江戸期版本を読む

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カテゴリ: 咢堂自伝(1937刊)

新潟県会を指導す

 私が越後へ行つた頃の新聞は、論説に重きを置いて居たから、論説記者の勢力は、大層なもので、その主任は主筆と称し、編輯全体を指揮した。私も勿論さうであつたが、しかし主筆だけで満足せず、初めから新潟新聞総理と署名し、さらに指揮権を営業方面にまで拡張し、株主代表者たる社長を更迭せしめたこともあつた。少年時代には誰しも威張りたがるものと見えるが、これでよくも苦情が出なかつたものだ。それから二、三十年して、私は当時の新潟新聞社主の子息から、一通の手紙を見せられて、初めてその謎が解けた。手紙は強情我慢な少年を推薦して、些か心配であつたと見え、福沢先生が私の赴任に際し、私の性質から待遇法まで、事細かに社主に書き送つたもので、これによると、先生はこの時、既に私の腹の底まで見抜いて居つたのである。私は当時さうとは知らなかつたから、先生を敬遠し、時には反抗もして、御存生中余り親しく教へを受けなかつたが、これは実に残念なことであつたと今もなほ思つてゐる。新聞はそれでもよかつたが、私は県会まで、その流儀で押し通さうとした。
 明治十一年七月府県会規則が発布されて、十二年三月から各地で漸次府県会が開かれたが、新潟県は遅れて、私の行つた時は、まだ開かれなかつた。何分初めての事であるから、どうして開いて善いか、議事法なども知つて居る人がない。そこで私は福沢先生からも言はれて居つたので、県会開設にも尽力した。さて、いよいよ県会が開かれると、県会の方では私の席も、書記のつもりで議長より一段下に設けようとした。無論福沢先生が指導せよと云はれたのも、書記のつもりであつたらうが、自分は教師のつもりに聴き取つてゐたから、たとひ名義は書記でも、県会を指導するのには、議長と席を並べなければならぬと云つて、議長の松村文二郎君と並んでテーブルを据ゑさせた{*1}。松村君は温厚にして徳望ある君子人であつたが、議長の職務には不慣れであつた。しきりに失策をする。温厚すぎて議場の整理が充分出来ない。私は教師のつもりであるから、見かねて議長に命令的に指図する。余り議論がやかましくなつた時には、議長に向かつて「モウお止めなさい。散会なさい」と云つて、散会させた事も度々あつた。又議長が私の言ふことを聴かない時は、私が散会を宣告し、筆を投じて議場を去つたことすらあつた。当時の議事録は、珍物として、今日もなほ保存してあるさうだが、私の筆記した県会の議事録には、種々な評語が加はつて居つて、「愚論聞くに堪へず」とか「この論採るに足らず」とかいふ事が、筆記の中に書いてあるさうだ。
 翌年の県会にも、私は再び書記になつた。しかし今度は温厚な松村君が、その任に非ずと議長を辞して、山口権三郎といふ人が、代つて議長になつた。この人はなかなか厳格で、私の我が儘を許さない。私もこれはとてもいかぬと思つたから、山口君が議長になると同時に、書記をやめた。
 新潟へ行つてから、しばらくして、私は何であつたか、永山新潟県令を主賓とした官民合同の宴会に、新聞記者として招待されて行つた事がある。行つて見ると{*2}私の席は、末席も末席、一番端に設けられてあつた。当時私は丁年未満の書生であつたから、末席でも別に不思議はなかつたのであらう。しかし、それを見ると、かねがね米国では新聞記者は無冠の帝王と称し、大いに声威があるといふ事を聞きかじつて居た私は、早速案内した世話人をとらへ、これは新聞記者を遇する道ではない。自分の席をもつとよくせよと談判を始めた。世話人はなかなか聴き容れなかつたが、官尊民卑の陋習に忿懣を感じて居つた私は強情を張つて、押し問答をしてゐると、永山県令はこれを聞いたものと見え、
「それは面白い、こちらへ移せ。」
と言つた。そこで漸く県令の隣に座を占めることになつたが、県令の言ひ方も私には気に喰はなかつたものだから、宴たけなはにして、私も酒に酔つて来た時、私は床の飾り花をもぎとつて、知事の頭上や席上に、バラバラふり撒き、
「謹んで祝意を表する。」
とか何とかと言つて帰つてしまつた。その頃県令と云へば、なかなかの権勢家であつたから、属吏達は憤慨して、唯では尾崎を帰すことは出来ぬと猛りたち、無事に済みさうにもなかつたが、永山といふ人は、度量の広い人と見えて、始終優しくしてゐて、おこらない。それで私は何事もなく帰れた。今から考へれば青年血気の致す所とはいへ、恥づかしい所業であつた。その当時私は永山県令は一廉の人物であると感心した。

結婚生活に入る

 明治十三、四年といへば、既に自由民権論の囂々たる時代であつたが、中央政界を離れた草深い越後の新潟新聞は、別に目覚ましい競争相手もなく、私はむしろ張り合ひのないくらゐであつた。ところが、そのうちに長岡に競争相手が現れた。長岡の人大橋左平君が、新聞を拵へたが、新潟は地方の中心であるのみならず、新潟新聞は暖簾も古く評判もよいから、長岡の新聞は、尋常の手段では対抗が出来ない。私と対抗させるには、誰か私以上の声望力量のある者を呼んで来なければならなかつた。大橋君は今の博文館の創立者で、大橋新太郎君の父君であるが、なかなかのやり手であつただけに、俸給を惜しまず人選した揚句、その頃東京でも有名な草間時福君を招聘して来た。その頃の新聞記者の俸給は、大抵五十円から七、八十円ぐらゐであつたが、草間君には、百五十円以上二百円も出したといふ評判であつた。大橋君の意気込みも、推して知る事が出来よう{*3}。従つて草間君もまた自分が行けば、尾崎などの書く新聞は、何のひと振りと云はんばかりの勢ひで越後に乗り込んで来た。
 私は、草間君も慶応義塾出であつたから、顔ぐらゐは知つて居たが、別に知己でもないので、知らぬも同様であつた。しかし、その技量は稍知つて居つたから、好敵手ござんなれと、しきりに彼と対戦し、自分ではむしろ彼を圧伏するつもりで論戦を開いてゐた。かうして盛んに筆陣を張つてゐる内に、社説のたねもなくなつて来たから、例の尚武論を思ひ出し、やはり「尚武論」といふ題で十五日間ばかり連載した。連載して見ると、これが案外好評であつたので、明治十三年に出版したところが、これまたよく売れて、東京辺からも大分註文があつた。
 私が田舎生活一年半余りを送るうちに、自由民権論や、国会開設論が非常に盛んになつて、明治十三年には各地の在野有志が、国会論のために、日本全国の与論を喚起し、「国会期成同盟」、「国会願望」などといふ会を各地に拵へて、板垣退助その他有名な人々が、盛んに国会開設論を唱へ、越後辺にも、国会願望の空気はよほど高まつて来た。この時勢の動きと、中央の風雲を眺めては、私も雄心大いに動いて、東京へ帰りたくて堪らなかつた。この時、突然矢野文雄君から、政府に入ることを勧め、上京を促す手紙をもらつたので、私は二つ返事で承諾を与へた。
 矢野君は私の先輩で、慶応義塾で、少しの間教へを受けたことがあつたかもしれないが、ほとんど記憶にとゞまつてゐなかつた。私が矢野君の声望を聞いて、私かに感服したのは、君が義塾を去つて、報知新聞記者となつた後である。こんな訳で、これまで何らの交際もなく、先方ではおそらく私の顔も姓名も知らないだらうかと思はれるくらゐだのに、それが私に目をつけたのは、全く「尚武論」の取り持ちであつたと云ふ事だ。即ち「尚武論」を見たある先輩が、面白い感心な少年が居ると、矢野君に推薦し、これが縁となつて、政府入りを誘はれることになつたのだと聞いた。しかし、これは直接矢野君から聞いたのではないから、真偽は保証の限りでない。
 私が新潟新聞を去つた後、後任主筆には同窓の友人津田興二君を推薦した。この人は後年三井に入つて相当な地位を得た人である。津田君の次には箕浦勝人君、その次には吉田熹六君と、主筆後任者は、常に私が依頼を受けて、三代ばかり推薦した。新潟新聞は、その後政党の軋轢に禍ひされて、一時廃刊された。再興後は、昔日の面影がないやうだ。
 それはとにかく、弱冠廿二歳の新聞主筆は、いよいよ実際政治に自分の志を伸ぶることが出来るかと思ふと、愉快であつた。維新頃は男は十五歳、女は十三歳を以て丁年と認められて居つた{*4}時代で、すべての人が、早熟であつたから、今の人から見れば、私も早熟で、子供の頃から、既に国事を談論して居た。そして新潟に来る頃は、政治に志す人が、誰でも持つやうに、私もどうせ政治家になるからには、自分の思ふ通りの政治をやつて、藩閥政治を打破し度いと考へてゐた。しかし、それには腹心の部下がなくては駄目だ。一番信頼出来る者といへば、自分の子供であらう。子供も政治家にするのであるから、男の子でなければならない。自分が老いぼれないうちに、役に立つやうな男の子を、沢山拵へるに限ると空想したのも、その頃の事である。なぜこんな妄想を抱くに至つたかと云ふに、水戸の烈公が、五十余人の子福者で、これを全国の各大名に配し、大いに勢力を振るつたと聞いて居つたため、子供心にこれを真に受けたのであつた。従つて、私は早く結婚し、新潟に居る間に誂へ通り男の子が出来た。子供が出来て喜んだのはよいが、今度は早速生活に困つて来た。自分だけでも、衣食の計に苦しんでゐた折からであつたので、一人子供が出来てすら、既に大いに困つた。それがため、妄想も一朝にして打ち砕かれてしまつた。その頃の有志は、坊主と同様に、貧乏な癖に、食ふ心配などはしなかつたので、こんな馬鹿げた考へも持つたが、現実に直面すると、たちまちその不可能が分つた。私も早く気がついて、正妻以外の婦人にまで発展しなかつたから、面倒も起こさずに済んでよかつた。しかし、腹心のものだけで、ひと仕事して見たいといふ考へは、その後もなほ頭の隅に隠れてゐたと見え{*5}、それがため遂に弟の身を誤らしめるに至つたが、それは追つて話さう。

