江戸期版本を読む

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カテゴリ:狂言 > 幸田露伴校大蔵流狂言(『狂言全集』(1903))

鞍馬参(くらまゝゐり) 大蔵流本

▲シテ主「これはこの辺りに住居致す者でござる。今日は初寅でござるによつて、鞍馬へ参らうと存ずる。まづ太郎冠者を呼び出いて申し付けう。《常の如く呼び出して》
汝を呼び出す事、別なる事でもない。今日は初寅ぢやによつて鞍馬へ参らうと思ふが、何とあらうぞ。
▲アト冠者「一段と良うござりませう。
▲シ「それならば何ぞ道具を持てと云へ。
▲ア「畏つてござる。やいやい。頼うだ人の鞍馬へ参らせらるゝによつて、何ぞ道具を持てと仰せらるゝ。ぢやあ。申し申し。
▲シ「何事ぢや。
▲ア「お道具とは何の事ぢやと申しまする。
▲シ「これはいかな事。某が家に居て道具をえ知らぬか。弓なりと鎗なりと或いは鉄砲なりと持てと云へ。
▲ア「心得ました。やいやい。頼うだ人の御内に居てお道具をえ知らぬか。弓なりと鎗なりと或いは鉄炮なりと持てと仰せらるゝ。ぢやあ。申し申し。
▲シ「何事ぢや。
▲ア「弓は絃が切れてござる。鎗は過日どれへやら遣らせらるゝ。鉄炮は人のかたげて歩くならでは見ぬと申しまする。
▲シ「某が前では苦しうない{*1}が、各の前でその様な事を云ふなと云へ。
▲ア「畏つてござる。
▲シ「所詮参りに長道具はいらぬもの。汝一人供に連れう。
▲ア「それが良うござらう。
▲シ「追つ付けて行かう。さあさあ来い来い。
▲ア「参りまする参りまする。かやうの神参りに長道具はいらぬものぢやが、太刀などを持ちましたは、なりの良いものでござる。
▲シ「某も追つ付け作つて持たせうぞ。
▲ア「それが良うござらう。
▲シ「いや、参る程にもはや御前ぢや。
▲ア「誠に御前でござる。
▲シ「汝もこれへ寄つて拝め。
▲ア「畏つてござる。
▲シ「やいやい。拝まぬか。
▲ア「拝まずと良うござる。
▲シ「拝まずと良いと云うて、主より先へ出て拝むといふ事があるものか。
▲ア「神仏の前では主と下人の隔てはないと申す。
▲シ「いかに神仏の前ぢやと云うて、主と下人の隔てがなうて叶はうか。今夜は通夜をする。汝はそれへ寄つて寝ずの番をせい。
▲ア「寝ずの番を致しまするか。
▲シ「夜が明けたならば早う起こせ。
▲ア「畏つてござる。
▲シ「ゑい。
▲ア「はあ。これはいかな事。内で使ふが足らいで、外でまで寝ずの番をせいと云はるゝ。見れば余念なう寝て居らるゝ。ちと起こさうと存ずる。申し申し。
▲シ「何事ぢや。
▲ア「宿坊へは寄らせられぬか。
▲シ「いやいや。思ふ仔細があるによつて、宿坊へは寄るまい。云はれぬ事々を云はずとも、寝ずの番をせい。
▲ア「心得ました。これはいかな事。宿坊へも寄るまいと仰せらるゝ。いつも宿坊へ寄らせらるればお茶の御酒のとあつて、某までも御馳走になる。某ばかりなりと参らうと存ずる。申し申し。
▲シ「何事ぢや。
▲ア「宿坊へは私ばかりなりと参りませうか。
▲シ「こゝな奴は。おのれを遣れば某も行く。いつも宿坊へ寄ればお茶の御酒のとあつて御馳走になる迷惑さに、寄るまいと云ふ事ぢや。云はれぬ事を云はずとも、寝ずの番をせい。
▲ア「はあ{*2}。憎さも憎し。今一度起こさう。申し申し申し。
▲シ「あゝ喧しい。何事ぢや。
▲ア「もう喧しう申しますまい。
▲シ「むゝ。汝がさう云ふも推量した。伏せりたさの儘であらう。許す。行て休め。
▲ア「畏つてござる。
▲シ「夜が明けたならば早う起こせ。
▲ア「心得ました。
▲シ「ゑい。
▲ア「はあ。なうなう。嬉しや嬉しや。これを聞かうまでぢや。さらば休まう。はあはあ。あらありがたや。多門天より御福を下された。見れば夜も明けた。さらば頼うだ人を起こさう。申し申し。
▲シ「何事ぢや。
▲ア「夜が明けました。
▲シ「誠に夜が明けた。この様な時こそ起こすものなれ。扨、夜前宿坊へ寄らなんだによつて、すぐに下向せう。
▲ア「それが良うござらう。
▲シ「さあさあ来い来い。
▲ア「参りまする参りまする。
▲シ「扨いつとは云ひながら、夜前も大籠りであつたなあ。
▲ア「誠に大籠りでござりました。
▲シ「あの大籠りの内に夜半ばかりの頃、汝が声でわつぱと云うたが、あれは何事であつたぞ。
▲ア「あの大籠りの内には私に似た声もござらうが、私ではござらぬ。
▲シ「こゝな奴は。汝を使ふ某が、余の者の声と汝が声とを聞き紛ふものか。確かに聞いた。包まず云へ。
▲ア「扨は真実聞かせられたか。
▲シ「中々。聞いた。ありやうに云へ。
▲ア「それならば何を隠しませうぞ。夜前多門天より御福を下されてござる。
▲シ「それはめでたい事ぢや。その様子は。
▲ア「夜前夜半ばかりの頃、御殿の内が震動致いてござれば、八十ばかりの老僧の香の衣に香の袈裟、皆水晶の数珠をつまぐり鳩の杖にすがり、汝年月鞍馬へ参れども、つひに福を与へぬ。今こそ福を与ふるとあつて、福ありの実を下されてござる。
▲シ「それはめでたい事ぢや。まづそれに待て。
▲ア「畏つてござる。
▲シ「これはいかな事。某へ下されう御福を、太郎冠者に下されてござる。面白可笑しう申して、福をこの方へ取らうと存ずる。やいやい太郎冠者。某も御福を賜つたわ。
▲ア「それは諸共にめでたい事でござる。
▲シ「仔細は汝が云ふに少しも違はぬ。某へ下されうずれども、折節太郎冠者を連れたによつて太郎冠者に渡す。路次で受け取れと仰せられた。その御福をこの方へおこせ。
▲ア「これは迷惑でござる。
▲シ「何の迷惑。
▲ア「こなたの御福はこなたの御福、私の福は私の福と、別々に致しませう。
▲シ「でも多門天の仰せられた事を翻す事はならぬ。足元の明るい内渡いてな。
▲ア「扨は真実受け取らせらるゝか。
▲シ「おんでもない事。
▲ア「ちと待たせられい。
▲シ「心得た。
▲ア「これはいかな事。あの体で云はるゝによつて、渡さずばなるまい。とても渡すからは、散々になぶつて渡さうと存ずる。申し申し。
▲シ「何事ぢや。
▲ア「又多門天の仰せられた事を聞かせられたか。
▲シ「いゝや。何とも聞かぬ。
▲ア「福を渡さば、福渡しといふ事をして渡せ。さなくば渡しそと仰せられてござる。
▲シ「扨その福渡しといふは難しい事か。
▲ア「別に難しい事でもござらぬ。私の、鞍馬の大悲多門天の御福を主殿に参らせたりや参らせたと申さば、こなたは、たばつたりやたばつたと仰せらるゝ分の事でござる。
▲シ「その分の事か。
▲ア「中々。
▲シ「大方覚えた。受け取らう程に早う渡せ。
▲ア「畏つてござる。鞍馬の大悲多門天の御福を主殿に参らせたりや参らせた。
▲シ「扨これはいつ頃云ふ事ぢや。
▲ア「置いてあさつて頃仰せられい。
▲シ「すれば遅いといふ事か。
▲ア「左様でござる。
▲シ「今度は言葉の下から受け取らう。早う渡せ。
▲ア「畏つてござる。鞍馬の大悲多門天の御福を主殿に参らせたりや参らせた。
▲シ「たばつたたばつたたばつたたばつた。
▲ア「はあ。喧しうござる。その様に仰せられては御福が渡りませぬ。今度は左右をして静かに{*3}受け取らせられい。
▲シ「心得た。早う渡せ。
▲ア「鞍馬の大悲多門天の御福を主殿に参らせたりや参らせた。
▲シ「たばつたりやたばつた。
▲ア「それはあまりねばうござる。今度は小拍子にかゝつて受け取らせられい。
▲シ「早う渡せ。
▲ア「大悲多門天の御福を主殿に参らせたりや参らせた。
▲シ「たばつたりやたばつた。
▲ア「参らせた。
▲シ「たばつた。
▲ア「参らせた。
▲シ「たばつた。
▲ア「はゝあと仰せられい。
▲シ「はゝあ。
▲ア「申し。めでたい事がござる。
▲シ「それがいかやうな事ぢや。
▲ア「御福はこなたにとうとござりました。
▲シ「それこそめでたけれ。行て休め。
▲ア「はあ。
▲シ「ゑい。
▲ア「はあ。

