江戸期版本を読む

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カテゴリ:軍記物語 > 校訂「平家物語」 日本文学大系本

平家物語(日本文学大系本 1925年刊) WEB目次

巻之一
01 祇園精舎 殿上の闇討 鱸 禿童 わが身の栄華  02 妓王
03 二代の后 額打論 清水炎上  04 殿下の乗合 鹿の谷
05 鵜川合戦 願立  06 御輿振 内裏炎上

巻之二
01 座主流し  02 一行阿闍梨 西光が斬られ  03 小松教訓 少将請ひ受け
04 教訓 烽火  05 新大納言の流され 阿古屋の松 新大納言の死去
06 徳大寺厳島詣で 山門滅亡 善光寺炎上  07 康頼祝詞 卒堵婆ながし 蘇武

巻之三
01 赦文 足ずり 御産の巻  02 公卿ぞろへ 大塔建立 頼豪
03 少将都がへり  04 有王が島下り
05 飆風 医師問答 無紋の沙汰 灯篭 金わたし
06 法印問答 大臣流罪  07 行隆の沙汰 法皇御遷幸 城南の離宮

巻之四
01 厳島御幸 還御  02 源氏そろへ 鼬の沙汰
03 信連合戦 高倉の宮園城寺へ入御  04 競 山門への牃状
05 南都への牃状 南都返牃 大衆そろへ
06 橋合戦 宮の御最後  07 若宮御出家 鵺 三井寺炎上

巻之五
01 都うつり 新都 月見  02 物怪 大庭が早馬 朝敵ぞろへ
03 咸陽宮 文覚の荒行  04 勧進帳 文覚流され 伊豆院宣
05 富士川  06 五節の沙汰 都がへり 奈良炎上

巻之六
01 新院崩御 紅葉 葵の前  02 小督
03 廻文 飛脚到来 入道死去  04 経の島 慈心坊 祇園の女御
05 洲の股合戦 しはがれ声 横田河原合戦

巻之七
01 北国下向 竹生島詣で 燧合戦  02 木曽の願書 倶利伽羅おとし
03 篠原合戦 実盛最後  04 玄肪 木曽山門牒状 山門返牒
05 平家山門への連署 主上の都落ち  06 維盛都落ち 聖主臨幸
07 忠度の都落ち 経正の都落ち 青山の沙汰  08 一門の都落ち 福原落ち

巻之八
01 山門御幸 那都羅  02 宇佐行幸 緒環 大宰府落ち
03 征夷将軍の院宣 猫間 水島合戦
04 瀬尾最後 室山合戦 鼓判官  05 法住寺合戦

巻之九
01 小朝拝 宇治川  02 河原合戦 木曽の最後
03 樋口の斬られ 六箇度合戦  04 三草勢ぞろへ 三草合戦
05 老馬 一二のかけ  06 二度のかけ 坂おとし
07 盛俊最後 忠度の最後 重衡いけどり
08 敦盛最後 浜軍 落足  09 小宰相

巻之十
01 首わたし 内裏女房  02 八島院宣 請文 戒文
03 海道くだり 千手  04 横笛 高野の巻 維盛の出家
05 熊野参詣 維盛入水 三日平氏  06 藤戸 大嘗会の沙汰

巻之十一
01 逆櫓 勝浦合戦 大坂越  02 継信最後 那須の与一
03 弓流 志度合戦  04 壇の浦合戦 遠矢 先帝御入水
05 能登殿最後 内侍所の都入
06 一門大路わたされ 平大納言の文の沙汰
07 副将斬られ 腰越  08 大臣殿誅罰 

巻之十二
01 重衡の斬られ 大地震 紺掻の沙汰  02 平大納言の流され 土佐坊斬られ 
03 判官都落ち 吉田大納言の沙汰  04 六代  05 長谷六代 六代斬られ

灌頂巻
01 女院御出家 小原への入御  02 小原御幸  03 六道の沙汰 女院御往生

(注:本コンテンツは「平家物語」(国民図書1925年刊『日本文学大系 第十四巻』所収。国立国会図書館デジタルコレクション)の本文翻字(ふりがなは省略、漢文は書き下し文)です。文字・記号等表記は原則として現在(2024年)通用のものに改めてあります。他の変更は校訂者注に記しましたが、以下の漢字については底本の振り仮名に従ってかなで表記しました。抑→そもそも。軈→やが(て)。争→いか(でか)。努々→ゆめゆめ。なお、校訂には角川文庫版(佐藤謙三校註)を参照しました。)

平家物語

巻一

祇園精舎の事

 祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響あり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を顕はす。驕れるもの久しからず、たゞ春の夜の夢の如し。猛き人も遂には亡びぬ。ひとへに風の前の塵に同じ。遠く異朝をとぶらふに、秦の趙高、漢の王莽、梁の周伊{*1}、唐の禄山、これらは皆、旧主先皇の政にも従はず、楽しみを極め、諫めをも思ひ入れず、天下の乱れん事を悟らずして、民間の憂ふる所を知らざりしかば、久しからずして亡じにしものどもなり。近く本朝を窺ふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、これらは驕れる事も猛き心も、皆とりどりなりしかども、まぢかくは六波羅の入道前の太政大臣平の朝臣清盛公と申しし人の有様、伝へ承るこそ、心もことばも及ばれね。
 その先祖を尋ぬれば、桓武天皇第五の皇子一品式部卿葛原の親王九代の後胤、讃岐の守正盛が孫、刑部卿忠盛の朝臣の嫡男なり。かの親王の御子高視の王、無官無位にして失せ給ひぬ。その御子高望の王の時、始めて平の姓を賜ひて、上総の介になり給ひしよりこのかた、忽ちに王氏を出でて人臣に連なる。その子鎮守府の将軍良望、後には国香と改む。国香より正盛に至るまで六代は諸国の受領たりしかども、殿上の仙籍をば未だ許されず。

