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カテゴリ:狂言 > 芳賀矢一校『狂言二十番』(1903)

校訂『芳賀矢一校 狂言二十番』 目次



凡  例

  1:底本は『狂言二十番』(芳賀矢一校 1903年冨山房刊 国会図書館デジタルコレクション)です。
  2:「01 見物左衛門」は、『狂言記』(1925年刊)とほぼ同じ本文です。「19 塵塚」は、『狂言記』(1925年刊)、『和泉流狂言大成』(1916~19年刊)、『能狂言』(1942~45年刊)、『狂言五十番』(1926刊)にない作品です。「17 仁王」「18 口真似」「19 塵塚」「20 鬼瓦」は、『狂言五十番』(1926刊)にない作品ですが、上記以外の15作品は全て、鷺流の古本を翻刻した『狂言五十番』(1926刊)とほぼ同文です。以上の事から、「01 見物左衛門」を除く19作品は、鷺流狂言であると校訂者は推定します(「01 見物左衛門」は、よくわかりません)。
  3:校訂方針は、古文として読みやすくことに主眼を置き、古文文法および辞書に従って、底本テキストを適宜修正しました。
  4:底本の旧漢字は現在通用の漢字に改めました。
  5:二字以上の繰り返し記号(踊り字)はテキストにないため文字化し、適宜読点を加えました。
  6:底本の登場人物は、▲を付して示しました。
  7:読みやすさを考慮し、人物の交代、割注や会話、謡、語りの挿入等で改行しました。
  8:底本の「一セイ」「強」「泣」「下」「笑」などの注記は《 》で示しました。
  9:現在では差別的とされる表現も、底本を尊重し一切変更を加えていません。ご了承願いますとともに、取り扱いには十分ご留意願います。

狂言二十番 01 見物左衛門(けんぶつざゑもん){*1}

見物左衛門「罷り出でたる者は、この辺りに住居致す、見物左衛門と申す者でござる。今日は、加茂の競馬、深草祭でござる。毎年、見物に参る。今日も参らうと存ずる。又、某ひとりでもござらぬ。こゝに、ぐつろ左衛門殿と申して、毎年同道致す人がある。今日も誘うて参らうと存ずる。内に居られたら、良うござらうが。どれへも出ぬ人ぢや。定めて内に居らるゝであらう。やあ。これぢや。
物申。ぐつろざ殿。内にござるか。何と、はや見物にござつた。
やれやれ、ぐつろ左殿と同道せねば、身共の慰みがない。
やあ。身共に逢うて、笠をとらせらるゝは、どなたぢや。やはり召せ。こなたは、祭は見物なされぬか。何ぢや。刀がない。なくば、大事か。身共は、これ。持たねば、差しませぬわ。
扨、祭の刻限は、何どきでござる。何と、巳午の刻ぢや。えい。身共は一刻も二刻も早う出た。とてもの事に、九條の古御所を見物して帰らう。御厩を見ようか。えい。これが、御厩ぢや。扨も扨も、見事な事かな。姫栗毛、額白、黒毛、白毛。あれからこれへ、扨も扨も。これは、十二因縁の心を以て、立てさせられた。扨、御所を見物致さう。はあ。これに、八景の押し絵がある。洞庭の秋の月、遠浦の帰帆、遠寺の晩鐘、平砂の落雁、瀟湘の夜の雨、寄する波に音なき夜の泊り。扨も扨も、見事な。これに、掛物がある。何ぢや。毗首が達磨、東坡が竹、牧渓和尚の墨絵の観音、三幅一対。扨も扨も、見事、見事。畳は皆、繧繝縁、高麗縁。あれからこれまで敷きつめられた。柱は、黒塗柱に蒔絵を書かせられたわ。申さうやうもない事ぢや。
何と云ふ、馬子達。具足が駈けると云ふか。
えい。身共は、それこそは見に来たれ。はあ。扨も扨も、乗つたり乗つたり。先なは、乗り手と見えた。あれは、誰でござる。何と、梅の木原の酸い右衛門殿。その後なは、誰でござる。何ぢや。柿の本の渋四郎左衛門。扨も扨も、くひしばつて乗られたが、落ちられずば良からうが。ありやありやありや、ありやこそ。云ふ言葉の下から落ちられた。扨も扨も、可笑しい事ぢや。
何ぢや、そなたは。身共が笑ひが苦になるか。何と仰しやる。ぶたれうとお云やるか。そなたに疵は付けまい。身共は、町で隠れもない、おほいたづら者ぢや。お構やるな。
扨も扨も、あれあれ。したゝか、腰を打たれたやらして、ちんがりちんがりちんがり。扨も扨も、可笑しい事ぢや。
やあ。大勢人の寄つて居るは、何事でござるぞ。やあ。子供が相撲を取る。
えい。身共は、小さい時から相撲が好きぢや。行て見物致さう。はあ。これはどうも、這入られまいが。まづ、この笠を破つては、女共が叱るであらう。まづ、これをかうして。ちと御免なされませう。
これこれ。こゝな人。草履のあとを踏むによつて、先へ行かれぬ。
南無三宝。ちりけのやいとを剥いてのけた。はあはあ。痛やの、痛やの。まづ、這入つた。
これ、行司。腰が高い。下にござれ。何と云ふ。某をあばれ者と云ふか。やあ。何と云ふ。相撲の作法を知らずば、構ふなと云ふか。身共が知るまいと思ふか。総じて、相撲は四十八手とは云へども、砕けば、八十八手も百手にも取る。鴨の入れ首、水車、反り返り、かひな投げ、あをり掛け、河津掛け。この様な手を知つて居る。何と、それ程ならば、出て取れと云ふか。身共ぢやと云うて、取りかねうか。何と、小言を云うたらば、礫を打たう。そちが打つたらば、この方からも、参らせうまでよ。あ痛、あ痛。これは堪忍がならぬ。やい、そこな柿の帷子、柿の鉢巻。おのれ、見知つたぞ。やれ、子供もかゝつてくれ。えいとう、えいとう、えいとう。
南無相撲御退散。又、明年参らう。

