江戸期版本を読む

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カテゴリ:軍記物語 > 校訂「太平記」 日本文学大系本

巻第三

主上御夢の事 附 楠の事

 元弘元年八月二十七日、主上、笠置へ臨幸成つて、本堂を皇居となさる。始め一両日の程は、武威に恐れて、参り仕ふる人一人もなかりけるが、叡山、東坂本の合戦に六波羅勢打ち負けぬと聞こえければ、当寺の衆徒を始めて近国の兵ども、ここかしこより馳せ参る。されども、未だ名ある武士、手勢百騎とも二百騎とも打たせたる大名は、一人も参らず。この勢ばかりにては、皇居の警固、如何あるべからんと、主上、思し召し煩はせ給ひて、少し御まどろみありける御夢に、所は紫宸殿の庭前とおぼえたる地に、大きなる常葉木あり。緑の蔭茂りて、南へ指したる枝、殊に栄え、はびこれり。その下に三公百官、位に依つて列坐す。南へ向きたる上座に御座の畳を高く敷き、未だ坐したる人はなし。主上、御夢心地に、「誰を設けんための座席やらん。」と怪しく思し召して、立たせ給ひたる処に、鬟結うたる童子二人、忽然として来つて、主上の御前に跪き、涙を袖にかけて、「一天下の間に、暫くも御身を隠さるべき所なし。但し、あの樹の蔭に南へ向へる座席あり。これ、御ために設けたる玉扆{*1}にて候へば、暫くこれにおはし候へ。」と申して、童子は、遥かの天に上がり去りぬと御覧じて、御夢は、やがて覚めにけり。
 主上、これは、天の朕に告ぐる所の夢なりと思し召して、文字につけて御料簡あるに、「木に南と書きたるは、楠といふ字なり。その蔭に南に向ふて坐せよと、二人の童子の教へつるは、朕、再び南面の徳を治めて、天下の士を朝せしめんずる処を、日光、月光の示されけるよ。」と、自ら御夢を合はせられて、たのもしくこそ思し召されけれ。夜明けければ、当寺{*2}の衆徒、成就房の律師を召され、「もしこの辺に、楠と云はるる武士や有る。」と御尋ねありければ、「近き辺に左様の名字附けたる者ありとも、未だ承り及ばず候。河内国金剛山の西にこそ、楠多聞{*3}兵衛正成とて、弓矢取つて名を得たる者は候なれ。これは、敏達天皇四代の孫、井手左大臣橘諸兄公の後胤たりといへども、民間に下つて年久し。その母若かりし時、志貴の毘沙門に百日詣で、夢想を感じて儲けたる子にて候とて、幼名を多聞とは申し候なり。」とぞ答へ申しける。主上、さては今夜の夢の告げこれなり、と思し召して、「やがてこれを召せ。」と仰せ下されければ、藤房卿、勅を承りて、急ぎ楠正成をぞ召されける。
 勅使、宣旨を帯して楠が館へ行き向うて、事の仔細を演べられければ、正成、弓矢取る身の面目、何事かこれに過ぎん{*4}と思ひければ、是非の思案にも及ばず、先づ忍びて笠置へぞ参じける。主上、万里小路中納言藤房卿を以て仰せられけるは、「東夷征罰の事、正成を憑み思し召さるる仔細あつて、勅使を立てらるる処に、時刻を移さず馳せ参る條、叡感、浅からざる処なり。そもそも天下草創の事、如何なる謀りごとを廻らしてか、勝つ事を一時に決して太平を四海に致さるべき。所存を残さず申すべし。」と勅定ありければ、正成、畏まつて申しけるは、「東夷近日の大逆、唯天の譴めを招き候上は、衰乱の弊えに乗つて天誅を致されんに、何の仔細か候べき。但し、天下草創の功は、武略と智謀との二つにて候。もし勢を合はせて戦はば、六十余州の兵を集めて武蔵、相模の両国に対すとも、勝つ事を得がたし。もし謀りごとを以て争はば、東夷の武力、唯利を砕き、堅きを破る内を出でず。これ、欺くに易くして、怖るるに足らざる所なり。合戦の習ひにて候へば、一旦の勝負をば必ずしも御覧ぜらるべからず。正成一人未だ生きてありと聞こし召され候はば、聖運、遂に開かるべしと思し召され候へ。」と頼もしげに申して、正成は河内へ帰りにけり。

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校訂者注
 1:底本は、「玉扆(ぎよくい)」。底本頭注に、「玉座。扆は屏。」とある。
 2:底本は、「当時」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 3:底本は、「多門(たもん)」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 4:底本は、「過(す)ぎじ」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。