殿上の闇討の事

 しかるに忠盛、未だ備前の守たりし時、鳥羽の院の御願、得長寿院を造進して、三十三間の御堂を建て、一千一体の御仏をすゑ奉らる。供養は天承元年三月十三日なり。勧賞には闕国を賜ふべき由、仰せ下されける。折ふし但馬の国のあきたりけるをぞ下されける。上皇なほ御感のあまりに、内の昇殿を許さる。忠盛三十六にて始めて昇殿す。
 雲の上人これを猜み憤り、同じき年の十一月二十三日、五節豊明の節会の夜、忠盛を闇討にせんとぞ議せられける。忠盛、この由を伝へ聞きて、「われ右筆の身にあらず、武勇の家に生れて、今不慮の恥にあはんこと、家のため、身のため、心うかるべし。詮ずる所、身を全うして君に仕へ奉れといふ本文あり。」とて、かねて用意をいたす。参内のはじめより大きなる鞘巻を用意し、束帯の下にしどけなげにさしほらし、火のほのぐらき方に向ひてやはらこの刀を抜き出いて、鬢に引当てられたりけるが、よそよりは氷などのやうにぞ見えける。諸人目をすましけり。
 又忠盛の郎党、もとは一門たりし平の木工助貞光が孫、進の三郎大夫家房が子に、左兵衛の尉家貞といふものあり。薄青の狩衣の下に、萌黄縅の腹巻を著、[木覇]{*2}袋つけたる太刀脇ばさんで、殿上の小庭に畏まつてぞ候ひける。貫首以下、あやしみをなして、「うつぼ柱より内、鈴の綱の辺に、布衣の者の候は何者ぞ。狼藉なり。とうとうまかり出でよ。」と、六位を以ていはせられたりければ、家貞畏まつて申しけるは、「相伝の主備前の守殿の、今夜闇討にせられ給ふべきよし承つて、そのならんやうを見んとて、かくて候なり。えこそ出でまじ。」とて、また畏まつてぞ候ひける。これらをよしなしとや思はれけん、その夜の闇討なかりけり。
 忠盛又御前の召しに舞はれけるに、人々拍子をかへて、「伊勢へいじはすがめなりけり。」とぞはやされける。かけまくも忝く、この人々は柏原の天皇の御末とは申しながら、中頃は都の住居もうとうとしく、地下にのみふるまひなつて、伊勢の国に住国深かりしかば、その国の器にこと寄せて、伊勢へいじとぞはやされける。その上、忠盛の目のすがまれたりける故にこそ、斯様にははやされけるなれ。忠盛いかにすべきやうもなくして、御遊も未だ終はらざるさきに、御前を罷り出でらるゝとて、紫宸殿の御後にして、人々の見られける所にて、横たへさされたりける腰の刀をば、主殿司に預け置きてぞ出でられける。家貞、待ち受け奉りて、「さていかゞ候ひつるやらん。」と申しければ、かうともいはまほしうは思はれけれども、まさしういひつる程ならば、やがて殿上までも、切り上らんずるものの面魂にてある間、「別の事なし。」とぞ答へられける。
 五節には、「白薄様、修善寺の紙、巻上の筆、巴書いたる筆の軸。」なんどいふ、さまざまかやうにおもしろき事をのみこそ歌ひ舞はるゝに、中頃太宰の権の帥季仲の卿といふ人ありけり。あまりに色の黒かりければ、時の人、黒帥とぞ申しける。この人、未だ蔵人の頭なりし時、御前の召しに舞はれけるに、人々拍子をかへて、「あなくろくろ、黒き頭かな。いかなる人の漆ぬりけん。」とぞはやされける。また花山の院の前の太政大臣忠雅公、未だ十歳なりし時、父中納言忠宗の卿におくれ給ひて、孤にておはしけるを、故中の御門の藤中納言家成の卿、その時は未だ播磨の守にておはしけるが、壻に取つて、はなやかにもてなされしかば、これも五節には、「播磨米は木賊草か、椋の葉か、人の綺羅を研くは。」とぞはやされける。上古にはかやうの事ども多かりしかども、事出で来ず。末代いかゞあらんずらん、おぼつかなしとぞ、人々申しあはれける。
 案の如く、五節はてにしかば、院中の公卿殿上人、一同に訴へ申されけるは、「それ雄剣を帯して公宴に列し、兵仗を賜ひて宮中を出入するは、みなこれ格式の例を守る、綸命よしある先規なり。しかるを忠盛の朝臣、或は年来の郎従と号して、布衣{*3}の兵を殿上の小庭に召し置き、或は腰の刀を横たへさいて節会の座に列る。両條奇態、いまだ聞かざる狼藉なり。事既に重畳せり、罪科最も遁れ難し。早く殿上の御簡を削つて、闕官停任行はるべきか。」と、諸卿一同に訴へ申されければ、上皇大きに驚かせ給ひて、忠盛を御前へ召して御尋ねあり。
 陳じ申されけるは、「まづ郎従小庭に伺候の由、全く覚悟仕らず。但し近日人々相たくまるゝ旨、仔細あるかの間、年来の家人、事を伝へ聞くかによつて、その恥を助けんが為に忠盛には知らせずして、ひそかに参候の條、力及ばざる次第なり。もし咎あるべくば、かの身召し進ずべきか。次に刀の事は、主殿司に預け置き候ひをはんぬ。之を召し出され、刀の実否によつて、咎のとかう行はるべきか。」と申されたりければ、この儀最も然るべしとて、急ぎかの刀を召し出でて叡覧あるに、上は鞘巻の黒う塗つたりけるが、中は木刀に銀箔をぞ押いたりける。「当座の恥辱を遁れんがために、刀を帯する由あらはすと雖も、後日の訴訟を存じて、木刀を帯しける用意の程こそ神妙なれ。弓箭にたづさはらんほどの者の謀には、最もかうこそあらまほしけれ。かねてはまた郎従小庭に伺候のこと、かつうは武士の郎党のならひなり。忠盛が咎にあらず。」とて、かへつて叡感に預つし上は、敢て罪科の沙汰はなかりけり。

鱸の事

 その子どもは皆、諸衛の佐になる。昇殿せしに、殿上の交はりを人嫌ふに及ばず。
 ある時忠盛、備前の国より上られたりけるに、鳥羽の院、「明石の浦はいかに。」と仰せければ、忠盛畏まつて、
  有明の月もあかしの浦風に波ばかりこそよると見えしか
と申されたりければ、院大に御感あつて、やがてこの歌をば、金葉集にぞ入れられける。
 忠盛また仙洞に、最愛の女房を持つて、夜な夜な通はれけるが、ある夜おはしたりけるに、かの女房の局に、つまに月出したる扇を、とり忘れて出でられたりければ、かたへの女房達、「これはいづくよりの月影ぞや、出で所おぼつかなし。」など、笑ひ合はれければ、かの女房、
  雲居よりたゞもりきたる月なればおぼろげにてはいはじとぞ思ふ
と詠みたりければ、いとゞ浅からずぞ思はれける。薩摩の守忠度の母これなり。似るを友とかやの風情にて、忠盛のすいたりければ、かの女房も優なりけり。
 かくて忠盛、刑部卿になつて、仁平三年正月十五日、年五十八にてうせ給ひしかば、清盛嫡男たるによつて、その跡をつぎ、保元元年七月に、宇治の左府世を乱り給ひし時、御方にてさきをかけたりければ、勧賞行はれけり。もとは安芸の守たりしが、播磨の守に遷つて、同じき三年に太宰の大貮になる。又平治元年十二月、信頼、義朝が謀叛の時も、御方にて賊徒を討ち平らげたりしかば、勲功一つにあらず、恩賞重かるべしとて、次の年正三位に叙せられ、うちつゞき宰相、衛府の督、検非違使の別当、中納言、大納言に経あがつて、剰へ丞相の位に至る。左右を経ずして、内大臣より太政大臣、従一位に至り、大将にあらねども、兵仗を賜はつて、随身を召し具す。牛車、輦車の宣旨を蒙つて、乗りながら宮中を出入す。ひとへに執政の臣の如し。
 太政大臣は一人に師範として、四海に儀刑せり。国を治め、道を論じ、陰陽をやはらげをさむ。その人にあらずば、則ち闕けよといへり。則闕の官とも名づけられたり。その人ならではけがすべき官ならねども、この入道相国は一天四海を掌の中に握り給ふ上は、仔細に及ばず。
 そもそも平家、かやうに繁昌せられけることは、ひとへに熊野権現の御利生とぞ聞えし。その故は、清盛いまだ未だ安芸の守たりし時、伊勢の国安濃の津より、船にて熊野へ参られけるに、大きなる鱸の船へ躍り入つたりければ、先達申しけるは、「昔周の武王の船にこそ、白魚は躍り入つたるなれ。いかさまにもこれは権現の御利生と覚え候。参るべし。」と申しければ、さしも十戒を保つて、精進潔斎の道なれども、みづから調味して、わが身食ひ、家の子、郎党どもにも食はせらる。その故にや吉事のみうちつゞいて、わが身太政大臣に至り、子孫の官途も、竜の雲に上るよりはなほ速やかなり。九代の先蹤を超え給ふこそめでたけれ。

禿童の事

 かくて清盛公、仁安三年十一月十一日、年五十一にて病におかされ、存命の為にとて、すなはち出家入道す、法名をば浄海とこそつき給へ{*4}。その故にや、宿病たちどころに癒えて天命を全うす。出家の後も、栄耀はなほ尽きずとぞ見えし。おのづから人の慕ひつき奉る事は、吹く風の草木を靡かす如く、世の仰げる事も、降る雨の国土を湿ほすに同じ。六波羅殿の御一家の君達とだにいへば、華族も英雄も、誰肩をならべ、面を向ふ者なし。又入道相国の小舅、平大納言時忠の卿の宣ひけるは、「この一門にあらざらん者は、皆人非人たるべし。」とぞ宣ひける。さればいかなる人も、この一門にむすぼれんとぞしける。烏帽子のためやうより始めて、衣紋のかきやうに至るまで、何事も六波羅様とだにいひてしかば、一天四海の人、皆これを学ぶ。
 いかなる賢王、賢主の御政、摂政、関白の御成敗にも、世にあまされたる程のいたづら者などの、かたはらに寄り合ひて、何となう誹り傾け申す事は、常のならひなれども、この禅門世ざかりの程は、聊かゆるがせに申す者なし。その故は入道相国の謀に、十四五六の童を三百人すぐつて、髪をかぶろに切りまはし、赤き直垂を著せて、召使はれけるが、京中に充ち満ちて往反しけり。おのづから平家の御事、あしざまに申すものあれば、一人聞き出さぬ程こそありけれ、徒党にふれまはし、かの家に乱入し、資財、雑具を追捕し、その奴をからめて、六波羅殿へゐて参る。されば目に見、心に知るといへども、言葉にあらはして申す者なし。六波羅殿のかぶろとだにいへば、道を過ぐる馬車も、皆よきてぞ通しける。禁門を出入すといへども、姓名を尋ねらるゝに及ばず。京師の長吏、これが為に目をそばむと見えたり。

