江戸期版本を読む

江戸期版本・写本の翻字サイトとして始めました。今は、著作権フリーの出版物のテキストサイトとして日々更新しています(一部は書籍として出版)。校訂本文は著作物です。翻字は著作物には該当しません。ご利用下さる場合、コメントでご連絡下さい。

カテゴリ:狂言 > 幸田露伴校大蔵流狂言(『狂言全集』(1903))

右近左近(おこさこ) 大蔵流本

▲右近「これはこの辺りに住居致す右近と申すお百姓でござる。誠に当年は豊年とは申しながら、某が田は畦を限つてよう出来て、この様な満足な事はござらぬ。それについて、ちと苦々しい事が出来てござるが、某が分別にはあたはぬによつて、女共を喚び出し相談を致さうと存ずる。いや。なうなう。これのは内に居さしますか。
▲女房「妾を用ありさうに呼ばせらるゝは、いかやうの事でござるぞ。
▲右「ちと用の事がある程に、まづかう通らしめ。
▲女「心得ました。扨御用と仰せらるれば心元なうござるが、それはいかやうの事でござるぞ。
▲右「別の事でもおりない。まづ当年は豊年とは云ひながら、某が田は畦を限つてよう出来て、この様な満足な事はおりないぞ。
▲女「誠に豊年とは申しながら{*1}、こなたの田は畦を限つてよう出来て、妾も悦びまする。
▲右「これと云ふも、そなたの精を出いてくれた故ぢやと思へば、ひとしほ悦ぶ事でおりやる。
▲女「左様に思し召して下さるれば、妾も骨を折つた甲斐あつて嬉しう存じまする。
▲右「扨それにつき、ちと気の毒な事が出来ておりやるわ。
▲女「それは又いかやうな事でござるぞ。
▲右「さればその事ぢや。この間左近めが牛を放いておこいて、某が田を大目程撫で喰ひにさせたによつて、その儘左近が所へ行て、なぜにこれの牛を放いておこいて田を喰はせたと云うたれば、はて畜生のした事ぢやによつて、堪忍をしたが良いと云ふ。成程畜生のした事ぢやによつて堪忍をせうが、それならば牛をおこすか、年貢をはかるかと云うたれば、それもならぬと云ふ。某も余り腹が立つたによつて、この事を地頭殿へ公事に上げうと云うたれば、出居にとうと寝て居て、公事に上げたくば上げうまでよと、ねそねそと云うたが、何と腹の立つ事ではないか。
▲女「扨々それは憎い事でござる。こなたと妾と骨を折つて作り済まいた田を牛に喰はするといふは、近頃腹の立つ事ではござれども、左近殿の云はるゝ通り、畜生のした事でござるによつて、これは堪忍をなされたならば良うござらう。
▲右「これはいかな事。和御料までその様な事を仰しやる。いかに畜生のした事ぢやと云うて、これを堪忍をすれば、目の前で身共が損の行く事{*2}ぢや。その上去年の未進さへ済まさずに置いて、何と堪忍がなるものでおりやるぞ。
▲女「お腹立ちは近頃御尤ではござれども、こゝをよう聞かせられい。あの左近殿は村での口きゝでござり、その上地頭殿をば手一杯にせられまする。又こなたは口不調法にはあり、その上地頭殿へと云うては、年頭の礼ならではござらぬによつて、この事を公事に上げさせられたりと、こなたの負けになりませう程に、これは堪忍をなされたならば良うござらう。
▲右「おう。そなたの仰しやる通り、左近は口きゝにはあり、地頭殿は手一杯にする。又身共は口不調法にはあり、地頭殿へとては年頭ならで行た事はない。扨相談と云ふはこゝの事ぢや。今も云ふ通り、身共は口不調法ぢやによつて、和御料名代に出て、この事を良い様に公事に上げてくれさしめ。
▲女「なう物狂や物狂や。男ありながら、何と妾が出らるゝものでござる。これはぷつゝりと思ひ止まらせられい。
▲右「すればこれ程に云うても、そなたが出る事はならぬか。
▲女「何と{*3}女が出らるゝものでござるぞ。
▲右「良い良い。置き居れ。頼まぬ。上は御清粋ぢや。理を以て申し上ぐるに、負くるといふ事があるものか。おそらくは勝つて見せう。
▲女「あゝ申し申し。すればどうあつてもこの事を公事に上げさせられねばなりませぬか。
▲右「この事を公事に上げいで何とするものぢや。
▲女「それならば、妾が云ふ事を聞かせられい。総じて公事と申すものは、云ひ様によつて理を以て非に落つるものでござる。その上最前も申す通り、こなたは口不調法なお方でござるによつて、地頭殿へ出て公事に上げうと思し召す事を、宿で稽古なされい。妾が地頭殿になつて公事を承つて、悪しい処があらばこゝが悪しいかしこが悪いと申して、直いて遣はしませうが、何とござらう。
▲右「むゝ。何と云ふぞ。某は口不調法なによつて、地頭殿へ出て云ふ事を宿で稽古して見よ。そなたが聞いて直いてくれうと仰しやるか。
▲女「中々。その通りでござる。
▲右「これは一段と良からう。何とぞ聞いて直いてくれさしめ。
▲女「さりながら、こなたも家{*4}ぢやと思し召して、又例の我が儘が出ませう程に、地頭殿ぢやと思し召していかにも謹んで稽古なされい。
▲右「何が扨謹んで稽古するであらう。又そなたもそれでは地頭殿らしうない程に、地頭殿らしう取り繕うて出さしめ。
▲女「妾も取り繕ひませうず。早う出させられい。
▲右「追つ付け出よう。《太鼓座へ入る》
▲女「かやうに致すも別なる事でもござらぬ。妾はちと訳があつて、左近殿の贔屓をせねばなりませぬ。《と云うて笛の上へ引つ込み、烏帽子を着刀を差し棒を持つて、御白洲と云ふ時分に出て腰掛けて居る》
