江戸期版本を読む

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カテゴリ:軍記物語 > 校訂「太平記」 日本文学大系本

巻第二

南都北嶺行幸の事

 元徳二年二月四日、行事の弁別当{*1}万里小路中納言藤房卿を召されて、「来月八日、東大寺興福寺行幸あるべし。早く供奉の輩に触れ仰すべし。」と仰せ出だされければ、藤房、古を尋ね、例を考へて、供奉の行粧、路次の行列を定めらる。佐々木備中守、廷尉になつて橋を渡し、四十八箇所の篝、甲冑を帯し、辻々を固む。三公九卿相従ひ、百司千官列を引き、言語道断の厳儀なり。
 東大寺と申すは、聖武天皇の御願、閻浮第一の盧舎那仏。興福寺と申すは、淡海公の御願、藤氏尊崇の大伽藍なれば、代々の聖主も皆、結縁の御志はおはせども、一人出で給ふ事たやすからざれば、多年臨幸の儀もなし。この御代に至つて、絶えたるを継ぎ廃れたるを興して、鳳輦を廻らし給ひしかば、衆徒、歓喜の掌を合はせ、霊仏、威徳の光を添ふ。されば、春日山の嵐の音も、今日よりは万歳を呼ぶかと奇しまれ、北の藤波{*2}千代かけて、花咲く春の蔭深し。
 又、同じき月二十七日に、比叡山に行幸なつて、大講堂供養あり。かの堂と申すは、深草天皇{*3}の御願、大日遍照の尊像なり。中ごろ造営の後、未だ供養を遂げずして、星霜已に積もりければ、甍破れては霧不断の香を焼き、扉落ちては月常住の灯を挑ぐ。されば、満山歎きて年を経る処に、忽ちに修造の大功を遂げられ、速やかに供養の儀式を調へ給ひしかば、一山、眉を開き、九院、首を傾けり。御導師は、妙法院の尊澄法親王、呪願は、時の座主大塔の尊雲法親王にてぞおはしける。称揚讚仏の砌には、鷲峯の花、薫ひを譲り、歌唄頌徳の所には、魚山の嵐、響きを添ふ。伶倫遏雲の曲を奏し、舞童廻雪の袖を翻せば、百獣も率舞し、鳳鳥も来儀するばかりなり。住吉の神主津守国夏、大鼓の役にて登山したりけるが、宿坊の柱に一首の歌をぞ書きつけたる。
  契りあればこの山もみつ阿耨多羅三藐三菩提の種を植ゑけむ
 これは、伝教大師、当山草創のいにしへ、「我が立つ杣に冥加あらせ給へ。」と、三藐三菩提の仏達に祈り給ひし故事を思ひて詠める歌なるべし。そもそも元亨以後、主愁へ、臣辱められて、天下、更に安き時なし。折節こそおほかるに、今、南都北嶺の行幸、叡願、何事やらんと尋ぬれば、近年、相模入道が振舞、日頃の不義に超過せり。蛮夷の輩は、武命に従ふ者なれば、召すとも勅に応ずべからず。唯山門南都の大衆を語らひて、東夷を征伐せられんための御謀叛とぞきこえし。
 これに依つて、大塔の二品親王は、時の貫首にておはせしかども、今は行学共に捨てはてさせ給ひて、朝暮唯武勇の御嗜みの外は、他事なし。御好みある故にやよりけん、早業は、江都が勁捷にも超えたれば、七尺の屏風、未だ必ずしも高しとせず。打物は、子房が兵法を得給へば、一巻の秘書尽くされずといふことなし。天台座主始まつて、義真和尚より以来一百余代、未だかかる不思議の門主はおはしまさず。後に思ひ合はするにこそ、東夷征罰のために御身を習はされける武芸の道とは知られたれ。

僧徒六波羅へ召し捕りの事 附 為明詠歌の事

 事の漏れやすきは、禍ひを招くなかだちなれば、大塔宮の御振舞、禁裏に調伏の法行はるる事ども、一々に関東へ聞こえてけり。相模入道、大きに怒つて、「いやいや、この君御在位の程は、天下静まるまじ。所詮、君をば承久の例に任せて、遠国へ移し奉り、大塔宮{*4}を死罪に処し奉るべきなり。先づ近日殊に竜顔に咫尺奉つて、当家{*5}を調伏し給ふなる、法勝寺の円観上人、小野の文観僧正、南都の知教、教円、浄土寺の忠円僧正を召し捕つて、仔細を相尋ぬべし。」と、已に武命を含んで、二階堂{*6}下野判官、長井遠江守二人、関東より上洛す。両使、已に京著せしかば、「又如何なる荒き沙汰をか致さんずらん。」と、主上、宸襟を悩まされける処に、五月十一日の暁、雑賀隼人佐を使にて、法勝寺の円観上人、小野の文観僧正、浄土寺の忠円僧正、三人を六波羅へ召し捕り奉る。
 この中に忠円僧正は、顕宗の碩徳なりしかば、調伏の法行うたりといふその人数には入らざりしかども、これもこの君に近づき奉つて、山門の講堂供養以下の事、万、直に申し沙汰せられしかば、衆徒与力の事、この僧正、よも存ぜられぬことはあらじとて、同じく召し捕られ給ひにけり。これのみならず、知教、教円二人も、南都より召し出だされて、同じく六波羅へ出で給ふ。又、二條の中将為明卿は、歌道の達者にて、月の夜雪の朝、褒貶の歌合の御会に召されて、宴に侍る事隙なかりしかば、さしたる嫌疑の人にてはなかりしかども、叡慮の趣を尋ね問はんために召し捕らはれて、斎藤某にこれを預けらる。五人の僧達の事は、元来関東へ召し下して沙汰あるべき事なれば、六波羅にて尋ね窮むるに及ばず。為明卿の事に於いては、先づ京都にて尋ね沙汰ありて、白状あらば関東へ注進すべしとて、検断に仰せて、已に嗷問の沙汰に及ばんとす。
 六波羅の北の坪に炭をおこす事、鑊湯炉壇の如くにして、その上に青竹を破つて敷き双べ、少し隙をあけければ、猛火、炎を吐いて烈々たり。朝夕、雑色、左右に立ち双んで、両方の手を引つ張つて、その上を歩ませ奉らんと支度したる有様は、唯四重五逆の罪人の、焦熱大焦熱の炎に身を焦がし、牛頭馬頭の呵責に逢ふらんも、かくこそあらめとおぼえて、見るにも肝は消えぬべし。為明卿、これを見給ひて、「硯やある。」と尋ねられければ、白状のためかとて、硯に料紙を取り添へて奉りければ、白状にはあらで、一首の歌をぞ書かれける。
  思ひきやわが敷島の道ならでうき世のことを問はるべしとは
 常葉駿河守、この歌を見て、感歎肝に銘じければ、涙を流して理に伏す。東使両人も、これを読んで、もろともに袖を浸しければ、為明は、水火の責めを遁れて、咎なき人になりにけり。詩歌は朝廷の翫ぶところ、弓馬は武家の嗜む道なれば、その習はし、未だ必ずしも六義数奇の道に携はらねども、物相感ずる事{*7}、皆自然なれば、この歌一首の感に依つて、嗷問の責めを止めける、東夷の心の中こそやさしけれ。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をも和らげ、猛き武士の心をも慰むるは歌なりと、紀貫之が古今の序に書きたりしも、理なりとおぼえたり。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「弁官で検非違使の別当で行幸の奉行する役。」とある。
 2:底本頭注に、「藤原氏の北家。」とある。
 3:底本頭注に、「仁明帝。」とある。
 4:底本頭注に、「護良親王。」とある。
 5:底本頭注に、「北條家。」とある。
 6:底本頭注に、「時元。」とある。
 7:底本は、「物類(ぶつるゐ)相感ずる事」。『太平記 一』(1977年)に従い削除した。