わが身の栄華の事

 わが身の栄華を極むるのみならず、一門ともに繁昌して、嫡子重盛内大臣の左大将、次男宗盛中納言の右大将、三男知盛三位の中将、嫡孫維盛四位の少将、すべて一門の公卿十六人、殿上人三十余人、諸国の受領、衛府、諸司、都合六十余人なり。世にはまた人なくぞ見えられける。
 むかし奈良の帝の御時、神亀五年、朝家に中衛の大将を始め置かる。大同四年に中衛を近衛と改められしよりこのかた、兄弟左右に相ならぶこと、僅に三四個度なり。文徳天皇の御時は左に良房、右大臣の左大将、右に良相、大納言の右大将、これは閑院の左大臣冬嗣の御子なり。朱雀院の御宇には左に実頼小野の宮殿、右に師輔九條殿、貞信公の御子なり。御冷泉院の御時は左に教通大二條殿、右に頼宗堀河殿、御堂の関白の御子なり。二條の院の御宇には、左に基房松殿、右に兼実月の輪殿、法性寺殿の御子なり。これみな、摂籙の臣の御子息、凡人に取りてはその例なし。殿上の交はりをだに嫌はれし人の子孫にて、禁色、雑袍をゆり、綾羅錦繍を身にまとひ、大臣の大将になつて、兄弟左右に相ならぶこと末代とはいひながら、不思議なりし事どもなり。
 その外、御女八人おはしき。皆とりどりに幸ひ給へり。一人は桜町の中納言重教の卿の北の方にておはすべかりしが、八歳の年、御約束ばかりにて、平治の乱以後、引違へられて、花山の院の左大臣殿の御台盤所にならせ給ひて、公達数多ましましけり。そもそも、この重教の卿を、桜町の中納言と申しけることは、すぐれて心すき給へる人にて、常は吉野の山を恋ひつゝ、町に桜を植ゑならべ、その内に屋を建てて住み給ひしかば、来る年の春ごとに、見る人、桜町とぞ申しける。桜は咲いて七箇日に散るを、名残を惜しみ、天照大神に祈り申されければにや、三七日まで名残ありけり。君も賢王にてましませば、神も神徳を輝かし、花も心ありければ、二十日の齢を保ちけり。
 一人は后に立たせ給ふ。二十二にて皇子御誕生ありて、皇太子に立ち、位に即かせ給ひしかば、院号蒙らせ給ひて、建礼門院とぞ申しける。入道相国の御女なる上、天下の国母にてましませば、とかう申すに及ばれず。一人は六條の摂政殿の北の政所にならせ給ふ。これは高倉の院御在位の御時、御母代とて、准三后の宣旨を蒙らせ給ひて、白河殿とて、重き人にてぞましましける。一人は普賢寺殿の北の政所にならせ給ふ。一人は冷泉の大納言隆房の卿の北の方、一人は七條の修理の大夫信隆の卿に相具し給へり。また安芸の国厳島の内侍が腹に一人、これは後白河の法皇へ参らせ給ひて、ひとへに女御のやうでぞましましける。その外、九條の院の雑仕常盤が腹に一人、これは花山の院殿の上臈女房にて、臈の御方と申しける。
 日本秋津洲は僅に六十六箇国、平家知行の国三十余箇国、既に半国に超えたり。その外荘園、田畑、いくらといふ数を知らず。綺羅充満して、堂上花の如し。軒騎群集して、門前市をなす。楊州の金、荊州の珠、呉郡の綾、蜀江の錦、七珍万宝、一つとして欠けたる事なし。歌堂舞閣の基、魚竜爵馬のもてあそびもの、恐らくは帝闕も仙洞も、これには過ぎじとぞ見えし。


校訂者注
 1:底本頭注に「周异の誤りか」とある。
 2:[木偏に覇]の字。底本ふりがなは「つか」。
 3:底本は、「衣布(ほうい)」。
 4:底本頭注に「つけ給ふに同じ」とある。

