い事なれども、この間は不掃除なによつて、お目に掛くる事はなるまい。
▲冠「その分は苦しうござらぬ。早御門前まで参られました。
▲亭「やあやあ。門前まで早御出なされた。
▲冠「中々。
▲亭「それならばお目に掛けう程に、かうお通りなされいと仰しやらうず。又某をも良い時分に引き合はいてくれさしめ。
▲冠「心得ました。申し。かうお通りなされいと申されまする。
▲大「通らうか。
▲冠「つゝと通らせられい。
▲大「亭主は内にか。
▲冠「内にでござる。つゝと通らせられい。
▲大「心得た。はゝあ。これは打ち開いた景の良い庭ぢやなあ。
▲冠「左様でござる。
▲大「とてもの事にゆるりと見物せう。床机をくれい。
▲冠「畏つてござる。御亭主。あれへ出させられい。
▲亭「心得た。はあ。御床机でござる。
▲大「太郎冠者、これへ出い。
▲冠「畏つてござる。
▲大「扨々、これは聞き及うだよりは、打ち開いた景の良い庭ぢやなあ。
▲冠「左様でござる。それへ出られましたが御亭主でござる。
▲大「なうなう、亭主亭主。
▲亭「はあ。
▲大「今日はふと庭を無心申したに、早速見せておくりやつて満足致す。
▲亭「これは不掃除な所へお腰を掛けられて、面目もござらぬ。
▲大「やい太郎冠者。
▲冠「はあ。
▲大「不掃除なと仰しやるが、隅から隅まで塵が一つもないやい。
▲冠「常々掃除の者を付けて置かれまする。
▲大「さうであらう。やい太郎冠者。あの島先に見ゆる木は何ぢや。
▲冠「あれは梅の古木さうにござる。
▲大「何ぢや。こぶし。
▲冠「しい。古木でござる。
▲大「古木、見事におりやる。
▲冠「はあ。
▲大「やい太郎冠者。あの古木に、つゝと地を這うて上へきつと立ち伸びた枝がある。
▲冠「ござりまする。
▲大「あれが良い仕物がある。
▲冠「何になりまする。
▲大「あそこから引き切つて、茶臼の挽き木。
▲冠「しい。亭主が承りまする。
▲大「なうなう。
▲亭「はあ。
▲大「茶臼の挽き木などにお召しりやるなや{*2}。
▲亭「私の秘蔵の木でござるによつて、むざと左様の物には致しませぬ。
▲大「それが良からう。やい太郎冠者。この方の隅に、真つ黒い物が寄せ掛けてある。あれは何ぢや。
▲冠「あれは立て石さうにござる。
▲大「何ぢや。たけ石。
▲冠「しい。立て石でござる。
▲大「なうなう。亭主亭主。
▲亭「はあ。
▲大「立て石、見事におりやる。
▲亭「あれは北山より引かせましてござる。
▲大「それは造作な事の。はあ。やい太郎冠者。あの立て石に、握り拳程白い所がある。
▲冠「ござりまする。
▲大「あれも良い仕物があるいやい。
▲冠「何になりまする。
▲大「あそこから打ちかいて、火打石。
▲冠「しい。亭主が承りまする。
▲大「なうなう。亭主亭主。
▲亭「はあ{*3}。
▲大「構へて火打石などにお召しりやるなや{*4}。
▲亭「左様の物に致す事ではござらぬ。
▲大「それが良からう。やい太郎冠者。又この方の隅に真つ赤いな物が見ゆるが、あれは何ぢや。
▲冠「あれは宮城野の萩でござる。
▲大「あの難しいのか。
▲冠「左様でござる。
▲大「萩、見事におりやる。
▲冠「もはや落花致しました。
▲大「何ぢや。落馬した。
▲冠「いや。落花でござる。
▲大「落花、見事におりやる。
▲亭「はあ。太郎冠者殿。御存じの通り仰せられて下されい。
▲冠「心得ました。はあ。亭主申されまする。これへお腰を掛けらるゝ程のお方へは、歌を一首づゝ所望申しまする。こなたにも何とぞ一首遊ばして下されいと申されまする。
▲大「何ぢや。亭主が歌を所望する。
▲冠「中々。
▲大「なうなう。亭主亭主。