▲右「扨も扨もこちの女共を、地下の衆も他郷の衆も褒めさせらるゝは尤ぢや。某が口不調法ぢやによつて、地頭殿へ出て公事に上ぐる事を宿で稽古して見よ、直いてくれうと申す。はあ。扨地頭殿へはこれを真つ直に行て、ひち通れば則ち御門ぢや。御門には門番衆が居らるゝによつて、挨拶を云うて通らずばなるまい。はあ。これは当所に住居致す右近と申すお百姓でござるが、ちと公事がござつて御白洲へ通りまする。通させられて下されい。通れ。はあ。いづれも近頃御大儀に存じまする。《などゝ云うて》
まづ御門は通つた。扨これからは御玄関ぢや。御玄関には侍衆が出て居らるゝ所で、これはちと慇懃に云うて通らずばなるまい。はあ。物申し上げまする。これは当所に住居致す右近と申すお百姓でござるが、ちと公事の様な事がござつて御白洲へ通りまする。何とぞお通しなされて下されい。通れ。はゝ。はあ通りまする。これはいづれも様、近頃ご苦労に存じまする。御免ありませう。通りまする。《などゝ云うて》
はあ。まんまと御玄関をば通つたわ。扨これからは御白洲ぢや。これには地頭殿が自身出て居らるゝ所で。あゝ。これは気味が悪うなつた。誠に女共が無用にせいと申したに、已めに致せば良うござつたものを。但し戻らうか。いやいや。御門を通り御玄関を通つたによつて、後へは返すまい。あゝ。扨これは苦々しい事ぢやが。何としたものであらうぞ。おうそれそれ。男の心と大仏の柱は太うても太かれと云ふ。何の思い切つて行くに、行かれぬと云ふ事があるものか。恐らくは往んで見せう。
▲女「やい。こゝなうろたへ者。何者ぢや。
▲右「あゝ。真つ平許させられい。
▲女「おのれ。何者ぢや。
▲右「私は当所に住居致す右近と申すお百姓でござる。
▲女「その右近がこれへは何として出たぞ。
▲右「この間右近が牛が放たれて、左近が田を喰べました。
▲女「それならば左近が出るはずぢや。
▲右「あゝ。只今のは申し違へてござる。左近が牛が放たれて、右近を喰べましてござる。
▲女「何ぢや。牛が右近を喰うた。
▲右「いやいや。左様ではござらぬ。左近が右近が田をたうました。
▲女「それでは分からぬ。早う云はぬか。
▲右「右近がたこでござる。
▲女「あのうろたへ者。縛れ。括れ。
▲右「あゝ。もはや参りまする。許させられい。あゝ。悲しや悲しや悲しや。《と云うて気を失ふ》
▲女「扨も扨も気の毒なゝりかな。申し申し。これは何とした事でござるぞ。気を確かに持たせられい。
▲右「あゝ。もはや戻りまする。許させられい許させられい。
▲女「これこれ。妾でござるわ妾でござるわ。
▲右「何ぢや。妾。
▲女「中々。妾でござるわ。
▲右「和御料はこれへ何しに来た。
▲女「ゑい。又うろたへた事を仰せらるゝ。これは家{*5}でござるわ。
▲右「それならば地頭殿はどれへ行かれたぞ。
▲女「扨々むざとした。今の地頭殿は妾でござるわ妾でござるわ。
▲右「すれば今烏帽子を着刀を差し棒を持つて、縛れ括れと云うたはそちか。
▲女「中々。妾でござる。
▲右「やい。そこな者。
▲女「何事でござる。
▲右「公事の聞き様こそあらうずれ、今の様に理非も聞き分かいで、縛れ括れと云ふ事があるものか。
▲女「でもこなたの様にむざとした事ばかり云うて、何と公事がなるものでござるぞ。これはぷつゝりと思ひ止まらせられい。
▲右「おうそれそれ。身共が誤つた。この公事はそちと相談をせずば身共が勝たうものを。
▲女「いや。こなたは異な事を仰せらるゝ。それには又仔細ばしござるか。
▲右「仔細のない事を云はうか。一体おのれは左近贔屓ぢやいやい。
▲女「なう物狂ひや物狂ひや。こなたは人聞きの悪い事を仰せらるゝ。男ありながら、妾が左近殿の贔屓をするには、証拠ばしござるか。
▲右「証拠がなうて叶はうか。云うたらば恥をかゝうがの。
▲女「恥をかく覚えはござらぬ。あらば仰せられい。
▲右「それならば云はう。それ先度、地下に寄り合ひがあつたわ。
▲女「それが何と致した。
▲右「まづ聞け。身共も行く。左近も行たが、身共が行くとその儘、何やら用ありさうに左近が座を立つによつて、合点の行かぬ事ぢやと思うて某も後から行て見たれば、おのれは左近が所に居たではないか。
▲女「あれは左近殿の茶を飲めと云はれましたによつて、茶を飲うで居ました。
▲右「何ぢや。茶を飲うで居た。
▲女「中々。
▲右「《笑うて》茶を飲うだ者が、二人ともに鼻の上にしつぽりと汗をかくものか。
▲女「なう腹立ちや腹立ちや。妾が恥は誰が恥ぢや。皆こなたの恥ではないか。こゝな男畜生めが男畜生めが。
▲右「やい。そこな奴。
▲女「何ぢや。
▲右「箸に目鼻を付けても男は男ぢや。夫に向かうて男畜生と云ふ事があるものか。
▲女「でも我が恥を知らぬは畜生も同じ事ではないか。
▲右「おのれ総別、この間甘やかいて置けば方領もない。散々に習はかいて遣らう{*6}。《と云うて棒を取る》
▲女「又例の杖取りばいか。
▲右「いやあいやあいやあ。
▲女「何とするぞ何とするぞ。
▲右「いやあいやあ。
▲女「やあ。参つたの。《と云うて、女は男を打ち倒いて入るなり》
▲右{*7}「やいやいやいやい。身共をこの様にしても、おのれは左近とは婦夫ぢやいやい婦夫ぢやいやい。《と云うて、笑うても留める。又追ひ込むにも。両様なり》

校訂者注
 1:底本は、「申しがら」。
 2:底本は、「行く行」。
 3:底本は、「何も」。
 4・5:底本は、「内」。
 6:「ならはかす」は、「思い知らせる。懲らしめる」意。
 7:底本は、「▲「右やい(二字以上の繰り返し記号三つ)」。

底本:『狂言全集 上巻』「巻の二 七 内沙汰」(国立国会図書館D.C.