妓王が事

 太政入道はかやうに、天下を掌の中に握りたまひし上は、世の譏りをも憚らず、人の嘲りをも顧みず、不思議の事をのみしたまへり。たとへばその頃、京中に聞えたる白拍子の上手、妓王、妓女とて、おとゝひあり。刀自といふ白拍子が女なり。しかるに姉の妓王を、入道相国寵愛し給ひし上は、妹の妓女をも、世の人もてなす事なのめならず。母刀自にもよき屋造つて取らせ、毎月に百石百貫を送られたりければ、家内富貴して、楽しい事なのめならず。
 そもそも、わが朝に白拍子の始まりける事は、むかし鳥羽の院の御宇に、鳥の千歳、和歌の前、かれら二人舞ひ出したりけるなり。始めは水干に立烏帽子、白鞘巻をさいて舞ひければ男舞とぞ申しける。しかるを中頃より烏帽子、刀をのけられて、水干ばかり用ゐたり。さてこそ白拍子とは名づけけれ。
 京中の白拍子ども、妓王が幸ひのめでたき様を聞きて、羨む者もあり、猜む者もあり。羨む者は、「あなめでたの妓王御前の幸ひや、同じ遊女とならば、誰も皆あのやうでこそありたけれ。いかさまにも妓といふ文字を名につきて、かくはめでたきやらん。いざやわれらもついて見ん。」とて、或は妓一、妓二とつき、或は妓福、妓徳などつく者もありけり。猜む者どもは、「なんでふ名により、文字にはよるべき。幸ひはたゞ前世の生れつきでこそあんなれ。」とて、つかぬ者も多かりけり。
 かくて三年といふに、又白拍子の上手一人出で来たり。加賀の国の者なり。名をば仏とぞ申しける。年十六とぞ聞えし。京中の上下これを見て、昔より多くの白拍子は見しかども、斯かる舞の上手は未だ見ずとて、世の人もてなす事なのめならず。
 ある時、仏御前申しけるは、「われ天下にもてあそばるゝといへども、当時めでたう栄えさせ給ふ、平家太政の入道殿へ召されぬ事こそ本意なけれ。遊び者のならひ、何か苦しかるべき、推参して見ん。」とて、ある時、西八條殿へぞ参じたる。人御前に参つて、「当時都に聞え候仏御前が参りて候。」と申しければ、入道相国大きに怒つて、「なんでふさやうの遊びものは、人の召しにてこそ参るものなれ。さうなう推参するやうやある。その上、{*1}神ともいへ、仏ともいへ、妓王があらんずる所へは叶ふまじきぞ。とうとうまかり出でよ。」とぞ宣ひける。仏御前はすげなういはれ奉りて、既に出でんとしけるを、妓王入道殿に申しけるは、「遊び者の推参は、常の習ひでこそ候へ。その上、年も未だをさなう候なるが、たまたま思ひ立ちて参つて候を、すげなう仰せられて返させ給はんこそ不便なれ。いかばかり恥かしう、かたはらいたくも候らん。わが立てし道なれば、人の上とも覚えず。たとひ舞を御覧じ、歌をこそきこしめさずとも、たゞ理を枉げて、召し返して、御対面許り候ひて、返させ給はば、ありがたき御情でこそ候はんずれ。」と申しければ、入道相国、「いでいでさらば、わごぜが余りにいふ事なるに、対面して返さん。」とて、御使を立てて、召されけり。仏御前はすげなういはれ奉つて、車に乗つて既に出でんとしけるが、召されて帰り参りたり。
 入道やがて出であひ、対面し給ひて、「いかに仏、今日の見参はあるじかりつれども、妓王が何と思ふやらん、あまりに申しすゝむる間、かやうに見参はしつ。見参する上ではいかでか声をも聞かであるべき。まづ今様一つ歌ふべし。」と宣へば、仏御前、「承り候。」とて、今様一つぞ歌うたる。
  君をはじめて見る時は  千代も経ぬべし姫小松
  御前の池の亀岡に  鶴こそ群れゐて遊ぶめれ
と、押しかへし押しかへし、三返歌ひすましたりければ、見聞の人々、皆耳目を驚かす。
 入道もおもしろき事に思ひ給ひて、「さてわごぜは、今様は上手にてありけるや。この定では舞ひも定めてよからん。一番見ばや、鼓打召せ。」とて、召されけり。打たせて一番舞うたりけり。
 仏御前は髪姿よりはじめて、みめかたち世にすぐれ、声よく、節も上手なりければ、なじかは舞ひは損ずべき。心も及ばず舞ひすましたりければ、入道相国舞にめで給ひて、仏に心を移されけり。仏御前、「こは何事にて候ぞや。もとより妾は推参の者にて、既に出され参らせしを、妓王御前の申し状によつてこそ、召し返されても候なれ。はやはや暇賜はつて、出させおはしませ。」と申しければ、入道相国、「すべてその儀叶ふまじ。但し妓王があるによつて、さやうに憚るか。その儀ならば妓王をこそ出さめ。」と宣へば、仏御前、「こは又、いかでさる御事候べき。ともに召し置かれんだに、恥かしう候べきに、妓王御前を出させ給ひて、妾を一人召し置かれなば、妓王御前の思ひ給はん心の中、いかばかり恥かしう、かたはらいたくも候べき。おのづから後までも忘れ給はぬ御事ならば、召されて又は参るとも、今日は暇を賜はらん。」とぞ申しける。入道、「その儀ならば、妓王とうとうまかり出でよ。」と、御使、重ねて三度までこそ立てられけれ。
 妓王はもとより思ひ設けたる道なれども、さすが昨日今日とは思ひもよらず。入道相国いかにも叶ふまじき由、頻りにのたまふ間、掃き拭ひ、塵ひろはせ、出づべきにこそ定めけれ。一樹の陰に宿りあひ、同じ流れを掬ぶだに、わかれは悲しきならひぞかし。いはんやこれは、三年が間住み馴れし所なれば、名残も惜しく、悲しくて、かひなき涙ぞすゝみける。さてしもあるべき事ならねば、妓王、今はかうとて出でけるが、なからん跡の忘れがたみにもとや思ひけん、障子に泣く泣く、一首の歌をぞ書きつけける。
  萌えいづるも枯るゝも同じ野べの草いづれか秋にあはではつべき
 さて車に乗つて宿所へ帰り、障子の内に倒れ伏し、たゞ泣くより外の事ぞなき。母や妹これを見て、いかにやいかにと問ひけれども、妓王とかうの返事にも及ばず、具したる女に尋ねてこそ、さる事ありとも知つてけれ。
 さる程に毎月送られける、百石百貫をもおし止められて、今は仏御前のゆかりの者どもぞ、始めて楽しみ栄えける。京中の上下、この由を伝へ聞いて、「まことや妓王こそ、西八條殿より暇賜はつて出されたんなれ。いざや見参して遊ばん。」とて、或は文を遣はす者もあり、或は使者を立つる人もありけれども、妓王、今更また人に対面して、遊び戯るべきにもあらねばとて、文をだに取り入るゝ事もなく、まして使者をあひしらふまでもなかりけり。妓王これにつけても、いとゞ悲しくて、かひなき涙ぞこぼれける。
 かくて今年も暮れぬ。あくる春にもなりしかば、入道相国、妓王が許へ使者を立てて、「いかに妓王、その後は何事かある。仏御前が、あまりにつれづれげに見ゆるに、参つて今様をも歌ひ、舞などをも舞うて、仏なぐさめよ。」とぞのたまひける。妓王とかうの御返事にも及ばず、涙をおさへて伏しにけり。入道重ねて、「何とて妓王は、ともかうも返事をば申さぬぞ。参るまじきか、参るまじくば、そのやうを申せ、浄海もはからふ旨あり。」とぞのたまひける。母刀自これを聞くに悲しくて、泣く泣く教訓しけるは、「何とて妓王は、ともかうも御返事をば申さで、かやうに叱られ参らせんよりは。」といへば、妓王涙をおさへて申しけるは、「参らんと思ふ道ならばこそ、やがて参るべしとも申すべけれ、なかなか参らざらんもの故に、何と御返事をば申すべしとも覚えず、この度召さんに参らずば、はからふ旨ありと仰せらるゝは、定めて都の外へ出さるゝか、さらずば命を召さるゝか、この二つにはよも過ぎじ。たとひ都を出さるゝとも、歎くべき道にあらず。又命を召さるゝとも惜しかるべきわが身かは。一度憂き者に思はれ参らせて、二度おもてを向ふべしとも覚えず。」とて、なほ御返事にも及ばざりしかば、母刀自泣く泣く、又教訓しけるは、「天が下に住まんには、ともかうも入道殿の仰せをば、背くまじき事にてあるぞ。その上わごぜは、男女の縁、宿世、今にはじめぬ事ぞかし。千年万年とは契れども、やがて別るゝ中もあり、あからさまとは思へども、ながらへはつることもあり、世に定めなきものは、男女のならひなり。況んやわごぜは、この三年が間思はれ参らせたれば、あり難き御情でこそ候へ。この度召さんに参らねばとて、命を召さるゝまではよもあらじ、定めて都の外へぞ出されんずらん。たとひ都を出さるゝとも、わごぜたちは年未だ若ければ、いかならん岩木の間にても、過さん事やすかるべし。わが身は年老い齢衰へたれば、ならはぬ鄙の住居を、かねて思ふこそ悲しけれ。たゞわれを都の中にて住みはてさせよ。それぞ今生、後生の孝養にてあらんずるぞ。」といへば、妓王、参らじと思ひ定めし道なれども、母の命を背かじとて、泣く泣くまた出でたちける、心の中こそ無慙なれ。
