江戸期版本を読む

当コンテンツは、以下の出版物の草稿です。『翻刻『道歌心の策』』『翻刻・現代語訳『秋の初風』』『翻刻 谷千生著『言葉能組立』』『津の寺子屋「修天爵書堂」と山名信之介』『津の寺子屋「修天爵書堂」の復原』。御希望の方はコメント欄にその旨記して頂くか、サイト管理者(papakoman=^_^=yahoo.co.jp(=^_^=を@マークにかえてご送信ください))へご連絡下さい。なお、当サイトの校訂本文及び注釈等は全て著作物です。翻字自体は著作物には該当しませんが、ご利用される場合には、サイト管理者まご連絡下さい。

カテゴリ:軍記物語 > 校訂「太平記」 日本文学大系本

校訂太平記(日本文学大系本)WEB総目次

 本コンテンツは「太平記 上巻 下巻」(『日本文学大系 第17巻』『同 第18巻』(国民図書 1925年刊)所収。国立国会図書館デジタルコレクション)の本文翻字です。

校訂太平記(日本文学大系本)WEB目次1/4(巻 1~11)
01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11
校訂太平記(日本文学大系本)WEB目次2/4(巻12~23)
12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23
校訂太平記(日本文学大系本)WEB目次3/4(巻24~32)
24 25 26 27 28 29 30 31 32
校訂太平記(日本文学大系本)WEB目次3/4(巻33~40)
 33 34 35 36 37 38 39 40
 
軍記物語関係記事 総合インデックス

校訂太平記(日本文学大系本 1925年刊)WEB凡例

  1:底本は「太平記  」(1925年国民図書刊 国会図書館デジタルコレクション)です。
  2:校訂の基本方針は「本文を忠実にテキスト化しつつ、現代の人に読みやすくする」です。
  3:底本のふりがなは全て省略しました。
  4:底本の漢字は原則現在(2025年)通用の漢字に改めました。
  5:繰り返し記号(踊り字)は、漢字一字を繰り返す「々」を除き、原則文字表記しました。
  6:底本の適宜改行し、句読点および発話を示す鍵括弧は適宜修正、挿入しました。
  7:底本の漢文は適宜訓読を修正し、書き下して示しました。
  8:校訂には『新潮日本古典集成 太平記』(山下宏明校注 1979-1988)、『通俗日本全史 太平記  』(早稲田大学出版部 1913-1914)を参照しました。
  9:底本の修正のうち、必要と思われるものは校訂者注で示しました。但し、以下の漢字は原則として、他の漢字あるいはかな表記に変更しました(以下、作業巻十六終了時点)。

他の漢字に変更した主な漢字(五十音順)

あ行
 対手・合手→相手 絳→赤 厭→飽 襄→上 上巻→総角 軻→憧 屐→足駄 敵→仇 値→直 傍→辺 中→当 聚・攅→集 跡→後 蔑→侮 併・勠→合 降下→天降 霤→雨垂 怪→賤 奇→怪 暴→荒 荒手→新手 呈・見・露→顕・現 分野・形勢→有様 沫→泡 遽・周章→慌 忿・嗔→怒 奈→奈何 吻→息吐 何→幾 虜・生虜・生擒→生捕 懐→抱 電→稲光 云→言・曰 痊→癒 坐→居 納物→入物 矧→況 表→上 奉→承 揺→動 裏→内 打→討 討→打 摸→写 移→映 訟・愬→訴 填→埋 生産→産屋 霑・濡→潤 獲→得 偉→大 澳→沖 措→置 殿→遅・後 発→起 儼→厳 懈・惰→怠 少・稚→幼 撥→治 推→押 隕→落 威→縅 墜→落 訖→終 劫→脅 課→仰 呼→喚 想像→思遣 揆→趣 以→思見 游→泳 曁→及 時節→折節 処→居 下風→颪
か行
 反・帰→返 返→帰 耀・栄・映→輝 懸→駆 逝→隠 峪→崖 梯→架橋 橈→楫 借→貸 計・算→数 首途→門出 干→乾 賽→返申 咀・嚼→噛 肆→故 渠→彼 勘→考 関木→閂 関→木戸 昨→昨日 今→今日 行妝→行粧 雪→清 衣・服→著 涯→際 獄→極 杙→杭 噬→食 蘇→草刈 摧→砕 漱→口漱 陰→曇 暝→暗 校→比 縷→繰 困→苦 銷・滅→消 距→蹴爪 峻・岨→嶮 音→声 言・辞→詞 意→心 若→如 答→応 菓→木実 比・来→頃
さ行
 祐→幸 橈→棹 相摸→相模 昌・熾→盛 前→先 先→前 捜→探 閣→差置 挿→挟 指→差 差→指 醒→冷 卅→三十 参然→燦然 塩→潮 布→敷 荐→頻 急雨→時雨 滋・重・茂→繁 安→静 順→従 定→鎮 篠目→東雲 忍→偲 且→暫 卜→占 縮→締 却→退 識→知 験・符→印 居→据 季→末 態・容→姿 前→進 仍→乃 膸→臑 清→澄 尖→鋭 攻・譴→責 責→攻 前途→先途 淋・灑→注 備→供 傍→添 乖→背 捀→剃
た行
 焼松→松明 夷→平 財→宝 卓散→沢山 勇→猛 援・扶・資→助 直・徒・凡・啻→只 惟→唯 扣→敲 彳→佇 乍→忽 建→立 手縄→手綱 立・豎→縦 献・上→奉 負→恃 旅宿→旅寝 持・有→保 低→垂 癡→痴 嬭→乳 中→宙 聿→遂 翌→次 杖→突 記・属→附 筒→胴 継・連→続 続→継 裹・韜→包 維→繋 恒→常 翹→爪立 爪・攻→詰 質・行・方便→手立 尤→咎 時・鯨→鬨 磨・礪→研 解→溶 抖擻→斗薮 遏・禁→止 徇→唱 途方・度方→途方 篷→苫 取手→砦 掇→捕 秉→取
な行
 詠→眺 存→長 莫→勿・無 旒→流 汀→渚 擲→投 小大→何 泪→涙 双→並 若→汝 盍・胡→何 煎→煮 掬・拳→握 北→逃 悪→憎 廿→二十 燎→庭火 抽→抜 解→脱 偸→盗 寐→寝 逋→遁 貽→遺 莅・望→臨 宣→述 騰→昇
は行
 帯→佩 生育→育 鏌鎁→莫耶 辱・垢→恥 趨→走 弛→外 旌→旗 裸・膚→肌 袒→肌脱 終→果 発→放 衄→鼻血 太→甚 攘→払 控→引 簇→菱 一涯→一際 侔・均→等 一→一人 日→日々 漬→浸 嬪→姫 析・排→開 浚→深 深→更 偃→伏 船→舟 戦→震 行事・行跡・挙動→振舞 阻→隔 反→遍 禿倉→祠 恣→専 風→仄 縨→母衣
ま行
 進→参 苟→誠 方→将 真額→真向 最前→真先 親→目当 守→目守 向上→見上 直下・瞰下→見下 参河→三河 陽→南 瞪→見張 逝→身罷 盻→見目 目合→目配 対→向 百足蚿・蚿→蜈蚣 蝕→虫食 心→胸 運→巡 旋→廻 設→儲 烘→燃 本→元 懶→物憂 襟→物思 屑→物数 武具→物具 焼→燃 泄→洩 諸→諸々
や行
 安→易 休→止 息→休 寧→安 矢所→矢壺 矢場→矢庭 敗・傷→破 破→敗 停・休→止 行末→行方 寛→緩 免→許 要→横切 吉→好・良 拠→由 妝→粧 儲→世継 蘇生→蘇 仍・憑→依 倚傍→寄添 暗→夜 拠→拠処
わ行
 萱→忘草 纔・才→僅 咲→笑 符→割符 予→我

