江戸期版本を読む

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カテゴリ: 咢堂自伝

尾崎行雄著『咢堂自伝』 目次

第一章 幼年時代 1/1
尾崎家の祖先 父と母 東京に移住 天性の臆病者

第二章 学生時代 1/2 2/2
慶應義塾に学ぶ 教師を困らせる 九州に父を訪る
慶應義塾退学 工学寮へ転校 工学寮も退学

第三章 新聞記者時代 1/2 2/2
演説の稽古 新潟新聞主筆となる
新潟県会を指導す 結婚生活に入る

第四章 国会準備時代 1/3 2/3 3/3
大隈参議に識らる 改進党を組織す 自由党と争ふ
政党の受難時代 其頃の支那征伐論
府会入で沼間と抗争 「臆病」が教へた戦術

第五章 外遊と其前後 1/5 2/5 3/5 4/5 5/5
条約改正問題 後藤伯を担ぐ
戯言から帝都追放 「保安條例」悲喜劇{*1}
弟を伴れて外遊 米国の第一印象
流石に大きい大陸の景観 失望した米国議会 英国行
滞英中に憲法発布 パーネルと虞翁 思出の欧洲巡遊

第六章 議院生活の初期 1/2 2/2
政党堕落の第一歩 其頃の暴行沙汰 品川内相の大干渉
議会で八つ当り 議会史に残る演説

第七章 進歩党全盛時代 1/3 2/3 3/3
松隈内閣の斡旋 樺山、松方を見限る
進歩、自由両党合同 初めて台閣に列す
所謂「共和演説」の真相 隈板内閣瓦解 議会演説の一記録

第八章 政友会創成時代 1/2 2/2
伊藤侯に接近 内閣投出しの一幕 星亨と私
桂子に致さる 藤公にも左様なら

第九章 東京市長時代 1/4 2/4 3/4 4/4
迂闊に乗つた市長の椅子 第一着に市区改正
水道拡張と下水の改良 道路改良エピソード 電車買収と瓦斯合併
在職中の思出話
其頃の政治行動 二度目の外遊

第十章 第一次護憲運動の思出 1/3 2/3 3/3
桂公進退を乱る 怒に燃えた私の演説
(思出の議会演説 桂内閣弾劾演説(抄))
遂に全国的暴動! 山本内閣と私の進退
大隈内閣と私の行動 司法大臣としての私 大浦事件と私の意見

第十一章 欧洲大戦前後 1/4 2/4 3/4 4/4
欧洲大戦と対支外交 三派合同と私の目算
閥族の再現 外交調査会と西伯利亜出兵
戦後の欧米視察 言語に絶する戦の跡
恐るべき米人気質

第十二章 普選運動から第二次護憲運動まで 1/3 2/3 3/3
普選運動に乗出す 軍備制限を提唱
加藤友三郎と山本権兵衛 第二次護憲運動
(思出の議会演説 普選案賛成演説(抄))
護憲三派の崩壊と其後の政情 国難来の警告

第十三章 晩年の発心 1/3 2/3 3/3
第四次洋行と其目的 門出を試す一演説
墓標代りの意見書 留守中の当選
妻の病気 今ぞ覚る無明の夢 政戦六十年の回顧

思出の議会演説 1/3 2/3 3/3
桂内閣弾劾演説(抄)
普選案賛成演説(抄)
国防に関する質問主意書


凡  例

  1:底本は『咢堂自伝』(尾崎行雄著 1937年刊 咢堂自伝刊行会版)です。
  2:底本の仮名遣い・踊り字はそのままとし、旧漢字は基本、現在通用の漢字に改めました。
  3:合字や二字以上の繰り返し記号はテキストになく、文字に直しました。
  4:底本の文体は文語文に統一し、修正した場合は校訂者注で示しました。
  5:送り仮名が通常と異なる場合は、必要最低限の範囲で適宜加除しました。
  6:底本中で一箇所でもふりがなの付された漢字は、読みやすい方で適宜表記しました。
  7:「谷(きはま)」「辞(の)」など、現代では見慣れない表記は「極」「述」などと改めた。
  8:写真は、サイズ等を適宜調整し、関連する記述のある本文付近へ載せました。
  9:底本には差別的表現が含まれます。お読みの際には十分ご留意下さい。

校訂者注
 1:底本は「喜悲劇」。同本文104頁「悲喜劇」とあるのに従い改めた。

咢堂自伝
尾崎行雄

第一章 幼年時代

尾崎家の祖先

 相模の国津久井郡に又野村といふ山村がある。甲斐の水晶を溶かしたような清冽な流れと、鮎漁で名高い相模川を前に、武甲相の翠巒迫るところと云へば、大層きこえもよいが、道志の山裾にかこまれた極めて辺鄙な所だ。そこが私の生れ故郷である。
 そして私の家も先祖代々この又野村に住んでゐたものと見え、そこから一里ほど隔つた大沢の祥泉寺といふ寺には、歴代の位牌もあれば、先祖の墓といふものも今に残つてゐる。
 こゝで尾崎家の歴史を語るのが、この物語にふさはしからうが、残念ながら資料がない。私の幼い頃、私の家は怪火にあつて家財一切を焼失したと云ふから、記録もその時灰燼に帰したものであらうか、今では尾崎家が相当な旧家であつたらしいといふことが徳川時代に出版された書物によつて判る{*1}くらゐのもので、寺にある位牌と墓の外には先祖その他に関する記録は一切私の家に残つて居ない。
 そういふ訳であるから、私は現在寺に遺存して居る位牌と墓石によつて尾崎家の先祖は、元和八年に死んだ徳厳院殿雄宗浄行居士尾崎掃部守行永と云ふ人であり、その夫人は寛永五年に亡くなつた栄玄院殿昌林妙繁大姉であるといふことだけは知つて居る。
 しかし、尾崎掃部守と称した人は、如何なる人物であつたか、又何処から来て、どういふ仕事をした人であるかについては、津久井郡の牧野村に伏馬田城といふ城址があつて、掃部守がそこに住んで居たといふ口碑があり、その城址の下に尾崎が原といふ畑地があるといふ程度以外は、色々な書物を調べて見ても判らない。その人の没年から想像すると徳川に反抗して没落し、又野村に隠遁したのではあるまいかと思はれる。元和八年といへば、徳川二代将軍の末期、三代将軍家光が職に就いたその前年に当るのだ。それから又あの辺では、戒名に院殿といふ称号を付けることは容易に許されない。従つて代々の位牌中にも、院殿の称号の付いたものは、この人の他には一つもない。こんな点から掃部守は、相当な身分の人であつたやうにも想像される。しかし、伏馬田城址と云つても、それは山の頂にあるさゝやかなもので、とても城と名付ける程のものが置かれさうもない。所は恰も甲斐と相模の国境が入り乱れ、北條と武田勢が絶えず相犯すところであつたから、或は物見台が置かれてゐたのではあるまいかと思ふが、いづれにしてもまことに空漠たる話である。しかし、私は、先祖が何であつても構はない流儀であるから、知らなくとも別に苦にはしない。世間で謂ふ所の先祖については、私は大いに疑問を持つてゐる。どこの家でも系図を見ると、先祖といふものが、麗々しく載つてゐるが、その先祖とても、もともと人間である以上、父母があり、祖父母があり、さらにその先代もあつた筈だ。それをたゞ中間の比較的重要な人を探し出して来て、これを先祖と云ふのは、まことにおかしな習慣だと思ふ。ダーウヰンが人類は猿猴と同祖だと証明してゐるところを見ると、私達の先祖は御同様に、猿の御親類といふことになるかも知れない。
 祥泉寺といふ寺は今でもある。寺について聞いて見ると、昔は尾崎家専属の寺で、外には檀家もなかつたから、尾崎家の衰微と同時に寺も甚だ貧弱なものとなつてしまつたらしい。しかし今では檀家も沢山出来て立派な寺になつてゐる。

