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カテゴリ:軍記物語 > 校訂「義経記」 日本文学大系本

巻第二

一 鏡の宿にて吉次宿に強盗入る事

 そもそも都ちかき処なれば、人目もつゝましくて、傾城の遙かの末座に遮那王殿をなほしける{*1}。恐れ入りてぞおぼゆる。酒三献過ぎて、長者{*2}、吉次が袖に取り付きて申しけるは、「そもそも御辺は、一年に一度、二年に一度、この道をとほらぬ事なし。されども、これ程いつくしき子具し奉りたる事、これぞ始めなり。御身のためには親しき人か、または他人か。」とぞ問ひける。「親しくはなし。また、他人にてもなし。」とぞ申しける。長者、涙をはらはらと流し、「哀れなる事どもかな。何しに、生きて初めて、かかる憂き目を見るらん。ただ昔の御事、今の心地してぞおぼゆるぞや。この殿のたちふるまひ、かたち、身ざま、頭殿{*3}の二男、朝長殿にすこしも違ひたまはぬものかな。言葉の末をもつても具し奉りたるかや。保元、平治より以来、源氏の子孫、こゝやかしこにうち篭められておはするぞかし。成人して思ひ立ち給ふことあらば、よくよく拵へ奉りて、わたし参らせ給へ{*4}。壁に耳、岩に口といふ事あり。くれなゐは園生に植ゑてもかくれなし。」と申しければ、吉次、申しけるは、「何ぞ。それにては候はず。身が親しき者にて候。」と申しけれども、長者「人は、何ともいはばいへ。」とて、座敷を立ちて、幼き人の袖を引き、上の座敷になほし奉り、酒をすゝめて、夜ふかければ、我が方へぞ入れ奉る。吉次も酒に酔ひ伏しにけり。
 その夜、鏡の宿にぶだうのこと{*5}こそありけれ。その年は、世の中飢饉なりければ、出羽国に聞こゆるせんとう{*6}の大将に、由利太郎と申す者と、越後国に名を得たる、頚城郡の住人藤沢入道と申すもの、二人語らひ、信濃国に越えて、さんの権正子息太郎、遠江国に蒲与一、駿河国に興津十郎、上野に豊岡源八。以下の者ども、いづれも聞こゆる盗人、宗徒のもの{*7}二十五人。その勢七十人連れて、「東海道は衰微す。少しよからん山家山家に居たりける徳人{*8}あらば、追ひおとして、わが党どもに興ある酒飲ませて、都に上り、夏もすぎ秋風立たば、北国にかゝり、国へ下らん。」とて、宿々、山家山家におし入り、おし取りてぞのぼりける。
 その夜、鏡の宿長者の、軒を並べてやどしける。由利太郎、藤沢に申しけるは、「都に聞こえたる吉次といふ金商人、奥州へ下るとて、多くの売り物を持ち、今宵長者のもとに宿りたり。いかゞすべき。」といひければ、藤沢入道、「順風に、帆をあげ棹さし押し寄せて、しやつ{*9}が商ひ物とりて、わが党どもに酒飲ませて通れ。」とて出で立ちける。屈強の足軽ども五、六人、腹巻著て、油さしたる車松明五、六台に火をつけて、天にさし上げければ、外は暗けれども、内は日中のやうに拵へ、由利太郎と藤沢入道とは大将として、その勢八人連れて出で立ち、由利は、唐萌黄の直垂に、萌黄縅の腹巻著て、折烏帽子にうちかけして、三尺五寸の太刀はきてぞ出でにける。藤沢は、褐の直垂に黒革縅の鎧著て、兜の緒をしめ、黒塗の太刀に熊の革の尻鞘入れ、大薙刀を杖につき、夜半ばかりに長者のもとにうち入りたり。
 つと入りて見れば、人もなし。中の間に入りて見れども、人もなし。「こは、いかなることぞ。」とて、簾中{*10}に深くみだれ入りて、障子五、六間切りたふす。吉次、これに驚き、かばと起きて見れば、鬼王の如くにて出で来る。これは、信高{*11}が財宝に目をかけて出で来たるを知らず。「源氏の公達具し奉り奥州へくだること、六波羅{*12}に聞こえて、討手の向ひたる。」と心得て、取る物も取りあへず、かひふいてぞ逃げにける。
 遮那王殿、これを見たまひて、「すべて人の頼むまじきものは、次のもの{*13}にてありけるや。かたの如くも侍ならば、かくはあるまじきものを。とてもかくても、都を出でし日よりして、命をば宝ゆゑに棄て、屍をば鏡の宿にさらすべし。」とて、大口の上に腹巻取りて引きかけ、太刀取り脇にはさみ、唐綾の小袖取りてうちかづき、一間なる障子の中をするりと出で、屏風一よろひ引きたゝみ、前におしあたる八人の盗人を、「今や。」と待ちたまふ。「吉次めに、目ばし放すな{*14}。」とて、をめいてかゝる。「屏風の陰に、人あり。」とは知らで、松明をふつてさしあげ見れば、いつくしきともなゝめならず、南都、山門に聞こえたる児、鞍馬を出で給へる事なれば、極めて色しろく、かね黒{*15}に眉細くつくりて、衣かづきたまひけるを見れば、松浦狭夜媛が、領布ふる野べ{*16}に年をへし、寝乱れて見ゆる黛の、鴬の羽風に乱れぬべくぞ見え給ふ。玄宗皇帝の代なりせば、楊貴妃ともいひつべし。漢の武帝の時ならば、李夫人かとも疑ふべし。傾城と心得て、屏風におし纏ひてぞ通りける。
 「人もなきやうに思はれて、生きては何の益あるべき。末の世に、『いかゞしければ、義朝の子牛若といふもの、謀叛をおこし、奥州へ下るとて、鏡の宿にて強盗にあひて、甲斐なき命生きて、今また忝くも太政大臣に心をかけたり。』などといはれんことこそ{*17}悲しけれ。とてもかくても逃るまじ。」と思し召し、太刀を抜き、多勢の中へ走り入りたまふ。八人は、左右へさつと散る。由利太郎、これを見て、「女かと思ひたれば、世に豪なるものにてありけるものを。」とて、散々に切り合ふ。「一太刀に。」と思ひて、もつて開いてむずと打つ。大の男の太刀の寸は延びたり。天井の縁に太刀うちつらぬき、引きかぬる処を、小太刀を以てちやうと受けとめ、弓手の腕に袖をそへて、ふつとうち落とし、返す太刀に首うち落とす。藤沢入道はこれを見て、「あゝ、斬つたり。そこをひくな。」とて、大長刀うちふりて走りかゝる。これにかゝり合ひて、散々に斬りあひ給ふ。藤沢入道、長刀を茎長に取りて、するりとさし出だす。走りかゝり給ふ。太刀は聞こゆる剣なれば、長刀の柄、つんと切りてぞ落とされける{*18}。やがて、「太刀を抜かん。」としけるを、抜きも果てさせず切り付け給へば、兜の真向、しや面{*19}かけて切り付け給ひけり。
 吉次は、物の陰にてこれを見て、「恐ろしき殿のふるまひかな。いかに我をきたなしと思し召さるらん。」とおもひ、臥したりける帳台へつと入り、腹巻取つて著、髻解き乱し、太刀を抜き、敵の捨てたる松明うち振り、大庭に走り出でて、遮那王殿と一つになりて、追つつまくつつ散々に戦ひ、屈竟の者ども五人、やにはに切り給ふ。二人は手を負ひて北へゆく。一人追ひにがす。残る盗人、のこらず落ち失せけり。
 明くれば宿の東のはづれに、五人が首をかけ、札を書きてぞ添へられける。
  音にも聞くらん、目にも見よ。出羽国の住人由利太郎、越後国の住人藤沢入道以下の首、五人切りて通るものを、何者とか思ふらん。金商人三條の吉次がためには縁あり。これを十六にての初業よ。委しき旨を聞きたくば、鞍馬の東光坊のもとにて聞け。承安二年二月四日。
とぞ書きて立てられける。さてこそ後には、「源氏の門出しすましたり。」とぞ舌を巻きて怖ぢあひける。その日、鏡の宿を立ち給ひけり。吉次は、いとゞかしづき奉りてぞ下りける。
 小野の摺針うち過ぎて、番場、醒井過ぎければ、今日も程なく行き暮れて、美濃国青墓の宿にぞ著き給ふ。これは、義朝浅からず思ひ給ひける長者があとなり。兄の中宮大夫の墓所を尋ね給ひて、御出あり{*20}。夜と共に法華経読誦して、明くれば卒堵婆をつくり、みづから梵字を書きて、供養してぞ通られける。子安の森をよそに見て、くせ川をうちわたり、洲股川を曙にながめて通りつゝ、今日も三日になりければ、尾張国熱田の宮につき給ひけり。

