緒言
1 テキスト化の端緒について
2 校訂(方針・読み仮名・繰り返し記号等)ついて
3 テキスト化7作品について
4 狂言の代表作(古典的・現代的)について
1 テキスト化の端緒について
芳賀矢一「能狂言の滑稽」(歌誌「心の花」第十三巻一号(1909年1月)所載)をテキスト化し、WEB上にUPした2022年10月に、文中の狂言作品を自分自身も知りたいし、またテキスト化してUPすれば、文意も良く理解されるだろうと考えて、国立国会図書館デジタルコレクションにある狂言関係書籍から、幸田露伴校『狂言全集』(1903年刊)を見付け、それをテキスト化し始めました。その中で、狂言作品の面白さを知り、以来約1年3か月で6書籍14冊、狂言256曲、889ヴァージョンをテキスト化しUPしました。ただ一つのヴァージョンしかない作品もあれば、数種類のヴァージョンを持つ作品もあります。ヴァージョンは主に4つで、大蔵・和泉・鷺の狂言3流の脚本と版本『狂言記』です。その4者間で内容が大きく異なる作品もあれば、あまり差異のない作品もあります。
それらをテキスト化したのは、より多くの人に狂言を知って頂きたいと思ったからです。最近の若い人々にとっては、WEB上にある情報だけがこの世に存在し、冊子体書籍は縁遠いものとなっています。何かの表現をググった結果、狂言の本文テキストがヒットすれば、狂言を知る人は確実に増え、その魅力に目を開かれる人も生まれると思います。
今回、校訂テキスト化した以外にも、狂言作品を翻字あるいは出版した書籍は数多くあります。古典体系や古典全集、古典全書などの叢書類の他、大学紀要などにも古写本の翻字がなされています(「愛知県立大学あいち国文」では鷺流『文久写本狂言集』を翻刻しています)。今回私が校訂テキスト化したのは、著作権フリーのものばかりです。
2 校訂(方針・読み仮名・繰り返し記号等)ついて
今回UPした7テキスト(元となったのは6書籍)は、最も古いものが1903年刊、最も新しいものが1945年刊であり、表記は最近の若い人にはたいへん読みにくいものです。
それを、以下のように校訂し、UPしました。
▲アド「誠に、そなたの云ふ通り、誰も宿へ知らせてくれ手があるまい。
▲シテ「身共が思ふは、書置きをして死なうではあるまいか。
他の5冊も、上記の例のように、動詞の活用語尾が省略されたり、現在まず見られない漢字や読みが使用されていたりして、読むにはたいへんな文章になっています。それを読みやすく改めたのが、WEB校訂版の狂言作品本文です。時には、文献学的な正確さに目を塞いで意味の通るように改めた箇所もありますが、その場合は校訂者注に記しました。
校訂は、現在小中高の国語の教科書に載せられる古典作品の表記をイメージし、それに近い形の本文としました。「活字となった古文を読める人には読みやすい」文です。ただ、読みやすさと理解しやすさを両立する事は、WEB上のコンテンツの場合、かなり困難です。読み仮名を多く入れることも、省略する事も、ともに一長一短があります。また、「今日(こんにち/けふ)」「何卒(なにとぞ/どうぞ)」「其方(そなた/そのはう/そち)」のように、同一の作品中で読み方が揺れたり、どう読んでも意味がかわらなかったり、微妙な使い分けがなされているようだったり、逆になされているようにも思えないものがあったりします。また、ひらがなにすると読みはわかりやすい代わり、語の切れ目がわかりにくくなり、文としてかえって意味がとりにくくなる面もあります。以下は、原則漢字表記とした例です。
(「文山賊」(1945年刊『能狂言』))
他の5冊も、上記の例のように、動詞の活用語尾が省略されたり、現在まず見られない漢字や読みが使用されていたりして、読むにはたいへんな文章になっています。それを読みやすく改めたのが、WEB校訂版の狂言作品本文です。時には、文献学的な正確さに目を塞いで意味の通るように改めた箇所もありますが、その場合は校訂者注に記しました。