掃部守墓

父と母

 安政六年十一月二十日、私はこの又野村で呱々の声をあげた。父は八王子在散田村の峰尾氏から婿養子に来た人で、行正といひ、私はその長男に生れたのである。安政六年といへば、所謂安政の大獄のあつた年で、翌年三月には井伊大老が桜田門で殺される。これより先黒船は浦賀湾頭に現れると云つた具合で、世は徳川の末、王政復古の気運が大いに動き、物情騒然たる頃であつたから、辺鄙な又野村の山の中にも尊王攘夷の風は、遠慮会釈もなく吹きこんで居つたらしい。されば父などもこの時代の波に乗つて、早くから勤王浪士と共に、諸国を漂泊して居つたものと見え、ほとんど家に居ることはなかつた。
 この頃の父の行動については、会津征伐に甲州浪士を以て断金隊を組織し、板垣退助に従つて奮戦したといふ外に余り聞いてゐないが、父などと共に東奔西走して居つた浪士仲間の利け者落合直亮といふ人は、父の親友であり又親戚でもあつた。落合氏は又野村からは、対岸の高尾山の麓なる武州駒木野の産で、明治文学界に有名な落合直文氏の養父であるが、早く本居、平田らの学風を受けて、すこぶる勤王の志が厚かつた。しかもこの人は、なかなか胆力もあり、策にも富んで{*2}居つたものと見え、ある時は清川八郎と、又ある時は藤本鉄石らと相謀り、慶応三年には薩兵と江戸擾乱を企てる等、大いに倒幕に奔走したが、いづれも成功せぬ中に幕府に感付かれ、遂には幕船に追はれながら、江戸から海路薩州に命からがら落ちていつたといふ風雲児である。その後は西郷隆盛、岩倉具視らと通じて、王政維新に功労のあつた人だ。
 父はさういふ訳で余り家には居なかつたから、私は幼年時代を母一人の手で、貧しい中に育てられた。ひと口に貧しいと云つても、私が生れた頃の尾崎家は最も衰微の極に達した時代と見え、貧乏この上なしといふ状態であつたやうだ。それでも村では自分だけが特別扱ひにされて、父母共に普通の人をば、家来のやうに扱つて居たやうに記憶する。家をめぐつて数軒の和光姓の家があつたが、それは皆昔の家来だなどと言つて居つた。がまづこの時代は全く母一人子一人、親戚はあつても、何れも数里の遠方に住居し、兄弟や姉妹は、母にも又私にもなかつた。実に淋しい生活を山の中で致して居つたのです。
 私は幼い頃、殊の他身体が弱かつた。わけても頭痛が甚しく、生れ落ちてから、頭痛のしない日をば知らなかつた。頭痛が常態で、頭痛のない日が不思議なくらゐ珍しいのであつた。しかもその上、又皮膚が弱く満身に痒い小さな物が出来てゐたから、幼年時代の私の生活は、実に苦痛を極めたものであつた。従つて母なども学問をさせるよりも、どうしたなら、この児を無事に成長させることが出来るであらうかと、長子のことだけに、専ら命を繋いで行かせることに心配されたやうだ。もつとも学問といつたところで、もちろんこの山間には、学校もなければ、教師も居よう筈はない{*3}。たまたま父が帰つて来た時に教へてもらふぐらゐのものであつた。
 かうして自分が一番初めに習つた書物――今で言へば、小学校教科書とも言ふべきもの――は、唐詩選であつたやうに記憶する。学問といふものは、実に難しい、分らないものだと思つた記憶は、今でもかすかに残つて居る。さうでせう、いろはもろくろく知らない者に、イキナリ唐詩選を教へられては、びつくりするのも当然だが、私は実にさういふ、乱暴といへば乱暴な教育を受けたのである。いろはも父や母について教へられたけれども、これもろくろく稽古するといふ程のことはなかつた。かうして私は、別に学問らしい学問をするでもなく、この浮世離れした山の中で、幼年時代の七年余りを送つた。

明治初年父子

東京に移住

 私が初めて、東京へ出たのは明治元年であつた。王政維新と共に勤王浪士達も、新政府に仕へる事となり、久しい間席の温まる隙{*4}のなかつた父も、明治元年にはいよいよ明治政府の役人となつて、私達一家もこゝに父祖の地を後に、東京に移住することゝなつた。そしてまづ落付いたところは、駿河台の安岡良亮氏の屋敷内であつた。
 この安岡といふ人は、土佐幡多郡中村の郷士で、勤王家の一人であつた。なかなか武芸達者の人で、日置流の弓術をよくし、大坪流の馬術も心得てゐれば、刀槍の術は土方謙吉について練磨し、砲術は田所左右次に学ぶと言つた具合であつた。しかも文学についても造詣が深く、筑前亀井鉄太郎門の錚々として聞こえて居つた程で、文武兼備の人であつたやうだ。さう言ふ人であつたから、維新東征の役に従軍するや、大いに功績があつて抜擢さるる所となり、維新後には弾正台大忠から集議員判官、民部少丞などに昇任し、政府でもかなり重要な地位を占めて居つた。私の父は、この人の配下にあつて、十年余り役人生活をして居つたのである。明治二三年頃には、私達一家は番町に転居した。
 私はこれまでろくな学問はして居なかつたが、東京に出てからは論語、孟子等を習ひ、又安岡氏について、時々七書の講義などを聞いた。この聴講仲間には、私とは親子ほど年齢が違つてはゐたが、河野敏鎌、小畑美稲、大塚成美ら後に名を成した人達も同席していた。番町に住むやうになつてからは、平田塾に通学して古典を学んだ。当時の平田先生は、有名なる篤胤氏の子息で、 天皇陛下の侍講を勤めて居つたやうに記憶する。
 明治四年の頃、安岡良亮氏が高崎に赴任を命ぜられるや、父も誘はれてその下役となつて行くことになり、私も父母と共に高崎に移住した。当時高崎藩は、藩士の間に紛擾があつて、大分不穏な形勢が見えた。元来上州は人気の荒い所だけに、事態中々不穏であつたから、これを鎮撫するには、安岡氏が適任だらうといふ評議と見えて、明治政府は氏を高崎県参事――今の知事――として送つたのである。安岡氏は文武両道に達した人であつたから、何をやらしても治績が上がるといふ訳で、その手腕を買はれたのであつた。そして高崎藩の紛擾が鎮まると、今度は伊勢に暴動が起こつたので、安岡氏は度会県参事に任命され、山田へ行き伊勢が静穏になると、今度はさらに熊本県知事に転じ、こゝで明治九年神風連のために殺された。私の父も、安岡氏に従つて転々と各地に赴任した。
 それは後の話として、高崎に行つた時、私は初めて学校といふものに入つて、英語を学んだ。主なる教師は小泉敦といふ人で、英語には中々堪能な人物といふ評判であつた。当時の学友は大抵今は生死も知らないほど疎遠な関係となつてゐるが、今でも生糸輸出業者として、日米の間を往来して居る新井領一郎君は、当時学友の一人であつた。この人については、私に一つの思出話がある。
 新井君はその頃驚くべき美少年であつた。一方私は、子供の時には鬼つ子とまで云はれたぐらゐで、鬼のやうな顔をして居つた。鼻の穴は上を向いて居り、歯は前の方へ出つ張つてゐて、雨降りに外を歩いてゐると、雨の雫が鼻の穴へ入る――まさか入りはしなかつたが――夫れほど顔全体が醜く、近所でも評判であつて、両親殊に母親はこれを苦に致して居つた。そこで自分も幾分かこの新井君のやうな、天下無類の美少年に類似するやうになりたいと念じ、同君をモデルに顔の作り変へを始めたのである。この努力によつて私は大いに、自分の相貌を善くすることが出来た。
 高崎に居ること幾ばくもなく、安岡氏は度会県に赴任することゝなり、私達一家もこれに同行して伊勢に行つた。三重の咢堂といへば、別に断るまでもなく、尾崎といふことが判ると云はれる程、三重が私にとつてゆかりの深い土地となつたのは、この時に始まつたのだ。
 高崎を去るに臨み、父は私が非常に病身であつたため、一ケ月の賜暇を請うて、全家草津の温泉に静養することになつた。草津に入浴すること三十日余りの内に、いつとは知らず、あれほどつきまとつてやまなかつた頭痛も、拭つて去つた如くなくなつた。皮膚病も大いに善くなつた。しかし今日思ひ出しても、ぞつとするのは、有名な熱の湯に二三回入り、癩病患者や、極度の黴毒患者と混浴した事である。近来は熱の湯も、大層立派になつたが、その頃の熱の湯は、実に不潔千万なものであつた。浴場は大道に屋根を構へただけで、その周囲には、鼻のない人や、頭に穴のあいた人や、その他身体各部のくされかゝつた癩病患者が充満して居つた。
「草津に来て、熱の湯に入り切らないやうな者は、意気地なしだ。」
と言はれて、奮発したものか、どうか、原因はよく分らないが、とにかく私は熱の湯に、癩病患者と共に、二三度入浴した。よく伝染しなかつたものだと、今でも思ひ出すと、気分が悪くなる。
 度会県は伊勢の山田にあつた。その当時は、三重県は別に津にあつたやうだ。山田には外宮の附近に宮崎文庫といふのがあつて、そこに英学校が建てられ、高崎で教鞭をとつた小泉敦氏が招かれて、山田英学校の教師に転任して来た。随つて高崎の生徒も数名教師と共に、伊勢に来たが、この人々は今はどうなつたか、新井氏の外は自分は知らない。こゝで一緒に学んだ者のうち的場中、大井斎太郎などいふ人達は、のち工学寮に入り何れも博士となつて、各々その道に於いて国家に貢献する所があつた。