校訂者注
 1:底本、柱に「狂言記」とあり、1903年刊『狂言全集』、1925年刊『狂言記』とほぼ同文。

底本『狂言二十番』(芳賀矢一校 1903刊 国立国会図書館D.C.

狂言二十番 02 連歌毘沙門(れんがびしやもん){*1}

▲アト「これは、この辺りに住居致す者でござる。今日は初寅なれば、鞍馬へ参詣致さうと存じて、罷り出でた。まづ、急いで参らう。それに付いて、こゝに、分けて心安う話す仁がござるが、内々約束でござる程に、これを誘うて参らうと存ずる。いや。行く程に、これぢや。
物申。案内申。
▲次アト「表に物申とある。誰も出ぬかやい。
物申とは、どなたでござるぞ。
▲アト「某でござる。
▲次ア「えい。ようこそ出でさせられた。
▲アト「只今参るは、別の事でもござらぬ。今日は初寅なれば、鞍馬へ参詣致さうと存ずるが、ないないのお約束でござるに付いて、誘ひに寄りましてござる。参らせられますまいか。
▲次ア「はて扨、ご失念もなう誘はせられて、満足致してござる。何が扨、お供致しませう。
▲アト「で、ござるか。
▲次ア「中々。
▲アト「それならば、いざ、ござつて。
▲次ア「まづ、こなたからござれ。
▲アト「それならば、参らう。さあさあ。ござれござれ。
▲次ア「心得ました。
▲アト「何と思し召すぞ。鞍馬を信仰致いてよりこの方、何事も富貴富貴と、吹き付ける様に仕合せがあると存ずるが、こなたには、その思し召し当たりはござらぬか。
▲次ア「仰せらるゝ通り、毘沙門天を信仰致す故に、思ひの儘にござれば、いよいよ信心が、いや増しまする。
▲アト「いや、程なう参り着いてござる。
▲次ア「誠に、御前でござる。
▲アト「いざ、拝みませう。
▲次ア「ようござらう。
▲アト「南無多門天王。福徳自在に守らせ給へ。
▲次ア「諸願成就、皆令満足なさしめ給へ。
▲アト「何と思し召すぞ。いつ参つても、森々と致いた宮立ちではござらぬか。
▲次ア「仰せらるゝ通り、神さびて、殊勝な事でござる。
▲アト「さらば、今夜はこれに通夜を致しませう。
▲次ア「ようござらう。
▲アト「はあ、はあ、はあ。
扨も、ありがたい事かな。や。多聞天王より、御福を授けさせられた。扨も扨も、ありがたい事かな。
▲次ア「あゝ。申し申し。なぜに、そなたばかり取らせらるゝ。こちへもおこさせられい。
▲アト「いや。某に下された物を、こなたへ遣らう仔細がござらぬ。
▲次ア「それは、こなたの言ひ訳が済みませぬ。両人の中へ下された物を、こなたひとりして取らせらるゝ筈はござるまい。その上、毎年相変らず、こなたと同道致いて参詣申すに、ふたりの間へ与へさせられた御福を、いかにしても、ひとりで取られは致されまいぞ。
▲アト「誠、仰せらるれば、さうぢや。両人の中へ、名ざしもなう下されたを、身共へ与へさせられたと限つたと申す事もござるまい程に、その儀ならば、この下された梨について、当座を致いて、どうなりとも句がらの出来た者が、ぬしにならうと存ずるが、これは、何とござらうぞ。
▲次ア「これは、面白い批判でござる。誠に、歌の道には鬼神までも納受あると申せば、いよいよ神慮に叶ふ様に当座を致いて、その上での事に致さう程に、急いで案じて見させられい。
▲アト「中々。どちなりとも、出勝ちに致しませう。
▲次ア「ようござらう。
▲アト「かうもござらうか。
▲次ア「殊の外、お早うござる。
▲アト「毘沙門の福ありの実と聞くからに。
▲次ア「これは、一段と面白うござる。
▲アト「さらば、脇をさせられい。
▲次ア「かうもござらうか。
▲アト「何とでござる。
▲次ア「くらまぎれにてむかで喰ふなり。
▲アト「これも、殊の外出来ましてござる。いざ、吟じて見ませう。
▲次ア「ようござらう。
▲アト{*2}「《強》毘沙門の福ありの実と聞くからに。
▲次ア「闇まぎれにて蜈蚣喰ふなり。
▲アト「あら不思議や。社壇が殊の外鳴りまする。
▲次ア「誠に、不思議な事でござる。
▲アト「まづこれへ寄つて、様子を見ませう。
▲次ア「ようござらう。
▲シテ「《一セイ》《強》毘沙門の福ありの実と聞くからに、闇まぎれより歩み行き。
▲アト「これへ、見慣れぬ御方の出でさせられた。言葉を掛けませう。
▲次ア「ようござらう。
▲アト「いかに申し。これは、人間とも見えず、唐びたる体にてご出現は。
▲両人「いかやうなる御方にて候ふぞ。
▲シテ「当山より鉾を持ち、顕はれ出でたるを、いかなる者ぞと問ふ程、鈍では。
▲アト「扨は、毘沙門天王にてばしござるか。
▲シテ「遅い推かな。
▲両人「はあ。ありがたう存じまする。まづ、かうご来臨なされませい。
▲アト「扨、只今は、何のためのご出現でござりまする。
▲シテ「これへ出現するは、別の事でもない。最前、両人の中へ福を与へたれば、それを汝らが論ずるによつて、配分をしてとらせんと思ひ、これまで出現してあるぞとよ。
▲アト「扨も扨も、これは神慮に叶ひ、ありがたい事でござりまする。その儀ならば、良い様に配分なされて下されませい。
▲シテ「まづ、ありの実をこちヘおこせい。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「扨、これをば何で割らうぞ。
▲アト「何がようござりませうぞ。
▲シテ「両人の内に、刃物は持たぬか。
▲アト「折節、刃物は持ち合はせませぬ。
▲シテ「それならば、この鉾で割らう。但し、錆びようか。
▲次ア「されば、何とござりませうか。
▲シテ「いやいや、苦しうない。割つてとらせう。
いでいで、ありの実割らんとて、いでいでありの実割らんとて、南蛮の鉾を柄長くおつ取り延べて、梨の真ん中を、ざつくり。
はあ。二つになつたわ。
▲アト「誠、二つになりましてござる。
▲シテ「さあさあ。汝から取れ。
▲アト「畏つてござる。
▲シテ「汝も取れ。
▲次ア「ありがたう存じまする。
▲シテ「扨、最前、汝らが高声に云うたは、何であつたぞ。
▲アト「その御事でござる。梨につきまして、及ばずながら連歌を致しましてござる。
▲シテ「はて扨、汝らは、しほらしい者どもぢや。その連歌が、今一度聞きたいよ。
▲両人「何が扨、申し上げませう。
▲シテ「扨々、今の連歌はいかに。
▲両人「毘沙門の福ありの実と聞くからに、くらまぎれにてむかで喰ふなり{*3}。
▲シテ「毘沙門、連歌の面白さに、毘沙門、連歌の面白さに、悪魔降伏、災難を払ふ、鉾を汝に取らせけり。
▲次ア「あらあら。けなりや、けなりやな。我にも福をたび給へ。
▲シテ「《下》欲しがる事こそ道理なれ、欲しがる事こそ道理なれと、忍辱の鎧に、兜を添へて取らせけり。これまでなりとて毘沙門は、これまでなりとて毘沙門は、この所にこそ納まりけれ。
えいや、いや。