前頁  目次  次頁

胸つき(むねつき) 大蔵流本

▲アト「これはこの辺りに住居致す者でござる。某、等閑なう致す者に、米銭の取り替へてござる。もはや程久しい事でござれども、今に算用致しませぬ。この間も度々人を遣はせども留守を使ひ、たまたま内に居ては悪口致すと申す。ならずばならぬと申して、断りを申したならば腹も立ちませぬが、沙汰の限りな致し方でござるによつて、今日はあれへ参り、きつと算用を致さうと存ずる。まづそろりそろり参らう。誠に世話にも申す如く、借る時の地蔵顔なす時の閻魔顔とは、よう申したものでござる。いや。参る程にこれぢや。某が声と聞いたならば出ますまい程に、作り声を致いて案内を乞はうと存ずる。物申。案内申。
▲シテ「はあ。表に物申とあるが、あれは確かに誰殿の声でござる。又例の算用の事でわせたものであらう。逢うては難しい。留守を使はう。
▲ア「物申。
▲シ「留守。
▲ア「さう云ふは誰そ。
▲シ「隣の者でござるが、留守を預かつて居りまする。
▲ア「何ぢや。隣の者ぢや。《と云うてシテの扇子を取る》
▲シ「ゑ。こなたでござるか。
▲ア「あゝ。和御料は届かぬ人ぢや。身共が来たに、何として留守を使うたぞ。
▲シ「さればその事でござる。今日はちと逢ひともない者が参るはずぢやによつて、それ故留守を使ひました。何しにこなたと存じて留守を使ひませうぞ。近頃面目もござらぬ。
▲ア「久しう逢はぬ内に口上が上がつた。扨そなたは聞こえぬ人ぢや。
▲シ「何が聞こえませぬ。
▲ア「使ひを遣れば留守を使ひ、たまたま内に居ては使ひの者を悪口を召さるゝと聞いた。その様な沙汰の限りな事があるものか。
▲シ「いや申し。よう思し召しても見させられい。何しにこなたのお使ひを悪口致すものでござるぞ。それは皆お使ひの申しなしの悪しさの儘でござる。
▲ア「それはともあれ、内々の算用は何と召さるぞ。
▲シ「その事でござる。私も方々を走り廻つて才覚致いて、大方は調ひましたが今少々不足致いてござる。これも近々には出来るはずでござる。今二三日待たせられて下されい。
▲ア「そなたの二三日二三日も、ほうど聞き飽いた。今日は某が方へ連れて行て算用さする程に、さう心得さしめ。
▲シ「近頃御尤ではござれども、これまでさへ待つて下された事でござる程に、何とぞ二三日待つて下されい。
▲ア「いやいや。二三日と云うても又延々になれば悪しい。どうあつても今日は是非とも同道する程に、某が方へおりやれ。
▲シ「その上で今日は他へ参らいで叶はぬ所がござるによつて、こなたへは明日参りませう。
▲ア「はて、その行かいで叶はぬ所を明日にして、今日は是非とも身共が方へおりやれと云ふに。
▲シ「扨々こなたは聞き分けもない人ぢや。参るまいではござらぬ。明日参らうと申すに、その聞き分けのないといふ事があるものでござるか。
▲ア「いやいや。某も云ひかゝつた事ぢやによつて、どうあつても連れて行かねばならぬ。
▲シ「何ぢや。どうあつても連れて行かねばならぬ。
▲ア「中々。
▲シ「いよいよ云ひたい儘な事を仰しやる。いかに身共ぢやというて、こなたの自由になるものか。その様に仰しやらば、某もどうあつても参るまいが、何と召さる。
▲ア「それならば腕づくで連れて行て見せう。
▲シ「何ぢや。そなたの腕づくで。
▲ア「中々。
▲シ「《笑うて》腕づくで行くものか行かぬものか。ならば連れて行てお見やれ。
▲ア「云はせて置けば方領もない。身共も云ひかゝつた事を、連れて行かいで何とするものぢや。これでも行くまいか。