天性の臆病者

 東京から高崎へ、高崎から伊勢へと転々として移動した頃の記憶は余りないが、なほ一、二を語ることゝしよう。
 東京で平田塾在学中、一日子供仲間と遊んで居る間に、ふと後ろに倒れて気絶したことがあつた。それから後も二、三度仮死状態に入つたことがあるが、それらの追憶より、次いで霊魂に付いて、一種の意見といふ程ではないが、感想を抱くやうになつた。
 又この通学中に、最も記憶に残つて居るのは、私が子供仲間に於いて、非常な嫌はれものであつた事実である。学校仲間では、余りさうでもなかつたが、往来で遇ふ見ず知らずの子供は、大抵私に向かつて、石を投げたり、悪口雑言するのが常であつた。これがため自分の知らない者は、皆自分の生れながらの敵であるかの如き感じが興つた。他の子供は、無事に通行することの出来る往来で、なぜ自分一人石を投げられたり、罵詈されるのか、どうしても分らなかつた。私は、他の児童に反感を与へる性質を持つて生れたものと見える。もし身体が強かつたならば、それらの子供を相手に喧嘩したであらうが、自分は生来の病身、極めて弱いことを自ら知つて居たから、やむを得ず喧嘩もせず、さりとて逃げもせず、石を投げられながら、ノソノソ往来したことを覚えて居る。かくの如く人から嫌はれる性質は、その後も長く続いて居つた。
 次に今なほ記憶に鮮やかに残つてゐるのは、首斬り見物である。当時は王政維新から廃藩置県が初めて実行されたばかりの頃であつたので、各地共に不穏であつた。東京でも人に殺されたり、割腹した死骸が、時に路上に横たはつて居る事があつた。さういふ時には、父に促されて死骸を見に行つた。又父に伴はれて、首斬り場に見物に行つたこともある。高崎へ移つてからも、罪人を殺す場合には、よく生徒と共に首斬り見物にやられた。拷問見物もした。その頃は裁判官が、未だ行政官と分離されなかつたために、父は学務の外に、裁判官のやうな仕事をもして居つた。随つて自ら拷問などすることもあつたので、その折には、私をひそかに拷問場の唐紙の蔭に坐らせ、拷問する模様などを見させたのである。後年伊勢に移つてからも、たびたび首斬り見物にやられた。なぜそんな事をさせられたのだらうか。多分自分が非常に臆病であつたから拷問、首斬り、切腹等を実際に見せたら、少しは勇気が付くであらうといふ、父の考へででもあつたのだらう。かくして方々で首斬りを見せられたが、しかし自分は勇気が付くどころではなく、かへつて首斬りを見せられるたびごとに、甚しく不愉快を感じた。殊に割腹した死骸を見せにやられた時などは、非常に不愉快で、ろくろく見もしないで帰つて来た。
 天性の臆病者は、どうしても強くはなれないのみならず、見れば見るほどいやになり、沢山見た時は、血の臭ひが鼻について、弁当すらも十分に食ふことが出来ず、家に帰つてから、大いに叱られたこともあつた。
 しかし、これほどいやな首斬り見物であつたが、妙なもので、高崎で見た罪人と、伊勢で見た罪人の間には、非常な違ひがあることを、子供心にも気が付いた。高崎で断頭場に引き出される罪人中には、鼻唄を唄ひながら来る者も、少くなかつた。中には、
「俺の首には、鉄の筋が這入つて居るから、気を付けて斬れ。腕が鈍つて居ては、斬れないぞ。」
などと、首斬り人に向かつて悪口雑言するものもあつた。首斬り人の誇りとする所は、全く首を斬り落とさずに、ズツト斬つてひと皮だけ残し、その首が落ちないで、ブラリとブラ下がるやうに斬るのにあつた。実に驚くべき巧者なものであつたが、そんなことを言はれると、不思議なもので、巧者な首斬り役ですらも、時々斬り損なふことがあつた。これに引き替へ、伊勢で断頭場に臨んだ罪人は、多くは半死の状態で、鼻唄どころではなく、ろくろく歩くことも出来ないのが大部分、否、ほとんど全部であつた。これは監獄の扱ひ方が違ふためであるか、或は上州と伊勢とは、人間が違つて、伊勢人は大層温順と言ふよりも、寧ろ柔弱な風があり、上州人は、上州無宿の伝統を承けて、元気者が多いためであるか、判然とした原因は分らないが、とにかく首を斬られる罪人には、非常な相異があつたやうに感じた。