校訂者注
 1:底本は、柱に「狂言記」とあるが、本文は1903年刊『狂言全集』、1925年刊『狂言記』とは異なり、後年、鷺流の伝本を芳賀が校訂した『狂言五十番』(1926刊)と、ほぼ同文である。
 2:底本、ここに「▲アト「」はない。
 3:底本は、「むかで喰ふ」。

底本『狂言二十番』(芳賀矢一校 1903刊 国立国会図書館D.C.

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狂言二十番 03 靭猿(うつぼざる){*1}

▲シテ「隠れもない大名です。召し使ふ者を呼び出だいて、談合致す事がござる。
太郎冠者、居るかやい。
▲太郎冠者「はあ。
▲シテ「あるか。
▲冠者「お前に。
▲シテ「汝を呼び出すは、別の事でもない。この間は、いづ方へも行かねば、気が屈したによつて、今日は、例の狩りに出ようと思ふが、何とあらうぞ。
▲冠者「内々、私のかたより申し上げようと存ずる処に、仰せ出だされた。一段と良うござりませう。
▲シテ「それならば、行かう。さあさあ。来い来い。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「やい。何と思ふぞ。かやうに自身、弓矢をかたげ、折々狩りに出るといふ事を、下々では、何とも取り沙汰はせぬか。
▲冠者「さればその御事でござる。折々の御狩りでござるによつて、さぞ御物数寄でござらうと、これのみ、しもじもまでも取り沙汰致しまする。
▲シテ「今日も、何ぞ良い物に行き合ひ、矢坪の細かい所を、汝に見せたい事ぢや。
▲冠者「拝見致したい事でござる。
▲猿引「これは、この辺に住居致す猿廻しでござる。今日も、檀那廻りを致さうと存ずる。まづ、そろりそろりと参らう。
▲シテ「やいやい。あれへ何やら引いて来るが、あれは何ぢやな。
▲冠者「されば、何でござるか。
▲シテ「顔が赤いによつて、猿であらう。
▲冠者「誠、猿でござりませう。
▲シテ「まづ、某、言葉をかけて見よう。
▲冠者「良うござりませう。
▲シテ「やあやあ。
▲猿引「はあ。
▲シテ「その猿は、今、山から引いて来るのか。但し、いづ方へぞ進上に連れて行くか。
▲猿引「私は、この辺に住居致す猿廻しでござる。
▲シテ「さぞ、良い猿であらう。
▲猿引「随分と、良い猿でござる。
▲シテ「やいやい。これへ引いて出よと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
なうなう。あれへ引いて出よと仰せらるゝ。
▲猿引「畏つてござる。
やいやい。それへ出よ。
▲シテ「やいやい。遠いから見たとは違うて、毛の込うだ、見事な猿ぢやな。
▲冠者「見事な猿でござりまする。
▲シテ「この猿の皮は、何にぞなりさうなものぢや。
▲冠者「はあ。
▲シテ「やあら、何にがな、ならうやれ。
▲猿「きやあ、きやあ、きやあ。
▲猿引「申し申し。わゝしうござる、わゝしうござる。
▲冠者「わゝしくばわゝしいと、初めから仰しやつたが良うおりやる。
▲猿引「宜しう仰せ上げられて下されい。
▲シテ「やいやい。太郎冠者。叱るな、叱るな。これへ来い。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「行て云はうには、猿引きに、良い猿を持つて、羨ましうこそあれ。さうあれば、初めて逢うて云ふは、いかゞなれども、ちと無心があるが、聞いてくれられうかと云うて、問うて来い。
▲冠者「畏つてござる。
なうなう。御意なさるゝは、猿引きに、良い猿を持つて、お羨ましう思し召す。さうあれば、初めてお逢ひなされて仰せらるゝは、いかゞなれど、ちとご無心があるが、聞いてくれうかと仰せらるゝ。
▲猿引「私風情に御無心のござらうとは存じませぬが、似合ひました御用ならば、畏つたと仰せられい。
▲冠者「心得た。
申し申し。左様に申してござれば、私風情にご無心のござらうとは存じませぬが、似合ひましたご用ならば、畏つたと申しまする。
▲シテ「それならば、一礼を云はずばなるまい。
▲冠者「良うござりませう。
▲シテ「やあやあ。
▲猿引「はあ。
▲シテ「無心を云はうと云ふ処に、聞いてくれうとあつて、過分に存ずる。
▲猿引「これは、結構なお礼でござる。