仮名表記とした主な漢字

あ行
 ああ(嗚呼) あからさま(白地) あ(勝)げて あこが(狂浮)る あざ(叉)ふ あだ(浮) あたか(恰・宛)も あたり(傍・側) あた(膺)る あなが(強)ち あは(哀)れ あぶ(溢)る あまた(数多) あまつさ(剰)へ あまね(遍)し あや(出)す あらた(革)む あら(呈)はる あらま(有増) ありか(在所) いかさま(何様・如何様) いかで(争)か いかん(奈何) いきつ(吻)く いささ(聊)か いた(痛)し いたづら(徒) いたは(労)る いつ(何時) いつ(仮)く いづかた(何方) いづく(何く・何処・何方・安) いつく(厳)し いづこ(何処) いづち(何地) いづ(何)れ いびき(䶌[⿰鼻空]) い(云・言・道)ふ いへど(雖・云へど)も いまし(警・禁・縛)む いま(在)す いや(弥) いよいよ(弥) うたて(落情・方見)し うつ(覆)ぶし お(推)す おはしま(坐・御座)す おは(坐・御座・御坐)す おび(誘)く おびただ(夥)し おぼ(覚)ゆ おもかげ(化) おもね(阿)る おもひびと(妾人) およ(凡)そ おろそ(疎)か
か行
 か(彼・斯・歟) かう(右) かか(褰)ぐ かかは(拘)る かがま(勾)る かが(屈)む かか(係)り か(掻)く かく(此・斯く) かこ(喞)つ かしこ(彼処・彼) かしづ(册)く かす(翳)む かたがた(旁) かたち(容・貌) かたへ(傍) かだま(奸)し かち(歩・徒・徒歩) かつ(曽)て かつぱ(岸破) かな(協)ふ かね(予・兼ね)て か(易)ふ かへ(却・還)つて かへ(回・翻・復)る かれ(渠儂・彼) かんばせ(顔) きこり(樵) きし(輾)る きたな(膩・蓬)し きは(谷)まる きび(密・緊)し くたび(草臥・疲)る くだん(件) くちずさ(口遊)み くつろ(寛)ぐ くは(銜・噬)ふ くひしば(切)る けが(汚)す こ(此・是) ここ(爰・此・云・此処・茲・此所) ここをもつて(是以) こぞ(挙)つて ごづめ(後づめ攻) ことづ(託)く ことゆゑ(事故) こなた(此方) こら(怺)ふ これ(之・之れ・茲・是・是れ・此)
さ行
 さ(指) さかさま・さかしま(倒・逆) さか(嶛)し さが(僻)り ささや(私語)く さ(掣・差)す さすが(流石) さて(扠) さなが(宛)ら さは(礙)る さみ(褊)す さ(去)る しか(併)し しか(爾・而) しかのみならず(加之) しか(然・而)も しき(敷) しきなみ(頻並) した(滴)つ した(瀝・滴)づ しづしづ(閑々) しづ(閑)む しどろ(四度路) しりへ(後) しるし(験) しわざ(所為) す(為・仕) すが(縋)る すく(癱)む すぐ(勝)る すこぶ(頗)る すさま(冷)じ すさ(荒)む すす(洗・雪)ぐ ずたずた(分々) すぢかひ(直違・筋違) すべ(都)て すまひ(止住) すみやか(急) せ(責)めて そ(其) そ(剥)ぐ そなた(其方) そのとき(爾時) そばだ(欹・峙)つ そば(側)む そ(傍)ふ そもそも(抑) そら(暗) そらごと(虚事) そら(諳)んず それ(夫) そろ(汰・調)ふ
た行
 たけ(長) ただ(啻・惟・徒・凡・直) ただち(直) たとひ(縦・縦令・仮令) たばか(欺罔)る たまたま(適) たま(溜)り たま(怺)る たやす(容易・輒)し たゆ(撓)し たゆ(怠)む ち(禿)ぶ ちまた(岐) つ(就)いて ついで(次) つが(番)ひ つ(附)く つくろ(刷)ふ つづらをり(攀折・九折) つひ(弊)ゆ つぶさ(具) つまづ(蹶)く つま(逼・迫)る つゆ(露) つらつら(倩) つれな(強顔)し つんざ(劈)く ていたらく(為体) 杻械(てかせあしかせ) てきめん(覿面) てへれば(者) とかく・とかう(兔角) とき(則)んば とこしなへ(鎮) としごろ(年来) どつ(咄)と と(弔)ふ とも(共) ども(共・供) ともかく(兔も角) ともし(照射) とも(点)す とりわ(取分)け
な行
 なかだち(媒) なが(乍)ら なかんづく(就中) な(作)す なだ(頽)れ な(摩)づ ななめならず・なのめならず(斜ならず) なほざり(等閑) なまじ(憖)ひ なや(難)む ならはし(習慣) な(作)る にぶら(淬)す ぬけち(匿地) のえふ(偃)す の(展)ぶ の(仰)る
は行
 はかばか(捗々)し はか(果)なし ばか(計・許)り はかりごと(謀・計) は(矯・作)ぐ はさ(夾)む はだし(跣) はだへ(膚) はづ(迦・放)す はづ(迦)る はびこ(蔓)る はや(早)り ひそか(窃・潜・竊・偸) ひたかぶと(混兜) ひたすら(一向・混すら) ひととな(長・長成)る ひとへ(偏)に ひと(独)り ひねもす(尽日) ひもろぎ(胙) ひやや(秋)か ひる(疼)む べ(可)し へつら(諛)ふ ほしいまま(専) ほだ(羈)す ほとり(辺) 
ま行
 まこと(実事) ますます(倍) まち(町) まちまち(区々) まつげ(睫) まどろ(目睡・目眠)み まなじり(眥) まま(儘・侭) まみ(触)る みだ(漫)り みちしるべ(道指南) みつぎ(御貢) むくろ(質) めくるめ(眩)く も(若・儻)し もすそ(裙) もと(許・故) もとより(元来) もつ(将)て もの(物・者・言) ものい(言)ふ もろ(盬)し もろとも(諸共)
や行
 や(乎) やう(様) やが(軈・頓)て やすら(徘徊)ふ やたけ(矢長・八十梟) やには(矢場) や(止)む やや(動) ゆかり(縁) ゆくへ(行末) ゆめゆめ(努々) ゆゆ(由々)し よ(能)く よご(膩)る よし(好)み よそ(外所・外・余所) よもすがら(終夜・通夜) より(自従) よんどころ(拠)
ら行
 らう(臈)たけ
わ行
 わざ(態・業) わす(遺)る わなな(戦)く ゑ(鐫)る