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校訂者注
 1:底本は、「据えさせた」。
 2:底本は、「行て見ると」。
 3:底本は、「出来やう」。
 4:底本は、「認(みと)められておつた」。
 5:底本は、「見へ」。

第四章 国会準備時代

大隈参議に識らる

 官尊民卑の思想は、私の最も排斥するところではあつたが、単なる役人でなく、国会準備のためと云ふので、私は勇躍東京に帰つた。帰るとすぐ、矢野文雄君の推薦で、統計院権少書記官に任官した(明治十四年の七月)。権少書記官と云へば、奏任七等の本官であるが、当時私は二十三歳の若輩で、田舎新聞の主筆に過ぎなかつた。そこで、私の履歴書を見た太政官では、こんな年少の者を奏任七等の本官にしたことはないと云つて、大分任官を渋つたさうだ。犬養君もこの時、私と同じ権少書記官に任ぜられたが、同君は私よりも年齢が上ではあるし、東京で色々新聞雑誌に関係し、相当に名を知られてゐた。
 統計院と云へば、只統計を調べるだけの役所のやうに聞こえるが、矢野君の話では、統計事務を執るだけなら、局で沢山だが、時勢の進運に促されて、内閣にも国会開設論が起こり、大隈参議などは、明治十六年を期して国会を開く希望で、既にその準備に着手した。国会が開かれゝば、国務の説明をさせる政府委員が、多数必要であるから、今の内に民間の人材を抜擢して政府に入れ、二年間政務の練習をさせることになつた。それには、政務全般の事を調べねばならないので、院となし、各省から材料の蒐集に便ならしめることにしたのださうだ。さて、出勤して見ると、成程矢野君の話の通りで、お前達は将来――今日の言葉で云へば――政府委員になつて国会に臨むのであるから、そのつもりで研究しろ、統計その物のためには、力を尽くさぬでも宜しい、国務全体の調査に力を注げと云ふやうな訓令があつた。
 かう云ふ訳であるから、人材が集まるべき筈であるが、まだ役所を開いたばかりの時であつたから、牛場卓蔵君、犬養毅君、永井久一郎君と私の外には、統計専門の杉亨二{*1}君が居たばかりであつた。波多野承五郎君、那珂道世君らも、誘はれたさうだが、承諾しなかつたと云ふ事だ。
 統計院総裁は、大隈参議の兼任であつた。明治十四年大久保内務卿の死後は、大隈参議が、政界第一の有力者で、外務、大蔵、司法、農商務の四省を監督してゐた。その頃の諸官省は、内閣と分離し、有力の人は、参議として太政官に居り、各省には、第二流の政治家を以てその長官となし、一人の参議が、各二三省ぐらゐづつ監督して居つた。この飛ぶ鳥も落とすやうな勢ひの大隈参議を総裁に戴いて、我々は大いになすあらんとしたのであつた。
 さて私が入つたのは、七月の末で、すぐ暑中休暇となつた。大隈参議は、御巡幸の御伴をして、北陸地方に行かれ、太政官大書記官で統計院幹事を兼任してゐた矢野君も、賜暇を得て、関西に旅行し、院に残つた者は、新たに就職した吾々数名に過ぎなかつた。その暑中休暇の終はるか終はらぬに、政府部内に、激烈な大隈参議排斥運動が起こつた。所謂明治十四年の政変がこれである。即ち伊藤、井上、大隈の協調が破れ、薩長連合の勢力を以て、当時福沢先生の三田派と結んで、国会開設の準備に取り掛かつてゐた大隈参議を、政府から排斥したのである。この運動が表面化したのは、大隈さんが北陸巡幸{*2}の供奉をして、東京を留守にしてゐた時であつたが、とにかくこの運動は成功して、大隈さんは薩長連合軍の総攻撃を受けて、三田出身の役人は云ふに及ばず、いやしくも大隈派と目せられたものは、ことごとく辞職すべく余儀なくされ、矢野君はじめ吾々一同も、辞職した。私が政府に居つたのは、僅か二ケ月足らずで、しかも暑中休暇中であつたから、何も仕事をする隙はなかつた。
 役人をやめてすぐ当惑したのは、徴兵検査であつた。私はその前年に適齢に達したのだが、病気の故を以て、一年だけ検査を延ばしてもらつてゐたところ、十四年には、役人になつたから、一時徴兵検査を免れた。然るに、意外の政変に遇つて辞職したため、忽ち東京府庁に呼び出された。やむを得ず検査を受けるため出頭すると、まつ裸にされて、五六人の者と、一部屋に追ひ込まれた。十一月頃ではあつたし、火の気もないので、寒くてたまらない。それでなくてさへ自ら国士を以て任じてゐる自分が、丸裸にされて、黴毒患者ででもあるのか、全身に変な腫れ物が出来てゐたり、又横痃などの出来て居る不潔な連中と一緒に立たされてゐるのであるから、不平に堪へないが、致し方がない。そのうち身体検査が始まつた。検査官は、黴毒患者だか何だか分らない不潔な人物の股間や尻の穴をいぢくつた手を、洗ひもしないで、私の検査に掛かり、その指を私の唇に触れよう{*3}とした。私は堪へきれなくなつて、二三歩退くと共に怒気を含んで、検査官を睨み付けた。さうすると{*4}検査官は、ろくろく検査もしないで、私の体質などを書き始めた。私はどんな事を書くのかと、怪しみながら、覗いてみると、「色白き方」とか、「ふとつた方」とか、全然反対なことを書いて居る。可笑しいなと思ひながら、なほ見てゐると、最後に体格は甲の上と書いた。
 当時私の健康状態は非常に悪く、体重の如きは十一貫余りしかないぐらいであつたから、検査は受けても、或は不合格で免役されるだろうと思つてゐた。その後間もなく、金融上の必要から、生命保険を付けたが、保険医は、普通の保険料では引き受け難い部類に、私を入れた。しかるに、徴兵検査では甲の上とあつて、兵役に就かねばならない事になつた。兵役の勤まる健康状態ではなかつたため、大いに困つたが、その頃は今日と違つて、一定の料金――たしか三百円?――を納めれば、兵役の免除を受ける事が出来た。が、貧乏な私には、その金すらなかつた。国士を以て任じてゐても、金は中々自由にはならない。実に弱つたが、この時は事が兵役といふ大事件であつたから、友人が私を救ふために、その金を貸してくれた。これが、抑々ひと口百円以上に及んだところの私の借金の初めである。

