江戸期版本を読む

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カテゴリ:軍記物語 > 校訂「義経記」 日本文学大系本

校訂「義経記」(日本文学大系本)WEB目次

巻第一
11 義朝都落ち 常磐都落ち 牛若鞍馬いり
12 正門坊 牛若貴船詣で
13 吉次が奥州物語 遮那王殿鞍馬いで

巻第二
21 鏡の宿にて吉次宿に強盗入る 遮那王殿元服
22 阿野の禅師に御対面 義経陵が館を焼き給ふ
23 伊勢三郎義経の臣下に初めて成る 義経秀衡に御対面
24 鬼一法眼

巻第三
31 熊野の別当乱行 弁慶生まる 弁慶山門を出づ
32 書写山炎上
33 弁慶洛中にて人の太刀を取りき 弁慶義経と君臣の契約
34 頼朝謀叛 頼朝謀叛により義経奥州より出で給ふ

巻第四
41 頼朝義経に対面
42 義経平家の討手に上り給ふ 腰越の申し状
43 土佐坊義経の討手に上る
44 義経都落ち  45 住吉大物二箇所合戦

巻第五
51 判官吉野山に入り給ふ
52 静吉野山に捨てらる 義経吉野山を落ち給ふ
53 忠信吉野にとゞまる  54 忠信吉野山の合戦
55 吉野法師判官を追つ掛け奉る

巻第六
61 忠信都へ忍び上る 忠信最後
62 忠信が首鎌倉へ下る 判官南都へ忍び御出あり
63 関東よりくわんじゆ坊を召さる
64 静鎌倉へ下る  65 静若宮八幡へ参詣

巻第七
71 判官北国落ち  72 大津次郎 荒乳山
73 三の口の関とほり給ふ  74 平泉寺御見物
75 如意の渡りにて義経を弁慶うち奉る
76 直江の津にて笈さがされき
77 亀割山にて御産 判官平泉へ御著

巻第八
81 嗣信兄弟御弔ひ 秀衡死去
82 秀衡が子ども判官殿に謀叛 鈴木三郎重家高館へ参る
83 衣川合戦
84 判官御自害 兼房が最期 秀衡が子ども御追討
校訂「義経記」(日本文学大系本 1926年刊)WEB凡例

校訂「義経記」(日本文学大系本)WEB凡例

  1:底本は「義経記」(1926年国民図書刊 国会図書館デジタルコレクション)です。
  2:校訂の基本方針は「本文を忠実にテキスト化しつつ、現代の人に読みやすくする」です。
  3:底本のふりがなは全て省略しました。
  4:底本の漢字は原則現在(2024年)通用の漢字に改めました。
  5:二字以上の繰り返し記号(踊り字)はテキストにないため、文字表記しました。
  6:底本の適宜改行し、句読点および発話を示す鍵括弧は適宜修正、挿入しました。
  7:底本の漢文は適宜訓読を修正し、書き下して示しました。
  8:校訂には『義経記』(日本古典文学大系新装版 1992年岩波書店刊)を参照しました。
  9:底本の修正のうち、必要と思われるものは校訂者注で示しました。但し、以下の漢字は、原則としてかな表記に変更しました。
仮名表記とした主な漢字
あ行
 あざわら(冷笑)ふ あた(能)ふ あた(辺)り あた(中)る あと(跡) あなた(彼方) あは(哀)れ あはれみ(哀憐) あひて(対手) あ(逢)ふ あまた(数多) あまつさ(剰)へ あやか(肖)る あやまち(過失) あ(有)り ありか(在所) あわ(周章)つ いか(如何・何) いかゞ(如何) いかに(如何) いか(忿)る い(厳)し いた(痛)はし いたづ(徒)ら いつ(何時) いづかた(何方) いづく(何処) いづ(何)れ いとけな(幼)し いにし(古)へ いば(嘶)ふ いへど(雖)も いや(弥) いや(痍)す い(愈)ゆ いよいよ(弥・愈) い(入)る うしろ(背) うた(慨)て う(打)ち うつぶし(俯伏) うと(疎)まし お(於・置)いて おとづ(音信)る おのれ(汝) おはしま(坐)す おは(坐)す おぼ(覚)ゆ おろ(愚)か
か行
 か(斯) かしこ(彼処) かすか(微) かたき(讐敵) かたく(頑固)なはし かたち(容貌・容) かたびら(衫) かち(徒) かちはだし(徒跣) かづ(被)く かどはか(誘拐)す かね(予)て かはらけ(土器) かひふ(貝吹)す かへ(却・反)つて かやう(斯様) かりそめ(苟且・仮初) きこしめ(食召・聞召)す きつと(急度) きやつ(彼奴) くせごと(曲事) くつ(履) くら(闇)し くりがた(刳形) くれなゐ(呉藍) げ(実・気) けが(汙)す けが(汙)る けなげ(健気) げ(実)に こ(此) こゝ(爰・此処) こと(言) ことば(言・詞) こなた(此方) こは(強) これ(是れ・是)
さ行
 さ(左・然) さかさま(逆様) さ(指)す さすが(流石) さて(扨) さね(礼) さぶら(侍)ふ さま(様) さや(𩋡) さら(晒)す しか(然)り しき(頻)り したゝり(滴瀝) しのぶ(忍) しばし(暫時) しばらく(暫時) しもべ(下部) しるし(徴・印) しれもの(癡者) すか(賺)す すぐ(直) すく(健)やか すゝ(雪・濯)ぐ すべ(凡)て すまひ(住居) すみか(住処・棲所) すゑ(季) 責(せ)む そし(誹・謗)る そ(其) そこ(其処) そ(染)む そら(虚) そらそら(空々)なり それがし(某)
た行
 た(闌)く た(度)し たゝず(佇)む たづ(尋)ぬ たと(仮)ひ たとへ(仮令) たはぶれ(戯言) たまたま(偶) ため(為) ためし(例) たやす(容易・輒)し たれがし(某) ちかづき(親人) ぢき(直) ちやう(丁) ついで(次・序) つが(番)ふ つ(付)く つく(竭)す つとめ(勤修・勤行) つはもの(兵・兵士) つゆ(露) つらゝ(凍冰) と(疾)し と(問・訪)ふ とぶら(訪)ふ とま(留)る とも(共) ども(共・供) と(兎)もかく(角)
な行
 なか(中)ら ながら(存命)ふ な(無)し なゝめ(斜)ならず な(成)り の(除)く のゝし(訇)る の(陳)ぶ
は行
 はからひ(計略) ばか(許)り はかりごと(謀) は(穿・履)く は(作)ぐ はざま(峡間・間・狭間) はした(下女) は(走)す はた(将) はだし(跣) はな(放)る は(食)む はや(逸)る ばら(原) ひがごと(僻事) ひ(退)く ひざまづ(跪)く ひしめ(犇)く ひそ(密)か ひた(直) ひつさ(提)ぐ ひでり(旱魃) ひとしほ(一入) ひとへ(偏)に ひと(独)り ひとりごと(独言) ひねもす(終日) ひま(間隙) ひめもす(終日) ふるまひ(挙動) ほとり(辺)
ま行
 まう(設)く まさ(正)なし まじ(交)る ま(先)づ まつりごと(政) まのあたり(眼前) まばら(疎) まゝ(儘) まみ(見)ゆ まも(凝視)る まゆみ(檀弓) まゐ(参・進)らす まんまる(真円) みち(途) みめ(眉目) むちう(鞭)つ むな(空)し むな(心)もと むら(村) め(奴) も(若)し もてな(款待・饗)す もと(許・本) もとで(資本) もの(物・者) ものう(懶)し もみ(紅葉)づ もろとも(諸共)
や行
 やう(様) やが(軈・頓)て やす(易)し やなぐひ(胡簶) やには(矢庭) やゝ(稍) ゆる(免)す ゆゑ(故) よ(除)く よ(能)し よそ(余所) よ(依)つて よみがへ(蘇生)る よみぢ(黄泉)
ら行
 ら(等)
わ行
 わ(和) わざ(態)と わらは(妾) わり(理)なし をこ(烏滸) をは(了)る