笠置軍の事 附 陶山小見山夜討の事

 さる程に、主上、笠置に御座あつて、近国の官軍附き従ひ奉る由、京都へ聞こえければ、山門の大衆、又力を得て、六波羅へ寄する事もや{*1}あらんずらんとて、佐々木判官時信に近江一国の勢を相副へて、大津へ向けらる。これも猶、小勢にて叶ふまじき由を申しければ、重ねて丹波国の住人、久下、長沢の一族等を差し副へて八百余騎、大津東西の宿に陣をとる。
 九月一日、六波羅の両検断、糟谷三郎宗秋、隅田次郎左衛門、五百余騎にて宇治の平等院へ打ちいでて、軍勢の著到を附くるに、催促をも待たず、諸国の軍勢、夜昼引きもきらず馳せ集まつて、十万余騎に及べり。既に明日二日巳の刻に押し寄せて、矢合はせあるべしと定めたりけるその前の日、高橋又四郎、抜け懸けして一人高名に備へんとや思ひけん、僅かに一族の勢三百余騎を率して、笠置の麓へぞ寄せたりける。
 城に篭る所の官軍は、さまで大勢ならずといへども、勇気未だたゆまず、天下の機を呑んで、回天の力を出ださんと思へる者どもなれば、僅かの小勢を見て、なじかは打つて懸からざらん。その勢三千余騎、木津河の辺におり合うて、高橋が勢を取り篭めて、一人も余さじと攻め戦ふ。高橋、始めの勢ひにも似ず、敵の大勢を見て、一返しも返さず、捨て鞭を打つて引きける間、木津河の逆巻く水に追ひ浸され、討たるる者、その数若干なり。僅かに命ばかりを助かる者も、馬物具を捨てて赤裸になり、白昼に京都へ逃げ上る。見苦しかりし有様なり。これを憎しと思ふ者やしたりけん、平等院の橋詰めに一首の歌を書いてぞ立てたりける。
  木津河の瀬々の岩波早ければかけてほどなく落つる高橋{*2}
 高橋が抜け懸けを聞いて、引かば入り替はつて高名せんと、跡につづきたる小早川も、一度に皆追つ立てられ、一返しも返さず宇治まで引きたりと聞こえければ、又札を立て副へて、
  かけもえぬ高橋落ちて行く水にうき名をながす小早川かな
 「昨日の合戦に官軍打ち勝ちぬと聞こえなば、国々の勢馳せ参りて、難儀なることもこそあれ。時日を移すべからず。」とて、両検断、宇治にて四方の手分けを定めて、九月二日、笠置の城へ発向す。南の手には、五畿内五箇国の兵を向けらる。その勢、七千六百余騎。光明山の後ろを廻つて搦手に向ふ。東の手には、東海道十五箇国の内、伊賀、伊勢、尾張、三河、遠江の兵を向けらる。その勢、二万五千余騎。伊賀路を経て金剛山越えに向ふ。北の手には、山陰道八箇国の兵ども一万二千余騎。梨間の宿のはづれより市野辺山の麓を廻つて追手へ向ふ。西の手には、山陽道八箇国の兵を向けらる。その勢三万二千余騎。木津河を上りて、岸の上なる岨道を二手に分けて押し寄する。追手、搦手、都合七万五千余騎。笠置の山の四方二、三里が間は、尺地も残さず充満したり。明くれば九月三日の卯の刻に、東西南北の寄せ手、相近づいて鬨を作る。その声、百千の雷の鳴り落つるが如くにして、天地も動くばかりなり。鬨の声三度揚げて、矢合はせの{*3}流鏑を射懸けたれども、城の中静まりかへつて、鬨の声をも合はせず。答の矢{*4}をも射ざりけり。
 かの笠置の城と申すは、山高うして一片の白雲峯を埋み、谷深うして万仞の青岩路を遮る。つづら折りなる道を廻つて上がる事十八町、岩を切つて堀とし、石を畳うで塀とせり。されば、たとひ防ぎ戦ふ者なくとも、たやすく登る事を得難し。されども城中、鳴りを静めて、人ありとも見えざりければ、敵、はや落ちたりと心得て、四方の寄せ手七万五千余騎、堀がけともいはず、葛のかづらに取り附きて、岩の上を伝うて、一の木戸口の辺、二王堂の前までぞ寄せたりける。ここにて一息休めて城の中を屹と見上げければ、錦の御旗に日月を金銀にて打つて著けたるが、白日に輝いて光り渡りたるその蔭に、透間もなく鎧うたる武者三千余人、兜の星を輝かし、鎧の袖を連ねて、雲霞の如くに並み居たり。その外、櫓の上、狭間{*5}の蔭には、射手とおぼしき者ども、弓の弦くひしめし、矢束解いて押しくつろげ、中差に鼻油引いて待ちかけたり。その勢ひ決然として、敢へて攻むべきやうぞなき。
 寄せ手一万余騎、これを見て、進まんとするも叶はず、引かんとするもかなはずして、心ならず支へたり。やや暫く有つて、木戸の上なる櫓より、矢間の板を開いて名乗りけるは、「三河国の住人足助次郎重範、忝くも一天の君にたのまれ参らせて、この城の一の木戸を堅めたり。前陣に進んだる旗は、美濃、尾張の人々の旗と見るは僻目か。十善の君のおはします城なれば、六波羅殿や御向ひあらんずらんと心得て、御儲けのために、大和鍛冶のきたうて打ちたる鏃を少々用意仕りて候。一筋受けて御覧じ候へ。」と云ふままに、三人張の弓に十三束三伏、篦かづきの上まで引きかけ、暫し堅めて丁と放つ。その矢、遥かなる谷を隔てて、二町余りが外に控へたる荒尾九郎が鎧の千檀の板を、右の小脇まで篦深にぐざと射込む。一箭なりといへども、究竟の矢坪なれば、荒尾、馬よりさかさまに落ちて、起きも直らで死しけり。
 舎弟の弥五郎、これを敵に見せじと、矢面に立ち隠して、楯のはづれより進み出でて云ひけるは、「足助殿の御弓勢、日頃承り候ひし程はなかりけり。ここを遊ばし候へ。御矢一筋受けて、物の具の実の程、試み候はん。」と欺いて、弦走を敲いてぞ立ちたりける。足助、これを聞きて、「この者の云ひやうは、いかさま、鎧の下に腹巻か鎖かを重ねて著たればこそ、前の矢を見ながら、ここを射よとは敲くらん。もし鎧の上を射ば、篦砕け鏃折れて通らぬ事もこそあれ。兜の真向を射たらんに、などか砕けて通らざらん。」と思案して、胡簶より金磁頭{*6}を一つ抜き出し、鼻油引いて、「さらば一矢仕り候はん。受けて御覧候へ。」と云ふままに、暫く鎧の高紐をはづして、十三束三伏、前よりも尚引きしぼりて、手答へ高くはたと射る。思ふ矢坪を違へず、荒尾弥五郎が兜の真向、金物の上二寸ばかり射砕いて、眉間の真中をくつまき責めて、ぐさと射篭うだりければ、二詞{*7}とも云はず、兄弟同じ枕に倒れ重なつて死にけり。これを軍の始めとして、追手搦手城の内、喚き叫んで攻め戦ふ。箭叫びの音鬨の声、暫しも休む時なければ、大山も崩れて海に入り、坤軸も折れて忽ち地に沈むかとぞおぼえし。
 晩景になりければ、寄せ手いよいよ重なつて、持楯を突き寄せ突き寄せ、木戸口の辺まで攻めたりける。ここに南都の般若寺より巻数を持つて参りたりける使、本性房といふ大力の律僧のありけるが、褊衫の袖を結んで引き違へ、尋常の人の百人しても動かし難き大磐石を、軽々と脇に挟み、鞠の勢ひに引き懸け引き懸け、二、三十続け打ちにぞ投げたりける。数万の寄せ手、楯の板を微塵に打ち砕かるるのみにあらず、少しもこの石に当たる者、尻居に打ち据ゑられければ、東西の坂に人なだれを築いて、人馬いやが上に落ち重なる。さしも深き谷二つ、死人にてこそうめたりけれ。されば軍散じて後までも、木津河の流れ、血に成つて、紅葉の陰蔭を行く水の紅深きに異ならず。これより後は、寄せ手雲霞の如しといへども、城を攻めんと云ふ者一人もなし。唯城の四方を囲みて、遠攻めにこそしたりけれ。