校訂者注
 1:『大日本地誌大系 第40巻 新編相模国風土記稿』には、372頁に「〇尾崎掃部助城跡」、388頁「旧家彦四郎」に「先祖尾崎掃部助は北條家に仕ふ」云々、425頁に「又野村里正彦四郎所持の古文書一通」等の記事が見える。
 2:底本は、「富むで」。
 3:底本は、「居やう筈はない」。
 4:底本は、「席(せき)の暖まる隙(すき)」。

第二章 学生時代

慶応義塾に学ぶ

 伊勢に一年余も居る間に、私の東京遊学の希望は非常に強くなつた。それには二つの原因がある。私は下級の地方官をして居つた親父に従つて、そこに一年、ここに半年と田舎歩きをして居る間に、東京に慶応義塾といふ大層エライ学校があると云ふ評判を聞いた。慶応義塾は当時日本一と評判され、官立の学校よりも、よほど有名であつた。そこで自分もとても学ぶなら、日本一の学校で学びたいと考へたのが一つ、又生来人に干渉されることが、極度に嫌ひであつた私にとつては、父母の膝下に居る事は、楽しいには違ひないが、色々な事に付いて、その干渉を受けなければならぬ。それが生命も縮まると思ふほど嫌ひであつたから、これをのがれたかつたのが、第二の原因で、遂に明治七年の夏その許可を得、十歳ほどの弟を連れて、慶応義塾に入ることになつた。自分はその時十六歳であつた。十一月生れであるから、満十四歳何ケ月といふ子供に過ぎなかつたが、弟を連れてとにかく東京に遊学した。その当時はまだ汽車はなかつたから、伊勢から蒸汽船に乗つて横浜に来たのである。
 東京遊学は、非常に愉快であつたが、同時に心配の種でもあつた。有名な慶応義塾のことであるから、さだめし生徒も優れて居るに違ひない。さうすると、未熟な自分は大いに軽蔑されるだらうと思ひ込んでしまつた。私は子供の頃から、自尊心が強かつたものと見えて、軽蔑される事が非常に嫌ひであつた。しかし、自分は高崎と山田で少しばかり学校に居ただけで、ろくろく教育らしい教育を受けたこともなく、又どういふ訳か人には嫌はれがちの性質を持つてゐるから、優れた生徒から、軽蔑されても仕方がないが、どうしたらそれを少しでも、或は全部免れることが出来るだらうかと、種々に小さな胸を痛めた。東京へ来るまでは、何よりもそれが心配で、夜もろくろく眠れなかつた事もある。さうして考へ出したのが「無言生活」といふ大発明! その当時は我ながら、これを至極の名案と思つた。即ち、
「おとなしく道を歩いて居るのに、石を投げ付けられるのは、予防の仕方もないが、普通仲間から軽蔑されるのは、多くは自分の無能無学を見透されるためだ。何にも言はずに居れば、どのくらゐ智恵や学問があるか分らない。分らなければ、軽蔑の仕様もなからう。」
と、必要以外には一切物を言はないことにした。まことに悲壮な決心をしたのである。
 無言生活を考へ出した理由は、右の通りであるが、それには少なからず漢学流の教育が影響してゐたやうに思ふ。支那思想では口舌の徒と云つて、おしやべりを賤しみ、文章は千古の業であると称讃する。私は幼少の時からこの漢学主義で、育てられたのであつたから、自然しやべることは、賤しむべきものと思ひ、口数も余りきかなかつた。その代り文章の方は、名文家になるつもりで、ずいぶん骨を折つたものであるが、これも結局二流以上にはなれなかつた。
 さて慶応義塾に入学して見ると、案の如く、一番下の級に編入された。十歳ばかりの自分の弟と、一級違ひの級に入れられた。これでは必ず軽蔑されるに違ひないとの心配が益々強くなつたので、いよいよしやべらぬことに決めて、恐る恐る教場へ出て見ると、自分の知つてゐるほどの事を先生に尋ねる者がある。「こいつ可笑しい」と、恐怖心が多少減つた。いよいよ学習して見ると、同級の人より自分の方がよく出来る。
 これは当然な話で、格別に低い級に入れられたのだから、教師もそれに気が付いたものか、一ケ月も経たない中に、一級のぼせてくれた。その当時慶応義塾では、毎月試験があつて、昇級が出来た。私も右の如く比較的下級に入つたので、級でもよく出来る方であつたから、毎月昇級させられた。時には一ケ月の内に二度も昇級させられる事があつて、たちまちの間に、上から二番目くらゐの高級生になつてしまつた。しかし、それでも無言生活を守つていた。或は以前より一層酷くなつたかもしれない。それは初めは他の学生を怖れたために、口をきかないことに決めたのであつたが、自分の方が少し優勝者であることを自覚すると、今度は他の学生を軽蔑するために、あんな者と口をきく要はないといふ傲慢心が起きて来て、いよいよ口をきかなくなつた。かくして生徒からは「気取り屋」、「澄まし屋{*1}」などと盛んに悪口されたが、なほ無言主義を執持した。

教師を困らせる

 生来無口な上に、しやべらぬと決めたのであるから、無言生活もよほど徹底して居つたものと見える。三田に居る時分は、脚気を患つて、毎年箱根に湯治に行つた。温泉場は通常友達を作り易い所であるが、私は温泉に往つても、友達は作らなかつた。三、四十日間も逗留して居ても、下女に対して、床を敷け、お膳を出せなどと云ふ用事の外は、何事も云はないで、一室に籠つて本ばかり読んで居た。箱根の福住は、福沢先生などもよく御入来になつて、懇意な所から、三田の書生をば、特別に優遇してくれたのであつたが、初めて私の往つた時には、
「気違ひか何か知らぬが、尋常ならぬ変物が来た。」
と云つて、私の身の上を心配したといふ事を、後で懇意の者から聞いた。とにかく私はこんな風に生徒仲間に対してばかりでなく、世間に出ても口をきかなかつた。しかし、教師を苦しめるためには、かなり口をきいた。それは誤れる悪念から起こつた考へであつて、今さら慚愧の至りに堪へぬから、罪滅ぼしのため、こゝに懺悔する。
 当時子供心に思へらく、
「おとなしくして居ても、昇級させてくれるだらうが、教師をいぢめて困らせてやれば、なほ早く昇級させるに違ひない。」
と。そこで教場で教へるものよりも、上級の書物を購入して、自分で独習し、教師の知りさうもない事を質問する。教師には答へが出来ない。教師は一には困惑のため、二には私の学力を買ひかぶるため、私を昇級させた。何を質問してもサツサツと答弁し、困らせる事の出来なかつたのは、門野幾之進君――今日の千代田生命保険会社社長で、門野重九郎氏の令兄――と後藤牧太の両君だけであつたかと思ふ。この二君は教師中でも、最も年若な方であるのに、エライものだと感服した。しまひには、感服するだけでなく、門野さんは頭のよい人だから、この人の頭をモデルにして、自分の学問的方面を伸ばさなければならぬと考へ、爾来これを努力実行したものである。
 かくして悪策と実力との混合的働きで、私は入塾後一年経つか経たない内に、ズツと上級の生徒になり、当時自分にはよく分らなかつたが、一寸名のある注意人物となつてゐたやうだ。そのころの慶応義塾には、大人寮と童児局及び幼稚舎の三つがあつて、生徒を夫々年齢によつて三種に分けて収容してゐた。幼稚舎には一人で寝起きも出来ないやうな子供も大分来てゐたので、それを集め寄宿舎へ入れて寝起きから飲食の世話までも、学校でしてくれた。私はもちろん童児局に入つてゐたのであるが、私と同級の人々は、大人寮に居るものばかりで、童児局に居るものはなかつた。そのためであつたか、どうか、知らないが、私が入学後一年程して、大人と童児の間に、中年寮といふのが新設されると、私は早速童児局の仲間を外され、中年寮に移された。この中年寮はどういふ必要があつて、設けられたか知らないが、是非拵へねばならぬ程の理由もないと私は思つた。そこへもつて来て同時に移された人の中には、私より年の若い者も一、二人はあつたが、いづれも生意気な連中で、不良少年と云ふほどではないが、まあ童児局中の札付き人物であつた。私はかういふ余り良くない仲間に移された事に不平を起こして、これを容易ならぬ侮辱と考へるに至つた。
 それまでは、私の欠点といへば、生徒仲間では無口、只教師をいぢめる――甚だよくないいたづらだが――だけで、上の方には、寧ろ評判の善い生徒と見られ、優遇されて居つたのであるが、この時からは不平の勢ひにかられて、教師ばかりでなく、塾監局の人々にまでも反抗し、いぢめてやらうと決心し、しきりに塾の取締り連中を困らせるやうな計画を立てたり、又実行もした。
 もつともかうして反抗するに至つたについては、別にまだ一つの動機があつたのだが、それは後から書くことにしよう。