▲シテ「太郎冠者。これへ来い。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「無心と云つぱ、別の事でもない。この付けて居る靭を、内々、毛靭にせうと思ふ折節、良い猿に行き逢うた。その猿の皮をくれい。靭にかけたいと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
なうなう。ご無心と云つぱ、別の事でもない。あの付けてござる靭を、ないない毛靭になされたいと思し召す折節、良い猿にお逢ひなされた。その猿の皮をくれい。靭にかけたいと仰せらるゝ。
▲猿引「あの、この猿の皮をな。
▲冠者「中々。
▲猿引「そもやそも、この生きたものゝ皮が、何と上げらるゝものでござらうぞ。これは定めて、殿様のお利口でがなござらう。
▲冠者「いやいや。御利口ではない。天道ぞ、誠でおりやる。
▲猿引「やあやあ。天道ぞ誠でござる。
▲冠者「中々。
▲猿引「それならば、こなたにも思し召してもごらうじられい。私は、この猿を持ちまして、一日いちにちの身命をつなぎまする。これを上げましては、明日より渇命に及びまする程に、これは、良い様に仰せられて下されい。
▲冠者「心得た。
申し申し。きやつが申しまするは、あの猿を持ちまして、一日一日の身命を送りまする。あれがござらいでは、みやうにちから渇命に及びますると申しまする。
▲シテ「何と云ふぞ。あの猿を以て一日一日の身命を送ると云ふは、尤ぢやな。
▲冠者「左様でござりまする。
▲シテ「それならば、貰ひはせまい。一年か半年かけたならば、あとを返さう程に、まづ貸せと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
なうなう。
▲猿引「これで承つてござる。一年半年の事は扨置きまして、半ときが間、ご用に立てましても、後が何の役に立ちませぬ。私はもはや、かう参りまする。
▲シテ「やいやい。猿引きを止めい、とめい。
▲冠者「畏つてござる。
なうなう。まづお待ちやれ、お待ちやれ。
▲猿引「何事でござるぞ。
▲冠者「まづ待たしませ。
▲猿引「はて扨、これは迷惑な事でござる。
▲シテ「太郎冠者。これへ来い。
▲冠者「畏つてござる。
▲シテ「最前、無心を云はうと云ふ処に、聞いてくれうとあつたによつて、なまじい諸侍に一礼までを云はせて、今となって貸すまいと。この上は、貸すとも借らうず。又、貸さずとも借らうが、貸すまいかと、きっとぬかさう。
▲冠者「畏つてござる。
なうなう。
▲猿引「これで承つてござる。いかにお大名ぢやと申して、その様に嵩押しな事は、云はぬものでござる。私も、似合ひに旦那衆を持つて居りまするによつて、中々、ちろちろ致す事ではござらぬ。この上は弓矢八幡、上ぐる事はならぬと仰せられい。
▲冠者「はて扨、その様な事を仰しやらずとも、早う上げさしまさいでの。
▲猿引「上げさしまさいでと、我御料までがその様な、鈍な事を仰しやる。
▲冠者「鈍ななどゝ、その様な事を云うたならば、今に悔やむ事がおりやらうぞよ。
▲猿引「何の悔やむ事がござらうぞ。
▲シテ「はて扨、憎い奴でござる。何と致さうぞ。いや、致し様がござる。
やいやいやい、のけのけのけ。猿引きともに、たつたひと矢に射てのけう。
▲猿引「申し申し。上げうと仰せられい、仰せられい。
▲冠者「畏つてござる。
なうなう。早う上げさしませ。
▲猿引「はて扨、短気な殿様でござる。
▲冠者「つゝと、お気が短うおりやる。
▲猿引「最前は、この猿の皮が御用なと仰せられまするが、見ますれば、あの雁股で遊ばいては、皮に疵が付いて、ご用に立ちませぬ。こゝに、猿のひと打ちと申して、ひと打ち打つて命の失する所がござる程に、とてもの事に、これを打つて上げませうと仰せられい。
▲冠者「心得た。
申し申し。
▲シテ「早う打てと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
なうなう。早う打たしませ。
▲猿引「はて扨、くどい事を云ふ人ぢや。
▲冠者「早う打たしませ。
▲猿引「扨々、苦々しい所へ参りかゝつてござる。
やいやい。それへ出よ。やい。いかに汝、畜類なりとも、確かに聞け。小猿の時より飼ひ育て、今さら憂き目を見る事は、なんぼう不憫なれどもな、こりや、あの殿様が、汝が皮を借らずば置くまいと仰せらるゝによつて、是非なう今打つ程に、必ず草葉の蔭にても、某を恨みとばし思うてくれるな。今打つぞ。えい。《泣》