校訂者注
 1:底本は、「若しうない」。
 2:底本は、「ア」。
 3:底本は、「左右をしてるに」。岩波文庫本(『能狂言』1943刊)に従い改めた。

底本:『狂言全集 上巻』「巻の二 一 福渡」(国立国会図書館D.C.

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釣狐(つりぎつね) 大蔵流本

▲狐「《次第》別れの後に啼く狐、別れの後に啼く狐、吼噦の涙なるらん。《地に取らす》
これはこの所に年久しく住む狐でござる。こゝに誰と申して大いたづら者のあるが、この間狐を釣る程に釣る程に、某の類を悉く釣り絶やいてござるによつて、聊爾に餌をかけに出る事がならいで迷惑致す。何とがな致さうやれと存ずるところに、彼が伯父坊主に伯蔵主と申してござるが、これが申す事は、たとへあまさかさまな事を申してもあの者が承引致すと申すによつて、伯蔵主に化けて参り意見を申さうと存じ、形の如くよう化けたかと存ずる。やうやう日も暮れる。時分も良うござるによつてまづそろりそろりと参らうと存ずる。誠に物には取り得がござるわ。あの者が犬などを飼うて置いたらば、かやうに参る事はなるまいに、犬を飼はぬがこれが一つの取り得でござる。これはいかな事。今遠いで犬が啼いたれば、近くて啼くかと存じてびつくりと致いた。これと申すも心に誤りがあるによつて、遠いで啼く犬の声にさへ怖づる程にの。いや。参る程にこれぢや。まづ案内を乞はう。物申、案内申。
▲アト「いや。表に物申とある。案内とは誰そ。いゑ、伯蔵主様{*1}でござるか。
▲キツネ「おう。愚僧でおりやる。
▲ア「これは早日も暮れましたに、何と思し召しての御出でござるぞ。
▲キ「只今参るも別なる事でもおりない。ちとそなたに意見をしたい事があつて遥々と来てすわ。
▲ア「それは忝うござる。まづかう通らせられい。
▲キ「いやいや。それへは通るまい。これで申さう。
▲ア「それならばこれで承りませう。扨御意見と仰せらるゝはいかやうの事でござるぞ。
▲キ「別の事でもおりない。聞けばそなたは狐を釣るとの。
▲ア「いや。左様の事は致しませぬ。
▲キ「な隠さしましそ。寺へ来る程の人が、そなたの甥の誰こそは狐を釣れ。あれはつゝと執心深い恐ろしいものぢやによつて、余の者にさへ意見を仰しやらうそなたがなぜに意見を仰しやらぬぞと、来る程の人が仰しやるによつて、よもや偽りではおりやるまい。
▲ア「扨はそれ程にまでお耳へ入りましてござるか。それならば何を隠しませうぞ。ふと人に頼まれまして一二匹釣りましてござるが、それより段々面白うなつて、いかさま狐の十四五匹も釣りませうか。
▲キ「それそれそれお見やれ。人といふものは無い事は云はぬものでおりやる。仏の戒には殺生・偸盗・邪淫・妄語・飲酒戒とて、殺生を一の頭に戒めて置かれた。これを愚僧が作り出いて云ふでもない。こゝに狐の執心の深い恐ろしい物語がある。語つて聞かさう程にようお聞きやれ。
▲ア「承りませう。
▲キ「すべて狐は、神にてまします。
▲ア「ほう。
▲キ「天竺にてはやしほの宮、唐土にてはきさらぎの宮、我が朝にては稲荷五社の明神、これ正しき神なり。まつた人皇七十四代鳥羽の院の上童に玉藻の前と云ひしも狐なり。君に御悩を掛けし故、安倍泰成占ひて、壇に五色の幣を立て、薬師の法を行ひければ、叶はじとや思ひけん、下野の国那須野が原へ落ちて行く。極内通のものなれば、大凡にしては叶はじとて、三浦の介・上総の介両人に仰せ付けらるゝ。両人仰せ承り、家の面目これに過ぎじと家の子若党引き連れて那須野が原に下着して、犬は狐の相なれば犬にて稽古あるべしとて、百日犬をば射たりける。それより犬追物といふ事始まりたり。されば百日に満つる日、大きなる狐矢先に中つて死すれば、君の御悩も治らせ給ふ。なほもその執心大石となつて、人間の事は申すに及ばず畜類鳥類までもその石の勢に当たつて死す。されば殺生をする石なればとて、殺生石とは付けられたり。総じて狐といふものは、仇をなせば仇をなす。恩を見すれば恩を報ずる。あたかも身に影の添ふが如く執心の深い恐ろしいものぢやによつて、この以後はふつゝと釣らしますな。
▲ア「扨々かやうの恐ろしい御物語を初めて承つてござる。この上はふつゝりと狐を釣る事ではござらぬ。
▲キ「それならばとてもの事に、その狐を釣る道具をも捨てゝくれさしめ。
▲ア「それはこなたのお帰りなされた後で捨てませう。
▲キ「いやいや。愚僧が戻つた後でその道具を見たならば、又釣りたい心が出れば悪いによつて、とてもの事に愚僧が目の前で捨てゝくれさしめ。
▲ア「それならば畏つてござる。これでござる。
▲キ「くんくん。なう生臭や生臭や。早う捨てゝくれさしめ。
▲ア「心得ました。《この間にくんくんと云ふ》申し。罠を捨てましてござる。
▲キ「むゝ。何ぢや、罠を捨てさしました。
▲ア「中々。
▲キ「やれやれ。愚僧が遥々と来て意見を申したに、承引なくば腹も立たうに、承引あつて罠まで捨てゝくれさしまつて、愚僧も満足してすわ。
