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カテゴリ:井原西鶴 > 校訂武家義理物語輪講(1934刊)

校訂西鶴武家義理物語輪講(1934年刊)WEB目次

武家義理物語 目録

 序 
巻一
一 我が物ゆゑに裸川
一文惜しみの百知らず  夜の松明は心の光
二 ほくろは昔の面影
後が先とは妹の縁組  疱瘡の神も恨みず
三 衆道の友呼ぶ千鳥の香炉
都を山居にする親仁  頼まれて心の外の念者
四 神の咎めの榎木屋敷
強き人には古狸も  古き靭が生きて働く
五 死なば同じ浪枕とや
大井川は命の渡り  一度に六人俄坊主

巻二
一 身代破る風の唐傘
阿波の鳴門に気が立浪  恨みは富士を磯貝氏の事
二 御堂の太鼓打つたり敵
東武より飛ぶが如く雁書内見  露は花屋が門に命の事
三 松風ばかりや残るらん脇差
身がな二つ月の夜雪の夜  強者も弱者も御用に立つ事
四 我が子を打ち替へ手
相手をよくも切れ戸の文殊  分別の外の屋継ぎの事

巻三
一 発明は瓢箪より出る
今の世に油断のならぬ物は出家  言葉咎めは浪に声ある事
二 約束は雪の朝飯
賀茂山の片蔭に隠者あり  昔の友の身の上咄の事
三 具足着てこれ見たか
物の気に掛かるは病中の床  陣立ちの物語潔き事
四 思ひ寄らぬ門出の婿入り
親仁殿に契約の娘  執心通ひて助太刀打つ事
五 家中に隠れなき蛇嫌ひ
せまじきは武士の座興  極めては世に恐ろしき物なき事

巻四
一 なるほど軽い縁組
狭き所をかりの世の中  一日に二度の駆け梶原勝りの事
二 せめては振袖着てなりとも
元服は昔に帰り花咲く  犬の通ひ路心ざし深き事
三 恨みの数読む永楽通宝
これぞ雨の日の長物語  幽霊身の上を訴訟の事
四 丸綿かづきて偽りの世渡り
京に隠れなき十分一取り  武士の息女にまことある事

巻五
一 大工が拾ふ曙のかね
美女の俄米屋も可笑し  相性見ずに縁組の事
二 同じ子ながら捨てたり抱いたり
心ざし深き女のおもはく  情け知る武の道の事
三 人の言葉の末見たがよい
花と花との盛り比べ  最期に分別出る事
四 申し合はせし事も空しき刀
同じ心も変はる世の中  武士は悪名残し難き事
五 身がな二つ二人の男に
敵に相惚れの女郎  よくよく思ひ入りて最期極むる事

巻六
一 筋目を作り髭の男
蜷川の流れを濁さじ  まことは顕はれ出る法師の事
二 表向きは夫婦の中垣
年寄り男も縁かや京住まひ  神鳴の夜業平の昔を思ふ事
三 後にぞ知るる恋の闇討
主命と親の敵いづれか  西の宮の落馬養生の事
四 姿の花とは前髪の時
万里隔てて心中の程  頼もしき侍大坂にある事


校訂西鶴武家義理物語輪講(1934年刊)WEB凡例

  1:底本は『西鶴武家義理物語輪講』(三田村鳶魚編 早稲田大学出版部 1934年刊 国会図書館デジタルコレクション)です。
  2:校訂の基本方針は「本文を正確にテキスト化しつつ、現代の人に読みやすくする」です。
  3:底本のふりがなは全て省略し、底本の漢字は原則現在(2025年)通用の漢字に改めました。
  4:繰り返し記号(踊り字)、合字(合略仮名)等は、漢字一字を繰り返す「々」を除き、原則文字表記しました。
  5:句読点、濁点半濁点および発話を示す鍵括弧は適宜修正、挿入し、改行も適宜しています。
  6:かなづかい、送り仮名は、文語文法に準拠し、適宜改めました。
  7:校訂には『新編日本古典文学全集69』(広嶋進校注・訳 小学館 2000)、『武家義理物語 決定版 対訳西鶴全集8』(麻生磯次、冨士昭雄著 明治書院 1993)を参照しました。
  8:本文は底本全文を、【輪講】は適宜抜粋しました。
  9:底本本文の修正のうち、必要と思われるものは校訂者注で示しました。但し、以下の漢字は原則として、他の漢字あるいはかな表記に変更しました。

漢字表記変更一覧

複数篇にわたるもの(五十音順 但し現代仮名遣い)
ア行
 明く→開く・空く 跡→後 有る→或る 壱→一 一所→一緒 打つ→討つ 椽→縁 踊る→躍る 各→各々 俤→面影 面→表
カ行
 帰す・帰る→返す・返る 皃→顔 各別→格別 陰・影→蔭 首途→門出 唐傘→傘 替はる・替ふ→変はる・変ふ 義→儀・議 花車→華奢 扱む→汲む 闇し→暗し 気色→景色 断→理 比→頃
サ・タ行
 性→姓 女良→女郎 身体→身代 僉義→詮議 焼く→焚く 立→縦 鵆→千鳥 同前→同然
ナ・ハ行
 詠む→眺む 泪→涙 弐→二 悪し・悪む→憎し・憎む 廿→二十 念比→懇ろ 咄す・咄・噺→話す・話 独り→一人 隙→暇 二たび→再び
マ・ヤ・ラ・ワ行
 実・真言→誠 見世→店 嫏→娘 行衛→行方 許→元 牢→浪 脇指→脇差 煩ふ→患ふ