▲シ「これは何と召さる。
▲ア「何とすると云うて、連れて行く。
▲シ「いやいや。参るまい。
▲ア「どうあつても連れて行かねばならぬ。
▲シ「あゝ。痛々々。胸をしたゝかに打つた。これでは定めて死ぬるであらう。人殺しぢや。出合へ出合へ出合へ。
▲ア「あゝこれこれ。和御料は何としたぞ、何としたぞ。
▲シ「何としたとは情けない。身共が胸の砕くる程打つて。あれ。目が舞うて今死ぬるわ。出合へ出合へ出合へ。
▲ア「扨々それは気の毒な。某も強う当たつたとは思はねども、ふと強う当たつたものであらう。怪我ぢや程に堪忍をしてくれさしめ。
▲シ「何ぢや。堪忍せい。
▲ア「中々。
▲シ「なうそこな人。世に金銭を負うせた者もあれども、金銀故に命を取られた者もないものぢや。その上堪忍も事によつたものぢや。今死ぬる者が堪忍どころか。あゝ人殺し。出合へ出合へ出合へ。
▲ア「あゝこれこれ。扨々そなたは気の弱い。それ程の事で何と死ぬるものぢや。某も思はず強う打つたその詫び言に、今までの利分をば負けておまさうぞ。
▲シ「はあ。利分をば負けてやらう。
▲ア「中々。
▲シ「いや。なう。この痛みが何と利分くらゐで治るものぢや。ありやありや。胸が割るゝ様な。人殺し人殺し。出合へ出合へ出合へ。
▲ア「あゝこれこれ。その様に喧しう云うても治りはすまい。まづ静かにさしめ。それならば是非に及ばぬ。元利ともにやつた分にせう程に、堪忍をして早う快うなつてくれさしめ。
▲シ「や。何ぢや。元利ともにやつた分にせうと仰しやるか。
▲ア「中々。
▲シ「それではちと快うなつた様なが。やつた分ではまだ落ち着かぬ。そりやそりや。又痛いわ痛いわ。あゝ目が舞ふ。人殺し。出合へ出合へ出合へ。
▲ア「扨々苦々しい。あゝこれこれ。それならばさつぱりと元利ともそなたへおまするぞ。これでは快うなるであらう。
▲シ「やあやあ。元利ともさつぱりと下さるゝ。
▲ア「中々。それではもはや云ひ分はあるまい。
▲シ「それは近頃忝うござる。元利ともさつぱり貰うたと思へば、余程快うなつた様にござるが。はあ。又何とやら借状程の物がみぞおちへさし込むわ。ありやありや。痛いわ痛いわ。今死ぬるわ。人殺し。出合へ出合へ出合へ。
▲ア「あゝこれこれ。扨々そなたは喧しい人ぢや。今日はそなたに算用せうと思うて、借状も持つて参つた。これこれ。則ちこれも和御料へ遣る程に、さあさあ早う快うなつてくれさしめ。
▲シ「はあ。誠にこれは私の書いた借状でござる。すれば真実これを下さるゝか。
▲ア「中々。
▲シ「やれやれ。それは忝うござる。それならば引き裂いて捨てませう。
▲ア「とても遣るからは、いかやうになりともさしめ。
▲シ「《引き裂き捨てゝ》これこれ。これで一段と快うござる。
▲ア「おう。それで身共も落ち付いた。それならば立つて見さしめ。
▲シ「慮外ながら手を取つて下されい。
▲ア「これは尤ぢや。手を取つて遣らう。さらば立たしめ。
▲シ「やつとな。
▲ア「何と良いか。
▲シ「何ぢや。良いか。
▲ア「中々。《シテ笑ふ》
あゝこれこれ。和御料は今まで胸が割るゝの今死ぬるのと仰しやつたが、何をその様に可笑しいぞ。
▲シ「何が可笑しいと云うて、身共はどこも打ちは致さぬ。ありやうは、あの借状が取り戻したさの調儀でおりやる。《笑うて逃げ入る》
▲ア「なう腹立ちや。まんまと誑された。あの横着者。捕らへてくれい。やるまいぞ、やるまいぞ。
▲シ「あゝ許さしめ許さしめ許さしめ。