三人の僧徒関東下向の事

 同じき年六月八日、東使三人の僧達を具足し奉つて、関東に下向す。かの忠円僧正と申すは、浄土寺慈勝僧正の門弟として、十題判断の登科、一山無双の碩学なり。文観僧正と申すは、元は播磨国法華寺の住侶たりしが、壮年の頃より醍醐寺に移住して、真言の大阿闍梨たりしかば、東寺の長者、醍醐の座主に補せられて、四種三密の棟梁たり。
 円観上人と申すは、元は山徒にておはしけるが、顕密両宗の才、一山に光あるかと疑はれ、智行兼備の誉れ、諸寺に人なきが如し。然れども、「久しく山門澆漓{*1}の風に随はば、上慢の幢高うして、遂に天魔の掌握の中に落ちぬべし。如かじ、公請論場の声誉を捨てて、高祖大師の旧規に帰らんには。」と、一度名利の轡を返して、永く寂寞の苔の扉を閉ぢ給ふ。初めの程は、西塔の黒谷といふ所に居を占めて、三衣を荷葉の秋の霜に重ね、一鉢を松華の朝の風に任せ給ひけるが、徳孤ならず必ず隣あり、大明、光を蔵さざりければ、遂に五代聖主の国師として、三聚浄戒の太祖たり。かかる有智高行の尊宿{*2}たりといへども、時の横災をば遁れ給はぬにや、又、前世の宿業にや依りけん、遠蛮の囚はれとなつて、逆旅の月にさすらひ給ふ。不思議なりし事どもなり。円観上人ばかりこそ、宗印、円照、道勝とて、如影随形の御弟子三人随逐して、輿の前後に供奉しけれ。その外文観僧正、忠円僧正には、相随ふ者一人もなくて、賤しげなる伝馬に乗せられて、見馴れぬ武士に打ち囲まれ、まだ夜深きに鳥がなく、東の旅に出で給ふ、心の中こそ哀れなれ。
 鎌倉までも下し著けず、道にて失ひ奉るべしなんど聞こえしかば、彼処の宿に著きても、今や限り、この山に休めば、これや限りと、露の命のある程も、心は先に消えつべし。昨日も過ぎ、今日も暮れぬと行く程に、我とは急がぬ道なれど、日数つもれば、六月二十四日に鎌倉にこそ著きにけれ。円観上人をば佐介越前守、文観僧正をば佐介遠江守、忠円僧正をば足利讃岐守{*3}にぞ預けらる。
 両使帰参して、かの僧達の本尊の形、炉壇の様、画図に写して註進す。俗人の見知るべき事ならねば、佐々目の頼禅僧正を請じ奉りて、これを見せらるるに、「仔細なき調伏の法なり。」と申されければ、「さらば、この僧達を嗷問せよ。」とて、侍所に渡して、水火の責めをぞ致しける。文観房、暫しが程は、いかに問はれけれども落ち給はざりけるが、水問重なりければ、身も疲れ心も弱くなりけるにや、「勅定に依つて調伏の法行ひたりし條、仔細なし。」と白状せられけり。その後、忠円房を嗷問せんとす。この僧正、天性臆病の人にて、未だ責めざる先に、主上、山門を御語らひありし事、大塔宮の御振舞、俊基の隠謀なんど、有りもあらぬ事までも、残る所なく白状一巻に載せられたり。「この上は何の疑ひかあるべきなれども、同罪の人なれば、差し置くべきにあらず。円観上人をも明日問ひ奉るべし。」と評定ありける。
 その夜、相模入道の夢に、比叡山の東坂本より、猿ども二、三千群がり来つて、この上人を守護し奉る体にて並み居たりと見給ふ。夢の告げ、只事ならずと思はれければ、未明に預かり人のもとへ使者を遣はし、「上人嗷問の事、暫く差し置くべし。」と下知せらるる処に、預かり人遮つて、相模入道の方に来つて申しけるは、「上人嗷問の事、この暁、既にその沙汰を致し候はんために、上人の御方へ参つて候へば、燭を挑げて観法定座せられて候。その御影、後ろの障子に映つて、不動明王のかたちに見えさせ給ひ候ひつる間、驚き存じて、先づ事の仔細を申し入れんために、参りて候なり。」とぞ申しける。夢想といひ、示現といひ、ただ人にあらずとて、嗷問の沙汰を止められけり。
 同じき七月十三日に、三人の僧達、遠流の在所定まつて、文観僧正をば硫黄が島、忠円僧正をば越後国へ流さる。円観上人ばかりをば、遠流一等を宥めて、結城{*4}上野入道に預けられければ、奥州へ具足し奉り、長途の旅にさすらひ給ふ。左遷遠流といはぬばかりなり。遠蛮の外に遷されさせ給へば、これも唯同じ旅程の思ひにて、肇法師が刑戮の中に苦しみ、一行阿闍梨の火羅国に流されし水宿山行の悲しみも、かくやと思ひ知られたり。名取川を過ぎさせ給ふとて、上人、一首の歌を詠みたまふ。
  陸奥のうき名取川ながれ来て沈みやはてむ瀬々のうもれ木
時の天災をば、大権の聖者も遁れ給はざるにや。
 昔、天竺の波羅奈国に、戒定恵の三学を兼備し給へる一人の沙門おはしけり。一朝の国師として四海の依頼たりしかば、天下の人、帰依渇仰せる事、あたかも大聖世尊の出世成道の如くなり。或る時、その国の大王、法会を行ふべき事あつて、説戒の導師にこの沙門をぞ請ぜられける。沙門、即ち勅命に随つて鳳闕に参ぜらる。帝、折節、棋を遊ばされける砌へ、伝奏参つて、沙門参内の由を奏し申しけるを、遊ばしける棋に御心を入れられて、これを聞こし召されず。棋の手に附いて、「截れ。」と仰せられけるを、伝奏、聞き誤りて、この沙門を截れとの勅定ぞと心得て、禁門の外に出だし、則ち沙門の首を刎ねてげり。帝、棋を遊ばしはてて、沙門を御前へ召されければ、典獄の官、「勅定に随つて首を刎ねたり。」と申す。帝、大きに逆鱗ありて、「行死{*5}定まつて後三奏すといへり。然るを、一言の下に誤りを行うて、朕が不徳を重ぬ。罪、大逆に同じ。」とて、則ち伝奏を召し出だして、三族の罪に行はれけり。さて、この沙門、罪なくして死刑に逢ひ給ひぬる事、只事にあらず、前生の宿業にておはすらんと思し召されければ、帝、その故を阿羅漢に問ひ給ふ。阿羅漢、七日が間、定に入つて宿命通を得て過現を見給ふに、沙門の前生は、耕作を業とする田夫なり。帝の前生は、水にすむ蛙にてぞありける。この田夫、鋤を取つて春の山田を耕しける時、誤つて鋤の先にて蛙の頚をぞ切りたりける。この因果に依つて、田夫は沙門と生まれ、蛙は波羅奈国の大王と生まれ、誤つて又死罪を行はれけるこそ哀れなれ。
 されば、この上人{*6}も、如何なる修因感果の理に依るか、かかる不慮の罪に沈みたまひぬらん、と。不思議なりしことどもなり。

