江戸期版本を読む

江戸期版本・写本の翻字サイトとして始めました。今は、著作権フリーの出版物のテキストサイトとして日々更新しています(一部は書籍として出版)。校訂本文は著作物です。翻字は著作物には該当しません。ご利用下さる場合、コメントでご連絡下さい。

カテゴリ:軍記物語 > 校訂「義経記」 日本文学大系本

四 書写山炎上の事

 弁慶、阿波国より播磨国にわたり、書写山にまゐり、性空上人の御影を拝み奉り、既に、「下向せん。」としたるが、「同じくは、一夏こもらばや。」とおもひける。この夏と申すは、諸国の修行者充満して、余念もなく勤めける。大衆は、学頭{*1}の坊に集会し、修行者は、行ひ所につく。夏僧は、虚空蔵{*2}の御堂にて、人について夏中のやうを聞きて、学頭の坊に入りける。
 弁慶は、推参して、長押の上ににくげなる風情して、学頭の座敷を暫く睨みて居たりけり。学頭どもこれを見て、「一昨日きのふの座敷にも、有りともおぼえぬ法師の。推参せられ候は、いづくよりの修行。」と問ひければ、「比叡の山の者にて候。」と申しければ、「比叡の山はどれより。」「桜本より。」と申す。「僧正の御弟子か。」と申せば、「さん候。」「御俗姓は。」と問はれて、ことごとしげなる声をして、「天児屋根の御苗裔、中関白道隆の末、熊野の別当の子にて候。」と申しけるが、一夏の間は、いかにも心に入りて勤め、退転なく行ひ居たりける。衆徒も、「初めの景気、今の風情、相違して見えたり。されば、人にはなれて見えたり。隠便の者にて有りけるや。」とぞ誉めける。弁慶、思ひけるは、「かくて一夏も過ぎ、秋の初めにもなりしかば、また国々{*3}に修行せん。」とぞ思ひける。されども名残を惜しみて、出でもやらで居たり。
 さてしも有るべきことならねば、七月下旬に、「学頭に暇こはん。」とて行きたりければ、児大衆、酒宴してぞ有りける。弁慶、「参じてせんなし。」と思ひて出でけるが、新しき障子一間立てたる処あり。「こゝに昼寝せばや。」と思ひて、暫く伏しけるに、その頃書写に、相手きらはぬいさかひ好む者あり。信濃坊戒円{*4}とぞ申しける。弁慶が寝たるを見て、「多くの修行者見つれども、きやつほどの、広言してにくげなる者こそなけれ。きやつに恥をあたへて、寺中をおひ出ださん。」と思ひて、硯の墨すりながし、武蔵坊が面に二くだり、物を書きたりけり。片面には「あしだ。」と書く。片面には「書写法師の足駄にはく。」とかきて、
  弁慶は平足駄とぞ成りにけり面をふめども起きもあがらず
と書き付けて、小法師ばらを二、三十人あつめて、板壁をたゝいて同音にどつと笑はせける。
 武蔵坊、「あしき処に推参したりけるや。」と思ひて、衣の袂引きつくろひて、衆徒の中へぞ出でにける。衆徒、これを見て、目ひき鼻ひき笑ひけり。人は、かんにたへで{*5}笑へども、我は知らねばをかしからず。「人の笑ふに笑はずは、弁慶、遍執{*6}に似たり。」と思ひ、共に笑ひ顔してぞ笑ひける。されども座敷の体、ふしぎに見えければ、弁慶は、「我が身の上。」と思ひて、拳を握り、膝を立て、「何のをかしきぞ。」と、眼に角を立て、睨み廻しけり。学頭、これを見給ひ、「あはや、この者、けしきこそ損じて{*7}見え候へ。いかさま、寺の大事と成りなん。」と宣ひて、「詮なき事{*8}に候。御身の事にては候はぬぞ。よその事を笑ひて候。何のせんかおはすべき。」と宣へば、座敷を立つて、但島の阿闍梨といふ者の坊、その間一町ばかりあり。これも、修行者のよりあひ処にてありければ、かしこへ行きあふ人々も、弁慶を笑はぬ人はなし。「怪し。」と思ひて、水に影をうつして見れば、つらに物をぞ書かれたる。「さればこそ。これほどの恥にあたつて、一時なりとも有りてせんなし。いづ方へも行かん。」と思ひけるが、又うちかへし思ひけるは、「我一人が故に、山の名を下さん事こそ心うけれ。諸人をさんざんに悪口して、咎むる者をばならはして{*9}、恥をすゝぎて出でばや。」と思ひて、人々の坊中へめぐり、さんざんに悪口す。
 学頭、このことを聞きて、「何ともあれ、書写法師、面をはりふせられぬ{*10}と覚ゆる。このこと僉議して、この中にひがことの者あらば、それを取りて、修行者に取らせて、大事をやめん。」とて、衆徒催して、講堂にして学頭詮議す。されども、弁慶はなかりけり。学頭、使者を立てけれども、老僧の使のあるにも出でざりけり。重ねて使あるに、東坂の上にさしのぞきて、後ろの方を見たりければ、二十二、三ばかりなる法師の、衣の下に伏縄目のよろひ腹巻著てぞ出で来る。弁慶、これを見て、「こはいかに。今日は、隠便の詮議とこそ聞きつるに、きやつが風情こそけしからね。ないない聞くに、『衆徒、僻事をなすならば、拷を乞へ{*11}。修行者、ひがことあらば、小法師ばらにはなち合はせよ。』といふなるに、かくて出で、大勢の中に取り篭められ、叶ふまじ。我も、さらば行きて出で立たばや。」と思ひて、学頭の坊に走り入りて、「こはいかに。」と、人のとふ返しをもせず、人も許さざりけるに、いつ案内は知らねども、納殿につと走り入りて、唐櫃一合取つて出で、褐の直垂に黒糸縅の腹巻著て、九十日剃らぬかしらに、揉烏帽子に鉢巻し、櫟の木をもつて削りたる棒の、八角にかどを立てて、もとを一尺ばかりまろくしたるを引杖にして、高足駄をはいて、御堂の前にぞ出で来る。
 大衆、これを見て、「こゝに出で来るものは、何者ぞ。」といひければ、「これこそ聞こゆる修行者よ。」「あら、けしからぬ有様かな。こなたへ呼びてよかるべきか。捨て置きてよかるべきか。」「捨て置きても呼びても{*12}よかるまじ。」「さらば、目な見せそ。」とまうしける。弁慶、これをみて、「いかにともいはんか。」と思ひつるに、「衆徒のふしめに成りつるこそ心得ね。善悪をよそにて聞けば{*13}、大事なり。近付きてきかばや。」と思ひ、走りよつて見ければ、講堂には老僧児どもうち交じりて、三百人ばかり居ながれたり。縁の上には中居の者ども、小法師ばら、一人も残らず催したり。残る処なく、寺中、上を下にかへして出で来る事なれば、千人ばかりぞありける。その中に、「あしく候。」ともいはず、足駄踏み鳴らし、肩をも膝をもふみ付けて通りけり。「あともそともいはば、一定、事も出で来りなん。」と思ひ、皆、肩をふまれて通しけり。階の下に行きて見れば、履物ども{*14}ひしとぬぎたり。「我もぬぎて置かばや。」と思ひけるが{*15}、「禍ひを除くに似たり。」と思ひ、はきながら、からめかしてぞ上りけり。衆徒も、「咎めんとすれば、事みだれぬべし。せんずる処、取りあひて詮なし。」とて、皆、小門の方へぞ隠れける。
 弁慶は、長押の際を足駄はきながら、かなたこなたへぞありきける。学頭、「見苦しきものかな。さすが、この山と申すは、性空上人の建立せられし寺なり。しかるべき人おはするうへ、幼き人の腰もとを足駄はいて通るやうこそ奇怪なれ。」と咎められて、弁慶、ついしざつて{*16}申しけるは、「学頭の仰せは、勿論に候。左様に縁の上にあしだはいて候だにも、狼藉なりと咎め給ふ程の衆徒の、何の緩怠{*17}に、修行者のつらをば足駄にしてはかれけるぞ。」と申しければ、道理なれば、衆徒、音もせず。中々はなち合はせて置きたらば、学頭の計らひに、いかやうにもすかして出だすべかりしを、禍ひおこりける。
 信濃坊、これを聞きて、「稀有{*18}なるべし、修行法師めが面や。」と、ゐたけ高になりて申しける。「あまりにこの山の衆徒は、きやうこうが過ぎて。修行者めらに、目を見せて、すでに後悔し給ふらんものを。いで、ならはさん。」とて、つと立つ。「あは、事出できたり。」とて、ひしめく。弁慶、これを見て、「面白し。きやつこそ、相手きらはずのえせ者よ。おのれが腕のぬくるか、弁慶が脳のくだくるか。思へば、弁慶がつらに物を書きたる奴か。にくい奴かな。」とて、棒取り直し、待ちかけたり。
 戒円が寺の法師ばら、五、六人、座敷に在りけるが、これを見て、「見苦しく候。あれほどの法師、縁より下に蹴落として、首の骨ふみ折つてすてん。」とて、衣の袖を取つて結び、肩にかけ、喚き叫んでかゝるを見て、弁慶、えいやと立ち上がり、棒を取つて直し、薙打ちに、一度に縁より下になぎ落としける。戒円、これを見て、走り立ちてあたりを見れども、打つべき杖なし。末座を見れば、櫟{*19}を打ち切り打ち切りくべたる燃えさしをおつ取り、すびつ押しにじりて、「一定か、わ法師{*20}。」とて、走りかゝる。弁慶、しきりに腹を立てて、持つて開いてちやうど打つ。戒円、走り違へてむずと打つ。弁慶、がしと合はせて、潛り入りて、左手のかひなさしのべ、頭{*21}掴んでえいと引きよせ、右手のかひなをもつて、戒円が股をつかみそへて、目より高くおしあげて、講堂の大庭の方へ行く。
 衆徒、これを見て、「修行者、御免候へ。それは、ぢたい{*22}酒狂ひする者にて候ぞ。」と申しければ、弁慶、「見苦しく見えさせたまふものかな。日頃の約束には、修行者の酒狂ひは大衆鎮め、衆徒の酒狂ひをば修行者鎮めよとの御約束と承り候ひしかば、命をば殺すまじ。」といつて、一振りふつて、「えいや。」といひて、講堂の軒の高さ一丈一尺ありける上に投げ上げたれば、一たまりもたまらず、ころころと転び落ち、雨おちの石たゝきに{*23}どうどおつる。取つて押さヘて、「骨は砕けよ。脛はひしげよ。」と踏みたり。左手の小腕ふみ折り、右手のあばら骨二枚損ず。「中々にいふにかひなし。」とて、いふばかりもなし。
 戒円が持ちたる燃えざしを、さらば捨てもせで、持ちながら投げあげられて、講堂{*24}の軒にうちはさむ。折ふし風は谷より吹きあげたり。講堂{*25}の軒に吹き付けて、焼けあがりたり。九間の講堂、七間の廊下、多宝の塔、文殊堂、五重の塔に吹き付けて、一宇ものこらず。性空上人の御影堂、これを初めて、堂塔社々の数、五十四箇所ぞ焼けたりける。武蔵坊、これを見て、「現在仏法の仇となるべし。咎をだに犯しつる上は、まして大衆の坊々どもは、助け置きて何にかせん。」と思ひて、西坂本に走り下り、松明に火を付けて、軒を並べたる坊々に一々に火をぞ付けたりける。谷より嶺へぞ焼けて行く。山を切りて崖作りにしたる坊なれば、何かは一つも残らず。やうやう残るものとては、石すゑのみ残りけり。
 二十一日の巳の時ばかりに、武蔵坊は、書写を出で京へぞ行きける。その日一日歩み、その夜もあゆみて、二十二日の朝に京へぞ著きにける。その日は都、大雨大風吹きて、人の往き来もなかりけるに、弁慶、装束をぞしたりける。長直垂に赤き袴をぞ著たりける。いかにしてか上りけん、さ夜更け人静まりて後、院の御所の築土に上り、手を広げて火をともし、大の声にてわつと喚きて、東の方へぞ走りける。又取つてかへし、門の上につい立つて、恐ろしげなる声にて、「あら、浅まし。いかなるふしぎにてか候やらん、性空上人の手づからみづから立て給ひし書写の山、昨日のあした、大衆と修行者との口論によりて、堂塔五十四箇所、三百坊、一時に煙と成りぬ。」と呼ばはつて、かきけす様に失せにけり。
 院の御所には、これを聞こし召し、「何ゆゑ書写は焼けたる。」と、早馬を立てて御尋ねあり。「誠に焼けたらば、学頭を初めとして、衆徒を追ひ出だせ。」との院宣なり。使庁の下部{*26}、向ひて見れば、一宇も残らず焼けければ、「全く時を移さず参りて、陳じ申さん。」とて、馳せ上り{*27}、院の御所に参じて陳じ申しければ、「さらば、罪科の者を申せ。」と仰せ下さる。「修行者には武蔵坊、衆徒には戒円。」と申す。公卿、これを聞き給ひて、「さては、山門にありし鬼若が事ござんなれば、これが悪事、山上の大事にならぬさきに鎮めたらんこそ気味ならめ{*28}。戒円が悪事、是非なし。詮ずる処、戒円を召せ。戒円こそ仏法王法の怨敵なれ。しやつを取つて、糾問せよ。」とて、津国の住人昆陽野太郎、承つて、百騎の勢にて馳せむかひ、戒円を召して、院の御所に参る。
 {*29}御前に召されて、「汝一人が計らひか。与したる者の有りけるか。」と尋ねらる。糾問、厳しかりければ、とても生きてはらはん事、不定なれば{*30}、「日頃、にくかりし者を入ればや。」と思ひて、与したる衆徒とては、十一人までぞ白状に入れたりける。又、昆陽野太郎、馳せ向ふ処に、かねて聞こえければ、さきだて十一人、参り向ふ。されども、「白状に載せたり。」とて召し置かる。陳ずるに及ばず、戒円は終に責め殺さる。死しける時も、「われ一人の咎ならぬに、残りをば失はれずば、死するとも悪霊とならん。」とぞいひける。かくいはざるだにも有るべし。「さらば、斬れ。」とて、十一人も皆斬られにけり。
 武蔵坊、都にありけるが、これを聞きて、「かかる心地よき事こそなけれ。居ながら敵、思ふやうにあたりたる事こそなけれ{*31}。弁慶が悪事は、朝の御祈りに成りける。」とて、いとゞ悪事をぞしたりける。