底本:『狂言全集 上巻』「巻の二 八 胸つき」(国立国会図書館D.C.

前頁  目次  次頁

茶壺(ちやつぼ) 大蔵流本

▲アト「《茶壺を背負ひ、「ざゞんざ」を謡うて出る》あゝ。酔うた酔うた。この道は一筋ぢやが、今日は二筋にも三筋にも見ゆる。これでは中々行かれまい。ちとこの所に休んで参らう。やつとな。
《と云うて左の肩を外して寝る》
▲シテ「これは昆陽野の宿を走り廻る、心も直にない者でござる。今日は昆陽野の市でござるによつて、あれへ参り、何ぞ良い物もあらば調儀致さうと存ずる。まづそろりそろりと参らう。今日は門出を祝うてござるによつて、何ぞ仕合せのない事はござるまい。これはいかな事。これに何者やら寝て居る。さらば起こいて遣らう。やいやい。こゝは街道ぢや。起きて行け。起きて行かいでな。あゝ。熟柿臭い。酒に酔うたと見えた。見れば良い物を背負うて居る。これを調儀致さう。《引いて見てうなづく》
やいやい。こゝは街道ぢや。起きて行かいでな。起きて行たならば良からう。
▲ア「あゝ。よう寝た。誰ぞ湯をくれい、茶をくれい。これはいかな事。これに何者やら寝て居る。やいやい。これは身共が物ぢや。こちへおこせ。
▲シ「これは身共が物ぢや。こちへおこせ。
▲ア「出合へ出合へ出合へ。
▲シ「やいやいやいやい。
▲目代「汝等はこの御政道正しい御代に、何事をわつぱと云ふぞ。
▲ア「私の物をあの者が取らうと申しまする。こちへおこせ。《シテ同じ様に云ふ》
▲目「いやいや。某が出ては聊爾はさせぬ。まづこれを身共に預けい。
▲ア「こなたはどなたでござる。
▲目「所の目代ぢや。
▲ア「目代殿ならば御礼申しまする。
▲シ「私も御礼申しまする。
▲目「いやいや。礼には及ばぬ。まづこれを身共に預けい。
▲ア「それならば預けまする程に、必ずきやつに遣らせらるゝな。
▲目「遣る事ではない。さあさあ。汝も預けい。
▲シ「私の物でござるによつて、預くるには及びませぬ。
▲目「いやいや。あの者も預けた程に、汝も預けい。
▲シ「それならば預けまする程に、必ずきやつに遣らせらるゝな。
▲目「心得た。扨汝は何者なれば、わつぱとは云ふぞ。
▲ア「私は中国の者でござるが、某の頼うだ者は殊ない茶好きで、毎年栂の尾へ茶を詰めにやられまする。又当年も、まんまと茶を詰めて下りまする処に、昆陽野の宿に知る人がござつて、これへ立ち寄つてござれば、殊の外御酒を強ひられ、正体もなうたべ酔い、こゝを路次とも存ぜず一方の肩を外いて伏せつて居りましたれば、あの者がどちからやら参つて、私の外いた方の肩へ手を入れ、我が物ぢやと申しまする。それを申し上がつての事でござる。目代殿でござらば、きつと仰せ付けられて下されい。《この言葉の内、シテ、目代の後ろより立ち聞きする》
▲目「あれが口をも問はう。まづそれに待て。
▲ア「心得ました。
▲目「やいやい。汝は何者なれば、わつぱとは云ふぞ。《シテ、アトの云ふ如くに云ふ》
はて。合点の行かぬ事ぢや。まづそれに待て。
▲シ「心得ました。
▲目「やいやい。あれは何ぢや。
▲ア「あれは茶壺でござる。
▲目「茶壺ならば入日記があらうが、知つて居るか。
▲ア「中々。私の傍に付いて居て詰めさせた事でござれば、書いた物よりよう覚えて居りまする。あれは存じますまい。問うて見させられい。
▲目「心得た。《又シテ立ち聞きして同じ様に云ふなり》
あれは何ぢや。
▲シ「あれは茶壺でござる。
▲目「茶壺ならば入日記があらう。覚えて居るか。《同断に云ふ》
あれも知つたと云ふわ。
▲シ「あれが知らうはずはござらぬが、知つたならばあれから先へ云へと仰せられい。
▲目「心得た。やいやい。汝から先へ云へと云ふわ。
▲ア「畏つてござる。
我が物故に骨を折る、我が物故に骨を折る、心の内ぞ可笑しき。《地を取る》
さ候へばこそ、さ候へばこそ。おれが主殿は中国一の法師にて、日の茶を点てぬ事なし。一族の寄り合ひに本の茶を点てんと、五十貫の庫裡を持ち、多くの足を使うて、兵庫の津には着いたり。兵庫を発つて二日に、栂の尾にも着きしかば、峯の坊・谷の坊。殊に名誉しけるは、赤井の坊の穂風を十斤ばかり買ひ入れ、背中にきつと背負うて、兵庫を指して下れば、昆陽野の宿の遊女が、袖をぢつと控へて、今様・朗詠・しほり萩を謡うて、抑へて酒を強ひたり。酒に酔うて寝たるを、日本一の大腑のあの古博奕打ちが来て、我が物と申すを、判断なしてたび給へ。所の検断殿。
▲目「一段とよう云うた。まづそれに待て。
▲ア「畏つてござる。
▲目「やいやい。あの者は云うた。汝も云へ。
▲シ「畏つてござる。《アトの舞ふ内、篤と見て、又同じ様に真似する》
▲目「一段とよう云うた。
▲シ「これは私の物でござる。かう持つて参る。
▲ア「遣つて下さるゝな。
▲目「いやいや。遣る事はならぬ。今度は相舞にせい。
▲シ「相舞には及ばぬ事でござる。
▲目「相舞にせいと云ふに。
▲シ「それならば畏つてござる。
▲目「汝も相舞にせい。
▲ア「心得ました。
▲シ「おのれが相舞にせうと思ふか。
▲ア「おのれが相舞にせうと思ふか。
▲シ「おのれ憎い奴の。
▲ア「おのれ憎い奴の。
▲目「やいやい。論はなし。急いで相舞にせい。
▲二人「心得ました。
▲目「どちなりとも、違うた方を曲事に云ひ付くるぞ。
▲二人「畏つてござる。《相舞にする。シテ、とかくアトの方を見て真似をする。アトも誑す心にて、「兵庫の津にも」のこの「も」の字を引き、二度「も」を云うて「着いたり」と云ふ。扨後にも「袖をぢつと」、又引いて云ふ。これも二度引く。又後の「酒に酔うて」のこの「て」の字も同断に引く。その外変りなし。シテは、とかくアトの後を後を、として行く心なり》
▲目「一段とよう云うた。理非を分けて取らせう。これへ出い。
▲二人「心得ました。
▲目「又出い。
▲二人「畏つてござる。
▲目「やい。聞くか。
▲二人「何事でござる。
▲目「昔より、論ずるものは中から取れと云ふ。これは身共が取つてのくぞ。《と云うて、目代茶壺を持ち、逃げ入る。》
▲ア「そなたの物にもならぬ。
▲シ「和御料の物にもならぬ。
▲ア「いざ、追ひかけう。
▲シ「それが良からう。
▲二人「あの横着者。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞ。

底本:『狂言全集 上巻』「巻の二 九 茶壺」(国立国会図書館D.C.