俊基朝臣再び関東下向の事

 俊基朝臣は、先年、土岐十郎頼貞が討たれし後、召し捕られて、鎌倉まで下り給ひしかども、様々に陳じ申されし趣、げにもとて、赦免せられたりけるが、又今度の白状どもに、専ら隠謀の企て、かの朝臣にありと載せたりければ、七月十一日に、又六波羅へ召し捕られて、関東へ送られ給ふ。再犯赦さざるは、法令の定むる所なれば、何と陳ずるとも許されじ、路次にて失はるるか、鎌倉にて斬らるるか、二つの間をば離れじと、思ひ儲けてぞ出でられける。
 落花の雪に踏み迷ふ、片野の春の桜がり、紅葉の錦を著て帰る、嵐の山の秋の暮、一夜を明かすほどだにも、旅宿となれば物憂きに、恩愛のちぎり浅からぬ、わが故郷の妻子をば、行くへも知らず思ひ置き、年久しくも住み馴れし、九重の帝都をば、今を限りと顧みて、思はぬ旅に出で給ふ、心の中ぞ哀れなる。憂きをば留めぬ相坂の{*7}、関の清水に袖濡れて、末は山路を打出の浜、沖を遥かに見渡せば、塩ならぬ海にこがれ行く、身を浮舟の浮き沈み、駒もとどろと踏み鳴らす、勢多の長橋打ち渡り、行きかふ人に近江路や、世のうねの野に鳴く鶴も{*8}、子を思ふかと哀れなり。時雨もいたく森山の、木の下露に袖ぬれて、風に露散る篠原や、篠分くる道を過ぎ行けば、鏡の山はありとても、涙に曇りて見えわかず。物を思へば夜の間にも、老蘇の森の下草に、駒を止めて顧みる、古郷を雲や隔つらん。番馬、醒井、柏原、不破の関屋は荒れ果てて、猶もる物は秋の雨の、いつか我が身の尾張なる{*9}、熱田の八剣伏し拝み、潮干に今や鳴海潟、傾く月に道見えて、明けぬ暮れぬと行く道の、末はいづくと遠江、浜名の橋の夕潮に、引く人もなき捨て小舟、沈みはてぬる身にしあれば、誰か哀れと夕暮の、晩鐘鳴れば今はとて、池田の宿に著き給ふ。
 元暦元年の頃かとよ、重衡{*10}中将の、東夷のために囚はれて、この宿に著き給ひしに、
  東路の丹生の小屋のいぶせきに故郷いかに恋しかるらむ
と、長者の女が詠みたりし、その古の哀れまでも、思ひ残さぬ涙なり。旅館の灯幽かにして、鶏鳴暁を催せば、匹馬風に嘶えて、天竜河を打ち渡り、小夜の中山越え行けば、白雲路を埋み来て、そことも知らぬ夕暮に、家郷の天を望みても、昔、西行法師が、「命なりけり。」と詠じつつ、二度越えし跡までも、羨ましくぞ思はれける。隙行く駒の足はやみ、日已に亭午に昇れば、餉参らする程とて、輿を庭前に舁き止む。
 轅を叩いて警固の武士を近づけ、宿の名を問ひ給ふに、「菊川と申すなり。」と答へければ、承久の合戦の時、院宣書きたりし咎に依つて、光親卿、関東へ召し下されしが、この宿にて誅せられし時、
  昔は南陽県菊の水  下流を汲んで齢を延ぶ
  今は東海道の菊河  西岸に宿つて命を終ふ
と書きたりし、遠き昔の筆の跡、今は我が身の上になり、あはれやいとどまさりけん、一首の歌を詠じて、宿の柱にぞ書かれける。
  いにしへもかかるためしをきく川のおなじ流に身をやしづめむ
 大井河を過ぎ給へば、都にありし名を聞きて、亀山殿の行幸の、嵐の山の花ざかり、竜頭鷁首の船に乗り、詩歌管絃の宴に侍りしことも、今は二度見ぬ夜の夢となりぬと思ひつづけ給ふ。島田、藤枝に懸かりて、岡辺の真葛裏枯れて、物悲しき夕暮に、宇都の山辺を越え行けば、蔦楓いと茂りて道もなし。昔、業平の中将の、住家を求むとて東の方に下るとて、「夢にも人に逢はぬなりけり。」と詠みたりしも、かくやと思ひ知られたり。清見潟を過ぎ給へば、都に帰る夢をさへ、通さぬ波の関守に、いとど涙を催され、向ひはいづこ三穂が崎、奥津、神原打ち過ぎて、富士の高峯を見給へば、雪の中より立つ煙、上なき思ひに比べつつ、明くる霞に松見えて、浮島が原を過ぎ行けば、潮干や浅き船浮きて、おりたつ田子のみづからも、浮世を遶る車返し、竹の下道行きなやむ、足柄山の巓より、大磯小磯みおろして、袖にも波はこゆるぎの、急ぐとしもはなけれども{*11}、日数つもれば七月二十六日の暮程に、鎌倉にこそ著き給ひけれ。
 その日やがて、南條左衛門高直、請け取り奉りて、諏訪左衛門に預けらる。一間なる処に蜘手厳しく結うて、押し篭め奉るありさま、只地獄の罪人の十王の庁に渡されて、頚枷手杻を入れられ、罪の軽重を糺すらんも、かくやと思ひ知られたり。

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校訂者注
 1:底本は、「澆漓(げうり)」。底本頭注に、「末世。」とある。
 2:底本頭注に、「尊い宿徳の僧。」とある。
 3:底本頭注に、「尊氏の父。」とある。
 4:底本頭注に、「宗広。」とある。
 5:底本頭注に、「死罪に処す。」とある。
 6:底本頭注に、「円観。」とある。
 7:底本頭注に、「関は名ばかりで心の憂きことは止まぬ。」とある。
 8:底本頭注に、「〇うねの野 うねの野に憂きを云ひ懸く。」とある。
 9:底本頭注に、「〇もる物 関を守る者と洩る物とを懸く。」「〇我が身云々 身の終りと美濃尾張と言ひ懸く。」とある。
 10:底本頭注に、「平清盛の子。」とある。
 11:底本頭注に、「越ゆる…急ぐを相模国の小余綾の磯に懸く。」とある。