遮那王殿元服の事

 熱田の前の大宮司は、義朝の舅なり。今の大宮司は小舅なり。兵衛佐殿母御前も、熱田のそとの浜といふ処にぞおはします。父の御かたみと思し召して、吉次をもつて申されければ、大宮司、いそぎ御迎へに人をまゐらせ、入れ奉り、やうやうにいたはり奉りける。やがて次の日、「立たん。」とし給へば、様々にいさめごと{*21}に参り、とかくする程に、三日までぞ熱田におはします。
 遮那王殿、吉次に仰せられけるは、「童にて下らんは、わろし。かり烏帽子{*22}なりとも著て下らばやと思ふは、いかにすべき。」吉次、「いかやうにも御計らひ候へ。」とぞ申しける{*23}。大宮司、烏帽子奉り、取りあげ、烏帽子をぞ召されける。「かくて下り、秀衡が、『名をば何と申すぞ。』と問はんとき、『遮那王。』といひて、男になりたるかひなし。これにて名をかへずして下り著きたらば、定めて、『元服せよ。』といはれんずらん。秀衡は、我々がためには相伝{*24}の者なり。他のそしりもあるぞかし。これは、熱田の明神の御前、しかも兵衛佐殿の母御前も、これにおはします。これにて思ひ立たん。」とて、精進潔斎して、大明神に御参りあり。大宮司、吉次も御供仕る。二人に仰せけるは、「左馬頭殿の子ども、嫡子悪源太、二男進朝長、三男兵衛佐、四男蒲殿、五郎はげんじの君、六郎は京の君、七郎は悪禅師の君。われは、左馬八郎とこそいはるべきに、保元の合戦に叔父鎮西八郎{*25}、名をながし給ひしことなれば、その跡をつがんこと、よしなし。末になるとも苦しかるまじ。われは、左馬九郎といはるべし。実名は、祖父は為義、父は義朝、兄は義平と申しける。われは、義経といはれん。」とて、昨日までは遮那王殿、今日は左馬九郎義経と名をかへて、熱田の宮を過ぎ、なにと鳴海{*26}の塩干潟、三河国八橋をうち越えて、遠江国浜名の橋をうちながめて通らせたまひけり。日頃は、業平、山蔭中将などのながめける、名所名所は多けれども、牛若殿、「うちとけたる時こそ面白けれ。思ひあるときは、名所も旧跡も何ならず。」とて、うち過ぎたまへば、宇津の山を越え過ぎて、駿河なる浮島が原にぞ著きたまひける。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「座になほすは著座せしめるをいふ。」とある。
 2:底本は、「長者(ちやうじや)」。底本頭注に、「宿駅の長。」とある。
 3:底本は、「頭殿(かうのとの)」。底本頭注に、「左馬頭義朝。」とある。
 4:底本は、「拵(こしら)へ奉り」。底本頭注に、「謀り構へて差上げてくれ。作り構へて用心して渡り給へ。」とある。
 5:底本頭注に、「無道の事。一本おもはざる事とある。」とある。
 6:底本頭注に、「潜盗か山盗か。」とある。
 7:底本は、「宗徒(むねと)のもの」。底本頭注に、「宗と頼むもの。重だつ者。」とある。
 8:底本は、「徳人(とくにん)」。底本頭注に、「富豪。」とある。
 9:底本頭注に、「彼奴。きやつ。」とある。
 10:底本は、「れんちう」。底本頭注に従い改めた。
 11:底本は、「宗高」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 12:底本頭注に、「京都で清盛の邸のあつた処。」とある。
 13:底本頭注に、「下劣な者で武士でない賤しい者。」とある。
 14:底本頭注に、「目を放すな。ばしは語勢を強める語。」とある。
 15:底本頭注に、「鉄漿で歯を染めること。」とある。
 16:底本は、「松浦狭夜媛(まつらさよひめ)が、領布(ひれ)ふる野べ」。底本頭注に、「〇松浦狭夜媛 大伴狭手彦の妻。」「〇領布ふる野べ 肥前唐津附近。領布は古昔婦人が項にかけた飾りの布。」とある。
 17:底本頭注に、「〇いかゞしければ 末世の評判に、牛若はどうした事で強盗に遇つておめおめ生きて更に清盛を狙つたなど云はれるのはの意。」「〇甲斐なき命 生き甲斐もなくおめおめ生きながらへて。」「〇太政大臣云々 清盛を殺さうと狙つて。」とある。
 18:底本は、「落されけり。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 19:底本は、「しや面(つら)」。底本頭注に、「顔をいふ。侮り罵つた詞。」とある。
 20:底本頭注に、「〇義朝浅からず 平治物語にかの長者大炊が娘延寿と申すは頭殿御志浅からず云々と見える。」「〇中宮大夫 義朝の二男朝長。」とある。
 21:底本頭注に、「教誡。」とある。
 22:底本頭注に、「一時まにあはせの烏帽子。烏帽子は元服した男のかぶるもの。」とある。
 23:底本は、「仰せける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 24:底本頭注に、「相伝譜代。代々伝へて臣下たる者。」とある。
 25:底本頭注に、「〇左馬頭殿 義朝。」「〇悪源太 義平。」「〇進 中宮大夫進。」「〇兵衛佐 頼朝。」「〇蒲殿 範頼。」「〇鎮西八郎 為義の子為朝。」とある。
 26:底本頭注に、「何となる身に地名鳴海を言ひかけた。」とある。

三 阿野の禅師に御対面の事

 これより、阿野の禅師{*1}の御もとへ、御使参らせ給ひける。禅師、大きに悦び給ひて、御曹司{*2}を入れ奉り、たがひに御目を見合はせて、過ぎにし方の事ども、物語り続け給ひて、御涙にむせび給ひける。「不思議の御事かな。離れし時は、二歳になり給ふ。この日頃は、いづくにおはするとも知り奉らず。これ程に成人して、かかる大事を思ひたちたまふ嬉しさよ。我も、共にうち出で、一所にてともかくもなりたく候へども、『たまたま釈尊の経法をまなんで、尋常の閑処に入りしより以来、三衣を墨に染めぬれば、甲冑をよろひ、弓箭を帯すること、いかにぞや。』と思へば、うち連れ奉らず。且は、頭殿{*3}の御菩提をも、誰かはとぶらひ奉らん。かつうは{*4}、一門の人々の祈りをこそ仕らんずれ。一箇月をだにも添ひ奉らず、離れ奉らんことこそ悲しけれ。兵衛佐殿も、伊豆国の北條におはしませども、『警固の者ども、きびしく守護し奉る。』とまうせば、文をだにまゐらせず。近所を頼みにて、おとづれもなし。御身とても、この度見参し給はん事、不定なれば、文を書き置き給へ。そのやうを申すべし。」と仰せられければ、文書きて跡に留めおき、その日は伊豆の国府に著きたまふ。
 夜もすがら祈念申されけるは、「南無御堂大明神、走湯権現、吉祥駒形。願はくは、義経を三十万騎の大将軍となし給へ。さらぬ外は、この山より西へ越えさせ給ふな。」と、精誠をつくし祈誓し給ひけるこそ、十六の盛りには恐ろしき。足柄の宿をうち過ぎて、武蔵野の堀金の井をよそに見て、在五中将のながめける深きよしみを思ひて、下野国荘たかのと云ふ処に著きたまふ。日数ふる程にしたがひて、都はとほく、東は近くなるまゝに、その夜は都のこと思し召し出だされける。宿のあるじを召して、「これは、いづくの国ぞ。」と御問ひありければ、「下野国。」と申しける。「この処は、郡か、荘{*5}か。」と宣へば、「下野の荘。」とぞ申しける。「この荘の領主は、誰と云ふぞ。」「少納言信西と申せし人の母方の伯父、陵介{*6}と申す人の嫡子、陵の兵衛。」とぞ申しける。

四 義経陵が館を焼き給ふ事

 きつと{*7}思し召し出だされけるは、「義経が九つの年、鞍馬の寺にありて、東光坊の膝の上に寝ねたりし時{*8}、『あはれ、幼き人の御目のけしきや。いかなる人の君達にて渡らせ給ひ候やらん。』と言ひしかば、『これこそ左馬頭殿の公達。」と宣ひしかば、『あはれ、末の世に、平家のためには大事かな。この人々をたすけ奉りて、日本国に置かれんことこそ、獅子虎を千里の野へ放つにてあれ。成人し給ひ候はば、必定、謀叛をおこし給ふべし。聞きもおかせたまへ。自然の事の候はん時、御尋ね候へ。下野国に下道祖とまうす処に候{*9}。』といひしなり。はるばると奥州へ下らんよりも、陵がもとへ行かばや。」と思し召し、吉次をば、「下野の室八島にて待て。義経は、人をたづねて、やがて追ひつかんずるぞ。」とて、陵がもとへぞおはしける。吉次は、心ならず先立ち参らせて、奥州へ下りける。
 御曹司は、陵が宿所へ尋ねて御覧ずるに、まことに世にありし{*10}とおぼしくて、門には鞍置きたる馬ども、その数引つ立てたり。さしのぞきて見たまへば、遠侍{*11}に屈強の若き者ども、五十人{*12}ばかり居ながれたり。御曹司は、人を招きよせて、「御内に案内申さん。」と宣ひければ、「いづくよりぞ。」と申す。「京の方より。かねて見参に入りて候者なり。」と仰せけり。主にこの事を申しければ、「いかやうなる人ぞ。」と申せば、「そのすがた、尋常{*13}にまします。」と申しければ、「さらば、これへと申せ。」とて、入れ奉る。
 陵、「いかなる人にて渡らせ給ふぞ。」と申しければ、「幼少にて見参に入りて候ひし、御覧じ忘れ候や。鞍馬の東光坊のもとにて、『何事もあらん時、尋ねよ。』と候ひし程に、万事頼み奉りて下り候。」と仰せられければ、陵、この事を聞きて、「かかる事こそなけれ{*14}。成人したる子どもは皆、京に上りて小松殿{*15}の御内にあり。我々が源氏にくみせば、二人の子ども、いたづらになるべし。」と思ひわづらひて、暫くうち案じ、申しけるは、「さ思し召し立たせ給ひ、畏まつて候へども、平治の乱れの時、すでに兄弟、誅せられ給ふべく候ひしを、七條朱雀の方に清盛ちかづかせ給ひて、その芳志により、命を助からせ給ひぬ{*16}。老少不定のさかひ、定めなき事にて候へども、清盛、いかにもなりたまひて後{*17}、思し召し立たせ給ひ候へかし。」と申しければ、御曹司、聞こし召して、「あはれ、きやつは日本一の不覚人にてありけるや。あはれ。」とは思し召しけれども、力およばず、その日は暮らしたまひけり。
 「頼まれざらんものゆゑに、執心もあるべからず{*18}。」とて、その夜の夜半ばかりに、陵の家に火をかけて、残る処もなく散々に焼き払ひて、かき消す如くにうせ給ひけり。「かくて行くには{*19}、下野国横山の原、室の八島、しのの河、関山に人を付けられて叶ふまじ。」と思し召して、墨田川辺を馬にまかせて歩ませ給ひける程に、馬の足早くて、二日に通りける処を一日に、上野国板鼻といふ処につき給ひけり。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「義経の同母兄。幼名今若。僧となり金成といふ。悪禅師。遠江国阿野に居た。」とある。
 2:底本頭注に、「部屋住の若君。義経をさす。」とある。
 3:底本は、「頭殿(かうのとの)」。底本頭注に、「亡父義朝。」とある。
 4:底本頭注に、「且は。」とある。
 5:底本は、「荘(しやう)」。底本頭注に、「荘園。権勢ある人又は社寺の私有地。」とある。
 6:底本は、「陵介(みさゝぎのすけ)」。底本頭注に、「諸陵寮の次官。」とある。
 7:底本は、「急度(きつと)」。底本頭注に、「ふと。ひよつと。すぐに。」とある。
 8:底本は、「寝(い)ねたりし。あはれ」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 9:底本頭注に、「万一の事のある折、下野国に居りまするから御尋ね下さいと陵の兵衛が申した。」とある。
 10:底本頭注に、「時世に逢つて繁昌して。」とある。
 11:底本は、「遠侍(とほざぶらひ)」。底本頭注に、「中門の傍にあつて警固の侍の詰めてゐる処。」とある。
 12:底本は、「五十ばかり」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 13:底本頭注に、「何となく品よく立派な。」とある。
 14:底本頭注に、「かういふ事があつては大変だの意。」とある。
 15:底本頭注に、「平重盛。」とある。
 16:底本頭注に、「〇兄弟誅せられ 頼朝範頼義経など兄弟。」「〇七條朱雀の方 義経の母常磐をいふ。清盛常磐を寵して七條朱雀に住はせた。」「〇ほうじ はうし。芳志。」とある。「ほうじ」は、底本頭注に従い改めた。
 17:底本頭注に、「清盛が死んで後。」とある。
 18:底本頭注に、「たよりにならぬ者だから執念深く思ひ残ることもない。」とある。
 19:底本は、「うせ給ひける。かくて行(ぎやう)には、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。