前頁  目次  次頁

末ひろがり(すゑひろがり) 大蔵流本

▲シテ「罷り出でたる者は、この辺りに隠れない大果報の者でござる。天下治まりめでたい御代でござれば、この間のあなたこなたの参会は夥しい事でござる。それにつき、某も近日一族衆を申し入れうと存ずる。又、上座にござる御宿老へ、末広がりを進上申さうと存ずるが、某が道具の内に末広がりがあるか、太郎冠者を呼び出し承らうと存ずる。やいやい。太郎冠者あるかやい。
▲冠者「はあ。
▲シ「居るか居るか。
▲冠「はあ。
▲シ「居たか。
▲冠「お前に。
▲シ「念なう早かつた。まづ立て{*1}。
▲冠「畏つてござる。
▲シ「汝を呼び出す事、別なる事でもない。天下治まりめでたい御代なれば、この間のあなたこなたの参会は、何と夥しい事ではないか。
▲冠「御意の通リ、あなたこなたの御参会は、夥しい事でござる。
▲シ「それよそれよ。それにつき某、近日一族衆を申し入れうと思ふが、何とあらうぞ。
▲冠「御意なくば申し上げうと存ずる処に、これは一段と良うござりませう。
▲シ「それならば、上座にござる御宿老へ末広がりを差し上げうと思ふが、某が道具の内に末広がりがあるか。
▲冠「はあ。お道具は悉く存じて居りまするが、末広がりと申す物は、つひに見た事もござらぬ。
▲シ「汝が知らずばあるまい。何としたものであらうぞ。
▲冠「されば、何となされて良うござらうぞ。
▲シ「いゑ。都にはあらうか。
▲冠「何が扨、都にないと申す事がござらうか。都にはござりませう{*2}。
▲シ「それならば、汝は大儀ながら今から都へ上つて、末広がりを求めて来い。
▲冠「畏つてござる。
▲シ「それにちと好みがある。
▲冠「いかやうなお好みでござる。
▲シ「まづ地紙良う、骨に磨きを当て、要元しつとゝして、戯れ絵さつとしたを求めて来い。
▲冠「これは難しいお好みでござれども、穿鑿致いて求めて参りませう{*3}。
▲シ「早う戻れ。
▲冠「心得ました。
▲シ「ゑい。
▲冠「はあ。
▲シ「ゑい。
▲冠「扨も扨も、こちの頼うだ人の様に、物を急に仰せ付けらるゝお方はござらぬ。今から都へ上つて末広がりを求めて来いと仰せ付けられた。さりながら、いつ物を仰せ付けらるゝとあつても、只今の如くわつさりと仰せ付けらるゝによつて、御奉公が致しよい。まづ急いで参らう。誠に某も、かねがね都を見物致したい見物致したいと存ずる処に、この度は良いついでゝござるによつて、こゝかしこを走り廻り、ゆるりと見物致さうと存ずる。何かと申す内に都近うなつたと見えて、殊の外賑やかになつた。いや。これは早、都へ上り着いた。また田舎とは違うて、家建ちまでも格別な。あれからつゝとあれまで、仲良さゝうに軒と軒とを建て並べた程にの。これはいかな事。身共は不念な事を致いた。末広がりはどの様な物で{*4}、又どこ元にあるをも存ぜぬ。遥々の所を問ひには戻られまいが。これはまづ何としたものであらうぞ。はゝあ。さすが都ぢや。かう見るに、知れぬ事を呼ばゝつて歩けば知るゝと見えた。さらば某も呼ばゝつて参らう。末広がり買はう。末広がり買ひす。なうなう。そこ元に末広がりはござらぬか。ぢやあ。こゝ元にはないさうな。さらば他へ参らう。末広がり買はう。末広がり買ひす。いやこれこれ。その辺りに末広がりはござらぬか。ぢやあ。こゝ元にもないさうな。これからちと上京へ参らう。末広がり買はう。末広がり買ひす。なうなう。これに末広がりはござらぬか。
▲売り手「これは洛中を走り廻る、心も直にない者でござる。あれへ田舎者と見えて、何やらわつぱと申す。ちと当たつて見ようと存ずる。なうなう。しゝ申し。
▲冠「こちの事でござるか。何事でござるぞ。
▲売「いかにも和御料の事ぢや。この広い洛中を、何をわつぱと云うてお歩くぞ。
▲冠「私は田舎者{*5}で、別に聊爾は申さぬ。真つ平御免あれ。
▲売「いやこれこれ。聊爾仰しやると云うて咎むるではおりない。今そなたの仰しやつたは何事ぞと申す不審でござる。
▲冠「只今私の申した事の。
▲売「中々。
▲冠「私の頼うだ者が末広がりを求めて来いと申し付けましたによつて、それを呼ばつて歩きまする。
▲売「扨、末広がりを見知つてお尋ねやるか{*6}。但し知らいでお尋ねやるか{*7}。
▲冠「これは都人のお言葉とも覚えませぬ。存じて居れば、それを買はうと申せども、存ぜぬによつて呼ばゝつて歩きまする。
▲売「これは身共が誤つた。すれば和御料は仕合せな者ぢや。
▲冠「仕合せと申して、見えた向きの者でござる{*8}。
▲売「身に付けた仕合せではない。洛中に人多いといへども、末広がりを商ふ者は某ならではないによつて、身共にお逢ひやつたが仕合せなと云ふ事ぢや。
▲冠「すれば私の仕合せでござる。扨その末広がりが見たうござるが、見せて下されうか。
▲売「いつなりとも見せておまさう。まづそれにお待ちあれ。
▲冠「心得ました。
▲売「さればこそ田舎者で、何をも存ぜぬ。こゝに傘がござるによつて、これを末広がりぢやと申して売り付け、代物を取らうと存ずる。なうなう。田舎の。おりやるか。
▲冠「これに居まする。
▲売「これが末広がりでおりやる。
▲冠「はあ。これが末広がりでござるか。
▲売「中々。不審、尤ぢや{*9}。末広がりにないて見せう。これへおこさしめ。
▲冠「心得ました。
▲売「何と末広がりになつたではおりないか。
▲冠「中々。末広がりになりました。それにちと好みがござる。
▲売「それはいかやうなお好みでおりやる。
▲冠「まづ地紙良う、骨に磨きを当て、要元しつとゝして、戯れ絵さつとしたを求めたうござる。
▲売「これは難しいお好みなれども、さりながら、お好みも悉く合うた。まづ地紙良うとはこの紙の事。良い紙を以て良い天気に張つたによつて、この如く弾けばこんこん致す。骨に磨きを当てゝといふもこの骨の事。物の上手が木賊椋の葉を以て七日七夜磨いたによつて、撫づればこの如くすべすべ致す。要元しつとゝしてと云ふもこの要。これをかう致いて、どちへ持つて参つてもゆつすりともせぬ。戯れ絵と云ふは、そなたの仰しやり様が悪しい。どなたへ差し上げ物になさるゝとあつても、この柄で戯れて遣はさるゝによつての戯れ柄。構へて絵の事ではおりないぞ。