長崎新左衛門尉意見事 附 阿新殿事

 当今{*1}御謀叛の事、露顕の後、御位はやがて持明院殿へぞ参らんずらんと、近習の人々、青女房に至るまで、悦びあへる処に、土岐が討たれし後も、かつてその沙汰もなし。今又、俊基召し下されぬれども、御位の事につけては、いかなる沙汰ありとも聞こえざりければ、持明院殿方の人人、案に相違して五噫を謳ふ{*2}者のみ多かりけり。されば、とかく申し進むる人のありけるにや、持明院殿より内々関東へ御使を下され、「当今御謀叛の企て、近日、事已に急なり。武家、速やかに糺明の沙汰なくば、天下の乱、近きにあるべし。」と仰せられたりければ、相模入道、「げにも。」と驚いて、宗徒の一門、並びに頭人{*3}、評定衆を集めて、「この事、如何あるべき。」と、各、所存を問はる。
 然れども、或いは他に譲りて口を閉ぢ、或いは己を顧みて詞を出ださざる処に、執事長崎入道が子息新左衛門尉高資、進み出でて申しけるは、「先年、土岐十郎が討たれし時、当今の御位を改め申さるべかりしを、朝憲に憚つて御沙汰緩かりしに依つて、この事、猶未だ止まず。乱を撥うて治を致すは、武の一徳なり。速やかに当今を遠国に遷しまゐらせ、大塔宮を不返の遠流に処し奉り、俊基、資朝以下の乱臣を一々に{*4}誅せらるるより外は、別議あるべしとも存じ候はず。」と、憚る処なく申しけるを、二階堂出羽入道道蘊、暫く思案して申しけるは、「この議、尤も然るべく聞こえ候へども、退いて愚案を巡らすに、武家、権を執りて已に百六十余年、威、四海に及び、運、累葉を輝かす事、更に他事なし。唯、上一人を仰ぎ奉りて、忠貞に私なく、下百姓を撫でて、仁政に施しある故なり。然るに今、君の寵臣一両人召しおかれ、御帰衣の高僧両三人流罪に処せらるる事も、武臣悪行の専一といひつべし。この上に又、主上を{*5}遠所へ遷し参らせ、天台座主を流罪に行はれん事、天道、奢りを悪むのみならず、山門、いかでか憤りを含まざるべき。神怒り人背かば、武運の危ふきに近かるべし。
 「『君君たらずといへども、臣以て臣たらざるべからず。』といへり。御謀叛の事、君、たとひ思し召し立つとも、武威盛んならん程は、与し申す者あるべからず。これにつけても、武家いよいよ慎しんで勅命に応ぜば、君もなどか思し召し直す事なからん。かくてぞ国家の泰平、武運の長久にて候はんと存ずるは、面々、如何に思し召し候。」と申しけるを、長崎新左衛門尉、又自余の意見をも待たず、以ての外に気色を損じて、重ねて申しけるは、「文武の趣、一なりといへども、用捨、時異なるべし。静かなる世には文を以ていよいよ治め、乱れたる時には武を以て急に静む。故に、戦国の時には孔盂用ゐるに足らず、太平の世には干戈用ゐる事なきに似たり。
 「事、已に急に当たりたり。武を以て治むべきなり。異朝には、文王、武王、臣として無道の君を討ちし例あり。吾が朝には、義時、泰時、下として不善の主を流す例あり{*6}。世皆、これを以て当たれりとす。されば古典にも、『君、臣を視る事土芥の如くする時は、則ち臣、君を視る事冦讎の如し。』といへり。事停滞して、武家追罰の宣旨を下されなば、後悔すとも益あるべからず。唯速やかに君を遠国に遷し参らせ、大塔宮を硫黄が島へ流し奉り、隠謀の逆臣、資朝、俊基を誅せらるるより外の事、あるべからず。武家の安泰、万世に及ぶべしとこそ存じ候へ。」と、居たけ高になりて申しける間、当座の頭人、評定衆、権勢にやおもねりけん、又、愚案にや落ちけん、皆この議に同じければ、道蘊、再往の忠言に及ばず、眉を顰めて退出す。
 さる程に、「君の御謀叛を申し勧めけるは、源中納言具行、右少弁俊基、日野中納言資朝なり。各、死罪に行はるべし。」と、評定一途に定まつて、「先づ、去年より佐渡国へ流されておはする資朝卿を、斬り奉るべし。」と、その国の守護本間山城入道に下知せらる。
 この事、京都に聞こえければ、この資朝の子息国光の中納言、その頃は阿新殿とて、歳十三にておはしけるが、父の卿、囚人に成り給ひしより、仁和寺辺に隠れて居られけるが、父誅せられ給ふべき由を聞いて、「今は、何事にか命を惜しむべき。父と共に斬られて、冥途の旅の伴をもし、又、最後の御有様をも見奉るべし。」とて、母に御暇をぞ乞はれける。母御、頻りに諌めて、「佐渡とやらんは、人も通はぬ怖ろしき島とこそ聞こゆれ。日数を経る道なれば、いかんとしてか下るべき。その上、汝にさへ離れては、一日片時も命長らふべしともおぼえず。」と、泣き悲しみて止めければ、「よしや、伴ひ行く人なくば、如何なる淵瀬にも身を投げて死なん。」と申しける間、母、いたく止めば、又目の前に憂き別れもありぬべしと思ひ侘びて、力なく、今まで唯一人附き副ひたる中間を相副へられて、遥々と佐渡国へぞ下しける。路遠けれども、乗るべき馬もなければ、はきも習はぬ草鞋に菅の小笠を傾けて、露分けわくる越路の旅、思ひやるこそ哀れなれ。
 都を出でて十日余りと申すに、越前の敦賀の津に著きにけり。これより商人船に乗つて、程なく佐渡国へぞ著きにける。人して、かうといふべき便りもなければ、みづから本間が館に到つて、中門の前にぞ立ちたりける。折節僧のありけるが立ち出でて、「この内への御用にて御立ち候か。又、如何なる用にて候ぞ。」と問ひければ、阿新殿、「これは、日野中納言の一子にて候が、近来切られさせ給ふべしと承つて、その最後の様をも見候はんために、都より遥々と尋ね下りて候。」と云ひもあへず、涙をはらはらと流しければ、この僧、心ありける人なりければ、急ぎこの由を本間に語るに、本間も岩木ならねば、さすが哀れにや思ひけん、やがてこの僧を以て持仏堂へ誘ひ入れて、踏皮、行纒脱がせ{*7}、足洗ひて、おろそかならぬ体にてぞ置きたりける。
 阿新殿、これを嬉しと思ふにつけても、「同じくは、父の卿を疾く見奉らばや。」といひけれども、今日明日斬らるべき人にこれを見せては、中々冥路の障りともなりぬべし。又、関東の聞こえも如何あらんずらんとて、父子の対面を許さず。四、五町隔てたる処に置きたれば、父の卿は、これを聞きて、行くへも知らぬ都にいかがあらんと思ひやるよりも、尚悲し。子は、その方を見やりて、浪路遥かに隔たりし鄙の住居を思ひやつて、心苦しく思ひつる涙は、更に数ならずと、袂の乾くひまもなし。これこそ中納言のおはします牢の中よ、とて見やれば、竹の一叢茂りたる処に、堀ほり廻し屏塗つて、行き通ふ人も稀なり。情なの本間が心や。父は禁篭せられ、子は未だ幼し。たとひ一所に置きたりとも、何程の怖畏かあるべきに、対面をだに許さで、まだ同じ世の中ながら、生を隔てたる如くにて、なからん後の苔の下、思ひ寝に見ん夢ならでは、相見ん事もありがたしと、互に悲しむ恩愛の、父子の道こそ哀れなれ。
 五月二十九日の暮程に、資朝卿を牢より出だし奉りて、「遥かに御湯も召され候はぬに、御行水候へ。」と申せば、早斬らるべき時になりけりと思ひたまひて、「ああ、うたてしきことかな。我が最後の様を見んために、遥々と尋ね下つたる幼きものを、一目も見ずして終てぬる事よ。」とばかり宣ひて、その後は、かつて諸事につけて、詞をも出だし給はず。今朝までは気色しをれて、常には涙を押し拭ひたまひけるが、人間のことに於いては、頭燃を払ふ如くになりぬと覚つて、唯綿密の工夫の外は、余念ありとも見え給はず。夜に入れば、輿さし寄せて乗せ奉り、ここより十町ばかりある河原へ出し奉り、輿舁き据ゑたれば、少しも臆したる気色もなく、敷皮の上に居直つて、辞世の頌を書きたまふ。
  {*k}五蘊仮に形を成し  四大今空に帰す
  首をもつて白刃に当つ  截断す一陣の風{*k}
年号月日の下に名字を書きつけて、筆を差し置き給へば、切り手、後ろに廻るとぞ見えし。御首は、敷皮の上に落ちて、むくろは尚、坐せるが如し。
 この程、常に法談なんどし給ひける僧来りて、葬礼、形の如く取り営み、空しき骨を拾うて、阿新に奉りければ、阿新、これを一目見て、取る手もたゆく倒れ伏し、「今生の対面、遂に叶はずして、替はれる白骨を見ることよ。」と、泣き悲しむも理なり。阿新、未だ幼稚なれども、健気なる所存ありければ、父の遺骨をば、唯一人召し使ひける中間に持たせて、「先づ我よりさきに高野山に参りて、奥の院とかやに納めよ。」とて、都へ帰し上せ、我が身はいたはる事{*8}ある由にて、尚本間が館にぞ留まりける。これは、本間が情なく、父を今生にて我に見せざりつる鬱憤を散ぜんと思ふ故なり。かくて四、五日経ける程に、阿新、昼は病の由にて終日に臥し、夜は忍びやかにぬけ出でて、本間が寝処なんど細々に伺うて、隙あらば、かの入道父子が間に一人さし殺して、腹切らんずるものを、と思ひ定めてぞ覘ひける。
 或る夜、雨風烈しく吹いて、番する郎等どもも皆、遠侍に臥したりければ、今こそ待つ処の幸ひよと思ひて、本間が寝処の方を忍びて伺ふに、本間が運や強かりけん、今夜は常の寝処を替へて、いづくにありとも見えず。又、二間なる処に灯の影の見えけるを、これはもし、本間入道が子息にてやあるらん。それなりとも討つて恨みを散ぜんと、ぬけ入つてこれを見るに、それさへここにはなくして、中納言殿を斬り奉りし本間三郎といふ者ぞ、唯一人臥したりける。よしや、これも時にとつては親の敵なり。山城入道に劣るまじ、と思ひて、走り懸からんとするに、我は元来、太刀も刀も持たず。唯、人の太刀を我が物と憑みたるに、灯、殊に明らかなれば、立ち寄らば、やがて驚き合ふ事もやあらんずらんと危ぶみで、左右なく寄り得ず。
 如何せんと、案じ煩うて立ちたるに、折節夏なれば、灯の影を見て、蛾といふ虫のあまた明かり障子に取り附きたるを、すはや、究竟の事こそあれと思ひて、障子を少し引きあけたれば、この虫あまた内へ入つて、やがて灯を打ち消しぬ。今はかう、と嬉しくて、本間三郎が枕に立ち寄りて探るに、太刀も刀も枕にあつて、主はいたく寝入りたり。先づ刀を取つて腰にさし、太刀を抜いて胸もとにさし当てて、寝たる者を殺すは死人に同じければ驚かさん、と思ひて、先づ足にて枕をはたとぞ蹴たりける。蹴られて驚く処を、一の太刀に臍の上を畳までつとつき通し、返す太刀に喉笛さし切つて、心閑かに後の竹原の中へぞかくれける。
 本間三郎が、一の太刀に胸を通されて、「あつ。」といふ声に、番衆ども驚き騒ぎて、火を燃してこれを見るに、血のつきたる小さき足跡あり。「さては、阿新殿のしわざなり。堀の水深ければ、木戸より外へはよも出でじ。さがし出だして打ち殺せ。」とて、手に手に松明をともし、木の下、草の蔭まで、残る処なくぞさがしける。阿新は、竹原の中に隠れながら、今は、いづくへか遁るべき。人手に懸からんよりは自害をせばや、と思はれけるが、憎しと思ふ親の敵をば討ちつ。今はいかにもして命を全うして、君の御用にもたち、父の素意をも達したらんこそ、忠臣孝子の義にてもあらんずれ。もしやと一まづ落ちて見ばや、と思ひ返して、堀を飛び越えんとしけるが、口二丈、深さ一丈に余りたる堀なれば、越ゆべき様もなかりけり。さらば、これを橋にして渡らんよ、と思ひて、堀の上に末靡きたる呉竹の梢へさらさらと登りたれば、竹の末、堀の向ひへなびき伏して、易々と堀をば越えてけり。
 夜は未だふかし。湊の方へ行きて、船に乗つてこそ陸へは著かめ、と思ひて、たどるたどる浦の方へ行く程に、夜もはや次第に明け離れて、忍ぶべき道もなければ、身を隠さん、とて日を暮らし、麻や蓬の生ひ茂りたる中に隠れ居たれば、追手どもと思しき者ども、百四、五十騎馳せ散つて、「もし十二、三ばかりなる児や通りつる。」と、道に行き合ふ人毎に、問ふ音してぞ過ぎ行きける。阿新、その日は麻の中にて日を暮らし、夜になれば、湊へと心ざして、そことも知らず行く程に、孝行の志を感じて、仏神、擁護の眸をや廻らされけん、年老いたる山伏一人、行き合ひたり。
 この児の有様を見て、痛はしくや思ひけん、「これは、いづくよりいづくをさして御渡り候ぞ。」と問ひければ、阿新、事の様をありのままにぞ語りける。山伏、これを聞いて、我、この人を助けずば、只今の程にかはゆき目{*9}を見るべし、と思ひければ、「御心安く思し召され候へ。湊に商人船ども多く候へば、乗せ奉りて、越後、越中の方まで送りつけ参らすべし。」といひて、足たゆめば{*10}この児を肩に乗せ、背に負うて、程なく湊にぞ行き著きける。
 夜明けて、「便船やある。」と尋ねけるに、折節、湊の内に船一艘もなかりけり。如何せんと求むる処に、遥かの沖に乗り浮かべたる大船、順風になりぬと悦びて、檣を立て、篷をまく。山伏、手を上げて、「その船、これへ寄せてたび給へ。便船申さん。」と呼ばはりけれども、かつて耳にも聞き入れず。船人、声を帆に上げて、湊の外に漕ぎ出だす。山伏、大きに腹を立てて、柿の衣の露を結んで肩にかけ、沖行く船に立ち向つて、いらたか数珠をさらさらと押し揉みて、「一持秘密呪、生々而加護、奉仕修行者、猶如薄伽梵といへり。況んや多年の勤行に於いてをや。明王の本誓誤らずは、権現金剛童子、天竜夜叉、八大竜王。その船、此方へ漕ぎ戻してたばせたまへ。」と、跳り上がり跳り上がり、肝胆を砕いてぞ祈りける。
 行者の祈り、神に通じて、明王、擁護やしたまひけん、沖の方より俄に悪風吹き来つて、この船、忽ちに覆へらんとしける間、船人どもあわてて、「山伏の御房、先づ我等を御助け候へ。」と、手を合はせ膝をかがめ、手に手に船を漕ぎもどす。汀近くなりければ、船頭、船より飛び下りて、児を肩にのせ、山伏の手を引きて、屋形の内に入れたれば、風は、又もとの如くに直りて、船は湊を出でにけり{*11}。その後、追手ども百四、五十騎馳せ来り、遠浅に馬をひかへて、「あの船止まれ。」と招けども、舟人、これを見ぬよしにて、順風に帆を揚げたれば、船はその日の暮程に、越後の府にぞ著きにける。
 阿新、山伏にたすけられて、鰐の口の死を遁れしも、明王加護の御誓ひ、掲焉{*12}なりける験なり。