校訂「義経記」(日本文学大系本)WEB目次

義経記

巻第一

一 義朝都落ちの事

 本朝の昔を尋ぬれば、田村、利仁{*1}、将門、純友、保昌、頼光{*2}、漢の樊噲、張良は、武勇といへども、名をのみ聞きて目には見ず。まのあたりに芸を世にほどこし、万事の目を驚かし給ひしは、下野の左馬頭義朝の末の子、源九郎義経とて、我が朝にならびなき名将軍にておはしけり。
 父義朝は、平治元年十二月二十七日に、衛門督藤原信頼卿にくみして、京の軍にうち負けぬ。重代の郎等ども、みな討たれしかば、その勢、二十余騎になりて、東国の方へぞ落ちたまひける。成人の子どもをばひき具して、をさあいをば{*3}都に捨ててぞ落ちられける。嫡子、鎌倉の悪源太義平。二男中宮大夫進朝長、十六。三男兵衛佐頼朝、十二になる。悪源太をば、「北国の勢を具せ。」とて、越前へ下す。それも叶はざるにや、近江の石山寺にこもりけるを、平家、聞き付け、難波、妹尾を差し遣はして生け捕り、都へ上り、六條河原にて斬られけり。弟の朝長も、せんぞく{*4}が射ける矢に、弓手の膝口をしたゝかに射られて、美濃国青墓といふ宿にて死にけり。
 そのほか、子ども、方々にあまたありけり。尾張国熱田の大宮司の女の腹にも、一人ありけり。遠江国蒲と云ふ所にて成人し給ひて、蒲の御曹司{*5}とぞ申しける。後には三河守と名乗りたまふ。九條院の常磐が腹にも三人あり。今若七つ、乙若五つ、牛若当歳子なり。清盛、これを取つて斬るべき由をぞ申しける。