五 伊勢三郎義経の臣下に初めて成る事

 かくて、日も暮れ方になりぬ。賤が庵は軒を並べてありけれども、一夜をあかしたまふべき処もなし。引き入りて、まや{*1}一つあり。情ある住みかとおぼしくて、竹の透垣に槙の板戸をたてたり。池をほり、汀にむれ居る鳥を見給ふにつけても、情ありて御覧ずれば、庭にうち入り、縁のきはにより給ひて、「御内へ、物申さん。」と仰せられければ、十二、三ばかりなるはした者出でて、「何事。」と申しければ、「この家には、おのれより外に、大人しき者はなきか。人あらば、出でよ。云ふべき事あり。」とて返されければ、主にこの由を語る。
 やゝありて、年頃十八、九ばかりなる女の童の優なるが、一間の障子のかげより、「何事候ぞ。」と申しければ、「京の者にて候が、当国{*2}の多胡と申す処へ、人をたづねて下り候が、この辺の案内知らず候。日は、はや暮れぬ。一夜の宿をかしたまへ。」と仰せられければ、この女、申しけるは、「やすき程にて候へども、主にて候もの、留守にて候が、今宵夜ふけてこそ来り候はんずれ。人に違ひて、情なき者にて候。いかなることをか申し候はんずらん。それこそ御ため、いたはしく候へ。いかゞすべき。余の方{*3}へも御入り候へかし。」と申しければ、「殿の入らせたまひて、無念のこと候はば{*4}、その時こそ虎ふす野辺にもまかり出で候はめ。」と仰せられければ、女、思ひみだしたり。
 御曹司、「今夜一夜は、唯かし給へ。色をも香をも知る人ぞしる。」とて、遠侍{*5}へするりと入りてぞおはしける。女、力及ばず、内に入りて大人しき人に、「いかにせんずるぞ。」と云ひければ、「一河の流れを汲むも、皆これ他生の縁なり。何かくるしく候べき。遠侍には、かなふまじ{*6}。二間所へ請じ奉り給へ。」とて{*7}、様々の菓子を取り出だして、御酒すゝめ奉れども、少しもきこし召し入れたまはず{*8}。女、申しけるは、「この家の主は、世に超えたるえせ者{*9}に候。相構へて相構へて見えさせたまふな。御灯火を消し、障子引き立てて御休み候へ。八声の鳥{*10}も鳴き候はば、御心ざしの方へ、急ぎ急ぎ御出で候へ。」と申しければ、「うけたまはり候ひぬ。」とぞ仰せける。
 「いかなる男を持ちて、これ程には怖づらん。おのれが男に越えたる陵が家にだに火をかけ、さんざんに焼き払ひて、これまで来りつるぞかし。ましてやいはん、女の情ありて留めたらんに、男来りて憎げにも申さば、いつのために持ちたる太刀ぞ。これ、ござんなれ。」と思し召し、太刀抜きかけて、膝の下にしき、直垂の袖を顔にかけて、そら寝入りしてぞ待ち給ふ。「立て給へ。」と申しつる障子をば、ことに広くあけ、「消したまへ。」と申しつる火をば、いとゞ高くかき立て、夜のふくるに従ひて、「今や、今や。」と待ちたまふ。子の刻ばかりに成りぬれば、主の男、出で来り、槙の板戸を押し開き、内へ入るを見給へば、年のころ二十四、五ばかりなる男の、葦の落葉つけたる浅葱の直垂に、萌黄縅の腹巻に、太刀佩いて、大の手鉾を杖につき、われに劣らぬ若党四、五人、猪の目ほりたる鉞、刃の薙鎌、長刀、ちぎりき、さいぼう{*11}、手々に持ちて、たゞいま事に逢ひたるけしきにて、四天王のごとくにして出で来る。「女の身にて怖れつるも道理かな。きやつは、けなげ者{*12}かな。」とぞ御覧じける。
 かの男、「二間{*13}に人あり。」と見て、沓脱ぎに上り、あがりける。大の眼を見開きて、太刀取り直し、「これへ。」とぞ仰せられける。男は、けしからず思ひて、返事も申さず。障子引き立てて、足ばやに内に入る。「いか様に女に逢うて、にくげなる事いはれんずらん。」と思し召して、壁に耳をあてて聞き給へば、「や、御前、御前。」と押し驚かせば、暫しは音もせず。遙かにして寝覚めたる風情して、「いかに。」といふ。「二間にねたる人、誰。」といふ。「我知らぬ人なり。」とぞ申しける。「されども、知られず知らぬ人をば、男のなき跡に、誰がはからひに置きたるぞ。」と、世に憎気に申しければ、「あは、事こそ出で来たるぞ。」と聞こし召しけるほどに、女、申しけるは、「知らぬ人なれども、『日は暮れぬ。行き方は遠し。』とうちわび給ひつれども、人のおはしまさぬ跡に留めまゐらせては、御言葉の末も知り難く侍れば、『叶はじ。』と申しつれども、『色をも香をも知る人ぞしる。』と仰せられつる御言葉に恥ぢて、今夜の宿をまゐらせつるなり。いかなる事ありとも、今宵ばかりは何か苦しかるべき。」と申しければ、男、「さてもさても和御前をば{*14}、志賀の都のふくろ心は東の奥のものにこそ思ひつるに、『色をも香をもしる人ぞ知る。』と仰せられけることばの末をわきまへて、宿を貸しぬるこそやさしけれ。何事有りとも苦しかるまじきぞ。今宵一夜はあかさせ参らせよ。」とぞ申しける。御曹司、「あはれ、しかるべき仏神の御恵みかな。憎げなることをだにもいはば、ゆゝしき大事は出で来ん。」と思し召しける。
 主、いひけるは、「いかさまにもこの殿は、たゞ人にてはなし。近くは三日、遠くは七日のうちに、事に逢うたる人{*15}にてぞあるらん。我も人も、世になし者の珍事中夭{*16}に逢ふ事、つねの習ひなり。御酒を申さばや。」とて、様々の菓子どもを調へて、はしたものに瓶子いだかせて、女を先に立てて二間にまゐり、御酒すゝめ奉る。されども敢へてきこし召したまはず。主、申しけるは、「御酒きこし召し候へ。いかさま、御用心とおぼえ候。姿こそあやしの男にて候とも、某、かくて候上は、御宿直仕り候ふべし。人はなきか。」と呼びければ、四天の如くなる男、五、六人出で来る。「御客人をまうけ奉るぞ。御用心とおぼえ候。今宵は寝られ候な。御宿直仕れ。」といひければ、「承り候。」とて、蟇目のおと、弓の弦おし張りなんどして御宿直仕り、我が身も出居{*17}の蔀あげて、灯台二所に立てて、腹巻取つて側におき、弓おし張り、矢束解いて押しくつろげて、太刀取つて膝の下に置き、あたりに犬の吠え、風の木末をならすをも、「誰、あれ斬れ。」とぞ申しける。その夜は寝もせで明かしける。御曹司、「あはれ、きやつは健気ものかな。」と思し召しけり。明くれば、「御立ちあらん。」としたまふを、様々に申しとゞめ奉り、かりそめのやうになりつれども、こゝに二、三日とゞまりたまひけり。
 あるじの男、申しけるは、「そもそも都にては、いかなる人にて渡らせ給ひ候ぞ。我等も、知る人の候はねば、自然の時{*18}は尋ねまゐらすべし。今一両日も御逗留候へかし。」と申す。「東山道へかゝらせ給ひ候はば碓氷の峠、東海道にかゝらば足柄まで、送りまゐらすべし。」と申しければ、「都になからん者ゆゑに、尋ねられんといはんも詮なし。この者を見るに、二心なんどはよもあらじ。知らせばや。」と思し召し、「これは、奥州の方へ下るものなり。平治の乱に亡びし下野の左馬頭{*19}がすゑの子に牛若とて、鞍馬に学問して候ひしが、いま男になりて、左馬九郎義経と申す者なり。奥州へ秀衡を頼みて下り候。今、自然として{*20}知る人になりたることのうれしさ。」と仰せければ、主の男、「こはいかに。」といふまゝに、御前へまゐりて、御袂にしかと取りつき、何ともものをばいはずして、はらはらとぞ泣き居たり。
 「あら、無慙や。こなたより問ひ奉らずば、いかでか知り奉るべきぞ。」と申しける。「我等がためには重代の君にて御わたり候ものを。かくまうせば、いかなる者ぞと思し召すらん。親にて候ひしものは、伊勢国二見の者にて候。伊勢のかんらひ{*21}義連と申して、大神宮の神主にて候ひけるが、一年、都にて清水に詣で給ひしに、下向の折節、九條の上人と申すに乗り合ひ{*22}し、これを罪科にて、上野国成島と申す処に流され参らせて、年月を送りしに、故郷を忘れんそのために、妻子をまうけて候ひしが、やがて懐妊仕り、七月になり候に、かんらひ終に御赦免もなく、この処にてむなしくなる。その後、母にて候者の胎内に宿りながら父に別れて、果報拙き者なりとて棄て置き候を、母方の伯父にて候者、不便のことと思ひて育てられ、成人し、十三と申すに、『元服せよ。』と申し候ひしに、『我が父といふもの、いかなる人にてありけるや。』と母に問ひしとき、母は涙に咽び、とかくの返事も申さず。
 「暫くありて、『汝が父は、伊勢国二見の浦の人とかや。名は、伊勢のかんらひ義連といひしなり。左馬頭殿の、ことに不便に思し召されしに、思ひの外の事ありて、この国に有りし時、おのれを懐妊して、七月と申すに、遂にむなしく成りしなり。』と申ししかば、父は伊勢のかんらひといひければ、我をば伊勢三郎と申し、父が義連と名のれば、我は義盛と名のり候。この年ごろ、平家の世になり、『源氏はみな滅びはてて、たまたま残りとゞまり給ひしも、おし篭められ、散り散りにならせ給ふ。』と承りしほど、たよりも知らず候へば、尋ねまゐらする事もなし。心に物を思ひしに、唯今君を拝み参らせ候こと、三世の契りと申しながら、ひとへに八幡大菩薩の御引き合はせとこそ存じ候へ。」とて、来し方行く末の物語どもを、たがひに申し給ひつゝ、たゞかりそめのやうにありしかども、その時御目に懸かり参らせて、また心なく{*23}して御供申し、奥州へくだり、治承四年、源平の乱れ出で来しかば、御身に添ふ影の如くにて、鎌倉殿の御中不快にならせたまひし時までも{*24}、奥州に御供して、名を後代にあげたりし伊勢三郎義盛とは、その時の宿の主なり。
 義盛、内に入りて、女房に向つて、「いかなる人ぞとおもひしに、我がためには相伝の御主にて渡らせたまひけるぞや。されば、これより御供して、奥州へくだるべし。和御前は、これにて明年の春のころまで待ち給へ。もしその頃も過ぎ行かば、はじめて人にも見えたまへ{*25}。たとひ人に見えたまふとも、義盛がこと忘れ給ふな。」と申しければ、女房、泣くより外のことぞなき。「たゞかりそめの旅だにも、主の跡は物憂きに、飽かで別るゝ面影を、いつの世にかは忘るべき。」と、歎けど甲斐ぞなかりける。剛の者の癖なれば、一筋に思ひ切りて、やがて御供してぞ下りける。
 下野の室の八島をよそに見て、宇都宮の大明神を伏し拝み、行方の原にさしかゝり、実方の中将の、「あたりの野辺の白ま弓、おしはりすびきし肩にかけ、なれぬほどはいづれをそれん、馴れての後は、そるぞ悔しき。」とながめけん、あたりの野辺を見て過ぎ、浅香の沼のあやめ草、影さへ見ゆる浅香山、まづまづ馴れにし信夫の里のすり衣、など申しける、名所名所を見たまひて、伊達郡あつかしの中山越えたまひて、まだ曙の事なるに、道行き通るを聞きたまひて、「今追ひついて、物問はん。この山は、当国の名山にてあるなるに。」とて、追つついて見たまへば、御先に立ちたる吉次にてぞ有りける。商人の習ひにて、こゝかしこにて日を送りける程に、九日先に立ち参らせたるが、今追ひつき給ひける。
 吉次、御曹司を見付け参らせて、世に嬉しくぞ思ひける。御曹司も、御覧じて嬉しくぞ思し召す。「陵が事は、いかに」と申しければ、「頼まれず候間、家に火をかけて、散々に焼き払ひ、これまで来たるなり。」と仰せられければ、吉次、今の心地して{*26}、恐ろしくぞおもひける。「御供の人は、いかなる人ぞ。」と申せば、「上野の足柄の者ぞ。」と仰せられける。「今は、御供もいるまじ。君、御著き候ひて後、尋ねて下り給へ。跡に妻子の歎き給ふべきも、いたはしくこそ候へ。自然の事{*27}候はん時こそ御供候はめ。」とて、やうやうに止めければ、伊勢三郎をば上野へぞかへされける。それよりして、治承四年を待たれけるこそ久しけれ。
 かくて、夜を日についで下りたまふ程に、武隈の松、阿武隈川と申す名所名所を過ぎて、宮城野の原、躑躅の岡をながめて、千賀の塩竃へ詣で給ふ。あたりの松、籬の島を見て、顕仏上人の旧跡、松島を拝ませ給ひて、紫の大明神の御前にぞ参り給ひ、御祈誓申させ給ひて、姉葉の松をうちながめ、栗原にも著き給ふ。吉次は、栗原の別当の坊に入れ奉りて、我が身は平泉へぞ下りける。