前頁  目次  次頁

校訂者注
 1:底本は、「がくとう」。底本頭注に、「学頭。社僧の職名。」とある。底本頭注に従い改めた。「学頭」15例中13例が「がくとう」であり、煩雑を避け{*}を略した。
 2:底本は、「こくさう」。底本頭注に、「虚空蔵。虚空蔵菩薩をいふ。」とある。底本頭注に従い改めた。
 3:底本は、「また国に」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 4:底本は、「かいゑん」。「戒円」13例中12例が「かいゑん」であり、煩雑を避け{*}を略した。
 5:底本は、「かんにたへて」。底本頭注に、「可笑しくて我慢が出来ないで。」とある。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 6:底本は、「遍執(へんしふ)」。底本頭注に、「かたいぢ。」とある。
 7:底本頭注に、「機嫌をわるくした。」とある。
 8:底本頭注に、「かひもない事。詰まらぬ事。」とある。
 9:底本頭注に、「懲らして。目にもの見せて。」とある。
 10:底本頭注に、「顔をなぐりふせられた。」とある。
 11:底本は、「かうをこえ、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 12:底本は、「捨て置きてもよかるまじ。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 13:底本頭注に、「何やかやを他から聞けば。」とある。
 14:底本は、「小袖ども」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 15:底本は、「とももひけるが、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 16:底本は、「ついたつて」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 17:底本は、「くわんたい」。底本頭注に従い改めた。
 18:底本は、「けう」。底本頭注に、「稀有。珍らしや修行法師の面はの意。」とある。底本頭注に従い改めた。
 19:底本は、「くの木(ぎ)」。底本頭注に、「くぬぎ。櫟。」とある。底本頭注に従い改めた。
 20:底本は、「一定(いちぢやう)か、わ法師。」。底本頭注に、「きつとかこの法師め。」とある。
 21:底本は、「かう」。底本頭注に従い改めた。
 22:底本頭注に、「元来。」とある。
 23:底本は、「雨(あま)おち石たゝきに」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 24:底本は、「かう堂(だう)」。底本頭注に従い改めた。
 25:底本は、「かうだう」。底本頭注に従い改めた。
 26:底本は、「寺中の下へ」。『義経記』(1992年岩波書店刊)頭注に従い改めた。
 27:底本は、「馳ぜ上り」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 28:底本頭注に、「〇鬼若が事ござんなれば 鬼若の事にこそあるなれば。」「〇山上の大事 比叡山延暦寺の大事。」「〇鎮めたらんこそきみならめ 鎮めたらうならばよいぐあひだ。きみは気味だらう。」とある。底本頭注に従い改めた。
 29:底本は、「御所に参る。汝一人が」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 30:底本頭注に、「〇生きてはらはん事 生きてのける事。生きおほせること。」「〇不定 たしかでない。」とある。
 31:底本頭注に、「こんなに思ふ通り、目ざした通りになつた事はない。」とある。