二 常磐都落ちの事

 永暦元年正月十七日の暁、常磐、三人の子どもひき具して、大和国宇陀郡岸の岡と云ふ処に、契約{*6}の親しき者あり。これを頼み、尋ねて行きけれども、世間の乱るゝ折ふしなれば、頼まれず。その国の大東寺と云ふ所に、隠れ居たりける。常磐が母、関屋と申す者、楊桃町にありけるを、六條よりとり出だし、拷問せらるゝよし聞こえければ、常磐はこれを悲しみ、「母の命を助けんとすれば、三人の子どもを斬らるべし。子どもを助けんとすれば、老いたる母を失ふべし。子に親をばいかゞ思ひかへ候べき。親の孝養する者をば、堅牢地神も納受あるとなれば、子どもの為にもなりなん。」と思ひつゞけ、三人の子をひき具して、泣く泣く京へぞ出でにける。六條へこのこと聞こえければ、悪七兵衛景清、監物太郎に仰せ付け、子どもを具して、六條へ参りける。清盛、常磐を見給ひて、日頃は、「火にも。水にも。」と思はれけるが、今怒れる心も和らぎけり。
 常磐と申すは、日本一の美人なり。九條院{*7}は、色好みにておはしましければ、洛中より容顔美麗なる女房を千人召されて、その中よりも百人選び、百人の中より十人すぐり、十人の中より一人選び出だされたる美人なり。まことに、「漢の李夫人、楊貴妃も、これには過ぎじ。」と覚えける。清盛、御心をうつされ、「我にだにも従ふものならば、末の世には、この者どもの子孫の、いかなる仇ともならばなれ、三人の子どもをも助けばや。」と思はれける。頼方、景清に仰せ付けて、七條朱雀にぞ置かれける。日番をも、頼方が計らひにして守護しける。
 清盛、常は常磐がもとへ文を遣はされけれども、取りてだに見ず。されども文の数も重なりければ、貞女両夫にまみえずと云ふことばにもはづれ、又、世の人のそしりをも思はれけれども、唯三人の子どもを助けんために、馴れぬ衾のもとに新枕を並べ給ひけり。さてこそ常磐は、三人の子どもをば、処々にて成人させ給ひけり。
 今若、八歳と申す春の頃より、観音寺にのぼせ、学問させて、十八の年しやうかい、禅師の君とぞ申しける。後には、駿河国富士の裾野におはしけるが、悪襌師と申しけり。
 八條におはしけるは、そし{*8}にておはしけれども、腹あしく{*9}恐ろしき人にて、賀茂、春日、稲荷、祇園の御祭ごとに、平家を狙ふ。後には紀伊国にありける新宮十郎義盛{*10}、世をみだりしとき、東海道の洲股河にて討たれけり。
 牛若は、四つの年まで母のもとにありけるが、世のをさあい者よりも、心ざま振舞ひ、人にすぐれしかば、清盛、常に心にかけて宣ひけるは、「敵の子を一所にて育てては、終にはいかゞあるべき。」と思し召しければ、京より東、山科といふ処に、源氏相伝の遁世して、幽なる{*11}住居にてありける処に、七歳まで育て給ひけり。

三 牛若鞍馬いりの事

 常磐が子ども、成人するに随ひて、なかなか心苦しく{*12}、初めて人に従はせんも、由なし。習はねば、殿上にも交はるべくもなし。「唯法師になして、跡をも弔ひて。」なんど思ひて、鞍馬の別当、東光房の阿闍梨は、義朝の祈りの師にておはしける程に、御使を遣はして仰せけるは、「義朝の末の子、牛若殿と申し候を、且は知ろし召してこそ候らめ。平家、世ざかりにて候に、女の身として持ちたるも、心ぐるしく候へば、鞍馬へ参らせ候べし。猛くとも、おだしき心もつけ、書の一巻をも読ませ、経の一字をも覚えさせてたまはり候へ。」と申されければ、東光房の御返事には、「故頭殿{*13}の君達にて渡らせたまひ候こそ、殊に悦び入りて候へ。」とて、山科へ、急ぎ御迎ひに人をぞ参らせける。七歳と申す二月初めに、「鞍馬へ。」とてぞ上られける。
 その後、昼はひねもすに師の御坊の御前にて経を読み、書学して、夕日西に傾けば、夜の更け行くに、仏の御あかしの消ゆるまでは、ともに物をよみ、五更の天にもなれども、雨もよひもすくまで{*14}、学問に心をのみぞ尽くしける。東光坊も、「山{*15}、三井寺にも、これ程の児あるべし。」とも覚えず。学問の精と申し、心ざま、みめかたち、類なくおはしければ、量智坊の阿闍梨、覚日坊の律師も、「かくて、二十ばかりまでも学問し給ひ候はば、鞍馬の東光坊より後も、仏法の種をつぎ、多聞の御宝{*16}にもなり給はんずる人。」とぞ申されける。
 母も、これを聞き、「牛若、学問の精よく候とも、里に常にありなんどし候はば、心も不用{*17}になり、学問をも怠りなんず。恋しく見たけれと申し候はば、わざと人を賜はり候て、母はそれまで参り、見もし、人に見えられて、返し候はん」と申されける。「さなくとも、児を里へ下すこと、朧気ならぬにて候。」とて、一年に一度、二年に一度も下さず{*18}。
 かかる学問の性いみじき人の、いかなる天魔のすゝめにや有りけん、十五とまうす秋の頃より、学問の心、以ての外にかはりけり。その故は、ふるき郎等の、謀叛を勧むるにてぞありける。