校訂は、現在小中高の国語の教科書に載せられる古典作品の表記をイメージし、それに近い形の本文としました。「活字となった古文を読める人には読みやすい」文です。ただ、読みやすさと理解しやすさを両立する事は、WEB上のコンテンツの場合、かなり困難です。読み仮名を多く入れることも、省略する事も、ともに一長一短があります。また、「今日(こんにち/けふ)」「何卒(なにとぞ/どうぞ)」「其方(そなた/そのはう/そち)」のように、同一の作品中で読み方が揺れたり、どう読んでも意味がかわらなかったり、微妙な使い分けがなされているようだったり、逆になされているようにも思えないものがあったりします。また、ひらがなにすると読みはわかりやすい代わり、語の切れ目がわかりにくくなり、文としてかえって意味がとりにくくなる面もあります。以下は、原則漢字表記とした例です。
「某(それがし)」「妾(わらは)」「和御料(わごりよ)」「扨(さて)」「儘(まゝ)」「謡(うたひ)」(以上全て「文山賊」より)
他にも「尤(もつとも)」「忝(かたじけな)い」「恰度(ちやうど)」「畏(かしこま)つて」「夥(おびたゞ)しい」などが挙げられます。当コンテンツ内の記事には、読み仮名を( )で示すものや、同じテキスト内で漢字とひらがなの両方で書き分けて示すもの、あるいは読みを示さないものと、さまざまあります。詳しくは下の解説を御覧ください。
最後に、底本で多用される二字以上の繰り返し記号は、踊り字として適当な横書き用テキスト字体がそもそもありません。また、その繰り返す範囲が必ずしも明確ではありません。それらについては、繰り返される範囲を適宜判断して文字化しました。範囲が気にかかる場合は、リンクしてある元画像と対照して、利用者各位でご判断下さい。
3 テキスト化7作品について
以下、今回テキスト化した7作品について、かんたんにそれぞれの特徴を解説いたします。
・幸田露伴校『狂言全集』(1903年刊) 野村八良校『狂言記』 (1925年刊)
幸田露伴校『狂言全集』(1903年刊)と野村八良校『狂言記』 (1925年刊)は、江戸期版本『狂言記』の活字版です。『狂言記』は、狂言台本を読み物として読みやすくした本です。但し、編者による変更が含まれている作品も少なくないようです。『狂言記』(および上掲2書)は、いわば狂言作品のダイジェスト版と言えます。3流派の狂言脚本に多用されるト書きによる省略(校訂本文では《 》で示されます)がほとんどなく、それぞれの狂言作品の筋書きの面白さを楽しみやすく書かれています。なお、50音各行別「狂言作品WEB目次」の曲名に付した「省略のほぼない本文テキスト」を示す「*」印は、上掲2書には付してありません。それは、上掲2書がそもそも狂言作品の「ダイジェスト」的読み物としての性格を持つからです。その事は、上掲2書(版本『狂言記』)と、3流派古写本の翻刻である他の5書とを読み比べれば、容易に理解されるでしょう。
上掲二書にだけ見られる作品は次の15作品です。
「生捕鈴木」「柿売」「かくすゐ」「口真似聟」「見物左衛門」「鹿狩」「七騎落」「挂杖」「双六僧」「茶盞拝」「手負山賊」「どちはぐれ」「奈須の与一」「ひめのり」「連尺」(50音順。以下同じ)
但し、野村八良校『狂言記』にある『狂言記外編』50作品中には、省略の強い作品が少なからず含まれます。中には、原形をとどめない程に省略され、話の内容がよくわからなくなってしまっている作品まであります。幸田露伴校『狂言全集』と共通する『狂言記』『続狂言記』『狂言記拾遺』150作品には、そういった作品はなく、どれも内容がよくわかる作品ばかりです。野村八良校『狂言記』の方には、作品の概要を示す短い文章が冒頭にあり、語句に関する野村による注が、それぞれ付されています。一方、幸田露伴校『狂言全集』は、最も早い時期に校訂本文を作成しましたが、底本の表記を極力尊重してテキスト化しております。両書は同じ版本を翻字していますので、本文は基本的に同じです。なお、読み仮名はどちらも適宜省略し、必要と思われた都度、( )で示しました。