 なお、底本のかなを漢字に直す事はしていません。

校訂太平記(日本文学大系本)WEB目次1/4(巻1~11)

序 巻第一
011 序 後醍醐天皇御治世 関所停止 立后
012 儲王 中宮御産御祈り 無礼講
013 頼員かへり忠 資朝俊基関東下向

巻第二
021 南都北嶺行幸 僧徒六波羅へ召捕
022 三人の僧徒関東下向 俊基朝臣再び関東下向
023 長崎新左衛門尉意見
024 俊基誅せらる 天下怪異
025 師賢登山 持明院殿六波羅に御幸
主上臨幸実事に非ざるに依つて山門変議

巻第三
031 主上御夢  032 笠置軍
033 主上笠置を御没落
034 赤坂城軍 桜山自害

巻第四
041 笠置の囚人死罪流刑
042 八歳の宮御歌 一宮並妙法院二品親王
俊明極参内 中宮御歎き 先帝遷幸
043 備後三郎高徳《 呉越軍 》

巻第五
051 持明院殿御即位 宣房卿二君奉公
中堂の新常灯消ゆ 相模入道田楽を弄ぶ
時政江島参篭
052 大塔宮熊野落ち

巻第六
061 民部卿三位局御夢想  062 楠天王寺に出張
063 正成天王寺の未来記披見
赤松入道円心に大塔宮の令旨を賜はる
関東の大勢上洛
064 赤坂合戦

巻第七
071 吉野の城軍  072 千剣破城軍
073 新田義貞に綸旨を賜ふ
赤松蜂起 河野謀叛
074 先帝船上へ臨幸 船上合戦

巻第八
081 摩耶合戦   082 三月十二日合戦
083 持明院殿六波羅に行幸
084 禁裏仙洞御修法 山徒京都に寄す
085 四月三日合戦
086 主上自ら金輪の法を修せしめ給ふ 谷堂炎上

巻第九
091 足利殿御上洛 山崎攻め
092 足利殿大江山を打ち越え給ふ
足利殿篠村著御則ち国人馳せ参る
高氏願書を篠村八幡宮に篭めらる
093 六波羅攻め  094 主上上皇御沈落
095 越後守仲時已下自害
主上上皇五宮のために囚はれ給ふ
千剣破城寄せ手敗北

巻第十
101 千寿王殿大蔵谷を落ちらる 新田義貞謀叛
102 三浦大多和合戦意見 鎌倉合戦
103 赤橋相模守自害 稲村崎干潟となる
104 鎌倉兵火 大仏貞直並金沢貞将討死
 信忍自害 塩田父子自害 塩飽入道自害
105 安東入道自害 亀寿殿信濃へ落とさしむ
106 長崎次郎高重最後の合戦
高時並一門以下東勝寺において自害

第十一
111 五大院右衛門宗繁相模太郎を賺す
諸将早馬を船上に参らせらる 書写山行幸
112 正成兵庫へ参る 筑紫合戦
113 長門の探題降参
越前の牛原地頭自害 越中の守護自害
114 金剛山の寄せ手等誅せらる

(校訂者注:本コンテンツは「太平記 上巻」(国民図書1925年刊『日本文学大系 第17巻』所収。国立国会図書館D.C.)前半(巻1~巻11)の本文翻字です。凡例は、WEB総目次にあります。なお、{*}の章は内容の一部が前後の章に移動しています。また、《 》は校訂者による補入です。

校訂太平記(日本文学大系本)WEB総目次

校訂源平盛衰記(日本文学大系本)WEB目次2/4(巻12~23)
校訂源平盛衰記(日本文学大系本)WEB目次3/4(巻24~32)
校訂源平盛衰記(日本文学大系本)WEB目次4/4(巻33~40)
 

太平記


 蒙、竊かに古今の変化を採り、安危の来由を察するに、覆ひて外無きは天の徳なり。明君之を体して国家を保つ。載せて棄つること無きは地の道なり。良臣之に則りて社稷を守る。若し夫れ其の徳欠くるときんば位有りと雖も保たず。所謂夏の桀は南巣に走り、殷の紂は牧野に敗る。其の道違ふときんば威有りと雖も久しからず。曽て聴く、趙高は咸陽に刑せられ禄山は鳳翔に亡ぶ。是を以て前聖慎しんで法を将来に垂るるを得たり。後昆顧みて誡めを既往に取らざらんや。

巻第一

後醍醐天皇御治世の事 附 武家繁昌の事

 ここに、本朝人皇の始め、神武天皇より九十五代の帝、後醍醐天皇の御宇に当たつて、武臣相模守平高時といふ者あり。この時、上、君の徳に背き、下、臣の礼を失ふ。これより四海、大きに乱れて、一日も未だ安からず。狼煙、天をかすめ、鯢波、地を動かす事、今に至るまで四十余年。一人として春秋に富めることを得ず。万民、手足を置く所なし{*1}。
 つらつらその濫觴を尋ぬれば、ただに禍ひ、一朝一夕の故にあらず。元暦年中に、鎌倉の右大将頼朝卿、平家を追討してその功あるの時、後白河院、叡感の余りに、六十六箇国の総追捕使に補せらる。これより武家、始めて諸国に守護を立て、荘園に地頭を置く。かの頼朝の長男左衛門督頼家、次男右大臣実朝公、相続いて皆、征夷将軍の武将に備はる。これを三代将軍と号す。然るを、頼家卿は実朝のために討たれ、実朝は頼家の子悪禅師公暁のために討たれて、父子三代、僅かに四十二年にして尽きぬ。その後、頼朝卿の舅遠江守平時政の子息、前陸奥守義時、自然に天下の権柄を執り、勢ひ、漸く四海を覆はんと欲す。この時の太上天皇は、後鳥羽院なり。武威、下に振るはば、朝憲、上に廃れんことを歎き思し召して、義時を亡ぼさんとし給ひしに、承久の乱出で来て、天下、暫くも静かならず。遂に旌旗、日を掠めて、宇治、勢多にして相戦ふ。その戦ひ、未だ一日も終へざるに、官軍、忽ちに敗北せしかば、後鳥羽院は、隠岐国へ遷されさせ給ひて、義時、いよいよ八荒を掌に握る。それより後、武蔵守泰時、修理亮時氏、武蔵守経時、相模守時頼、左馬権頭時宗、相模守貞時。相続いて七代、政、武家より出でて、徳、窮民を撫するに足り、威、万人の上に被るといへども、位、四品の際を越えず。謙に居て仁恩を施し、己を責めて礼義を正す。これを以て、高しといふとも危からず、盈てりといふとも溢れず。
 承久より以来、儲王、摂家の間に、理世安民の器に相当たり給へる貴族を一人、鎌倉へ申し下し奉りて、征夷将軍と仰いで、武臣、皆拝趨の礼を事とす。同じき三年に、始めて洛中に両人{*2}の一族を据ゑて、両六波羅と号して西国の沙汰をとり行はせ、京都の警衛に備へらる。又、永仁元年より、鎮西に一人の探題を下し、九州の成敗を司らしめ、異賊襲来の守りを堅うす。されば、一天下普ねく、かの下知に随はずといふ処もなく、四海の外も、均しくその権勢に服せずといふ者はなかりけり。朝陽犯さざれども、残星光を奪はるる習ひなれば、必ずしも武家より公家を蔑ろにし奉るとしもは無けれども、所には、地頭強うして領家は弱く、国には、守護重うして国司は軽し。この故に、朝廷は年々に衰へ、武家は日々に盛んなり。これに因つて代々の聖主、遠くは承久の宸襟を休めんがため、近くは朝儀の陵廃を歎き思し召して、東夷を亡ぼさばやと、常に叡慮を巡らされしかども、或いは勢微にして叶はず、或いは時未だ到らずして黙止し給ひける処に、時政九代の後胤、前相模守平高時入道崇鑑が代に至つて、天地、命をあらたむべき危機、ここに顕はれたり。
 つらつら古を引きて今を視るに、行跡、甚だ軽くして、人の嘲りを顧みず、政道、正しからずして、民の弊えを思はず。只日夜に逸遊を事として、前烈{*3}を地下に羞しめ、朝暮に奇物を翫んで、傾廃を生前に致さんとす。衛の懿公が鶴を乗せし楽しみ、早尽き、秦の李斯が犬を牽きし恨み、今に来りなんとす。見る人、眉を顰め、聴く人、唇を翻す。この時の帝後醍醐天皇と申せしは、後宇多院の第二の皇子、談天門院{*4}の御腹にておはせしを、相模守が計らひとして、御年三十一の時、御位に即け奉る。御在位の間、内には三綱五常の儀を正しうして、周公、孔子の道に従ひ、外には万機百司の政を怠り給はず。延喜、天暦の跡を追はれしかば、四海、風を望んで{*5}悦び、万民、徳に帰して楽しむ。およそ諸道の廃れたるを興し、一事の善をも賞せられしかば、寺社禅律の繁昌、ここに時を得、顕密儒道の碩才も、皆望みを達せり。誠に天に受けたる聖主、地に奉ぜる明君なりと、その徳を称し、その化に誇らぬものは、なかりけり。