校訂者注
 1:底本は、「田村(たむら)、利仁(としひと)、」。底本頭注に、「○田村 坂上田村麿刈田麿の子。桓武天皇に仕へ侍従兵部卿になつた。」「○利仁 藤原氏。左大臣魚名の裔。醍醐の朝鎮守府将軍となる。」とある。
 2:底本は、「保昌(はうしやう)、頼光(らいくわう)、」。底本頭注に、「○保昌 藤原忠致の子。摂津守。長元九年卒す。」「○頼光 鎮守府将軍源満仲の子。」とある。
 3:底本は、「をさあいをば」。底本頭注に、「をさなきの音便。幼い者。」とある。
 4:底本頭注に、「横川法師の名か。山賊の意か。」とある。
 5:底本頭注に、「御曹子とあつたが、御曹司と訂正した。部屋住の公達。蒲御曹司は義朝第六子範頼。」とある。
 6:底本は、「けいやく」。底本頭注に従い改めた。底本頭注に、「契約。契約の親しき者は親しき縁故の者。」とある。
 7:底本頭注に、「中宮呈子の御父。太政大臣藤原伊通。九條相国といふ。」とある。
 8:底本頭注に、「庶子。」とある。
 9:底本頭注に、「怒り易く。」とある。
 10:底本頭注に、「為義の第十子。行家と改む。」とある。
 11:底本は、「かすかる」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 12:底本頭注に、「成長するにつれて却つて心配で。」とある。
 13:底本は、「故頭殿(こかうのとの)」。底本頭注に、「故左馬頭殿、義朝をいふ。」とある。
 14:底本頭注に、「暗い空のすくまで。東天のしらむまでの意だらう。」とある。
 15:底本頭注に、「比叡山延暦寺。」とある。
 16:底本頭注に、「多聞は鞍馬寺の本尊毘沙聞天の一名。多聞の御宝は仏法を伝へて毘沙門天の愛子たるべき人にもなる。」とある。
 17:底本頭注に、「不都合。乱暴。」とある。
 18:底本は、「さなくとも、稚児(ちご)を里へ下すこと、朧気(おぼろげ)ならぬにて候。一年(ひとゝせ)に一度、二年に一度も下さる。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。

四 正門坊の事

 四條室町に、ふりたる郎等のありける。すり法師{*1}なりけるが、これは、恐ろしき者の子孫なり。左馬頭殿の御乳母子、鎌田次郎正清が子なり。
 平治の乱の時は、十一歳になりけるを、長田荘司{*2}、これを斬るべき由きこえければ、外戚{*3}親しきものありけるが、やうやうに隠し置き、十九にて男になし{*4}て、鎌田三郎正近とぞ申しける。正近、二十一の年、思ひけるは、「保元に為義討たれたまひぬ。平治に義朝討たれ給ひて後は、子孫たえ果てて、弓馬の名を埋づんで星霜をおくりたまふ。その時、清盛に亡ぼされし者なれば、出家して諸国を修行して、主の御菩提をも弔ひ、親の後世をも弔ひ候はばや。」と思ひければ、鎮西の方へぞ修行しける。筑前国御笠郡太宰府の安楽寺と云ふ処に学問してありけるが、故里の事を思ひ出だして、都にのぼりて、四條の御堂に行ひすまして居たりけり。法名をば正門坊とぞ申しける。また、四條の聖とも申しけり。
 つとめの隙には、平家の繁昌しけるを見て、目ざましく{*5}ぞ思ひける。「いかなれば、平家の、太政大臣の官にあがり、末までも臣下卿相になり給ふらん。源氏は、保元、平治の合戦に皆亡ぼされて、おとなしきは斬られ、をさあい{*6}は、こゝかしこにおし篭められて、今まで頭をさし出だし給はず。果報も生まれかはり、心も剛にあらんずる源氏の、あはれ、思し召し立ちたまへかし。いづ方へなりとも御供して、世をみだし、本意を遂げばや。」とぞ思ひける。つとめのひまひまには、指を折りて国々の源氏をぞ数へける。
 「紀伊国には新宮十郎義盛。河内国には石川判官義通。摂津国には多田蔵人行綱。都には源三位頼政卿、京の君円信。近江国には佐々木源三秀義。尾張国には蒲冠者。駿河国には阿野禅師。伊豆国には兵衛佐頼朝。常陸国には志田三郎先生{*7}義範、佐竹別当昌義。上野国には利根、吾妻。これは、国を隔てて遠ければ、力及ばず。都近き処には、鞍馬にこそ頭殿{*8}の末の御子、牛若殿とておはするものを。参りて見たてまつり、心がら実に実にしく{*9}おはしまさば、文賜はりて伊豆国へ下り、兵衛佐殿{*10}の御方にまゐり、国を催して世を乱さばや。」と思ひければ、折節その頃、四條の御堂も夏{*11}の時分にてありけるをうち捨てて、やがて鞍馬へとぞ上りける。
 別当の縁にたゝずみける程に、「四條の聖、おはしたり。」と申しければ、「承り候。」と申し、「さらば。」とて、東光坊のもとにぞ置かれける。内々には悪心をさしはさみ、謀叛を起こして来れるとも知らざりけり。
 ある夜のつれづれに、人しづまつて、牛若殿のおはする処へまゐりて、御耳に口を当てて申しけるは、「知ろし召されず候や。今まで思し召し立ち候はぬ。君は、清和天皇十代の御末、左馬頭殿の御子。かく申すは、頭殿の御乳母子に鎌田次郎兵衛{*12}が子にて候。御一門の源氏、国々にうち篭められておはするをば、心憂しとは思し召されず候や。」と申しければ、その頃、平家の世を取りて盛りなれば、「たばかりて云ふやらん。」とうち解け給はざりければ、源氏重代の事をくはしく申しける。身こそ知りたまはね{*13}ども、かねて、「左様の者あり。」と聞きしかば、「さては、一所にては叶ふまじ。処々にて。」とて、正門坊をば返されけり。