▲ア「何が扨こなたの御意見{*2}でござるものを、承引致さぬと申す事がござらうか。扨、最前から余程間もござるによつて、ちと通らせられい。
▲ キ「いや。最前からそれへ通らなんだも、この間狐を釣つた事なれば内もむさからう程に、清うなつてやがて参らう。
▲ア「それならば、清うなつてやがて御出なされませい。
▲キ「ちと寺へも渡らしめ。
▲ア「参りませう。
▲キ「愚僧が事なれば、別に馳走はおりない。昆布に山椒、良い茶を申さう{*3}。
▲ア「そのお茶が何よりでござる。
▲キ「構へて茶ばかりでおりやるぞや。
▲ア「心得ました。
▲キ「さらばさらば。
▲ア「ようござつた。
▲キ「おう。なうなう嬉しや嬉しや。まんまと意見を申して罠までを捨てさせてござる。この様な心良い{*4}時は、小歌節で元の古塚へ戻らうと存ずる。
我が古塚を忍び忍びに立ち出て、往なうやれ戻らうやれ。我が古塚へしやならしやならと。
これはいかな事。誠にきやつが心が直つて罠までを捨てたかと存じたれば、某が帰る道の真ん中にまんまと張り済まいて置いた。総じて人間が我等如きのものを見ては、野狐の心ぢやなどゝ云うて笑ふと聞いたが。はあ。きやつは畜生には劣つた、執心の深い怖ろしい奴でござる。扨某も折節罠の辺りは通れども、いかやうの事をして若狐どもを釣る事やら、怖ろしうてつひに見た事がござらぬ。良いついでゞござるによつて、そと見ようと存ずる。さりながら、これはちとこは物ぢや。くんくんくん。なうなう。旨い匂ひかな。若狐どものかゝるこそは道理なれ。上々の若鼠を油揚げにして置いた程にの。いやいや。この様な所に長居は無用。只道を替へて元の古塚へ戻らうと存ずる。が、よう思へば、きやつは某がためには累類の命を取つた敵ぢや。見え逢うたこそは幸ひなれ。敵討ちを致さうと存ずる。いや。おのれよう聞け。おのれがその真つ黒な小さいなりをして、よう某が累類の命を取つたな。おのれ、それが良いかこれが良いか。只今敵討ちをするぞ。ゑい。おのれめおのれめおのれめおのれめ。もはや堪忍ならぬ。飛び掛かつて喰はう。いやいや。この重い物を着て居て喰うたならば、その儘罠に掛かるでござらう。とてもの事にこの重い物を脱いで来て、たつた一口に致さうと存ずる。やい。おのれよう聞け。今この重い物を脱いで来てたつた一口にする程に、そこを一寸でも退いたらば卑怯者であらうぞ。ゑい。くわいくわいくわい。《中入り》《アト名乗座に立つて》
▲ア「最前伯父の伯蔵主の参られて、某が狐を釣る事を色々意見を申され、とてもの事に狐を釣る道具をも捨てゝくれいと申されてござるが、何とやら不思議な事もござつたによつて罠を捨てたと申して、則ち捨て罠と申すものに致いて置いてござるが、今罠の辺りで狐の啼き声が致いてござる。心元なうはござるによつて参つて見ようと存ずる。まづそろりそろりと参らう。あの伯蔵主はつひにあの様な事を申された事がござらぬ。その上伯蔵主の寺からは余程隔たつてござつて、夜中などに参られた事もござらぬ。何とも合点の参らぬ事でござる。南無三宝。さればこそ某が申さぬ事か。毒餌を散々に致いた。これは疑ひもない、古狐が伯蔵主に化けて参つて某を誑いたと見えた。扨々憎い奴でござる。何としたものであらうぞ。おうそれそれ。かやうに一度餌に付いては重ねて参るものぢやによつて、今度は本罠に掛けて置いて伯蔵主狐を釣らうと存ずる。扨々憎い奴でござる。誠かうござらうと存じて、某も中々油断は致さぬ。試しに捨て罠にして置いたをこの様に散々に致いた。思へば思へば腹の立つ事でござる。今に見居れ。この罠に掛けてその儘打ち殺いてくれう。はあ。大方罠も良うござる。扨これはどの辺りへ掛けて置かうぞ。あの山よりこの細道を通る事もあり。又あの谷合からこの畦道を参る事もござるが。これはどの辺りが良からうぞ。とかくこの道が夥しう狐の通る所ぢや。さらばこゝ元に掛けて置いてかの伯蔵主狐を釣らうと存ずる。これこれ。一段と良うござる。扨この辺りに忍うで居て様子を見ようと存ずる。《と云うて、打ち杖を持ち笛の上に着け、中入り後シテ幕際にて啼く時、その方を見て頭を下げ忍び入る。それより狐一の松へ出る時も、随分頭を下げ目を付けて居る。舞台へ入りかなたこなたと狐歩く内も、いかにも忍びて目を付けて居る。狐罠に掛かると打ち杖で舞台を叩きて頭を上げる。狐罠に掛かるとしやぎりを吹き、ホツハイヒウロロと云ふ時、外して入る》
そりや掛かつたわ。おのれ憎い奴の。ようもようも伯蔵主に化けて来て某を誑し居つたな。おのれそれが良いかこれが良いか。只今打ち殺いてくれう。おのれ拝うだというて逃がさうか。ようもようも騙した。只今ひと打ちに打ち殺すぞや。これはいかな事。罠を外いた。扨々残念な事かな。やいやい誰ぞ居らぬか。それへ古狐が逃げて行く。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞやるまいぞ。