上記以外(篇毎 登場順)
 目次 兵者→強者 食→飯 増さり→勝り 形→姿
 1-1 本情→本性 明松→松明 理発→利発 過代→過怠 千馬之介→千葉介
 1-2 已前→以前 拾→十
 1-3 移る→映る 音→声 仕廻ふ→仕舞ふ
 1-4 醒し→生臭し 抓む→掴む
 1-5 阝→部 夷→蝦夷 十方→途方 男子→息子
 2-1 某→何がし
 2-2 鳴渡→鳴門 娵→嫁 祖母→婆 場→庭 平愈→平癒
 2-3 猟人→漁人 衣𫌏→衣装 虵→蛇 億病→臆病
 2-4 才→歳
 3-1 明衣→浴衣 差図→指図
 3-2 読む→詠む 音信る→訪る
 3-3 太義→大儀 甲→兜
 3-4 炮→砲 問ふ→訪ふ
 3-5 裙→裾
 4-1 詫ぶ→侘ぶ 団→団扇 十面→渋面
 4-3 甫めて→初めて 嶋→縞 屋舗→屋敷 堀る→掘る
 4-4 家夫入→薮入
 5-1 海道→街道
 5-2 陳→陣 少→小
 5-3 浄瑠利→浄瑠璃
 5-5 浮し→憂し
 6-1 物→者 素湯→白湯
 6-2 動く→働く 懐中→懐 宦→官
 6-3 大正寺→大聖寺 玄番→玄蕃 妾→手掛け
 6-4 女在→如才

 なお、底本には現代では差別的とされる表現がありますので、その点、ご注意ください。

井原西鶴関係記事 総合インデックス

武家義理物語輪講

間民夫 和田曼子 野々村蘆舟 山崎楽堂 佐藤鶴吉 木村仙秀
三田村鳶魚 水谷不倒 柴田宵曲 森銑三 鈴木南陵



【本文】

 それ人間の一心、万人ともに変はれる事なし。長剣させば武士、烏帽子をかづけば神主、黒衣を着すれば出家、鍬を握れば百姓、手斧使ひて職人、十露盤おきて商人をあらはせり。その家業、面々一大事を知るべし。
 弓馬は侍の役目たり。自然のために知行を与へ置かれし主命を忘れ、時の喧嘩口論、自分の事に一命を捨つるは、誠ある武の道にはあらず。義理に身を果たせるは、至極のところ。古今、その物語を聞き伝へて、その類をここに集むるものならし。
    貞享五年戊辰年楼月吉祥日


【輪講】

佐藤  それ人間の一心といふものは、万人共に誰々も変はることがない。長剣をさせば武士であるし、烏帽子をかぶれば神主になるし、黒衣を着れば出家、鍬を握れば百姓、手斧を使へば職人、算盤を置いて勘定すれば商人といふことを表してゐる。かういふ家業がめいめい一大事であることを知るべきである。殊に弓馬は士の役目である。自然の事のために知行を与へておかれるのだが、その主命を忘れて、一時の喧嘩口論、私事のために一命を捨てるのは、誠ある武士の道ではない。義理に身を果たすのが至極尤もなところである。その義理に至極した古今の物語を聞き伝へて、その類をここに集める。「ものである。」といふ意味を、「ものならし。」と言つたのでせう。
三田村  最初のところは、人間は何でも同じことだ、といふ意味が隠れてゐる。刀をさせば武士、烏帽子をかぶれば神主といふ風に、立場立場によつていろいろ違ふ。が、本来は一向違つてゐない。それが、「万人共に変はれることなし。」なんでせう。

一 我が物ゆゑに裸川

【本文】

 口の虎身を喰み、舌の剣命を断つは、人の本性にあらず。憂ふる者は富貴にして愁へ、楽しむ者は貧にして楽しむ。
 嵐は雲吹き、晴れて名月院の眺め。鎌倉山の秋の夕暮を急ぎ、青砥左衛門尉藤綱、駒を歩ませて滑川を渡りし時、いささか用の事ありて火打袋を開くるに、十銭に足らざるを川浪に取り落とし、向ひの岸根に上がり、里人を招き、わづかの銭を三貫文与へてこれを尋ねさせけるに、あまたの人足、松明を手毎に、水は夜の錦と見え、人の足手はしがらみとなつて瀬々を立ち切り、探しけるに、一銭も手に当たらずして難儀する事、暫くなり。「たとへ地を割き、龍宮までも、是非に尋ねて取り出だせ。」と下知する時、一人の人足、「仕合せ。」と一度に三銭探し当たり、その所を変へず、又は一銭二銭づつ、十銭ばかり取り出だせば、青砥左衛門、勘定合はせて喜ぶ事限りなく、その男には外に褒美をとらせ、「これ、そのまま捨て置かば、国土の重宝朽ちなん事、本意なし。三貫文は世に留まりて、人の廻り持ち。」と、下人に{*1}語りて通りける。
 この理聞きながら、「一文惜しみの百知らず。」とぞ笑ひしは、智恵の浅瀬を渡る下々が心ぞかし。とかくは夜の儲けに、思ひ寄らざる事なれば、「今宵の月に集銭酒呑まん。」と、各々勇みをなせり。その中に、物の才覚らしき男の言へるは、「いづれもに心よく酒事さすは、我に礼を言ふべし。その子細は、青砥が落とせし銭に尋ね当たるべき事は、不定なり。時に某が利発にて、この方の銭を手廻しして、左衛門ほど世に賢き者を偽り済ましける。」と言ひければ、皆々横手を打つて、「さてはその方が働きゆゑ、楽遊びの面白や。」と盃始めけるに、又一人の男、興をさまして、「これ、更に青砥が心ざしにかなはず。汝が発明らしき顔つきして、人の鑑となれるその心を曇らせけるは、並びなき曲者。天命も恐ろし。我、老母を育む頼りに、この銭嬉しかりしに、今のあらましを聞き、なんぞこれを取るべし。その上、母、この事聞かば、誠を以て養ふとも、中々常も満足する事あらじ。」とその座を立ちて帰り、母に語るまでもなく、朝に疾く起きて、馬の沓を作りて、今日を成り合ひに暮らしぬ。
 この男は言はねど、自然と青砥左衛門聞きて、その人足を捕らへて、厳しく横目を付け、身を丸裸に改め、落とせし真の銭に尋ね当たるまで、毎日過怠を言ひ付けるに、秋より冬川になるまで、いかばかり難儀して、世間もおのづから水涸れて、やうやう真砂になる時、九十七日目にかの銭残らず探し出だし、危うき命を助かりぬ。これ、己が口ゆゑ、非道を顕はしける。
 その後、正道を申せし人足の事をひそかに尋ねられしに、千葉介が筋目、歴々の武士にて、千葉孫九郎といへる者なるが、子細あつて二代まで身を隠し、民家に紛れて住みける。「さすが、侍の心ざし」を深く感じて、青砥左衛門、この事を時頼公に言上申して、首尾よく召し出されて、再び武家の誉れ、千歳を祝ふ鶴が岡に住みぬ。