九州に父を訪ねる

 東京に遊学した翌年、即ち明治八年、数へ年で十七歳の時、私は弟を連れて熊本まで旅行した。その頃私は、知識見聞を広めるためには、全世界を旅行する必要があり、その手初めとしてまづ日本全国を旅行する必要があると考へて居つた。しかしそれには地理、植物、鉱物、その他の学問を、ひと通り予備知識として持つてゐる必要があると考へてゐたが、その準備の出来ない中に、たまたま父母が私の東京遊学後間もなく熊本県に赴任したので、暑中休暇を利用して、とりあへず九州旅行を企てたのである。しかし、この旅行は途中珍事に遭遇して遂に挫折してしまつた。今から考へれば、大した事ではないが、当時の私には非常な大事件のやうに思へた。もちろん九州までは船旅であつたが、その頃は米国汽船会社と三菱の間に、激烈な競争があつたから、運賃も極めて廉く、ほとんど無賃同様の安値で乗船させたから、学生の身分でも、一等切符を買ふ事が出来た。そこで我々は一等客として、米国汽船に乗り込んだのはよかつたが、九州へ帰る同行の学友が、船中で切符を紛失した。船員が改めに来た時、弁解しようにも、相手が亜米利加人だから、言葉がよく通じない。大いに困つた。私の拙劣な手真似や筆談で事務長と談判し、どうかかうか追徴をのがれることになり、友人の船から降りることも到着後許してやらうといふことになつて、ひとまづ安心はしたが、それまでの間は、容易ならぬ心配であつた。この友人は馬関で上陸したが、私は長崎まで乗船し、弟と二人で長崎の旅館に泊まつた。この旅館は普請中で、多数の職人が泊まり込んで居た。寝る時から怪しい者が徘徊するやうな心持ちがして居つたが、夜中フト目を醒まして見ると、枕辺に置いた提げ鞄が見えない。その内に下の方では、泥棒々々と云ふ声が起こつて大騒ぎを始めた。私は昼の中来て居た職人が、私の提げ鞄を盗んで、さうして自分自ら泥棒々々と、騒ぎ出したのだらうかと感じた。幸ひ私は僅少な旅費ではあつたが、二分して半分は懐中に入れて置いたから、提げ鞄の分は盗まれても、とにかく熊本まで行き着くことは出来たが、実はびつくりした。無論長崎から熊本までも、今とは違つて、小さな日本船で天草に寄つたり方々を経て行くのであるから、中々容易な旅ではなかつた。今から考へると、十六七歳の少年、しかも小さい弟を連れて、よくも大胆に旅行したものだと思ふ程、その当時は困難であつた。かくして漸く熊本に着いたが、旅といふものは、意外に面倒なもの、怖いものといふ感じが起こり、その上旅費も不足してしまつたので、九州漫遊の壮図も挫折して、暑中休暇は熊本なる父母の膝下で暮らしてしまつた。その当時熊本には旧藩主細川侯が維新当時設立した、外人教師の英学校と医学校が存続してゐた。小さい学校ではあつたが、この二つの学校には、中々有為の俊才が居た。横井時雄、海老名弾正、小崎弘道、徳富猪一郎等の諸君は、皆この英学校で育てられた人である。緒方、北里等の医学博士は、多分右の医学校で教育されたものであらう。英学校の俊才の論文も、ひと通り父から見せてもらつたが、中々感服すべきものが多かつた。自分は到底企て及ばないと思つたものもあつた。帰京の折は、別段の出来事もなく横井時雄君と同船で横浜まで来た。これが私が横井君と交はりを結んだ初めである。神風連の名は、この頃既に世間に聞こえて居たが、翌年所謂神風連の乱を起こして、安岡知事は熊本鎮台司令官種田少将と共に殺された。この時は殺されたり怪我した者もかなり多かつたが、私の父は僥倖にして、怪我もせずに免れた。東京某地の芸者で、種田少将の妾となつて熊本に居た女が、在京の母に向かつて、少将の遭難を報じた電報を、「旦那はいけない、私は手傷」といふ都々逸文句で送つたため、口さがない京童が「遺るお前はどうなさる」と附加して、一時世間の笑柄に供したのは、この時の事である。

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校訂者注
 1:底本は、「済まし家」。

慶応義塾退学

 熊本から帰つた後も相変らずの無言生活を続けて居た。只変つたのは中年寮に移された不平から、反抗心を固めたことに過ぎなかつたが、この一事は私にとつて相当な事件まで発展してしまつた。
 元来私は子供の時分には喧嘩をしたことはなく、他の子供にはいつもいぢめられ通して、ずつと来たのである。非常に気の小さな子供として育つて来たのであつた。それで子供心にもこれではいけない。何とかして改めなければ、とても人の上に立つて、これを支配することは出来ないと、気が付いたから、私は弱い心を直すために、無理に強い真似をして人に反抗するやうにしたのである。それを何十年間習慣的にやつて来た結果、臆病には相違ないが、無理にでも強がり、人に反抗するやうになつた。明治七年慶応義塾に入つた頃は、反抗の稽古を始めた時で、大抵の教師には反抗を試みた。かうして中年寮行きや何かで、遂には塾監局にまでも反抗して、体のよい退学を命ぜられたのであつたが、その顛末はかうである。
 その頃福沢先生は、折節全校の生徒を集めて、学問の心得を演説されるくらゐで、別に教授されるやうなことはなかつた。しかし、文章の出来さうな生徒を指名して、それに論文を書かせ、先生ご自身で見てくれると云ふ話であつた。私も論文の提出を求められた。その時書いたのは、学者自立論といつたやうなものであつた。その頃、少し学問の出来る者は、多くは政府の役人になつた。私は子供心にもこれは宜しくないことだと思つてゐたから、今の言葉で言へば、猟官運動を非難攻撃し、学者は自分で独立して行かねばならぬといふ意味の論文を書いた。所が、これに福沢先生であつたか、先生代理の文章家であつたか分らないが、評語を入れて戻して来たのを見ると、議論は甚だよいが、その実行に先鞭を付ける者のないのは遺憾だといふのであつた。もとより評語に他意はなかつたのであらうが、反抗心を養成し始めたばかりの私は、それを「論ずるばかりで行ひ得ぬもの」と嘲けられたやうに僻んで解釈してしまつた。さあかうなると黙つてゐられない。早速、「書いた以上は実行して見せる」と、大層威張つた返事同様な論文を書いて再び提出した。
 もちろんこれは一時の出来心で、別に深い考へも何もあつた訳ではないが、騎虎の勢ひとでも云ふか、問題がこゝまで発展した以上、何とか独立して飯の食へるやうな、学問をせねば、福沢先生に対して申し訳がない。しかし、慶応義塾で学ぶやうな法律、経済、政治等の学問では、役人になるか、人に使はれるかするより外に、飯の食ひやうはないと自問自答した揚句、子供心の一徹心で畢生の智恵を絞つて考へ出したのが、染物屋になる決心であつた。
 なぜ染物屋になれば、必ず飯が食へると考へたかと云ふに、その頃読んだ書物の中に不良染料の害が書いてあつた。その例にクリミヤ戦争に行つた英仏の兵隊が、悪染料を使つた靴下のために病者続出した事が挙げてあつた。又我が国でもその頃西洋から下等染料を沢山輸入して居り、それを使つた布帛類は褪色し易くて、有害なやうにも聞きかぢつてゐた。そこで染料の改良こそ国のためにもなれば、自分が独立して飯を食ふ方便にもなる大事業だと考へたのであつた。さて染物屋になるには、慶応義塾に居ては駄目だ。他の学校に転じて化学を学ぶに限る。化学なら官立の工学寮に入学するのが、最もよからうと考へた。子供心の単純さとは云ひながら、余り軽率な次第であつた。