校訂者注
 1:底本、ここに「様」はない。岩波文庫本(『能狂言』1945刊)に従い補った。
 2:底本、ここに「御」はない。岩波文庫本(『能狂言』1945刊)に従い補った。
 3:底本は、「昆布に山椒能良い茶を申さう」。
 4:底本は、「心面い(原文に心面いとあれども、蓋し心宜いの誤に疑ひ無からん。)」。

底本:『狂言全集 上巻』「巻の二 二 こんくわい」(国立国会図書館D.C.

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伯母酒(をばがさけ) 大蔵流本

▲シテ甥「これは、この辺りに住居致す者でござる。某山一つあなたに伯母を一人持つてござるが、毎年酒を造つて商売致さるれども、殊の外吝い人でござつて、いつ参つても酒を一つ呑めと云はれた事がござらぬ。今日はちと思案を致いた事がござる程に、あれへ参りねだつてたべうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。いや。誠に世に吝い人もあるものでござれども、この方の伯母の様な吝い人はござるまい。今日こそ是非とも振舞はるゝであらう。いや。参る程にこれぢや。申し申し伯母者人。ござりまするか。
▲アト伯母「誰ぢや。
▲シ「私でござる。
▲ア「ゑい。誰か。そなたは久しう見えなんだが、何と変る事もおりないか。
▲シ「私もかれこれ致いて御無沙汰申しましてござるが、こなたも変らせらるゝ事もござらいで、めでたうござる。
▲ア「お見やる通り、妾も変る事もおりないよ。
▲シ「扨当年もまた酒を造らせられてござるか。
▲ア「中々。相変らず造つておりやるが、殊の外良う出来て、この様な満足な事はおりない。
▲シ「やれやれ。それは一段の事でござる。それにつき、今日参るも別なる事でもござらぬ。私の在所は薄う広い所でござるが、近頃御酒が殊の外はやりまするによつて、もし良く出来ましたならば、ひけんして{*1}売つて進じませうか。
▲ア「やれやれ。それは嬉しい事ぢや。なる事ならば、ひけんして売つてくれさしめ。
▲シ「中々。売つて進じませうが、良い酒か悪しい酒か、私がきいて見ずばなりますまい程に、一つきかせて下されい。
▲ア「近頃易い事ぢやが、そなたのきいて見るには及ばぬ。只良い酒ぢやと云うて売つてくれさしめ。
▲シ「こなたの何程良いと仰せられても、私がきいて見ねば知れませぬ。その上甘いを好いて参る衆もござり、又辛いを好く衆もござるところで、たべたうはござらねども平に一つきかせて下されい。
▲ア「その甘いを好く衆へは甘いで進じようず。辛いを好いて参る衆へは辛いを進じよう。その上今日は未だ売り初めをせぬによつて、和御料にきかする事はならぬ。
▲シ「扨々こなたは義理の堅い事を仰せらるゝ。則ち私に振舞はせらるゝが売り初めと申すものでござる。
▲ア「いや。妾はお足を取らねば売り初めとは思はぬ。
▲シ「はあ。すればこれ程に申しても、きかせらるゝ事はなりませぬか。
▲ア「中々。ならぬ。
▲シ「それならばたべますまい。私はもうかう参りまする。
▲ア「もはやおりやるか。
▲シ「さらばさらば。
▲ア「良うおりやつた。
▲シ「はあ。これはいかな事。扨々吝い人でござる。それ程に申したに振舞はれぬ。何と致さう。いや、思ひ出いた。致し様がござる。申し、ござるか。ござりまするか。
▲ア「和御料はまだ行かぬか。
▲シ「かう参りまするが、こなたへ申さう申さうと存じて、はつたと忘れた事がござるによつて、それ故立ち戻りましてござる。
▲ア「それは又いかやうな事ぢやぞ。
▲シ「さればその事でござる。この間私の在所へは七つ過ぐるといかめな鬼が出まするによつて、七つ過ぐると皆背戸門をさいて用心致しまする。承れば山一つこなたへも参つたとやら申しまする。こなたは一人御出なさるゝ事でござるによつて、七つ過ぎたならば用心をなされたならば良うござらう。
▲ア「やれやれ。それは怖ろしい事ぢや。誠に妾は一人居る事ぢやによつて、七つ過ぎたならば店を仕舞うて用心をするであらうぞ。
▲シ「この事を申さう申さうと存じて参つて、はつたと忘れましたによつて、それ故立ち戻りましてござる。それならばかう参りまする。
▲ア「もはやおりやるか。
▲シ「さらばさらば。
▲ア「良うおりやつた。
▲シ「はあ。なうなう嬉しや嬉しや。まんまと誑し済まいた。かやうに致すも別なる事でもござらぬ。つゝと臆病な人でござるによつて、こゝに風流の面がござる程に、これをかけて嚇いて、酒をたべうと存ずる。
▲ア「扨も扨も怖ろしい事でござる。最前甥の誰が参つて申すは、七つ下がるといかめな鬼が出ると申すによつて、もはや背戸門をさいて用心を致さうと存ずる。さらさらさら。はつたり。
▲シ「物申。案内申。
▲ア「最前店を仕舞うてござる程に、用があらば明日ござれ。
▲シ「これは近所の者でござるが、客があつて急に酒がいりまする程に、こゝをあけて下されい。
▲ア「何ぢや。近所の人ぢや。
▲シ「中々。
▲ア「いゑ。それならばあけておまさう。さらさらさら。
▲シ「いで喰らはう喰らはう。《と云うて、一遍追うて一の松へ追ひ詰める》
▲ア「あゝ。許させられい許させられい。《と云うて、逃げて廻り一の松へかゞみ居る》
▲シ「やいやいやいそこな奴。