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【輪講】

佐藤  「我が物ゆゑに裸川」といふのは、初めごまかした男が、悪い事が顕はれて、身を裸にされる仕置を受けてゐますから、それをとつて題目にしたのです。
 口は恐ろしいもので、そのきき方一つで自分の身体を食ふやうになり、舌の使ひ方によつては、命を断つ事もある。これは、本心の欲する事ではない。人間といふものは、心配性の者は、富貴であつても心配してゐるし、楽しんでゐる者は、貧乏でも楽観してゐる。これから俳諧的に転じまして、「嵐は雲吹き晴れて」といふのから「名月院」といふ縁語を持つて来た。この字は「明」の方がいいんだと思ひます。
 鎌倉時代の話ですから「鎌倉山の秋の夕暮」と言つたので、青砥左衛門尉藤綱が駒を歩ませて滑川を渡つた時、ちよつと用事があつて、火打袋を開けましたが、十銭に足らぬわづかの銭を川浪に取り落とし、向ふの岸根に上がつて、里人を呼びまして、そのわづかな銭を、三貫文与へて尋ねる事にしたところが、大勢の人足が松明を手毎に持つて捜すのに、その光が水に映つて夜の錦のやうに見える。人の手足はしがらみのやうに見える位、大勢で瀬々を断ち切つて捜しましたが、一銭も手に当たらないで、暫く弱つてゐた。
 藤綱は、「たとひ地を割き、龍宮まで訪ねて行つてもいいから、是非捜し出せ。」といふ命令をしましたが、その時、一人の人足が、いい塩梅に一度に三銭だけ拾ひ当てた。「それでは、この近所だらう。」といふので、又一銭二銭と捜し当てて、遂に十銭ばかり取り出しましたから、青砥は勘定を合はせて、非常に喜びまして、その男には外に褒美を遣つた。さうして、「もしこのままに捨てておいたら、国土の重宝の朽ちてしまふ事が残念である。三貫文使ふのは無駄なやうであつても、これはこの世の中にあつて、人の廻り持ちになるからよろしい。」と下人に語つて通りました。ある人は、この道理を聞きながら、「一文惜しみの百知らずだ。」と言つて、青砥の事を笑つた。これは、笑つた方が下々の心であつて、藤綱の考へがわからなかつたのです。
 とにかく人足達は、夜の儲け仕事としては、思ひも寄らぬうまい事なので、「月を見ながら銭を出し合つて酒を飲まう。」といふ事になつて、皆々浮かれて来た。すると、その中で才覚らしい男の言ふには、「諸君に愉快に酒事をさせるについては、自分に礼をお言ひなさい。その子細といふのは、青砥が落とした銭に尋ね当てるといふ事は、果たしてできるかどうか期待できない。だから、自分がうまく気を利かして、自分の銭を手廻しして、青砥左衛門ほどの智者を欺き済ましたのだ。」と言ひましたので、皆々横手を打つて、「お前の働きで、こんな楽遊びができて、面白い事よ。」と言つて、酒盛を始めた。
 然るに、又一人の男が興をさまして、「さういふ事では、少しも青砥の志にかなはない。その上、母親がこの話を聞いたら、自分が誠を以て養つても、満足する事はあるまい。」かう言つて、その男は座を立つて帰りましたが、母親に委細を話すまでもなく、朝早くから起きて、馬の沓を作つて、その日その日を成り行き次第に――「貧にして楽しむ。」といふ程度に、悪い事や無理な事をしないで――暮らした。
 この男は、別に何も言はなかつたが、この話は自然と青砥左衛門の耳に入りましたので、前のごまかした人足を捕まへて、厳重に監督をつけ、身を丸裸に改めて、青砥が落とした本当の銭が見つかるまで、毎日過怠を言ひつけたところが、秋から冬になるまで、どれ位難儀をした事か。自然もおのづから水が涸れて、やうやう砂地になつた時、九十七日目にやつと例の銭を残らず拾ひ出して、危うい命を助かる事ができた。これ即ち、「自分の口のために非道を顕はしました。」といふものである。
 それから、「本当の事を言つた人足は、どういふ者か。」と言つて、ひそかに尋ねられたところが、元は歴々の武士で、千葉孫九郎といつた者であるが、わけがあつて二代まで身を隠し、民家の中に紛れて住んでゐたのである。「さすがに士の志は格別である。」と深く感じて、青砥はこの男の事を時頼に言上しましたが、その結果、首尾よく召し出されて、再び武家の誉れを上げ、千歳を祝ふおめでたい名の鶴岡に住む事になりました。
三田村  「川の中に落とした銭は、そのまま無用の物になつて、すたつてしまふ。」といふ心持ち、これは、一国を目安に置いた、治める人の心持ちなので、「少しの銭のために多くの費用をする、一身の損になるからいけない。」といふのは、自分を目安に置いて片付ける思想だ。
佐藤  これには義理がない。以下の四章には皆ありますが。まあ、正直に、真面目にした事が義理でせうか。
三田村  騙す、偽るといふ心では、藤綱の心に対して義理が済まない。正直、律儀といふ事は、自分だけで終わるけれども、義理には大抵、相手がある。
佐藤  相対的ですね。