工学寮へ転校

 紺屋にならうと考へてゐた頃、私は風紀問題を捉へて、「福沢先生の徳を汚す」とか、「三田の校風を破壊する」とか色々なことで慶応義塾の塾監局や学生監に反抗し、邪魔をして居つたので、学校でもうるさい奴だと思つたのであらう、私の保証人にそれとなく、自発的退学を希望して来た。放校といふ悪名を付けるのも気の毒だと云ふ訳らしかつたが、聞かねば放校もなしかねまじき形勢であつたから、私もいよいよ慶応義塾をやめて、工学寮に入らうと決心し、確か明治九年の初めであつたかと思ふが、たうとう{*1}慶応義塾を退学した。
 在塾中はさきにも述べたやうに、必要以外には口をきかぬ主義であつたから、余り友達は出来なかつた。親しく交はりを結んだのは、波多野承五郎、三宅米吉、吉田熹六等の二三人に過ぎなかつた。この三宅君も至つて無口な方で、私の下宿に来れば、一日でも黙つて、ぢつと私とむかひ合つてゐることが、出来るといふので、さういふことを楽しみにして来た人である。こんな訳で、その他の慶応義塾の友人は、塾を出てから知り合ひになつたものが多い。
 慶応義塾退学後は、予ねての計画通り工学寮へ入るつもりであつた。
 この工学寮は日本の工学の元祖となつたもので、のち工部大学校と改称し、現在では帝国大学の工科大学となつてゐる。ところで、この工学寮は工部卿伊藤博文氏が、西洋の実学を奨励する目的で、授業の仕方はもちろんのこと、学校の経営法に至るまで、全部外国人に一任して居つたから、教師はすべて西洋人で講義でも何でもことごとく英語であつた。私もこれまで英語も少しは習つてゐたが、慶応義塾では専ら訳読の稽古ばかりしてゐたので、英語を話す事も、聞きわける事も出来ない。
 英語ばかりではない、工学寮で必要な算術も、私はろくろく学んでゐなかつた。これでは決心はしても、入学は出来ないから、やむを得ず英語と算術を学ぶために、その予備門と言ふべき学校に入つたが、実はそれさへ私にとつては困難なことであつた。
 その頃シヨウといふ英国宣教師が、福沢先生の邸内に住居して居つた。この人は軽井沢を避暑地にした元祖であるが、私はこの人から英語と高等数学を教へてもらつた。シヨウ氏は工学寮の事実上の校長ダイヤー氏の朋友であつたから、ダイヤー氏に私を特別に紹介してくれて、無理ではあつたが、その後間もなく工学寮に入学することになつた。
 その頃工学寮は虎の門にあつた。今の華族会館や文部省などのある辺で、工学寮の建物は、学校の移転後久しく御料局と虎の門女学館とに使用されて居つた。私の入学当時の校長は大鳥圭介君であつたと思ふが、前にも述べたやうに教頭も教師も、ことごとく英国人であつて、校長の実権を握つて居たダイヤー氏は、スコツトランドの人であつたから、衣食住を始めとし、すべての事が皆スコツトランド式であり、校医にも外人を用ひ、甚だしきは便所までも西洋輸入のものであるなど、今から考へれば、ずいぶん思ひ切つたことをしたものであつた。ダイヤー氏は帰国後グラスゴーの大学総長となり、国会議員の候補者ともなつた。
 此らの英人教師は、いづれも本国の大学を出たばかりの新進揃ひで、優秀な人達であつたと見え、ダイヤー氏の外にも、地震学者のミルン氏、建築学者のコンデル氏らを初めとし、世界的学者となつたものが多い。さて私はこゝで{*2}化学を勉強し、卒業後は、京都の西陣辺りへ行つて染物屋になるつもりであつた。もしこの計画が成功したなら、私の一生は、現在とは全く変つたものとなつたであらう。