改進党を組織す

 私が大隈参議に親しく面会したのは、統計院に入つた後、矢野君につれられて、雉子橋の同邸を訪れた時である。私はそれまで新潟の片田舎に居つて、ずいぶん傍若無人な振舞ひもやつたが、さすがにこの時は非常な興味を感じた。その頃の新聞雑誌によれば、官界では書記官が偉物で、大臣参議はその傀儡たるに過ぎないやうに書かれて居た。私もこの噂を真に受けて、矢野君を大隈参議の師匠だと思つてゐたから、この両人が、私の面前でどんな態度をとるかと、それが楽しみであつたのだ。ところが往つて見ると、予想とは正反対で、やはり大隈さんは参議の威厳たつぷりで、滔々と弁じ立て、矢野君は、書記官らしく謹聴してゐる。私は可笑しくてならなかつた。そのうち、大蔵卿の佐野常民君やある省の長官が来たが、いづれも大隈さんの講釈を聞いて、
「ヘーツ」と引きさがつて行く。私は、これは自分が居るので、芝居をして、大隈参議をエラさうに取り繕つてゐるのかと、狐につままれたやうな気持ちで、その日は帰つた。その後いつ往つて見ても、同じやうな応対ぶりであつた。それで漸くこれは、芝居でも何でもなく、実は大隈さんの方が偉いのだと知つたのである。
 かうして、次第に大隈さんに接近するやうになつたが、十四年の政変で野に下つた大隈さんを始め同心一味の人々は、他年の国会開設に備へて、政党を組織することになり、従つて私もその下相談にのつて政治上に働いたが、その年は大したこともなかつた。
 当時は自由党が、主に{*5}血気さかんな士族連によつて組織されたばかりで、過激な振舞ひが多かつたから、私達は穏健な道を進まなければならぬと云ふことになつた。そして穏健に進むには、知識あり、財産あり、名望あるものを党員にせねばならぬと云ふので、もつぱらこの方面の人々を集めた。かくて明治十五年初めに、沼間君及びその麾下の島田三郎、肥塚竜、角田真平等の諸君の「嚶鳴社」と、矢野君の一派即ち藤田茂吉、箕浦勝人、犬養毅及び私など慶応義塾出身者の組織した「東洋議政会」と、又小野梓君の率ゐた高田早苗、天野為之、山田喜之助諸君など大学出の一派よりなる「鴎渡会」との三派を合はし、これに大隈配下の旧官吏河野敏鎌、前島密、北畠治房、牟田口元学など云ふ諸氏及びその他を加へて、改進党を組織した。
 改進党が生まれると党の機関新聞として、矢野君が報知新聞を譲り受けた。私もこゝで、犬養、箕浦の諸君らと共に報知新聞に入社して、論説記者となつた。やはり明治十五年の初めである。報知新聞の経営は、かうして矢野君の手に移つたが、藤田茂吉君は、引き続き在社したので、論説記者は都合五人となり、日を定めて順番に書いた。
 新聞社といへば、時代の尖端を行くものゝやうに思ふであらうが、この時分は、新聞社まで、官僚式であつた。報知新聞の如きも、編輯局は上局と下局と別々に設けられ、上局には吾々論説記者が居り、下局には雑法記者や翻訳方等が居つた。
 これは、今から見るとずいぶん可笑しな話であるが、当時大新聞の論説記者は、今と違つて大抵国士を以て自ら任ずるものであつて、単なる政論家ではなかつた。いつでも天下を取つて代らうと云ふ覇気満々な連中が多かつたから、自然論説は気位が高く、その態度も中々横柄であつた。
 私は、入社すると、まづ新潟新聞主筆の頃、報知新聞の論説欄でその名を知り、心ひそかに感服してゐた原敬君を思ひ出した。どんな人であらうと探したが、自分の居る上局には見えない。不思議に思つて居たら、原君は仏語の翻訳方をする下局の記者で、翻訳だけでは、暇なので、退屈凌ぎに論説の手伝ひをして居つたのであつた。そこで私は原君の技倆も認めてゐたから、なるべく上局の仲間へ入れたいと思つて、その話を持ち出した。ところが矢野君はじめ上局の連中は、
「かの人は政府との関係が深過ぎるから、むしろ退社させようと思つて居るところだ。」
と云つて反対された。私は、
「何とか救ふ道はないか。」
と考へて見たものゝ、強ひて引き止めるほどの力もなく、その内に、原君は我々が入社して間もなく自発的に退社した。
 その頃の論説は、矢野君、藤田君、犬養君、箕浦君と、私の五人でかはるがはる書いたのであるから、ずいぶん面白い論説もあつたらうが、改進党の機関紙となつたため、政府から非常の圧迫を受け、しばしば発行停止の厄運に遭遇し、発行紙数は漸次減少して三四千に落ち、ずいぶん引き合はない営業となつた。しかし、我々論説記者五人は、皆お抱へ車を持つてゐたので、沼間守一君などはよく、
「報知社の前を通つて見ろ、黒塗りの人力車が、いつでも五六台は欠かさず着いて居る。」
と云つて、その贅沢を冷やかしてゐた。