 かくて日数を経ける処に、同じき月十一日、河内の国より早馬を立てて、「楠兵衛正成と云ふ者、御所方に成つて旗を挙ぐる間、近辺の者ども、志あるは同心し、志なきは東西に逃げ隠る。則ち国中の民屋を追捕して、兵粮のために運びとり、己が館の上なる赤坂山に城郭を構へ、その勢五百騎にて楯篭り候。御退治延引せば、事御難儀に及び候ひなん。急ぎ御勢を向けらるべし。」とぞ告げ申しける。これをこそ珍事なりと騒ぐ処に、又同じき十三日の晩景に、備後国より早馬到来して、「桜山四郎入道、同じく一族等、御所方{*8}に参つて旗を挙げ、当国の一宮を城郭として楯篭る間、近国の逆徒等、少々馳せ加はつて、その勢既に七百余騎。国中を打ち靡け、あまつさへ他国へ打ち越えんと企て候。夜を日に継いで討手を下されず候はば、御大事出で来ぬとおぼえ候。御油断あるべからず。」とぞ告げたりける。前には笠置の城強うして、国々の大勢、日夜攻むれども未だ落ちず。後ろには又楠、桜山の逆徒、大きに起こて、使者日々に急を告ぐ。南蛮西戎{*9}は已に乱れぬ。東夷北狄もまた如何あらんずらんと、六波羅の北の方駿河守、安き心もなかりければ、日々に早馬を打たせて東国勢をぞ乞はれける。
 相模入道{*10}、大きに驚いて、「さらば、やがて討手を差し上せよ。」とて、一門、他家、宗徒の人々六十三人までぞ催されける。大将軍には大仏陸奥守貞直、同遠江守、普恩寺相模守、塩田越前守、桜田三河守、赤橋尾張守、江馬越前守、糸田左馬頭、印具兵庫助、佐介上総介、名越右馬助、金沢右馬助、遠江左近大夫将監治時、足利治部大輔高氏。侍大将には長崎四郎左衛門尉。相従ふ侍には三浦介入道、武田甲斐次郎左衛門尉、椎名孫八入道、結城上野入道、小山出羽入道、氏家美作守、佐竹上総入道、長沼四郎左衛門入道、土屋安芸権守、那須加賀権守、梶原上野太郎左衛門尉、岩城次郎入道、佐野安房弥太郎、木村次郎左衛門尉、相馬右衛門次郎、南部三郎次郎、毛利丹後前司、那波左近大夫将監、一宮善民部大夫、土肥佐渡前司、宇都宮安芸前司、同肥後権守、葛西三郎兵衛尉、寒河弥四郎、上野七郎三郎、大内山城前司、長井治部少輔、同備前太郎、同因幡民部大輔入道、筑後前司、下総入道、山城左衛門大夫、宇都宮美濃入道、岩崎弾正左衛門尉高久、同孫三郎、同彦三郎、伊達入道、田村刑部大輔入道、入江、蒲原の一族、横山、猪俣の両党。この外、武蔵、相模、伊豆、駿河、上野五箇国の軍勢、都合二十万七千六百余騎。九月二十日、鎌倉を立つて、同じき晦日、前陣已に美濃、尾張両国に著けば、後陣は猶未だ高志、二村の峠に支へたり。
 ここに備中国の住人陶山藤三義高、小見山次郎某、六波羅の催促に随つて、笠置城の寄せ手に加はつて、河向ひに陣を取つて居たりけるが、東国の大勢、既に近江に著きぬと聞こえければ、一族若党どもを集めて申しけるは、「御辺達、如何思ふぞや{*11}。この間数日の合戦に、石に打たれ、遠矢に当たつて死ぬる者、幾千万と云ふ数を知らず。これ皆、さしてし出だしたる事もなくて死しぬれば、骸骨未だ乾かざるに、名は先立つて消え去りぬ。同じく死ぬる命を、人目に余る程の軍一度して死したらば、名誉は千載に留まつて、恩賞は子孫の家に栄えん。つらつら平家の乱より以来、大剛の者とて名を古今に揚げたる者どもを案ずるに、いづれもそれ程の高名とはおぼえず。先づ熊谷、平山が一谷の先懸けは、後陣の大勢を憑みし故なり。梶原平三が二度の懸けは、源太を助けんためなり。佐々木三郎が藤戸を渡りしは、案内者のわざ。同じく四郎高綱が宇治川の先陣は、いけづき故なり{*12}。これ等をだに今の世まで語り伝へて、名を天下の人口に残すぞかし。如何に況んや、日本国の武士どもが集まつて、数日攻むれども落とし得ぬこの城を、我等が勢ばかりにて攻め落としたらんは、名は古今の間に双びなく、忠は万人の上に立つべし。いざや、殿原。今夜の雨風の紛れに城中へ忍び入つて、一夜討して天下の人に目を覚まさせん。」と云ひければ、五十余人の一族若党、「最も然るべし。」とぞ同じける。
 これ皆、千に一つも生きて帰る者あらじと思ひ切つたる事なれば、かねての死に出立ち{*13}に、皆曼陀羅を書いてぞ附けたりける。差縄の十丈ばかり長きを二筋、一尺ばかり置いては結び合はせ結び合はせして、その端に熊手を結ひつけて持たせたり。これは、岩石などの登られざらん所をば、木の枝岩の角に打ち懸けて登らんための支度なり。その夜は九月晦日の事なれば、目指すとも知らざる暗き夜に、雨風烈しく吹いて、面を向くべきやうもなかりけるに、五十余人の者ども、太刀を背に負ひ、刀を後ろに差して、城の北に当たりたる石壁の数百丈聳えて、鳥も翔り難き所よりぞ登りける。二町ばかりはとかくして登りつ。その上に一段高き所あり。屏風を立てたる如くなる岩石重なつて、古松枝を垂れ、蒼苔路滑らかなり。
 ここに至つて人皆、如何ともすべきやうなくして、遥かに見上げて立ちたりける処に、陶山藤三、岩の上をさらさらと走り上つて、くだんの差縄を上なる木の枝に打ち懸けて、岩の上より下したるに、跡なる兵ども、各これに取りついて、第一の難所をば易々と皆上りてけり。それより上には、さまでの嶮岨なかりければ、或いは葛の根に取り附き、或いは苔の上を爪立てて、二時ばかりに辛苦して、塀の際まで著いてけり。ここにて一息休めて、各、塀を上り超え、夜廻りの通りける跡について、先づ城の中の案内をぞ見たりける。追手の木戸、西の坂口をば、伊賀、伊勢の兵千余騎にて堅めたり。搦手に対する東の出塀の口をば、大和、河内の勢五百余騎にて堅めたり。南の坂、二王堂の前をば、和泉、紀伊国の勢七百余騎にて堅めたり。北の口一方は、嶮しきを憑まれけるにや、警固の兵をば一人も置かれず。唯云ふ甲斐なげなる下部ども二、三人、櫓の下に薦を張り、篝を焼いて眠り居たり。
 陶山、小見山、城を廻り、四方の陣をば早見澄ましつ。皇居はいづくやらんと伺うて、本堂の方へ行く処に、或る役所の者、これを聞きつけて、「夜中に大勢の足音して、ひそかに通るは怪しきものかな。誰人ぞ。」と問ひければ、陶山吉次、とりも敢へず、「これは、大和勢にて候が、今夜、余りに雨風烈しくして、物騒がしく候間、夜討や忍び入り候はんずらんと存じ候ひて、夜廻り仕り候なり。」と答へければ、「げに。」といふ音して、又問ふ事もなかりけり。これより後は、中々忍びたる体もなくして、「面面の御陣に、御用心候へ。」と高らかに呼ばはつて、しづしづと本堂へ上つて見れば、これぞ皇居とおぼえて、蝋燭あまた所に灯されて、振鈴の声幽かなり。衣冠正しくしたる人、三、四人大床に伺候して、警固の武士に、「誰か候。」と尋ねられければ、「その国の某々。」と名乗つて、廻廊にしかと並み居たり。
 陶山、皇居の様まで見澄まして、今はかうと思ひければ、鎮守の前にて一礼を致し、本堂の上なる峯へ上つて、人もなき坊のありけるに火をかけて、同音に鬨の声を揚ぐ。四方の寄せ手、これを聞き、「すはや、城中にかへり忠の者出で来て、火をかけたるは。鬨の声を合はせよ。」とて、追手、搦手七万余騎、声々に鬨を合はせて喚き叫ぶ。その声、天地を響かして、如何なる須弥の八万由旬なりとも、崩れぬべくぞ聞こえける。陶山が五十余人の兵ども、城の案内は唯今委しく見置きたり。ここの役所に火を懸けては、かしこに鬨の声をあげ、かしこに鬨を作つては、ここの櫓に火を懸け、四角八方に走り廻つて、その勢、城中に充ち充ちたる様に聞こえければ、陣々堅めたる官軍ども、城の内に敵の大勢攻め入りたりと心得て、物具を脱ぎ捨て弓矢をかなぐり棄て、がけ堀ともいはず、倒れ転びてぞ落ち行きける。
 錦織判官代、これを見て、「きたなき人々の振舞かな。十善の君に憑まれ参らせて、武家を敵に受くる程の者どもが、敵大勢なればとて、戦はで逃ぐるやうやある。いつのために惜しむべき命ぞ。」とて、向ふ敵に走り懸かり走り懸かり、大はだぬぎに成つて戦ひけるが、矢種を射尽くし、太刀を打ち折りければ、父子二人並びに郎等十三人、各、腹かき切つて同じ枕に伏して死しにけり。