版本『狂言記』は、一般の読者向けの読み物として出版されました。一方、以下の狂言3派の古写本の翻刻は、元になった古写本が、流派内の後進のための書き物であり、演者集団のための台本である点、その性格が『狂言記』と大きく異なります。特徴的な相違点としては、後者には、演者や囃し方、地謡などの動きを説明するト書きが多く含まれていることや、演者には周知されている定型的なやりとり、他家を訪問した時の訪問者と家の者のやり取りや、大名などの主人が太郎冠者などの使用人を呼び出すやり取り、酒宴の席での盃事のやりとりや小謡や小舞の詞章等が省略されて、簡単なト書きで済まされていることなどが挙げられます。そういった点が、上記2テキストと以下の5テキストの大きな相違点であることにご留意下さい。
・幸田露伴校『狂言全集』(1903年刊)所収の大蔵流脚本
幸田露伴校『狂言全集』(1903年刊)中に、校訂者が入手した大蔵流狂言古写本の翻刻114作品が含まれています。これら114作品は全て、下の『能狂言』(1942-45年刊)とほぼ同内容です。
此の刻安田善之助君より大蔵流の写本を借り得て、彰考館諸参考本の例に傚ひ、和泉流の文の後に大蔵流の文を載す。(「幸田露伴校『狂言全集』凡例」)
上の「大蔵流の写本」は、下の『能狂言』の底本「大蔵虎寛本」の一写本であったと思われます。したがって、ふつうにお読みになる方に、これをわざわざお読み頂く必要はないかも知れません。校訂はかなり後で行いました。読み仮名は示さず、同じ本文内で漢字表記とかな表記を併記することで、読みを示しています。また、読点を少なくしています。
・山脇和泉著『和泉流狂言大成』 (1916-19年刊)
本書は、和泉流の当時の一流派の宗匠であった山脇和泉氏による和泉流の古写本の翻刻です。
和泉流は其流義の歴史が古く、且其勢力範囲が広かつたゞけに流中に二三の派があり、其用ふる所の曲にはそれぞれ相違の点がある、従つて其中の何れを採らんかとの問題等もあつて着手後種々なる渋滞を来したが、結局現在東京の舞台に於て最も多く用ゐられつゝあるものを基礎として公定せんとの事に一決し爾来着々としてその歩を進めたのである。(「和泉流狂言集の出版に際して」)
全200作品中、他になくこの本にだけある作品が、以下の29作品あります。
「庵の梅」「牛盜人」「越後聟」「鬼丸」「折紙聟」「懐中聟」「蝸牛」「歌仙」「勝栗」「鞍馬聟」「酒講の式」「三人長者」「重喜」「蝉」「児流鏑馬」「筒竹筒」「野老」「長刀応答」「業平餅」「鳴子」「馬口労」「簸屑」「吹取」「瓢の神」「謀盛種」「孫聟」「松囃子」「弓矢太郎」「若和布」
校訂は『狂言記』の次に行いました。この本だけは、翻字と校訂本文の両方をテキスト化しUPしてあります。振り仮名も( )で示しました。両方読むのは煩雑ですが、情報量は最も多く、その意味では一番わかりやすいかもしれません。
・『狂言二十番』 (1903年刊)『狂言五十番』 (1926年刊)
『狂言五十番』は、芳賀矢一氏による鷺流の古写本の翻刻です(但し『狂言二十番』中の「見物左衛門」を除く)。
この本には、世に特に多く、流布しない鷺流のものを採つて、題名を「狂言五十番」としたが、頁数が意外にかさんで、その中、数番を割愛するのやむなきに至つたことである。(「狂言五十番はしがき」)
同じ芳賀氏の校になる『狂言二十番』の20作中、4作品は鷺流狂言である確証がありませんが、表現や言い回しが、『狂言五十番』と共通する15作品とほぼ同じであるところから、鷺流狂言であると断定して差し支えないと思います。そこで、「狂言作品WEB(総)目次」では、略称をそれぞれ「鷺流50」「鷺流20」としました。
作品はあわせて63作品、うち鷺流作品は62作品、『狂言記』から1作品です。本書にだけ見られる作品は以下の11作品です。
「伊勢物語」「鬼の槌」「公事新発意」「瞽女座頭」「栄螺」「塵塚」「月見座頭」「唐薬」「雪打合」「養老水」「呼声」
この二書の特徴は、大蔵・和泉両流とは異なる独自の表現があること、63作品すべて脚本に省略のない、ほぼ完全ヴァージョンであることです。校訂作業はともに最後の方でした。読み仮名の( )表記はせず、漢字とひらがなを併用して示しました。表記・校訂ともに、ほぼ当コンテンツの最終形態となっています。
・笹野堅校『能狂言』(1942-45年刊)
太平洋戦争中に岩波文庫から出版された、狂言脚本の決定版的な本です。