六 義経秀衡に御対面の事

 吉次は、急ぎ秀衡にこの由申しければ、折節、風の心地し伏したりけるが、嫡子元吉の冠者泰衡、二男泉冠者基衡を呼びて申しけるは、「さればこそ、過ぎし頃、黄なる鳩来りて、秀衡が家の内に飛び入ると夢に見えたりしかば、『いかさま、源氏のおとづれうけたまはらん瑞相やらん。』と思ひつるに、頭殿の公達の御下りあるこそうれしけれ。かき起こせ。」とて、人の肩を押さへて、烏帽子取つて引つこみ{*28}、直垂取つてうちかけ申しけるは、「この殿は、幼くおはするとも、狂言綺語の戯れも、仁義礼智信も、正しくぞおはすらん。この程のいたはり{*29}に、さこそ家の内も見苦しかるらん。庭の草取らせよ。泰衡、基衡、はやはや出でて、御迎ひに参れ。事々しからぬ様にてまゐれ。」と申されければ、畏まつて承り、その勢三百五十余騎、栗原寺へぞ馳せ参る。御曹司の御目にかゝる。栗原の大衆五十人、送り参らする。
 秀衡が申しけるは、「これまで遥々御入り候事、返す返す畏まり入り存じ候。両国を手に握りて候へども、思ふやうにも振舞はれず候。今は何の憚りか候べき。」とて、泰衡を呼びて申しけるは、「両国の大名{*30}、三百六十人をすぐりて、日々の埦飯{*31}を参らせて、君を守護し奉れ。御ひきでものには、十八万騎持ちて候郎等を、十万をば二人の子どもに賜ひ候へ。今八万をば君に奉る。君の御事は、さて置きぬ。吉次が御供申さでは、いかでか御下り候べき。秀衡を秀衡と思はん者は、吉次に引出物せよ。」と申しければ、嫡子泰衡、白皮百枚、鷲の羽百しり、良き馬三十疋、白鞍置きてぞ引きにける。二男基衡も、これに劣らず引出物しけり。その外、家の子郎等、「我劣らじ。」と引きにける。秀衡、これを見て、「獅子の皮も鷲の尾も、今はよも不足あらじ。御辺の好む物なれば。」とて、貝摺りたる唐櫃の蓋に、砂金一蓋入れてぞ取らせける。吉次、「この君の御供し、道々の難を遁れたるのみならず、徳つきて{*32}、かかる事にも逢ひけるものよ。ひとへに多聞{*33}の御利生。」とぞ思ひける。かくて、「商ひせずとも、よきもとでを儲けたり。不足あらじ。」と思ひ、京へ急ぎ上りけり{*34}。
 かくて、今年も暮れければ、御年十七にぞ成り給ふ。さても年月を送り給へども、秀衡も、申す旨もなし。御曹司も、「いかゞあるべき。」とも仰せ出だされず。「中々都にだにもあるならば、学問をも遂げ、見たきことをも見るべきに。かくても叶ふまじ。都へ上らばや。」とぞ思ひける。「泰衡にいふとも叶ふまじ。知らせずして上らばや。」と思し召し、「かりそめの歩きのやうにて、京へ上らせ給ふ。」とて、伊勢三郎がもとにおはして、暫くやすらひて、東山道にかゝり、木曽の冠者{*35}のもとにおはして、謀叛の次第を仰せ合はされて、都に上り、片ほとりの山科に知る人ありける処に渡らせ給ひて、京の機嫌{*36}をぞ窺ひ給ひける。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「雨下。棟の前後両方に葺きおろしにした家作り。」とある。
 2:底本頭注に、「上野国。」とある。
 3:底本頭注に、「外の方へ。」とある。
 4:底本頭注に、「主人がお帰りになつて泊められぬといふ様な遺憾な事があつたらば其の時こそ。」とある。
 5:底本は、「遠侍(とほさぶらひ)」。底本頭注に、「中門の廊などに設けられた警固の武士の詰所。」とある。
 6:底本頭注に、「遠侍ではしかたがあるまい。」とある。
 7:底本は、「一間所(ひとまどころ)へ請(しやう)じ奉り、様々の」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 8:底本頭注に、「召しあがらず。」とある。
 9:底本頭注に、「見苦しき者。馬鹿者。」とある。
 10:底本は、「八声(やこゑ)の鳥」。底本頭注に、「暁方に鳴く鶏。」とある。
 11:底本頭注に、「〇ちぎりき 乳切木。棒の如き杖。」「〇さいぼう 撮棒。木又は鉄の棒。」とある。
 12:底本頭注に、「健気な者、殊勝な勇ましい男。」とある。
 13:底本頭注に、「柱間の二つある座敷。」とある。
 14:底本は、「和御前(わごぜ)をば」。底本頭注に、「〇和御前を云々 そなた。御身。御身を東国の辺鄙なはての者と思つた。」とある。
 15:底本頭注に、「事変に逢つた人。陵介の館に火を放つた事が義経の顔色にでも顕はれたのであらう。」とある。
 16:底本は、「ちうじちうやう」。底本頭注に、「珍事中夭。非常の災難。一大事変。」とあるのに従い改めた。
 17:底本は、「出居(でゐ)」。底本頭注に、「客に応接する室。」とある。
 18:底本頭注に、「万一の時。」とある。
 19:底本頭注に、「下野守左馬頭源義朝。」とある。
 20:底本頭注に、「偶然の事で。」とある。
 21:底本頭注に、「かんなぎ。覡、神を斎き祀り神楽を奏しなどする者。」とある。
 22:底本頭注に、「乗物に乗つて出逢ふこと。貴人に対して下車しなかつたので。」とある。
 23:底本頭注に、「二心なく。」とある。
 24:底本頭注に、「義経兄頼朝と不和になつたこと。」とある。
 25:底本頭注に、「他の人に再婚せよ。」とある。
 26:底本頭注に、「陵の介の館に放火したのを今現在の事の様な気がして恐れた。」とある。
 27:底本頭注に、「万一の事。」とある。
 28:底本頭注に、「烏帽子引かぶり。」とある。
 29:底本頭注に、「病気。」とある。
 30:底本頭注に、「領地の大きな地頭などをいふ。」とある。
 31:底本は、「埦飯(わうばん)」。底本頭注に、「飯盛の飯の義で、飯盛振舞の略。盛んなる饗応。」とある。
 32:底本頭注に、「利益を得て。」とある。
 33:底本頭注に、「鞍馬の本尊多聞天。」とある。
 34:底本は、「商(あきな)ひを仕り候とも、よき資本(もとで)を儲(まう)けたり。不足(ふそく)あらじと思ひ、京へ急(いそ)ぎ上りたまひけり。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改め、削除した。
 35:底本頭注に、「為義の孫義仲をいふ。冠者は元服して冠を著けた若者。」とある。
 36:底本頭注に、「時機。様子。」とある。