工学寮も退学

 さて、工学寮に入学していよいよ化学教室に入つて見ると、自分は早速頭痛、その他の不快を感じた。教室に浸みこんでゐる薬品の臭ひが鼻につくためで、これには一番閉口した。色々な化学上の実地試験をさせられ、薬品の変な臭ひを嗅がされると、益々以て耐へられないほど、厭な心持ちになる。どの教場に行つて稽古しても習ふものが、皆気に入らない。無理に嫌な学問をすると身体が持てない、病気になる。私は生来虚弱であつて、草津滞在後は、よほど丈夫にはなつたが、未だ普通人とは比べものにならなかつた。現に工学寮に入学の際も、健康で落第しかけたのを、ダイヤー教頭の好意で漸く入学を許可された程であつたから、とても真面目に嫌な学問を継続することは出来なかつた。確か在学一年ばかりの間に、六ケ月余りは学校の病室に居つたと思ふ。とにかく、これは大変な所へ来たものだと思つた。苦心して入学したとは云ふものゝ、私はもともと化学が好きな訳でも何でもなく、一寸した行き掛かりから、向かう見ず{*3}に入学したのであるから、後悔したのも無理はなかつた。
 さういふ訳だから、授業時間ばかりでなく、ダイヤー教頭自ら毎夜全校の生徒を大食堂に集めてやらせた学習時間にも、私は病室に居ない時は、仕方なしに出席したが、一向課業をば勉強しなかつた。しかし、二、三時間もある学習時間を何にもせずに居れば叱られる。どうしたらよからうかと思案を重ねた揚句、暇つぶしに新聞の投書を書くことを考へ出した。これならダイヤー先生が見巡りに来ても、西洋人のことだから、何をしてゐるか分らない。かうして学習時間には、大抵つまらぬ論文を書いて居た。先生はこれを見ていつもよく勉強して居る、翻訳でもしてゐるのかと褒めてくれたが、いつまでもこんな事をしてゐても仕方がないし、のみならず、性質に合はないことは、どうしても長く続けてゐる訳にも行かなかつたので、たうとう一年足らずで、工学寮を退学した。それは明治九年の末であつたと思ふが、或は十年の初めであつたかもしれない。
 工学寮をやめてから、十二年の末頃までは、投書、反訳などをして遊んでゐたが、この間に本郷湯島の共勧義塾に招かれて、英国史の講義をしたことがある。この学校は慶応義塾、中村敬宇の同人社と並んで、三大義塾と言はれた程であつたが、その塾長の子供が、慶応義塾と工学寮で、私と同窓であつた関係から頼まれたのであつた。しかし、この講義は失敗した。生来おしやべりは余り上手でない上、慶応義塾以来の無言生活が祟つて、自分では分るやうに講義したつもりだが、生徒には一向分らない。ことに生徒は皆私より年上の者ばかりであつたので、私をばかにして、「幽霊講義で分らない」などと言ひ出し、果ては私を排斥するといふ始末であつたから、私もわづか五六回くらゐで、講義をやめてしまつた。幽霊講義とは、言葉の語尾が消えてしまつて、不明になるといふ意味。後年私が議員になつてからの演説に対してイヤに語尾に力を入れすぎて、キザだと評するものがあるのは、多分右の非難を忘れず、これを改めようとして、かへつて反対側に走りすぎた結果であらう。
 工学寮に居た時、学習時間に書いた論文中に、「討薩論」と言ふのがある。当時、薩摩はほとんど独立国の状態であつて、政府の命をきかない。西郷隆盛は、私学校を建て、私兵を養つて勝手な振舞ひをして居つた。故に私は是非共速やかに討伐せねばならぬと言ふ議論を書いたのだ。その頃の日本は、明治維新で階級制度打破、四民平等の大義を確立した筈であるが、習慣の惰性は怖ろしいもので、大臣や長官には、公家{*4}大名がすはり、維新の元勲は、いづれも今の次官どころの卑い位地に就いてゐた。明治四年に漸く大久保利通、大木喬仁、副島種臣らが一省の長官となり、六年には大隈重信が大蔵卿、伊藤博文が工部卿になり、漸次門閥制度は打破されたが、今度は薩長人が専横を極め、藩閥政治の世となつた。子供心にも私は閥族政治が癪に障り、討薩論を書いたのである。
 さてこの論文が出来ると、自分は内心得意で、福沢先生にお目にかけた。慶応義塾を飛び出したとは言ふものゝ、やはり福沢先生を忘れる事は出来なかつたからだ。その時先生は、唯一言、
「こんなものを書くと縛られるぞ。」
と申された。私は縛られるのは嫌であつたが、さう言はれると、私の性癖として黙つて引つ込んでも居るわけには行かなかつた。

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校訂者注
 1:底本は、「とうとう」。
 2:底本は、「こゝでに」。
 3:底本は、「向ふ見ず」。
 4:底本は、「公卿(くげ)」。

第三章 新聞記者時代

演説の稽古

 福沢先生は賛成されなかつたが、私は思ひ切つて討薩論を曙新聞――この新聞は当時日々、報知、朝野と雁行して四大新聞の一つであつた――に投書した。楠秀といふ仮名ではあつたが、之が私が新聞に関係した初めである。やがて西郷隆盛は叛旗を翻して明治十年西南の役となり、自分は討薩論が実行されたやうな心持ちがして、甚だ得意であつた。
 工学寮をやめてからは、別に学校に入るでもなく、暇であつたので、読書の余暇には新聞の投書や翻訳をした。それから、福沢先生が拵へた「民間雑誌」といふ雑誌が一時休刊となつてゐたのを、私達友人等と共に再興した。創刊号は明治十年四月に発行し、最初は月刊であつたが、翌十一年三月から日刊に改めた。この雑誌の関係で、私は初めて朝吹英二氏と知り合ひになつた。朝吹君が主としてこの雑誌の経済方面を受け持ち、記者には古渡資秀、加藤政之助、波多野承五郎、本多孫四郎、本山彦一らの人々があり、なかなか意気盛んなものであつた。この時朝吹君の発案で、是まで政治を論ずる者は、皆羽織袴か洋服であつたが、それでは面白くない、法被を着て政治を談じたらよからう、民間雑誌は、法被着て、政治を談ずるといふ趣意で、やつて見よう{*1}といふことになつたので、私もそれは至極面白からうと同意した。しかし、実行して見ると、どうもピツタリとしない。元来私は人並み以上に、しかつめらしく言語応対すべてをやつて居つたのであるから、法被には不向きであつた。そのため法被連中から大層笑はれたものだ。
 その後この友人らもそれぞれ地方へ聘せられて分れ分れになつた。時も時、明治十一年五月十四日、大久保内務卿が紀尾井坂で暗殺された。たまたま民間雑誌が「内務卿の兇聞」といふ社説を掲げ、政府に冷静沈着を勧告したが、当局の忌諱にふれ、今後かかる言論を弄すると発行停止か発売禁止にするから、以後今回のやうなことは書かぬといふ請書を出せと要求して来たので、福沢先生は大いに憤慨して、再び雑誌を休刊して了つた。
 その後しばらく貧乏書生をしてゐた。「西洋穴探し」や「公会演説法」などは、この時代の翻訳である。やはりその頃の事であるが一友人が、「ソシアル・サイエンス」といふ本を買つてきて、之を翻訳して、「交際論」と名付けて出版した。今なら誰でも社会学と云ふのであるが、当時福沢先生が社交の必要を唱へ、世人もだんだん之に和鳴して、交際を説き始めた折柄であるから、右の友人は、「ソシアル・サイエンス」を交際論と名づけたものと見える。随分乱暴な話である。
 これもその頃の話。私が著述を始めて間もない時、福沢先生を訪ねてご意見を伺つた事があつた。その時先生は毛抜きで鼻毛を抜きながら、変な目付きをして斜めに私の顔をながめながら、
「おミエーさんは、だれに読ませるつもりで著述なんかするのかい。」
と問はれた。私はその態度や言葉使ひにムツとしたが、怒気を抑へ、襟を正し、儼然として、
「大方の識者に見せるため。」
と答へた。スルト先生は、
「馬鹿ものめ! 猿に見せるつもりで書け。おれなどはいつも、猿に見せるつもりで書いてるが、世の中はそれで丁度いゝのだ。」
と叱咤しつゝ人を引きつけるやうな笑ひ方をされた。私は叱られたのか、褒められたのか、何だか分らなかつたが、とにかくその態度や言葉使ひが気に入らなかつたから、その後はなるべく先生を訪問しないやうにした。しかし、これは私の誤りで、先生は実用的著述の極意を示されたのであつた。
 工学寮退学後、たしか十年の末頃かと思ふが、私は波多野承五郎、桐野捨三、加藤政之助の諸君らと協議社といふ会をこしらへ、討論会や演説会などを開き、又新聞へ投書もした。さうすると私達を生意気組と称して、反対の気勢を挙げて居たものに猶興社といふものがあつた。この猶興社の牛耳を執つて居たのが犬養君であるが、この頃はまだ君を知らなかつた。無言生活をやつて居つた私がかうしてしやべるやうになつたのは、丁度福沢先生が日本でも追々演説を流行させなければならないと言つて、態々三田演説館を建造し、自らその範を示し、奨励しはじめた時であつたから、私も先生にすゝめられるまゝに、演説を試みるようになつた。
 けれども、おしやべりの下手な私に、上手な演説が出来よう筈がない{*2}。他の人に比べると大変まづい。しかしその頃私は、「文章は百年の業、口舌は一時の用」と心得てゐたから余り苦にもしなかつた。従つて熱心に演説はやらなかつた。この頃の演説で記憶に残つてゐるのは「尚武論」丈けである。これは国家の盛衰興亡は、尚武の気象の有無に依つて別れるといふ事を歴史上より論じたもので、後出版して好評を博した。この演説は明治十二年と思ふが、芝のある寺の隅に、海軍士官の倶楽部のやうなものがあつて、種々な人物を聘して講演を聞いて居つた。多分水交社の前身であつたらうかと思ふが、そこから長谷川貞雄(後に貴族院議員になつた)と云ふ海軍将校が、どういふ訳であつたか、人を介して、私に講演を求めて来た。当時私はまだほんの一書生であつたが、一席弁じたのが右の「尚武論」である。
 その頃私は、しばらく駿河台の加藤桜老といふ漢学先生の所へ、漢詩漢文を習ひに行つた。この先生は、支那の古楽をよくし、詩を学ぶものは、楽を知らねばならないと言つて、私にも旁ら、音楽を学ばせた。音楽といつても横笛、琴、篳、篥、簫等である。ものにはならなかつたが、私も琴の稽古をした。友人中には、
「尾崎は鋤鍬でも握るべき武骨な手で、琴を弾いてゐる。」
とあざ笑つたものもあつた。
「琴泉」といふ私の古い雅号は、その頃琴の音と、泉の流れの音との相似た連想から、付けたのであつた。ところが、犬養君が例の毒舌で、
「琴泉とは粋な名だ。女の画家か、按摩のやうだな。」
と笑つた。さういはれるまでもなく、私も琴泉では少し弱過ぎると思つてゐたから、間もなく「学堂」と改めた。学問は学校だけのものでなく、一生いそしむべきものと考へたからである。すると犬養君が又言つた。
「学堂とは、支那ではスクール(学校)のことだ。可笑しな雅号もあつたものだ。」
 そこで私は、
「木堂(犬養君の雅号)は材木小屋のことであらう。」とやり返した。
 かうしてしばらくの間私は読書、翻訳、投書などで、日を暮らしてゐたが、この時思ひがけない吉報が来た。