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校訂者注
 1:底本は、「当今(とうぎん)」。底本頭注に、「今上天皇即ち後醍醐天皇。」とある。
 2:底本は、「五噫(ごい)を謳(うた)ふ者」。底本頭注に、「後漢の梁鴻が五噫の歌を作つて悲しみの意を表はした故事。即ち悲しむことを云ふ。」とある。
 3:底本は、「頭人の評定衆」。『太平記 一』(1977年)に従い削除した。
 4:底本は、「一々誅せ」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
 5:底本は、「この上に主上を」。『通俗日本全史 太平記』(1913年)に従い補った。底本頭注に、「〇主上 後醍醐天皇。」「〇天台座主 大塔宮。」とある。
 6:底本頭注に、「〇無道の君 殷の紂王を指す。」「〇不善の主 承久の後鳥羽、土御門、順徳の三上皇を指す。」とある。
 7:底本は、「踏皮(たび)行纒(はゞき)ぬかせ」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。底本頭注に、「〇踏皮 革で仕立てた足袋。」「〇行纒 脚絆。」とある。
 8:底本は、「労(いたは)る事」。底本頭注に、「病気。」とある。
 9:底本頭注に、「悲しい目。」とある。
 10:底本頭注に、「足が疲れたので。」とある。
 11:底本は、「出でにける。」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 12:底本は、「掲焉(けつえん)」。底本頭注に、「いちじるしい。」とある。
 k:底本、この間は漢文。

俊基誅せらるる事 並{*1} 助光が事

 俊基朝臣は、殊更{*2}謀叛の張本なれば、遠国に流すまでもあるべからず。近日に鎌倉中にて斬り奉るべし、とぞ定められける。この人、多年の所願あつて、法華経を六百部自ら読誦し奉るが、今二百部残りけるを、「六百部に満つるほどの命を相待たれ候ひて、その後、ともかくもなされ候へ。」と、頻りに所望ありければ、「げにも、それ程の大願を果たさせ奉らざらんも、罪なり。」とて、今二百部の終はる程、僅かの日数を待ち暮らす、命の程こそ哀れなれ。
 この朝臣の多年召し使ひける青侍に、後藤左衛門尉助光といふ者あり。主の俊基、召し捕られ給ひし後、北の方に附き参らせ、嵯峨の奥に忍びて候ひけるが、俊基、関東へ召し下され給ふ由を聞き給ひて、北の方は、堪へぬ思ひに伏し沈みて、歎き悲しみ給ひけるを見奉るに、悲しみに堪へずして、北の方の御文を賜はりて、助光、忍びて鎌倉へぞ下りける。今日明日の程と聞こえしかば、今は早斬られもやし給ひつらんと、行き逢ふ人に事のよしを問ひ問ひ、程なく鎌倉にこそ著きにけれ。
 右少弁俊基のおはするあたりに宿を借りて、いかなる便りもがな、事の仔細を申し入れん、と伺ひけれども、叶はずして日を過ごしける処に、「今日こそ京都よりの囚人は、斬はれ給ふべきなれ。あな、哀れや。」なんど沙汰しければ、助光、こは如何せんと肝を消し、ここかしこに立ちて見聞しければ、俊基、已に張輿に乗せられて、粧坂へ出で給ふ。ここにて工藤二郎左衛門尉請け取りて、葛原岡に大幕引いて、敷皮の上に坐し給へり。これを見ける助光が心の中、譬へていはん方もなし。
 目くれ足もなえて、絶え入るばかりに有りけれども、泣く泣く工藤殿が前に進み出でて、「これは、右少弁殿の伺候の者にて候が、最後の様見奉り候はんために、遥々と参り候。然るべくは、御免を蒙りて御前に参り、北の方の御文をも見参に入れ候はん。」と申しもあへず、涙をはらはらと流しければ、工藤も、見るに哀れを催されて、不覚の涙せきあへず。「仔細候まじ。早幕の内へ御参り候へ。」とぞ許しける。助光、幕の内に入つて、御前に跪く。
 俊基は、助光を打ち見て、「いかにや。」とばかり宣ひて、やがて涙に咽び給ふ。助光も、「北の方の御文にて候。」とて、御前に差し置きたるばかりにて、これも涙にくれて、顔をも擡げず泣き居たり。やや暫くあつて、俊基、涙を押し拭ひ、文を見たまへば、「消えかかる露の身の、置き所なきにつけても、如何なる暮にか、なき世の別れと承り候はんずらんと、心を砕く涙のほど、御推し量りも尚浅くなん。」と、詞に余つて思ひの色深く、黒み過ぐるまで書かれたり。俊基、いとど涙にくれて、読みかね給へる気色、見る人、袖をぬらさぬはなかりけり。「硯やある。」と宣へば、矢立を御前にさし置けば、硯の中なる小刀にて、鬢の髪を少し押し切つて、北の方の文に巻きそへ、引き返し一筆書いて、助光が手に渡し給へば、助光、懐に入れて泣き沈みたる有様、理にも過ぎて哀れなり。
 工藤左衛門、幕の内に入つて、「余りに時の移り候。」と勧むれば、俊基、畳紙を取り出だし、頚のまはり押し拭ひ、その紙を押し披いて、辞世の頌を書き給ふ。
  {*k}古来一句  無死無生  万里雲尽  長江水清{*k}
筆を差し置きて、鬢の髪をなで給ふ程こそあれ、太刀かげ後ろに光れば、首は前に落ちけるを、自ら抱へて伏し給ふ。これを見奉る助光が心の中、譬へていはん方もなし。さて、泣く泣く死骸を葬し奉り、空しき遺骨を頚に懸け、形見の御文身に副へて、泣く泣く京へぞ上りける。
 北の方は、助光を待ちつけて、弁殿{*3}の行方を聞かん事の嬉しさに、人目も憚らず、簾より外に出で迎ひ、「いかにや。弁殿は、いつごろに御上りあるべしとの御返事ぞ。」と問ひ給へば、助光、はらはらと涙をこぼして、「はや斬られさせ給ひて候。これこそ今はの際の御返事にて候へ。」とて、鬢の髪と消息とをさしあげて、声も惜しまず泣きければ、北の方は、形見の文と白骨を見給ひて、内へも入り給はず縁に倒れ伏し、消え入り給ひぬと、驚く程に見え給ふ。
 理なるかな、一樹の蔭に宿り、一河の流れを汲む程も、知られず知らぬ人にだに、別れとなれば名残を惜しむ習ひなるに、況んや連理の契り浅からずして、十年余りになりぬるに、夢より外は又も相見ぬこの世の外の別れと聞きて、絶え入り悲しみ給ふぞ理なる。
 四十九日と申すに、形の如くの仏事{*4}営みて、北の方、様をかへ、濃き墨染に身をやつし、柴の扉の明け暮れは、亡夫の菩提をぞ弔ひ給ひける。助光も、髻切つて、永く高野山に閉ぢ篭りて、ひとへに亡君の後生菩提をぞ弔ひ奉りける。夫婦の契り、君臣の義、なきあとまでも留まりて、哀れなりしことどもなり。