▲ア「はあ。
▲シ「汝は憎い奴の。七つ下がつて殊に女の身としてこの家に一人居るは、定めて武辺立てゞあらう。頭からひと口にいで喰らはう。あゝ。
▲ア「あゝ。武辺立てゞはござらぬ。真つ平命を助けて下されい。
▲シ「おのれ真実命が助かりたいか。
▲ア「中々。命が助かりたうござる。
▲シ「命が助かりたくば、この鬼の云ふ事を聞くか。
▲ア「何なりとも承りませう。
▲シ「おのれは第一吝い奴ぢや。
▲ア「いや。吝うはござらぬ。
▲シ「身共がよう知つて居る。おのれ山一つあなたに甥を一人持つて居るではないか。
▲ア「こなたはよう御存じでござる。
▲シ「その甥が遥々と見舞ひに来ても、沢山にある酒を一つ振舞ふ事がないとな。
▲ア「いや。参る度ごとに振舞ひまする。
▲シ「身共がよう知つて居る。向後見舞ひに来たならば、夏ならば冷し済まし、又冬ならば燗をし済まいて、あれが厭と云ふ程呑まさうか。呑ますまいか。
▲ア「呑ませませう呑ませませう。
▲シ「汝呑まさぬに於いては、頭からひと口にいで喰らはう。あゝ。
▲ア「あゝ。呑ませませう呑ませませう。
▲シ「何ぢや。呑ませう。
▲ア「中々。
▲シ「それならば命を助けてやる。扨この鬼も酒が一つなるわやい。
▲ア「はあ。
▲シ「今酒蔵へ行て呑む程に、某が行方を見るな。
▲ア「見る事ではござらぬ。
▲シ「見たならば、頭からひと口にいで喰らはう。あゝ。
▲ア「見る事ではござらぬ。
▲シ「見るな。
▲ア「見は致さぬ。
▲シ「見るな。
▲ア「見は致さぬ。
▲シ「それや見居つたわ。頭からひと口にいで喰らはう。
▲ア「あゝ。見は致しませぬ。
▲シ「見るなと云ふに。
▲ア「見は致さぬ。
▲シ「見るな。見るな。《と云うて正面の方へ出て》
これが酒蔵ぢや。さらば戸をあけう。見居るまい。《なぞ云うて》くわらりくわらりくわらくわらくわら。扨も夥しい壺数ぢや。これ程ある酒をつひに振舞うた事がござらぬ。扨どれに致さうぞ。これに蓋の取りかけたのがある。これに致さう。《と云うて蓋を取つて》むゝ。扨も扨も旨い匂ひがする。まづ汲む物を取つて参らう。《と云うて太鼓座へ取りに行き、腰桶の蓋を取つて又こゝにて》
見居るまいぞ。見たならばいで喰らはう。あゝ。《と云うて嚇す。伯母は始終かゞみて居る。扨蓋を持つて行き》
まづ一つ汲んでたべう。《と云うて酒を一つ呑まうとして、面へ閊ふる故》これはいかな事。はつたと忘れた。《と云うて面を片手にて外して呑む。呑んでから又面を着て》はあ。今朝からたべたいたべたいと存ずるところへ、つゝかけて呑うだによつて、只冷やりとばかりで風味を覚えぬ。今一つ呑うで風味を覚えう。《汲んで》
見居るまいぞ。《と云うて嚇し、初めの如くして呑む》
はあ。扨も扨も伯母者人の自慢を召さるゝは道理ぢや。殊の外良い酒ぢや。今一つたべうか。これでは窮屈な。何とぞ今少しゆるりとしてたべたいものぢやが。おうそれそれ。良い事を思ひ付いた。《と云うて面を右の方、横へ廻して着る》
おのれ見居るまいぞ。見たならば頭からひと口にいで喰らはう。あゝ。《と云うて頭を振り、足踏みして嚇す》
おうこれこれ。一段と良い。さらば又汲んでたべう。扨も扨も、この様な旨い酒はつひに呑うだ事がござらぬ。今一つたべうか。まだこれでも頭が重い。とてもの事に頭を軽うして呑みたいものぢやが。おうそれそれ。致し様がある。《と云うて左を下にして横になり、右の足を立て膝を折り、膝頭へ面を着せて》
やい。この方を見居るまいぞ。見たならばいで喰らはう。あゝ。《と云ひて足踏みして嚇す》
これこれ。これで一段と楽になつた。さらば今一つたべう。あゝ。扨も扨も呑めば呑む程旨い酒ぢや。今一つたべう。おのれ見居るまいぞ。見たならば、頭からひと口にいで喰らはう。あゝあゝ。これは良い慰みぢや。さらばたべう。あゝ。ちと酔うたさうな。とてもの事にちと休んでたべう{*2}。《蓋を枕にして寝て嚇す》
見居るまいぞ。見たならば、頭からひと口にいで喰らはう。あゝ。見るな。見居るまいぞ。《段々と酔うて寝る》
▲ア「なうなう。怖ろしや怖ろしや。最前甥が参つて知らせてござるが、真実でござる。あまの命を拾うた。扨殊の外静かになつたが。もはや出て行たか知らぬ。こは物ながら参つて見ようと存ずる。《と云うてそろりそろりとさし足して舞台へ入り、面を見付けて》
あゝ。真つ平命を助けて下されい。酒は惜しみませぬ程に、いか程も参つて早う出て行て下されい。申し申し。なぜにものを仰せられぬぞ。ものを仰せられいでは迷惑にござる。申し申し申し。《と云ひながら、そろそろと顔を上げて見て、後には立つて、甥を見付けて》
なう。腹立ちや腹立ちや。鬼ぢや鬼ぢやと思うたれば、あれは甥の誰ぢや。おのれ何としてくれうぞ。やいやいやい。《と云うて起こす。シテ起こされて、うつゝにて》
▲シ「いで喰らはう。《と云うて足にて嚇す》
▲ア「またそのつれな事をするか。これは何とした事ぢや。《と云うて面を取る。シテ目を覚まし、枕にしたる蓋を面と思ひ、顔に当てゝ》
▲シ「いで喰らはう。《と云うて嚇す》
▲ア「何のいで喰らはう。よう妾を誑し居つたな。
▲シ「あゝ。許させられい許させられい。《と云うて、ひよろひよろとして逃げ入る》
▲ア「あの横着者。捕らへて下されい。やるまいぞやるまいぞ。《と云うて追ひ入る》