五 弁慶洛中にて人の太刀を取りし事

 弁慶、思ひけるは、「人の重宝は、千そろへて持つぞ。奥州の秀衡は、名馬千疋、鎧千領もつ。松浦の大夫は、やなぐひ{*1}千腰、弓千張。かやうに重宝を揃へて持つに、我々は、かはりのなければ、替へて持つべき様もなし。詮ずる所、夜に入りて京中にたゝずみて、人の佩きたる太刀千振を取つて、我が重宝にせん。」と思ひ、夜な夜な人の太刀を奪ひ取る。しばしこそ有りけれ、「当時洛中に、たけ一丈ばかりある天狗法師のありきて、人の太刀を取る。」とぞ申しける{*2}。かくて今年も暮れければ、次の年の五月の末、六月の初めまでに、多くの太刀を取つたり。樋口烏丸の御堂の天井におく。数へ見たりければ、九百九十九腰こそ取りたりける。六月十七日、五條の天神に参りて、夜と共に祈念申しけるは、「今夜の御利生に、よからん太刀を与へてたび給へ。」と祈誓し、夜深ければ、天神の御前に出で、南へ向つて行きければ、人の家の築土のきはにたゝずみて、天神へ参る人の中に、よき太刀持ちたる人をぞ待ち居たる。
 暁方になりて、堀河を下りに行きければ、面白く笛の音こそ聞こえけれ。弁慶、これを聞きて、「面白や。さ夜ふけて、天神へ参る人の吹く笛は、法師やらん、男やらん{*3}。よからん太刀を持ちたらば、取らん。」と思ひて、笛の音の近付きければ、さしくゞみて{*4}見れば、未だ若き人の、白き直垂に胸板を白くしたる腹巻に、金作りの太刀の心も及ばぬをはかれたり。弁慶、これを見て、「あはれ、太刀や。何ともあれ、取らんずるものを。」と思ひて待つ処に、後に聞けば、恐ろしき人にてぞありける。弁慶は、いかでか知るべき。
 御曹司は、見給ひて、あたりに目をも放たれず、木のもとを見給ひければ、けしからぬ法師の太刀わきばさみて立ちたるを見給へば、「きやつはたゞ者ならず。この頃、都に人の太刀を奪ひ取るものは、きやつにてあり。」と思はれて、少しもひるまずかゝり給ふ。弁慶、「さしもけなげ{*5}なる人の太刀をだにも奪ひ取るに、ましてこれ程なるやさ男。よりて乞はば、姿にも声にも怖ぢて出ださんずらん。げにくれずば、突き倒し奪ひ取らん。」と支度して、弁慶、あらはれ出でて申しけるは、「唯今静まりて敵を待つ処に、けしからぬ人の物具して通り給ふこそ、怪しく存じ候へ。左右なくえこそ通すまじけれ。しからずば、その太刀、こなたへ賜はりて通られ候へ。」と申しければ、御曹司、これを聞き給ひて、「この程、さるをこの者ありとは聞き及びたり。左右なくえこそ取らすまじけれ。ほしくば、よりて取れ。」とぞ仰せられける。
 「さて、見参に参らん{*6}。」とて、太刀を抜いで飛んでかゝる。御曹司も、小太刀を抜いで、築土のもとに走りより給ふ。武蔵坊、これを見て、「鬼神ともいへ、当時我をあひ手にすべき者こそおぼえね。」とて、もつて開いてちやうど打つ。御曹司、「きやつはけなげ者かな。」とて、電の如くに弓手の脇へ、つと入り給へば、うち開く太刀にて、築土の腹に切先うち立て、「抜かん。」としける隙に、御曹司、走りよりて、左手の足をさし出だして、弁慶が胸をしたゝかに踏み給へば、持つたる太刀をがらりと捨てたるを取つて、「えいや。」といふ声の内に、九尺ばかりありける築土にゆらりと飛び上り給ふ。弁慶、胸いたく踏まれぬ。鬼神に太刀とられたる心地して、呆れてぞ立つたりける。
 御曹司、「これより後に、かかる狼藉すな。さるをこの者有りと、かねて聞きつるぞ。太刀も取りて行かんとおもへども、欲しさに取りたりと思はんずる程に、取らするぞ。」とて、築土の覆ひに押しあてて、踏み歪めてぞ投げかけ給ふ。太刀取つて押し直し、御曹司の方をつらげに{*7}見やりて、「念なく御辺はせられて候ものかな。常にこの辺におはする人と見るぞ。今宵こそ仕損ずるとも、これより後においては、心ゆるすまじきものを。」とつぶやきつぶやきぞ行きける。御曹司、これを見給ひて、「何ともあれ、きやつは山法師にてぞ有るらん。」と思し召しければ、「山法師、人の器量に似ざりけり{*8}。」と宣へども、返事もせず。「何ともあれ、築土よりおり給はん処を切らんずるものを。」と思ひて待ちかけたり。築土よりゆらりと飛びおりたまへば、弁慶、太刀打ちふりて、つと寄る。「九尺の築土よりおり給へる。」と思ひしが、三尺ばかりおちつかで、宙におはしけるが、又取つて返し、上にゆらりと飛び上り給ふ。
 大国の穆王{*9}は、六韜を読み、八尺の壁を踏んで天にあがりしをこそ、上古の不思議と思ひしに、末代といへども九郎御曹司は、六韜を読みて、九尺の築土を、一飛びのうちに宙より飛びかへり給ふ。弁慶は、今宵はむなしく帰りけり。