七 鬼一法眼の事

 こゝに、代々の御門の御宝、天下に秘蔵せられたる十六巻の書あり。異朝にも我が朝にも、伝へし人、一人として愚かなる事なし。異朝には太公望、これを読みて八尺の壁に上り、天に上る徳を得たり。張良は、一巻の書と名付けてこれを読みて、三尺の竹に上りて虚空をかける。樊噲は、これを伝へて、甲冑をよろひ弓箭を取つて、敵に向ひて怒れば、頭の兜の鉢をとほす。本朝の武士には坂上田村麿、これを読み伝へて、あくしのたかまろを取り、藤原利仁、これを読みて、あかがしらの四郎将軍を取る{*1}。それより後は、絶えて久しかりけるを、下野国の住人相馬小次郎将門、これを読みつたへて、我が身のせいたんむしやなる{*2}によつて、朝敵となる。されども、天命を背く者の、やゝもすれば世を保つ者、すくなし。当国の住人田原藤太秀郷は、勅宣をさきとして、将門を追討のために東国に下る。相馬小次郎、防ぎ戦ふといへども、四年に味方滅びにけり。最後の時、威力を修してこそ、一張の弓に八つの矢はげて、一度にこれを放つに、八人の敵をば射たりけれ。それより後は、又絶えて久しく読む人もなし。唯いたづらに代々の御門の御宝蔵に篭め置かれたりけるを、その頃一條堀河に、陰陽師の法師に鬼一法眼とて、文武二道の達者あり。天下の御祈祷してありけるが、これを賜はりて、秘蔵してぞ持ちたりける。
 御曹司、これを聞き給ひて、やがて山科を出でて、法眼のもとにたゝずみて見たまへば、京中なれども、居たる処もしたゝかにこしらへ、四方に堀をほりて水をたゝへ、八つの櫓をあげたりけり。夕には申の刻、酉の時になれば、橋をはづし、朝には、巳午の刻まで門を開かず。人のいふ事、耳のよそになして居たる大華飾{*3}の者なり。
 御曹司、さし入りて見給へば、侍の縁のきはに、十七、八ばかりなる童一人、たゝずみてあり。扇差し上げて招き給へば、「何事ぞ。」と申しける。「おのれは、内の者か。」と仰せられければ、「さん候{*4}。」と申す。「法眼は、これに候か。」と仰せられければ、「これに。」と申す。「さらば、おのれに頼むべき事あり。法眼にいはんずる様は、『門に見も知らぬ冠者、物申さんといふ。』と、きつといひて帰れ。」と仰せられける。童、申しけるは、「法眼は、華飾{*5}世に越えたる人にて、しかるべき人達の御入りの時だにも、子どもを代官に出だし、我は出で合ひ参らせぬくせ人にて候。まして、おのおのの様なる人の御出を賞翫候て対面ある事、候まじ。」と申しければ、御曹司、「きやつは、不思議のもののいひ事かな。主もいはぬさきに、人の返事をすべからん事は、いかに。入りて、この様を言ひて帰れ。」とぞ仰せられける。
 「申すとも、御用ゐあるべしともおぼえず候へども、申して見候はん。」とて、内に入り、主の前にひざまづき、「かかることこそ候はね。門に、年の頃十七、八かとおぼえ候小冠者一人、たゝずみ候が、『法眼は、おはするか。』と問ひ奉り候ほどに、『御渡り候。』と申して候へば、御対面あるべきやらん。」と申しける。「法眼を洛中にて、見さげて左様にいふべき人こそおぼえね。人の使か、おのれが言葉か、よく聞きかへせ。」と申しける。童、申しけるは、「この人の気色を見候に、主など持つべき人にてはなし。また、郎等かと見候へば、折節に直垂を召して候。児達かとおぼえ候。かね黒に眉取りて候が{*6}、良き腹巻に、金作りの太刀を佩かれて候。あはれ、この人は、源氏の大将軍にておはしますござんなれ{*7}。この程、世を乱さんとうけたまはり候が、法眼は、世に越えたる人にて御渡り候へば、一方の大将軍とも頼み奉らんずるために、御入り候やらん。御対面候はん時も、『世になし者{*8}。』など仰せられ候ひて、持ちたまへる太刀のむね{*9}にて、一打ちもあてられさせ給ふな。」と申しける。
 法眼、これを聞きて、「けなげ者ならば、行きて対面せん。」とて出でたち、生絹の直垂に、緋縅の腹巻著て、草履をはき、頭巾、耳の際までひつかうで{*10}、大手鉾を杖につきて、縁とうとうと踏みならし、暫くまもりて、「そもそも法眼に物いはんといふなる人は、侍か、凡下{*11}か。」とぞいひける。
 御曹司、門の脇よりするりと出でて、「某申すにて候ぞ。」とて、縁の上に上り給ひける。法眼、これを見て、縁より下におり立つて畏まらんとするに、思ひの外に、法眼にむずと膝をきしりてぞ居たりける。「御辺は、法眼に物いはんと仰せられける人か。」と申しければ、「さん候。」「何事仰せ候べき。弓の一張、矢の一筋などの御所望か。」と申しければ、「やあ、御坊。それほどのこと企てて、これまで来らんや。まことか、御坊は、異朝の書を将門が伝へし六韜兵法といふ文、殿上{*12}より賜はりて、秘蔵して持ちたまふとな。その文、私ならぬものぞ{*13}。御坊もちたればとて、読み知らずば、をしへ伝ふべき事もあるまじ。理を枉げて、某にその文見せ給へ。一日の中に読みて、御辺にも知らせをしへて返さんぞ。」と仰せありければ、法眼、歯噛みをして申しけるは、「洛中にこれ程の狼籍者を、誰がはからひとして門より内へ入れけるぞ。」と言ふ。
 御曹司、思し召しけるは、「憎い奴かな。のぞみをかくる六韜こそ見せざらめ。あまつさへ、あら言葉をいふこそ不思議なれ。いつの用に帯したる太刀ぞ。しやつ{*14}、斬つてくればや。」と思し召しけるが、「よしよし。しかじか一字をも読まずとも、法眼は師なり、義経は弟子なり。それを背きたらば、堅牢地神の恐れもこそあれ。法眼をたすけてこそ六韜兵法のありどころを知らんずれ。」と思し召しなほし、法眼をたすけてこそ居られけるは、「継ぎたる首{*15}かな。」と見えし。そのまゝ人知れず、法眼がもとにて明かし暮らし給ひける。出でてより飯をしたゝめ給はねども、痩せ衰へもしたまはず。日にしたがひて、美しき衣がへなんど召されけり。「いづくへおはしましけるやらん。」とぞ、人々、怪しみをなす。夜は、四條の聖{*16}のもとにぞおはしましける。
 かくて、法眼が内に幸寿の前とて女あり。次の者{*17}ながら、情ある者にて、常はとぶらひ奉りけり。自然、知り人なるまゝ、御曹司、物語のついでに、「そもそも法眼は、何といふぞ。」と仰せられければ、「何とも仰せ候はぬ。」と申す。「さりながらも。」と問はせ給へば、「過ぎし頃は、『あらば、ありと見よ。なくば、なきと見て、人々、ものないひそ{*18}。』とこそ仰せ候ひし。」と申しければ、「義経に心ゆるしもせざりけるござんなれ。まことは、法眼に子は幾人有る。」と問ひたまへば、「男子二人、女子三人。」「男二人{*19}、家にあるか。」「はやと申す処に、いんぢの大将{*20}して御入り候。」「又、三人の女子は、いづくに有るぞ。」「処々に幸ひて、皆上臈婿を取りて渡らせ給ひ候。」と申せば、「婿は誰。」「嫡女は、平宰相信業の卿の方、一人は、鳥飼の中将にさいはひ給へる。」と申せば、「何條、法眼が身として上臈婿取ること、過分なり。法眼、世に越えて、しれごと{*21}をするなれば、人々に面打たれん時、方人{*22}して家の恥をも清めんとは、よも思はじ。それよりも、われわれかやうにある程に、婿に取りたらば、舅の恥をすゝがんものを。主にさいへ。」と仰せられければ、幸寿、この事を承りて、「女にて候とも、左様に申して候はんずるには、首を斬られ候はんずるにて候。」と申しければ、「かやうに知る人に成るも、この世ならぬ契りにてこそあらめ。隠して詮なし。人々に知らすなよ。われは、左馬頭の子、源九郎といふ者なり。六韜兵法といふものに望みをなすによりて、法眼も心よからねども、かやうにてあるなり。その文のありどころ知らせよ。」とぞ仰せける。「いかでか知り候べき。それは、法眼のなゝめならず重宝とこそ承りて候へ。」と申せば、「さては、いかゞせん。」とぞ仰せける。「さ候はば、文を遊ばして賜はり候へ。法眼のなのめならず寵愛の姫君の方へ、人にも見えさせ給はぬを、すかして{*23}御返事を取りて参らせ候はん。」と申す。「女性の習ひなれば、近づかせ給ひて候はば、などかこの文、御覧ぜで候べき。」と申せば、「次の者ながらも、かやうに情ある者もありけるかや。」と、文遊ばして賜はる。
 我が主の方に行き、やうやうにすかして、御返事取りて参らする。御曹司、それよりして、法眼の方へはさし出で給はず。たゞおほかたに引き篭りてぞおはしける。法眼が申しけるは、「かかる心地よき事こそなけれ。『目にも見えず、音にも聞こえざらん方に行き失せよかし。』と思ひつるに、失ひたるこそうれしけれ。」とぞ宣ひける。御曹司、「人にしのぶ{*24}程、げに心苦しきものはなし。いつまでかくて有るべきならねば、法眼に、かくと知らせばや。」とぞ宣ひける。姫君、御袂にすがり、悲しみ給へども、「我は、六韜に望みあり。さらば、それを見せ給ひ候はんにや。」と宣ひければ、「明日聞きて{*25}、父に失はれんこと、力なし。」と思ひけれども、幸寿を具して、父の秘蔵しける宝蔵に入りて、重々の巻物の中に、鉄巻きしたる唐櫃に入りたる六韜兵法一巻の書を取り出だして奉る。御曹司、悦び給ひて、ひき広げて御覧じて、昼はひねもすに書き給ふ。夜は夜もすがらこれを復し給ひ、七月上旬の頃よりこれをよみはじめて、十一月十日頃になりければ、十六巻を一字も残さず覚えさせ給ふ。
 読み給ひての後は、「こゝにあり、かしこにあり。」とぞ振舞はれける程に、法眼も、はや心得て、「さもあれ。その男は、何故に姫が方にはあるぞ。」と怒りける。ある人の申しけるは、「御方におはします人は、左馬頭の公達と承り候。」よし申せば、法眼、聞きて、「世になし源氏{*26}入れ立てて、すべて六波羅{*27}へ聞こえなば、なじかはよかるべき。今生は子なれども、後の世の敵にてありけりや。斬りて棄てばや。」と思へども、「子を害せんこと、五逆の罪のがれがたし。異姓他人なれば、これを切つて、平家の御見参に入りて、勲功にあづからばや。」と思ひて、うかゞひけれども、我が身は行にて{*28}叶はず。「あはれ、心も剛ならん者もがな。斬らせばや。」と思ふ。
 その頃、北白川に世に越えたる者あり。法眼には妹婿なり。しかも弟子なり。その名を湛海坊とぞ申しける。かれがもとに使者を遣はし、申しければ、程なく湛海きたり。余間{*29}なる処に入れて、様々にもてなし、申しけるは、「御辺を喚び奉ること、別の仔細になし。去春の頃より法眼がもとに、さる体なる冠者一人、下野の左馬頭の公達など申す。助け置きては悪しかるべし。御辺より外に頼むべき人もなし。夕さり、五條の天神へ参り、この人をすかし出だすならば、首を斬つて見せ給へ。さもあらば、五、六年望み給ひし六韜兵法をも、御辺に奉らん。」といひければ、「さ承りぬ。善悪{*30}まかり向ひてこそ見候はめ。そもそもいかやうなる人にておはしまし候ぞ。」と申しければ、「未だ年も若く、十七、八かとおぼえ候。よき腹巻に、金作りの太刀の心も及ばぬを持ちたるぞ。心許し給ふな。」と申しければ、湛海、これを聞きて申しけるは、「何條{*31}、それ程の小男の、分に過ぎたる太刀佩いて候とも、何事か有るべき。一刀には、よも足り候はじ。ことごとし。」とつぶやきて、法眼がもとを出でにけり。
 法眼、「すかしおふせたり。」と、世に嬉しげにて、日ごろは、「音にも聞かじ。」としける御曹司の方へ申しけるは、「見参に入り候べき。」由を申しければ、「出でて、何にかせん。」と思し召しけれども、「呼ぶに出でずば、臆したるにこそ。」と思し召し、「やがて参り候べき。」とて使をかへしたまひける。この由を申しければ、世に心ちよげにて、日頃の見参所へ入れ奉り、尊げに見えんがために、素絹の衣に袈裟かけて、机に法華経一部おきて、一の巻の紐をとき、「妙法蓮華経。」と読みあぐる処へ、憚る処なく、つゝと入り給へば、法眼、片膝を立て、「これへ、これへ。」と申しける。すなはち、法眼と対座に直らせ給ふ。
 法眼、申しけるは、「去んぬる春の頃より御入り候とは知りまゐらせて候へども、いかなる跡なし人{*32}にて渡らせたまふやらんと思ひまゐらせて候へば、忝くも左馬頭殿の公達にてわたらせ給ふこそ、忝き御事にて候へ。この僧ほどの浅ましき次の者などを、親子の御契りの由、承り候。まことしからず候へども、誠に京にも御入り候はば、万事たのみ奉り存じ候。さても、北白川に湛海と申す奴、御入り候が、何故ともなく法眼がために仇をなし候。あはれ、失はせ候てたまはり候へ。今宵、五條天神にまゐり候なれば、君も御参篭候て、きやつを切つて、頭を取りてたまはり候はば、今生の面目、申し尽くしがたく候。」とぞ申しける。「あはれ、人の心も計りがたく。」思し召しけれども、「さ承り候{*33}。身において叶ひがたくは候へども、罷り向ひてこそ見候はめ。何程のことの候べき。しやつも印地をこそ仕習うて候らめ。義経は、さきに天神に参り、下向しざまに、しやつが首切りて参らせ候はんこと、風の塵払ふが如くにてこそ候らめ。」と、言葉を放つて仰せありければ、法眼、「何と和君が支度するとも、先に人をやりて待たすれば。」と、世にをこがましくぞ思ひける{*34}。
 「さ候はば、やがて帰りまゐらん。」とて出でたまひ、「そのまゝ天神に。」と思し召しけれども、法眼が娘に御心ざし深かりければ、御方へ入らせ給ひて、「たゞいま天神にこそ参り候へ。」とのたまへば、「それは、何故ぞや。」と申しければ、「法眼の、『湛海斬れ。』とのたまひて候によつてなり。」と仰せければ、聞きもあへず、さめざめと泣きて、「悲しきかなや。父の心を知りたれば、人の最期も今を限りなり。これを知らせんとすれば、父に不孝の子なり。知らせじと思へば{*35}、契り置きつる言の葉、みな偽りとなり果てて、夫妻の恨み、後の世まで残るべき{*36}。つくづくと思ひつゞくるに、親子は一世、夫は二世の契りなり。とても人に別れて、片時も世に長らへてあらばこそ、憂きも辛きも忍ばれめ。親の命を思ひすてて、かくと知らせ奉る。唯これより、いづ方へも落ちさせ給へ。昨日昼程に、湛海を召しよせて、酒を勧められしに、あやしき言葉の候ひつるぞ。『堅固の若者{*37}ぞ。』と仰せける。湛海、『一刀には、たらじ。』といひしは、御身の上。かく申すは、女の心のうち、かへりてきやうしやくせさせ給ふべきなれども、『賢臣、二君につかず。貞女、両夫にまみえず。』と申すことの候へば、知らせ奉るなり。」とて、袖を顔におしあてて、忍びもあへず泣き居たり。