関所停止の事

 それ、四境七道の関所は、国の大禁を知らしめ、時の非常を誡めんがためなり。然るに今、壟断の利に依つて、商売往来の弊え、年貢運送の煩ひありとて、大津、葛葉の外は、悉く所々の新関を止めらる。又、元亨元年の夏、大旱、地を枯らして、甸服{*6}の外百里の間、空しく赤土のみあつて青苗なし。餓莩、野に満ちて、飢人、地にたふる。この年、銭三百を以て粟一斗を買ふ。君、遥かに天下の飢饉を聞こし召して、「朕、不徳あらば、天、我一人を罪すべし。黎民、何の咎ありてかこの災ひに遭へる。」と、自ら帝徳の天に背ける事を歎き思し召して、朝餉の供御を止められて、飢人窮民の施行に引かれけるこそ有り難けれ。これも猶、万民の飢ゑを助くべきに非ずとて、検非違使の別当に仰せて、当時富裕の輩が、利倍のために蓄へ積める米穀を点検して、二條町に仮屋を建てられ、検使自ら断りて、値を定めて売らせらる。されば、商買共に利を得て、人皆九年の蓄へあるが如し。訴訟の人出来の時、もし下情、上に達せざる事もやあらんとて、記録所へ出御成つて、直に訴へを聞こし召し明らめ、理非を決断せられしかば、虞芮の訴へ忽ちに停まつて、刑鞭も朽ちはて、諌鼓も撃つ人なかりけり。誠に理世安民の政、もし機巧に附いてこれを見れば、命世亜聖の才とも称しつべし。ただ恨むらくは、斉桓、覇を行ひ、楚人、弓をわすれしに、叡慮、少しき似たることを。これ則ち、草創は一天を合はすといへども、守文は三載を越えざる所以なり。

立后の事 附 三位殿御局の事

 文保二年八月三日、後西園寺太政大臣実兼公の御女{*7}、后妃の位に備はつて、弘徽殿に入らせ給ふ。この家に女御を立てられたる事、已に五代。これも承久以後、相模守{*8}、代々西園寺の家を尊崇せしかば、一家の繁昌、あたかも天下の耳目を驚かせり。君も、関東の聞こえ、然るべしと思し召して、とりわけ立后の御沙汰もありけるにや。御齢、已に二八にして、金鶏障の下にかしづかれて、玉楼殿の内に入り給へば、夭桃の春を傷める粧ひ、垂柳の風を含める御形、毛嬙、西施も面を恥ぢ、絳樹、青琴も鏡を掩ふほどなれば、君の御おぼえも定めて類あらじとおぼえしに、君恩、葉よりも薄かりしかば、一生空しく玉顔に近づかせ給はず。深宮の中に向つて春の日の暮れ難き事を歎き、秋の夜の長き恨みに沈ませ給ふ。金屋に人無うして、耿々たる残んの灯の壁に背ける影、薫篭に香消えて、蕭々たる夜の雨の窓を打つ声、物毎に皆、御涙を添ふるなかだちとなれり。「人生まれて、婦人の身となること勿れ。百年の苦楽、他人に因る。」と白楽天が書きたりしも、理なりとおぼえたり。
 その頃、安野中将公廉の女に、三位殿の局{*9}と申しける女房、中宮の御方に候はれけるを、君、一度御覧ぜられて、他に異なる御おぼえあり。三千の寵愛一身にありしかば、六宮の粉黛は顔色なきが如くなり。すべて三夫人、九嬪、二十七の世婦、八十一の女御及び後宮の美人、楽府の妓女といへども、天子顧眄の御心を附けられず。ただに殊艶尤態のひとりよくこれを致すのみにあらず。蓋し善巧便佞、叡旨に先だちて奇を争ひしかば、花の下の春の遊び、月の前の秋の宴にも、駕すれば輦を共にし、幸すれば席をほしいままにし給ふ。これより君王、朝政をし給はず。忽ちに准后の宣旨を下されしかば、人皆、皇后元妃の思ひをなせり。驚き見る、光彩の始めて門戸に生る事を。この時、天下の人、男を生むことを軽んじて、女を生むことを重んぜり。されば、御前の評定、雑訴の御沙汰までも、准后の御口入とだに言ひてげれば、上卿も、忠なきに賞を与へ、奉行も、理あるを非とせり。関雎は楽しんで淫せず、哀しんで傷らず。詩人採つて、后妃の徳とす。いかんかせん、傾城傾国の乱、今にありぬとおぼえて、あさましかりし事どもなり。


校訂者注
 1:底本頭注に、「〇狼煙 のろし。事ある時焚く知らせの火。」「〇鯢波 ときの声。」「〇春秋に富めること 長生きすること。」「〇措く 安んじて置く。」とある。
 2:底本頭注に、「泰時と時房。」とある。
 3:底本は、「前烈(ぜんれつ)」。底本頭注に、「先祖。」とある。
 4:底本は、「談天門院(だつてんもんゐん)」。底本頭注に、「藤原師継の養女。」とある。
 5:底本は、「望んて」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 6:底本は、「甸服(てんぷく)」。底本頭注に、「畿内の意。」とある。
 7:底本は、「御女(おんむすめ)」。底本頭注に、「藤原禧子。」とある。
 8:底本頭注に、「北條高時。」とある。
 9:底本頭注に、「廉子。新待賢門院と号す。」とある。