五 牛若貴船詣での事

 正門にあひ給ひて後は、学問のこと、跡形なくわすれ果てて、明暮、謀叛の事をのみ思し召しける。「謀叛をおこす程ならば、早業をせでは叶ふまじ。まづはやわざを習はん。」とて、「この坊は、諸人のよりあひ処なり。いかにも叶ひがたし。」とて、鞍馬の奥に僧正が谷といふ処あり。昔は、いかなる人の崇め奉りけん、貴船の明神とて、霊験殊勝に渡らせ給ひける。智恵ある上人も行ひけり。鈴の声も怠らず、神主もありけるが、御神楽の鼓の音もたえず、あらたに{*14}渡らせ給ひしかども、世末になれば、仏の方便も神の験徳も劣らせ給ひて、人住み荒らし、ひとへに天狗の住みかとなりて、夕日西にかたぶけば、物怪、喚き叫ぶ。されば、参りよる人をも取りなやます間、参篭する人もなかりけり。
 されども牛若、かかる処のある由を聞きたまひ、昼は学問し給ふ体にもてなし、夜は、日ごろ、「一所にてともかくも成りまゐらせん。」と申しつる大衆{*15}にも知らせずして、別当の御護りに参らせたる敷妙と云ふ腹巻に、黄金作りの太刀はきて、たゞ一人、貴船の明神へまゐり給ひ、念誦申させ給ひけるは、「南無大慈明神、八幡大菩薩。」掌を合はせて、「源氏を守らせ給へ。宿願、まこと成就あらば、玉の御宝殿つくり、千町の所領を寄進し奉らん。」と祈誓し、正面より未申に向ひて立ち給ふ。四方の草木をば平家の一類と名付け、大木二本ありけるを、一本をば清盛と名付け、太刀を抜きてさんざんに切り、懐よりぎつちやう{*16}の玉のやうなる物を取り出だし、木の枝にかけ、一つをば重盛が首と名づけ、一つをば清盛が首とて懸けられけるが、かくて暁にもなれば、我が方に帰り、衣引きかづきて伏し給ふ。
 これを知らず、知泉と申す法師の御介錯{*17}申しけるが、「この御有様、たゞ事にはあらじ。」と思ひて、目を放さず。ある夜、御跡を慕ひて、かくれて草むらの陰に忍びて見ければ、かやうにふるまひ給ふ間、急ぎ鞍馬に帰りて、東光坊にこの由申しければ、阿闍梨、大きに驚き、量智房阿闍梨につげ、寺に触れて、「牛若殿の御髪剃り奉れ。」とぞ申されける。量智房、この事を聞き給ひ、「幼き人も、様にこそよれ。容顔、世に超えておはすれば、今年の受戒、いたはしくこそおはすれ。明年の春の頃、そり参らせ給へ。」と申しければ、「誰も御名残、さこそと思ひ候へども、かやうに御心不用になり{*18}て御渡り候へば、我がため、御身のため、しかるべからず候。唯そり奉れ。」とのたまひければ、牛若殿、「何ともあれ、寄りて剃らんとする者をば、突かんずるものを。」と、刀のつかに手をかけておはしましければ、左右なくよりて剃るべしとも見えず。
 覚日坊の律師、申されけるは、「これは、諸人{*19}の寄合処にて、静かならぬ間、学問も御心に入らず候へば、某が処は、かたはらにて候へば、御心静かに御学問候へかし。」と申されければ、東光坊も、さすがいたはしく思はれけん、「さらば。」とて、覚日坊へ入れ奉り給ひけり。御名をばかへられて、遮那王殿とぞ申しける。それより後には、貴船まうでも止まりぬ。日々に多聞に日参して、謀叛の事をぞ祈られける。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「新に髪を剃つた法師。」とある。
 2:底本頭注に、「尾張長田荘を司る役人。平忠致。」とある。
 3:底本は、「外戚(げしやく)」。底本頭注に、「母方の親戚。」とある。
 4:底本頭注に、「元服させて俗人になして。」とある。
 5:底本頭注に、「心外に。」とある。
 6:底本「義朝都落ちの事」頭注に、「をさなきの音便。幼い者。」とある。
 7:底本は、「志田(しだの)三郎先生(せんじやう)」。底本頭注に、「為義の三男。常陸志田郡に居たからいふ。先生は東宮に侍する帯刀の長官をいふ。」とある。
 8:底本は、「頭殿(かうのとの)」。底本頭注に、「左馬頭義朝。」とある。
 9:底本は、「実(げ)に(二字以上の繰り返し記号)しく」。底本頭注に、「人物らしく。」とある。
 10:底本は、「兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)」。底本頭注に、「頼朝。」とある。
 11:底本は、「夏(げ)」。底本頭注に、「陰暦四月十六日から七月十六日まで、仏者が篭つて修養する期間をいふ。」とある。
 12:底本頭注に、「正清。右兵衛尉であつた。」とある。
 13:底本頭注に、「其の当人を知らないが。」とある。
 14:底本頭注に、「あらたかに。霊験あるさま。」とある。
 15:底本は、「大衆(たいしゆ)」。底本頭注に、「僧徒。」とある。
 16:底本頭注に、「毬杖。又、毬打。昔正月などに、彩糸で飾つた槌形の杖で、木製の毬を打つ遊び。」とある。
 17:底本頭注に、「世話をすること。」とある。
 18:底本頭注に、「○不用(ふよう)になり 我が儘になる。乱暴になる。」とある。
 19:底本は、「諸国」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。