校訂者註
 1:底本は、「下人にて語(かたり)て」。『武家義理物語』(1993)に従い改めた。

二 ほくろは昔の面影

【本文】

 明智日向守の、以前は十兵衛と言ひて、丹州亀山の城主に仕へて、やうやう広間の番組に入り、外様の勤めをせしが、朝暮心ざし、常の人には格別変はりて、奉公に私なき事、自然と天理に叶ひ、程なく弓大将に仰せ付けられ、同心二十五人預かり、武家の面目。この時、具足金十両ありしに、はや一国の大名にもなりぬべき願ひ。生まれ付きての大気、その身の徳なり。
 十兵衛、今に妻のなき事を見及び、息女持ちたる人、乞ひ婿の望み、かれこれ内証を言ひ入れけるに、妻は、近江の国沢山、何がしに美なる娘の兄弟ありて、いづれか花、紅葉、色比べのすぐれて姉の見よげなれば、十一の年より言ひ交はして、身代極まりてこれを迎へる約束。それよりは七年余りも過ぎぬれば、世の{*1}哀れ、人の情けも知るべき程なり。「近々に呼び迎へん。」と妻女の親の元へ状通致せしに、世には移り変はれる歎きあり。兄弟の娘、一度に痘瘡の山をあげしに、美なる姿の姉娘、顔卑しげに、さりとは昔と変はりぬ。妹娘は、以前に少しも変はらず、面影美しく育ちぬ。
 十兵衛に約束せし姉が形の格別になれば、「これを人中に送りて、醜き形を恥ぢさせ、我が娘と沙汰せらるるも由なし。」と夫婦内談して、「いまだ妹は、いづ方へも契約なければ、何となくこれを遣はし申すべし。」とこの事を語れば、更に身の事を歎かず。「自らこの姿にて十兵衛殿にまみゆる事は、思ひも寄らず。まして、この形を堪忍すべき者あればとて、外に男を持つべき心底にあらず。妹は、我らが昔に風俗も変はらず。よろづに賢く、心ざしもしをらしく生まれ付きぬれば、いづくに行きても二親の御名は下さじ{*2}。これを十兵衛殿へ送らせ給へ。我らはかねて出家の願ひ。諸仏を掛けて偽りなし。」と、手馴れし唐の鏡を打ち砕きて、浮世を捨てる誓文を立てしを聞きて、父も母も感涙袖に余りて、暫く思案せしが、「かく言ひ出して、返らぬ事ぞ。」と、妹に何の子細もなく、亀山に送る縁付の事を申し渡せば、「何とも合点参らず。姉君より先立ちて、道の違へる所なり。姉の御身片付きて後は、ともかくも。」と申し上げける。
 「尤も至極。それは、世間の順義ながら、姉は常々出家の心ざし深く、思ひ込めしゆゑ、とかくは望みに任せ、近々に南都の法華寺に遣はしける。その方は、亀山に送るなり。女に生まれても、その身の仕合せあり。明智十兵衛といへる人は、まづ武芸すぐれて、ことさら理に暗からねば、諸事に埒明けにして、一生連れ添ふ夫妻の楽しみ深し。しかも、次第に出世の侍なれば、我々老後の頼りともなりぬべき人ぞ。」と様々言ひ聞かせけるに、女心に嬉しく、親達の仰せに任せ、吉祥日を選び、相応よりは美々しく仕立て、亀山に送られける。
 十兵衛も、縁の初めを祝ひ、松竹の台の物を調へ、数々の盃事までも、振分髪に見し姉娘と思ひしが、その後、寝間の灯し火近く、互に面を見合はせし時、十兵衛、昔の脇顔に気を付けて、「その時はこの女に、咎むる程にはあらぬほくろ一つありしが、大人しくなりて、それも恥ぢて取り失せけるか。」と、言はずして耳のほとりを見しに、娘も、はや心を付けて、「これにほくろのましますは、私の姉君なり。麗しき御姿、疱瘡にて変はらせ給ひ、さりとは女の身にしては、御いとほしき事なり。『さし置きて自らの縁組は、逆なる。』と断り申せど、二親の命を背くなれば、これに送られけるも、心懸かりの止む事なし。今思ひ合はせば、こなた様の御約束は、姉君に疑ひなし。いかにしても道の立たざる事なれば、何事も許し給はれ。私は、今日より出家。」と守刀にて黒髪切るを留めて、「その方、形を変へても、世間済むまじ。人知れず内証にて、某が分別あり。五日に帰るまで待ち給へ。」
 「武士の息女の心底。」と深く感じて、それより再び顔をも見ずに隔たりて、里帰りの時、段々状通に記し、「右貰ひしは姉なれば。難病は世にある習ひ。たとヘ昔の形はなくとも、是非に送らせ給へ。一命に懸けても夫妻願ひの所存。殊にこの度、妹の心入れ、女ながら道理に詰まりける。」と、心中のほど言ひ遣りしに、親里にもこの事満足して、十兵衛願ひに任せ、また姉娘を遣はしけるに、打ち解けて不憫を掛け、「この仲、長くもがな。」と祈りける。女はひとしほ男の情けを忘れもやらず、よろづ心に従ひぬ。
 この妻、美女ならば、心の引かるるところもあるに、義理ばかりの女房なれば、ただ武を励む一つに身を固めぬ。この女、形に引き替へて心猛く、わりなき仲にも外を語らず、明け暮れ軍の沙汰して、広庭に真砂を集め、城取りせしが、自然と理にかなひて、十兵衛が心の外なる事もありて、そもそもこの女、武道の油断をさせずして、世にその名を上げしとなり。