儲王の御事

 螽斯の化{*1}行はれて、皇后元妃の外、君恩に誇る官女、甚だ多かりければ、宮々、次第に御誕生あつて、十六人までぞおはしける。
 中にも第一宮尊良親王は、御子左大納言為世卿の女、贈従三位為子の御腹にておはせしを、吉田内大臣定房公、養君にし奉りしかば、志学の歳の始めより六義の道に長じさせたまへり。されば富緒河の清き流れを汲み、浅香山の故き跡を踏んで、嘯風弄月に御心を傷ましめ給ふ。第二宮も、同じ御腹にてぞおはしける。総角の御時より妙法院の門跡に御入室あつて、釈氏の教へを受けさせ給ふ。これも、瑜伽三密の間には、歌道数奇の御翫びありしかば、高祖大師{*2}の旧業にも恥ぢず、慈鎮和尚の風雅にも越えたり。
 第三宮は、民部卿三位殿の御腹なり{*3}。御幼稚の時より利根聡明におはせしかば、君、御位をばこの宮にこそと思し召したりしかども、御治世は大覚寺殿と持明院殿と、代はる代はるたもたせ給ふべしと、後嵯峨院の御時より定められしかば、今度の春宮をば持明院殿の御方に立て参らせらる。天下の事、何となく関東の計らひとして、叡慮にも任せられざりしかば、御元服の儀を改められ、梨本の門跡に御入室あつて、承鎮親王の御門弟とならせ給ひて、一を聞いて十を悟る御器量、世に又類もなかりしかば、一実円頓の花の匂ひを荊渓の風に薫じ、三諦即是の月の光を玉泉の流れに浸せり。されば、消えなんとする法灯を挑げ、絶えなんとする恵命を継がんこと、唯この門主の御時なるべしと、一山、掌を合はせて悦び、九院、首を傾けて仰ぎ奉る。第四の宮も、同じ御腹にてぞおはしける。これは、聖護院二品親王の御附弟にておはせしかば、法水を三井の流れに汲み、記別を慈尊の暁に期し給ふ。
 この外、儲君儲王の選び、竹苑椒庭{*4}の備へ、誠に王業再興の運、福祚長久の基、時を得たりとぞ見えたりける。

中宮御産御祈りの事 附 俊基偽つて篭居の事

 元亨二年の春の頃より、中宮御懐妊の御祈りとて、諸寺諸山の貴僧高僧に仰せて、様々の大法秘法を行はせらる。中にも法勝寺の円観上人、小野文観僧正二人は、別勅を承つて、金闕に壇を構へ、玉体に近づき奉つて、肝胆を砕いてぞ祈られける。仏眼、金輪、五壇の法、一字五反孔雀経、七仏薬師、熾盛光、烏芻沙摩変成男子の法、五大虚空蔵、六観音、六字河臨、訶利帝母、八字文殊、普賢延命、金剛童子の法。護摩の煙は内苑に満ち、振鈴の声は掖殿{*5}に響きて、如何なる悪魔怨霊なりとも、障碍を成し難しとぞ見えたりける。かやうに功を積み日を累ねて、御祈りの精誠を尽くされけれども、三年までかつて御産の御事はなかりけり。後に仔細を尋ぬれば、関東調伏のために、事を中宮の御産に寄せて、かやうに秘法を修せられけるとなり。これ程の重事を思し召し立つことなれば、諸臣の異見をも窺ひたく思し召しけれども、事多聞に及ばば、武家に漏れ聞こゆることやあらんと、憚り思し召されける間、深慮智化の老臣、近侍の人々にも仰せ合はせらるることもなし。唯、日野中納言資朝、蔵人右少弁俊基{*6}、四條中納言隆資、尹大納言師賢、平宰相成輔ばかりに、ひそかに仰せ合はせられて、さりぬべき兵を召されけるに、錦織の判官代、足助次郎重成、南都北嶺の衆徒、少々勅定に応じてけり。
 かの俊基は、累葉の儒業を継ぎて、才学優長なりしかば、顕職に召し仕はれて、官、蘭台に至り、職、職事{*7}を司れり。然る間、出仕事繁うして、籌策に隙なかりければ、如何にもして{*8}暫く篭居して、謀叛の計略を巡らさんと思ひける所に、山門横川の衆徒、款状を捧げて禁庭に訴ふる事あり。俊基、かの奏状を披きて読み申されけるが、読み誤りたる体にて、楞厳院を慢厳院とぞ読みたりける。座中の諸卿、これを聞いて、目を合はせて、「相の字をば、篇につけても作りにつけても、もくとこそ読むべかりける。」と、掌を拍つてぞ笑はれける。俊基、大きに恥ぢたる気色にて、面を赤めて退出す。それより、恥辱に逢ひ篭居すと披露して、半年ばかり出仕を止め、山伏の形に身を易へて、大和、河内に行いて、城郭になりぬべき処々を見置きて、東国、西国に下つて、国の風俗、人の分限をぞ窺ひ見られける。