▲亭「はあ。
▲大「某は田舎者でつひに歌などを詠うだ事はおりない。これは許いてくれさしめ。
▲亭「これは定めて御卑下でがなござらう。これへお腰を掛けさせらるゝ程のお方は、皆一首づゝ遊ばしまする。こなたにも何とぞ一首詠ませられて下されうならば、私の外聞にもなる事でござる。
▲大「何ぢや。外聞。
▲亭「中々。
▲大「やい太郎冠者。異な事を外聞に召さるなあ。
▲冠「左様でござる。
▲大「外聞とも仰しやるによつて、一首詠うでも見ようか。
▲亭「それは近頃忝うござる。
▲大「さりながら久しう詠まぬによつて、案ぜずばなるまい。その内はつゝとそちらを向いて居てくれさしめ。
▲亭「畏つてござる。
▲冠「七本八本。
▲大「何ぢや。七本八本。
▲冠「しい。七重八重でござる。
▲大「なうなう。今のはちと違うておりやる。
▲亭「何とでござる。
▲大「七重八重でおりある。
▲亭「はあ。七重八重。
▲大「中々。
▲亭「まづ五文字が面白い事でござる。
▲大「さうであらう。後はなほ面白い事でおりやる。
▲亭「早う承りたうござる。
▲大「追つ付け申さう。九つ時。
▲冠「しい。九重とこそ思ひしに。
▲大「今のはざれ言でおりやる。
▲亭「はあ。何とでござる。
▲大「九重とこそ思ひしにでおりやる{*5}。
▲亭「これは段々面白うござる。
▲大「この後はいよいよ面白い事でおりやる{*6}。
▲亭「早う承りませう。
▲大「只今申さう。はらりと開いた。
▲冠「十重咲き出づる。
▲大「や。十重咲き出づる。《太郎冠者少し腹を立て、すぐに臑と鼻の先を教へて引込むなり》
面目もない。又違うておりやる。
▲亭「再々違ひまするの。
▲大「今度は十重咲き出づるでおりやる。{*7}
▲亭「ちと吟じて見ませう。
▲大「や。吟じて見ませう。勝手次第。
▲亭「七重八重九重とこそ思ひしに十重咲き出づる。これは殊の外面白うござる。後を承りたうござる。
▲大「この後は、なほなほ面白い事でおりやる。只今申さう。いや。太郎冠者が見えぬ。太郎冠者太郎冠者。
▲亭「申し申し。どれへ御出なさるゝぞ。
▲大「太郎冠者が見えぬ。
▲亭「歌に太郎冠者がいるものでござるか。平に今の後を仰せられい。
▲大「むゝ。今の後はあまり面白うもおりない。聞かずとも置かしめ。
▲亭「面白うないと云うて、前の後が聞かずに置かれませうか。是非とも仰せられい。
▲大「それならば宿から云うておこさう。
▲亭「その様な事があるものでござるか。平に今の後を仰せられいと申すに。
▲大「今の後は、七重八重でおりやる。
▲亭「それは、いつもじで合点でござる。その後は。
▲大「その後は、九重とこそ思ひしにであつた。
▲亭「その後は。
▲大「はて、十重咲き出づるでおりやる。
▲亭「それでは字が足りませぬ。
▲大「足らずば足らぬと疾う仰しやらいで。足しておまさうものを。
▲亭「何と。
▲大「十重咲き出づる十重咲き出づると、足る程仰しやれ。
▲亭「こゝな人は。身共をおなぶりやるか。それでは字が短いと申すに。
▲大「短くば短いと仰しやらいで。長うしておまさうものを。
▲亭「何と。
▲大「十重咲き出づると、いつまでなりとも引かしめ。
▲亭「やあら。こなたはいよいよ身共をなぶると見えた。その十重咲き出づるの後を仰しやらぬと、後へも先へもやる事ではないぞ。
▲大「はあ。今思ひ出いた。
▲亭「何と。
▲大「物と。
▲亭「何と。
▲大「物と。
▲亭「何と。
▲大「十重咲き出づる。
▲亭「十重咲き出づる。
▲大「太郎冠者が向かう臑。
▲亭「あのやくたいなし。とつとゝお行きやれ。
▲大「面目もおりない。