 妓王ひとり参らん事の、あまりに心憂しとて、妹の妓女をも相具しけり。その外白拍子二人、総じて四人、一つ車に取り乗つて、西八條殿へぞ参じたる。日頃召されつる所へは入れられずして、遥かに下がりたる所に、座敷しつらうてぞ置かれける。妓王、こはされば何事ぞや。わが身に過つ事はなけれども、出され参らするだにあるに、あまつさへ座敷をだに下げらるゝ事の口惜しさよ。いかにせんと思ふを、人に知らせじと、おさふる袖のひまよりも、あまりて涙ぞこぼれける。
 仏御前これを見て、余りにあはれに覚えければ、入道殿に申しけるは、「あれはいかに、妓王とこそ見参らせ候へ。日頃召されぬ所にても候はばこそ、これへ召され候へかし。さらずば妾に暇をたべ、出で参らせん。」と申しけれども、入道、いかにも叶ふまじきとのたまふ間、力及ばで出で去りけり。
 入道やがて出であひ、対面し給ひて、「いかに妓王、その後は何事かある。仏御前があまりにつれづれげに見ゆるに、今様をも歌ひ、舞なんどをも舞うて、仏慰めよ。」とぞのたまひける。妓王、参る程では、ともかくも入道殿の仰せをば、背くまじきものをと思ひ、流るゝ涙をおさへつゝ、今様一つぞ歌うたる。
  仏もむかしは凡夫なり  われらも遂には仏なり
  いづれも仏性具せる身を  隔つるのみこそ悲しけれ
と、泣く泣く二返歌うたりければ、その座になみゐ給へる平家一門の公卿、殿上人、諸大夫、侍に至るまで、皆感涙をぞ催されける。入道もげにもと思ひ給ひて、「時に取つては神妙にも申したり。さては舞も見たけれども、今日はまぎるゝ事出で来たり。この後は召さずとも、常に参りて、今様をも歌ひ、舞などをも舞うて、仏慰めよ。」とぞ宣ひける。妓王、とかうの御返事にも及ばず、涙をおさへて出でにけり。
 妓王、「参らじと思ひ定めし道なれども、母の命に背かじと、つらき道に赴いて、二度憂き恥を見つる事の口惜しさよ。かくてこの世にあるならば、又も憂き目にあはんずらん、今はたゞ身を投げんと思ふなり。」といへば、妹の妓女これを聞いて、「姉身を投げば、われも共に身を投げん。」といふ。母刀自これを聞くに悲しくて、泣く泣く、又重ねて教訓しけるは、「さやうの事あるべしとも知らずして、教訓して参らせつる事のうらめしさよ。まことにわごぜの怨むるも理なり。但しわごぜが身を投げば、妹の妓女も共に身を投げんといふ。若き女どもを先立てて、年老い齢衰へたる母、命生きて何にかはせんなれば、われも共に身を投げんずるなり。未だ死期も来らぬ母に、身を投げさせんずることは、五逆罪にてやあらんずらん。この世許りの宿なれば、恥ぢても恥ぢても何ならず。たゞ永き世の闇こそ心うけれ。今生でものを思はするだにあるに、後生でさへ悪道へ赴かんとすることの悲しさよ。」と、さめざめとかきくどきければ、妓王涙をはらはらと流いて、「げにもさやうに候はば、五逆罪疑ひなし。一旦うき恥を見つることの口惜しさにこそ、身を投げんとは申したれ。さ候はば自害をば思ひ止まり候ひぬ。かくて都にあるならば、又も憂き目を見んずらん。今はたゞ都の外へ出でん。」とて、妓王二十一にて尼になり、嵯峨の奥なる山里に柴の庵をひき結び、念仏してぞゐたりける。妹の妓女これを聞いて、「姉身を投げば、われも共に身を投げんとこそ契りしか。ましてさやうに世を厭はんに、誰か劣るべき。」とて、十九にてやうをかへ、姉と一所に籠りゐて、ひとへに後世をぞ願ひける。母刀自これを聞いて、「若き女どもだに、様をかふる世の中に、年老い齢衰へたる母、白髪をつけても何にかはせん。」とて、四十五にて髪を剃り、二人の女もろともに、一向専修に念仏して、後世を願ふぞあはれなる。
 かくて春過ぎ夏たけぬ。秋のはつ風吹きぬれば、星合の空を眺めつゝ、あまのとわたる梶の葉に、思ふ事書く頃なれや、夕日のかげの西の山の端にかくるゝを見ても、日の入り給ふ所は、西方浄土にてこそあんなれ。いつかわれらも、かしこに生れて、ものも思はで過さんずらんと、過ぎにし方のうき事ども思ひつゞけて、たゞ尽きせぬものは涙なり{*2}。
 たそがれ時も過ぎぬれば、竹の網戸を閉ぢ塞ぎ、灯かすかにかきたてて、親子三人もろともに念仏してゐたるところに、竹の網戸を、ほとほとと打叩くもの出できたり。その時尼ども胆を消し、「あはれこれは、いひがひなきわれらが念仏してゐたるを妨げんとて、魔厭の来たるにてぞあらん。昼だにも人も訪ひ来ぬ山里の、柴の庵の内なれば、夜更けて誰かは尋ぬべき。わづかに竹の編戸なれば、あけずとも押し破らんこと安かるべし。今は唯、なかなかあけて入れんと思ふなり。それに情をかけずして、命を失ふものならば、年頃頼み奉つる弥陀の本願を強く信じて、ひまなく名号を唱へ奉るべし。声を尋ねて向ひ給ふなる聖衆の来迎にてましませば、などか引接なかるべき。相構へて念仏怠り給ふな。」と互に心を戒めて、手に手をとり組み、竹の網戸を開けたれば、魔厭にてはなかりけり。仏御前ぞ出で来たる。
 妓王、「あれはいかに、仏御前と見参らするは、夢かやうつゝか。」といひければ、仏御前涙をおさへて、「かやうの事申せば、すべてこと新らしうは候へども、申さずばまた、思ひ知らぬ身ともなりぬべければ、始めよりしてこまごまと、ありのまゝに申すなり。もとより妾は推参の者にて、既に出され参らせしを、わごぜの申し状によつてこそ、召し返されても候に、女の身のいひがひなきこと、わが身を心に任せずして、わごぜを出させまゐらせて、妾がおし止められぬこと、今に恥かしう、かたはらいたくこそ候へ。わごぜの出でられ給ひしを見しにつけても、いつかまたわが身の上ならんと思ひゐたれば、うれしとは更に思はず。障子に又、『いづれか秋にあはではつべき。』と書き置き給ひし筆の跡、げにもと思ひ候ひしぞや。いつぞやまた、わごぜの召され参らせて、今様を歌ひ給ひしにも、思ひ知られてこそ候へ。その後は在所をいづくとも知らざりしに、この程聞けば、かやうに様をかへ、一つ所に念仏しておはしつるよし、あまりに羨ましくて、常は暇を申ししかども、入道殿更に御用ゐましまさず。つくづくものを案ずるに、娑婆の栄華は夢の夢、楽しみ栄えてなにかせん。人身は受けがたく、仏教にはあひがたし。このたび奈裏に沈みなば、他生広劫をば隔つとも、浮び上らん事かたかるべし。老少不定のさかひなれば、年の若きを頼むべきにあらず。出づる息入るをも待つべからず。かげろふ稲妻よりも、猶はかなし。一旦の栄華に誇つて、後世を知らざらん事の悲しさに、けさまぎれ出でて、かくなりてこそ参りたれ。」とて、被いたる衣をうちのけたるを見れば、尼になりてぞ出で来たる。「かやうに様をかへて参りたる上は、日頃のとがをば許し給へ。許さんとだにのたまはば、もろともに念仏して、一つ蓮の身とならん。それにも猶心ゆかずば、これよりいづちへも迷ひゆき、いかならん苔のむしろ、松が根にも仆れ伏し、命のあらんかぎりは念仏して、往生の素懐を遂げんと思ふなり。」とて、袖を顔におしあてて、さめざめとかきくどきければ、妓王涙をおさへて、「わごぜのそれ程まで思ひ給はんとは夢にも知らず、うき世の中のさがなれば、身のうきとこそ思ひしに、ともすればわごぜの事のみ怨めしくて、今生も後生も、なまじひにし損じたる心ちにてありつるに、かやうに様をかへておはしつる上は、日頃のとがは、露塵ほども残らず、今は往生疑ひなし。この度素懐を遂げんこそ、何よりも又嬉しけれ。妾が尼なりしをだに、世にあり難き事のやうに、人もいひ、わが身も思ひ候ひしぞや。それは世を恨み、身を嘆いたれば、様をかふるも理なり。わごぜは恨みもなく歎きもなし。今年は僅か十七にこそなりし人の、それ程まで穢土を厭ひ、浄土を願はんと、深く思ひ入り給ふこそ、まことの大道心とは覚え候ひしか。嬉しかりける善知識かな。いざもろともに願はん。」とて、四人一所に籠りゐて、朝夕仏前に向ひ花香を供へて、他念なく願ひけるが、遅速こそありけれ、皆往生の素懐を遂げけるとぞ聞えし。
 さればかの後白河の法皇の、長講堂の過去帳にも、妓王、妓女、仏、刀自等が尊霊と、四人一所に入れられたり。ありがたかりし事どもなり。

