江戸期版本を読む

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カテゴリ:井原西鶴 > 校訂武家義理物語輪講(1934刊)

四 神の咎めの榎木屋敷

【本文】

 江州浅井殿の時、屋形町の末に、古代より枝葉の栄えたる榎木あり。「昔は神社立たせける。」と言ひ伝へて、石の玉垣の形残れり。所繁昌なれば、人家立ち続きて、これも「榎木屋敷」とて、蔵の奉行役諸尾勘太夫といへる人、申し請けて新作り致せしに、神の咎めにや、世間は静かなる夜更けて、生臭き風吹き通ひ、人の身に当たると否や、むつける程にくたびれつきて、ここに住居の堪忍しかね、子細を御断り申し上げ、この屋敷を差し上げける。その後、これを望みて住みしに、間もなく病死、又は悪風に退屈して、幾人か替はりて、今は空き屋敷となりて、門は唐蔦閉ぢて、見ねどもこの内すさまじ。
 或る時、若手の武士ども、寄り合ひ語りけるついでに、「榎木屋敷に住む人なき。」と話しけるに、この座に長浜金蔵といへる人の申されしは、「いかに神社跡なればとて、人に祟り給ふ子細なし。それは、住める人の愚かなる故なり。」と、世の人あさましく申しぬ。その座に、以前この屋敷に住みたる人の親類、内縁の方もありて、金蔵言葉を耳に掛け、「いづれ、貴殿はあれに住み、長らへ給はん。」と、少し気を持たせければ、申し出して是非に及ばず、老中へ内意を申せば、望むを幸ひに早速給はりける。
 金蔵、この屋形に移りて、「第一、この榎木、曲者なり。」と枝葉をもがせけるに、神の咎めもなかりき。これを思ふに、「惣じて、かやうの事は、主の気の強きに従ひ、必ず止む事。」と、物に馴れたる人の語りぬ。
 或る雨夜に、金蔵家来集まりて、世に恐ろしき物語にて明かしぬ。この内の一人、雪隠に行くを見かけて、才覚なる小坊主、古き靭を提げ出、壁の崩れより差し入れ、その者の腰を撫でけるに、これに驚き逃げ帰るを可笑しく、その後、度々脅しければ{*1}、誰が言ふともなく、「毛の生えたる手して掴む。」と言ひふらして、暮れては自由に行く人絶えて、これも又、気味の悪き事ぞかし。
 これを知らざる人、外より来りて、かの雪隠へ行きしに、くだんの靭、片隅より躍り出、生きたるものの働き。各々不思議を立て、試し見るに、人さへ行けば靭の狂ひ出るを、段々申し上ぐれば、金蔵、何とも思はず。「さては、これにて誰か、初めの程、腰を撫でける人の怖ぢぬる心魂、これに入りて、かくは動きける。おのれは矢柄を入るる役なるに、無用の働き。その科、今思ひ知れ。」と焼き捨てけるに、煙の中にて最期弁へ、狂ひぬ。「物のあやかし、かやうの事ぞ。」と皆人に安堵させて、この屋敷にて八十余歳{*2}まで堅固に勤めける。
 「金蔵、人中の一言、その義理違へず、ここにすましけるは、あつぱれ武士の一心。」とぞ、世の人誉めにき。