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校訂者注
 1:底本は、「寄する事もあらんずらんとて、」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
 2:底本頭注に、「橋を架けと駆け、橋が落つと逃げ落つるとを云ひ懸く。」とある。
 3:底本は、「矢合(やあ)はせ、流鏑(かぶら)」。『太平記 一』(1977年)に従い補った。
 4:底本は、「当(たう)の矢」。底本頭注に従い改めた。
 5:底本は、「さま」。底本頭注に従い改めた。
 6:底本は、「胡簶(えびら)より金磁頭(かなじどう)を」。底本頭注に、「中をくりぬかない矢の根。」とある。
 7:底本は、「二言(ごん)」。
 8:底本頭注に、「天皇方。」とある。
 9:底本頭注に、「〇南蛮 南の蛮人即ち河内の楠氏。」「〇西戎 西の蛮人即ち備後の桜山氏。」とある。
 10:底本頭注に、「高時。」とある。
 11:底本は、「如何か思ふぞや。」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 12:底本頭注に、「〇熊谷 次郎直実。」「〇平山 武者所季重。」「〇梶原平三 景時。」「〇源太 景時の子。」「〇佐々木三郎 盛嗣。」「〇いけづき 頼朝が高綱に与へた名馬。」とある。
 13:底本は、「死出立(しにでたち)」。底本頭注に、「死出の旅立ち。」とある。