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【輪講】

  明智光秀は、以前は呼び名を十兵衛と言つて、丹州亀山の城主に仕へて、やうやう広間の番組に入り、朝晩その勤めに対する志が、他の士達と格段に違つて、私がない。それが自然と天理に叶つて、程なく主人に認められ、抜擢されて弓大将になりました。同心を二十五人預かつて、武家としても大変な名誉であります。この時、具足金を十両持つて居りましたが、そんな身分で居ながら、もう「一国の大名にならう。」といふ願ひを持つてゐる。生まれつきの大気で、これはその人の徳であります。
 十兵衛は、まだ妻がないのを、他の人が見まして、娘を持つてゐる人は、婿に取りたいといふ望みを、かれこれ自分の心持ちを言ひやりましたところが、その妻になるべき者は、近江国沢山の何がしといふ者の娘に、美しい姉妹があつた。この姉妹は、いづれを花、いづれを紅葉とも申し難い、大変二人とも美しい中に、姉の方が殊に容が見よげなので、その姉の十一歳の時から言ひ交はして、「身分が決まつたら妻に迎へる。」と約束をしました。
 それから七年余りも経つて、もう二十歳近くなりましたから、一通りの人情を弁へるやうになつた。いよいよ「近々呼び入れよう。」といふので、親元へ手紙を出しましたところが、世間には思ひがけない事があるもので、姉妹の娘が一度に疱瘡に罹つたのに、美しかつた姉娘の方が醜くなつて、昔とはすつかり様子が変はつてしまひました。妹娘の方は、以前と少しも変はらず美しく育ちましたので、「約束した姉の方が格別に様子が変はつてしまつたから、これを人中に出して、醜い容を恥ぢ入らせ、『あれは、何がしの娘だ。』といふふうに評判されるのも、由なき事である。」
 夫婦が内談の結果、「妹の方は、まだどこへも約束がないから、それと言はずにこの方を十兵衛に遣はす事にしよう。」と言ひますと、姉娘は一向自分の不運を歎かず、「こんな姿になつて、十兵衛殿にまみえる事は、思ひも寄りません。又、十兵衛殿以外に、『こんな姿でも我慢して妻に持たう。』と言ふ人があつても、その人を夫に持つ料簡はない。妹は、以前の自分の様子に変はらないし、心も賢く、しをらしい生まれつきですから、どこへ片付いても、両親の名を傷つけるやうな事はありますまい。どうか十兵衛殿へお遣はし下さい。私は、かねてから出家の願ひで、私の言ふ事は、仏様にかけて偽りはありません。」と言つて、手馴れた唐渡りの鏡を打ち砕いて、浮世を捨てる誓文を立てました。
 これを聞いて、両親は感涙袖に余り、健気な志に感じ入つて、暫く思案しましたが、「かやうに姉娘が言ひ出した上は、何と言つても返らぬ事だ。」といふので、何の子細も言はず、妹の方に亀山の明智への縁付の事を申しますと、妹は、「一向、合点が参りません。姉君より先に嫁ぐといふ事は、人の道に違つて居ります。姉君がお片付きになつてからならば、どうなりとも致しませう。」と、若くつても中々義理堅い事を言ふ。
 「誠に道理千万な事で、それは世間の順序であるけれども、姉は平生から出家したい志で、深く思ひ込んでゐる事だから、追つて奈良の法華寺に遣はすつもりである。お前は、明智の居る亀山へ送る。女に生まれても、お前は仕合せな事で、明智十兵衛といふ人は、まづ武芸に優れてゐる上に、頭の働きもいいから、何事も始末がよく、一生連れ添ふ夫婦の楽しみも深い事である。しかも段々出世する、将来の頼もしい士であるから、吾々も老後の頼りになる人だ。」と様々に言ひ聞かせましたので、女心にも嬉しく、親達の言ふ事に従つて、吉日を選びまして、身分よりは美々しく仕立て、亀山に送られて行きました。
 十兵衛も、かねて約束の縁の初めを祝ひまして、松竹の台の物を調へ、三々九度の盃事をするまでも、幼少の時見た姉娘だ。」と思つて居ましたが、寝間の灯し火近く、互に顔を見合はせた時、十兵衛が気をつけて見ると、昔見た脇顔にはほくろがあつたが、今来た娘にはそれがない。「そのほくろは、問題になる程のものではなかつたが、大人になつてわざと取らせたか。」と、何も言はずにぢつと妻の耳の辺を見て居りますと、妹娘も利発で気がついて、「ここにほくろのありますのは、私の姉です。美しい姿でありましたが、疱瘡のために様子が変はつてしまつて、さりとは女の身としてお気の毒な事です。『その姉を差し措いて、私が縁組するのは、逆な事だ。』と言つて、お断り申しましたが、親の命令を背くわけには参りませんから、この方へ送られて参りました。