自由党と争ふ

 報知新聞の論説記者をしながら、私は改進党にあつて政治家生活を始めた。もちろん演説もやらされた。ことに改進党は、自由党と喧嘩をして居たので、互に文書、演説で攻撃し合ふ。私もその喧嘩にひつぱり出された。その頃はもう無言主義でもなく、議論もすれば、演説もしたが、しやべることは、相変らず下手であつた。方々からよばれるから、行つて演説したけれども、評判は宜しくない。喝采などされる事はなかつた。むしろ引つ込めなどと云はれることも度々あつた。私が、心中ひそかに軽蔑してゐた人々で、私より評判のよかつたものが、幾人もあつた。しかし私は、上手な演説者にならうとは考へなかつたのみならず、かへつて反対に演説を軽蔑し、遂に趣意さへ通れば、下手でも構はぬと考へるやうになり、いぢめられながらも、意地になつて下手な演説で押し通した。
 明治十六年三月の末、私は矢野君と共に、東海道の遊説に出た。乗り物の不便な時であつたから、第一日は神奈川に泊まり、翌日は神奈川から人力車で小田原まで行つて一泊すると云つた風に、道々党員を募りながら、悠長な旅をして東海道を下つた。旅は悠長ではあつたが、到るところで、自由党の妨害に遭ふので、一向呑気ではなかつた。それに、改進党の連中は財産あり、知識あり、随つて喧嘩嫌ひな穏健の士が多かつたので、演説会はいつも振るはなかつた。
 かうしてとにかく名古屋まで来た私達は、そこで秋琴楼といふ宿屋兼料理屋に泊まつて、党勢拡張のため、地方の有志家と毎日会見して居た。さうすると、ある日のこと、当時はすこぶる有名であつたところの自由党の雄将内藤魯一氏が、三十人ばかりの壮士を引き連れて、吾々の宿舎へ面会にやつて来た。その前年、板垣君が、岐阜で刺客に襲はれた時、刺客の襟上をつかんで二三間も投げ出したといふ評判のあつたのは、この内藤氏で、名うての剣客か柔術家であつた。さて面会すると、内藤氏は肩を怒らして、
「報知新聞は何故に国家の害物たる三菱を攻撃しないのか。甚だ以て不都合である。返答を承りたい。」
と語気鋭く詰めよつた。後ろに引き具して来た三十余名の壮士は、腕を撫して返答如何と待つて居た。
 この三菱問題と云ふのは、当時薩長政府は、陸海軍から警察権、民間事業に至るまで、ほとんどすべての要所々々を掌握してゐたが、独り海運だけは、三菱一手で持ち切つて居て政府の自由にならなかつた。しかも大隈さんと三菱とは、ドンナ縁故があつたか知らないが、政府は改進党の総裁が三菱と結託して居ると睨んでゐたから、万一の場合には海上権を大隈に取られるのを恐れて、三菱を潰さねばならぬと、品川弥二郎氏らが中心となつて、色々画策して居つたのである。そのために、報知新聞も、大隈の関係で、三菱から金をもらつてゐると噂され、これが改進、自由両党の離間にも利用されてゐたのである。
 さて吾々の返答次第では一悶着は免れまいと覚悟してゐると、矢野君はおもむろに口を切つて、まづ自由党首領板垣君の遭難を悼み、見舞ひを送つた事などを話しておいて、
「お話はごもつともである。帰京後、篤と事情を取り調べた上、諸君の言ふ通りであれば、然るべく論評を試みるであらう。」
と云ふやうなことを物柔らかに答へた。矢野君は、長者の風のある人であつたから、この答へを聞いて、自由党の連中も色を和らげ、我が意を得たりとばかりに、今度は私に向かつて尋ねた。
「矢野君が既に承諾した以上、足下も勿論であらう。」
と。私も矢野君がさう云つた以上、
「勿論。」
と一言答へれば、それで事は済んだのであるが、内藤氏らが力を恃んで脅迫的に言つたのが癪にさはつたから、
「イヤ、私は不同意である。攻撃しようとしまいと、こつちの勝手である。」
と言つた。もとより身に寸鉄を帯びてゐた訳ではないが、武器のないのも、時にとつての幸ひで、彼らは、
「生意気な奴だ。二階から放り出せ。」
「殴り殺せ。」
と物凄い権幕で、私に迫つたが、内藤氏はこれを制止し、
「矢野が承諾した以上、尾崎のやうな小僧の云ふ事は相手にするな。」
と悪口雑言を吐きながら、席を蹴立てゝ引き揚げた。この連中の内には、後に名古屋事件、加波山事件等に加はり、人殺しをやつたものもあつた。よくまあ無事に済んだものである。それからと云ふものは、名古屋滞在中は散歩に出ればうるさく付きまとつて大道で談判を開き、演説会を開けば打ち壊しに来る。ずいぶん厄介であつた。内藤氏の弟もまた有名な乱暴者で、我々の演説会に太い青竹を振りかざして乱入し、改進党員を逐ひ散らした。当時内藤兄弟の威名は壮士仲間に轟いてゐた。

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校訂者注
 1:底本は、「杉享二」。
 2:底本は、「北陸巡行」。
 3:底本は、「触れやう」。
 4:底本は、「さうすると」。
 5:底本は、「重もに」。

政党の受難時代

 自由党や改進党が生まれた後、我々は自ら「民党」と称し、政府党をば「吏党」と名づけてこれを軽蔑したが、政府側では在野党をば国賊の如く言ひなし、その撲滅に取りかゝつた。
 明治十五年六月には、独逸の社会党鎮圧條令や、英国の愛蘭党鎮圧條例等かの国々では、小戒厳令と称するものに倣つて、集会條例が改正され、政党はもとより、いやしくも政治を講談論議するものは、いかなる会団もすべて、党員名簿を作つて届け出でよとか、或は政社互に連結すべからずとか、色々政党拘束の規定が設けられた。我々はこれに対し、主義主張によつて離合集散する政党の党員、その数は何百万人何千万人の多きに及ぶから、名簿など出来るものではない。たとひ解散を命ぜられても、主義さへ同一なれば、同党員であるから、こんな乱暴な法律に従つて、届け出る必要はないと、大いに反対したが、結局法律として発布された以上、服従せねばならぬと云ふ方が、多数で、遂に政社として届け出ることになつた。
 政府の政党撲滅策は、これだけではなかつた。ことに藩閥の勇将品川弥二郎君一派の如きは、政党撲滅を以て、国家安泰の重要手段と考へ、政党員と見れば、謀反人扱ひをなし、民権論者をば帝政に反対するものであると云つて圧迫した。又政党主義の新聞には、しきりに発行停止を命じ、御用新聞の拡張をたすけた。こんな風であつたから、政党員で牢に入れられたり、殺されたりするものは、珍しくなかつた。犬養、島田の諸君も度々殴られたり、傷つけられた。箕浦君のやうな温厚な人でさへ、牢に入れられた。私は、強情な癖に、お先棒に使はれる方だから、憎まれ者の先頭に立ち、ずいぶん危ない目にたびたび遇つたが、幸ひに殴打もされず、牢にも入れられなかつた。しかし、論説の方では、ずいぶんいぢめられた。私が書くと二週間、三週間、ひどい時は四週間の発行停止を命ぜられたこともある。これには全く閉口した。
 さうかうしてゐる間に、政府の魔手は、後藤象二郎、板垣退助両君に伸び、これを口説き落として、明治十五年九月に洋行させた。首脳部を引き抜かれた自由党は、洋行派と非洋行派とに分かれて、ごたごたを始めた。大阪にあつた自由党の一派、立憲政党の如きは、集会政社法に羈束されては、本当の働きが出来ないと云ふので、十六年三月遂に解散して、自由行動を執ることになつた。この時、大阪に旅行して居り、立憲政党解散のいきさつを見て来た改進党の河野敏鎌君、藤田高之君などは、東京に帰ると、河野君が先頭で、改進党の解散を唱へ始めた。私は解散反対を主張し、あくまで維持説を唱へたが、折柄政府の弾圧で意気揚がらざる時であつたから、結局解散党が勢ひを得て、遂に在京党員の役員会を開き、党の態度を決するまでに立ち至つた。
 この会議には、会する者僅かに三十人足らず、うたた政党凋落の悲愁を嘆ぜざるを得なかつた。ところが改進党でも少壮派の連中には、私の非解散論に賛成する人々も少なくなかつたので、これらの人々は会議に列する資格はないが、党の興廃に関する重大なる会議であるから、傍聴だけでもさせてもらひたいと申し出で、許されて議場の片隅に顔を並べた。そこで会議が始まると、会長河野敏鎌君は、
「今日来会の諸君並びに推参の方々に告ぐ。」
と前置きして討論に入つたが、この時は、私も河野君も自説をまげず、結局解党非解党いづれとも決定する事が出来ないので、仕方がないから、大隈総理の裁断を仰ぐことになつた。この会議の劈頭に河野議長が使つた「推参の方々」といふ言葉は、かなり反響があつて、当時の流行語の一つになつた。
 さて、解党論の代表者として河野敏鎌君、非解党論の代表者として北畠治房君、中立論の代表者として前島密君の三人が、打ち揃つて大隈総理の裁断を仰いで来たと云ふから、報告会を開いて聞くと、三人は銘々に、大隈総理は自分の主張に賛成したと三人三様の報告をなした。その時私は、大隈さんは何といつたか知らないが、人間も段が違ふと、一度に異説の三人とも満足させることが出来るのかと感心した。しかし後から考へれば、これは佐賀県人独特の芸当であつて、曖昧な言葉を巧妙に使つたに過ぎないのであつた。しかし、人物が偉いため不得要領のうちに人を魅する力があつたことは否まれない。
 とにかくこんな有り様で、肝腎の党の態度が決まらぬ。我々は業を煮やして、大隈さんの意見を直接承らうと考へ、いよいよ談判に行かうとした時、大隈さんから、
「党の議論がさう別れてゐてはやむを得ないから、大隈、河野、北畠、前島の老人連は脱党しよう。維持したい人は維持したらよからう。」
と脱党の挨拶があつた。確か明治十七年三月頃であつたと思ふ。そこで我々は、改進党に踏みとゞまつて、沼間守一、肥塚竜、中野武営らの諸君と共に頽勢挽回に努めたが、政府の圧迫が奏効して、その目的が達せざるのみならず、益々悲境に陥つた。演説会を開いても聴衆が少なく、新聞は発行紙数が減少し、脱党者は増加するばかりであつた。その以前から、明治協会といふ非政社団体を作つて、政社に対する圧迫を免れようと試みたが、これも余り人が集まらず、失敗に終はつた。実に政党の受難時代であつた。