六 吉次が奥州物語の事

 かくて、年も暮れぬれば、御年十六にぞなり給ふ。多聞の御前に参りて、所作して{*1}おはしける処に、その頃、三條に大福長者あり。その名を吉次信高とぞ申しける。毎年、奥州に下る金商人なりけるが、鞍馬を信じ奉りける間、それも多聞に参りて念誦して居たりけるが、この幼い人を見奉りて、「あら、うつくしの御稚児や。いかなる人の君達やらん。しかるべき人にてましまさば、大衆もあまた付き参らすべきに、度々見申すに、たゞ一人おはしますこそ怪しけれ。この山に、左馬頭殿の君達のおはするものを。真やらん。『秀衡も、鞍馬と申す山寺に、左馬頭殿の君達おはしますなれば、太宰大弐清盛の、日本六十六箇国を従へんと、常は宣ふなるに、源氏の御君達を一人下し参らせ、磐井郡に京を立て、二人の子どもを両国の領主させて{*2}、秀衡生きたらんほどは、大炊介{*3}に成りて、源氏を君とかしづき奉り、上みぬ鷲{*4}の如くにてあらばやと、宣ひ候ものを。』と云ひ奉り、かどはかしまゐらせ、御供して秀衡の見参に入れ、引出物取りて徳付かばや{*5}。」と思ひ、御前に畏まつて申しけるは、「君は、都にはいかなる人の御君達にておはしますやらん。これは、京のものにて候が、金を商ひて毎年奥州へ下る者にて候が、奥方に知ろし召したる人や御入り候。」と申しければ、「片ほとりのものなり。」と仰せられて、返事もしたまはず。
 「これこそは、聞こゆる黄金商人吉次といふなり。奥州の案内者やらん。彼に問はばや。」とおぼしめして、「陸奥といふは、いか程の広き国ぞ。」と問ひたまへば、「大過の国{*6}にて候。常陸国と陸奥国との境、菊多の関と申して、出羽と奥州との境をば、なん関と申す。その中、五十四郡。」と申しければ、「その中に、源平の乱出で来たらんに、用に立つべき者、いか程あるべき。」と問ひ給へば、国の案内は知りたり、吉次、暗からずぞ申しける。
 「昔、両国の大将をば、をかの大夫とぞ申しける。彼が一人の子あり。阿倍権守{*7}とぞ申しける。子ども、あまたあり。嫡子栗屋川次郎貞任、二男鳥海三郎宗任、家任、盛任、繁任とて、六人の末の子に境冠者りやうぞうとて、霧をおこし霞立て、敵おこる時は、水の底、海の中にて日を送りなどする曲者なり。これら兄弟、丈の高さ、唐人にも越えたり。貞任が丈は九尺五寸、宗任が丈は八尺五寸、いづれも八尺に劣るはなし。中にも境の冠者は、一丈三寸候ひける。
 「安倍権守の世までは、宣旨、院宣にも畏れて、毎年上洛して、逆鱗をやすめ奉る。安倍権守死去の後は、宣旨を背き、たまたま院宣なるときは、北陸道七箇国の片道を賜はりて上洛仕るべき由、申され候ひければ、『片道たまはるべき。』とて、下さるべかりしを、公卿僉議ありて、『これ、天命を背くにこそ候へ。源平の大将を下し、追討せさせたまへ。』と申されければ、源頼義、勅宣を承りて、十一万騎の軍兵を率して、安倍を追討のために、陸奥国へ下り給ふ。駿河国の住人高橋大蔵大夫に先陣をさせて、下野国いもうと云ふ処に著く{*8}。貞任、これを聞きて、栗屋川の城を去つて、あつかしゑの中山を{*9}後ろにあてて、安達郡に木戸を立て、行方の原に馳せ向ひて源氏を待つ。大蔵大夫、大将として五百余騎、白川の関をうち越えて、行方の原に馳せ著き、貞任を攻む。その日の軍にうち負けて、浅香の沼へ引き退く。
 「伊達郡あつかしゑ{*10}の中山に楯篭り、源氏は、信夫の里、駿河三河のはた、はやしろと云ふ処に陣を取つて、七年、夜昼戦ひ暮らすに、源氏の十一万騎、皆討たれて、『叶はじ。』とや思ひけん、頼義、京へ上りて内裏にまゐり、『頼義、叶ふまじき。』由を申されければ、『汝叶はずは{*11}、代官を下し、急ぎ追討せよ。』と、重ねて宣旨を下されければ、急ぎ六條堀川の宿所へ帰り、十三になる子息を内裏に参らせけり。『汝が名をば何と云ふぞ。』と御尋ねありけるに、『辰の年の辰の日の辰の時にうまれ候とて、名をば、くわんた{*12}と申し候。』とまうしければ、『無官の者に、合戦の大将さする例なし。』とて、『元服させよ。』とて、後藤内範明をさし添へられて、八幡宮にて元服させて、八幡太郎義家と号す。その時、御門より賜はりたる鎧をこそ、『源太が産衣{*13}。』と申しけり。
 秩父十郎重国、先陣を承りて、奥州へうち下る。あつかしゑの城を攻めけるに、なほも源氏うち負けて、『こと悪しかりなん。』とて、いそぎ都へ早馬を立て、このよしを申しければ、『年号が悪しければ。』とて、康平元年と改められ、同年四月二十一日、あつかしゑの城を追ひ落とす。しから坂{*14}にかゝりて、いさむ関をせめ越えて、最上郡に篭る。源氏、続いて攻め給ひしかば、おからの中山うち越えて、仙北金沢の城に引き篭り。それにて一両年をおくり、戦ひつれども、鎌倉権五郎景政、三浦平大夫為継、大蔵大夫光任、これらは命を捨てて攻めける程に、金沢の城をも落とされて、白木山にかゝりて、衣川の城に篭る。為継、景政、重ねて攻めかゝる。康平三年六月二十一日に、貞任は、大事の手を負ひ、梔子色の衣を著て、磐手の野辺にぞ伏しにける。弟の宗任は、降人となる。境冠者、後藤内、生け捕りにして、やがて斬られぬ。義家、都に馳せ上り、内の見参に入れて{*15}、末代までの名を挙げたまふ。
 その時、奥州へ御供申し候ひし、三つうの少将に十一代の末、淡海{*16}の後胤、藤原清衡と申す者、国の警護に留められて候ひけるが、和田郡にありければ、わだの清衡と申し候ひし、両国を手に握つて候ひし。十四道の弓取り五十万騎、秀衡が伺候の郎等十八万騎、持ちて候。これこそ、源平の乱出で来らば、御方人{*17}ともなりぬべき者にて候へ。」と申しける。