▲冠「扨は絵の事ではござらぬ。
▲売「中々。
▲冠「それならば求めたうござるが、代物はいか程でござる。
▲売「五百疋でおりやる。
▲冠「これはちと高直にはござりまするが、この度はさし急ぎまするによつて、五百疋に求めませう。扨私はもうかう参りまする。
▲売「もはやおりやるか。
▲冠「さらばさらば。
▲売「ちとお待たれ。
▲冠「何事でござる。
▲売「そなたはあまり快い買ひ手ぢやによつて、土産をおまさう。
▲冠「それは忝うござる。これへ下されい。
▲売「いやいや。手へおまする物ではおりない。そなたは最前主持ちとは仰しやらぬか。
▲冠「中々。主持ちでござる。
▲売「総じて主といふ者は、機嫌の良い時もあり、又機嫌の悪い時もあるものぢや。
▲冠「誠にその通りでござる。
▲売「その御機嫌の悪い時、御機嫌を直す囃子物を教へておまさうかと云ふ事ぢや。
▲冠「習うてなる事ならば、教へて下されい。
▲売「別に難しい事でもおりない。傘をさすなる春日山、傘をさすなる春日山。これも神の誓ひとて、人が傘をさすなら、我も傘をさゝうよ。げにもさあり、やようがりもさうよの。と云ふ分の事でおりやる。
▲冠「大方覚えました。このお礼は重ねて都へ上つてお尋ね申して、きつと申しませう。
▲売「お尋ねに預からうとも。
▲冠「もうかう参りまする。
▲売「もうおりやるか。
▲冠「さらばさらば。
▲売「ようおりやつた。
▲冠「はあ。なうなう嬉しや嬉しや。手間を取らうかと存じたれば早速求めて、この様な満足な事はござらぬ。まづ急いで罷り帰らう。定めて頼うだお方は、今か今かとお待ち兼ねなさるゝでござらう。これを持つて参つてお目に掛けたならば、殊ないお悦びでござらうと存ずる。いや。何かと云ふ内に戻り着いた。これはまづ、こゝ元に置いて。戻つた通りを申し上げう。申し。頼うだ人ござりまするか。太郎冠者が戻りましてござる。
▲シ「いゑ。太郎冠者が戻つたさうで、声が致す。太郎冠者戻つたか戻つたか。
▲冠「ござりまするかござりまするか。
▲シ「ゑい戻つたか。
▲冠「只今戻りました。
▲シ「やれやれ大儀や。してして、云ひ付けた末広がりを求めて来たか。
▲冠「まんまと求めて参りました。
▲シ「出かいた出かいた。早う見せい。
▲冠「畏つてござる。
▲シ「扨も扨も、才覚な者を使へば、いつ物を申し付けても、その儘調へて参る程にの。
▲冠「これが末広がりでござる。
▲シ「むゝ。汝は路次で雨に遇うたと見えた。戯れ事をせずと、末広がりを見せい。
▲冠「はあ。扨はこなたにも御存じないと見えました。
▲シ「何と、御存じないは。
▲冠「追つ付け末広がりにないてお目にかけませう。何と末広がりになつたではござらぬか。
▲シ「これはいかな事。太郎冠者は都で抜かれて参つたと見えた。何事を申す。承らう。
▲冠「お好みも大方合ひましてござる。まづ地紙良うとはこの紙の事。良い紙を以て良い天気に張つたによつて、この如く弾けばこんこんと致す。骨に磨きを当てゝと申すはこの骨。物の上手が木賊椋の葉を以て七日七夜磨きました処で、撫づればすべすべ致しまする。要元しつとゝしてと申すもこの要。これをかう致いて、どちへ持つて参つてもゆつすりとも致しませぬ。追つ付け戯れ柄を致いてお目に掛けませう。
▲シ「いよいよ抜かれて参つたさうな。
▲冠「やつとな。
▲シ「何とする。
▲冠「やつとな。
▲シ「何とするぞ。
▲冠「どなたへ差し上げ物になさるゝとあつても、只今の如くこの柄で戯れて遣はさるゝによつての戯れ柄。絵の事ではないと申して、都の者が笑ひましてござる。
▲シ「むゝ。すれば汝はそれを真実、末広がりぢやと思うて求めて来たか。
▲冠「はて。末広がりぢやによつて、求めて参つた。
▲シ「抜かれ居つた。
▲冠「抜かれは致さぬ。
▲シ「又云ひ居る。重ねてのためぢやによつて云うて聞かする。末広がりといふは、自体、扇の事ぢやいやい。
▲冠「扇なら扇と、初めから仰せ付けられたが良うござる。
▲シ「又そのつれな事を云ひ居る。これは常の扇。末広がりといふは、末でくわつと開いたを末広がりと云ふ。その上地紙良うといふはこの紙の事。骨に磨きを当てゝといふもこの骨の事。要しつとゝしてといふもこの要の事。戯れ絵といふは、或いは児若衆などをさつと描いたこそは戯れ絵なれ。それは台所に何本もある傘ぢや。それを求めて来るといふ事があるものか。
▲冠「でも都の者が末広がりぢやと申したによつて、求めて参つた。
▲シ「いかに都の者が云へばとて、それを求めて来るといふ事があるものか{*10}。あちへ失しよ。
▲冠「あゝ。
▲シ「あゝとはおのれ、憎い奴の。あちへ失しよ失しよ失しよ失しよ。
▲冠「これはいかな事。都の者が末広がりと申した時は、誠の末広がりぢやと存じてござるが、只今頼うだお方の仰せらるゝを聞けば、これはお台所に何本もある傘ぢや。これはまづ何とせうぞ。あゝそれそれ。さすが都の者ぢや。抜かば只も抜かいで、御機嫌を直す囃子物を教へた。さらばこれを囃いて御機嫌を直さうと存ずる。
傘をさすなる春日山、傘をさすなる春日山。これも神の誓ひとて、人が傘をさすなら、我も傘をさゝうよ。げにもさあり、やようがりもさうよの、やようがりもさうよの。《何遍も返して云ふ》
▲シ「扨も扨も、めでたい事でござる。太郎冠者が、某が機嫌を直さうと存じ、囃子物を致す。めでたい事でござるによつて、急いで内へ呼び入れうと存ずる。
いかにやいかにや太郎冠者。誑されたは憎けれど、囃子物が面白い。内へ入つて鰌{*11}の鮨を頬張つて、諸白を呑めやれ。
▲冠「これも神の誓ひとて、人が傘をさすなら、我も傘をさゝうよ。
▲シ「何かの事はいるまい、内へ来てさしかけい。
▲冠「げにもさあり、やようがりもさうよの、やようがりもさうよの。