その頃の支那征伐論

 政府の政党撲滅運動と相並んで行はれたものに、言論圧迫があつた。集会條例の改正された翌年、明治十六年四月十六日には、新聞紙條例が改正されて、峻烈な圧迫が新聞紙に加へられた。改正実施後、日ならずして廃刊となつたものも多数あつた。
 しかしいつの世でも、圧迫に反抗するものはある。その頃こんなはやり歌があつた。
    よしや綻び縫はんずとても、縫ふに縫はれぬ人の口
    二十三年そりや大馬鹿よ、善は急げと書いてある
 報知新聞も、改進党の機関紙であつたから、反政府軍の中堅と見られて、最も睨まれた。私などは報知の論説記者として、議院政治と政党主義を鼓吹してゐたが、政府の圧迫に憤慨して、努力すれば、する程、圧迫の度が加はり、何でもない事をも、治安妨害に名をかりて発行停止にした。只でさへ苦しいのに、この始末{*1}であるから、日増しに経営は、苦しくなつた。犬養君は秋田改進党創立のため、出羽下りをし、しばらく秋田新聞の記者をやつて居つたが、帰つてからは、報知を去つて朝野新聞に入つた。矢野君も、やがて新聞及び政党を始め、諸般の事相を研究するため、欧州に赴き、箕浦君は、私の推薦で新潟新聞主筆に招かれて行つた。後に残つた藤田君と私は、二人で五人分働かねばならなくなつた。しかも、経営難は増すばかりなのに、改進党解散論などが起こつたから、新聞事業は、益々窮境に陥つた。
 私はその頃矢野君の帰朝を一日千秋の思ひで待つてゐたのである。その矢野君は、明治十八年新知識をもたらして帰つて来たが、私の期待は、あへなく裏切られてしまつた。新帰朝の矢野君は、新聞はもつと売れなければならぬと言つて、報知新聞を大衆化するために大改革を行つた。その頃の報知新聞は、「敷紙新聞」と云はれたほど、紙が大きかつたのを小さくし、値段も半額以下に下げ、活字に振り仮名を附けたり、発句を掲げたり、大いに平民的な新聞を拵へた。
 これらは今日何処の新聞でも、やつて居り、当然なことになつて居るが、私は不満であつた。私は、議論を以て社会を指導して行かうと云ふ硬派であつたから、矢野君の経営方針に対しても、みだりに読者に媚びて、品位を落としてはならぬなどと云つて、故障を入れたこともあつた。しかし、矢野君は、新知識を実行するつもりであるから、一向頓着しない。自然面白くないので、藤田君がまづ著述に転身し、私もやがて報知新聞をやめることゝなつた。
 報知新聞記者時代に、私は上海に行つたことがある。明治十七、八年頃であつたが、支那とフランスとの間に安南事件が起こつて戦争になりさうだと云ふから、私は通信員となつて、まづ上海に赴いた。当時日本に於ける支那崇拝熱と云ふものは、今日の西洋崇拝熱どころの比類ではなかつた。しかも西洋崇拝熱もまたなかなか盛んであつたから、私はこの両者を苦々しく思ひ、仏支相争ふのを幸ひにして、両者の実力を観察して来たいと思つたのである。
 しかし支那は、あれだけの大国であるから、とても短日月の間に、単独で、直接に研究することは出来ないに決まつてゐる。これは、出発前に出来るだけ、多年支那に在住し、又は支那内地を旅行したことのある人々や、支那通に面会して知識を養ひ、向かう{*2}に行つても先輩に就いて、種々事情を聴き、その上で、実際に当たつたら、よく分るだらうと考へ、その通り実行して見た。ところが、上海に行くと、僅々一ケ月居るか居らぬ間に、どうもその人達の言ふ事が、多く間違つて居るやうな感じが、起こり始めた。自分は上海に来てから、まだ一ケ月かそこらしか、経たないし、耳目の及ぶところ極めて浅く狭い。三年、五年ないしは七八年も、在留してゐる先輩の言ふ事に、間違ひのある筈はないと、思ひ直して、さらに研究して見るけれども、どうしても自分の観た方が正しい。多年支那を見てゐる先輩の意見は、多く間違つて居るやうな感じがやまない。かくて二ケ月も過ぎる頃には、益々その感じが深くなるばかりであつた。そこで、初めて私は、百聞一見にしかずなどゝ云ふ言葉はあるけれど、国と云ふが如き大きなものを観るには、当てにならぬ肉眼を以てしては、到底観えないものであるといふ事を悟つた。この考へはその後、幾度かの洋行でいよいよ強められた。
 さて、上海に行つて見ると、もう支那の軍隊が出動準備で大騒ぎであつた。何しろ七十歳の老将軍の後には、妾連の駕籠が二三台も供をして居るのみならず、兵隊は銘々雨傘を背負つたり、提灯をぶら下げたりして居る。又無数の旗や鼓などを携へ居るなど、その騒ぎは大変なものであつた。賑やかではあるが、私はこれでは戦が出来る筈がないと思つた。
 この時は、仏艦より福建省馬尾の造船所を攻撃されただけで、別段大きな戦争にはならずに済んだが、私の素人目に、支那には全く戦闘力がない事が判然と分つたので、私は支那と一戦してその暴慢心を挫く事の必要を感じ、ここに初めて支那征伐論を唱へ出し、それから日清戦争の起こるまで十年間も熱心に主張した。そのため、狂人扱ひされたこともあつた。
 戦争見物はこんな事で済んだが、済まないのは、弟行隆の身の上であつた。その頃私は、政治家には優れた秘書役が必要だと考へてゐたので、弟行隆を自分の秘書役に仕立てるつもりで、上海につれて行つた。
 その頃は、上海に行けば、東洋の学問も西洋の学問も、日本よりはよく出来る便があつた。弟は、私より頭がよかつたと見え、英語なども忽ち上達した。弟は、私の帰朝後もなほ上海にとゞまつて、知能を磨き秘書役になる頭を拵へてゐたが、肝腎の兄貴は、相変らずの記者生活で、なかなか秘書役を抱へる身分にはなれなかつた。従つて弟は、就職口を得ることが不可能であつた。

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校訂者注
 1:底本は、「仕末(しまつ)」。
 2:底本は、「向ふ」。