七 遮那王殿鞍馬いでの事

 遮那王殿、これを聞き給ひて、「かねて聞きしに少しも違はず。世にあるものござんなれ{*18}。あはれ、下らばや。左右なく{*19}頼まれたらば、十八万騎の勢を、十万騎をば国に留め、八万騎をば率して、坂東にうちいで、八箇国は源氏に心ざしある国なり。下野殿{*20}の国なり。これを始めとして、十二万騎を催し、二十万騎になして、十万騎をば伊豆国兵衛佐殿へ奉り、十万騎をば木曽殿につけて{*21}、我が身は越後国にうち越し、鵜川、佐橋、金津、奥山の勢を催して、越中、能登、加賀、越前の軍兵を靡けて、十万騎になして、荒乳の中山を馳せ越えて、西近江に懸かりて、大津の浦に著きて、坂東の二十万騎を待ち得て、逢坂の関をうち越えて、都に攻め上り、十万騎をば天下の御所に参らせて、源氏すごさん由{*22}を申さんに、平家、猶も都に繁昌して、むなしかるべくは、名をば後の世にとゞめ、屍をば都にさらさんこと、身に取つては何の不足か有るべき。」と思ひ立ち給ふも、十六の盛りには恐ろしくぞおぼえける。
 「この男めに知らせばや。」と思し召し、近く召しておほせられけるは、「汝なれば知らするぞ。人に披露あるべからず。我こそ左馬頭義朝が子にてあれ。秀衡がもとへ文一つ、ことづてばや。いつの頃、返事を取りてくれんずるぞ。」と仰せられければ、吉次、座敷をすべり下り、烏帽子のさきを地につけて申しけるは、「御事をば、秀衡、以前に申され候。御文よりも、唯御下り候へ。道の程、御宿直{*23}仕り候はんずる。」と申しければ、「文の返事待たんも心もとなし。さらば、連れて下らばや。」と思し召しける。「いつのころ下り候はんずるぞ。」とのたまへば、「明日吉日にて候間、かたの如くの門出仕り候はんずる。」と申しければ、「さらば、粟田口十禅寺の御前にて待たんずるぞ。」と宣ひければ、吉次、「さ承り候。」とて下向してけり。
 遮那王殿、別当の坊に帰りて、心の中ばかり{*24}に出で立ち給ふ。「七歳の春の頃より十六の今に至るまで、朝にはけうくんの霧を払ひ、夕には三光の星を戴き、日夜朝暮馴れし、なじみの師匠の御名残も、今ばかり。」と思はれければ、しきりに忍ぶとし給へども、涙に咽びけり。されども、弱くて叶ふべきにあらざれば、承安二年二月二日の曙に、鞍馬をぞ出で給ふ。白き小袖一重ねに唐綾を著重ね、はりま浅葱のかたびらを上に召し、しろき大口に唐織物の直垂めし、敷妙と云ふ腹巻、きごめにして、紺地の錦にて、柄鞘包みたる守り刀、金作りの太刀佩いて、薄化粧に眉細く作りて、髪高く結ひあげ、心細げにて壁を隔てて出で立ちたまふが、「我ならぬ人のおとづれて通らん度に、『さる者、これにありしぞ。』と思ひ出でて、跡をもとぶらひ給へかし。」と思はれければ、漢竹のようでう{*25}を取り出だし、半時ばかりふきて、「音をだに、跡の形見。」とて、泣く泣く鞍馬を出で給ひ、その夜は四條の正門坊の宿へ出で給ひて、奥州へ下る由、仰せられければ、「善悪、御供申し候はん。」と出で立ちけり。遮那王殿、宣ひけるは、「御辺は、都に留まりて、平家のなり行く様を見て、知らせよ。」とて、京にぞ留められける。
 さて遮那王殿、粟田口まで出で給ふ。正門坊もそれまで送り奉り、十禅寺の御前にて吉次を待ちたまへば、吉次、いまだ夜深に京を出でて、粟田口に出で来る。種々の宝を二十余疋に負ふせて先に立て、我が身は京を尋常にぞ出で立ちける。あひあひ引きかきしたる摺尽くしの直垂に、秋毛の行縢{*26}はいて、黒栗毛なる馬に角覆輪の鞍おきてぞ乗りたりける。「児を載せ奉らん。」とて、月毛なる馬に沃懸地の鞍をおきて、大斑の行縢、鞍おほひにしてぞ出で来る。
 遮那王殿、「いかに、約束せばや。」と宣へば、馬より急ぎ飛んで下り、馬引き寄せ、のせ奉り、「かかる縁に遇ひけるよ。」と、よに嬉しくぞ思ひける{*27}。吉次を招きて宣ひけるは、「宿の馬の腹筋馳せ切つて{*28}、雑人めらが追ひつかん。顧みるに、かけ足になつて下らんとおぼゆるなり。『鞍馬になし。』といはば、都に尋ぬべし。『都になし。』といはば、大衆ども、『さだめて東海道へぞ下らんずらん。』とて、摺針山よりこなたにて追つかけられて、『帰れ。』といはんずるものなり。帰らざらんも、仁義礼智信にもはづれなん。都は敵の辺なり。足柄山を越えんまでこそ大事なれ。坂東と云ふは、源氏に心ざしのある国なり。言葉の末を以て{*29}、宿々の馬取りて、乗り下るべし。白川の関をだにも越えば、秀衡が知行の処なれば、雨のふるやらん、風のふくやらんも、知るまじきぞ{*30}。」と宣へば、吉次、これを聞きて、「かかる恐ろしき事あらじ。毛のなだらかならん馬一匹をだにも乗り給はずして、恥ある郎等{*31}の一騎をだにも具し給はで、現在の敵の知行する国の馬を、『取りて下らん。』と宣ふこそ恐ろしけれ。」とぞ思ひける。