六 弁慶義経と君臣の契約の事

 頃は六月十八日の事なるに{*10}、清水の観音に、上下、参篭す。弁慶も、「何ともあれ、昨夕の男、清水にこそ有るらんに、参りて見ばや。」と思ひて参りける。あからさまに清水にまゐり、総門にたたずみて待ちけれども、見えたまはず。今宵もかくて、「帰らん。」とする処に、いつもの癖なれば、夜ふけて清水坂の辺に、例の笛こそ聞こえけれ。弁慶、聞きて、「あら、面白の笛の音や。あれをこそ待ちつれ。この観音と申すは、坂上田村丸の建立し奉りし御仏なり。『我、三十三遍の身を変じて、衆生の願ひを満てずば、祇園精舎の雲にまじはり、長く正覚を取らじ。』と誓ひ、『我が地に入らん者には福徳を授けん。』と誓ひたまふ御仏なり。されども弁慶は、福徳も欲しからず。たゞこの男の持ちたる太刀を取らせて給べ。」と祈誓して、門前にて待ちかけたり。
 御曹司、ともすればいぶせく思し召しければ、坂の上を見あげ給ふに、かの法師こそ、昨日に引きかへて、腹巻著て、太刀わきに挟み、長刀杖につき、待ちかけたり。御曹司、見給ひて、「くせものかな。又今宵もこれにありけるや。」と思ひたまひて、少しも退かで、門をさして上り給へば、弁慶、「唯今参り給ふ人は、昨日の夜、天神にて見参に入りて候御方にや。」と申しければ、御曹司、「さる事もや。」と宣へば、「さて、持ちたまへる太刀をば、たび候まじきか。」とぞ申しける。御曹司、「幾度もたゞは取らすまじ。ほしくば寄りて取れ。」と宣へば、「いつも、こはことば{*11}かはらざりけり。」とて、長刀打ちふり、真下りに喚いてかゝる。御曹司、太刀抜き合はせてかゝり給ふ。弁慶が大長刀をうち流して、手並の程を見しかば、「あや。」と肝を消す。「さもあれ。手にもたまらぬ人かな。」と思ひけり。御曹司、「夜もすがら、かくて遊びたくあれども、観音に宿願あり。」とて、うち行きたまひぬ。弁慶、ひとり言に、「手に取りたる物を失ひたる心地する。」とぞ申しける。御曹司、「何ともあれ、きやつはけなげなる者なり。あはれ、暁まで{*12}あれかし。持ちたる太刀長刀打ちおとして、薄手おふせて生け捕りにして、ひとりありくはつれづれなるに、相伝にして{*13}召し使はばや。」とぞ思し召しける。
 弁慶、このたくみを知らず、太刀に目をかけて、跡につきてぞ参りける。清水の正面にまゐりて、御堂の内を拝み奉れば、「人の勤めの声はとりどりなり。」と申せば、殊に正面の内の格子のきはに、法華経の一の巻の初めを尊く読み給ふ声を聞きて、弁慶、思ひけるは、「あら、不思議やな。この経よみたる声は、ありつる男の『憎いやつ。』と云ひつる声に、さも似たるものかな。よりて見ん。」と思ひて、持ちたる長刀をば正面の長押の上にさしあげて、佩きたる太刀ばかりもちて、大勢の居たる中を、「御堂の役人にて候。通させ給へ。」とて、人の肩をもきらはず、押さへて通りけり。御曹司、御経{*14}遊ばして居給へる後ろにふみはたばりて、立ち上がりけり。御灯の影より、人、これを見て、「あら、いかめしの法師の丈の高さよ。」とぞ申しける。
 「何として知りてこれまで来たるらん。」と、御曹司は見給へども、弁慶は見付けず。唯今までは男にておはしつるが、女の装束にて衣うちかづき、居たまひけり。武蔵坊、思ひ煩ひてぞありける。「中々是非なく推参せばや。」と思ひ、太刀の尻ざやにて、脇の下をしたゝかにつき動かして、「児か、女房か。これも参りにて候ぞ{*15}。あなたへよらせ給へ。」と申しけれども、返事もし給はず。弁慶、「さればこそたゞ者にてはあらず。ありつる人ぞ。」とおもひ、又したゝかにこそ衝いたりけれ。その時、御曹司、仰せられけるは、「不思議の奴かな。おのれが様なる乞食は、木の下、萱のもとにて申すとも{*16}、仏の方便にてましませば、聞こし召し入れられんぞ。かたがたおはします処にて、狼籍なり。そこ退き候へ。」と仰せられけれども、弁慶、「情なくも宣ふものかな。昨日の夜より見参に入りて候かひもなく候。そなたへ参り候はん。」と申しも果たさず、二畳の畳をのり越え、御傍へ参る。人、「推参、尾篭{*17}なり。」とにくみける。
 かかりける処に、御曹子の持ち給へる御経をおつ取りて、さつと開いて、「あはれ、御経や。御辺の経か、人の経か。」と申しける。されども返事もし給はず。「御辺も読み給へ。我も読み候はん。」といひて、読みけり。弁慶は、西塔に聞こえたる持経者なり。御曹司は、鞍馬の児にて習ひ給ひたれば、弁慶が甲の声、御曹司の乙の声、入りちがへて、二の巻半巻ばかりぞ読まれたる。参る人のゑいやづき{*18}も、はたとしづまり、行人の鈴の声も止めて、これを聴聞しけり。万々世間澄み渡りて、尊さ、心も及ばず。
 暫くありて、「知る人のあるに、立ちよりて、又こそ見参せめ。」とて立ち給ふ。弁慶、これを聞きて、「現在目の前におはする時だにもたまらぬ人の、いつをか待ち奉るべき。御出で候へ。」とて、御手を取りて引き立て、南面の扉のもとに行きて申しけるは、「持ち給へる太刀の真実ほしく候に、それ、給び候へ。」と申しければ、「これは、重代の太刀にて、叶ふまじ。」「さ候はば、いざ、させたまへ{*19}。武芸に付きて、勝負次第に賜はり候はむ。」と申しければ、「それならば、参り逢ふべし。」と宣へば、弁慶、やがて太刀を抜く。御曹司も抜き合はせ、さんざんに打ち合ふ。人、これを見て、「こはいかに。御坊の、これ程分内も狭き処にて、しかも幼き人とたはぶれは、何事ぞ。その太刀、さし給へ。」といへども、聞きも入れず。御曹司、上なる衣を脱ぎて棄て給へば、下は直垂腹巻をぞ著給へる。「この人も、たゞ人にはおはせざりけり。」とて、人、目をさます。女や尼、童ども、あわてふためき、縁より下へ落つる者もあり、御堂の戸をたて、「入れじ。」とする者もあり。
 されども二人は、やがて舞台へひいて、おりあうて戦ひける。ひいつ進んづ打ちあひける間、初めは人もおぢて寄らざりけるが、後には面白さに、行道をする様につきてめぐり、これを見る。よそ人、いひけるは、「そもそも児がまさるか、法師がまさるか。」「いや、児こそまさるよ。法師は物にてもなきぞ。はや弱りて見ゆるぞ。」と申しければ、弁慶、これを聞きて、「さては早、我は下になるござんなれ{*20}。」とて、心細く思ひける。御曹司も、思ひ切り給ふ。弁慶は、思ひ切つてぞ打ちあひける。弁慶、少し打ちはづす処を、御曹司、走りかゝつて斬りたまへば、弁慶が弓手の脇の下に、きつさきを打ちこまれて、ひるむ処を、太刀の背にてさんざんに打ちひしぎ、枕に打ちふして、上にうち乗りゐて、「さて、従ふや否や。」と仰せられければ、「これも前世の事にてこそ候はん。さらば、従ひ参らせん。」と申しければ、著たる腹巻を御曹司、重ねて著給ひて、二振りの太刀を取り、弁慶を先に立てて、その夜の中に山科へ具しておはしまし、疵をいやして、その後、連れて京へおはして、弁慶と二人して、平家を狙ひ給ひける。
 その時、見参に入り始めてより、心ざし、又二つなく、身にそふ影の如くつき添ひ奉り、平家を{*21}三年に攻めおとし給ひしにも、度々の高名を極めぬ。奥州衣川の最後の合戦まで御供して、終に討死してける武蔵坊弁慶、これなり。かくて、「都には九郎義経、武蔵坊といふつはものを語らひて、平家をねらふ。」と聞こえありけり。「おはしける処は、四條の上人がもとにおはする。」由、六波羅{*22}へこそ訴へたり。六波羅より大勢おしよせて、上人をとる。その時、御曹司おはしけれども、手にもたまらず失ひたまひけり{*23}。御曹司、「この事、もれぬ程にてあれ。いざや、奥へ下らん。」とて、都を出でたまひ、東山道にかゝりて、木曽がもと{*24}におはして、「都の住まひかなひがたく、奥州へ下り候へ。かくて御渡り候へば、万事は頼もしくこそ思ひ奉れ。東国、北国のつはものを催したまへ。義経も、奥州よりさし合はせて、本意を遂げ候はんとこそ思ひ候へ。これは、伊豆国近く候へば、常に兵衛佐殿{*25}の御方へも御おとづれ候へ。」とて、木曽がもとより送られて、上野の伊勢三郎がもとまでおはしけれ。これより義盛、御供して、平泉{*26}へ下りけり。

前頁  目次  次頁

校訂者注
 1:底本は、「胡簶(やなぐひ)」。底本頭注に、「矢を入れて背に負ふ具。」とある。
 2:底本は、「天狗法師(てんぐほふし)のありて、人の太刀(たち)を取(と)る。」とぞ申しけれ。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 3:底本頭注に、「俗人であらうか。」とある。
 4:底本頭注に、「身をかゞめて。」とある。
 5:底本頭注に、「〇けなげ かひがひしい。殊勝な 強さうな。」とある。
 6:底本頭注に、「お目に掛りませうの意で討ちかゝらうとする意を云つたのである。」とある。
 7:底本頭注に、「情なく妬ましさうに。」とある。
 8:底本頭注に、「〇山法師 延暦寺の僧徒。」「〇人の器量 身体の様子に似ず弱い奴であるわい。」とある。
 9:底本頭注に、「〇大国 支那。」「〇穆王 周の穆王のことだらう。」とある。
 10:底本は、「六月十八日なるに、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 11:底本頭注に、「強い言葉。」とある。
 12:底本は、「暁(あかつき)にてあれかし。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 13:底本頭注に、「代々の家来にして。」とある。
 14:底本は、「御曹司の、経」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 15:底本頭注に、「参詣の者であります。」とある。
 16:底本頭注に、「木や萱の下で読経申しても。」とある。
 17:底本は、「人推参卑陋(すゐさんびろう)なり」。底本頭注に、「人がましく無理におして来ること無礼だと。卑陋は尾篭。」とある。
 18:底本頭注に、「ゑいやと掛声して突くこと。」とある。
 19:底本頭注に、「さあ御出でなさいませ。」とある。
 20:底本頭注に、「負けるのでござるわい。」とある。
 21:底本は、「つき添(そ)ひ奉り、三年(みとせ)に」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 22:底本頭注に、「〇四條の上人 四條室町に居た正門坊。俗名鎌田三郎正近。」「〇六波羅 清盛の邸。もと平正盛の邸であつたが清盛大いに修築して邸とした。」とある。
 23:底本は、「失(うしな)ひたまひけれ。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 24:底本頭注に、「源義仲のもと。」とある。
 25:底本頭注に、「伊豆に居た源頼朝。」とある。
 26:底本頭注に、「陸中国平泉。藤原秀衡が居た。」とある。