無礼講の事 附 玄恵文談の事

 こゝに美濃国の住人土岐伯耆十郎頼貞、多治見四郎次郎国長といふ者あり。共に清和源氏の後胤として、武勇の聞こえありければ、資朝卿、様々の縁を尋ねて眤び近づかれ、朋友の交はり已に浅からざりけれども、これ程の一大事を左右なく知らせん事、如何かあるべからんと思はれければ、猶もよくよくその心を窺ひ見んために、無礼講といふ事をぞ始められける。その人数には、尹大納言師賢、四條中納言隆資、洞院左衛門督実世、蔵人右少弁俊基、伊達三位房游雅、聖護院庁の法眼玄基、足助次郎重成、多治見四郎次郎国長等なり。その交会遊宴の体、見聞耳目を驚かせり。献杯の次第、上下をいはず、男は烏帽子を脱いで髻を放ち、法師は衣を著ずして白衣になり、年十七、八なる女の、見目かたち優に、はだへ殊に清らかなるを二十余人、褊の単ばかりを著せて酌を取らせければ、雪のはだへ、すき通りて、大液の芙蓉、新たに水を出でたるに異ならず。山海の珍物を尽くし、旨酒泉の如くに湛へて、遊び戯れ舞ひ歌ふ。その間には、唯東夷を滅ぼすべき企ての外は、他事なし。
 その事となく常に会交せば、人の思ひ咎むる事もやあらんとて、事を文談に寄せんがために、その頃才覚無双の聞こえありける玄恵法印といふ文者を請じて、昌黎文集の談義をぞ行はせける。かの法印、謀叛の企てとは夢にも知らず、会合の日毎にその席に{*9}臨んで、玄を談じ理を開く。かの文集の中に、「昌黎潮州に赴く」といふ長篇あり。この処に至つて談義を聞く人々、「これ皆不吉の書なりけり。呉子、孫子、六韜、三略なんどこそ然るべき当用の文なれ。」とて、昌黎文集の談義を止めてげり。この韓昌黎と申すは、晩唐の末に出でて、文才優長の人なりけり。詩は杜子美、李太白に肩を双べ、文章は漢、魏、晋、宋の間に傑出せり。
 昌黎が猶子韓湘といふ者あり。これは、文字をも嗜まず、詩篇にも携はらず。只道士の術を学んで、無為を業とし無事を事とす。或る時昌黎、韓湘に向つて申しけるは、「汝、天地の中に化生して、仁義の外に逍遥す。これ君子の恥づる処、小人の専らとする処なり。我、常に汝がためにこれを悲しむ事、切なり。」と教訓しければ、韓湘、大きにあざ笑うて、「仁義は大道の廃れたる処に出で、学教は大偽の起こる時に盛んなり。吾、無為の境に優遊して、是非の外に自得す。されば、真宰の臂をさいて壺中に天地を蔵し、造化の工を奪うて橘裡に山川をそばだつ{*10}。かへつて悲しむらくは、公の唯古人の糟粕を甘なつて{*11}、空しく一生を区々の中に誤ることを。」と答へければ、昌黎、重ねて曰く、「汝が言ふ所、我、未だ信ぜず。今則ち造化の工を奪ふ事を得てんや。」と問ふに、韓湘、答ふる事なくして、前に置きたる瑠璃の盆をうつぶせて、やがて又引き仰向けたるを見れば、忽ちに碧玉の牡丹の花の嬋娟たる一枝あり。昌黎、驚いてこれを見るに、花の中に金字に書ける一聯の句あり。
  雲は秦嶺に横たはつて家いづくにか在る  雪は藍関を擁して馬前まず
云々。昌黎、不思議の思ひをなして、これを読んで{*12}一唱三嘆するに、句の優美遠長なる体製のみあつて、その趣向落著の所を知り難し。手に取つてこれを見んとすれば、忽然として消え失せぬ。これよりしてこそ、韓湘、仙術の道を得たりとは、天下の人に知られけれ。
 その後昌黎、仏法を破つて儒教を貴むべきよし奏状を奉りける咎に依つて、潮州へ流さる。日暮れ、馬泥んで前途程遠し。遥かに故郷の方を顧れば、秦嶺に雲横たはつて、来つらん方もおぼえず。悼んで万仞の嶮しきに登らんとすれば、藍関に雪満ちて、行くべき末の路もなし。進退、歩を失うて頭を回らす処に、いづくより来れるともなく、韓湘、勃然として傍にあり。昌黎、悦んで馬より下り、韓湘が袖を引いて、涙の中に申しけるは、「先年、碧玉の花の中に見えたりし一聯の句は、汝、我に予め左遷の愁へを告げ知らせるなり。今又汝、こゝに来れり。料り知んぬ、我遂に謫居に愁死して、帰ることを得じ、と。再会、期なうして、遠別、今にあり。豈悲しみに堪へんや。」とて、前の一聯に句を継いで、八句一首と成して韓湘に与ふ。
  一封朝に奏す、九重の天  夕に潮陽に貶せらる、路八千
  聖明のために弊事を除かんと欲す  豈衰朽をもつて残年を惜しまんや
  雲は秦嶺に横たはつて家いづくにか在る  雪は藍関を擁して馬前まず
  知りぬ、汝遠く来る、須らく意有るべし  好し、吾が骨を瘴江の辺に収めよ
 韓湘、この詩を袖に入れて、泣く泣く東西に別れにけり。誠なるかな、痴人の面前に夢を説かずといふ事。この談義を聞きける人々の忌み思ひけるこそおろかなれ。

前頁  目次  次頁

校訂者注
 1:底本は、「螽斯(しうし)の化(くわ)」。底本頭注に、「〇螽斯 いなご。子多き譬へ。詩経の句。」とある。
 2:底本頭注に、「伝教大師。」とある。
 3:底本頭注に、「〇第三宮 護良親王。」「〇三位殿 源師親の女、親子。」とある。
 4:底本頭注に、「〇竹苑 親王。」「〇椒庭 後宮。」とある。
 5:底本頭注に、「後宮。」とある。
 6:底本頭注に、「〇資朝 藤原俊光の子。」「〇俊基 藤原種範の子。」とある。
 7:底本頭注に、「〇蘭台 弁官の唐名。」「〇職事 蔵人の唐名。」とある。
 8:底本は、「如何にしても」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 9:底本は、「日毎に席に」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
 10:底本頭注に、「〇真宰の臂 真宰は道士の所謂神で臂は無形の理を云ふ。」「〇壺中云々 漢書に費長房が仙人壺公に従ひて壺中に入りし故事。」「〇橘裡 老人が橘の中で棋を囲める故事。」とある。
 11:底本頭注に、「〇公 昌黎。」「〇甘なつて 甘んじ。」とある。
 12:底本は、「読れで」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。