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校訂者注
 1:底本、ここは句点。
 2:底本は、「たゞ尽きせぬのは涙なり」。

二代の后の事

 昔より今に至るまで、源平両氏朝家に召使はれて、王化に従はず、おのづから朝権を軽んずる者には、互に戒めを加へしかば、世の乱れはなかりしに、保元に為義斬られ、平治に義朝誅せられて後は、末々の源氏ども或は流され、或は失はれて、今は平家の一類のみ繁昌して、頭を差し出す者なし。いかならん末の代までも、何事かあらんとぞ見えし。されども鳥羽の院御晏駕の後は、兵革うちつゞいて、死罪、流刑、闕官、停任、常に行はれて、海内も静かならず、世間も未だ落居せず。なかんづく永暦、応保の頃よりして、院の近習者をば、内より御戒めあり、内の近習者をば、院より戒めらるゝ間、上下恐れをのゝいて、安い心もせず。唯深淵に臨んで、薄氷を踏むに同じ。主上、上皇、父子の御間に、何事の御隔てかあるなれども、思ひの外のことども多かりけり。これも世澆季に及んで、人梟悪を先とする故なり。
 主上、院の仰せをば、常は申し返させおはしましける中に、人耳目を驚かし、世以て大きに傾け申す事ありけり。故近衛の院の后、太皇太后宮と申ししは、大炊の御門の右大臣公能公の御女なり。先帝におくれ奉り給ひて後は、九重の外、近衛河原の御所にぞ移り住ませ給ひける。前の后の宮にて、かすかなる御有様にて渡らせ給ひしが、永暦のころほひは、御年二十二三にもやならせましましけん、御さかりも少し過ぎさせおはしますほどなり。されども天下第一の美人の聞えましましければ、主上色にのみ染める御心にて、ひそかに高力士に詔して、外宮に引求めしむるに及びて、この大宮の御所へ、ひそかに御艶書あり。大宮あへて聞こしめしも入れず。さればひたすら、早ほにあらはれて、后、御入内あるべきよし、右大臣家に宣旨を下さる。このこと天下において、異なる詔旨なれば、公卿僉議有りて、各意見をいふ。「まづ異朝の先蹤をとぶらふに、震旦の則天皇后は唐の太宗の后、高宗皇帝の継母なり。太宗崩御の後、高宗の后に立ち給ふ事あり。それは異朝の先規たる上、別段の事なり。しかれどもわが朝には、神武天皇よりこの方、人皇七十余代に至るまで、未だ二代の后に立たせ給ふ例を聞かず。」と、諸卿一同に訴へ申されたりければ、上皇もしかるべからざる由、こしらへ申させ給へども、主上仰せなりけるは、「天子に父母なし。われ十善の戒功によつて、今万乗の宝位を保つ。これ程の事、などか叡慮にまかせざるべき。」とて、やがて御入内の日、宣下せられける上は、上皇も力及ばせ給はず。
 大宮かくときこしめされけるより、御涙に沈ませおはします。先帝におくれ参らせにし久寿の秋のはじめ、同じ野原の露とも消え、家をも出で、世をも遁れたりせば、今斯かる憂き耳をば聞かざらましとぞ、御歎きありける。父の大臣こしらへ申させ給ひけるは、「世に従はざるを以て、狂人とすと見えたり。既に詔命を下さる、仔細を申すに所なし。たゞ速かに参らせ給ふべきなり。もし皇子御誕生あつて、君も国母といはれ、愚老も外祖と仰がるべき瑞相にてもや候らん。これひとへに愚老を扶けさせまします、御孝行の御至りなるべし。」と、やうやうにこしらへ申させ給へども、御返事もなかりけり。大宮その頃、何となき御手習ひのついでに、
  うきふしに沈みもやらで河竹の世にためしなき名をや流さむ
 世にはいかにして洩れけるやらん、あはれにやさしき例にぞ、人々申し合はれける。既に御入内の日にもなりしかば、父の大臣、供奉の上達部、出車の儀式など、心ことに出し立てまゐらさせ給ひけり。大宮ものうき御出立なれば、とみにも奉らず、遥かに夜更け、さ夜もなかばになりて後、御車にたすけ乗せられさせ給ひけり。
 御入内の後は、麗景殿にぞましましける。さればひたすら、朝政を勤め申させ給ふ御さまなり。かの紫宸殿の皇居には、賢聖の障子を立てられたり。伊尹、鄭五倫、虞世南、太公望、角里先生、李勣、司馬、手長、足長、馬形の障子、鬼の間、李将軍が姿を、さながら写せる障子もあり。尾張の守小野の道風が七回賢聖の障子と書けるも、理とぞ見えし。かの清涼殿の画図の御障子には、むかし金岡が書きたりし、遠山の有明の月もありとかや。故院の未だ幼王にてましませしそのかみ、何となき御手まさぐりのついでに、かきくもらかさせ給ひたりしが、ありしながらに、少しもたがはせ給はぬを御覧じて、先帝の昔もや、御恋しう思召されけん、
  思ひきや憂き身ながらにめぐり来て同じ雲居の月を見むとは
その間の御なからひ、いひ知らず、あはれにやさしき御事なり。

額打論の事

 さる程に、永万元年の春の頃より、主上御不予の御事と聞えさせ給ひしが、同じき夏の初めにもなりしかば、殊の外に重らせ給ふ。これによつて大蔵の大輔伊岐の兼盛が女の腹に、今上一の宮の、二歳にならせ給ふがましましけるを、太子に立て参らせ給ふべしと聞えしほどに、同じき六月二十五日、俄に親王の宣旨蒙らせ給ふ。やがてその夜受禅ありしかば、天下何となう、あわてたる様なりけり。その時の有識の人々申し合はれけるは、まづ本朝に、童帝の例をたづぬるに、清和天皇九歳にして、文徳天皇の御譲りを受けさせ給ふ。それはかの周公旦の成王にかはり、南面にして、一日万機の政を治め給ひしに擬へて、外祖忠仁公、幼王を扶持し給へり。これぞ摂政の始めなる。鳥羽の院五歳、近衛の院三歳にて践祚あり。彼をこそ、いつしかなれと申ししに、これは二歳にならせ給ふ。先例なし。もの騒がしとも愚かなり。さる程に、同じき七月二十七日、上皇遂に崩御なりぬ。御歳二十三。蕾める花の散れるが如し。玉の簾、錦の帳の内、みな御涙に咽ばせおはします。やがてその夜、広隆寺の艮、蓮台野の奥、船岡山にをさめ奉る。御葬送の夜、延暦、興福両寺の大衆、額打論といふ事をし出して、互に狼藉に及ぶ。
 一天の君崩御なりて後、御墓所へわたし奉る時の作法は、南北二京の大衆、悉く供奉して御墓所のまはりに、わが寺々の額を打つ事ありけり。まづ聖武天皇の御願、争ふべき寺なければ、東大寺の額を打つ。次に淡海公の御願とて、興福寺の額を打つ。北京には、興福寺に向へて、延暦寺の額を打つ。次に天武天皇の御願、教待和尚、智証大師の創造とて園城寺の額を打つ。しかるを山門の大衆、いかゞ思ひけん、先例を背いて、東大寺の次、興福寺の上に、延暦寺の額を打つ間、南都の大衆、とやせまし、かうやせましと、僉議する所に、こゝに興福寺の西金堂衆、観音房、勢至房とて、聞えたる大悪僧二人ありけり。観音房は黒糸縅の腹巻に、白柄の長刀、茎みじかに取り、勢至房は萌黄縅の鎧著、黒漆の太刀持つて、二人つと走り出で、延暦寺の額を切つて落し、さんざんに打ちわり、「うれしや水、鳴るは滝の水、日は照るとも、絶えずとうたり{*1}。」とはやしつゝ、南都の衆徒の中へぞ入りにける。