近世初期、虎明本が書写されてから間もなく、大蔵流の狂言に近世的な刪定が加へられ、整理されたものを書き留めたのがこの大本(校訂者注:底本がこれと同じ内容であると笹野氏は推定している)であつたらしく思はれる。(中略)虎寛本は虎明本に次ぐもので、虎明本以後この本文に固定したことが知られ、そして永く之によつて大蔵流の狂言が演ぜられてゐたことがわかるのである。(中略)虎寛本は、現在の大蔵流が行つてゐる狂言の親本ともいはるべきものである。(中略)わたくしが、こゝに虎寛本を採つたのは、上述のやうに、この流派、本文、番数等に諸条件を具備し、この一書において古くから今に至るまで通じて見られるといふ便宜があつて、汎く一般の研究者及び鑑賞者のための定本といはれるやうなものを求むるならば、これを措いては他にありえないと思はれる理由があつたからである。(「解説」)
幸田露伴も『狂言全集』で、次のように大蔵流狂言脚本を高く評価しています。
其の辞章の備はれるより論ずれば蓋し大蔵流第一たるべし。(「幸田露伴校『狂言全集』凡例」)
本書にだけ見られるのは「引敷聟」1作品だけです。他の164作品すべて、和泉・鷺の両流か『狂言記』と共通する作品であることは、現存最古の流派である大蔵流が狂言文化の中心にある事の表れであるように思います。
校訂は最後の方でした。読み仮名の( )表記はせず、漢字とひらがなを併用して示しました。鷺流二書同様、表記・校訂とも当コンテンツの最終的に確定した形となっています。基本的には本書の笹野校ヴァージョンが正確性において幸田校ヴァージョンに優り、ふつうに読まれるには笹野校ヴァージョンだけで良いと思います。但し、笹野校ヴァージョンが省略している部分を幸田校ヴァージョンが省略せずに示している場合があり、両方のヴァージョンを見比べて読むとわかりやすい場合はあるように思います。
4 狂言の古典的代表作について
版本『狂言記』と大蔵・鷺・和泉三流の5書籍、4系統すべてに含まれるのは、以下の19作品です。
「居杭」「入間川」「靭猿」「瓜盗人」「鬼瓦」「鬼の継子」「伯母が酒」「柿山伏」「鎌腹」「神鳴」「口真似」「惣八」「飛越」「丼礑」「鈍太郎」「萩大名」「花争」「附子」「骨皮」
これらに、狂言中の大作である「武悪」と、演者たちに重視されてきたとされる「花子」「釣狐」の三作品を加えて、計22作品を「古典としての狂言の代表作」であると言ってよいように思います。ただ、現代においては差別性が目立ち、読むにはお勧めできない作品(「伯母が酒」「丼礑」など)も含まれています。また、未成年には勧められない性的な内容が含まれる作品(「骨皮」)もあります。
・現代も通じる(差別性の少ない)狂言の代表作について
狂言作品には、あからさまな差別性や人権侵害が含まれ、それが笑いの源泉になっている作品が少なくありません。あるいは、身分社会の絶対的な上下関係が笑いの前提になっている狂言も、現代人には面白さがあまり感じられません。そういった差別性のほとんどない作品で、現代のどういった立場の人が読んでも面白さを感じられる作品は、決して多くはありません。そういった作品から「現代にも通じる狂言の代表作」を選ぶとすれば、以下の19作品が挙げられるでしょう。
「柿山伏」「隠れ笠」「神鳴」「口真似」「膏薬煉」「昆布布施」「空腕」「飛越」「萩大名」「附子」「腹不立」「布施無経」「舟船」「文山賊」「松囃子」「水掛聟」「貰聟」「八幡前」「横座」
また、多少の問題性は含まれていても、狂言ならではの面白さのある作品はあります。どうしようもない軽薄さや卑小さを抱えながら懸命に生きる人々を温かく描く作品や、自由で奇抜な設定や展開、ユーモラスで飄逸な描写に魅了される次の11作品も、現代人の読むべき狂言の代表作と言えるように思います。
「居杭」「伊勢物語」「牛盗人」「靭猿」「蟹山伏」「川上」「蝉」「契木」「茫々頭」「箕被」「米市」
以上30作品が、今日読まれるべき狂言の代表作であると思います。(最後に付言します。現在WEB上で狂言の舞台映像をいくつか鑑賞できます。中でも、2019年の大蔵流公演の「靭猿」を推薦します。当サイトで台詞と内容をご理解頂いた上でご覧頂きますと、舞台芸術としての狂言がより堪能できるかと思います。)
2024年2月22日 校訂者