 「けれども、姉の事は心にかかつて止む時がありません。今思ひ合はすと、こなた様のお約束なされたのは姉の方である事は、疑ひありません。これではどうしても女の道の欠ける事ですから、何事もお許し下さい。私は今日から出家致します。」と言つて、守刀を取り出して黒髪を切らうとするのを、十兵衛は押し留めまして、「そなたが姿を変へても、世間はそのままで済むまい。これは、内証で済ます分別が自分にある。五日に里に帰るまで待つがいい。」「さすがに武士の息女の心底である。」と、明智の方で深く感じ入りまして、それから二度と顔も見なかつた。
 里帰りの時に、委細を手紙に認めまして、「私の貰つたのは姉の方である。難病は世にある習ひだから、よし昔の美しい姿はなくなつても、是非姉娘の方を送つて下さい。一命にかけても添ひ遂げたい所存である。殊に、今度代はつて来た妹の心入れは、女ながらも正しい道理にはまつてゐて、誠に感心しました。」と心の中を言つてやつた。親里の方でも喜びまして、願ひの通り姉を遣はしましたが、十兵衛はこれに憐れみをかけ、夫婦の仲が長く続くやうに祈りました。女の方は猶の事、さうした男の情けを忘れず、万事につけて明智の言ふ事に従ひました。
 この妻が美女でありましたら、心惹かれるところがあるわけですが、義理で貰つた女房なので、ただ武を励む事に身を固めて、女色に迷ふやうな事はなかつた。この女も心猛々しく、夫婦仲の睦まじい中にも、外の話はしない。明け暮れ戦の話ばかりで、庭の砂を集めては、城の形でも作つて、戦の真似をする。城を取る手順をして見せる。それが兵法の理にかなつてゐるので、十兵衛が思ひも寄らぬいい考へを出す事もある。この女は、武道の油断をさせず、「世に名を上げる事ができた。」といふのは、十兵衛の事でせう。
佐藤  「疱瘡の山」は、発熱後十日目から三日間を貫膿(やまあげ)と言ふ、それでせう。
三田村  具足櫃の中に金を入れるといふ事は、「雨窓閑話」に出てゐる。
佐藤  軍資金ですか
三田村  準備金です。だから、金を入れて置きながら、飢死をした話がある。一般の習はしだつたのです。
  「近江国沢山」で切つてありますね。これは地名でせうか。沢山といふ姓でせうか。
木村  地名でせう。佐和山は石田三成の居た所だ。それから、奈良の法華寺は尼寺だから、ここに持つて来たのでせう。
三田村  「身代極まりて」。これは、大名になつた時でせう。
  明智は、江戸時代には割合に評判が良かつたやうですな。太閤様をよく言はぬ時代ですから。
三田村  本願寺でも、よく言ふ。「あれは、信長があまりいぢめたからだ。」と言ふのです。「唐の鏡」は、日本でできたのでも、かう言ふ。今でも漢鏡と言つて貴むが、これは外国品を貴むので、日本でできたのも、さう言つて居た。「唐の鏡」は、女の宝だつたので、狂言にもあるでせう。「埒明け」は、分かりがいい事だらうと思ふ。「右貰ひし姉」。「以前」と言ふ時に「右」と言ふ。この話は、全部義理ですね。
  「十兵衛が心の外なる」は、どういふ意味ですか。
三田村  「思つての外の」でせう。武道へ励むから、さういふ事もあつた。
  予想外のいい考へを出すんでせうな。
  「十兵衛の心が外に移つても」と言ふんぢやありませんか。
佐藤  私も間さんの方です。「そんな事があつても、それよりは城取りの方に重きを置く」と言ふんぢやないかと思ふ。
佐藤追考  やはり森氏の説、可ならん。)
  「広間の番組」は、どういふ役ですか。
三田村  遠侍ぢやありませんか。「乞ひ婿」は、双六の「乞ひ目」などと同じで、「求めて婿にしたい。」といふ事です。今は「恋」の字を書くけれども、元来は「乞ひ」の方です。光秀の事は、最初の戦国の習ひとして、問題にならなかつたのだが、後に学問詮議が強くなつてから、いかん事になつたのです。それ以前は、「君臣」なんていふ事はわからない。段々学問をして、倫理が分かつて来たから、光秀が悪くなつて来たのです。これは皆、宋学のおかげだ。