七 頼朝謀叛の事

 治承四年八月十七日に、頼朝、謀叛起こし給ひて、泉の判官兼隆{*1}を夜討にして、同じき十九日、相模国小早河の合戦にうち負けて、土肥の杉山に引き篭りたまふ。大場三郎、股野五郎{*2}、土肥の杉山を攻むる。二十六日のあけぼのに、伊豆国真鶴が崎より船に乗りて、三浦{*3}を心ざしておし出だす。折節、風烈しくて、岬{*4}へ舟をよせかねて、二十八日の夕暮に、安房国洲の崎といふ処に御舟をはせ上げて、その夜は、滝の口の大明神に御通夜ありて、夜と共に祈誓をぞ申されけるに、「明神の示し給ふぞ。」とおぼしくて、御宝殿の御戸をいつくしき御手にて押し開き、一首の歌をぞあそばしける。
  みなもとはおなじながれぞいはし水たれせき上げよ雲の上まで
兵衛佐殿、夢うちさめて、明神を三度拝し奉りて、
  みなもとはおなじながれぞいはし水せき上げてたべ雲の上まで
と申して、明くれば洲の崎を立ちて、ばんどう、ばんさいにかゝり、真野の館を出で、小湊のわたりして、那古の観音をふし拝み、雀島の大明神の御前にて、かたの如くの御神楽を参らせて、竜島に著き給ひぬ{*5}。
 加藤次、申しけるは、「悲しきかなや。保元に為義、斬られ給ふ。平治に義朝、討たれ給ひて後は、源氏の子孫、皆絶えはてて、弓馬の名埋づんで星霜を送り給ふ。たまたまも源氏、思ひ立ち給へば、不運の宮に与し参らせて{*6}、世を損じ給ふこそかなしけれ。」と申しければ、兵衛佐殿、仰せられけるは、「かく心弱くな思ひそ。八幡大菩薩、いかでか思し召し捨てさせ給ふべき。」と諌め給ひけるこそ、頼もしくおぼゆれ。
 さる程に、三浦の和田小太郎、佐原十郎、栗浜の浦より小舟にとり乗りて、宗徒の輩{*7}三百余人、りよう島へ参りて、源氏につく。安房国の住人町野太郎、案内大夫、これ等二人を大将として、五百余騎馳せ来り、源氏につく。源氏、八百余騎になり、いとゞ力つきて、鞭を上げてうつほどに、安房と上総の境なる、つくしうみの渡りをして、上総国佐貫のえだ浜を馳せ急がせ給ひて、磯が崎をうち通りて、篠部、いかいしりといふ処につき給ふ。上総国の住人、いほう、いなん、庁北、庁南、うさ、山のへ、あひか、くはのかみの勢、都合一千余騎、すゑかはといふ処に馳せ来つて、源氏に加はる。されども、介八郎{*8}は、いまだ見えず。
 私に広常、申しけるは、「そもそも兵衛佐殿の、安房、上総にうち越えて、二箇国の軍兵をそろへ給ふなるに、未だ広常がもとへ御使を賜はらぬこそ心得ね。今日待ち奉りて、仰せ蒙らずは、千葉、葛西を催して、きさうとの浜におし向ひて、源氏を引き立て奉らん。」と議する処に、藤九郎盛長、褐の直垂に、黒革縅の腹巻に、黒つばの矢負ひ、塗篭籘の弓持ちて、介八郎のもとにぞ来りける。「上総介殿に見参。」と申しければ、「兵衛佐殿{*9}の御使。」と申せば、嬉しく思ひ、いそぎ出であひて対面す。御教書{*10}をたまはり拝見して、「『家の子郎等も差し遣はせよ。』と仰せられん。」とこそ思ひつるに、「今まで広常が遅く参るこそ奇怪なれ。」と書き給ひたるをうち見て、「あはれ、殿の御書かな。かくこそあらまほしけれ。」とて、則ち千葉介のもとへ送る。葛西、豊田、うらの守、上総介のもとへ馳せよりて、千葉、上総介を大将軍として三千余騎、開発の浜に馳せ来り、源氏につく。
 兵衛佐殿、四万余騎になりて、上総の館につきたまふ。かくする程にこそ久しけれ。されど八箇国は、源氏に心ざしある国なりければ、「我も、我も。」と馳せ参る。常陸国には、しらと、行方、志田、東條、佐竹の別当秀義、たけちの平武者太郎、しほぢ道綱。上野国には大胡太郎、山かみさゑよりの小太郎重房、同じく喜三郎重義。党{*11}には丹、横山、馳せ参る。畠山、稲毛は、未だ参らず。秩父の荘司、小山田の別当は、在京によりて参らず。相模国には本間、渋谷、馳せ参る。大場、股野、山内は参らず。
 治承四年九月十一日、武蔵と下野の境なる松戸の荘市河といふ処に著き給ふ。御勢、八万九千とぞ聞こえける。こゝに、坂東に名を得たる大河、一つあり。この河の水上は、上野国刀根の荘、藤原といふ処より落ちて、水上とほし。末にくだりては、在五中将{*12}の墨田河とぞ名付けたる。海より潮さしあげて、水上には雨ふり、洪水、岸を浸して流れたり。ひとへに海を見る如く、水にせかれて五日逗留し給ふ。江戸太郎{*13}、墨田のわたり両処に陣取りて、櫓をかき{*14}、やぐらの柱には馬をつないで、源氏を待ちかけたり。兵衛佐殿は、これを御覧じて、「きやつが首取れ。」と宣へば、急ぎやぐらの柱を切りおとして筏にし、市河に参り、葛西の兵衛について、「見参に入るべき。」由、申したりけれども、用ゐ給はず。重ねて申しければ、「いかさまにも、頼朝をそねむと思ふぞ。伊勢加藤次、心ゆるすな。」と仰せられける。
 江戸太郎、色を失ひける処に、千葉介、「近所に有りながら、いかゞ有るべき。常胤{*15}、申さん。」とて、御前にかしこまつて、不便の事を申しければ、佐殿、仰せられけるは、「江戸太郎、八箇国の大福長者と聞くに、頼朝が多勢、この二、三日、水にせかれて渡しかねたるに、水のわたりに浮橋を組んで、頼朝が勢{*16}、武蔵国王子、板橋につけよ。」とぞ宣ひける。江戸太郎、承りて、「首を召さるゝとも、いかでか渡すべき。」と申す処に、千葉介、葛西兵衛を招きて申しけるは、「いざや、江戸太郎を助けん。」とて、両人が知行所は、今井、栗河、かめなし、うしまと申す処より、海人の釣舟を数千艘上せて、石浜と申す処は江戸太郎が知行所なり。折節、西国舟の著きたるを数千艘あつめ、三日の内に浮橋をくみて、江戸太郎に合力す。佐殿、御覧じ、「神妙{*17}なる。」由、仰せられ、さてこそ、ふとひ、墨田うち越えて、板橋につき給ひけり。