頼員かへり忠の事

 謀叛人の与党、土岐左近蔵人頼員は、六波羅の奉行斎藤太郎左衛門尉利行が女と嫁して、最愛したりけるが、世の中已に乱れて合戦出で来りなば、千に一つも討死せずといふことあるまじと思ひける間、かねて余波や惜しかりけん、或る夜の寝覚めの物語に、「一樹の陰にやどり、同じ流れを汲むも、皆これ多生の縁浅からず。況んや相馴れ奉つて、已に三年に余れり。等閑ならぬ志のほどをば、気色につけ、折に触ても思ひ知り給ふらん。さても定めなきは人間の習ひ、相逢ふ中の契りなれば、今もし我が身、はかなくなりぬと聞き給ふ事あらば、なからん後までも貞女の心を失はで、我が後世を弔ひたまへ。人間に帰らば再び夫婦の契りを結び、浄土に生まれば、同じ蓮の台に半座を分けて待つべし。」と、その事となくかきくどき、涙を流してぞ申しける。女、つくづくと聞いて、「あやしや。何事の侍るぞや。明日までの契りの程も知らぬ世に、後世までのあらましは、忘れんとての情にてこそ侍らめ。さらでは、かかるべしともおぼえず。」と、泣き恨みて問ひければ、男は心浅うして、「さればよ。われ、不慮の勅命を蒙りて、君に憑まれ奉る間、辞するに道なうして、御謀叛に与しぬる間、千に一つも命の生きんずる事、かたし。あぢきなく存ずる程に、近づく別れの悲しさに、かねてかやうに申すなり。この事あなかしこ人に知らさせ給ふな。」と、よくよく口をぞ堅めける。
 かの女性、心の賢き者なりければ、夙におきて、つくづくとこの事を思ふに、「君の御謀叛、事成らずば、憑みたる男、忽ちに誅せらるべし。もし又、武家亡びなば、我が親類、誰かは一人も残るべき。さらば、これを父利行に語つて、左近蔵人をかへり忠の者になし、これをも助け、親類をも助けばや。」と思うて、急ぎ父がもとに行き、忍びやかにこの事をありのままにぞ語りける。斎藤、大きに驚き、やがて左近蔵人を呼び寄せ、「かかる不思議を承る。誠にて候やらん。今の世に、かやうの事思ひ企て給はんは、ひとへに石を抱いて淵に入るものにて候べし。もし他人の口より漏れなば、我等に至るまで皆誅せらるべきにて候へば、利行、急ぎ御辺の告げ知らせたる由を六波羅殿に申して、共にその咎を遁れんと思ふは、如何か計らひ給ふぞ。」と問ひければ、これ程の一大事を女性に知らする程の心にて、なじかは仰天せざるべき。「この事は、同名頼貞、多治見四郎二郎が勧めに依つて、同意仕つて候。唯ともかくも、身の咎を助かる様に御計らひ候へ。」とぞ申しける。
 夜未だ明けざるに、斎藤、急ぎ六波羅へ参つて、事の仔細を委しく告げ申しければ、即ち時をかへず鎌倉へ早馬を立て、京中、洛外の武士どもを六波羅へ召し集めて、先づ著到をぞつけられける。その頃、摂津国葛葉といふ処に、地下人、代官を背きて合戦に及ぶ事あり。かの本所の雑掌を、六波羅の沙汰として荘家にしすゑんために、四十八箇所の篝、並びに在京人を催さるる由を披露せらる{*1}。これは、謀叛の輩を落とさじがための謀りごとなり。土岐も多治見も、吾が身の上とは思ひも寄らず、明日は葛葉へ向ふべき用意して、皆己が宿所にぞ居たりける。
 さる程に、明くれば元徳元年九月十九日の卯の刻に、軍勢、雲霞の如く六波羅へ馳せ参る。小串三郎左衛門尉範行、山本九郎時綱、御紋の旗をたまはり、討手の大将を承つて、六條河原へうち出で、三千余騎を二手に分けて、多治見が宿所錦小路高倉、土岐十郎が宿所三條堀河へ寄せけるが、時綱、かくてはいかさま、大事の敵をうち漏らしぬと思ひけるにや、大勢をば、わざと三條河原に留めて、時綱只一騎、中間二人に長刀持たせて、忍びやかに土岐が宿所へ馳せて行き、門前に馬をば乗り捨てて、小門より内へつと入つて、中門の方を見れば、宿直しけるものよとおぼえて、物具、太刀、刀、枕に取り散らし、高いびきかきて寝入りたり。廐の後を廻つて、いづくにかぬけちのあると見れば、後ろは皆築地にて、門より外は路もなし。さては心安しと思うて、客殿の奥なる二間を颯と引きあけたれば、土岐十郎、唯今起き上がりたりとおぼえて、鬢の髪を撫であげて結ひけるが、山本九郎を屹と見て、「心得たり。」といふままに、立てたる太刀を取り、側なる障子を一間踏み破り、六間の客殿へ跳り出で、天井に太刀を打ちつけじと、払ひ切りにぞ切つたりける。
 時綱は、わざと敵を広庭へおびき出し、透間もあらば生け捕らんと志して、うち払ひては退き、うち流しては飛びのき、人交ぜもせず戦うて、後ろを屹と見たれば、後陣の大勢二千余騎、二の木戸よりこみ入つて、同音に吶喊をつくる。土岐十郎、久しく戦つては、中々生け捕られんとや思ひけん、元の寝所へ走り帰りて、腹十文字にかき切つて、北枕にこそ伏したりけれ。中の間に寝たりける若党どもも、思ひ思ひに討死して、遁るる者一人もなかりけり。首を取つて鋒に貫いて、山本九郎は、これより六波羅へ馳せ参る。
 多治見が宿所へは、小串三郎左衛門範行を先として、三千余騎にて押し寄せたり。多治見は、夜もすがらの酒に飲み酔ひて、前後も知らず臥したりけるが、吶喊の声に驚いて、こは何事ぞとあわて騒ぐ。傍に臥したる遊君、物馴れたる女なりければ、枕なる鎧取つてうち著せ、上帯強くしめさせて、猶寝入りたる者どもをぞ起こしける。小笠原孫六、傾城に驚かされて、太刀ばかりを取つて中門に走り出で、目をすりすり四方を屹と見ければ、車の輪の旗一流れ、築地の上より見えたり。孫六、内へ入つて、「六波羅より討手の向つて候ひける。この間の御謀叛、早顕はれたりとおぼえ候。早面々、太刀の目貫の堪へん程は切り合うて、腹を切れ。」と呼ばはりて、腹巻取つて肩になげかけ、二十四差いたる胡簶と繁籘の弓とを提げて、門の上なる櫓へ走り上がり、中差取つて打ちつがひ、狭間の板八文字に開いて、「あら、ことごとしの大勢や。我等が手柄の程こそ顕はれたれ。そもそも討手の大将は、誰と申す人の向はれて候やらん。近づいて箭一つ請けて御覧候へ。」といふままに、十二束三伏忘るるばかり引きしぼりて、切つて放つ。真先に進んだる狩野下野前司が若党に、衣摺助房が兜のまつかう、鉢附の板まで矢先白く射通して、馬よりさかさまに射落とす。これを始めとして、鎧の袖、草摺、兜の鉢ともいはず、指し詰めて思ふやうに射けるに、面に立つたる兵二十四人、矢の下に射て落とす。今一筋胡簶に残りたる矢を抜いて、胡簶をば櫓の下へからりと投げ落とし、「この矢一つをば冥途の旅の用心に持つべし。」といつて腰にさし、「日本一の剛の者、謀叛に与し自害する有様、見置いて人に語れ。」と、高声に呼ばはつて、太刀の鋒を口に呀へて、櫓よりさかさまに飛び落ちて、貫かれてこそ死ににけれ。
 この間に、多治見を始めとして、一族若党二十余人、物具ひしひしと堅め、大庭に跳り出で、門の閂さして待ちかけたり。寄せ手、雲霞の如しといへども、思ひ切つたる者どもが、死に狂ひをせんと引き篭つたるがこはさに、内へ切つて入らんとする者もなかりける処に、伊藤彦次郎父子兄弟四人、門の扉の少し破れたる処より、這うて内へぞ入りたりける。志の程は猛けれども、待ちうけたる敵の中へ這うて入つたることなれば、敵に討ち違ふるまでもなくて、皆門の脇にて討たれにけり。寄せ手、これを見て、いよいよ近づく者もなかりける間、内より門の扉を押し開いて、「討手を承る程の人達の、きたなうも見えられ候ものかな。はやこれへ御入り候へ。我等が頚ども、引出物に参らせん。」と、恥ぢしめてこそ立ちたりけれ。
 寄せ手ども、敵にあくまで欺かれて、先陣五百余人、馬を乗り放してかち立ちになり、喚いて庭へこみ入る。たてこもる所の兵ども、とても遁れじと思ひ切つたることなれば、いづくへか一足も引くべき。二十余人の者ども、大勢の中へ乱れ入つて、面もふらず切つてまはる。先駆けの寄せ手五百余人、散々に切り立てられて、門より外へ颯と引く。されども寄せ手は大勢なれば、先陣引けば、二陣喚いてかけ入る。かけ入れば追ひ出し、追ひ出せば駆け入り、辰の刻の始めより午の刻の終りまで、火出づる程こそ戦ひけれ。
 かやうに大手の軍強ければ、佐々木判官が手の者千余人、後ろへ廻つて、錦小路より在家を打ち破つて乱れ入る。多治見、今はこれまでとや思ひけん、中門に並み居て、二十二人の者ども、互にさし違へさし違へ、算を散らせる如く伏したりけり。追手の寄せ手どもが門を破りけるその間に、搦手の勢ども乱れ入り、首を取つて六波羅へ馳せかへる。二時ばかりの合戦に、手負ひ死人を数ふるに、二百七十三人なり。