新潟新聞主筆となる

 明治十二年の冬のある日、十一月であつたか十二月であつたか、とにかく福沢先生から用事があると言つて来た。何事であらうかと、早速行つて見ると、
「新潟新聞の主筆に推薦した古渡資秀が、赴任後間もなく病死したので、その後任を頼まれてゐる。どうだ行かないか。」
といふ話であつた。古渡君は私より後に、慶応義塾を出た人であるが、年輩は私より上で、文筆もすこぶる達者な人であつた。さて越後と云へば田舎ではあつたが、当時新潟新聞は地方新聞の尤として大阪の大新聞と対抗する程の勢力を持つてゐたから、私は勧められるまゝに、新潟行を承諾した。
 その頃はもちろん汽車はまだない。漸く人力車が出来たぐらゐで、旅は悠長なものであつた。熊谷、本庄、高崎、軽井沢等に泊まりを重ねて、六日目に長岡へ着き、ここから船で新潟へ赴いた。新潟へ着く前に、途中で日数がかゝり過ぎたので、旅費を使ひ尽くして了ひ大いに困つた。
 さて、新潟へ着くと、向かうからは{*3}新主筆の到着といふので、船着場には出迎へが来て居つたが、お互に顔を知つてゐる訳ではない。私が船から上がると、しきりに私の方を物色しながら、私に、
「尾崎先生はお着きになつたか。」
と問はれた。そこで私は、これが出迎への人々だなと気がついて、
「自分が尾崎だ。」
と答へた処、一行は怪訝な顔をして不承々々に迎へた。その頃は身体の大きさで、人物を評価して居つたので、身体の小さい、年若な私が、見損なはれたのも無理はない。その後懇意になつてから、内輪話を聞いたが、当時新聞社の人達は皆、
「福沢先生も大変なものを寄越したものだ」と云つてびつくりし、「尾崎は書生を伴れて来て、その書生が先に上陸したのだらうと思ひ、尾崎先生はと尋ねると、その書生のやうな子供が尾崎だと云ふ。こんな者が主筆になつて、新聞が出来るかしらん」と大層心配したといふことだ。
 その頃新潟新聞は、今の医学町の新潟印刷所の所に社屋があつて、私はそこで社説を書いた。かうして私の公人生活の第一歩は始まつた。然し筆を執つて見ると、初めから評判が悪くない。紙数も殖えた。社の人々も大層喜べば、私の社内の評判も宜しい。しかし、それは私が偉いのでもなんでもなく、私が筆を執つた頃は、文明開化の急潮にのつて、新聞の読者も増すときであつたから、ズンズン増加したので、畢竟時勢のお蔭であつたらう。
 筆の方はそれでまづよかつたが、物を云ふことになると、生来の談話下手に、多年の無言主義の修養が祟つて、非常に困つた。新聞主筆といふので、田舎から色々な人が訪ねて来る。又招待もされるが、その応対にも私は只ハアとか、エエとか答へるだけで、寒暖の挨拶もろくには出来なかつた。いや、出来ないばかりではなく、寒いとか暖かいとか、天気が善いとか、悪いとかいふやうな千人万人皆知つてることを、遇ふ人毎に繰り返すのは、愚の至りだと考へて居たのであつた。又演説もやらされた。座談的には物が言へなかつたが、可笑しなことに理屈だけは言へたので、しばしばやつた。もちろん義塾出の人などに比べると、すこぶる下手で、評判も悪かつたが、やる事の筋が立つてゐるため、公衆も聞いてくれたやうだ。
 さて、新潟時代の仕事で今日まで残つてるものとしては、まあ学校の設立ぐらゐである。越後へ行く前に私は、新聞の投書はよく書いたが、学校を出たばかりの無経験者が、一躍主筆になるのであるから、出発に臨み、福沢先生に新聞記者として世に立つ心得をお尋ねした。先生はその時、
「マアどうしても、地方人士の智識を開発しなければならないが、それには、新聞に書くばかりでなく、同時に演説会を開き、目と耳と両方から、世間を嚮導して行かなければならぬ。これを自分の職分とせよ」と云つて、その他にも商事思想の注入、県会指導の必要など、二三箇条の心得を巻紙に書きつけて下さつた。
 そこで、商事思想の普及については、新潟の有力な実業家を勧誘して、まづ北越興商会といふものを興した。これは一般に商業教育を為す目的であつて、さらに進んでは興商会附属の学校をも建てるつもりであつた。この学校は有志を募り、計画丈けはたてたが、明治十四年七月私は新潟を去つたから、自分の手で学校を設立するまでには至らなかつた。しかし、その年の十二月、同志の人々は、私の計画を継いで、予定通り学校を創立した。その後種々の変遷はあつたが、今日県立新潟商業学校となつてゐるのが、それださうだ{*4}。
 これなどは忠実に教へを実行した方であるが、私は先生の訓令を自己流に解釈して、随分乱暴なこともやつた。

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校訂者注
 1:底本は、「やつて見やう」。
 2:底本は、「出来やう筈がない」。
 3:底本は、「向ふからは」。
 4:底本は、「それだそうだ」。

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