八 頼朝謀叛により義経奥州より出で給ふ事

 さる程に、佐殿の謀叛、奥州に聞こえければ、御弟九郎義経、元吉の冠者泰衡{*18}を召して、秀衡に仰せけるは、「『兵衛佐殿こそ謀叛をおこして、八箇国を従へて、平家を攻めんとて、都へ上り給ふ。』と承りて候へ。義経、かくて候こそ心苦しく候へば、追ひ付き奉りて、一方の大将軍をも望まばや。」とぞ仰せられける。秀衡、申しけるは、「今まで君の思し召し立たぬ御事{*19}こそ、ひが事にて候へ。」とて、泉の冠者{*20}を呼びて、「関東に事出で来、源氏、うちいで給ふなり。両国の兵ども催せ。」とぞ申しける。御曹司、仰せられけるは、「千騎万騎も具したく候へども、事延びて叶ふまじ。」とて、うち出で給ふ。とり敢へざりければ、まづかつがつ三百余騎を奉りける。
 御曹司の郎等には西塔の武蔵坊、また園城寺法師の尋ねて参りたる常陸房、伊勢三郎、佐藤三郎次信、同じく四郎忠信、これらを先として三百余騎、馬の腹筋馳せ切り、脛砕くるをも知らず、揉みにもうで馳せ上る。あつかしの中山馳せ越えて、安達の大城戸{*21}うち通り、行方の原、しゝちを見たまへば、「勢こそまばらに成りたるぞ。」と仰せられけるに、「あるひは馬の爪かかせ、あるひは脛を馳せ砕きて、少々道にとゞまり、これまでは百五十騎御座候。」と申しければ、「百騎が十騎にならむまでも、打てや者ども。後をかへり見るべからず。」とて、とゝろがけ{*22}にて歩ませける。木津川をうち過ぎて、さけはしの宿に著きて、馬を休めて、絹河のわたりして、宇都宮の大明神ふし拝み参らせ、室の八島をよそに見て、武蔵国足立郡、こかは口につき給ふ。御曹司の御勢、八十五騎にぞなりにける。
 板橋に馳せつきて、「兵衛佐殿は。」と問ひ給へば、「一昨日こゝを立たせ給ひて候。」と申す。武蔵の国府の六所の町につきて、「佐殿は。」と仰せければ、「一昨日通らせ給ひて候。相模の平塚に。」とぞ申しける。平塚につきて聞き給へば、「はや足柄を越え給ひぬ。」とぞ聞こえける。いとゞ心もとなくて、駒を早めて打ち給ひける程に、足柄山うち越えて、伊豆の国府に著きたまふ。「佐殿は、昨日こゝを立ち給ひて、駿河国千本の松原、浮島が原に。」と申しければ、「さては、程近し。」とて、駒を早めてぞ急がれける。

前頁  目次  次頁

校訂者注
 1:底本頭注に、「伊豆の目代。」とある。
 2:底本頭注に、「〇大場三郎 景親。」「〇股野五郎 景尚。景親の弟。」とある。
 3:底本頭注に、「三浦半島。」とある。
 4:底本頭注に、「三浦の南端三崎。」とある。
 5:底本頭注に、「〇洲の崎、小湊、那古、竜島 いづれも安房海岸の地名。」とある。
 6:底本頭注に、「〇源氏思ひ立ち 源頼政兵を挙げたことをいふ。」「〇不運の宮 高倉宮以仁王。」とある。
 7:底本は、「宗徒(むねと)の輩(ともがら)」。底本頭注に、「重だつたる者。」とある。
 8:底本は、「介(すけの)八郎」。底本頭注に、「上総介平広常。」とある。
 9:底本は、「兵衛佐殿(ひやうゑのすけどの)」。底本頭注に、「源頼朝。」とある。
 10:底本は、「御教書(みげうしよ)」。底本頭注に、「御命令書。」とある。
 11:底本頭注に、「地方豪族で族類広く兵士の一団をなしてゐるもの。」とある。
 12:底本頭注に、「在原業平。但し隅田河は業平が名付けたのではない。」とある。
 13:底本は、「逗留(とうりう)し給ひ、すむだのわたり」。『義経記』(1992年岩波書店刊)頭注に従い改め、補った。
 14:底本頭注に、「物見の高櫓を造り。」とある。
 15:底本は、「成胤(なりたね)申さん」。『義経記』(1992年岩波書店刊)頭注に従い改めた。
 16:底本は、「頼朝(よりとも)に、加勢(かせい)を武蔵(の)国」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 17:底本は、「神妙(しんべう)」。底本頭注に、「殊勝。奇特。」とある。
 18:底本頭注に、「藤原秀衡の子。」とある。
 19:底本は、「立たぬ事」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 20:底本頭注に、「秀衡の三男泉三郎忠衡。」とある。
 21:底本は、「大城(おほき)うち通(とほ)り、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 22:底本頭注に、「どんどん駆け。」とある。

巻第四

一 頼朝義経に対面の事

 九郎御曹司、浮島が原に著き給ひ、兵衛佐殿の陣の前、三町ばかり引き退いて陣を取り、しばらく息をぞ休められける。
 佐殿{*1}、これを御覧じて、「こゝに白旗白印にて。清げなる武者五、六十騎ばかり見えたるは、誰なるらん。おぼつかなし。信濃の人々は、木曽{*2}に従ひて止まりぬ。甲斐の殿原は、二陣なり。いかなる人ぞ。仮名、実名{*3}を尋ねて参れ。」とて、堀弥太郎を御使にて遣はされ、家の子郎等あまた引き具して参る。間をへだてて弥太郎、一騎すゝみ出で、申しけるは、「『こゝに白じるしにておはしまし候は、誰人にて渡らせ候ぞ。仮名、実名を慥かに承り候へ。』と、鎌倉殿のおほせにて候。」と申しければ、その中に二十四、五ばかりなる男の、色白く尋常なるが、赤地の錦の直垂に、紫裾濃の鎧の裾金物うちたるを著、白星の五枚兜に鍬形打ちて、猪頚に著{*4}、大中黒の矢おひ、繁籘の弓持ちて、黒き馬の太く逞しきに乗りたるが、歩ませ出でて申しけるは、「鎌倉殿{*5}も知ろしめされて候。童名は牛若と申し候ひしが、近年、奥州に下向仕り候て居候ひつるが、御謀叛のよし承り、夜を日につぎて馳せ参じて候。見参に入れて給び候へ。」と仰せられければ、堀弥太郎、「さては、御兄弟にてましましけり。」と、馬より飛んで下り、御曹司の乳母子佐藤三郎をよび出だして、色代{*6}あり。弥太郎、一町ばかり馬を曳かせけり。
 かくて佐殿の御前に参り、この由を申し上げければ、佐殿は、善悪に騒がぬ人にておはしけるが、今度は殊の外嬉しげにて、「さらば、これへおはしまし候へ。見参せん。」とのたまへば、弥太郎、やがて参り、御曹司にこの由を申す。御曹司、大きに悦び、急ぎ参り給ふ。佐藤三郎、同四郎、伊勢三郎{*7}、これ等三騎召し連れて参らるゝ。佐殿御陣と申すは、大幕百八十町ひきたりければ、その内は、八箇国の大名小名、並み居たり。各、敷皮にてぞありける。佐殿、御座敷には畳一畳敷きたれども、佐殿も敷皮にぞおはしける。御曹司、兜を脱ぎて童にもたせ、弓取りなほし、幕のきはに畏まりてぞおはしける。その時佐殿、敷皮をさり、我が身は畳にぞ直られける。「それへ、それへ。」とぞ仰せらるゝ。御曹司、しばらく辞退して、敷皮にぞなほられける。佐殿は、御曹司をつくづくと御覧じて、まづ涙にぞ咽ばれける。御曹司も、そのいろは知らねども、共に涙にむせび給ふ。
 互に心のゆく程泣きて後、佐殿、涙を抑へて、「さても、頭殿{*8}におくれ奉りて、その後、御ゆくへを承り候はず。幼少におはし候時、見奉りしばかりなり。頼朝、池の尼{*9}の宥められしによりて、伊豆の配所にて、伊東、北條{*10}に守護せられ、心にまかせぬ身にて候ひし程に、奥州へ御下向の由は、幽かに承りて候ひしかども、おとづれだにも申さず候。兄弟ありと思し召し忘れ候はで、とりあへず御上り候こと、申し尽くしがたく悦び入り候。
 「これ、御覧候へ。かかる大事をこそ思ひ企てて候へ。八箇国の人々を初めとして候へども、皆他人なれば、身の一大事を申し合はする人もなし。みな平家に相従ひたる人々なれば、頼朝がよわげを守りたまふらんと思へば、夜もよもすがら平家のことのみ思ひ、またある時は、平家の討手上せばやと思へども、身は一人なり。頼朝自身すゝみ候へば、東国おぼつかなし。代官を上せんとすれば、心やすき兄弟もなし。他人を上せんとすれば、平家と一つになりて、かへつて東国をや攻めんと存ずる間、それも叶ひがたく、今御辺を待ち付けて候へば、故左馬頭殿、よみがへらせ給ひたるやうにこそ思ひ候へ。我等が先祖八幡殿{*11}の、後三年の合戦にむなうの城を攻められしに、多勢皆亡ぼされて、無勢になりて、栗屋川のはたにおり下りて{*12}、幣帛を捧げて王城をふし拝み、「南無八幡大菩薩。御擁護をあらためず、今度の寿命を助けて本意をとげさせて給べ。」と祈誓せられければ、まことに八幡大菩薩の感応にやありけん、都におはする御弟刑部丞{*13}は、内裏に候ひけるが、俄に内裏をまぎれ出で、『奥州のおぼつかなき。』とて、二百余騎にて下られける。路次にて勢うち加はり、三千余騎にて栗屋川に馳せ来て、八幡殿と一つになりて、終に奥州をしたがへ給ひける。その時の御心も、頼朝、御辺を待ちえ参らせたる心も、いかでかこれにまさるべき。今日より後は、魚と水とのごとくにして、先祖の恥をすゝぎ、亡魂{*14}の憤りを休めん。」と宣ひもあへず、涙を流し給ひけり。御曹司は、とかくの御返事{*15}もなくして、袂をぞしぼられける。これを見て、大名小名、たがひの心の中おしはかられて、みな袖をぞ濡らされける。
 暫くありて、御曹司、申されけるは、「仰せの如く、幼少の時、御目にかゝりて候ひけるやらん。配所へ御下りの後は、義経も山科に候ひしが、七歳の時鞍馬へ参り、十六までかたの如く学問を仕り、さては京都に候ひしが、内々平家、方便をつくる{*16}由承り候間、奥州に下向仕りて、秀衡を頼み候ひつるが、御謀叛の由承りて、取りあへずはせまゐる。今は、君を見奉り候へば、故頭殿の御見参に入り候心地してこそ候へ。命をば故頭殿に参らせ候、身をば君にまゐらする上は、いかゞ仰せに従ひ参らせでは候べき。」と申しも敢へず、又涙をながし給ひけるこそ哀れなれ。
 さてこそ、この御曹司を大将軍にて上せ給ひけり。