 御曹司、これを聞こし召し、「もとよりうちとけ、思はず知らず候こそ迷ひもすれ。知りたりせば、しやつめには斬られまじ。とくより参り候はん。」とて出でたまふ。頃は十二月二十七日、夜ふけがたの事なれば、御装束は白小袖一重ね、藍摺ひきかさね、精好の大口に、唐織物の直垂にきごめして、太刀わきばさみ、暇申して出で給へば、姫君は、「これや限りの別れなるらん。」と悲しみ給へり。妻戸の脇に衣かづきて{*38}臥し給へり。
 御曹司は、天神にひざまづき、祈念申させ給ひけるは、「南無天満大自在天神。利生霊地すなはち機縁の福を蒙り、礼拝のともがらは、千万の諸願成就す。こゝに社壇ましますとなつて、天神と号し奉る。願はくは、湛海を義経に相違なく手にかけさせて給べ。」と祈念し、御前を立ちて、南へ向いて四、五段ばかり歩ませ給へば、大木一本あり。この木の下のほの暗きところ、五、六人がほど隠るべきところを御覧じて、「あはれ、所や{*39}。こゝに待ちて、切つてくればや。」と思し召し、太刀を抜き、待ちたまふ処に、湛海こそ出できたれ。究強の者五、六人に腹巻きせて、前後に歩ませて、我が身は聞こゆるいんぢの大将なり。人には一様かはりて出で立ちけり。褐の直垂に、節縄目の腹巻きて、赤銅作りの太刀をはき、一尺三寸有りける刀に、ごめんやうなめし{*40}にて表鞘を包みて、むずとさし、大長刀の鞘を外し、杖につき、法師なれども常に頭を剃らざれば、をつゝがみ頭に生ひたるに、しゆつちやう頭巾{*41}ひつかごみ、鬼の如くに見えける。さし屈み{*42}て御覧ずれば、首のまはりに、かゝる物もなく、よに斬りよげなり。
 「いかに切り損ずべき。」と待ちたまふも知らずして、御曹司の立ちたまへる方へ向ひて、「大慈大悲の天神。願はくは、聞こゆる男を湛海が手にかけてたべ。」とぞ祈請しける。御曹司、これを御覧じて、「いかなる剛の者も、唯今死なんずることは知らずや。ぢきに斬らばや。」と思し召しけるが、「暫く我が頼む天神を大慈大悲と祈念するに、義経は悦びの道なり。きやつは参りの道ぞかし{*43}。未だ所作もはてざらんに切つて、社壇に血をあえさん{*44}も、神慮の恐れあり。下向の道を。」と思し召し、現在のかたきをとほし、下向をぞ待ちたまふ。
 津国の二葉の松の、根ざしそめて千代を待つよりも、猶ほ久し。湛海、天神にまゐりて見れども、人もなし。聖{*45}にあうて、あからさまなるやうにて、「さる体の冠者などや、参りて候ひつる。」と問ひければ、「左様の人は、とく参り、下向せられぬる。」と申しける。湛海は、やすからず。「とくより参りなば、逃すまじきを。さだめて法眼が家に有るらん。行きてせめ出だして、切つてすてん。」とぞ申しける。「尤もしかるべし。」とて、七人つれて天神を出づ。「あはや。」と思し召し、さきの所に待ち給ふ。その間、二段ばかりちかづきたるが、湛海の弟子、禅師と申す法師、申しけるは、「左馬頭殿の公達、鞍馬にありし牛若殿、男になりて、源九郎と申し候は、法眼の娘に近付きけるなれば、女の男にあひぬれば、正体なきものなり。もしこの事をほの聞き、男にかくと知らせなば、かやうの木の陰にも待つらん。あたりに目な離したまふな。」と申しける。湛海、「音なしそ。」とぞ申しける。「いざ、この者、よびて見ん。剛の者ならば、よもかくれじ。臆病者ならば、我等が気色に恐れて、出づまじきものを。」とぞいひける。「あはれ、たゞ出でたらんよりも、『有るか。』といふ声について、出でばや。」と思はれけるに、憎げなる声色して、「河のほとりより、世になし源氏、参るや。」といひも果てざるに、太刀うちふり、わつと喚いて出でたまふ。
 「湛海と見るは、ひが目{*46}か。かくいふこそ義経よ。」とて、追つかけ給ふ。今までは、「とこそせめ、かくこそせめ。」と言ひけれども、その期になりぬれば、三方へさつと散る。湛海も、ついて二段ばかりぞ逃げにける。「生きても死しても、弓矢取る者の臆病程の恥やある。」とて、長刀を取りなほし、返し合はす。御曹司は、小太刀にて走り合ひ、散々に打ち合ひ給ふ。もとよりの事なれば、切り立てられ、「今は叶はじ。」とや思ひけん、長刀取りなほし、散散に打ちあひけるが、少しひるむ処を、長刀の柄を打ち給ふ。長刀からりと投げかけたる時に、小太刀を打ち振り、走りかゝりて、ちやうど切り給へば、「切先、頚の上にかゝる。」とぞ見えしが{*47}、首は前へぞ落ちにける。年三十八にてぞ亡せにける。酒を好みし猩々は、樽のほとりにつながれ、悪を好みし湛海は、由なき者に与して亡せにけり。五人の者ども、これを見て、「さしもいしかりつる{*48}湛海だにも、かくなりたり。ましてわれわれ、叶ふまじき。」とおもひて、皆ちりぢりにぞなりにける。
 御曹司、これを御覧じて、「憎し。一人もあますまじ。湛海とつれて出づる時は、一所とこそいひつらん。きたなし。返し合はせよ。」と仰せありければ、いとゞ足ばやにぞ逃げにける。かしこに追ひつめ、はたと切り、こゝに追ひつめ、はたと切り、枕を並べて二人切り給へり。残りは方々へ逃げにけり。三つの首を取り集めて、天神の御前に杉のある下に、念仏申しおはしたりけるが、「この首をすててや行かん、持ちてや行かん。」と思し召し、「法眼が、『かまへてかまへて首取りて見せよ。』と誂へつるに、持ちて行きてくれて、胆をつぶさせん。」と思し召し、三つの首を太刀の先にさし貫き帰りたまひ、法眼がもとにおはして御覧ずれば、門をさして橋をはづしたれば、「たゞ今たゝきて、『義経。』といはば、よもあけじ。これほどの処は、はね越し入らばや。」と思し召し、口一丈の堀、八尺の築地に飛び上がりたまふ。梢に鳥のつたふ如し。
 内に入り御覧ずれば、非番当番の者ども、伏したり。縁に上がり見たまへば、火ほのぼのとかゝげて、法華経の二巻目半巻ばかり読みて居たりけるが、天井を見あげて、世間の無常をこそ観じけれ{*49}。「六韜兵法を読まんとて、一字をだにも読まずして、今、湛海が手にかゝらんずらん。南無阿弥陀仏。」とひとり言に申しける。「あら、憎の者の面や。太刀のむねにて打たばや。」と思し召しけるが、女がなげかんこと不便{*50}に思し召して、法眼が命をば助けたまひけり。「やがて内へ入らん。」と思し召しけるが、「弓矢を取る身の、立ち聞きなんどしたるかと思はれんずらん。」とて、首をまた引きさげて、門の方へ出でたまふ。門の脇に花の木ありける下に、ほのくらき所あり。こゝに立ち給ひて、内に、「人やある。」と仰せありければ、内よりも、「誰。」と申す。「義経なり。こゝあけよ。」と仰せありければ、これを聞き、「湛海を待つ処におはしたるは、よきこと、よもあらじ。あけて入れまゐらせんか。」といひければ、「門あけん。」とする者もあり。「橋渡さん。」とする者もあり。走り舞ふ処に、いづくよりか越えられけん、築地の上に首三つ引きさげて、出で来り給ふ。おのおの、胆を消し居る処に、人よりさきに{*51}内に入り、「大かた身に叶はぬことにて候ひつれども、『かまへてかまへて首取りて見せよ。』と仰せ候ひつる間、湛海が首取りてまゐりたる。」とて、法眼が膝の上に投げられければ、興さめてこそ思へども、「会釈せでは叶はじ{*52}。」とや思ひけん、さらぬ様にて、「かたじけなし。」とは申せども、よに苦々しくぞ見えける。「悦び入りて候。」とて、内に急ぎにげ入る。
 御曹司、「今宵はこゝに留まらばや。」と思し召しけれども、女に暇こはせ給ひて、「山科へ。」とて出で給ふ。あかぬ名残の惜しければ、涙に袖を濡らし給ふ。法眼が女、跡にひれふし泣き悲しめども、甲斐ぞなき。忘れんとすれども忘られず。まどろめば夢に見え、さむれば面影にそふ。思ひは、いやまさりして、やる方もなし。冬も末になりければ、思ひの数や積もりけん、「物怪{*53}。」などといひしが、祈れどもかなはず、薬にても助からず、十六と申す年、終に歎き死にになりけり。
 法眼は、かねて物をぞ思ひける。「いかならむ世にも有らばや。」と、かしづきける娘には別れ、頼みつる弟子をば斬られぬ。自然の事あらば、一方の大将にもなり給ふべき義経は、中違ひ奉りぬ。彼といひ、これといひ、一方ならぬ歎き、思ひ入りてぞありける。「後悔そこにたえず。」とは、この事なり。唯、人は情あるべき浮世なり。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「〇あくしのたかまろ あかがしらの四郎 共に正史に見えず、俗伝だらう。」とある。
 2:底本頭注に、「性短武者か。」とある。
 3・5:底本は、「くわしよく」。底本頭注に、「過飾。華飾。贅沢。僭越。」とある。底本頭注に従い改めた。
 4:底本頭注に、「さやうで御座います。」とある。
 6:底本頭注に、「〇かね黒 鉄漿で歯をそめたこと。」「〇眉取り 黛をつけて。」とある。
 7:底本頭注に、「〇ござんなれ こそあるなれ。」とある。
 8:底本頭注に、「世に隠れた日陰者。」とある。
 9:底本頭注に、「太刀の背。太刀のみね。」とある。
 10:底本頭注に、「引きかぶりて。」とある。
 11:底本は、「凡下(ぼんげ)」。底本頭注に、「身分のない賤民。」とある。
 12:底本は、「天上」。底本頭注に従い改めた。
 13:底本頭注に、「個人の私すべからぬものであるぞ。」とある。
 14:底本頭注に、「そやつの転。罵つていふ詞。」とある。
 15:底本は、「いられけるは、つぎたる首(くび)かなと見えし。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。底本頭注に、「〇つぎたる首 殺されて首と胴と離れるべきに生きて首をついだの意。」とある。
 16:底本頭注に、「四條の御堂に居た正門坊。」とある。
 17:底本頭注に、「一段低い地位の者。卑しき者。」とある。
 18:底本頭注に、「居たらば居るとして注意し、居なければ居ないとして注意せよ。人々物をいふな。」とある。
 19:底本は、「弟二人。』『家にあるか。』」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 20:底本頭注に、「礫を打投げる児童の戯で印地打ちといふのがある。その大将といふので野武士のあぶれ者をいふ。」とある。
 21:底本頭注に、「愚かな事。」とある。
 22:底本は、「方人(かたうど)」。底本頭注に、「身方。」とある。
 23:底本頭注に、「だまして。」とある。
 24:底本頭注に、「人に隠れる。」とある。
 25:底本頭注に、「明日父に聞かれて。」とある。
 26:底本頭注に、「世に隠れてゐる日陰者の源氏。」とある。
 27:底本頭注に、「清盛の邸。」とある。
 28:底本は、「行(ぎやう)にて」。底本頭注に、「修験者として修めるべき業がある故。」とある。
 29:底本は、「四間(よま)」。底本頭注に、「余間。正殿に接した間。寺院で内陣に接した左右の間をいふ。」とあるのに従い改めた。
 30:底本頭注に、「善し悪しとも。ともかく。」とある。
 31:底本は、「何條(なんでう)」。底本頭注に、「どうして。下の何事かあるべきにかゝる。」とある。
 32:底本頭注に、「筋目なき人。」とある。
 33:底本頭注に、「其の事承知致した。」とある。
 34:底本頭注に、「義経の心を愚かだと思つた。」とある。
 35:底本は、「不孝(ふかう)の子たるべしと思へば、契(ちぎ)り置きつる」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 36:底本は、「まで残るべきと、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い削除した。
 37:底本頭注に、「健やかな強い若者。」とある。
 38:底本は、「衣(きぬ)かつぎてぞ臥(ふ)し」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 39:底本頭注に、「あゝ、よい処であるわい。」とある。
 40:底本頭注に、「御免革。錦革で地色紫以外の色に白く唐草菊紅葉などを染めぬいたもの。紫は禁ぜられた色である。」とある。
 41:底本頭注に、「〇をつゝがみ頭 久しく剃らずにして掴まれる程に乱れ生えた髪。」「〇しゆつちやう頭巾 出定頭巾。剃髪者の被る頭巾。」とある。
 42:底本は、「さしくゞみ」。底本頭注に従い改めた。
 43:底本は、「義経(よしつね)は悦(よろこ)びの祷(たう)なり。きやつは参(まゐ)りの祷(たう)ぞかし。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 44:底本頭注に、「血を注がん。」とある。
 45:底本頭注に、「五條天神の住僧。」とある。
 46:底本は、「僻事(ひがごと)」。底本頭注に従い改めた。
 47:底本は、「見えし、首は、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 48:底本は、「厳(い)しかりつる」。底本頭注に、「物事に巧みにすぐれた。」とある。
 49:底本は、「無常(むじやう)をこそ観(くわん)じける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。底本頭注に、「世の無常なことの真理を心に観察し明らめた。」とある。
 50:底本は、「不便(ふびん)」。底本頭注に、「かはいさう。」とある。
 51:底本は、「人さきに」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 52:底本頭注に、「応接しないではならぬと思つて。」とある。
 53:底本は、「物怪(もののけ)」。底本頭注に、「生霊死霊などがついて祟りをすること。」とある。