府会入りで沼間と抗争

 報知新聞社では予備役同様の身分となり、遊び半分に社外より手伝つてゐる間に、私は犬養君の薦めで朝野新聞に入つた。
 朝野新聞は成島柳北翁の死後、末広重恭君が主宰して居たが、柳北時代ほど盛んには行かなかつたやうだ。しかし記者としては末広君の外に犬養君、町田忠治君、滝本誠一君などが居た上に、私の入社後、新帰朝者の吉田熹六君を迎へ、中々人材揃ひで、さかんに議会政治を鼓吹して気勢を挙げた。評判は大分よくなつたが、反政府軍の急先鋒であつたために、しばしば筆禍を得て発行停止に遭つた。一度発行停止を喰ふと、数千円は飛んでしまふ。それがたびたび重なつたから、経済的には、すこぶる困難になつた。
 その頃は、政治文学が流行して居た。ちやうど国会開設前であり、言論圧迫に悩まされて居つたので、文学の上にその鬱憤を晴らした政治家も少なくない。矢野君は、さきに、「経国美談」を著して、名声隆々たるものがあつた。
 私もこれにかぶれて、「新日本」と題する政治小説を書いた。この小説の主人公が、やはり紋切り型の才子佳人であつたまでは、無事であつたが、佳人の対話たるや、徹頭徹尾憂国慨世的であつたからたまらない。犬養君に、「あの婦人は何だ。男としか思へぬ。」と冷やかされた事がある。大体私は、態度相当堅苦しい文章ばかり書いてゐたので、犬養君の悪口も当たり前であらう。柄にもないことに憂き身をやつしたものである。
 朝野新聞には明治廿一年、保安条例によつて江戸払ひになるまで働いてゐた。
 明治十八年の何月であつたか忘れたが、私は日本橋区から選出されて、東京府会議員になつた。東京府会は、明治十二年に開けたが、議員の年齢資格は満廿五歳であつたから、私は廿五歳になると、すぐ議員になつた。
 その頃の府会には、名士も少なくなかつた。府会議長は福地源一郎君であつたが、同君が疑獄事件で失脚した後は、沼間守一君がこれに代つた。この人は、旧幕府の歩兵隊長で、明治戊辰の役には、伝習歩兵を率ゐて日光今市の戦ひに於いて、板垣退助君の官軍を苦しめた快男児で、その働きに感心した板垣さんが、後に沼間君を土佐に聘して、洋式教練を頼んだと云ふから、板垣さんも偉かつたが、沼間君も、よほどの人物であつた。
 しかし、なかなか癖の多い人で、ことに一身一家の経済に付いては、一種風変りの行ひをもした。悪く云へば、吝嗇でもあつた。府会のやすい弁当の喰ひ残しを持つて帰つたり、当時の政治家中では屈指の金持ちでありながら、抱へ車を持たず、いつも飛び乗りであつた。それも並んでゐる車を一瞥して、中から一番汚い車で、年のいつた弱さうな車夫を撰んで、やすく乗るのを自慢にして居つた。
 又その頃は物価も大変やすいから、新橋や柳橋で宴会を開いても、会費は三円とはかゝらなかつた。それを沼間君にやらせると、芸者付き一円か一円五十銭でやる。何か秘訣でもあるのかと思ふと、沼間君は芸者街を散歩しながら、ひまさうな芸者を探して、
「どうだ、来んか。遊んで居るのなら、たゞでも良いではないか。」
と云ふやうに談判して来るのださうだ。沼間君は、金はあるし、顔は広く売れてゐたから、そんな事も出来たのだらうが、他人には到底出来ない芸当だ。
 沼間君に付いては、沢山面白い話があるが、私も実験した。それは、私が府会へ入る前の事であるが、私は改進党のため、沼間君と茨城県へ遊説に行つたことがある。ある寺に泊まつた晩のこと、夜半過ぎと覚しきころ、沼間君が私の寝床へ侵入して来た。その頃は、維新後まだ多く年所を経ないので、男色の陋習なども未だ残つて居つた時分であるから、私は邪推して、沼間君は私を侮辱しに来たのであらうと思つた。そこで私は、
「何だ。」
といつて拳骨でつき退けたが、沼間君は只ウーンと軽くうめきながら、並んでゐた自分の寝床に、ころげて行つたやうであつた。翌朝私は、
「君は無礼な事をする。」
と面責したところ、沼間君は、
「さうか、どうも申し訳がない。」
と陳謝しながら、
「昨夜は君のところばかりでなく、屋外へも出たやうだ。自分は何も知らないが、寝衣が泥だらけになつてゐるのを見ると、縁側から転げ落ちもしたに違ひない。」
と云ひつゝ、泥土の附着した着物を見せた。沼間君は一種の夢遊病者であつたらしい。
 さて、沼間君は明治十二年十月以来、府会に席を占めて居り、私の入つた頃は、古株ではあるし、自派の議員が多数を占めてゐたので、府会では大層幅を利かして居つた。犬養、鳩山などの諸君も、その頃は沼間君と行動を共にしてゐたほどであるから、沼間君はずいぶん我が儘な振舞ひをなし、郡部の議員などをば、ひどくいぢめて居た。
 ところが、新参の私が出ると、色々の理屈を並べて、沼間派の言ふことをきかない。沼間君は、それに業を煮やして居たところ、府会議員の半数改選後、郡部その他沼間反対の議員達が、自分らの仲間からも常置委員を選出すると同時に、私をも常置委員に選挙した。もちろん私を担いで、反沼間派の大将にするつもりであつたらう。そこで沼間君らは怒つて、私を常置委員から排斥すべく作戦計画をめぐらした。

臆病が教へた戦術

 東京府会を我が物顔に切り廻してゐた沼間守一君は、反対派のために常置委員に推された私及びその他の異分子が二三名当選したのを憤り、犬養君その他同志者全部を率ゐて辞職した。その意中は、府会の有力なる常置委員が、全部辞職すれば、私その他の反対者も、やむを得ず辞職するだらうと云ふにあつた。
 しかるに、私は一人でも常置委員の仕事は引き受けると傲語{*1}して辞職しなかつた。又河野敏鎌君も、
「これまで府会で一緒に働いてゐながら、常置委員会で一緒になるのは嫌だと云ふのは、筋が立たない。」
と云つてやめなかつた。この人は、改進党の元老で沼間君の先輩であつたから、沼間君の計画は、一頓挫を来たした。しかし沼間一派は、どうかかうか河野君を動かして、遂に辞職させたが、私はなほ頑張つて辞めなかつた。
 こんな風で、私はずいぶんいぢめられたが、いぢめられゝば、又それだけ反抗もした。ある時、郡部は地方費の負担額が少ないため、郡部議員が口ぎたなく罵られるのを見かねて、私は癪にさはつてたまらないから、郡部の肩を持つて、沼間君に反対した。すると沼間君は怒つて、ひどいことを云ふ。甚だしきに至つては、私の議席番号を指して、
「何番は自分の借金の計算も出来ない癖に、地方税などにくちばしを容れるのは不都合だ。」
などゝ悪罵した。そこで私は益々反抗して、事毎に突つ掛かつた。
 しかし、沼間君にさう云はれたのも、無理はない。その頃私の家庭生活は、実に貧困を極めてをつた。私の収入は、朝野新聞から得る僅かの月給に過ぎなかつたが、それで妻子を養ひ、書生を二、三人も置いてゐた上に、私は家を顧みず政治に奔走して居たから、私の妻などはずいぶん辛い思ひをしたやうだ。
 ある時は、除夜を守つて夜更かしをすると、ランプ{*2}の石油がなくなり、書物を売つて石油を買つたこともあつた。群れ来る債鬼を逐ひ払つて、漸く新年を迎へ、
「いのちにはまづ別條もなかりけり」
と鼻歌をうたひながら、家人と共に屠蘇を傾けたこともあつた。
 ことに明治廿年の元旦であつたかと思ふが、妻や弟や書生らが、カルタを取りたいと云ふ。カルタがない。買ひにやれと命じたが、その金がなかつた。僅か五十銭か一円であらうが、その金がなかつた。私はその時ほど、些細の事で、強い哀愁を感じた事はない。長いこと貧乏には慣れてゐたから、金がなくとも、平常は余り苦にはしなかつたが、この時はどういふわけか、非常な苦痛を覚えた。前に石油を買ふ銭がなかつた時などは、
「剣を売つて書を買ふは昔年の事。書を売つて今は買ふ読書灯。」
などゝ口吟して空嘯いてゐたが、この時は、なぜか、さうは行かなかつた。不思議な事もあるものだ。
 それはとにかく、私はいぢめられゝば、いぢめられるほど、反抗するから、沼間君もすこぶる憤激したやうだ。
 これより先、沼間君は、酒を飲みすぎて脳病にかゝり、府会にも常に頭に氷嚢をのせて出る程であつたから、怒ると頭が悪くなる。その時、私は忿懣の余り考へた。
「一週間も怒らせつゞけに怒らせたら、沼間君は発狂するだらう。よしよし彼を癲狂院に入れてやらう。」
と。そこで私は機会ある毎に、沼間君を怒らせるやうな議論をした。しかし、右の決心をしてから、三回とは府会が開かれない内に、私は保安條例で退去を命ぜられたので、沼間君も狂人にならず、私も無益な罪業を作らず、双方無事に済んだのは、全く保安條例の賜ものである。
 府会に於ける私と沼間君の関係は、こんな風であつたが、その他の関係は必ずしも悪い方ではなかつた。彼は他人に対しては、常に私を褒めてゐたさうだ。
 ちやうどその頃、私が後藤象二郎伯を戴いて、條約改正に反対した時、示威運動の目的で、民間各派の連合大懇親会を、浅草の井生村楼に開いた事がある。日頃軋轢争闘して居た連中を一堂に集めるのだから、会を永びかせては危険と考へ、私達は、膳がすはり、酒が少し廻ると散会を促し、後藤伯らと共に会場を引き揚げた。ところが、沼間君一派と星君らは、容易に引き揚げなかつたものと見える。沼間君は、後進有為の士として、星君を認めては居たが、昔はその身分が低かつたため、星君の事をいつも、
「大森の百姓」
と呼んでゐたさうだ。この時もその癖が出て、星君に向かつて、
「百姓酌をせよ。」
といふや否や、かねて不満を抱いて居つた星君は、
「なに、無礼者、後は俺が引き受けるから殴り殺せ。」
と、その部下に号令したさうだ。壮士の面々は、得たり賢しと、真鍮の蝋燭台(その頃はまだ瓦斯灯も行き渡つてゐなかつた)を逆さに振り挙げ、散々に殴打した。殺しはしなかつたが、半死半生の状態にした。
 無事に済んだ事と思つてゐた私は、翌朝この報告に接して、忿懣にたへなかつた。この大計画が、その門出に於いて、早くも破綻したのは、残念である。
 そこで私は、早速橋場の沼間邸に見舞ひかたがた苦情を述べに行つた。沼間君は非常に苦しさうであつたが、寝ながら私に面会した。私は、ひと通り見舞ひを述べた後、
「誠にお気の毒ではあるが、今日はかねての計画通り、各派連合の大演説会を開くことになつてゐるから、戸板に乗つてゞも、出て戴きたい。」
と云つた。周囲の者はもちろん、
「尾崎は無情な男だ。」
と怒つたが、沼間君はさすがに偉い。
「尾崎君のいふ事はもつともだ。死んでも出る。」
と答へた。しかし、出席することは出来なかつたのみならず、その後遠からずして沼間君は死去された。
 私は生来の臆病者だから、時々可笑しな失策をする。ことに右の大懇親会を開いた頃は、私は自由党の憎まれ者であつたため、絶えず警戒して居た。この日も無事に済めばよいがと心配しつゝ、立つて柱に倚りかゝりながら、大広間に入り来る各派の人物を眺めてゐると、向かう{*3}から大男が、私を睨みながらまつすぐに進んで来る。此奴何をするつもりかと怪しんでゐると、私の前へ来るや、イキナリ猿臂を伸ばして、私の頭に触れんとした。私は間髪を入れず、その男の親指を握つたところ、彼は詫びながら頭を下げた。私は小兵でかつ微力だから、腕を押さへたのではかなはない。故にいつとはなく、イザと云ふ場合には、相手の指を捕らへる術を覚えた{*4}。親指を握れば、大概の男は、自由になる。然るにこの男は、私の後に貼つてある名札が、私の頭で隠されて見えなかつたため、自分の席ではあるまいかと思つて、見に来ただけで、何もいたづらしに来たのではなかつた。たゞ私が臆病なため、私の耳でも引つ張つて、侮辱を加へる目的かと邪推し、先手を打つて、その指を緊握したのである。私は臆病ゆゑに、時々こんな失策をする。