前頁  目次  次頁

校訂者注
 1:底本は、「佐殿(すけどの)」。底本頭注に、「兵衛佐殿。頼朝。」とある。
 2:底本頭注に、「源義賢の子義仲。」とある。
 3:底本は、「仮名実名(けみやうじつみやう)」。底本頭注に、「通称と名乗りと。」とある。
 4:底本は、「猪頚(ゐくび)に著(き)、」。底本頭注に、「冑を仰のきて著る。」とある。
 5:底本頭注に、「頼朝。」とある。
 6:底本は、「色代(しきだい)」。底本頭注に、「挨拶。」とある。
 7:底本頭注に、「〇佐藤三郎 継信。」「〇同四郎 忠信。」「〇伊勢三郎 義盛。」とある。
 8:底本は、「頭殿(かうのとの)」。底本頭注に、「左馬頭義朝。頼朝義経の父」とある。
 9:底本頭注に、「清盛の義母。頼盛の母。」とある。
 10:底本頭注に、「〇伊東 伊東祐親。」「〇北條 北條時政。」とある。
 11:底本頭注に、「源義家。」とある。
 12:底本は、「おし下りて、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 13:底本は、「刑部丞(きやうぶのじよう)」。底本頭注に、「新羅三郎義光。義家の弟。」とある。
 14:底本頭注に、「為義義朝などが平家のために怨みを懐いて死んだその霊を慰めよう。」とある。
 15:底本は、「とかくの返事(へんじ)」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 16:底本頭注に、「義経を除かうと手立てをする。」とある。

二 義経平家の討手に上り給ふ事

 御曹司、寿永三年に上洛して平家を追ひ落とし、一の谷、八島、壇の浦、所々の忠をいたし、さきがけ身をくだき、終に平家を攻めほろぼして、大将軍前の内大臣宗盛父子を生け捕り、三十人具足して上洛し、院、内{*1}の見参に入つて後、去んぬる元暦元年に、検非違使五位の尉になり給ふ。大夫判官、宗盛父子を具足して、腰越に著き給ひし時、梶原、申しけるは、「判官殿こそ、大臣殿{*2}父子を具足して、腰越に著かせ給ひて候なれ。君は、いかゞ御計らひ候。
 「判官殿は、身に野心をさしはさみたる御事にて候。その儀、いかにと申すに、一の谷の合戦に、城三郎高家、本三位の中将{*3}以下取り奉り、三河殿の御手{*4}に渡りて候を、判官、大きに怒りたまひて、『三河殿は、大方のことにてこそ。義経が手にぞ渡るべきものを{*5}。奇怪の者のふるまひかな。よせて討たん。』と候ひしを、景時が計らひに、土肥次郎{*6}が手に渡してこそ、判官はしづまり給ひしなれ。その上、『平家を打ち取つては、関より西をば義経賜はらん。天に二つの日なし。地に二人の王なしといへども、この後は、二人の将軍やあらんずらん。』と仰せ候ひしぞかし。
 「かくて、武功の達者、一度も馴れぬ船軍にも、風波の難を恐れず、舟ばたを走りたまふこと、鳥の如し。一の谷の合戦にも、城は無双の城なり、平家は十万余騎なり。身方は六万五千余騎なり。城は無勢にて寄せ手は多勢こそ、軍の勝負は決し候に、城は多勢、案内者、寄せ手は無勢、不案内{*7}の者どもなり。たやすく落つべきとも見え候はざりしを、鵯鳥越とて鳥獣も通ひがたき巌石を、無勢にて落とし、平家を終に追ひおとし給ふことは、凡夫のわざならず。今度、八島の軍に、大風にて波おびたゞしくして、船の通ふべきやうもなかりしを、たゞ舟五艘にてはせ渡し、僅かに五十余騎{*8}にて、左右なく八島の城におしよせて、平家の数万余騎を追ひおとし、壇の浦のつめ軍{*9}までも、終に弱気を見せたまはず。『漢土、本朝にも、これほどの大将軍、いかでか有るべき。』とて、東国、西国の兵ども、一同に仰ぎ奉る。
 「野心をさし挟みたる人にておはすれば、人ごとに情をかけ、侍までも目をかけられし間、侍ども、『あはれ、頼むべき主かな{*10}。この殿に命を奉らん事は、塵よりも惜しからじ。』と申して、心をかけ奉りて候。それに、左右なく鎌倉中へ入れまゐらせたまひて御座候はんこと、いぶせく{*11}候。御一期のほど、君の御果報なれば、さりともと存じ候{*12}。御子孫の世には、いかゞ候はんずらん。又、御一期と{*13}申しても、何とか御座候はん。」と申しければ、君、この由を聞こし召して、「梶原が申すことは、偽りなどはあらじなれども、一方を聞きて相はからはんことは、政道のけがるゝ所なり。九郎{*14}が著きたるなれば、明日これにて、梶原に問答せさせ候べし。」とぞ{*15}仰せられける。
 大名小名、これを聞きて、「今の御諚のごとくにては{*16}、判官、もとよりあやまり給はねば、もし助かり給ふことも有りなん。されども景時が、『逆櫓{*17}立てん。』との論のやまざる処に、壇の浦にて互に先がけ争ひて、矢筈を取り給ひしその遺恨に、かやうに讒言まうせば、終にはいかゞあらんずらん。」と申しける。「召し合はせん。」と仰せられいふ時に、梶原、あまなふの宿所に帰りて、偽りまうさぬ由、起請を書きて参らせければ、「この上は。」とて、大臣殿をば腰越より鎌倉にうけ取り、判官をば腰越に止めらる。
 判官、「先祖の恥をきよめ、亡魂の憤りを休め奉る事は本意なれども、随分二位殿{*18}の気色にあひかなひ奉らんとてこそ、身を砕きては振舞ひしか。恩賞に行はれんずるかと思ひつるに、向顔をだにも遂げられざる上は、日ごろの忠も、益なし。あはれ、これは、梶原めが讒言ごさんなれ。西国にて切りも棄つべきやつを、哀憐をたれてたすけ置きて、敵となしぬるよ。」と後悔したまへども、甲斐ぞなき。
 鎌倉には二位殿、川越太郎{*19}を召して、「九郎が、院の御気色よきまゝに、世を乱さんと内々たくむなり。西国の侍ども附かぬさきに、腰越に馳せ向ひ候へ。」と仰せられければ、川越、申されけるは、「何事にても候へ、君の御諚を背き申すべきにては候はねども、且は知ろしめして候やうに、娘にて候者を、判官殿の召しおかれて候間、身に取りてはいたはしく候。他人に仰せ付けられ候へ。」と、申し捨ててぞ立たれける。道理なれば、重ねても仰せ出だされず。
 また、畠山{*20}を召して仰せられけるは、「川越に申し候へば、『親しくなり候とて、叶はじ。』と申す。さればとて、世を乱さんとふるまひ候九郎を、そのまゝ置くべきやうなし。御辺、うち向ひ候べし。吉例なり。さも候はば、伊豆、駿河両国を奉らん。」と仰せられければ、畠山、万に憚らぬ人にて、申されけるは、「御諚、背き難く候へども、八幡大菩薩の御誓ひにも、『人の国より我が国、他人よりも我が人をこそ守らん。』とこそ承り候へ。他人と親しきと、いひ較ぶれば、たとふる方なし。梶原と申すは、一旦の便によりて召しつかはるゝ者なり。彼が讒言により、年ごろの忠{*21}と申し、御兄弟の御中と申し、たとへ御恨み候とも、九国にてもまゐらさせたまひて、見参とて{*22}、重忠に賜はり{*23}候はんずる伊豆、駿河両国を、勧賞の引手物にまゐらせたまひ、京都の守護に置き参らせたまひ候て、御後ろを守らさせたまひて候はん程の御心やすきことは、何事か候べき。」と、憚る所なく申し捨てて、立たれける。
 二位殿、「ことわり。」と思し召しけるにや、その後は、仰せ出ださるゝこともなし。腰越に、このことを聞きたまひて、野心をさしはさまざる旨、数通の起請文を書き進じられけれども、猶ほ御承引なかりければ、重ねて申し状をぞ参らせられける。