巻第三

一 熊野の別当乱行の事

 義経の御内に、聞こえたる一人当千の剛の者あり。俗姓を尋ぬるに、天児屋根の御苗裔、中関白道隆の後胤、熊野の別当弁せうが嫡子、西塔の武蔵坊弁慶とぞ申しける。
 かれが出で来る由来を尋ぬるに、二位の大納言と申す人は、公達あまた持ち給ひたりけれど、親に先立ち、皆うせ給ふ。年たけ、齢傾きて、一人の姫君をまうけ給ひたり。天下第一の美人にておはしければ、雲の上人{*1}、「我も、我も。」と望みをかけ給ひけれども、更に用ゐ給はず。大臣師長、ねんごろに申されければ、「さるべき由申されけれども、今年は忌むべき事あり。東の方は叶はじ。明年の春ころ。」と約束せられけり。
 御年十五と申す夏の頃、いかなる宿願にか、五條の天神に参り給ひて、御通夜し給ひたりけるに、「辰巳の方より俄に風吹き来りて、御身にあたる。」と思ひ給ひければ、物狂はしく、いたはりぞ出で来給ひたる。大納言、師長、熊野を信じ参らせ給ひける程に、「今度の病、たすけさせたまへ。明年の春の頃は、参詣をとげて、王子王子の御前にて宿願をほどき候べし{*2}。」と祈られければ、程なく平癒し給ひぬ。その次の年の春、宿願をはらさせ給はんために、参詣あり。師長、大納言殿よりして、百人同者{*3}つけ奉りて、三つの山の御参詣を事ゆゑなく遂げ給ふ。
 本宮せうしやう殿に御通夜ありけるに、別当も入堂したりけり。遙かに夜ふけて、内陣にひそめきたり。「何事ならん。」と、姫君、御覧ずる処に、「別当の参り給ひたる。」とぞ申したる。別当、かすかなる灯火の影よりこの姫君を見奉り給ひて、さしもしかるべき行人{*4}にておはしけるが、未だ懺法だにも過ぎざるに、急ぎ下向して、大衆を呼びて、「いかなる人ぞ。」と問はれければ、「これは、二位の大納言殿の姫君、右大臣殿の北の方。」とぞ申しける。別当、「それは、約束ばかりにてこそあるなれ。未だ近づき給はず候と聞くぞ。さきさき大衆の、『あはれ、熊野に何事も出で来よかし。』と、『人の心をも我が心をも見ん{*5}。』といひしは、今ぞかし。出で立ちて、あしきのなからん所に、同者追ひ散らして{*6}、この人を取りてくれよかし。別当が児にせん。」とぞ宣ひける。
 大衆、これを聞きて、「さては、仏法のあた、王法の敵とやなりたまはんずらん。」と申しければ、「臆病の致す処{*7}にてこそあれ。かかる事を企つるならひ、大納言殿、師長、院の御前へ参り、訴訟申したまはば、大納言を大将として、畿内の兵こそ向はんずらめ。それは、思ひまうけたる事なれ。新宮熊野の地へ、敵に足をふませばこそ。」とぞ宣ひける。先々の僻事と申すは、大衆のおもむきを別当のしづめ給ふだにも、やゝもすれば衆徒、はやりき。いはんやこれは、別当おこし給ふ事なれば、衆徒も、つはものをすゝめけり。
 「我も、我も。」と甲冑をよろひ、先ざまに走り下りて同者を待つ処に、又、あとより大勢、ときを作りて追つかけたり。恥をはづべき侍ども、皆逃げける。衆徒、輿{*8}を取つてかへり、別当に奉る。我がもとは、上下の行所なりければ{*9}、「もし京方の者ありや。」とて、政所におき奉り、もろともに明け暮れひきこもりてぞおはしける。「もし京より返し合はする事もや。」と、用心きびしくしたりけり。されども私の計らひにてあらざれば、急ぎ都へはせ上りて、この由を申したりければ、右大臣殿、大きに憤り給ひて、院の御所に参り給ひて{*10}訴へ申されたりければ、やがて院宣を下して、和泉、河内、伊賀、伊勢の住人どもを催して、師長、大納言殿両大将として、七千余騎にて、「熊野の別当を追ひ出だして、俗別当になせ{*11}。」とて、熊野におしよせ給ひて攻め給へば、衆徒、身を捨てて防ぐ。
 京方、「叶はじ。」とや思ひけん、切部の王子に陣を取つて、京へはや馬を立て、申されければ、合戦、遅々する仔細あり。その故は、公卿僉議有りて、「平宰相信成の御女、美人にておはしまししかば、内へ召されさせ給ひけるを、今この事によつて、熊野山滅亡せられん事、本朝の大事なり。右大臣には、この姫君を内より返し奉りたまはば、何の御憤りか有るべき。又、二位の大納言の御婿、熊野の別当、何か苦しかるべき。年たけたるばかりにてこそあれ、天児屋根の御苗裔、中関白道隆の御子孫なり。苦しかるまじ。」とぞ。せんぎ、事をはりて、切部の王子に早馬を立て、この由を申されければ、右大臣、「公卿僉議の上は、申すに及ばず。」とて、うち捨てて帰りのぼりたまふ。二位大納言は、「われひとりして憤るべきならず。」とて、うち連れ奉りて上洛有りければ、熊野も都も静なりといへども、やゝもすれば兵ども、「我らがする事は、宣旨院宣にも従はばこそ。」と、したんして、いよいよ代を世ともせざりけり。
 さて、姫君は、別当に随ひて年月を経るほどに、別当は六十一、姫君に馴れて子をまうけんずるこそ嬉しけれ。「男子ならば、仏法の種をつがせて、熊野をも譲るべし。」とて、かくて月日を待つ程に、限りある月に生まれずして、十八月にぞ生まれける。