資朝俊基関東下向の事 附 御告文の事

 土岐、多治見討たれて後、君の御謀叛、次第に隠れなかりければ、東使{*2}長崎四郎左衛門泰光、南條次郎左衛門宗直二人、上洛して、五月十日、資朝、俊基両人を召し捕り奉る。土岐が討たれし時、生け虜りの者、一人もなかりしかば、白状はよもあらじ、さりとも我等が事は顕はれじと、はかなき頼みに油断して、かつてその用意もなかりければ、妻子、東西に逃げ迷ひて、身を隠さんずるに処なく、財宝は大路に引き散らされて、馬蹄の塵となりにけり。
 かの資朝卿は、日野の一門にて、職大理を経、官中納言に至りしかば、君の御おぼえも他に異にして、家の繁昌、時を得たりき。俊基朝臣は、身、儒雅の下より出でて、望み、勲業の上に達せしかば、同官も肥馬の塵を望み、長者も残杯の冷に随ふ。宜なるかな、不義にして富み且つ貴きは、我に於いて浮雲の如しといへる事。これ、孔子の善言、魯論に記する処なれば、なじかは違ふべき。夢の中に楽しみ尽きて、眼前の悲しみ、ここに来れり。彼を見、これを聞きける人毎に、盛者必衰の理を知らでも袖をしぼりえず。
 同じき二十七日、東使両人、資朝、俊基を具足し奉つて、鎌倉へ下著す。この人々は、殊更謀叛の張本なれば、やがて誅せられぬとおぼえしかども、倶に朝廷の近臣として才学優長の人たりしかば、世の譏り、君の御憤りを憚つて、嗷問の沙汰にも及ばず。唯尋常の放囚人の如くにて、侍所にぞ預け置かれける。
 七月七日、今夜は牽牛織女の二星、烏鵲の橋を渡して一年の懐抱を解く夜なれば、宮人の風俗、竹竿に願ひの糸を懸け、庭前に嘉菓を列ねて、乞巧奠{*3}を修する夜なれども、世上騒がしき折節なれば、詩歌を奉る騒人もなく、絃管を調ぶる伶倫もなし。たまたま上臥したる月卿雲客も、何となく世の中の乱れ、又誰が身の上にか来らんずらんと、魂を消し肝を冷やす時分なれば、皆眉を顰め、面を垂れてぞ候ひける。
 夜いたく更けて、「誰か候。」と召されければ、「吉田中納言冬房候。」とて御前に候す。主上{*4}、席を近づけて仰せ有りけるは、「資朝、俊基が囚はれし後、東風猶未だ静かならず、中夏常に危ふきを踏む。この上に又、如何なる沙汰をか致さんずらんと、叡慮、更に穏やかならず。如何して先づ東夷を静むべき謀りごとあらん{*5}。」と勅問ありければ、冬房、謹しんで申しけるは、「資朝、俊基が白状ありとも承り候はねば、武臣、この上の沙汰には及ばじと存じ候へども、近日東夷の振舞、楚忽の儀多く候へば、御油断あるまじきにて候。先づ告文一紙を下されて、相模入道{*6}が怒りを静め候はばや。」と申されければ、主上、げにもとや思し召されけん、「さらば、やがて冬房書け。」と仰せありければ、則ち御前にして草案をして、これを奏覧す。君、暫く叡覧あつて、御涙の告文にはらはらとかかりけるを、御袖にて押し拭はせ給へば、御前に候ひける老臣、皆悲啼を含まぬはなかりけり。やがて万里小路大納言宣房卿を勅使として、この告文を関東へ下さる。
 相模入道、秋田城介を以て告文を請け取つて、則ち披見せんとしけるを、二階堂出羽入道道蘊、堅く諌めて申しけるは、「天子、武臣に対して直に告文を下されたる事、異国にも我が朝にも未だその例を承らず。然るを等閑に披見せられん事、冥見についてその恐れあり。唯文箱を披かずして、勅使に返し参らせらるべきか。」と、再往申しけるを、相模入道、「何か苦しかるべき。」とて、斎藤太郎左衛門利行に読み参らせさせられけるに、「叡心偽らざる処、天の照覧に任ず。」と遊ばされたる処を読みける時に、利行、俄にめくるめき、鼻血垂りければ、読みはてずして退出す。その日より喉の下に悪瘡出でて、七日の中に血を吐いて死にけり。時、澆季に及んで、道、塗炭に落ちぬといへども、君臣上下の礼違ふ時は、さすが仏神の罰もありけりと、これを聞きける人ごとに、懼ぢ恐れぬはなかりけり。
 「いかさま、資朝、俊基の隠謀、叡慮より出でし事なれば、たとひ告文を下されたりといふとも、それに依るべからず。主上をば遠国へ遷し奉るべし。」と、初めは評定一決してけれども、勅使宣房卿の申されし趣、実にもとおぼゆる上{*7}、告文読みたりし利行、俄に血を吐いて死にたりけるに、諸人皆舌を巻き、口を閉づ。相模入道も、さすが天慮、その憚りありけるにや、「御治世の御事は、朝議に任せ奉る上は、武家いろひ申べきにあらず。」と、勅答を申して告文を返進せらる。宣房卿、則ち帰洛して、この由奏し申されけるにこそ、宸襟始めて解けて、群臣、色をば直されけれ。
 さる程に俊基朝臣は、罪の疑はしきを軽んじて赦免せられ、資朝卿は、死罪一等を宥められて、佐渡国へぞ流されける。

前頁  目次  次頁

校訂者注
 1:底本頭注に、「〇地下人 土著の武士か。」「〇代官 守護の名代。」「〇本所 荘園。」「〇雑掌 支配人。」「〇荘家 荘園事務所。」「〇篝 警護の武士。辻々に屯して篝火を焚いて警戒した事より出づ。」「〇催さるゝ 召集せらるゝ。」とある。
 2:底本頭注に、「〇君 後醍醐天皇。」「〇東使 鎌倉の使者。」とある。
 3:底本は、「乞巧奠(きこうてん)」。底本頭注に、「七夕祭り。」とある。
 4:底本頭注に、「後醍醐天皇。」とある。
 5:底本頭注に、「〇東風 鎌倉の様子。」「〇中夏 帝都。」「〇叡慮 天子の御心。」「〇東夷 東方の蛮人。即ち鎌倉を卑しみていふ。」とある。
 6:底本頭注に、「高時。」とある。
 7:底本は、「覚ゆる上は、」。『太平記 一』(1977年)に従い削除した。

↑このページのトップヘ