天下怪異の事

 嘉暦二年の春の頃、南都大乗院禅師房と六方{*5}の大衆と、確執の事あつて合戦に及び、金堂、講堂、南円堂、西金堂、忽ちに兵火の余煙に焼け失せぬ。又、元弘元年、山門東塔の北谷より兵火出で来て、四王院、延命院、大講堂、法華堂、常行堂、一時に灰燼となりぬ。これ等をこそ、天下の災難をかねて知らする処の前相かと、人皆魂を冷やしけるに、同じき年の七月三日、大地震あつて、紀伊国千里浜の遠干潟、俄に陸地になる事、二十余町なり。又、同じき七日の酉の刻に地震あつて、富士の絶頂崩るること、数百丈なり。卜部の宿祢、大亀を焼いて占ひ、陰陽博士、占文を啓いて見るに、「国王、位を易へ、大臣、災ひに遭ふ。」とあり。「勘文の表、穏やかならず。最も御慎しみ有るべし。」と密奏す。寺々の火災、所々の地震、只事にあらず。今や不思議出で来ると、人々、心を驚かしける処に、果たしてその年の八月二十二日、東使{*6}両人、三千余騎にて上洛すと聞こえしかば、何事とは知らず、京に又、如何なる事やあらんずらんと、近国の軍勢、我も我もと馳せ集まる。京中何となく、以ての外に騒動す。
 両使、已に京著して、未だ文箱をも開かぬ先に、何とかして聞こえけん、「今度東使の上洛は、主上{*7}を遠国へ遷し参らせ、大塔宮を死罪に行ひ奉らんためなり。」と、山門に披露ありければ、八月二十四日の夜に入つて、大塔宮よりひそかに御使を以て、主上へ申させ給ひけるは、「今度東使上洛の事、内々承り候へば、皇居を遠国へ遷し奉り、尊雲{*8}を死罪に行はんためにて候なる。今夜、急ぎ南都の方へ御忍び候べし。城郭未だ整はず、官軍馳せ参ぜざる先に、兇徒、もし皇居に寄せ来らば、御方、防ぎ戦ふに、利を失ひ候はんか。且は、京都の敵を遮り止めんがため、又は、衆徒の心を見んがために、近臣を一人、天子の号を許されて山門へ上せられ、臨幸の由を披露候はば、敵軍、定めて叡山に向つて合戦を致し候はんか。さる程ならば、衆徒、吾が山を思ふ故に、防ぎ戦ふに身命を軽んじ候べし。兇徒、力疲れ、合戦数日に及ばば、伊賀、伊勢、大和、河内の官軍を以て、かへつて京都を攻められんに、兇徒の誅戮、踵を旋らすべからず。国家の安危、唯この一挙にあるべく候なり。」と申されたりける間、主上、只あきれさせ給へるばかりにて、何の御沙汰にも及び給はず。
 尹大納言師賢、万里小路中納言藤房、同舎弟季房、三、四人上臥したるを御前に召されて、「この事、如何かあるべし。」と仰せ出だされければ、藤房卿、進みて申されけるは、「逆臣、君を犯し奉らんとする時、暫くその難を避けて、還つて国家を保つは、前蹤、皆佳例にて候。所謂、重耳は翟に奔り、大王、豳に行く{*9}。共に王業をなして、子孫、無窮に光を輝かし候ひき。とかくの御思案に及び候はば、夜も更け候ひなん。早御忍び候へ。」とて、御車を差し寄せ、三種の神器を乗せ奉り、下簾より出だし絹を出して、女房車の体に見せ、主上を助け乗せまゐらせて、陽明門より成し奉る。
 御門守護の武士ども、御車を押さへて、「誰にて御渡り候ぞ。」と問ひ申しければ、藤房、季房二人、御車に随つて供奉したりけるが、「これは、中宮の、夜に紛れて北山殿へ行啓ならせ給ふぞ。」と宣ひたりければ、「さては仔細候はじ。」とて、御車をぞ通しける。かねて用意やしたりけん、源中納言具行、按察大納言公敏、六條少将忠顕、三條河原にて追ひつき奉る。ここより御車をば止められ、賤しげなる張輿に召し替へさせ参らせたれども、俄の事にて駕輿丁もなかりければ、大膳大夫重康、楽人豊原兼秋、随身秦久武なんどぞ、御輿をば舁き奉りける。供奉の諸卿、皆衣冠をぬいで、折烏帽子に直垂を著し、七大寺詣する京家の青侍なんどの、女性を具足したる体に見せて、御輿の前後にぞ供奉したりける。
 古津の石地蔵を過ぎさせ給ひける時、夜は早、ほのぼのと明けにけり。此処にて朝餉の供御を進め申して、先づ南都の東南院へ入らせ給ふ。かの僧正、元より弐心なく忠義を存ぜしかば、先づ臨幸なりたるをば披露せで、衆徒の心を伺ひ聞くに、西室顕実僧正は、関東の一族にて、権勢の門主たる間、皆その威にや恐れたりけん、与力する衆徒もなかりけり。かくては南都の皇居叶ふまじとて、翌日二十六日、和束の鷲峯山へ入らせ給ふ。ここは又、あまりに山深く里遠うして、何事の計略も叶ふまじき処なれば、要害に御陣を召さるべしとて、同じき二十七日、潜幸の儀式を引きつくろひ、南都の衆徒少々召し具せられて、笠置の石室へ臨幸なる。

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校訂者注
 1:底本は、「附」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 2:底本は、「殊更(ことさら)に」。『太平記 一』(1977年)に従い削除した。
 3:底本頭注に、「右少弁俊基。」とある。
 4:底本は、「形の如く仏事(ぶつじ)」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
 5:底本頭注に、「興福寺の六方の末寺。乾、艮、巽、坤、竜華院、菩提院の六。」とある。
 6:底本頭注に、「鎌倉の使者。」とある。
 7:底本頭注に、「後醍醐天皇。」とある。
 8:底本頭注に、「大塔宮の御自称。」とある。
 9:底本頭注に、「〇重耳 晋の献公の子で讒言により出奔したが後覇者となる。」「〇大王 周の古公亶父は民を思ひ戦を避けたが後大王となる。」とある。
 k:底本、この間は漢文。