校訂者註
 1:底本は、「世に哀(あは)れ」。『武家義理物語』(1993)に従い改めた。
 2:底本は、「くださし。」。『武家義理物語』(1993)に従い改めた。

三 衆道の友呼ぶ千鳥香炉

【本文】

 京都将軍、東山殿御時、世のもて遊び事、初めて取り立てさせられ、万人、華奢風流になりて、豊かに暮らしぬ。中にも名香の煙を好かせ給ひ、諸国より集まりて、六十種の名のみ面白かりき。折節、霜夜の更け行くまで、この木の御沙汰ありしに、明け方の嵐につれて、ききも馴れざる薫りに、いづれも心を澄まし給ひ、御屋形の内を尋ねさせられしに、御門を離れて外なれば、丹波守利清に仰せ付けられ、「このゆかり、いかなる方ぞ。尋ね参れ。」の由。
 手廻りの侍二人召し連れて、その匂ひに引かれて行くに、柳原遥かに過ぎて、賀茂の川原になれば、次第に薫りも深く、浅瀬を渡り越えしに、十一月末の六日の夜、いつよりは暗く、物の色合ひも見えず。星影のさざれ水に映り、これを頼りに向ふの岸に上がれば、汀の岩の上に蓑笠着たる人の、香炉を袖口に持ち添へ、気を静かにして座したる風情の心憎し。「いかなる事ありて、かく一人はおはしけるぞ。」と問ひけるに、「ただ何となく千鳥の声をのみ聞く。」と答へぬ。さりとは、変はりたる境界。これ、格別の楽しみ。只人とは思はれず。
 「いかなる御方。」と尋ねしに、「僧にあらず、俗にあらず。三界無庵同然にて、六十三になりける我、いまだ足も立ちける。」と言ひ捨てて、岡野辺の並松分けて立ち帰る。「さても気散じなる返答や。」となほ慕ひ、「某が頼るは、その木のゆかしく、参るなり。何といへる名香ぞ。」と聞きしに、「むつかしや。老人は知らず。すがりたれども、きき分け給へ。」と香渡して、行き方知らずなりにき。利清、立ち帰りて、あらましを申し上げしに、その身の取り置き羨ましく思し召されて、その人を色々尋ねられしに、更に知れざる事を本意なく思し召され、かの香炉を「千鳥」と銘を打たせられ、名物となりぬ。
 その頃、関東侍の一子とて、美形、都の花に勝り、桜井五郎吉といへる人、今年十六にて、姿ゆゑ召し抱へられ、近う御前を勤めけるが、千鳥の香炉見しより、物思ふ気色、人も見咎めける程に包みかねしを、或る人、ひそかに問ひしに、初めの程は言はざりしが、いつとなく次第弱りの身となり、「死ねば、言葉を形見。」と語りし。「この香炉の主とは、兄弟の約束深く出で合ひしに、『我、出世のためにならず。』と、古里を出て都の方に上られしを、忘れもやらず、いとしさにその跡を幕ひ、この御家に住む事、もしその人に会ふ事もありなんと思ふ折節、香炉は縁に見知りて、尋ぬる事のなり難き病気に冒されしは、是非もなき我が身。」と、袖に玉散る涙川、暫しも乾く事なし。この哀れを問ふ人は、同じ小姓仲間の樋口村之介といへる人なるが、常にも情け深く語り合ひしが、自然の事もあらば、良き友一人失ひけるを歎きぬ。
 かくて日数経る内に、五郎吉、頼み少なくなりて、息も絶え絶えの時に至りて、又もなき無心を申し出しぬ。「我、相果ての後、かの人に尋ね会ひ給ひて、その身、某に替はり、兄弟懇ろ、返す返すも頼む。」と言へり。この儀は、少し斟酌なる事ながら、「何事も命懸けて。」と申し交はせし義理にせめられ、この事請け合ひければ、嬉しげに笑みて、これを見納めの顔ばせ変はりて、終に空しくなりぬ。生死は世の習ひとて、歎く人もあり。又、身に掛からぬ人は、そこそこに悲しみて、鳥部山の夕煙となし、朝は白骨と消えぬ。世にこれ程はかなき事は、なかりき。
 五郎吉が亡き跡の事、病家の反古までも取り隠して懇ろに仕舞ひ、それより村之介は、五郎吉が遺言に任せ、千鳥をききし隠者の事を尋ねしに、今出川の薮垣のほとりにわづかなる隠れ家。組戸さし籠めて、夢の心に住みなせる内にも、東に別れける五郎吉が事ども忘るる日もなく、今日は時雨れてひとしほ淋しき折節、村之介、ひそかに入りて、五郎吉最期の次第を語れば、随分修めたる身を取り乱し、「こればかりは、世の偽りになれかし。」と男泣きの有様、見る目も共に歎かしく、暫しは物語すべき事も止みけるが、言はねば五郎吉が草の蔭なる恨みもうたてく、この隠者の面影をつくづくと見しに、六十に余れる人の形も卑しかるに、若念の契りを結ぶは、何とやら恥づかしき事にぞあれど、死人と言ひ交はせければ、是非なく子細を語り、「五郎吉になり替はりて、今より兄弟分と思し召して、かはゆがらせ給へ。」と言へば、この男、歎きの中に驚き、「これは、思ひ寄らざる契約。許し給へ。」と、中々同心せざりき。
 村之介、申し出しての赤面、「さては、一分立ち難し。」と身を捨つる覚悟に、とかくは五郎吉が申し残せしに任せ、又、恋を取り結び、「世に長く語り慰まん。」と言葉を固めて、その後は夜毎に忍びて通ひぬ。「訳なき事を頼まれ、心には染まざれども、義理ばかりの念友。村之介が心底、誠なるかな。」と、これを感じぬ。