校訂者注
 1:「ひけんして」は、底本のまま。意味不詳。
 2:底本は、「ちと休んでたでう」。

底本:『狂言全集 上巻』「巻の二 四 伯母酒」(国立国会図書館デジタルコレクション

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二千石(じせんせき) 大蔵流本

▲シテ大名「罷り出でたる者はこの辺りに住居致す者でござる。某召し遣ふ下人が、暇をも乞はいでいづ方へやらおりさうてござる。承れば夜前の帰つたとは申せども、未だ某が前へ目見えも致さぬ。言語道断憎い奴でござるによつて、今日は彼が私宅へ立ち越え、散々に折檻を加へうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。いや。誠に暇を乞うてござらば、五日や十日は取らせませうものを。暇を乞はぬところが憎うござる。いや。参る程に彼が私宅はこれでござる。某が声と聞いたらば出ますまいによつて、作り声を致し呼び出さうと存ずる。《扇をかざして》
物申。案内申。
▲アト冠者「やら奇特や。夜前罷り帰つたを早どなたやら御存じあつて、表に物申とある。案内とは誰そ。物申はどなたでござる{*1}。
▲シ「しさり居ろ。
▲ア「はあ。
▲シ「俄かの慇懃迷惑致す。お手上げられい。
▲ア「はあ。
▲シ「その如く主の声をも聞き忘るゝ程の不奉公ではなるまい。この間は某に暇をも乞はいで、いづ方へおりさうた。
▲ア「さればその事でござる。一人召し使はるゝ太郎冠者の事でござれば、お暇の儀を申し上げたりともとても下されまいと存じ、忍うで京内参りを致しましてござる。
▲シ「むゝ。京内参りをすれば、主に暇を乞はぬ法ですか。
▲ア「はあ。
▲シ「憎い奴の。これはいかな事。散々に折檻を加へうと存じてござれば、京内参りを致いたと申す。都の様子も承りたうござるによつて、まづこの度は差し許さうと存ずる。やいやい。許す程に立て。
▲ア「それは誠でござるか。
▲シ「誠ぢや。
▲ア「真実でござるか。
▲シ「一定ぢや。
▲ア「あら心安や。
▲シ「何と気遣ひにあつたか。
▲ア「いつもより御気色が変らせられてござるによつて、すはお手討ちにでも遭ひませうかと存じて、身の毛を詰めて居りました。
▲シ「定めてさうであらう。某もいついつよりも腹は立つたれども、京内参りをしたと云ふによつて許いた。これへ出て都の様子を語れ。
▲ア「畏つてござる。天下治まりめでたい御代でござれば、あなたのお振舞ひのこなたの御参会の{*2}と申して、都は殊の外賑やかな事でござりまする。
▲シ「定めてさうであらう。扨何も珍しい事は流行らなんだか。
▲ア「別に珍しい事も流行りませなんだが、謡がひと節流行りましたによつて、習うて参りました。
▲シ「それは又何と思うて習うて来たぞ。
▲ア「さればその事でござる。御一門の中にもこなたはお大名の事でござれば、何れもの御参会に初めは上座をなさるれども、すは乱舞ともなれば次第次第に下座へ下がり、畳の縁をむしつてござるを、私の物蔭から見ましてあまり御笑止に存じ、御指南をも申さうと存じて習うて参りました。
▲シ「何と云ふぞ。《太郎冠者云うた通り受けて云うて》指南をもせうと思うて習うて来たと云ふか。
▲ア「左様でござる。
▲シ「やれやれ。それはようこそ習うて来た。追つ付け謡が聞きたい程に、床机をくれい。
▲ア「畏つてござる。はあ。御床机でござる。
▲シ「太郎冠者。これへ出い。
▲ア「畏つてござる。
▲シ「何と囃子の者でも呼ばうか。
▲ア「いや。私の心拍子で謡ひまするによつて、囃子の衆には及びませぬ。
▲シ「それはなほなほぢや。早う謡へ。
▲ア「畏つてござる。
二千石の松にこそ、千歳を祝ふ後までも、その名は朽ちせざりけれ、その名は朽ちせざりけれ。
▲シ「面白い謡ぢや。又謡へ。
▲ア「畏つてござる。
二千石の松にこそ。《又謡ふ。主左へ向く》
いやいや。頼うだ人は面白いかしてあなたへ向かせられた。あちらへ参つて謡はう。
二千石の松にこそ。《又謡ふ。主今度は右へ向く》
これはいかな事。今度は又あなたを向かせられた。さらばあちらへ参つて謡はう。但しお耳が遠うならせられたか知らぬ。
松にこそ。
▲シ「しさり居ろ。
▲ア「はあ。
▲シ「南無謡の大明神。只今の謡は私の存じて謡はせたではおりない。真つ平御免あれ。やい。おのれ只今成敗せうずれども、御存じないお方の思し召しに、故もない事に成敗したとあつては、後難が口惜しい。今謡の仔細を語つて聞かせ、その上で成敗する程にさう心得い。
▲ア「これは迷惑にござる。