師賢登山の事 附 唐崎浜合戦の事

 尹大納言師賢卿は、主上の内裏を出御ありし夜、三條河原まで供奉せられたりしを、大塔宮より様々仰せられつる仔細あれば、「臨幸の由にて山門へ登り、衆徒の心をも伺ひ、又、勢をもつけて合戦を致せ。」と仰せられければ、師賢、法勝寺の前より袞竜の御衣を著して、瑤輿に乗り替へて{*1}山門の西塔院へ登り給ふ。四條中納言隆資、二條中将為明、中院左中将貞平{*2}、皆衣冠正しうして、供奉の体に相従ふ。事の儀式、まことしくぞ見えたりける。西塔の釈迦堂を皇居となされ、主上、山門を御憑みあつて臨幸成りたるよし披露ありければ、山上、坂本は申すに及ばず、大津、松本、戸津、比叡辻、仰木、絹河、和仁、堅田のものまでも、われさきにと馳せまゐる。その勢、東西両塔に充満して、雲霞の如くにぞ見えたりける。
 かかりけれども、六波羅には未だかつてこれを知らず。夜明けければ、東使両人、内裏へ参りて、先づ行幸を六波羅へ成し奉らんとて打つ立ちける処に、浄林房阿闍梨豪誉がもとより六波羅へ使者を立て、「今夜の寅の刻に、主上、山門を御憑みあつて臨幸成りたる間、三千の衆徒、悉く馳せ参り候。近江、越前の御勢を待ちて、明日は六波羅へ寄せらるべき由、評定あり。事の大きになり候はぬ先に、急ぎ東坂本へ御勢を向けられ候へ。豪誉、後づめ仕つて、主上をば取り奉るべし。」とぞ申したりける。
 両六波羅、大きに驚きて、先づ内裏へ参じて見奉るに、主上は御座なくて、唯、局町{*3}の女房達、ここかしこにさし集ひて泣く声のみぞしたりける。「さては、山門へ落ちさせ給ひたる事、仔細なし。勢つかぬ前に山門を攻めよ。」とて、四十八箇所の篝に畿内五箇国の勢を差し添へて、五千余騎、追手の寄せ手として、赤山の麓、下松の辺へさし向けらる。搦手へは佐々木三郎判官時信、海東左近将監、長井丹後守宗衡、筑後前司貞知、波多野上野前司宣道、常陸前司時朝に、美濃、尾張、丹波、但馬の勢を差し添へて七千余騎、大津、松本を経て、唐崎の松の辺まで寄せかけたり。
 坂本には、かねてより相図を指したる事なれば、妙法院、大塔宮両門主、宵より八王子へ御上りあつて、御旗を揚げられたるに、御門徒の護正院の僧都祐全、妙光坊の阿闍梨玄尊を始めとして、三百騎、五百騎、ここかしこより馳せ参りける程に、一夜の間に御勢六千余騎になりにけり。天台座主を始めて、解脱同相の御衣を脱ぎ給ひて、堅甲利兵の御かたちにかはり、垂跡和光のみぎり忽ちに変じて、勇士守禦の場となりぬれば、神慮も如何あらんと、計り難くぞおぼえたる。さる程に、六波羅勢、已に戸津宿の辺まで寄せたりと、坂本の内、騒動しければ、南岸の円宗院、中坊の勝行房、早り雄{*4}の同宿ども、取る物も取りあへず、唐崎の浜へ出で合ひける。その勢、皆かち立ちにて、しかも三百人には過ぎざりけり。
 海東、これを見て、「敵は小勢なりけるぞ。後陣の勢の重ならぬ前に、かけ散らさでは叶ふまじ。続けや、者ども。」といふままに、三尺四寸の太刀を抜いて、鎧の射向の袖をさしかざし、敵の渦まいて控へたる真中へかけ入り、敵三人切り伏せ、波打際に控へて、続く御方をぞ待ちたりける。岡本房の幡磨竪者快実、遥かにこれを見て、前につき双べたる持楯一帖、かつぱと踏み倒し、二尺八寸の小長刀、水車に廻して躍り懸かる。海東、これを弓手にうけ、兜の鉢を真二つに打ち破らんと、隻手打ちに打ちけるが、打ち外して、袖の冠板より菱縫の板まで、片筋かいにかけず切つて落とす。二の太刀を、余りに強く切らんとて、弓手の鐙を踏みをり、已に馬より落ちんとしけるが、乗り直りける処を、快実、長刀の柄を取り延べ、内兜へ鋒上がりに二つ三つ、透間もなく入れたりけるに、海東、あやまたず喉笛を突かれて、馬より真さかさまに落ちにけり。快実、やがて海東が上巻に乗りかかり、鬢の髪を掴んで引き上げ、首かき切つて長刀に貫き、「武家の太将一人、討ち取つたり。物始めよし。」と悦んで、あざわらうてぞ立ちたりける。
 ここに、何者とは知らず、見物衆の中より、年十五、六ばかりなる小児の、髪、唐輪に上げたるが、麹塵の筒丸に大口のそば高くとり、金作りの小太刀を抜いて、快実に走りかかり、兜の鉢をしたたかに三打ち四打ちぞ打ちたりける。快実、屹と振り返つてこれを見るに、齢二八ばかりなる小児の、大眉に鉄漿黒なり。これ程の小児を討ち留めたらんは、法師の身にとつては情なし。討たじとすれば、走り懸かり走り懸かり、手繁く切り廻りける間、よしよし。さらば、長刀の柄にて太刀を打ち落として組み止めん、としける処を、比叡辻の者どもが田の畔に立ち渡つて射ける横矢に、この児、胸板をつと射抜かれて、やにはに伏して死にけり。後に、「誰そ。」と尋ぬれば、海東が嫡子幸若丸といひける小児、父が留め置きけるに依つて、軍の伴をばせざりけるが、猶も覚束なくや思ひけん、見物衆に紛れて跡について来りけるなり。幸若、幼しといへども、武士の家に生まれたる故にや、父が討たれけるを見て、同じく戦場に討死して、名を残しけるこそ哀れなれ。
 海東が郎等、これを見て、「二人の主を目の前に討たせ、あまつさへ首を敵に取らせて、生きて帰るものやあるべき。」とて、三十六騎の者ども、轡を双べてかけ入り、主の死骸を枕にして、討死せんと相争ふ。快実、これを見て、からからと打ち笑うて、「心得ぬ者かな。御辺達は、敵の首をこそ取らんずるに、御方の首をほしがるは、武家自滅の瑞相、顕はれたり。ほしからば、すは、取らせん。」と云ふままに、持ちたる海東が首を、敵の中へがばと投げかけ、坂本様の拝み切り{*5}、八方を払うて火を散らす。三十六騎の者ども、快実一人に切りたてられて、馬の足をぞ立てかねたる。
 佐々木三郎判官時信、後ろに控へて、「御方討たすな、続けや。」と下知しければ、伊庭、目賀多、木村、馬淵、三百余騎、喚いて懸かる。快実、既に討たれぬと見えける処に、桂林房の悪讃岐、中房の小相模、勝行房の侍従竪者定快、金蓮房の伯耆直源、四人、左右より渡り合つて、鋒を差し合はせて切つて廻る。讃岐と直源と、同じ処にて討たれにければ、後陣の衆徒五十余人、続いて又打つてかかる。
 唐崎の浜と申すは、東は湖にて、その汀、崩れたり。西は深田にて、馬の足も立たず。平沙渺々として道狭し。後ろへ取り廻さんとするも叶はず。中に取り篭めんとするも叶はず。されば、衆徒も寄せ手も、互に面に立ちたる者ばかり戦つて、後陣の勢は、いたづらに見物してぞ控へたる。
 已に唐崎に軍始まりたりと聞こえければ、御門徒の勢三千余騎、白井の前を今路へ向ふ。本院の衆徒七千余人、三宮林を下り降る。和仁、堅田の者どもは、小船三百余艘に取り乗つて、敵の後ろを遮らんと、大津をさして漕ぎ廻す。六波羅勢、これを見て、叶はじとや思ひけん、志賀の閻魔堂の前を横切りに、今路に懸けて引き返す。衆徒は案内者なれば、ここかしこのつまりつまりに{*6}落ち合ひて、散々に射る。武士は皆、無案内なれば、堀崖ともいはず、馬を馳せ倒して引きかねける間、後陣に引きける海東が若党八騎、波多野が郎等十三騎、真野入道父子二人、平井九郎主従二騎、谷底にて討たれにけり。佐々木判官も、馬を射させて乗替を待つ程に、大敵、左右より取り巻きて、既に討たれぬと見えけるを、名を惜しみ命を軽んずる若党ども、返し合はせ返し合はせ、所々にて討死しけるその間に、万死を出でて一生にあひ、白昼に京へ引き返す。
 この頃までは、天下久しく静かにして、軍といふことは、敢へて耳にも触れざりしに、俄なる不思議出で来ぬれば、人皆あわて騒いで、天地も只今打ち返すやうに、沙汰せぬ処もなかりけり。

持明院殿六波羅へ御幸の事

 世上乱れたる折節なれば、野心の者どもの取り参らすることもやとて、昨日二十七日の巳の刻に、持明院本院、春宮両御所{*7}、六條殿より六波羅の北の方へ御幸なる。供奉の人々には今出川前右大臣兼季公、三條大納言通顕、西園寺大納言公宗、日野前中納言資名、坊城宰相経顕、日野宰相資明、皆衣冠にて御車の前後に相従ふ。その外の北面、諸司恪勤は{*8}、大略、狩衣の下に腹巻を著輝かしたるもあり。洛中、須臾に変化して、六軍、翠花を警固し奉る{*9}。見聞、耳目をおどろかせり。