校訂者注
 1:底本は、▲「大汝分別して見よ」。
 2:底本は、「おめしりやるなや」。
 3:底本は、「はち」。
 4:底本は、「お召りやるなや」。
 5:底本は、「ありやる」。
 6:底本は、「面白い事でござる」。
 7:底本は、「おりやる。々。」。

底本:『狂言全集 上巻』「巻の一 七 萩大名」(国立国会図書館D.C.

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酢薑(すはじかみ) 大蔵流本

▲薑「これは洛外に住居致す薑売りでござる。毎日都へ商売に参る。今日も参らうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。誠にさすが都でござる。か程に毎日持て参つても、つひに売り余いて戻つた事がござらぬ。今日も仕合せを致したい事でござる。いや、参る程に上下の街道へ参つた。ちとこゝに休らうて参らう。
▲酢「これは辺土に住居致す酢売りでござる。毎日都へ商売に参る。今日も参らうと存ずる。この辺りから売りもつて参らう。酢は酢は。酢は御用にはござらぬか。酢は酢は。
▲ハ「いや、これへ何者やら参る。嚇いてやらう。やいやいやいやい。
▲ス「はあ。こなたはどなたでござる。
▲ハ「某をえ知らぬか。
▲ス「いゝや。何とも存じません。
▲ハ「某は薑売りぢやいやい。
▲ス「何ぢや。薑売りぢや。
▲ハ「中々。
▲ス「牛に喰らはれ誑された。目代殿かと思うて良い肝を潰いた。そなたが薑売りならば、某は酢売りぢやいやい。酢は酢は。酢は御用にござらぬか。
▲ハ「おのれ、そのつれな事を云うて。某に一礼をせずば、その酢を売らする事ではないぞ。
▲ス「それには又仔細でもあるか。
▲ハ「中々。仔細がある。云うて聞かせう。よう聞かしめ。
▲ス「心得た。
▲ハ「扨も辛こ天皇の御時、ひとりの薑売り、禁中を売り歩く。御門聞こし召し、あれはいかにと御諚ある。さん候ふ。あれは薑と申して、いかにも辛き物にて候ふと申し上ぐる。さらばその薑売りを召せとて召されしに、唐門をからりと通り、唐竹の縁に畏る。御門、唐紙障子をからからとあけ、からからと御感ありて、その時の御歌に、辛き物からし辛蓼辛蒜や、唐木で焚いて辛熬りにせんと遊ばされ、いかにも辛き酒を下されてよりこの方、某は売り物の司を持つて居るによつて、身共に一礼をせずば、その酢を売らする事ではないぞ。
▲ス「扨々夥しい仔細ぢや。さりながら、それ程の事はこの方にもある。云うて聞かせう。よう聞かしめ。
▲ハ「心得た。
▲ス「扨も推古天皇の御時、ひとりの酢売り禁中を売り廻る。御門聞こし召し、あれはいかにと御諚ある。さん候ふ。あれは酢と申して、いかにも酸き物にて候ふと申し上ぐる。さあらばその酢売りを召せ{*1}とて召されしに、すい門をするりと通り、簀の子縁にかすこまる。御門、墨絵の障子をするするとあけ、するすると御感あつて、その時の御詠歌に、住吉の隅に雀が巣をかけて、さこそ雀は住み良かるらんと遊ばされ、いかにも酸き御酢を下されてよりこの方、某も売り物の司を持つて居るによつて、身共に一礼せずば、その薑を売らする事ではないぞ。
▲ハ「扨も扨も、そなたの仔細も夥しい事ぢや。扨これでは何とも分からぬによつて、これから都へ上る路次すがら秀句を云うて、いづ方なりとも云ひ勝つた者が、売り物の司を持たうと思ふが何とあらうぞ。
▲ス「これは一段と良からう。
▲ハ「まづそなたから行かしめ。
▲ス「先次第におりやれ。
▲ハ「それならば身共から参らうか。
▲ス「それが良からう。
▲ハ「さあさあ、おりやれおりやれ。
▲ス「参る参る。
▲ハ「なうなう。あれをお見やれ。
▲ス「何とした。
▲ハ「雨も降らぬにから傘をさいて行くわ。
▲ス「むゝ。和御料は薑売りぢやの。
▲ハ「中々。
▲ス「薑売りにから傘から傘から傘。{*2}
▲ハ「《笑うて》扨々良い口ぢや。
▲ス「その後から菅笠をきて行くわ。
▲ハ「そなたは酢売りぢやの。
▲ス「中々。
▲ハ「酢売りに菅笠菅笠菅笠。{*3}
▲ス「《笑うて》和御料は殊の外良い口でおりやる。
▲ハ「いやいや。そなたの口には勝つ事はなるまい。
▲ス「いや。これこれ。あの川をからげて渡るわ。
▲ハ「あれは裾を濡らすまいためでおりやる。酢売りに裾裾裾。
▲ス「《笑ふ》薑売りにからげてからげて。{*4}
▲ハ「《笑ふ》扨も扨も面白い事ぢや。かやうに致いて参るならば、いつ参り着いたともなう都へ上り着くであらう。
▲ス「誠にいつ上り着くともなう上り着く{*5}であらう。
▲ハ「いや。なうなう。あれに子供がからかうて居るわ。
▲ス「むゝ。和御料は薑売りぢやの。
▲ハ「中々。
▲ス「薑売りにからかふからかふからかふ。{*6}
▲ハ「《笑ふ》あれをようよう見れば、相撲をとるのぢや。酢売りに相撲相撲相撲。《笑ふ》これこれ。あの木に烏が居るわ。
▲ス「その下に雀も居るわ
▲ハ「酢売りに雀雀雀。
▲ス「《笑ふ》薑売りに烏烏烏。{*7}
▲ハ「《笑ふ》扨も扨も、そなたは良い口ぢや。
▲ス「いやいや。和御料の口には勝たれぬ。
▲ハ「さあさあ、おりやれおりやれ。
▲ス「参る参る。
▲ハ「あの屏風をお見やれ。あれは唐絵ではないか。
▲ス「誠に皆墨絵に書いてある。
▲ハ「この藪を見さしめ。皆唐竹ぢや。
▲ス「あれをすつぱと切つて、酢筒にしたら良からう。
▲ハ「酢売りに酢筒酢筒酢筒。
▲ス「《笑ふ》薑売りに唐竹唐竹唐竹。{*8}
▲ハ「《笑ふ》いかないかな。そなたの口には勝たるゝ事ではないぞ。
▲ス「いやいや。和御料の口に勝つ事はならぬ。
▲ハ「扨よう思ふに、かやうに云うては果てぬ事ぢや。とかく薑といふ物は、酢でなければ喰はれぬ事ぢやによつて、これから酢薑と云うて、両人して売り物の司を持たうと思ふが何とあらうぞ。
▲ス「これは一段と良からう。
▲ハ「とてもの事に、秀句を云ひのけに致さう。
▲ス「なほなほでおりやる。
▲ハ「身共は薑売りぢやによつて、からからと笑うて行かう。
▲ス「一段と良からう。《アト真ん中へ出て笑うて入る》
▲ハ「はゝあ。笑うたり笑うたり。いや。身共は酢売りぢやによつて、あの隅からこの隅へすみかけて参らう。皆そこ元へ御免すい。《秀句この他にも何程もあるべし。大体を認め置く。三つ四つ云うて止むべし》