▲シテ「やあやあ。
▲猿引「やあ。
▲シテ「やあとは、ぬかつた。打つかと思うて見て居たれば、打ちはせいで、かへつて吠ゆるは何事ぢや。
▲猿引「さればその御事でござる。小猿の時より飼ひ育て、船の艪を押す真似を教へて、させてござる処に、畜類の悲しさは、今、命の失する事は、え知らいで、例の舟漕ぐ真似をせいと云ふ事かと思うて、打つ杖をおつ取つて、船のろを押す真似を致すが、哀れで吠えまする。《泣》
▲シテ「何と云ふぞ。小猿の時より飼ひ育て、船の艪を押す真似を教へてさせた処に、畜類の悲しさは、今めいのうする事はえ知らいで、例の舟漕ぐ真似をせいと云ふ事かと思うて、打つ杖をおつ取つて、船の艪を押す真似をするが、哀れで吠ゆる。
▲猿引「中々。
▲シテ「あの、それがや。
▲猿引「あゝ。
▲両人「《泣》
▲シテ「はて扨、不憫な事ぢやな。
▲冠者「不憫な事でござる。
▲シテ「もはや助けうか、やい。
▲冠者「良うござりませう。
▲シテ「な打ちそと云へ。
▲冠者「畏つてござる。
なうなう。な打ちそと仰せらるゝ。
▲猿引「やあやあ。な打ちそ。
▲冠者「中々。
▲猿引「まづ以て、御執り成し、忝うござる。
▲冠者「御礼までもおりない。
▲猿引「猿にお礼を申させませう。
▲冠者「良うおりやらう。
▲猿引「やいやい。それへ出て、お礼を申せ。太郎冠者殿へもお礼を申せ。
▲シテ「あれは、助かつたといふ一礼かな。
▲冠者「左様でござりませう。
▲猿引「申し申し。この歓びに、猿を舞はませう。
▲シテ「急いで舞はせと云へ。
▲冠者「急いで舞はさしませ。
▲猿引「えいえい。猿が参りてご知行まさる、めでたうよう仕る。
踊るや手元、小腰揺り合はせて、舞うたる風情の面白さに、猿は山王、真似さるめでたき、ぎよくしゆにつゝ立ち上がつて、たなを見よかし。
天より宝があまくだつて、奏上すれば綾や千反、錦や千反、唐織物の納めやうには。
▲シテ「扨も扨も、面白い事ぢや。この扇を取らすると云へ。
▲冠者「畏つてござる。
なうなう、御扇を下さるゝ。
▲猿引「いや、あすは出うずもの、船が出うずもの。
いやいやいや、おもたげもなと、およるよの、およるよの。
いや、船の中には、何とおよるぞ。
いやいやいや、苫を敷き寝に梶枕、梶を枕に。
いや、しん田の横田の若苗を。
いやいやいや、しよんぼりしよんぼりと植ゑたもの。
いやいやいや、今来る娘が刈らうずよの、腹立ちや。
いや、松の葉越しに月見れば。
いやいやいや、
《詞》月を見よ、月を見よ。
小腰をかゞめてしつぽりと。
いや、月見れば。
いや、暫し曇りて又冴ゆる、又冴ゆる。
いや。こゝに寝ようか、さて菜の中に。
いやいやいや、いとゞ名の立つ菜の中に、菜の中に。いや、汲んだ清水で影見れば。
いやいやいや、
《詞》影を見よ、影を見よ。
いや、影を見れば。
いや、我が身ながらも良い男、良い男。
いや、四角柱やかど柱。
いやいやいや、かどのないこそ添ひ良けれ、添ひ良けれ。
いや、いとし殿御のござるやら。
いやいやいや、犬が吠え候ふ四つ辻で、四つ辻で。
いや、とゞろとゞろと鳴る神も。
いやいやいや、こゝは桑原、よも落ちじ、よも落ちじ。
いや、天に大慈の風吹かば。
いやいやいや、地にはこがねの花が咲き候ふ、花が咲く。
▲シテ「扨も扨も、殊勝な事ぢや。
▲冠者「よう覚えたものでござる。
▲シテ「やいやい。この刀を取らすると云へ。
▲冠者「畏つてござる。
なうなう、御刀を下さるゝ。
▲シテ「これは、面白い事ぢや。
やいやい。この小袖、かみしもを脱がせい。
▲冠者「これは、ご無用でござる。
▲シテ「いやいや。苦しうない。早う脱がせい。
▲冠者「これは、いらぬ物でござる。
▲シテ「これを取らすると云へ。
▲冠者「畏つてござる。
なうなう。お小袖、お上下を下さるゝ。
▲猿引「えいえい。一の幣立て、二のへい立て。
三に黒駒、信濃を登れ、船頭殿こそ達者なれ。
泊り泊りを眺めつゝ、なほ千秋は万歳と、俵を重ねて面々に、俵を重ねて面々に、俵を重ねて面々に、楽しうなるこそめでたけれ。
▲シテ「きやあ、きやあ、きやあ。
▲猿「きやあ、きやあ、きやあ、きやあ。
▲シテ「やい。猿を止めい、猿を止めい、猿を止めい。
▲猿引「これこれ。まづ待て、待て、待て。
▲冠者「なう。猿をお止めやれ、お止めやれ。