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【輪講】

 京都将軍東山殿(義政)、この時に世の弄び事といふものが初めて行はれ出して、万人皆、華奢風流になつて、その日を豊かに暮らしてゐた。色々の弄び事が盛んになつた中にも、名香の煙をお好みになつて、諸国より集まつて来る六十種の名も、面白い事であつた。
 折節、霜の降る夜が更けて行くまで、香の話があつたのに、明け方の嵐につれて、今まで嗅いだ事もないやうな匂ひがして来たので、全ての人は心を澄まして、御屋形の内をお尋ねになつたが、どうもこの匂ひは、御門の外から薫つて来るやうである。そこで、丹波守利清に仰せ付けられて、「このゆかりはどういふ方であるか、尋ねて参れ。」といふ事になつた。
 利清は、手廻りの侍を二人連れて、その匂ひを慕うて行く内に、柳原は遥かに過ぎて、賀茂の川原まで来ると、次第に薫りが深くなつた。浅瀬を渡つて行くと、十一月二十六日の夜で、もう月が無いから、いつもより暗く、物の色合ひもわからない。星影がさざ波に映つてゐるので、それを頼りに向う岸に上がると、汀の岩の上に蓑笠を着た人が、香炉を袖口に持ち添へ、気を静めて坐つてゐる風情が奥ゆかしく思はれた。
 「どういふわけで、かう一人でおいでになるのですか。」と尋ねると、「ただ賀茂川の千鳥を聞いてゐるだけだ。」と答へた。世の中の人とは変はつた境遇で、これは格別な楽しみである。どうも普通の人とは思はれない。「どういふお方ですか。」と尋ねると、「僧でもない、俗でもない。三界に家なし同然で、もう六十三歳になるが、幸ひにまだ足が立つ。」と言ひ捨てて、岡野辺の並松を分けて帰つて行つた。「さても、のんき千万な返事である。」と、猶その後を慕つて行つて、「私が参つたのは、あなたが焚いて居らつしやる香が、ゆかしかつたのです。それは、何といふ名香ですか。」と言ふと、「難しい事は、老人は知らない。もうすがれて悪くなつてゐるけれども、きき分けて御覧。」と言つて、香を渡したまま、行方も知れずになつてしまつた。
 利清が帰つて、このあらましを申し上げると、その身の取りなし方を羨ましく思はれて、色々その人を尋ねられたが、一向に知れない。これを本意なく思はれて、その香炉に「千鳥」といふ銘を打つて、重宝の一つになつた。
 その頃、関東武士の一子で、都の何人よりも器量のいい桜井五郎吉といふ人があつた。今年十六歳で、姿が美しいために召し抱へられ、御前近く勤めてゐたが、その千鳥の香炉を見るより、何だか物思ひのある気色である。それが、人も見咎める程に包みかねた様子なのを、或る人がひそかに聞いてみたが、初めは中々言はなかつたが、いつとなく物思ひのために段々弱つたので、「こんなに弱つてしまつたから、死んだら、この言葉が形見である。」と言つて、子細を物語つた。それによると、「この香炉の主とは、深く衆道の契りを結んだが、『自分が兄弟分になつてゐたのでは、出世のためにならぬ。』と言つて、故郷を出て都の方に上られたのを、どうしても忘れる事ができない。その後を慕つて、今この御家に御奉公してゐるのも、『もしその人に逢ふ事もあらうか。』と考へてゐたのであるが、香炉が縁になつて、この辺に居る事はわかるけれども、尋ねる事はできない。病気になつたのは、是非もない我が身の上である。」と言つて、流す涙は、暫くも乾く事がない。
 この哀れを問ふ人は、同じ小姓仲間の樋口村之介といふ人で、不断から五郎吉と何事も打ち明けて語り合つてゐたが、「もし五郎吉が死ぬやうな事があつたら、いい友達を一人無くしてしまふ。」と言つて歎いた。かうやつて、段々日数が経つ内に、五郎吉はいよいよ頼み少なくなつて、息も絶え絶えの時に至り、村之介に向かつてこの上もない無心を言ひ出した。それは、「自分が死んでしまつたら、どうか、かの人を尋ねて、あなたが私に替はつて、念友の契りを結んで下さい。返す返すも頼む。」と言つた。
 これは、あまり不躾なやうな事だけれども、何事も命をかけて申し交はしてゐた仲だから、その義理にせめられて、その事を引き受けると、五郎吉は嬉しさうに笑つたが、それが見納めの顔で、俄に様子が変はつて、遂に亡くなつてしまつた。生死はこの世の習ひで、誰が死ぬかわからない。親しい人は歎くし、又、それ程でない人は、世間通り一遍に悲しんで、荼毘に付し、白骨になつてしまふ。世の中にこれ程儚い事はない。
 五郎吉が死んだ後の事は、反故のやうな物まで取り隠し、懇ろに後の始末をして、それから村之介は、五郎吉の遺言通り、千鳥をきいてゐた隠者の事を尋ねた。その人は、今出川の藪垣のほとり、小さい隠れ家に居つて、組戸をさし込め、夢の如く住んで居る内にも、関東で別れた五郎吉の事は忘れられない。今日は時雨が降つて、ひとしほ物淋しい折節、村之介がひそかに入つて来て、五郎吉の最期の様子を話すと、ずいぶん悟り切つたやうな人ながら取り乱して、「これだけは、嘘になつてくれ。」と言つて男泣きに泣いた。
 それを側で見てゐる村之介も、同じやうに歎かはしく、何と言つて話していいか、暫く黙つてゐたが、「言はなければ、草葉の蔭で五郎吉が恨むだらう。」この隠者の様子をつくづく見ると、歳は六十を越えて、年寄りの事ですから姿も卑しいので、この人に衆道の契りを結ぶといふのは、何となく恥づかしいけれども、死んだ五郎吉と言ひ交はしたので、致し方がない。子細をこの老人に話して、「今から五郎吉になり替はり、兄弟分と思つて可愛がつて下さい。」と言ふと、老人も、歎きながらも驚いて、「これは、思ひも寄らぬ事だ。その契約は、許してくれ。」と言つて、承知しない。村之介は、「恥を忍んで申し出た以上は、承諾してくれなければ、友達としての一分が立ち難い。」と言ふので、死ぬ覚悟をしたものだから、「それ程の事ならば、五郎吉の申し遺した通り、あなたと恋を取り結んで、長く衆道の契りを結ばう。」と堅く約束した。
 それから後といふものは、村之介は、夜毎に通つて来る。妙な事を頼まれて、自分の心には染まぬのだけれども、義理を重んじて念友になつた。「この村之介の心底は、誠に見上げたものである。」と言つて、皆人、これを感じました。
三田村  「六十種」は、名香が六十種ある、名香の全て残らずです。「この木」は伽羅を言ふ。「すがり」といふのは、焚いた香がもう終はり際になつた事で、香の立つのが少なくなつたのを言ふのです。この話は、心から出たのではないけれども、義理ばかりの念約をした。それは、嘘ではない。「義理ばかりの念友だから、嘘になりがちだけれども、それを本当にした。」といふのが眼目なので、そのために、「誠なるかなと、これを感じぬ。」とあるんでせう。「誠に見上げたものだ。」といふ意味ぢやないと、私は思ふ。
  「むつかしや。老人は知らず。」この「むつかしや」は、「小面倒な」といふ意味のぢやありませんか。
  お能言葉ですね。この話は何だか「雨月物語」みたいだな。
三田村  義理を端的に掴み出したのが身上なので、かういふのは、近松まで通つてゐる。その後の浄瑠璃も、やはりさうです。
楽堂追記)「むつかしや」は、鳶魚翁御釈の通りにて、謡の中にしばしば用ゐらる。なほ、「老人は知らず候。」など言へる詞もまた多し。

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