二 弁慶生まるゝ事

 別当、この子の遅く生まるゝ事、不思議に思はれければ、産所に人を遣はして、「いかやうなる者。」と問はれければ、生まれ落ちたる不思議は、世の常の二、三歳ばかりにて、髪は肩のかくるゝ程に生ひて、奥歯、むか歯{*12}は、特に大きく生ひてぞ生まれけれ。別当にこの由を申しければ、「さては、鬼神ござんなれ。しやつを置いては、仏法の仇となりなんずるぞ。水の底にふしづけにもし、深山に磔にもせよ。」とぞ宣ひける。母、これを聞き、「それは、さる事なれども、親となり子と成る事も、この世一つならぬことぞと承る。忽ちにいかゞ失はん。」となげき入りてぞおはしける処に、山の井の三位といひける人の北の方は、別当の妹なりしが、別当に、をさなき人の御不審をとひ給へば、「人の生まるゝと申すは、九月、十月にてこそ極めて候へ。既にこの者は、十八月に生まれて候へば、助け置きても親のあたとも成るべく候へば、助け置く事候まじ。」と宣ひける。
 をば御前、聞き給ひて、「腹の内にて久しくして生まれたる者、親のために悪しからんには候はず。それ、唐の黄石が子、腹の内にて八十年の齢を送り、白髪生ひて生まれける。年は二百八十歳。たけ低く色黒くして、世の人には変はりけり。されども八幡大菩薩の御使者、あら人神といはゝれ給ふ{*13}。唯みづからに賜はり候へ。京へ具して上り、よくば男になして、三位殿に奉るべし。悪しくは法師にもなして、経の一巻も読ませたらば、そうとうの身となりて、かへつて親をも導くべし。」と、うちくどき申されければ、「さらば。」とて、叔母に取らせける。
 産所に行きて、産湯をあびせて、鬼若と名を付けて、五十一日過ぎければ、京へ具して上り、乳母を付けて、もてなしかしづける程に、鬼若、五歳にては、世の人、十二、三ほどに見えける。六歳の時、疱瘡といふものをして、いとゞ色も黒く、髪は生まれたるまゝなれば、肩より下へおひ下りて、「髪のふぜいも、男になして叶ふまじ{*14}。法師になさん。」とて、比叡の山の学頭、西塔桜本の僧正のもとに申されけるは、「三位殿のためには、養子にて候。学問のために奉り候。みめかたちは、参らするにつけて恥ぢ入りて候へども、心はさかさかしく候。文の一巻もよませ給び候へ。心の不定{*15}に候はんは、直させ給ひて、いか様にも御計らひに任せ候。」とて、上せけり。
 桜本にて学文する程に、精{*16}、月日のかさなるに随ひて、人に勝れてはかばかし。学文、世にこえて器用なり。されば衆徒も、「形はいかにも悪かれ、学文こそ大切なり。」とて、いよいよ指南し給ひける。かくて学文に心をだにも入れなばよかるべきに、力も強く{*17}、骨もふとく逞しくなる儘に、師の仰せにも随はず。児、法師ばらを語らひて、人も行かぬ御堂のうしろの山の奥などへ伴ひ行きて、腕おし、頚引き、相撲などぞ好みける。
 衆徒、この事を聞きて、「わが身こそいたづら者にならめ{*18}、人の処に学文する者をだに、すかし出だして不定になす事、謂はれなし。」とて、僧正のもとに訴訟の絶ゆる事なし。かく訴へ来る者をば、かたきの様に思ひ、その人の方へ走り入りて、蔀、妻戸をさんざんにうち破りけれども、悪事もぶよう{*19}も鎮むべきやうぞなき。その故は、父は熊野の別当なり。養父は山の井殿、祖父は二位の大納言、師匠は三千坊{*20}の学頭の児にてある間、「手をもさしては、よき事あるまじ。」とて、唯うち任せてぞ狂はせける。されば、相手はかはれども、鬼若はかはらず。いさかひの絶ゆることなし。拳をにぎり、人をはり{*21}ければ、人々、路次をもすぐにとほりえず。たまたま逢ふ者も、道を避けなどしければ、その時は異議なくとほして後、逢ひたる時、取つて押さへて、「さもあれ、過ぎし頃は、行きあひ参らせて候に、道をよけられしは、何の遺恨にて候ひけるぞ。」といひければ、恐ろしさに膝ふるひなどする者を、腕ねぢ、こぶしをもつて押し倒し、ねぢたふしなどするほどに、逢ふ者の不祥{*22}にてぞありける。
 衆徒、これを僉議して、「僧正の児なりとも、山の大事にて有るぞ。」とて、大衆三百人、院の御所へ参りて申しければ、「それ程のひが事の者をば、急ぎ追ひ失へ。」と院宣有りければ、大衆悦び、山上へ帰る所に{*23}、公卿僉議ありて、「古き日記見給へば、『六十一年に、山上にかかる不思議の者出で来ければ、朝家の祇祷になる事有り。院宣にてこれを鎮めつれば、一日のうちに天下無双の願所、五十四箇所亡ぶ{*24}。』といふことあり。今年、六十一年に相当たる。唯捨て置け。」とぞ仰せける。衆徒、憤り申しけるは、「鬼若一人に三千人の衆徒と思し召しかへられ候こそ遺恨なれ。さらば、山王の御輿をふり奉らん。」と申しければ、神には御領を参らせ給ひければ、衆徒、「この上は。」とてしづまりけり。
 「この事、鬼若に聞かすな。」とて、かくし置きたりしを、いかなる嗚呼の者か知らせけん、「これは、遺恨なり。」とて、いとどさんざんに振舞ひける。僧正、もてあつかひて、「あらば有ると見よ。なくばなしと見よ」とて、目も見せ給はざりけり。

三 弁慶山門を出づる事

 鬼若、僧正のにくみ給へる由を聞きて、「頼みたる師の御坊だに、かやうに思はれんに、山に有りても{*25}詮なし。目にも見えざらん方へ行かん。」と思ひ立ちて出でけるが、「かくては、いづくにても、山門の鬼若とぞいはれんずらん。学文に不足なし。法師になりてこそ行かめ。」とおもひて、髪剃り、衣を取りそへて、美作治部卿といふ者の湯殿にはしり入りて、盥の水にて手づから髪を洗ひ、所々を自剃り{*26}にしたりける。かの水に影をうつして見ければ、頭は丸くぞ{*27}見えける。「かくては叶はじ。」とて、「戒名{*28}をば何とかいはまし。」と思ひけるが、「昔、この山に悪を好む者あり。西塔の武蔵坊とぞ申しける。二十一にて悪をしそめて、六十一にて死にけるが、端座合掌して往生を遂げたると聞く。我もその名を付いて呼ばれたらば、剛{*29}になることもあらめ。西塔の武蔵坊といふべし実名は、父の別当は弁せうと名のり、その師匠はくわん慶なれば、弁せうの弁とくわん慶の慶とを取つて、弁慶。」とぞ名乗りける。昨日までは鬼若、今日はいつしか武蔵坊弁慶とぞ申しける。
 山上を出で、小原の別所と申す処に山法師の住みあらしたる坊に、誰とむるとはなけれども、暫くは尊げにてぞ居たりける。されども、児なりし時だにも、みめわろく、心異相{*30}なれば、人、もてなさず。まして訪ひ来る人もなければ、こゝをも幾程なくあくがれ出でて、「諸国修行に。」とて、また出で、津国河尻に下り、難波潟を眺めて、兵庫のしまなどいふ処をとほりて、明石浦より船に乗りて、阿波国について、焼山、鶴が峯を拝みて、讚岐の志度の道場、伊予のすかうに出でて、土佐の幡多まで拝みけり{*31}。かくて正月も末に成りければ、また阿波国へぞ帰りける。

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校訂者注
 1:底本は、「雲(くも)の上人(うへびと)」。底本頭注に、「殿上人。」とある。
 2:底本頭注に、「〇王子々々 熊野行幸の時御休所毎に臨時熊野本社を移した所。京都から熊野までに九十九の王子社があつた。」「〇宿願をほどき 神仏の立願叶つて礼参りする。願ほどきをする。」とある。
 3:底本は、「同者(どうじや)」。底本頭注に、「同行の者。」とある。
 4:底本は、「行人(ぎやうにん)」。底本頭注に、「行者。修行者。」とある。
 5:底本頭注に、「大衆が別当に対する誠意を示さうと。」とある。
 6:底本は、「同者を射ちらして、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 7:底本は、「致る処」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 8:底本頭注に、「姫君の乗つた輿。」とある。
 9:底本頭注に、「別当の許は上の者下の人の修行する処である。」とある。
 10:底本は、「憤り給ひて、訴(うつた)へ申され」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 11:底本は、「則ち別当になせ。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 12:底本頭注に、「前歯。」とある。
 13:底本は、「いはれ給ふ。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 14:底本頭注に、「俗人にしてはかなふまい。」とある。
 15:底本は、「不定(ふぢやう)」。底本頭注に、「戒を犯して他人に知れないこと。仏語。」とある。
 16:底本は、「せい、」。底本頭注に、「精。熟練して巧みなこと。」とある。底本頭注に従い改めた。
 17:底本は、「よかるべき。力もよく、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補い、改めた。
 18:底本は、「いたづら者ならめ、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 19:底本頭注に、「不用。乱暴不都合。又ぶゆで武勇とするも通ずる。」とある。
 20:底本頭注に、「比叡山延暦寺に三千もある僧舎。」とある。
 21:底本頭注に、「人を打ち。」とある。
 22:底本は、「不祥(ふしやう)」。底本頭注に、「縁起のわるいことの義で不幸。」とある。
 23:底本は、「仏所に」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 24:底本は、「五十四箇所ぞといふことあり。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)頭注に従い補った。
 25:底本頭注に、「比叡山延暦寺に居ても。」とある。
 26:底本は、「おしぞりにしたりける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 27:底本は、「丸く見えける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 28:底本頭注に、「法師名。」とある。
 29:底本は、「がう」。底本頭注に従い改めた。
 30:底本は、「いさう」。底本頭注に従い改めた。
 31:底本は、「幡多(はた)又をがみけり。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。

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