校訂者注
 1:底本は、柱に「狂言記」とあるが、本文は1903年刊『狂言全集』、1925年刊『狂言記』とは異なり、後年、鷺流の伝本を芳賀が校訂した『狂言五十番』(1926刊)と、ほぼ同文である。

底本『狂言二十番』(芳賀矢一校 1903刊 国立国会図書館D.C.

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狂言二十番 04 骨皮(こつぴ){*1}

▲住持「これは、当寺の住持でござる。新発意を呼び出だいて、申し渡す事がござる。
新発意。居さしますか。居るかなう。
▲シテ「はあ。私を呼ばせらるゝは、何事でござる。
▲住持「我御料を呼び出すは、別の事でもない。愚僧も、もはや年寄つて、寺役も大儀ぢや程に、今日より寺をそなたへ譲る程に、さう心得さしませ。
▲シテ「忝うはござれども、まだ学問もはかばかしうござらず、その上遅うても苦しからぬ事でござる程に、重ねての事になされて下されませい。
▲住持「一段とおとなしい返事で、満足致いた。さりながら、隠居すると云うて、他へ行くでもない。則ち、この内に居る程に、何なりとも用の事があらば、云はしませい。
▲シテ「それならば、ともかくも御意次第に致しませう。
▲住持「又、云ふまではなけれども、旦那衆の気に入つて、寺の繁昌する様にさしますが、専でおりやる。
▲シテ「お気遣ひなされまするな。随分、旦那衆の気に入る様にしませう。
▲住持「それならば、愚僧はもはや入る程に、聞きたい事があらば、問ひにおりやれ。
▲シテ「畏つてござる。
▲住持「又、旦那衆の参られたならば、こちへ知らさしませ。
▲シテ「心得ましてござる。
扨も扨も、嬉しい事かな。住持の、いつ寺を譲らるゝか、譲らるゝかと存じた処に、今日譲らるゝ様な大慶な事は、ござつてこそ。旦那衆のお聞きやつたならば、定めて悦びにおりやらう程に、随分気に入る様に致さうと存ずる。
▲アト「これは、この辺りの者でござる。さるかたへ所用あつて参るが、俄かに雨が降りさうにござる程に、旦那寺へ立ち寄り、傘を借つて参らうと存ずる。則ちこれぢや。
物申。案内申。
▲シテ「表に物申とある。案内とは誰そ。物申とは。
▲アト「某でござる。
▲シテ「これは、ようこそ御出でござれ。
▲アト「この間はお見舞ひも申しませぬが、お住持様にもこなたにも、変らせらるゝ事もござらぬか。
▲シテ「中々。変る事もござらぬ。扨、師匠の何と思はれましてやら、私に寺を譲られてござる程に、今までの通りに相変らず、参らせられて下されい。
▲アト「それは、めでたうござる。存ぜませいで、お悦びにも参りませなんだ。扨、今参るは別の事でもござらぬ。今日はさる方へ参りまするが、俄かに雨が降りさうにござる程に、何とぞ傘を借させられて下されませい。
▲シテ「中々。易い事。貸して進じませう。ちと、それに待たせられい。
▲アト「それは、忝うござる。
▲シテ「これこれ。これを貸して進じませう。
▲アト「これは、忝うござる。
▲シテ「又、何なりとも、用の事があらば、仰せられい。
▲アト「中々。頼みませう。もはや、かう参る。
▲シテ「ござらうか。
▲アト「中々。
▲両人「さらばさらば。
▲アト「忝うござる。
▲シテ「ようござつた。
▲アト「はあ。
なうなう。嬉しや。急いで参らうと存ずる。
▲シテ「旦那衆のおりやつたならば、知らせいと仰せられた程に、参つてこの通りを申さうと存ずる。
申し。ござりまするか。
▲住持「いや、おりやつたよ。
▲シテ「さぞ、お淋しうござりませう。
▲住持「いや。さうもおりない。
▲シテ「只今、誰殿の参られてござる。
▲住持「それは、寺参りか。何ぞ用があつて、おりやつたか。
▲シテ「傘を借りに参られてござるによつて、則ち貸しましてござる。
▲住持「それは、ようこそ貸さしました。さりながら、どの傘を貸さしましたぞ。