 されども、命に随ひ、駒を早めて下るほどに、松坂をも越えて、四の宮河原を見て過ぎ、逢坂の関をうち越えて、大津の浜をも通りつゝ、瀬多の唐橋うち渡り、鏡の宿に著き給ふ。長者は、吉次が年頃の知る人なりければ、女房あまた出だし、色色にこそもてなしけれ。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「動作をしての意で、神前の礼拝をいふ。」とある。
 2:底本頭注に、「〇二人の子ども 国衡泰衡。」「〇両国 陸奥出羽。」とある。
 3:底本は、「大炊介(おほゐのすけ)」。底本頭注に、「古朝廷の炊事を掌つた大炊寮の次官。こゝは、秀衡が源氏を君として自ら台所奉行となつて仕へようといふ意。」とある。
 4:底本頭注に、「最も威勢あつて恐れる者のない様子。鷲は他の鳥に上から覗はれる恐れのないに比していふ。」とある。
 5:底本頭注に、「利益を得よう。」とある。
 6:底本は、「大過(たいくわ)の国」。底本頭注に、「すぐれて大なる国。」とある。
 7:底本頭注に、「阿倍頼時。」とある。
 8:底本は、「著(つ)き、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 9:底本は、「あつかしゑの中山の後ろ」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。底本頭注に、「〇あつかしゑ 陸前国阿津賀志山のことであらう。岩代国大木戸村。」とある。
 10:底本は、「あつかしみの中山」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 11:底本は、「汝叶(かな)はず代官(だいくわん)を下し、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 12:底本頭注に、「源太の訛。正徳の版本にげんたとある。」とある。
 13:底本は、「源太(くわんた)が産衣(うぶぎぬ)」。底本頭注に、「源氏相伝八領の鎧の一。」とある。
 14:底本は、「しからざる」。底本頭注に従い改めた。
 15:底本は、「内(うち)の見参(げんざん)に入れて」。底本頭注に、「天子に拝謁して。内は内裏又は天子をいふ。」とある。
 16:底本は、「淡海(たんかい)」。底本頭注に、「淡海公藤原不比等。」とある。
 17:底本は、「方人(かたうど)」。底本頭注に、「身方。」とある。
 18:底本頭注に、「世にあるものであるよな。」とある。
 19:底本は、「左右(さう)なく」。底本頭注に、「とかくの論なく。躊躇せずに。かれこれいふことなく。」とある。
 20:底本頭注に、「義朝。」とある。
 21:底本頭注に、「〇兵衛佐 頼朝。」「〇木曽殿 義仲。」とある。
 22:底本頭注に、「源氏が御所守護しすごさうと。」とある。
 23:底本は、「御宿直(とのゐ)」。底本頭注に、「守衛し面倒を見る意。」とある。
 24:底本頭注に、「師へ暇乞もあらはに告げられず心の中だけで暇乞して。」とある。
 25:底本は、「漢土から渡来した竹で作つた横笛。」。
 26:底本は、「行縢(むかばき)」。底本頭注に、「騎馬の時腰から脛にかけて被ひかけるもの。」とある。
 27:底本は、「思はせ給ひける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 28:底本は、「馬の腹筋(はらすぢ)馳(は)せ切つて、」。底本頭注に、「馬をひどく馳せて馬の腹筋も断れる程にして。」とある。
 29:底本頭注に、「言葉で巧みに言ひくるめて。」とある。
 30:底本頭注に、「秀衡の領地内に入れば雨が降つても風が吹いても一向平気だ。」とある。
 31:底本頭注に、「名誉を重んずる家来。」とある。

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