主上臨幸実事にあらざるに依つて山門変議の事 附 紀信が事

 山門の大衆、唐崎の合戦に打ち勝つて、事始めよしと喜びあへる事、なのめならず。ここに、西塔を皇居に定めらるる條、本院、面目なきに似たり。寿永のいにしへ、後白河院、山門を御憑みありし時も、先づ横川へ御登山ありしかども、やがて東塔の南谷、円融坊へこそ御移りありしか。且は先蹤なり、且は吉例なり。早く臨幸を本院へ成し奉るべしと、西塔院へ触れおくる。西塔の衆徒、理にをれて、仙蹕{*10}を促さんために皇居に参列す。折節、深山おろし烈しうして、御簾を吹き上げたるより、竜顔を拝し奉りたれば、主上にてはおはしまさず。尹大納言師賢の、天子の袞衣を著したまへるにてぞありける。大衆、これを見て、「こは如何なる天狗の所行ぞや。」と、興をさます。その後よりは、参る大衆、一人もなし。かくては山門、如何なる野心をか存ぜんずらんとおぼえければ、その夜の夜半ばかりに、尹大納言師賢、四條中納言隆資、二條中将為明、忍びて山門を落ちて、笠置の石室へ参らる。
 さる程に、上林房阿闍梨豪誉は、元より武家へ心を寄せしかば、大塔宮の執事、安居院中納言法印澄俊を生け捕つて、六波羅へこれを出だす。護正院僧都猷全は、御門徒の中の大名にて、八王子の一の木戸を堅めたりしかば、かくては叶はじとや思ひけん、同宿、手の者引きつれて、六波羅へ降参す。これを始めとして、一人落ち二人落ち、落ち行きける間{*11}、今は光林房律師源存、妙光房小相模、中坊悪律師、三、四人より外は、落ち止まる衆徒もなかりけり{*12}。
 妙法院と大塔宮とは、その夜まで尚八王子に御座ありけるが、「かくては悪しかりぬべし。一まども落ち延びて、君の御行方をも承らばや。」と思し召されければ、二十九日の{*13}夜半ばかりに、八王子に篝火をあまた所に焼いて、未だ大勢篭りたる由を見せ、戸津の浜より小舟に召され、落ち止まる所の衆徒三人ばかり{*14}を召し具せられて、先づ石山へ落ちさせ給ふ。ここにて、「両門主、一所へ落ちさせ給はんことは、計略遠からぬに似たる上、妙法院は、御行歩もかひがひしからねば、只暫くこの辺に御座あるべし。」とて、石山より二人、引き別れさせ給ひて、妙法院は、笠置へ超えさせ給へば、大塔宮は、十津河の奥へと志して、先づ南都の方へぞ落ちさせ給ひける。さしもやごとなき一山の貫首の位を捨てて、未だ習はせ給はぬ万里漂泊の旅に浮かれさせ給へば、医王山王の結縁も、これやかぎり、と名残惜しく、竹園連枝{*15}の再会も、今は何をか期すべきと、御心細く思し召されければ、互に隔たる御影の隠るるまでに顧みて、泣く泣く東西へ別れさせ給ふ、御心の中こそ悲しけれ。
 そもそも今度、主上、実に山門へ臨幸ならざるに依つて、衆徒の心、忽ちに変ずる事、一旦事成らずといへども、つらつら事の様を案ずるに、これ、叡智の浅からざる処に出でたり。
 昔、強秦亡びて後、楚の項羽と漢の高祖と、国を争ふこと八箇年、軍を挑むこと七十余箇度なり。その戦ひの度毎に、項羽、常に勝つに乗つて{*16}、高祖、甚だ苦しめること多し。或る時高祖、滎陽城に篭る。項羽、兵を以て城を囲む事、数百重なり。日を経て城中に粮尽きて、兵疲れければ、高祖、戦はんとするに力なく、遁れんとするに道なし。ここに、高祖の臣に紀信といひける兵、高祖に向つて申しけるは、「項羽、今城を囲みぬる事数百重。漢、已に食尽きて、士卒、又疲れたり。もし兵を出だして戦はば、漢、必ず楚のために擒とならん。只、敵を欺きて、ひそかに城を逃れ出でんにはしかじ。願はくば、臣、今漢王の諱を犯して楚の陣に降せん。楚、ここに囲みを解いて臣を得ば、漢王、速やかに城を出でて、重ねて大軍を起こし、かへつて楚を亡ぼし給へ。」と申しければ、紀信が忽ちに楚に降つて殺されん事、悲しけれども、高祖、社稷のために身を軽くすべきに非ざれば、力なく、涙をおさへ、別れを慕ひながら、紀信が謀りごとに随ひ給ふ。
 紀信、大きに悦んで、自ら漢王の御衣を著し、黄屋の車に乗り、左纛をつけて{*17}、「高祖、罪を謝して楚の大王に降す。」と呼ばはりて、城の東門より出でたりけり{*18}。楚の兵、これを聞いて、四面の囲みを解いて一所に集まる。軍勢、皆万歳を唱ふ。この間に高祖、三十余騎を従へて{*19}、城の西門より出でて、成皐へぞ落ち給ひける。夜明けて後、楚に降る漢王を見れば、高祖には非ず。その臣に{*20}紀信といふ者なりけり。項羽、大きに怒つて、遂に紀信を刺し殺す。高祖、やがて成皐の兵を率して、かへつて項羽を攻む。項羽が勢ひ尽きて、後、遂に烏江にして討たれしかば、高祖、長く漢の王業を起こして、天下の主となりにけり。
 今、主上{*21}も、かかりし佳例を思し召し、師賢も、かやうの忠節を存ぜられけるにや、彼は敵の囲みを解かせんために偽り、これは敵の兵を遮らんために謀れり。和漢、時異なれども、君臣、体を合はせたる、誠に千載一遇の忠貞、頃刻変化の智謀なり。

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校訂者注
 1:底本は、「袞竜(こんりよう) の御衣(ぎよい)を著して、瑤輿(えうよ)に乗(の)り替(か)へて」。底本頭注に、「〇袞竜の御衣 主上の礼服。色赤く日月星辰山竜雉藻火斧等の象を繍つたもの。」「〇瑤輿 天子の乗輿。」とある。
 2:底本は、「中院貞平(さだひら)、」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
 3:底本は、「局町(つぼねまち)」。底本頭注に、「官女の部屋部屋の立て並べてあるよりいふ。」とある。
 4:底本は、「早雄(はやりを)」。底本頭注に、「勇み立つた男。」とある。
 5:底本は、「坂本様(さかもとやう)の拝切(をがみきり)、」。底本頭注に、「坂本で比叡山を拝むやうに、真向に太刀を振りかざして切る事。」とある。
 6:底本は、「逼々(つまりつまり)に」。底本頭注に、「要所々々に。」とある。
 7:底本頭注に、「〇本院 後伏見上皇。」「〇春宮 量仁親王。」とある。
 8:底本は、「恪勤(かくご)」。底本頭注に、「〇北面 上皇御所即ち院を守護する武士。」「〇諸司 百司。」「〇恪勤 諸司に勤番する勇士。」とある。
 9:底本頭注に、「〇六軍 天子の軍。」「〇翠花 天子の旗。」とある。
 10:底本は、「仙蹕(せんひつ)」。底本頭注に、「行幸。」とある。
 11:底本は、「二人落ち行きける間(あひだ)、」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
 12:底本は、「なかりける。」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 13:底本は、「二十九日夜半(やはん)許りに、」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
 14:底本は、「衆徒三百人許り」。『太平記 一』(1977年)頭注に従い改めた。
 15:底本頭注に、「〇竹園 親王。」「〇連枝 兄弟。」とある。
 16:底本は、「勝(かち)に乗(の)つて、」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 17:底本は、「黄屋(くわうをく)の車に乗り左纛(さたう)をつけて、」。底本頭注に、「〇黄屋の車 天子の車。」「〇左纛 黒牛の尾を以て作れる天子の旗。」とある。
 18:底本は、「出でたりける。」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 19:底本は、「この間高祖三千余騎を従(したが)へて、」。『太平記 一』(1977年)に従い補い、改めた。
 20:底本は、「その臣(しん)の紀信」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 21:底本頭注に、「後醍醐天皇。」とある。

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