▲シテ「この中、新しう出来て参つた傘を、貸しましてござる。
▲住持「我御料は、粗相な人ぢや。あれは、まださし初めもせぬに、貸すといふ事があるものでおりやるか。重ねてもある事ぢや。貸すまいと思へば、云ひ様がおりやる。
▲シテ「それは、何と申しまする。
▲住持「お易い御用ではござれども、この間、師匠のさして出られましたれば、辻風に遇はれまして、骨は骨、皮は皮となつてござるによつて、骨皮ともに真ん中を結うて、天井へ吊るいて置いてござる。あれではえ御用には立つまいなどゝ、かう似つくらしう云うてやるものでおりやる。
▲シテ「心得ましてござる。重ねては、左様に申しませう。もはや、かう参りまする。
▲住持「おりやらうか。
▲シテ「中々。
▲両人「さらばさらば。
▲シテ「これはいかな事。いかに師匠の申されても、あるものを貸さいでは置かれてこそ。
▲二のアト「これは、この辺りの者でござる。今日は遠路へ参る程に、旦那寺へ参り、馬を借つて参らうと存ずる。急いで参らう。則ちこれでござる。
物申。案内申。
▲シテ「又、表に物申とある。案内とはたそ。物申とは。
▲二ア「私でござる。
▲シテ「これは、ようこそ参らせられてござれ。
▲二ア「只今参るは、別の事でもござらぬ。今日は遠路へ参るが、近頃ご無心にはござれども、馬を貸して下されうならば、忝う存じまする。
▲シテ「尤、お易いご用ではござれども、このぢゆう、師匠のさして出られましたれば、辻風に遇はれまして、骨は骨、皮は皮となつてござるによつて、こつぴともに真ん中を結うて、天井へ吊るいて置いてござる程に、あれではえ御用には立ちますまい。
▲二ア「いや。馬の事でござる。
▲シテ「中々。馬の事でござる。
▲二ア「はあ。それならば、是非に及びませぬ。もう、かう参りまする。
▲シテ「ござらうか。
▲二ア「中々。
▲両人「さらばさらば。
▲シテ「ようござつた。
▲二ア「はあ。
はて扨、合点の行かぬ事を申さるゝ。
▲シテ「師匠の教へられた通りを申した程に、定めて機嫌が良うござらう。
申し。ござりまするか。
▲住持「いや。おりやつたよ。何ぞ用でばしおりやるか。
▲シテ「只今誰殿の、馬を借りにわせましてござる。
▲住持「幸ひ、暇で居ようが、貸さしましたか。
▲シテ「いや。最前、こなたの仰せられた通りを申して、貸しませなんだ。
▲住持「いや。愚僧は、馬の事は覚えぬが。何と云うてやらしました。
▲シテ「この中、こなたのさして出られましたれば、辻風に遇はれまして、骨は骨、皮は皮となつてござるによつて、骨皮ともに真ん中を結うて、天井へ吊るいて置いてござる程に、あれではえ御用には立つまいと申してござる。
▲住持「これはいかな事。傘を借りに来たならば、さう云うてやらしませと云うたれ。馬を借りに来たに、その様な事を云うてやるといふ事が、あるものでおりやるか。又馬も、貸すまいと思へば、云ひ様がおりやる。
▲シテ「それは、何と申しまする。
▲住持「この中、春草に付けて置いてござれば、駄狂ひを致いて、腰の骨を打ち折つて、厩の隅に藁をかづいて寝て居まする。あれではえ御用には立つまいなどゝ、かう似合はしう云うてやるものでおりやる。
▲シテ「心得ましてござる。重ねては、左様に致しませう。
▲住持「必ず、粗忽な事を云はしますな。
▲シテ「畏つてござる。
これはいかな事。云へと仰しやるによつて云へば、又、𠮟らるゝぢやまで。身共の身になつても、迷惑致す事ぢや。
▲三のアト「これは、この辺りの者でござる。旦那寺へ、所用あつて参る。まづ急いで参らう。いや。参る程に、則ちこれぢや。
物申。案内申。
▲シテ「又、表に物申とある。案内とは誰そ。物申とは。
▲三ア「某でござる。
▲シテ「これはようこそ、出させられてござれ。
▲三ア「この間は、久しうお見舞ひも申しませぬが、お住持様にもこなたにも、変らせらるゝ事もござらぬか。