繁子夫人1

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校訂者注
 1:底本は、「傲語(がうご)」。
 2:底本は、「ラムプ」。
 3:底本は、「向ふ」。
 4:底本は、「覚(おぼ)へた」。

第五章 外遊とその前後

條約改正問題

 政党は弾圧に萎縮し、新聞は箝口され、私は改進党の残塁を固守して、苦闘を続けてゐたが、政界は、かねて政府の企んでゐた通り、火の消えたやうになつた。
 しかしそれも永くは続かなかつた。明治十九年の半ば頃になると、目睫に迫つた議会開設を前に、小異を捨てゝ大同に就くべしとの議が起こり、同年十月まづ浅草井生村楼に、全国有志大懇親会が開かれた。改進党からも自由党からも出席し、こゝでいよいよ提携して、この悲境を打開することになつた。
 その頃、突如として降つて湧いたのが、條約改正問題であつた。突如と云ふけれども、これは明治五年安政條約満了以来の国家的宿題であつた。もし対等條約が結ばれるのなら、別に問題は起こらなかつたのだが、悲しいかな、当時の我が国状では、それが出来ない。
 そこで時の政府は、欧化政策をとつて、少しでも早く條約改正を行ひたいとあせつて、舞踏会を開いたり、内外人の交際を奨励したり、甚だしきに至つては、日本を耶蘇教国になさうと主張する者さへあつた。故に心ある国民からは、欧化の極、かへつて国辱的條約を結ぶと見なされ、反対の気運が大いに起こつた。欧化の思潮は、明治二十年の春に入つて、いよいよ甚だしくなつて、首相官邸、外相官邸は、宴楽の巷と化し、国事を挙げて、声色の間に溺没するかに見られた。
 ことに二十年四月二十日の伊藤首相官邸に於ける仮装舞踏会の如きは、会するもの、内外朝野の貴顕紳士及び貴夫人合はせて四百名といはれ、その狂態言語に絶すると云ふ評判であつた。
 当時の新聞は、その有り様をかう書いて居る。
  そのいでたちは千差万別、いづれも他の意想外に出で、一驚を喫せしめ、かつ喝采を博せんと、工夫{*1}を凝らしたることなれば……其が中について「天莫空勾践時非時無范蠡{*2}」との十字を、背旗に墨黒々と筆太に記したるを背負ひ、鎧上に蓑を着け冠り笠にて、備後三郎にいでたてるは、これなん三島警視総監にして、腰蓑に潮汲み桶を荷ひて、松風村雨に擬したるは、同氏の令嬢と聞こえし{*3}。……頭巾鈴掛金剛杖を突き鳴らし、安宅の弁慶かと見紛ふ山伏は、これぞ渋沢栄一氏にして、同氏の令嬢は胡蝶の舞に扮し、最も美麗なりき……又夜討曽我の十郎祐成は、鍋島桂次郎氏にて、五郎時致は、末松謙澄氏の一対、同じ一対なる素袍烏帽子の三河万歳は、井上外務大臣にて、才蔵は杉内蔵頭なり……大山陸軍大臣は、チヨン髷にて、大小を腰に横たへたり。古き唐服を着て吉備大臣かと思しきは、山田司法大臣にして、行脚飄然たる富士見西行は、渡辺帝国大学総長とぞ聞こえし……山県内務大臣は、その昔一隊を引率して、幕軍を諸処に駆け悩ましたる騎兵隊長のいでたちにて、日本服の筒袖に韮山笠を冠り、両刀を横たへ、かつて同氏が馬関にて、変名したる長藩萩原慶之助源有朋の十字を白木綿に記して、肩印となし……伊藤総理大臣は、伊太利ベニスの貴族に擬し、同令嬢は、同国田舎娘に、岩倉具綱氏は、その長男に扮してこれ又一対なりき……松方大蔵大臣は烏帽子直垂を着して、その令嬢は、稚児の姿に扮し、七條の袈裟を着け、門跡もどきなる真宗の僧侶のいでたちは、これなん高木海軍々医総監にして、多久某の蝦夷人と、加賀美令室の前髪を分けたる扇屋の桂子ともいふべき風姿は、これまた二つながら喝采を博し……舞踏を畢はり、全く退散したるは、昨廿一日午前四時の頃なりと。さてもさても大平無事の世の中、実に面白の御遊かな(時事新報四月廿二日)
 こんな有り様だから、大臣貴女等に関する醜聞続出し、国民の痛憤を買つて居た。
 そのうちに、政府部内も、この狂態に顰蹙し、同時に井上外務大臣の屈辱的條約改正案に反対する者が出て来た。即ち農商務大臣谷干城子は、欧米視察から帰朝すると、この始末に憤慨し、痛烈な意見書を残して、大臣をやめてしまつた。これが明治二十年の七月で、勝安房伯も、建白(五月)するし、板垣退助伯も、八月には意見書を提出して、国辱的條約改正に反対した。そればかりではない。司法省顧問ボアソナード氏さへ、建言書を出して、忠告した。
 かうして、改正案の内容が、漸次民間に漏れて来るに従ひ、頑固連は、無論のこと、吾々の如き進歩主義者まで、盛んにこれに反対するに至つた。
 国論の沸騰は、実に物凄く、秘密出版は盛んに行はれ、谷、板垣、勝の意見書、ボアソナードの建言書、憲法草案と題する文書などが、秘かに印行されて、到るところに流布し、国士にしてこれを持たぬ者は、一人もないといふ有り様になつた。この今なら怪文書とも云ふべき文書の横行に、政府が狼狽して、盛んに密偵を放つたのは、もとよりのことであつた。
 しかし政党不振の時であつたから、よし大同団結の気運が、興つてゐたとは云へ、政党としての反対力は、なほ薄弱を免れなかつた。
 改進党では、私がほとんど単独で、反対運動にたち、それに沼間君の一派が、少しく私と一緒に働いたくらゐであつて、吾々は十分に戦へなかつた。私はこれでは、とても成功の見込みはないと思つたから、誰か中心人物を拵へて、打倒政府の戦線を統一せねばならぬと、色々人物を物色して見た。幸ひ、当時後藤象二郎伯が、負嵎の虎の如き状態で、遊んで居つたから、私は末広重恭君と共に、この人に白羽の矢を立てゝ交渉することにした。