三 腰越の申し状の事

  源義経、恐れながら申しあぐる意趣は、御代官{*24}のその一に選ばれ、勅宣の御使として朝敵を傾け、会稽の恥辱をすゝぐ。勲賞{*25}行はるべき処に、思ひの外、虎口の讒言によつて莫大の勲功を黙止せられ、義経、犯す事なうして咎を蒙り、過誤なしといへども功ありて御勘気を蒙るの間、むなしく紅涙に沈む。讒者の実否をたゞされず、鎌倉中へだに入れられざるの間、素意をのぶるにあたはず、いたづらに数日をおくる。この時に当たつて、長く恩顔を拝し奉らず。骨肉同胞の儀、既に絶え、宿運極めてむなしきに似たるか。はた又、前世の業因を感ずるか。悲しきかな、この條、故亡父{*26}の尊霊再誕の縁にあらずんば、誰人か愚意の悲歎を申しひらかん{*27}。いづれの輩か哀憐を垂れんや。
  事あたらしき申し状、述懐に似たりといへども、義経、身体髪膚を父母に受け、いくばくの{*28}時節を経ずして、故頭殿{*29}御他界の間、孤子となつて、母の懐中に抱かれて、大和国宇多郡竜門の牧に赴きしより以来、一日片時も安堵のおもひに住せず、かひなき命を存すといへども、京都の経廻難治{*30}の間、身を在々所々に隠し、辺土遠国をすみかとして、土民百姓等に服仕せらる。しかれども交契忽ちに純熟して、平家の一族追討のために上洛せしむる。まづ木曽義仲を誅戮の後、平家を攻め傾けんがために、ある時は峨々たる巌石に駿馬に鞭うつて、敵のために命を滅ぼさんことを顧みず。ある時は漫々たる大海に風波の難を凌ぎ、身を海底に沈めん事をいたまずして、屍を鯨鯢の腮にかく。しかのみならず、甲冑を枕とし弓箭を業とする本意、しかしながら亡魂の鬱憤をやすめ奉り、年来の宿望を遂げんと欲する外は、他事なし。
  あまつさへ義経、五位の尉に補任せらるゝの條、当家の重職、何事かこれにしかん。しかりといへども、今、愁へ深く、歎き切なり。仏神の御助けにあらざるより外は、いかでか愁訴を達せん。これによつて、諸寺諸社の牛王宝印の御裏{*31}を以て、全く野心をさし挟まざるむね、日本国中大小の神祇冥道を請じ、おどろかし奉りて、数通の起請文をかき進ず{*32}といへども、猶以て御宥免なし。それ我が国は神国なり。神は非礼をうけ給はず。頼む所、他にあらず。ひとへに貴殿{*33}広大の御慈悲を仰ぎ、便宜を窺ひ上聞に達せしめ、秘計をめぐらし、過誤なきむねに宥ぜられ、芳免に預からば、積善の余慶家門に及び、栄華を長く子孫に伝へ、よつて年来の愁眉を開き、一期の安寧を得ん{*34}。
  書紙につくさず。しかしながら省略せしめ候ひをはんぬ。義経。誠恐謹言。
    元暦二年六月五日  源義経
  進上  因幡守殿
とぞ書かれたる。
 これを聞こし召して、二位殿{*35}を始め奉りて、御前の女房達にいたるまで、涙をぞ流されける。さてこそ暫くさし置かれけれ。
 判官は、都に院{*36}の御気色よくて、「京都の守護には、義経に過ぎたる者あらじ。」との御気色なり。万事あふぎ奉る。
 かくて、秋も暮れ、冬の初めにもなりしかば、梶原が憤りやすからずして、しきりに讒言申しければ、二位殿、「さも。」とや思はれける。

前頁  目次  次頁

校訂者注
 1:底本頭注に、「〇院 後白河上皇。」「〇内 後鳥羽天皇。」とある。
 2:底本頭注に、「内大臣宗盛。」とある。
 3:底本頭注に、「平重衡。」
 4:底本は、「三河殿(みかはどの)の手」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。底本頭注に、「〇三河殿 頼朝の弟三河守範頼。」とある。
 5:底本頭注に、「重衡以下の捕虜は義経の手に渡るべきに範頼の手に渡つて奇怪の事であるの意。」とある。
 6:底本頭注に、「土肥実平。」とある。
 7:底本は、「寄手(よせて)は無案内(ぶあんない)」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補い、改めた。
 8:底本は、「五千余騎」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 9:底本は、「つめ軍(いくさ)」。底本頭注に、「敵を追ひつめて戦ふこと。」とある。
 10:底本は、「主(しう)かなと、この殿(との)に」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い削除した。
 11:底本頭注に、「厭はしく気の晴れない。」とある。
 12:底本頭注に、「頼朝一代の間は頼朝の幸運だからそれでも別段の事もあるまいがの意。」とある。
 13:底本は、「御一言(おんひとこと)申しても、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 14:底本頭注に、「義経。」とある。
 15:底本は、「と仰せられける。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 16:底本は、「ごとくにてぞ。」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 17:底本は、「逆櫓(さかろ)」。底本頭注に、「八島の戦ひに梶原が艫にも舳にも艪をつけ舷に楫を設けて進退に自由にしようと提議して義経に排せられた事。」とある。
 18:底本頭注に、「頼朝。但し頼朝正二位になつたのは文治五年で此の時は二位ではなかつた。」とある。
 19:底本頭注に、「武蔵の士。川越太郎重房。」とある。
 20:底本頭注に、「畠山重忠。」とある。
 21:底本頭注に、「義経が数年来の中を尽したこと。」とある。
 22:底本頭注に、「見参の贈物としての意。」とある。
 23:底本は、「賜ひ候はんずる」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 24:底本は、「代官」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 25:底本は、「勲功(くんこう)に行はる」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 26:底本頭注に、「故父義朝。」とある。
 27:底本頭注に、「故父の尊霊が再び生まれ出て来られる機縁がなければこの悲歎を申し述べられない。」とある。
 28:底本は、「いくばく時節」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 29:底本頭注に、「故左馬頭義朝。」とある。
 30:底本頭注に、「〇経廻 廻りあるくこと。」「〇難治 難治。難義。」とある。
 31:底本は、「牛王宝印の裏」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い補った。
 32:底本は、「進(しん)ずると雖も、」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い改めた。
 33:底本頭注に、「因幡守大江広元をいふ。」とある。
 34:底本は、「得んこと書紙に」。『義経記』(1992年岩波書店刊)に従い削除した。
 35:底本頭注に、「頼朝。」とある。
 36:底本頭注に、「後白河院。」とある。

↑このページのトップヘ