清水炎上の事

 山門の大衆、狼藉を致さば手向ひすべき所に、心深う狙ふ方もやありけん、一言も出さず。御門かくれさせ給ひて後は、心なき草木までも、みな憂へたる色にこそあるべきに、この争闘のあさましさに、高きも賤しきも、肝魂を失つて、四方へみな退散す。同じき二十九日の午の刻許り、山門の大衆おびたゞしう下洛すと聞えしかば、武士、検非違使、西坂本に行き向つて防ぎけれども、ことともせず、押破つて乱入す。また何者の申し出したりけるやらん、一院、山門の大衆に仰せて、平家追討せらるべしと聞えしかば、軍兵、内裏に参じて、四方の陣頭を固めて警護す。平氏の一類、みな六波羅へ馳せ集まる。一院も急ぎ六波羅へ御幸なる。清盛公、その時は未だ大納言の右大将にておはしけるが、大きに恐れ騒がれけり。小松殿、「何によつて、たゞ今さる御事候べき。」としづめ申されけれども、騒ぎのゝしること夥し。されども山門の大衆、六波羅へは寄せずして、そゞろなる清水寺におし寄せて、仏閣僧房、一宇も残さず焼き払ふ。これは去んぬる御葬送の夜の、会稽の恥をきよめんがためとぞ聞えし。清水寺は興福寺の末寺たるによつてなり。清水寺焼けたりけるあした、「観音火坑変成池はいかに。」と、札に書きて、大門の前にぞ立てたりける。次の日また、「歴劫不思議力及ばず。」と、かへしの札をぞ打ちたりける。衆徒帰り上りければ、一院もいそぎ六波羅より還御なる。重盛の卿ばかりぞ、御送りには参られける。父の卿は参られず。なほ用心の為かとぞ見えし。
 重盛の卿、御送りより帰られたりければ、父の大納言のたまひけるは、「さても一院の御幸こそ、大きにおそれ覚ゆれ。かねてもおぼしめしより、仰せらるゝ旨のあればこそ、かうは聞ゆらめ。それにも猶打ちとけ給ふまじ。」とのたまへば、重盛の卿申されけるは、「この事ゆめゆめ、御けしきにも、御言葉にも出させ給ふべからず。人に心つけ顔に、なかなかあしき御事なり。これにつけても、よくよく叡慮に背かせ給はで、人のために御なさけを施させましまさば、神明三宝加護あるべし、さらんに取つては、御身のおそれ候まじ。」とて立たれければ、「重盛の卿はゆゝしう、おほやうなるものかな。」とぞ、父の卿も宣ひける。一院還御の後、御前にうとからぬ近習者たち、あまた候はれけるに、「さても不思議の事を申し出したるものかな。つゆも思召しよらぬものを。」と仰せければ、院中の切者に西光法師といふものあり。折ふし御前近う候ひけるが、進み出でて、「天に口なし、人を以ていはせよと申す。平家以ての外に過分に候間、天の御計らひにや。」とぞ申しける。人々、「この事よしなし。壁に耳あり恐ろし恐ろし。」とぞ、各さゝやき合はれける。
 さる程にその年は諒闇なりければ、御禊、大嘗会も行はれず。建春門院、その時は未だ東の御方と申しけるその御腹に一院の宮の、五歳にならせ給ふがましましけるを、太子に立てまゐらせ給ふべしと聞えしほどに、同じき十二月二十四日、俄に親王の宣旨蒙らせたまふ。あくれば改元ありて、仁安と号す。同じき年の十月八日の日、去年親王の宣旨蒙らせ給ひし皇子、東三條にて東宮に立たせ給ふ。東宮は御伯父六歳、主上は御甥三歳、いづれも昭穆に相かなはず。但し寛和二年に一條の院、七歳にて御即位あり。三條の院、十一歳にて東宮に立たせ給ふ。先例なきにしもあらず。主上は二歳にて御譲りを承けさせ給ひて、わづか五歳と申しし二月十九日に、御位をすべりて、新院とぞ申しける。未だ御元服もなくして、太上天皇の尊号あり。漢家、本朝、これや始めならん。仁安三年三月二十日の日、新帝、大極殿にして御即位あり。この君の位に即かせ給ひぬるは、いよいよ平家の栄華とぞ見えし。国母建春門院と申すは、入道相国の北の方、八條の二位殿の御妹なり。また平大納言時忠の卿と申すも、この女院の御兄なる上、内の御外戚なり。内外につけて執権の臣とぞ見えし。その頃の叙位、除目と申すも、ひとへにこの時忠の卿のまゝなりけり。楊貴妃がさいはひしとき、楊国忠が栄えしが如し。世のおぼえ、時の綺羅めでたかりき。入道相国天下の大小事を宣ひあはせられければ、時の人、平関白とぞ申しける。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「当時僧侶の行つた延年舞の歌。とうたりは『たう(蕩)たり』か。」とある。

殿下の乗合の事

 さる程に嘉応元年七月十六日、一院御出家あり。御出家の後も万機の政をしろしめされければ、院、内、わくかたなし。院中に近う召使はれける公卿、殿上人、上下の北面に至るまで、官位俸禄、みな身にあまる許りなり。されども人の心のならひにて、なほ飽き足らで、「あつぱれその人の失せたらば、その国はあきなん、その人の亡びたらば、その官にはなりなん。」など、うとからぬどちは、寄りあひ寄りあひ、さゝやきけり。一院も内々仰せなりけるは、「昔より代々の朝敵を平らげたる者多しといへども、未だかやうの事はなし。貞盛、秀郷が将門を討ち、頼義が貞任、宗任を亡ぼし、義家が武衡、家衡を攻めたりしにも勧賞行はれしこと、わづか受領には過ぎざりき。今清盛が、かく心の儘にふるまふ事こそ然るべからね。これも世末になりて、王法の尽きぬる故なり。」とは仰せなりけれども、ついでなければ御誡めもなし。平家もまた、別して朝家を恨み奉らるゝ事もなかりしに、世の乱れそめける根本は、いんじ嘉応二年十月十六日に、小松殿の次男、新三位の中将資盛、その時は未だ越前の守とて、生年十三になられけるが、雪ははだれに降つたりけり。枯野のけしき、まことにおもしろかりければ、若き侍ども三十騎ばかり召し具して、蓮台野や、紫野、右近の馬場に打出でて、鷹どもあまたすゑさせ、鶉、雲雀を追ひ立て追ひ立て、ひねもすに狩り暮し、薄暮に及んで、六波羅へこそ帰られけれ。
 その時の御摂籙は松殿にてぞましましける。東の洞院の御所より、御参内ありけり。郁芳門より入御あるべきにて、東の洞院を南へ、大炊の御門を西へ御出なるに、資盛朝臣、大炊の御門、猪熊にて、殿下の御出に鼻つきに参りあふ。御供の人ども、「何者ぞ、狼藉なり。御出なるに、乗物より下り候へ下り候へ。」といらでけれども、あまりに誇り勇み、世を世ともせざりける上、召し具したる侍どもも、皆二十より内の若者共なれば、礼儀、骨法わきまへたる者一人もなし。殿下の御出ともいはず、一切下馬の礼儀にも及ばず、只駆け破つて通らんとする間、暗さは暗し、つやつや太政大臣の孫とも知らず、また少々は知りたれども、そら知らずして、資盛の朝臣を始めとして、侍共みな馬より取つて引下し、頗る恥辱に及びけり。
 資盛の朝臣、はふはふ六波羅へ帰りおはして、祖父の相国禅門にこの由訴へ申されければ、入道大きに怒つて、「たとひ殿下なりとも、浄海があたりをば憚りたまふべきに、さうなうあの幼きものに、恥辱を与へられけるこそ、遺恨の次第なれ。斯かる事よりして、人には欺かるゝぞ。このこと殿下に思ひ知らせ奉らでは、えこそあるまじけれ。いかにもして怨み奉らばや。」とのたまへば、重盛の卿申されけるは、「これは少しも苦しう候まじ。頼政、光基など申す源氏どもに嘲られても候はんは、まことに一門の恥辱にても候べし。重盛が子どもとて候はんずる者が、殿の御出にまゐりあうて、乗物より下り候はぬ事こそ、返す返すも尾籠に候へ。」とて、その時事にあうたる侍共、みな召し寄せて、「{*1}自今以後、汝等よくよく心得べし。誤つて殿下へ無礼の由を、申さばやと思へ。」とてこそ帰されけれ。どその後入道、小松殿には、かうとも宣ひ合はせずして、片田舎の侍の、きはめてこはらかなるが、入道の仰せより外、世にまた恐ろしき事なしと思ふ者共、難波、妹尾を始めとして、都合六十余人召し寄せて、「来る二十一日、殿下御出あるべかんなり。いづくにても待ち受け奉り、前駆、御随身共が髻切つて、資盛が恥すすげ。」とこそ宣ひけれ。兵ども畏まり承りて、まかり出づ。
 殿下これをば夢にもしろしめされず、主上明年御元服、御加冠、拝官の御定めの為に、しばらく御直廬にあるべきにて、常の御出よりは引きつくろはせ給ひて、このたびは待賢門より入御あるべきにて、中の御門を西へ御出なるに、猪熊、堀川の辺にて、六波羅の兵ども、ひたかぶと三百余騎、待ち受け奉り、殿下を中に取りこめ参らせて、前後より一度に鬨をどつとぞつくりける。前駆、御随身どもが、今日をはれと装束したるを、あそこに追つかけ、こゝに追つつめ、さんざんに凌礫し、一々にみな髻を切る。随身十人の中、右の府生武基が髻をも切られてけり。その中に藤蔵人の大夫高範が髻を切るとて、「これは汝が髻とも思ふべからず、主の髻と思ふべし。」と、いひふくめてぞ切つてける。その後は御車の内へも、弓の弭つき入れなどして、簾かなぐり落し、御牛のむながい、しりがい切り放ち、かくさんざんにし散らして、よろこびの鬨をつくり、六波羅へ帰り参りたれば、入道、「神妙なり。」とぞのたまひける。
 されども御車添には、因幡のさいづかひ、鳥羽の国久丸といふ男、下臈なれどもさかさかしき者にて、御車をしつらひ、乗せ奉つて、中の御門の御所へ還御なし奉る。束帯の御袖にて涙をおさへさせ給ひつゝ、還御の儀式のあさましさ、申すもなかなかおろかなり。大織冠、淡海公の御事は挙げて申すに及ばず、忠仁公、照宣公よりこのかた、摂政、関白の斯かる御目にあはせ給ふこと、未だ承り及ばず。これこそ平家の悪行の始めなれ。
 小松殿この由を聞き給ひて、大きに恐れ騒がれけり。その時行き向うたる侍ども、皆勘当せらる。「たとひ入道いかなる不思議を下知し給ふといふとも、など重盛に夢ばかり知らせざりけるぞ。およそは資盛奇怪なり。栴檀は二葉よりかんばしとこそ見えたれ。既に十二三にならんずる者が、今は礼儀を存知してこそふるまふべきに、かやうの尾籠を現じて入道の悪名を立つ。不孝のいたり、汝一人にありけり。」とて、しばらく伊勢の国へ逐ひ下さる。さればこの大将をば、君も臣も御感ありけるとぞ聞えし。