主上笠置を御没落の事

 さる程に、類火、東西より吹かれて、余煙、皇居にかかりければ、主上を始め参らせて、宮々、卿相雲客、皆かちはだしなる体にて、いづくを指すともなく、足に任せて落ち行き給ふ。この人々、始め一、二町が程こそ、主上を助け参らせて、前後に御伴をも申されたりけれ、雨風烈しく道闇うして、敵の鬨の声、ここかしこに聞こえければ、次第に別々と成つて、後には唯藤房、季房{*1}二人より外は、主上の御手を引き参らする人もなし。忝くも十善の天子、玉体を田夫野人の形に替へさせ給ひて、そことも知らず迷ひ出でさせ給ひける御有様こそあさましけれ。如何にもして夜の内に赤坂城へと、御心ばかりを尽くされけれども、仮にも未だ習はせ給はぬ御歩行なれば、夢路をたどる御心地して、一足には休み、二足にはたち止まり、昼は道の傍なる青塚の蔭に御身を隠させ給ひて、寒草の疎かなるを御座の茵とし、夜は人も通はぬ野原の露分け迷はせ給ひて、羅穀の御袖をほしあへず。
 とかくして夜昼三日に、山城の多賀郡なる有王山の麓まで落ちさせ給ひてけり。藤房、季房も、三日まで口中の食を断ちければ、足たゆみ身疲れて、今は如何なる目に逢ふとも、逃げぬべき心地せざりければ、せん方なくて、幽谷の岩を枕にて、君臣兄弟もろともに、うつつの夢に伏し給ふ。梢を払ふ松の風を、雨の降るかと聞こし召して、木蔭に立ち寄らせ給ひたれば、下露のはらはらと御袖にかかりけるを、主上、御覧ぜられて、
  さして行く笠置の山を出でしよりあめが下にはかくれがもなし{*2}
藤房卿、涙をおさへて、
  いかにせむ憑む蔭とて立ちよればなほ袖ぬらす松のしたつゆ
 山城国の住人深須入道、松井蔵人二人は、この辺の案内者なりければ、山々峯々、残る所なく捜しける間、皇居、隠れなくたづね出だされさせ給ふ。主上、誠に怖ろしげなる御気色にて、「汝等、心ある者ならば、天恩を戴いて私の栄花を期せよ。」と仰せられければ、さしもの深須入道、俄に心変じて、「あはれ、この君を隠し奉つて義兵を挙げばや。」と思ひけれども、跡につづける松井が所存、知りがたかりける間、事の漏れ易くして、道の成り難からん事を憚つて、黙止しけるこそうたてけれ。俄の事にて網代の輿だになかりければ、張輿の賤しげなるに助け乗せ参らせて、先づ南都の内山へ入れ奉る。その体、唯殷湯夏台に囚はれ、越王会稽に降ぜし昔の夢に異ならず。これを聞き、これを見る人毎に、袖をぬらさずといふことなかりけり。
 この時、ここかしこにて生け捕られ給ひける人々には、先づ一宮中務卿親王、第二宮妙法院尊澄法親王、峯僧正春雅、東南院僧正聖尋、万里小路大納言宣房{*3}、花山院大納言師賢、按察大納言公敏、源中納言具行、侍従中納言公明、別当左衛門督実世、中納言藤房、宰相季房、平宰相成輔、左衛門督為明、左中将行房、左少将忠顕、源少将能定、四條少将隆兼、妙法院執事澄俊法印。北面、諸家の侍どもには左衛門大夫氏信、右兵衛大夫有清、対馬兵衛重定、大夫将監兼秋、左近将監宗秋、雅楽兵衛尉則秋、大学助長明、足助次郎重範、宮内丞能行、大河原源七左衛門尉有重。奈良法師に俊増、教密、行海、志賀良木治部房円実、近藤三郎左衛門尉宗光、国村三郎入道定法、源左衛門入道慈願、奥入道如円、六郎兵衛入道浄円。山徒には勝行房定快、習禅房浄運、乗実房実尊、都合六十一人。その所従眷属どもに至るまでは、数ふるに遑あらず。或いは篭輿に召され、或いは伝馬に乗せられて、白昼に京都へ入り給ひければ、その方様かとおぼえたる男女{*4}、街に立ち並びて、人目をも憚らず泣き悲しむ。浅ましかりし有様なり。
 十月二日、六波羅の北の方、常葉駿河守範貞、三千余騎にて路を警固仕つて、主上を宇治の平等院へ成し奉る。その日、関東の両大将{*5}、京へは入らずして、直に宇治へ参り向つて竜顔に謁し奉り、先づ三種の神器を渡し給はつて{*6}、持明院新帝へ参らすべき由を奏聞す。主上、藤房を以て仰せ出だされけるは、「三種の神器は、古より継体の君、位を天に受けさせ給ふ時、自らこれを授け奉るものなり。四海に威を振るふ逆臣あつて、暫く天下を掌に握る者ありといへども、未だこの三種の重器を、自らほしいままにして新帝に渡し奉る例を聞かず。その上、内侍所をば、笠置の本堂に捨て置き奉りしかば、定めて戦場の灰塵にこそ落ちさせ給ひぬらめ。神璽は、山中に迷ひし時、木の枝に懸け置きしかば、遂にはよも吾が国の守りとならせ給はぬ事あらじ。宝剣は、武家の輩、もし天罰を顧みずして玉体に近づき奉る事あらば、自らその刃の上に伏させ給はんために、暫くも御身を放たる事あるまじきなり。」と仰せられければ、東使両人も六波羅{*7}も、詞なくして退出す。
 翌日に、竜駕を廻らして六波羅へ成し参らせんとしけるを、先々臨幸の儀式ならでは還幸なるまじき由を、強ひて仰せ出だされける間、力なく鳳輦を用意し、袞衣を調進しける間、三日まで平等院に御逗留あつてぞ六波羅へは入らせ給ひける。日頃の行幸に事替はりて、鳳輦は、数万の武士に打ち囲まれ、月卿雲客は、賤しげなる篭輿伝馬に助け乗せられて、七條を東へ河原を上りて、六波羅へと急がせ給へば、見る人涙を流し、聞く人心を傷ましむ。悲しいかな、昨日は紫宸北極の高きに坐して、百司礼儀のよそほひをつくろひしに、今は白屋東夷の卑しきに下らせ給ひて、万卒守禦のきびしきに御心を悩ませらる。時移り事去り、楽しみ尽きて悲しみ来る。天上の五衰、人間の一炊、唯夢かとのみぞおぼえたる。
 遠からぬ雲の上の御住居、いつしか思し召し出だす御事多き折節、時雨の音、一通り軒端の月に過ぎけるを聞こし召して、
  住みなれぬ板屋の軒の村時雨音を聞くにも袖はぬれけり
 四、五日あつて、中宮の御方より御琵琶を進められけるに、御文あり。御覧ずれば、
  思ひやれ塵のみつもる四つの絃{*8}に払ひもあへずかかる涙を
引き返して御返事ありけるに、
  涙ゆゑ半ばの月はかくるとも共に見し夜の影は忘れじ
 同じき八日、両検断、高橋刑部左衛門、糟谷三郎宗秋、六波羅に参つて、今度生け虜られ給ひし人々を、一人づつ大名に預けらる。一宮中務卿親王をば佐々木判官時信、妙法院{*9}二品親王をば長井左近大夫将監高広、源中納言具行をば筑後前司貞知、東南院僧正をば常陸前司時朝、万里小路中納言藤房、六條少将忠顕二人をば、主上に近侍し奉るべしとて、放し囚人の如くにて六波羅にぞ留め置かれける。
 同じき九日、三種の神器を持明院の新帝の御方へ渡さる。堀河大納言具親、日野中納言資名、これを請け取りて、長講堂{*10}へ送り奉る。その御警固には長井弾正蔵人、水谷兵衛蔵人、但馬民部大夫、佐々木隠岐判官清高をぞ置かせられける。
 同じき十三日に、新帝登極の由にて、長講堂より内裏へ入らせ給ふ。供奉の諸卿、花を折つて行粧を引きつくろひ、随兵の武士、甲冑を帯して非常をいましむ。いつしか前帝{*11}奉公の方様には、咎あるも咎なきも、「如何なる憂目をか見んずらん。」と、事に触れて身を危ぶみ心を砕けば、当今{*12}拝趨の人々は、忠あるも忠なきも、「今に栄花を開きぬ。」と、目を悦ばしめ耳をこやす。実結んで蔭をなし、花落ちて枝を辞す。窮達時を替へ、栄辱道を分かつ。今に始めぬ憂世なれども、殊更夢と幻とを分けかねたりしは、この時なり。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「共に宣房の子。」とある。
 2:底本頭注に、「〇さして行く 指すと笠をさすを云ひ懸く。」「〇あめ 天と雨とを云ひ懸く。」とある。
 3:底本頭注に、「藤房の父。」とある。
 4:底本頭注に、「この人々に縁故ある者かと覚しき男女が。」とある。
 5:底本頭注に、「大仏貞直と金沢貞将との二人。」とある。
 6:底本は、「渡し給ひて、持明院(ぢみやうゐん)新帝へ」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。底本頭注に、「〇持明院新帝 帝光厳天皇。」とある。
 7:底本頭注に、「常葉駿河守範貞を指す。」とある。
 8:底本頭注に、「琵琶。四絃なればいふ。」とある。
 9:底本頭注に、「〇一宮 尊良親王。」「〇妙法院 尊澄親王。」とある。
 10:底本頭注に、「六條殿内に在りて、持明院派の領。」とある。
 11:底本頭注に、「後醍醐天皇。」とある。
 12:底本頭注に、「光厳帝。」とある。