▲シテ「中々。変る事もござらぬ。それに付いて、師匠の何と思はれましてやら、愚僧に寺を譲られてござる程に、相変らず参らせられて下されい。
▲三ア「それは、めでたうござる。存じませいで、お悦びにも参りませなんだ。扨、只今参るは、別の事でもござらぬ。明日は、志の日でござる程に、御住持様にもこなたにも、御出なされて下されうならば、忝う存じまする。
▲シテ「私は参りませうが、師匠は、え参る事はなりますまい。
▲三ア「それは何ぞ、お暇入りでもござるか。
▲シテ「別にひま入りもござらぬが、この中、春草に付けてござれば、駄狂ひを致いて、腰の骨を打ち折つて、うまやの隅に藁をかづいて寝て居られまする。あれでは、え参る事はなりますまい。
▲三ア「いや。お住持様の事でござる。
▲シテ「中々。師匠の事でござる。
▲三ア「それは、気の毒な事でござる。それならば、こなたばかり出させられて下されい。
▲シテ「中々。私は参りませう。
▲三ア「もはや、かう参る。
▲シテ「ござらうか。
▲三ア「はあ。
はて扨、合点の行かぬ事を申さるゝ。
▲シテ「今度は、いかなりとも機嫌でござらう。
申し。ござりまするか。
▲住持「いや、おりやつたよ。何ぞ用でおりやるか。
▲シテ「只今、誰殿の参られてござるが、みやうにちは、こゝろざしの日でござる程に、こなたにも私にも参る様にと申されてござるによつて、私は参らうが、こなたには、えござる事はなるまいと申してござる。
▲住持「幸ひ、明日は暇ぢやによつて、行かうものを。
▲シテ「いや。こなたの仰せられた通りを申してござる。
▲住持「身共は覚えぬ。何と云うてやらしましたぞ。
▲シテ「この中、春草に付けてござれば、駄狂ひを致いて、腰の骨を打ち折つて、厩の隅に藁をかづいて寝て居られまする。あれでは、え参る事はなりますまいと申してござる。
▲住持「それは、真実云うてやらしましたか。
▲シテ「中々。真実でござる。
▲住持「はて扨、和御料は、鈍な人ぢや。云うても云うても、合点が行かぬさうな。それは、馬を借りにわせたならば、さう云へとこそ云うたれ。その様な事で、所詮寺を持つ事はなるまい。出てお行きあれ。
▲シテ「あゝ。
▲住持「お行きやるまいか、お行きやるまいか、お行きやるまいか。
▲シテ「あ痛、あ痛、あ痛、あ痛。
なう。御坊。いかに師匠ぢやと云うて、その様に打擲する事が、おりやらうか。そなたぢやと云うて、駄狂ひを召されぬ事は、おりやるまいぞ。
▲住持「いつ身共が駄狂ひをした事があるぞ。あらば、早う云へ、早う云へ。
▲シテ「申したならば、面目がござるまい。
▲住持「面目を失ふ覚えはない。あらば、早う云へ、早う云へ。
▲シテ「それならば、申すぞや。
▲住持「早う云へ。
▲シテ「それ。いつぞや、門前のいちやが参つた。
▲住持「そのいちやが、何としたぞ。
▲シテ「まづ、聞かせられい。手招きをして、眠蔵へ連れてお這入りやつたが、何と、あれは駄狂ひではないか。
▲住持「おのれは憎い奴の。ない、せぬ事を云うて、師匠に恥をかゝする。この上は、弓矢八幡逃す事ではないぞ。
▲シテ「師匠ぢやと云うて、負くる事ではござらぬ。
▲両人「いやいやいや。
▲シテ「覚えたか。
なうなう。嬉しや。勝つたぞ、勝つたぞ。
▲住持「やいやい。師匠をこの如くにして、どちへ行くぞ。人はないか。捕らへてくれい。やるまいぞやるまいぞやるまいぞ。

校訂者注
 1:底本は、柱に「狂言記」とあるが、本文は1903年刊『狂言全集』、1925年刊『狂言記』とは異なり、後年、鷺流の伝本を芳賀が校訂した『狂言五十番』(1926刊)と、ほぼ同文である。

底本『狂言二十番』(芳賀矢一校 1903刊 国立国会図書館D.C.

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