校訂者注
 1:底本は、「其酢を召せ」。
 2:底本は、「▲ス「薑売りにから傘から傘から傘。《笑うて》▲ハ「扨々良い口ぢや。」。
 3:底本は、「▲ハ「酢売りに菅笠菅笠菅笠。《笑うて》▲ス「和御料は殊の外良い口でおりやる。」。
 4:底本は、「▲ハ「あれは裾を濡らすまいためでおりやる。酢売りに裾裾裾。《笑ふ》▲ス「薑売りにからげてからげて。《笑ふ》▲ハ「扨も扨も面白い事ぢや。」。
 5:底本は、「とり着(二字以上の繰り返し記号)であらう」。岩波文庫本(『能狂言』1945刊)に従い改めた。
 6:底本は、「▲ス「薑売りにからかふからかふからかふ。《笑ふ》▲ハ「あれをようよう見れば、相撲をとるのぢや。」。
 7:底本は、「▲ハ「酢売りに雀雀 。《笑ふ》▲ス「薑売りに烏烏烏。《笑ふ》▲ハ「扨も扨も、そなたは良い口ぢや。」。
 8:底本は、「▲ハ「酢売りに酢筒酢筒酢筒。《笑ふ》▲ス「薑売りに唐竹唐竹唐竹。《笑ふ》▲ハ「いかないかな。」。

底本:『狂言全集 上巻』「巻の一 八 酢薑」(国立国会図書館D.C.

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