赤坂城軍の事

 遥々と東国より上りたる大勢ども、未だ近江国へも入らざる前に、笠置の城、已に落ちければ、無念のことに思うて、一人も京都へは入らず。或いは伊賀、伊勢の山を経、或いは宇治、醍醐の道を横切つて、楠兵衛正成が楯篭つたる赤坂の城へぞ向ひける。石川河原を打ち過ぎ、城の有様を見遣れば、俄に拵へたりとおぼえて、はかばかしく堀をもほらず。僅かに塀一重塗つて、方一、二町には過ぎじとおぼえたるその内に、櫓二、三十が程掻き双べたり。これを見る人毎に、「あな、哀れの敵の有様や。この城、我等が片手に載せて、投ぐるとも投げつべし。あはれ、せめて如何なる不思議にも、楠が一日こらへよかし。分捕高名して、恩賞に預からん。」と思はぬ者こそなかりけれ。されば、寄せ手三十万騎の勢ども、打ち寄ると均しく馬を踏み放ち踏み放ち、堀の中に飛び入り、櫓の下に立ち双んで、我先に打ち入らんとぞ争ひける。
 正成は、元来、籌を帷幄の中にめぐらし、勝つ事を千里の外に決せんと、陳平、張良が肺肝の間より流出せるが如きの者なりければ、究竟の射手を二百余人城中に篭めて、舎弟の七郎{*1}と和田五郎正遠とに三百余騎を差し副へて、よその山にぞ置きたりける。寄せ手はこれを思ひもよらず、心を一片に取りて、唯一揉みに揉み落とさんと、同時に皆四方の切り岸の下に著いたりける処を、櫓の上、狭間の蔭より、指しつめ引きつめ鏃を揃へて射ける間、時の程に手負、死人、千余人に及べり。東国の勢ども、案に相違して、「いやいや、この城のていたらく、一日二日には落つまじかりけるぞ{*2}。暫く陣々を取りて役所を構へ、手分けをして合戦を致せ。」とて、攻め口を少し引き退き、馬の鞍をおろし、物具を脱いで、皆帷幕の中にぞ休み居たりける。
 楠七郎、和田五郎、遥かの山より見下して、時刻よし、とおもひければ、三百余騎を二手に分け、東西の山の木蔭より、菊水の旗二流れ、松の嵐に吹き靡かせ、閑かに馬を歩ませ、煙嵐を巻いて押し寄せたり。東国の勢、これを見て、敵か御方かとためらひ怪しむ処に、三百余騎の勢ども、両方より鬨をどつと作つて、雲霞の如くにたなびいたる三十万騎が中へ{*3}、魚鱗懸かりにかけ入り、東西南北へ破つて通り、四方八面を切つて廻るに、寄せ手の大勢、あきれて陣を成しかねたり。城中より三の木戸を同時に颯とひらいて、二百余騎、鋒を双べて打つて出で、手先を廻して散々に射る。寄せ手、さしもの大勢なれども、僅かの敵に驚き騒いで、或いは、繋げる馬に乗つて、あふれども進まず。或いは、外せる弓に矢をはげて、射んとすれども射られず。物具一領に二、三人取りつき、「我がよ、人のよ。」と引き合ひけるその間に、主討たるれども従者は知らず、親討たるれども子は助けず。蜘の子を散らすが如く、石川河原へ引き退く。その道五十町が間、馬物具を捨てたること{*4}、足の踏み所もなかりければ、東條一郡の者どもは、俄に徳附いてぞ見えたりける。
 さしもの東国勢、思ひの外にし損じて、初度の合戦に負けければ、楠が武略、侮りにくしとや思ひけん、吐田、楢原辺に各打ち寄せたれども、やがて又押し寄せんとは擬せず{*5}。ここに暫く控へて、畿内の案内者を先に立て、後づめのなきやうに山を刈り廻し、家を焼き払うて、心やすく城を攻むべきなんど評定ありけるを、本間、渋谷の者どもの中に、親討たれ子討たれたる者多かりければ、「命生きては何かせん。よしや、我等が勢ばかりなりとも、馳せ向つて討死せん。」と憤りける間、諸人、皆これに励まされて、我も我もと馳せ向ひけり。
 かの赤坂の城と申すは、東一方こそ山田の畔、重々に高く、少し難所の様なれ、三方は皆平地に続きたるを、堀一重に塀一重塗つたれば、如何なる鬼神が篭りたりとも、何程の事かあるべきと、寄せ手皆これを侮り、又、寄すると均しく堀の中、切り岸の下まで攻めついて、逆茂木を引きのけて、討つて入らんとしけれども、城中には音もせず。これはいかさま、昨日の如く、手負ひ多く射出して漂ふ処へ、後づめの勢を出して揉み合はせんずるよと心得て、寄せ手、十万余騎を分けて、後ろの山へ指し向けて、残る二十万騎、稲麻竹葦の如く城を取り巻いてぞ攻めたりける。かかりけれども、城の中よりは、矢の一筋をも射出さず、更に人ありとも見えざりければ、寄せ手、いよいよ気に乗つて、四方の塀に手をかけ、同時に上り越えんとしける処を、本より塀を二重に塗つて、外の塀をば切つて落とす様に拵へたりければ、城の中より四方の塀の釣り縄を一度に切つて落としたりける間、塀に取り附きたる寄せ手千余人、圧しに打たれたる様にて、目ばかりはたらく処を、大木、大石を投げ懸け投げ懸け打ちける間、寄せ手、又今日の軍にも七百余人討たれけり。
 東国の勢ども、両日の合戦に手懲りをして{*6}、今は城を攻めんとする者一人もなし。ただその近辺に陣々を取つて、遠攻めにこそしたりけれ。四、五日が程は、かやうにてありけるが、「余りに暗然として目守り居たるも云ふ甲斐なし。『方四町にだに足らぬ平城に、敵四、五百人篭りたるを、東八箇国の勢どもが攻めかねて、遠攻めしたる事のあさましさよ。』なんど、後までも人に笑はれんことこそ口惜しけれ。先々は、はやりのまま楯をも衝かず、攻め具足をも支度せで攻むればこそ、そぞろに人は損じつれ。今度は、手立てを替へて攻むべし。」とて、面々に持楯をはがせ、その面にいため皮を当てて、たやすく打たれぬやうに拵へて、かづきつれてぞ攻めたりける。
 切り岸の高さ堀の深さ、幾程もなければ、走りかかつて塀に著かんことは、いと易くおぼえけれども、これも又、釣塀にてやあらんと危ぶみて、左右なく塀には著かず、皆堀の中におり浸つて、熊手を懸けて塀を引きける間、既に引き破られぬべう見えける処に、城の中より柄の一、二丈長き杓に、熱湯の沸きかへりたるを酌んでかけたりける間、兜の天返、綿がみ{*7}のはづれより、熱湯身に通つて焼け爛れければ、寄せ手、こらへかねて、楯も熊手も打ち捨てて、ぱつと引きける見苦しさ。矢庭に死ぬるまでこそなけれども、或いは手足を焼かれて立ちもあがらず、或いは五体を損じて病み臥する者、二、三百人に及べり。
 寄せ手、手立てを替へて攻むれば、城中、工を替へて防ぎける間、今はともかくもすべきやうなくして、唯食攻めにすべしとぞ議せられける。かかりし後は、ひたすら軍をやめて、己が陣々に櫓をかき、逆茂木を引いて遠攻めにこそしたりけれ。これにこそ中々城中の兵、慰む方もなく気も疲れぬる心地しけれ{*8}。楠、この城を構へたる事、暫時の事なりければ、はかばかしく兵粮なんど用意もせざれば、合戦始まつて城を囲まれたる事、僅かに二十日余りに、城中兵粮尽きて、今四、五日の食を残せり。
 かかりければ、正成、諸卒に向つて云ひけるは、「この間、数箇度の合戦に打ち勝つて、敵を亡ぼす事数を知らずといへども、敵大勢なれば、敢へて物の数ともせず。城中既に食尽きて、援けの兵なし。元より天下の士卒に先立つて、草創の功を志とする上は、節に当たり義に臨んでは、命を惜しむべきにあらず。然りといへども、事に臨んで恐れ、謀りごとを好んでなすは、勇士のする所なり。されば、暫くこの城を落ちて、正成、自害したる体を敵に知らせんと思ふなり。その故は、正成自害したりと見及ばば、東国勢、定めて悦をなして下向すべし。下らば、正成、討つて出で、又上らば深山に引き入り、四、五度が程東国勢を悩ましたらんに、などか退屈せざらん。これ、身を全うして敵を亡ぼす計略なり。面々、如何計らひ給ふ。」といひければ、諸人皆、「然るべし。」とぞ同じける。
 「さらば。」とて、城中に大きなる穴を二丈ばかり掘つて、この間堀の中に多く討たれて伏したる死人を二、三十人穴の中に取り入れて、その上に炭、薪を積んで、雨風の吹き洒ぐ夜をぞ待ちたりける。正成が運や天命に叶ひけん、吹く風俄に沙を揚げて、降る雨更に篠を衝くが如し。夜色窈溟として、氈城皆帷幕を垂る。これぞ待つ所の夜なりければ、城中に人を一人残し留めて、「我等落ち延びん事、四、五町にも成りぬらんと思はんずる時、城に火をかけよ。」と云ひ置いて、皆物具を脱ぎ、寄せ手に紛れて、五人三人別々になり、敵の役所の前、軍勢の枕の上を越えて、しづしづと落ちけり。
 正成、長崎が厩の前を通りける時、敵、これを見つけて、「何者なれば、御役所の前を案内も申さず忍びやかに通るぞ。」と咎めれけば、正成、「これは、大将の御内の者にて候が、道を踏み違へて候ひける。」といひ捨てて、足早にぞ通りける。咎めつる者、「さればこそ怪しき者なれ。いかさま、馬盜人とおぼゆるぞ。唯射殺せ。」とて、近々と走り寄つて、真只中をぞ射たりける。その矢、正成が臂の懸かり{*9}に答へて、したたかに立ちぬとおぼえけるが、すはだなる身に少しも立たずして、筈を返して飛びかへる。後にその矢の痕を見れば、正成が年頃信じて読み奉る観音経を入れたりける、はだへの守りに矢当たつて、一心称名の二句の偈に矢先留まりけるこそ不思議なれ。
 正成、必死の鏃に死を遁れ、二十余町落ち延びて、跡を顧みければ、約束に違はず、早、城の役所どもに火をかけたり。寄せ手の軍勢、火に驚いて、「すはや、城は落ちけるぞ。」とて、勝鬨を作つて、「余すな、漏らすな。」と騒動す。焼け静まりて後、城中をみれば、大きなる穴の中に炭を積んで、焼け死にたる死骸多し。皆これを見て、「あな、哀れや。正成、はや自害をしてけり。敵ながらも、弓矢取つて尋常に死にたる者かな。」と、誉めぬ人こそなかりけれ。