▲シ「何の迷惑。それへ出て聞き居ろ。
▲ア「はあ。
▲シ「《又床机にかゝり》まづ某が親の親は祖父よな。
▲ア「祖父御様でござる。
▲シ「その親は曾祖父、その親の親のつゝとあつちの代の事にてありしに{*3}、安倍の貞任、奥州衣川の城郭に籠り盛昌我意に任せらるゝ間、都より討手の大将を下さるゝ{*4}。その時の大将軍は忝くも八幡殿にてありしよな。まづは攻めも攻め、怺へも怺へけるぞ。前九年後三年、合はせて十二年三月と云ふもの攻めらるゝ。或る時八幡殿に御酒宴始まりしかば、某が先祖の祖父お酌に立つ。大将たうたうと受け給ひ、祝言一つとありしかば、その時鎧の引き合はせより扇子抜き出し、銚子の長柄をたうたうと打つて、二千石の松にこそ千歳を祝ふ後までもその名は朽ちせざりけれと、押し返し三遍謡ふ。大将なのめならず思し召し三盃干し給ひ、程なく敵を滅ぼし天下一統の御代とならし給ふも、ひとへにこの二千石の祝言の謡の故なり。以てこの謡の恩賞を与へんとて、宇多の庄といふ大庄を給はつてよりこの方、ひこひこおほぢ曽祖父、親である者、今某が代に至るまで活計歓楽に誇るも、ひとへにこの二千石の祝言の謡の故なり。いゝや。かやうの大事の謡をおよそにしては叶はじと、乾の角に壇を築き石の唐櫃切つて据ゑ、一つ謡うてはどうと入れ、二つ謡うてはどうと入れ、石の唐櫃の蓋のふうとする程謡ひ入れ、七重に注漣󠄁{*5}を張り、南無謡の大明神と額を打つて崇むる程の大事の謡を、何ぞやおのれが主に暇を乞はいで都へ失するのみならず、二千石の祝言の謡、謡ふ事曲事にてあるぞとよ。
▲ア「いや。私は存じませぬが、都で流行りましたによつて習うて参りました。
▲シ「いやいや。都では流行るまいが、おのれが持つて行て流行らせたものであらう。所詮謡はせぬ調儀がある。お直りそへ。《太郎冠者泣くを見て》
むゝ。汝はほゆるよな。さすがは下々ぢや。余人にも仰せ付けられうをお手討ちになさるゝ事、生々世々ありがたいなどゝ云うて、につこと笑うて斬られう。汝がその面を下げてほゆるは、但しこの太刀の鎺元物打ち切つ先に名残りが惜しいか。今ぬかせ。
▲ア「いや。その御太刀の鎺元物打ち切つ先に名残りは惜しうござらねども、私は大殿様より召し使はれた者でござるが、ある徒然に違ひ棚にある尺八を取つて来いと仰せ付けられたを、取つて参るとて畳の縁に躓いて転うでござれば、あの躾もない奴のとあつて、その尺八をおつ取つて御打擲なされたそのお手元と、今又こなたの直れ、斬らうと仰せられて、太刀を振り上げさせられたお手元が、大殿様によう似まして、それが哀れでほえまする。
▲シ「何と云ふぞ。そちは親者人の時より召し使はれた者ぢやよな。
▲ア「左様でござる。
▲シ「あるつれづれに尺八を取り来いと仰せ付けられたを、取つて来るとて畳の縁に躓いて転うであれば、あの躾もない奴のとあつて、その尺八をおつ取つて御打擲なされたお手元と、今身共が直れ、斬らうと云うて太刀を振り上げた手元が、親者人によう似て、それが哀れでほゆると云ふか。
▲ア「左様でござる。
▲シ「それでの。
▲ア「中々。《これより主も泣きて{*6}》
▲シ「扨々汝は哀れな事を思ひ出いた。さう云ふ者の太刀の打ち付けう所がない。命を助くるぞ。
▲ア「それは誠でござるか。
▲シ「誠ぢや。
▲ア「真実でござるか。
▲シ「何しに偽りを云はうぞ。則ち太刀も鞘に収むるぞ。
▲ア「その様に早速お心の直らせらるゝ所は、よう似させられてござる。
▲シ「何ぢや。よう似た。
▲ア「中々。
▲シ「汝を年月使へども、何を一色もやらぬ。これは重代なれどもそちに取らするぞ。
▲ア「かやうに物を下さるゝお手元はその儘でござる。
▲シ「何ぢや。似たと云ふか。
▲ア「左様でござる。
▲シ「さう云ふ者に何が惜しからうぞ。これはわざよしなれども、これも汝に取らするぞ。
▲ア「この様に重ね重ね下さるゝお手元は生き写しでござる。
▲シ「かう行く姿は。
▲ア「その儘でござる。
▲シ「又戻る姿は。
▲ア「今目の前に見る様にござる。
▲シ「何ぢや。よう似たと云ふか。
▲ア「左様でござる。
▲シ「昔から親に似ぬ子は鬼子ぢやと云ふが、似たも道理よな。
▲ア「左様でござる。《これまで始終泣きて》
▲シ「やい。太郎冠者。
▲ア「何事でござる。
▲シ「何を歎くぞ。昔から子が親に似て代々跡を継ぐ程めでたい事はない。哭くところではあるまい。めでたう笑うて戻らう。
▲ア「良うござりませう。
▲シ「それへ出い。
▲ア「心得ました。
▲シ「又出い。
▲ア「畏つてござる。
▲シ「さあ笑へ。《両人ともに笑うて留めるなり》