校訂者注
 1:底本は、「立て。先」。
 2:底本は、「ござりまう」。
 3:底本は、「参りまう」。
 4:底本は、「どの様物で」。
 5:底本は、「私は田舎で」。
 6:底本は、「お尋にやるか」。
 7:底本は、「お尋ねるか」。
 8:底本は、「見えた向の道でござる」。
 9:底本は、「尤もや」。
 10:底本は、「ある[こと]とか」。[こと]は合略仮名。
 11:底本は、「どよう」。

底本:『狂言全集 上巻』「巻の三 一 末ひろがり」(国立国会図書館D.C.

前頁  目次  次頁

法師物ぐるひ(ほふしものぐるひ) 大蔵流本

▲シテ「ざゞんざ。浜松の音はざゞんざ。
あゝ酔うた酔うた。殊の外たべ酔うた。いや。何かと云ふ内に戻り着いた。なうなう。これのはおりやるか。やい女共。女共は居らぬか。
▲女「いや。戻られたさうな。戻らせられてござるか。
▲シ「何ぢや。戻らせられたか。
▲女「中々。
▲シ「今の程、声をばかりに呼うだに。どれに居た。
▲女「隣に居りました。
▲シ「総別、某が表から戻れば裏から出る。又裏から戻れば表から出る。あゝ合点の行かぬ。暇をやる程に出て行け。
▲女「又今日も殊ない御機嫌と見えました。ちと奥へ行て休ませられい。
▲シ「置き居ろ。いつおのれが酒を盛つた事がある。その上身共は寝たうない。男が暇をやるに、出て行くまいか。
▲女「すれば真実でござるか。
▲シ「真実でなうて何とするものぢや。
▲女「それならば出て参りませうが、総じて暇を貰うには、男の手から塵を結んでなりとも取るものぢやと申す程に、何ぞ印を下されい。
▲シ「何ぢや。塵を結んでくれい。易い事。さあさあ。これを持つて早う出て行け。
▲女「なう物狂や物狂や。今のは譬へでこそあれ。何ぞこなたの身に付いた物を下されい。
▲シ「何ぢや。身に付いた物をくれい。
▲女「中々。
▲シ「暇をやる女に何が惜しからうぞ。この小袖を遣る程に、これを持つて早う出て行け。
▲女「すれば一定でござるか。
▲シ「又くどい事を云うて。行かぬか。出て失せい出て失せい出て失せい。
▲女「あゝ痛あゝ痛あゝ痛。申し。かな法師は何となさるゝぞ。
▲シ「かな法師に構ふ事か。まだそれに居るか。出て行け出て行け。憎い奴の憎い奴の憎い奴の。《女は太鼓座へ着く》
扨も扨も憎い奴でござる。いつぞは暇を遣らう暇を遣らうと存ずる処に、今日と申す今日、暇を遣はして、この様な満足な事はござらぬ。心が清々と致いた。さらば奥へ行て休まうと存ずる。《シテ中入りすると、女立ちて》
▲女「扨も扨も苦々しい事でござる。又例の御酒機嫌かと存じてござれば、誠に暇をくれられてござる。あの様な男は藪を蹴ても五人や七人は蹴出しませうが、一人あるかな法師が不憫にござる。《泣く》
まづ急いで親里へ参らう。誠にこの事を父様母様の聞かせられたならば、さぞ肝を潰させらるゝでござらう。いや。まづこの所にちと休らうで参らう。《笛の上に座り着く》
▲シ《一声》「物に狂ふも五臓故、酒の仕業と覚えたり。春の脈は弓に絃、掛くるが如く狂ふにぞ、ありかも匂ひも懐かしや。咲き乱れたる花どもの、物云ふ事はなけれども、軽漾激して影唇を動かせば、花の物云ふは道理なり{*1}。《カケリ。謡。シホリながら尋ぬる》
いやなうなう。あれなる人に物問はう。そなたへ年の頃二十ばかりなる女は行かぬか。何。行かぬ。《又カケリ。謡。尋ぬる》
これこれ。あれなる人に物云はう。そなたへ年の頃二十ばかりなる女は行かぬか。いゝや。その御はした連れたる女にてはなし。只一人、かいとり褄にて行かぬよなう。《又カケリ。謡》
いつか又、法師が母に逢ひ竹の。乱れ心や狂ふらん。《又カケリ。舞。打ち上げて打ち切る》
法師が母が能には、法師が母が能には。まづ春は蕨折る。扨又夏は田を植ゑ、秋は稲場に行き通ひ、冬になれば我が宿の、背戸の窓にうち向かひて、六よみ布を織りつけ、織りたる布は何々。青襖袴や十徳、布子表。帷子を誰が織つてくれうぞ。法師が母ぞ恋しき。
▲女「法師が母は只一人、涙にむせぶばかりにて、親の元へぞ帰りける。
▲シ「聞かまほしの御声や。あれは妻にてましますか。さりとては帰り合ひ、狂気をやめてたび給へ。
▲女「見目の悪きは生まれつき。一度去りたる仲なれば、何しに帰り合ふべき。
▲シ「見目の悪きとは、見目の悪きとは、たゞ酔狂のあまりなり。誠に見目は美しや。
▲女「それは誠か。
▲シ「中々に。いちひとの見目の良いは、田中権の頭の継娘。聟になりたや南無三宝。なう。愛しの人。こちへ渡らしめこちへ渡らしめ。
▲女「心得ました心得ました。

校訂者注
 1:底本は、「道程なり」。

底本:『狂言全集 上巻』「巻の三 四 法師物ぐるひ」(国立国会図書館D.C.

前頁  目次  次頁

↑このページのトップヘ