桜山自害の事

 さる程に、桜山四郎入道{*10}は、備後国半国ばかり打ち従へて、「備中へや越えまし。安芸をや退治せまし。」と案じける処に、笠置城も落ちさせ給ひ、楠も自害したりと聞こえければ、一旦の附き勢は、皆落ち失せぬ。今は、身を離れぬ一族、年頃の若党二十余人ぞ残りける。この頃こそあれ、その昔は、武家、権を執つて、四海九州の内、尺地も残らざりければ、親しき者も隠し得ず、疎きはまして憑まれず。人手にかかりて骸を曝さんよりはとて、当国の一宮へ参り、八歳になりける最愛の子と、二十七になりける年頃の女房とを刺し殺して、社壇に火をかけ、己が身も腹掻き切つて、一族若党二十三人、皆灰燼となつて失せにけり。
 そもそも所こそ多かるに、わざと社壇に火をかけ焼け死にける、桜山が所存を如何にと尋ぬるに、この入道、当社に首を傾けて年久しかりけるが、社頭のあまりに破損したる事を歎きて、造営し奉らんといふ大願を起こしけるが、事大営なれば、志のみ有つて力なし。今度の謀叛に与力しけるも、専らこの大願を遂げんがためなりけり。されども、神は非礼を受け給はざりけるにや、所願空しうして討死せんとしけるが、「我等、この社を焼き払ひたらば、公家武家共に、止む事を得ずして、いかさま、造営の沙汰あるべし。その身はたとひ奈落の底に堕在すとも、この願をだに成就しなば、悲しむべきにあらず。」と、勇猛の心を起こして、社頭にては焼け死にけるなり。つらつら垂跡和光の悲願を思へば、順逆の二縁、いづれも済度利生の方便なれば、今生の逆罪を翻して当来の値遇とやならんと、これもたのみは浅からずぞおぼえける。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「正氏。後に正季と改名す。」とある。
 2:底本は、「落ちまじかりけるぞ。」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 3:底本は、「三十万騎が中に、」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 4:底本は、「馬物具の捨(す)てたること」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 5:底本頭注に、「おし寄せんとする模様もなく。」とある。
 6:底本は、「手ごりをして、」。底本頭注に従い改めた。
 7:底本頭注に、「〇天返 兜の頂上の孔ある所。」「〇綿がみ 鎧の肩の所。」とある。
 8:底本は、「心地してける。」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 9:底本頭注に、「臂の関節に矢が立つ。」とある。
 10:底本頭注に、「名は茲俊。」とある。