校訂者注
 1:底本は、「物申誰様でござる」。
 2:底本は、「御振舞。此方の」。
 3:底本は、「代のにてありしに。の貞任」。
 4:底本は、「討手の安倍大将を下さるゝ」。
 5:底本は、「住連」。
 6:底本は、「これよりも」。岩波文庫本(『能狂言』1942刊)に従い補った。

底本:『狂言全集 上巻』「巻の二 五 二千石」(国立国会図書館D.C.

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悪坊(あくばう) 大蔵流本

▲アト出家「これは西近江に住居致す出家でござる。今日は所用あつて東近江へ参る。まづ急いで参らうと存ずる。誠に今日は空が曇つてござるによつて、傘を持つてござる。何とぞ途中で雨に遇はぬ様に致したい事でござる。《と云うて一遍廻る内に出る》
▲シテ「ざゞんざ。浜松の音はざゞんざ。
はあゝ。酔うた酔うた。いや。これへ出家が参る。なうなう御坊。
▲ア「はあ。
▲シ「御坊はどれへおりやるぞ。
▲ア「西近江から東近江へ参る者でござる。
▲シ「何ぢや。西近江が東近江へ行かうた。
▲ア「いや。左様ではござらぬ。西近江から東近江へ参る者でござる。
▲シ「むゝ。何ぢや。西近江から東近江へ行く。
▲ア「中々。
▲シ「お供致さう。
▲ア「いや。見ますれば御仁体でござる。連れには似合ひますまい。御先へ参りませう。
▲シ「あゝこれこれ。連れには似合うたもあり、又似合はぬ連れもあるものぢや。是非ともお供申さう。
▲ア「その儀でござらば御意次第でござる。
▲シ「それならば先へおりやれおりやれ。
▲ア「まづこなたから御出なされませい。
▲シ「あゝ勿体ない。尊い御出家を何と後にさるゝものぢや。平に先へおりやれおりやれ。
▲ア「それならばお先へ参りませう。
▲シ「さあさあござれござれ。
▲ア「参る参る。
▲シ「はあゝ。扨御坊はどれからどれへやら行くと仰しやつたの。
▲ア「西近江から東近江へ参りまする。
▲シ「おうそれそれ。西近江から東近江へ行くと仰しやつた。なう御坊。
▲ア「はあ。
▲シ「この長刀をかうかいこうだところは、早からうか遅からうか。
▲ア「出家の事でござるによつて、早うござらうも遅うござらうも存じませぬ。
▲シ「さう云ふは遅いと云ふ事か。
▲ア「はあ。《と云うて傘で受くる》
▲シ「その傘で受けたところは、この長刀が切れまいと思ふか。おそらくその傘の十本や廿本は切り折つてお目に掛けう。
▲ア「あゝ。切れませう切れませう。
▲シ「何ぢや。切れう。
▲ア「中々。
▲シ「それならば堪忍をしてやらう。《立つてみても立たれぬ故》いや。なう御坊。
▲ア「はあ。
▲シ「身共はちと酔うたさうな。慮外ながら手を取つてくれさしめ。
▲ア「畏つてござる。さらば立たせられい。
▲シ「やつとな。いや。なうなう。怖い事はない。さあさあ。手を取つておくりやれ。
▲ア「畏つてござる。さあさあござれござれ。
▲シ「参る参る。扨御坊は、どれへやら行くと云うたの。
▲ア「西近江から東近江へ参りまする。
▲シ「おうそれそれ。西近江から東近江。いや。来る程に某が定宿ぢや。一飯を申し付けよう。かう通らしめ。
▲ア「いや。私はもはやお暇を申しませう。
▲シ「はて。一飯を申し付けうと云ふに。
▲ア「それならば通りませう。
▲シ「つゝと通らしめ。
▲ア「畏つてござる。
▲シ「それにゆるりとおりやれ。
▲ア「心得ました。
▲シ「やいやい亭主亭主。
▲亭主「はあ。いゑ。悪坊様。今日も良いご機嫌でござる。
▲シ「いつおのれが酒を盛つた事があるぞ。
▲亭「はあ。
▲シ「御出家を一人同道した程に、一飯の云ひ付けい。
▲亭「畏つてござる。
▲シ「早う拵へい。
▲亭「心得ました。
▲シ「ゑい。
▲亭「はあ。
▲シ「いや。なうなう御坊。
▲ア「何事でござる。
▲シ「御坊はこの長刀が怖さうな。
▲ア「殊の外怖ろしうござる。
▲シ「あの柱へ寄せ掛けて置かう。
▲ア「それが良うござらう。
▲シ「いや。なうなう御坊御坊。
▲ア「はあ。
▲シ「身共はちと酔うたと見えて、あの柱が十本にも廿本にも見ゆる。これでは中々寄せ掛ける事はなるまい。只下に置かう。
▲ア「それが良うござらう。
▲シ「扨この刀も怖さうな。
▲ア「中々。怖うござる。
▲シ「これも下に置かう。
▲ア「それが良うござる。
▲シ「扨身共は殊の外草臥れた程に、これへ寄り、腰を打つてくれさしめ。
▲ア「畏つてござる。
▲シ「やつとな。
▲ア「この辺りでござるか。
▲シ「おう。その辺でおりやる。
▲ア「これで良うござるか。
▲シ「おう。良うおりやる。
▲ア「これで良うござるか。
▲シ「良うおりやるとも。《いくつも云ふ。段々とシテ寝入る》
▲ア「これで良うござるか。《と云うて強く打つ》
▲シ「がつきめ。やるまいぞ。《と云うて起き返り、刀を取つて反り打つ》
▲ア「旅疲れに疲れましてちと眠りまして、それ故強う打つたものでござる。真つ平許させられい。
▲シ「何ぢや。旅疲れで眠つて強う打つたと云ふか。
▲ア「左様でござる。
▲シ「それならば堪忍をせう。扨今度はこちらを打つてくれさしめ。
▲ア「畏つてござる。
▲シ「とてもの事にこの小袖を上へ掛けてくれさしめ。
▲ア「心得ましてござる。
▲シ「必ず眠るまいぞ。
▲ア「今度こそ眠る事ではござらぬ。この辺りでござるか。
▲シ「おう。その辺りが良うおりやる。
▲ア「これで良うござるか。
▲シ「それで良うおりやる。《又いくつも云ふ。初めの内は一度一度にシテ挨拶する。段々と寝る。出家篤と見澄まして、強く打つてみても起きぬ故、脇へのきて》
▲ア「なうなう怖ろしや。あまの命を拾うた。申し。御亭主。ござりまするか。
▲亭「何事でござる。
▲ア「あれは何と申す人でござる。
▲亭「こなたはあの人を御存じござらぬか。
▲ア「いゝや。何とも存じませぬ。
▲亭「あれは六角の童坊に悪坊と申して、大の酔狂人でござつて、あの人に逢うて疵を蒙らぬ者はござらぬが、こなたは疵は蒙らせられぬか。
▲ア「いやいや。仕合せと疵は蒙りませぬ。扨私はかう参りまする。
▲亭「一飯を申し付けられて、もはや出来ました。参つてござれ。
▲ア「いや。一飯も二飯もいりませぬ。私を往なせて下されい。
▲亭「それならばともかくもでござる。
▲ア「後を良い様にくろめて下されい。
▲亭「心得ました。
▲ア「頼みまする。
▲亭「はあ。
▲ア「なう怖ろしや。急いで参らうか。余り憎い事でござる。何と致さう。いや。致し様がござる。《傘と長刀と取り替へ、助老と刀を取り替へ、衣と小袖を取り替へ、刀を差し壺折をして長刀を持つて》
やい。最前身共をなぶつたが良いか。これが良いか。今起きて見居れ。この長刀をのせてくれうぞ。ゑい。なう怖ろしや。急いで罷り帰らう。
▲シ「はあ。よう寝た事かな。誰ぞ湯をくれい茶をくれい。これはいかな事。家ぢや家ぢやと思うたれば、これは定宿ぢや。定めて又たべ酔うて、これへ来て寝たものであらう。はあ。殊の外寒うなつたが。小袖は何とした知らぬ。はあ。これは何ぢや。これは衣ぢや。何として衣がこゝにある事ぢや知らぬ。又身共が刀があるはずぢやが。はゝあ。これは何ぢや。おうそれそれ。これは禅僧の座禅をする時かうする、助老といふ物ぢや。この助老が何としてこれにある事か。合点の行かぬ事ぢや。又長刀があるはずぢや。はあ。これに傘がある。身共が宿を立ち出る時は、小袖を着刀を差し長刀を持つて出たが、その様な物は一色もなうて、衣やら助老や傘があるわ。何とも合点の行かぬ事ぢや。はゝあそれそれ。最前夢心の様に出家を一人同道したと思うたが、日頃身共が大酒を好み悪逆を致すによつて、仏道に引き入れんため、定めて釈迦か達磨の変化させられて、この姿になされたものであらう。今日よりしてはぷつゝりと思ひ切つたぞ。
思ひ寄らずの遁世や、思ひ寄らずの遁世や。小袖に替へしこの衣、刀に替へしこの助老、長刀に替へたる傘をかたげて、頭陀に出ようよ頭陀に出ようよ。
行脚の僧に鉢を申さう。はつちはつち。

底本:『狂言全集 上巻』「巻の二 六 悪坊」(国立国会図書館D.C.

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