後藤伯を担ぐ

 後藤象二郎伯は、北陸旅行中であつたので、その帰るのを待つて交渉すると、伯はすこぶる乗り気になつて、
「さう云ふ事なら、自分も老後の思ひ出に、全力を尽くして諸君と共にやらう。」
と早速承知してくれたのみならず、私と末広重恭君とが、一致した意見のためなら、水火の中へでも飛び込む。決していやとは云はないといふことまでも誓つた。先輩から、こんな壮快な言葉を聞いたのは、私にとつては初め{*4}ての事であつたから、真剣になつて種々計画を樹てると、後藤伯はすべて承知してくれた。私は、それまでは、いつも先輩の指揮に従つて、働いてゐたのだから、こんな愉快な事はなかつた。その中、大石君が、英国から帰つたから、これをも仲間に入れ、三人で万事画策した。
 吾々三人の外に、有名な土佐の吉田東洋先生の子か孫に当たるところの吉田正春といふ才物があつた。後藤伯は、氏を吾々に紹介して、
「これは自分の親戚の者であつて、秘書同様に使つてゐるから、諸君の仲間に入れて、すべての謀議に参与させてもらひたい。」
といふ事であつた。その頃後藤邸に出入りするものは、林有造君、星亨君らを初め{*5}として、かなり多かつたが、後藤伯は、すべて吾々三人――おとなしく常に緘黙を守つてゐた吉田正春君を加へれば四人――の意見に従つて、進退する約束であつた。
 かくて、十月三日には、まづ芝の三縁亭に七十余名の在野政客を集めて、後藤伯がかどでの大獅子吼をした。
 運動は、右の通り順調に進んだが、その頃後藤伯は、ずいぶん嘘吐きだと云ふ評判があつたから、私は考へた。世評通りで、イザと云ふ場合になつて、背負ひ投げを喰はされては困る。ついては、まづ後藤伯の覚悟の程を試験して置いた方が、安全だと。そこで、板垣伯の封事を思ひ出して、ある時、後藤伯に向かひ、
「この條約改正問題は、実に重大事件であるから、貴下は参内して、吾々国民の意見を、親しく奏上されたら宜しからう。」
と勧めて見た。すると後藤伯は、「よからう。」と言つて、承知したので、俄かに礼装用手袋を買ひ求めたり、古い礼帽を取り出したり、大騒ぎをして、仕度を整へて、伯を送り出した。それは、確か明治廿年十二月二日であつたと思ふ。後藤伯は、宮内省に行つて拝謁の執奏方を乞うた{*6}が、許されなかつた。土方宮相に拒絶されて、空しく帰つて来た。そこで吾々は、又伯に向かつて、
「維新の元勲とも云はれる者が、許されぬと云つて、そのまゝ引つ込む訳には行くまい。許されるまで、幾度でも御出なさい。」
と云ふと、伯は、
「しからば、又出掛けよう。」
とその後再び宮内省に往つたが、今度も拒絶されたのは、云ふまでもない、結局、上奏文一篇を、宮相を通じてたてまつる事にして、この問題は終はつたが、吾々は伯の意気込みを知つて、これなら、先の約束を反古にするやうな事もあるまいといふ確信を得た。
 伯の決意は、これで判つたが、吾々の運動の目的貫徹となると、容易にうまい考へが浮かばない。條約改正の談判は、歩調を速めて進行するらしい。どうしたものかと、思案にくれてゐると、ある日、一人の少年が、私を訪ねて来た。会つて話して見ると、見すぼらしい身なりに似ず、なかなかしつかりしてゐる。名前を聞くと、青森の人斎藤新一郎、早稲田専門学校の学生だと答へた。別に紹介状を持つて来たのではなかつたが、私は一見して、たちまち旧知の如き交はりを結び、さらにこの人の手引きで、弘前の桜庭経緯、秋田の引田長輔などといふ有為果断の青年と懇意になつた。そしてこの人達の働きによつて、私の條約改正反対運動は、目立つて見えるやうになつた。
 私が「壮士」といふ言葉を用ゐ{*7}始めたのも、この頃であつた。「有志家」といふ言葉も初めの頃は、受けがよかつたが、しばらくすると、どうも勢ひがなくなつたので、私は「壮士」という言葉に改めた。すると口のわるい犬養君などは、我々の仲間に斎藤君のやうな、やせた人が居つたので、
「なに壮士だと{*8}。痩士と書いた方がよい。」
と笑つたが、壮士といふ言葉のためそれから不思議に、意気があがつて来た。
 そこへ又土佐の豪傑林有造氏が、我々の決心を聞いて、決死の士三百人を出すと、後藤伯まで申し出た。
 これに勢ひを得た吾々は、種々考へた揚句、後藤伯が内閣弾劾奏上に失敗したのは、後押しがすくないためだ。全国各地から、およそ三千の有志を呼び集め、これを引き連れて、二重橋に至り、後藤伯が、その代表者となつて、拝謁を願つたら、宮内省でも、拒絶はすまいと言ふことに衆議一決し、早速その準備に取りかゝつた。しかし、いざ実行して見ると、予定した日になつても、思つた通りには人数が集まらない。理屈に於いてはひけをとらない吾々も、かういふ事務的な仕事は、すこぶる不得手であつた。交通機関の不便な当時に於いては、無理もない事であつた。とにかく、早く来過ぎたり、遅れたりする者があつて、行き違ひになるから、ずいぶん人は出て来たが、一時に地方の有志を千人揃へる事すら、困難であつた。先着で滞京して居た者は、旅費が尽きて困窮を訴へるから、後藤伯に相談して見たが、当時の後藤伯は、猛犬を飼つて置いて、債鬼を撃退すると云ふ評判すらあつた程だから、どうすることも出来なかつた。
 これより先、後藤伯は、新時代の政治家は、金が自由にならねば、本当の仕事は、出来ないと考へたものか、早く明治政府を退いて新橋附近に、蓬莱社という商社を設けて、盛んに貿易に従事し、同時に石炭山の経営をも始めた。しかし士族の商法で、皆失敗し、かへつて借金は山の如く、どうにもならなくなつて、商売の方は、断念し、再び政界に復帰した際である。されば金銭の融通は、なかなか出来ない。吾々は、何百の有志家を抱へて、全く途方に暮れてしまつた。

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校訂者注
 1:底本は、「工風(くふう)」。
 2:底本には返り点が付されている。『太平記』巻四「備後三郎高徳事付呉越軍事」に見える詩句。
 3:底本は、「聞(きこ)へし」。
 4・5:底本は、「始(はじ)め」。
 6:底本は、「乞ふた」。
 7:底本は、「用ひ」。
 8:底本は、「なに壮士だと、」。

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