鹿の谷の事

 これによつて、主上御元服の御さだめ、その日は延びさせ給ひて、同じき二十五日、院の殿上にてぞ御元服の御さだめはありける。摂政殿さてもわたらせ給ふべきならねば、同じき十一月九日、兼宣旨を蒙らせ給ひて、同じき十四日太政大臣に上らせ給ふ。やがて同じき十七日、慶び申しのありしかども、世の中は猶にがにがしうぞ見えし。
 さる程に今年も暮れぬ。嘉応も三年になりにけり。正月五日の日主上御元服あつて、同じき十三日、朝観の行幸ありけり。法皇、女院、待ち受け参らせたまひて、初冠の御よそほひ、いかばかりらうたく思召されけん。入道相国の御女、女御に参らせ給ふ。御年十五歳、法王御猶子の儀なり。
 妙音院殿、その頃は未だ、内大臣の左大将にてましましけるが、大将を辞し申させ給ふ事ありけり。時に徳大寺の大納言実定の卿、その仁に相当り給ふ。また花山の院の中納言兼雅の卿も所望あり。その外故中の御門の藤中納言家成の卿の三男、新大納言成親の卿もひらに申さる。その大納言は院の御気色よかりければ、さまざまの祈りを始めらる。まづ八幡に百人の僧を籠めて、真読の大般若を七日読ませられける最中に、甲良の大明神の御前なる橘の木へ、男山の方より、山鳩三つ飛び来つて、食ひあひてぞ死ににける。鳩は八幡大菩薩の第一の使者なり。宮寺に斯かる不思議なしとて、時の検校、匡清法印、この由内裏へ奏聞したりければ、これたゞごとにあらず、御占あるべしとて、神祇官にして御占あり。重き御慎みと占ひ申す。但しこれは君の御慎みにはあらず、臣下の慎みとぞ申しける。それに大納言おそれも致されず、昼は人目のしげければ、夜な夜な歩行にて、中の御門烏丸の宿所より、賀茂の上の社へ、七夜つゞけて参られけり。七夜に満ずる夜、宿所に下向して、苦しさに少しまどろみたりける夢に、賀茂の上の社へ参りたるとおぼしくて、御宝殿の御戸おしひらき、ゆゝしうけだかげなる御声にて、
  さくらばな賀茂の川風うらむなよ散るをばえこそとゞめざりけれ
 大納言これに猶おそれも致されず、賀茂の上の社の御宝殿の御後なる、杉の洞に壇を立て、ある聖をこめて、吒幾爾の法を百日行はれけるに、ある時俄に空かきくもり、雷おびたゞしう鳴つて、かの大杉に落ちかゝり、雷火燃え上つて、宮中既に危く見えけるを、宮人ども走り集まりて、これを打消す。さてかの外法行ひける聖を逐ひ出さんとす。「われ当社に百日参篭の志ありて、今日は七十五日になる。全く出でまじ。」とて動かず。このよし社家より内裏へ奏聞申したりければ、たゞ法にまかせよと、宣旨を下さる。その時神人白杖を以てかの聖がうなじをしらげて、一條の大路より、南へ追つ越してけり。神は非礼をうけずと申すに、この大納言、非分の大将を祈り申されければにや、斯かる不思議も出で来にけり。
 その頃叙位、除目と申すは、院、内の御はからひにもあらず、摂政、関白の御成敗にも及ばず、たゞ一向平家のまゝにてありければ、徳大寺、花山の院もなり給はず、入道相国の嫡男小松殿、その時は未だ大納言の右大将にてましましけるが左に移りて、次男宗盛、中納言にておはせしが、数輩の上臈を超越して、右に加へられけるこそ、申すばかりもなかりしか。中にも徳大寺殿は、一の大納言にて、華族英雄、才覚優長、家嫡にてましましけるが、平家の次男宗盛の卿に、加階越えられ給ひぬるこそ、遺恨の次第なれ。定めて御出家などもやあらんずらんと、人々さゝやきあはれけれども、徳大寺殿はしばらく、世のならんやうを見んとて、大納言を辞して篭居とぞ聞えし。
 新大納言成親の卿の宣ひけるは、「徳大寺、花山の院に越えられたらんは如何にせん。平家の次男宗盛に加階越えられぬるこそ、遺恨の次第なれ。いかにもして、平家を亡ぼし、本望を遂げん。」とのたまひけるこそ恐ろしけれ。父の卿はこの齢では、わづか中納言までこそ至られしか。その末子にて、位正二位、官大納言に経上つて、大国あまた賜はつて、子息、所従、朝恩に誇れり。何の不足あつてか、斯かる心つかれけん、ひとへに天魔の所為とぞ見えし。平治にも越後の中将とて、信頼の卿に同心の間、その時既に誅せらるべかりしを、小松殿のやうやうに申して、首をつぎ給へり。然るにその恩を忘れて、外人もなき所に兵具を整へ、軍兵をかたらひ置き、朝夕はたゞ軍合戦の営みの外は、また他事なしとぞ見えたりける。
 東山鹿の谷といふ所は、うしろ三井寺につゞいて、ゆゝしき城郭にてぞありける。それに俊寛僧都の山荘あり。かれに常は寄りあひ寄りあひ、平家亡ぼすべき謀をぞめぐらしける。ある夜、法皇も御幸なる。故少納言信西の子息静憲法印も御供仕らる。その夜の酒宴に、この由を仰せ合はせられたりければ、法印、「あなあさまし。人あまた承り候ひぬ。たゞ今洩れ聞えて、天下の御大事に及び候ひなんず。」と申されければ、大納言気色かはつて、さつと立たれけるが、御前に立てられたりける瓶子を、狩衣の袖にかけて、引倒されたりけるを、法皇叡覧あつて、「あれはいかに。」と仰せければ、大納言立ちかへつて、「平氏たふれ候ひぬ。」とぞ申されける。法皇もゑつぼに入らせおはしまし、「者ども参つて猿楽仕れ。」と仰せければ、平判官康頼つと参つて、「あゝあまりにへいじの多う候に、もて酔ひて候。」と申す。俊寛僧都、「さてそれをば、いかゞ仕るべきやらん。」西光法師、「たゞ首を取るには如かじ。」とて、瓶子の首を取つてぞ入りにける。法印、あまりのあさましさに、つやつやものも申されず。かへすがへす恐ろしかりしことどもなり。さて与力の輩たれだれぞ。近江の中将入道蓮浄、俗名成雅、法勝寺の執行俊寛僧都、山城の守基兼、式部の大輔雅綱、平判官康頼、宗判官信房、新平判官資行、武士には多田の蔵人行綱をはじめとして、北面の者ども多く与力してけり。

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校訂者注
 1:底本、ここに「「」はない。

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