巻第四

笠置の囚人死罪流刑の事 附 藤房卿の事

 笠置城攻め落とさるる刻、召し捕らはれ給ひし人々のこと、去年は歳末の計会{*1}に依つて、しばらく差し置かれぬ。新玉の年立ち返りぬれば、公家の朝拝、武家の沙汰始まりてのち、東使工藤次郎左衛門尉、二階堂信濃入道行珍{*2}、二人上洛して、死罪におこなふべき人々、流刑に処すべき国々、関東評定の趣、六波羅にして定めらる。山門、南都の諸門跡、月卿雲客、諸衛の司等に至るまで、罪の軽重に依つて、禁獄、流罪に処すれども、足助次郎重範をば六條河原に引き出し、首を刎ぬべしと定めらる。
 万里小路大納言宣房卿は、子息藤房、季房二人の罪科に依つて、武家に召し捕らはれ、これも囚人の如くにてぞおはしける。齢已に七旬に傾いて、万乗の聖主は遠島に遷されさせたまふべしと聞こゆ。二人の賢息は、死罪にぞ行はれんずらんとおぼえて、我が身さへ又楚の囚人となりたまへば、ただ今まで命ながらへて、かかる憂きことをのみ見聞くことの悲しければと、一方ならぬおもひに、一首の歌をぞ詠ぜられける。
  長かれと何思ひけむ世の中のうきを見するはいのちなりけり
 罪科あるもあらざるも、先朝{*3}拝趨の月卿雲客、或いは出仕を停められ、桃源の跡を尋ね、或いは官職を解せられ、首陽の愁ひを懐く。運の通塞、時の否泰、夢とやせん、幻とやせん。時移り事去つて、哀楽互に相替はる、憂きを習ひの世の中に、楽しんでも何かせん、歎いても由なかるべし。
 源中納言具行卿をば佐々木佐渡判官入道道誉、路次を警固仕つて、鎌倉へ下したてまつる。道にて失はるべきよし、かねて告げ申す人やありけん、相坂の関を越え給ふとて、
  帰るべき時しなければこれやこの行くをかぎりのあふ坂の関
勢多の橋を渡るとて、
  けふのみと思ふ我が身の夢の世をわたるものかは勢多の長橋
 この卿をば道にて失ひ奉るべしと、かねて定めし事なれば、近江の柏原にて切り奉るべき由、探使襲来していらでければ、道誉、中納言殿の御前に参り、「如何なる先世の宿習によりてか、多くの人の中に、入道、預かり参らせて、今更かやうに申し候へば、且は情を知らざるに相似て候へども、かかる身には力なき次第にて候。今までは、随分天下の赦しを待ちて、日数を過ごし候ひつれども、関東より失ひ参らすべき由、堅く仰せられ候へば、何事も先世のなす所と思し召し慰ませ給ひ候へ。」と、申しもあへず、袖を顔に押し当てしかば、中納言殿も、不覚の涙すすみけるを押し拭はせ給ひて、「誠にそのことに候。この間の儀をば、後世までも忘れがたくこそ候へ。命の際の事は、万乗の君、既に外土遠島に御遷幸のよし聞こえ候上は、その以下の事どもは、中々力及ばず。殊更この程の情の色、誠に存命すとも謝し難くこそ候へ。」とばかりにて、その後は、ものをも仰せられず。硯と紙とを取り寄せて、御文細々とあそばして、「便りにつけて、相知れる方へ遣はして給はれ。」とぞ仰せられける。
 かくて日已に暮れければ、御輿さし寄せて乗せ奉る。海道より西なる山際に、松の一叢ある下に、御輿を舁き据ゑたれば、敷皮の上に居直らせ給ひて、又硯を取り寄せ、しづしづと辞世の頌をぞ書かれける。
  {*k}逍遥生死  四十二年  山河一革  天地洞然{*k}
六月十九日某。と書いて、筆を抛げうつて手をあざへ{*4}、座を直し給ふとぞ見えし。田児六郎左衛門尉、後ろへ廻るかと思へば、御首は前にぞ落ちにける。哀れといふも疎かなり。入道、泣く泣くその遺骸を煙となし、様々の作善を致してぞ菩提を弔ひ奉りける。いと惜しきかな、この卿は、先帝{*5}、帥宮と申し奉りし頃より近侍して、朝夕の拝礼怠らず、昼夜の勤厚、他に異なり。されば、次第に昇進も滞らず、君の恩寵も深かりき。今かく失せ給ひぬと叡聞に達せば、いかばかり哀れにも思し召されんずらんとおぼえたり。
 同じき二十一日、殿の法印良忠をば大炊御門油小路の篝{*6}、小串五郎兵衛尉秀信召し捕りて、六波羅へ出だしたりしかば、越後守仲時、斎藤十郎兵衛を使にて申されけるは、「この頃、一天の君だにも叶はせ給はぬ御謀叛を、御身なんど思ひ立ち給はん事、且はやんごとなく、且は楚忽にこそおぼえて候へ。先帝を奪ひ参らせんために、当所の絵図なんどまで持ち廻られ候ひける條、武敵の至り、重科双びなし。隠謀の企てる罪責、余りあり。計りごとの次第、一々にのべられ候へ。具さに関東へ注進すべし。」とぞ宣ひける。法印、返事せられけるは、「普天の下、王土にあらずといふ事なし。率土の浜、王民にあらずといふ事なし。誰か先帝の宸襟を歎き奉らざらん。人たる者、これを喜ぶべきや。叡慮に代はつて玉体を奪ひ奉らんと企つる事、なじかは止んごとなかるべき。無道を誅せんため、隠謀を企てし事、更に楚忽の儀にあらず。始めより叡慮の趣を存知、笠置の皇居へ参内せし條、仔細なし。然るを、あからさまに出京の跡に、城郭の固めなく、官軍敗北の間、力無く本意を失へり。その間に、具行卿、相談して綸旨を申し下し、諸国の兵に賦りし條、勿論なり。有る程の事は、これ等なり。」とぞ返答せられける{*7}。
 これに依つて、六波羅の評定様々なりけるを、二階堂信濃入道、進みて申しけるは、「かの罪責、勿論の上は、是非なく誅せらるべけれども、与党の人なんど尚尋ね、沙汰あつて、重ねて関東へ申さるべきかとこそ存じ候へ。」と申しければ、長井右馬助、「この議、最も然るべく候。これ程の大事をば、関東へ申されてこそ。」と申しければ、面々の意見、一同せしかば、法印をば五條京極の篝、加賀前司に預けられて禁篭し、重ねて関東へぞ注進せられける。
 平宰相成輔をば、河越三河入道円重、具足し奉つて、これも鎌倉へと聞こえしが、鎌倉までも下し著け奉らで、相模の早河尻にて失ひ奉る。侍従中納言公明卿、別当実世卿二人をば、赦免のよしにてありしかども、猶心ゆるしやなかりけん、波多野上野介宣通、佐々木三郎左衛門尉に預けられて、猶も元の宿所へは帰し給はず。
 尹大納言師賢卿をば下総国へ流して、千葉介に預けらる。この人、志学の年の昔より、和漢の才を事として、栄辱の中に心を止め給はざりしかば、今遠流の刑に逢へる事、露ばかりも心にかけて思はれず。盛唐の詩人杜少陵、天宝の末の乱に逢うて、「路灔澦を経、双蓬の鬢。天滄浪に落つ、一釣の舟。」と、天涯の恨みを吟じ尽くし、吾が朝の歌仙小野篁は、隠岐国へ流されて、「海原や八十島{*8}かけて漕ぎいでぬ」と、釣する海士に言伝てて、旅泊の思ひを詠ぜらる。これ皆、時の難易を知つて、歎くべきを歎かず。運の窮達を見て、悲しみあるを悲しまず。況んや、主憂ふる時は、則ち臣辱めらる。主辱めらるる時は、則ち臣死す、といへり。たとひ骨を醢にせられ、身を車裂きにせらるとも、傷むべき道にあらずとて、少しも悲しみ給はず。唯時に依り、興に触れて諷詠、等閑に日を渡る。今は憂世の望み絶えぬれば、出家の志あるよし、頻りに申されけるを、相模入道、仔細候はじと許されければ、年未だ強仕{*9}に満たず、翠の髪を剃り落とし、桑門人となり給ひしが、幾程もなく元弘の乱出で来し始め、俄に病に冒され、円寂し給ひけるとかや。
 東宮大進季房をば常陸国へ流して、長沼駿河守に預けらる。中納言藤房をば同国に流して、小田民部大輔にぞ預けらる。左遷遠流の悲しみは、いづれも劣らぬ涙なれども、殊にこの卿の心の中、推し量るも猶哀れなり。
 近来、中宮の御方に左衛門佐局とて、容色世に勝れたる女房おはしましけり。去んぬる元享の秋の頃かとよ、主上、北山殿に行幸成つて、御賀の舞のありける時、堂下の立部{*10}、袖を翻し、梨園の弟子、曲を奏せしむ。繁絃急管、いづれも金玉の声、玲瓏たり。この女房、琵琶の役に召され、青海波を弾ぜしに、間関たる鴬の語りは花の下に滑らかなり。幽咽せる泉の流れは氷の底になやめり。適怨清和、節に随つて移る。四絃一声、帛を裂くが如し。撥つては復挑ぐ、一曲の清音。梁上に燕飛び、水中に魚跳るばかりなり。
 中納言、ほのかにこれを見給ひしより、人知らず思ひ初めける心の色、日に副へて深くのみなり行けども、云ひ知らすべき便りもなければ、心に篭めて歎き明かし思ひ暮らして、三年を過ごし給ひけるこそ久しけれ。如何なる人目の紛れにや露のかごと{*11}を結ばれけん、一夜の夢の幻、定かならぬ枕をかはし給ひにけり。その次の夜の事ぞかし。主上、俄に笠置へ落ちさせ給ひければ、藤房、衣冠をぬぎ、戎衣に成つて供奉せんとし給ひけるが、この女房に廻り逢はん末の契りも知りがたし。一夜の夢の面影も名残あつて、今一度見もし見えばや、と思はれければ、かの女房の住み給ひける西の対へ行きて見給ふに、時しもこそあれ、「今朝中宮の召しあつて、北山殿へ参り給ひぬ。」と申しければ、中納言、鬢の髪を少し切つて、歌を書き副へてぞ置かれける。
  黒髪の乱れむ世までながらへばこれを今はのかたみとも見よ
 この女房、立ちかへり、形見の髪と歌とを見て、読みては泣き、泣きては読み、千度百度巻き返し、心乱れてせん方もなし。かかる涙に文字消えて、いとど思ひに堪へかねたり。せめてその人のいます所をだに知りたらば、虎伏す野辺、鯨寄る浦なりとも、あこがれぬべき心地しけれども、その行方いづくとも聞き定めず。又逢はん世の憑みもいさや知らねば、余りの思ひに堪へかねて、
  書きおきし君が玉章身にそへて後の世までのかたみとやせむ
先の歌に一首を書き副へて、形見の髪を袖に入れ、大井河の深き淵に身を投げけるこそ哀れなれ。君が一日の恩のために、妾が百年の身を誤つとも、かやうの事をや申すべき。
 按察大納言公敏卿は上総国、東南院僧正聖尋は下総国。峯僧正俊雅は対馬国と聞こえしが、俄にその議を改めて、長門国へ流され給ふ。第四の宮{*12}は、但馬国へ流し奉りて、その国の守護太田判官に預けらる。

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校訂者注
 1:底本頭注に、「雑務の処理。」とある。
 2:底本頭注に、「貞綱の子。」とある。
 3・5:底本頭注に、「後醍醐帝。」とある。
 4:底本頭注に、「手指を組み合はせ。」とある。
 6:底本は、「篝(かゞり)」。底本頭注に、「京都の辻々の警備兵。」とある。
 7:底本は、「返答せられにける。」。『太平記 一』(1977年)に従い削除した。
 8:底本は、「八千島(やそしま)」。『太平記 一』(1977年)に従い改めた。
 9:底本は、「強仕(きやうじ)」。底本頭注に、「四十歳。曲礼に『四十曰強而仕。』。」とある。
 10:底本は、「立部(りふはう)」。底本頭注に、「〇立部 楽人。唐代の楽人に立部と坐部とあり堂上は坐し堂下は立つといふ。」「〇梨園 唐代に坐部の楽人の弟子三百人を選んで梨園で教へた 之が梨園の弟子。」とある。
 11:底本頭注に、「浅い契り。」とある。
 12:底本頭注に、「聖尊法親王か。」とある。
 k:底本、この間は漢文。

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