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【輪講】

木村  江州浅井殿(浅井長政)の屋形町が繁昌の時に、町外れに昔から枝葉の栄えた榎があつた。「古くはそこに神社が建つてゐた。」といふ言ひ伝へで、石の玉垣の形が、その時まで残つてゐた。土地が繁昌するので、人家が建ち続きまして、今はその所も「榎屋敷」と言つて、蔵の奉行役の諸尾勘太夫といふ人が申し請け、新たに家を造つてそこに住んで居りましたが、その神様の祟りとでも言ひませうか、世間の静かな夜更けになると、生臭い風が吹いて来る。それが人間の身体に当たると、物の怪でも憑いたといふふうになりまして、くたびれて弱つて来る。さういふやうな怪しからん事が起こりましたので、そこに住んでゐるのが我慢できなくなつて、そのわけをお断り申し上げて、この御屋敷を差し上げてしまつた。その後又、望んで住まつた人もありましたが、病死するとか、病気に罹るといふので、幾度か人が替はつて、誰も住む者がない。今は空き屋敷になつてしまつて、門には蔦葛が這ひ廻り、外からは見えないけれども、内のすさまじさが想像される。
 或る時、若手の武士どもが集まつた時、「榎屋敷に住む人がない。」といふ話が出ましたが、その座に長浜金蔵といふが居りまして、この人が言ふには、「いかに神様の社があつた跡だからと言つて、人に祟られるといふわけはない。それは、住む人が愚かなためである。」と、世間の人を嘲つたやうに大言を放ちました。この広言を聞いた中に、以前榎屋敷に住んでゐた親類、ゆかりの人があつて、金蔵の言葉を聞きまして、「あなたはえらい事を仰るから、あそこへお住みになる事ができませう。」と、気を持たせ加減に言ひますと、前のやうな大言を吐いたものですから、「私には住まへない。」とも言へない。この話を老中に申したところが、「丁度幸ひだ。」といふので、この屋敷を下さる事になりました。
 金蔵は、ここに移るや否や第一に、「この榎が曲者だ。」といふので、その枝葉をもぎ取つてしまつたが、別に神様の咎めもなかつた。「すべて、かやうな事は、住んでゐる主の気が強ければ、従つて物の怪の祟りは止むものだ。」と、世情に馴れた人が語りました。
 或る雨の降る晩に、金蔵の家来が集まつて、百物語のやうに恐ろしい話をして語り明かしましたが、その一人が雪隠に立つて行くのを見かけて、小利口な小坊主が、矢を入れておく靭の古いのを、便所の壁の崩れた所から差し入れて、その者の腰を撫でたものですから、大いに驚きまして、這ふ這ふの体で逃げ帰りました。これを面白がつて、その後も度々、便所に入る人を脅かしたので、誰が言ふともなく、「毛の生えた手で掴まれる。」と言つて、日が暮れると便所へ行く人がなくなつた。これも又、誠に気味の悪い事である。
 そんな話を知らない人が、よそから来て、例の雪隠へ行つたところが、くだんの靭が生きたものの如く片隅から躍り出たので、大勢の人が不思議を立てて、様々にこれを試して見まするに、人さへ行けば、この靭が狂ひ出して来る。さういふ事がしばしばあつたので、この次第を金蔵に申しますと、榎さへも平気で枝葉をもがせた位の金蔵ですから、別に何とも思はない。「さては、最初に誰か、この靭で人の腰を撫でた。それで人がびつくりする、その心持ちが靭に入つて、かういふふうに動くのである。おのれは、矢柄を入れる役目なのに、不思議に働くのは無用の事である。さういふ今まで人を脅かしたところ、思ひ知れ。」と言つて、靭を焼き捨ててしまつたところが、主人の言葉に服したといふふうに見えたんでせうか、便所で狂つたやうな事もなく、焼かれてしまつた。見て居つた人達を安堵させた。
 金蔵は、かういふ大勇な人でありましたから、この屋敷で長生きして、八十余歳まで丈夫で奉公を勤める事ができました。一篇の要点は、「『金蔵が、大勢の中で、榎屋敷に住まへないでどうするものかと言つた言葉の義理を違へず、ここにすまして居た事は、武士の一心である。』と言つて、世の人が褒めた。」といふのです。
  「煙の中にて最期弁へ、狂ひぬ。」は、いよいよ焼かれる段になつて、最期だと覚悟して狂ひ出したんだらうと思ひます。
間  金蔵が知つて居て、当てつけて言つたんぢやありませんか。
三田村  森君の御説でよからうと思ひます。
  「あやかし」は「物の怪」で、謡にも、「あやかしがついて候。」なんて言ふ、あれでせう。「悪風」は、前に「生臭き風」とあるやつで、「気味の悪い風が吹くので厭になつて」といふ意味でせう。
  「世の人あさましく申しぬ。」は、「世間の人は下らないものだ。」と言つて、軽蔑したんでせう。「むつける」は分かりませんね。
三田村  こいつはわからない。
  この義理は、ずいぶん変な義理ですな。
木村  「武士の一言、金鉄の如し。」で、金蔵が前言を守つて榎屋敷に住み通したのが、主眼でせう。
三田村  この話には、外聞とか体面とかいふものが加はつてゐる。前の義理とは大変違ひます。

校訂者註
 1:底本は、「おとしければ、」。『武家義理物語』(1993)に従い改めた。
 2:底本は、「八十余蔵(よさい)」。『武家義理物語』(1993)に従い改めた。

五 死なば同じ浪枕とや

【本文】

 人間、定命の外、義理の死をする事、これ弓馬の家の習ひ。人皆{*1}、魂に変はる事なく、只その時に至りて覚悟極むるに、見苦しからず。
 その頃、摂州伊丹の城主荒木村重に仕へて、神崎式部といへる人、横目役を勤めて、年久しくこの御家を治められしは、筋目正しき故なり。
 或る時、主君の御次男村丸、東国蝦夷が千島の風景御一覧の思し召し立ち、式部も御供役仰せ付けられしに、一子の勝太郎も御供の願ひ叶ひて、父子共にその用意して東路に下りぬ。頃は卯月の末、日数重ねて、今日の旅泊まりは駿河なる嶋田の宿にかねて定めしに、折節の雨降り続き、殊にその日は佐夜の中々穏止みなく、菊川わづかの道橋も白浪越すかと見えて、しかも松吹く嵐に、末々の者は袖合羽の裾返されて、難儀の山坂越えて、金谷の宿に人数を揃へ、大井川の渡りを急がせられしに、式部は跡役改め来つて、川の気色を見渡し、水かさ次第につのれば、「今日はここに御一宿あれ。」と、様々留め参らしけれども、血気盛んにましまして、是非を考へ給はず、御心のままに、「越せよ。」との仰せ。いづれも大浪に分け入り、流れて死骸の見えぬもあまたにて、渡りかからせての御難儀。後へ帰らず、やうやう先の宿に上がらせ給ひぬ。
 式部は後より越えけるが、国元を出し時、同役の森岡丹後、一子に丹三郎、十六歳なるが、「『初めての旅立ち。諸事頼む。』との一言、ここの事なり。」と、我が子の勝太郎を先に立て、次に丹三郎を渡らせ、人馬共に吟味して、その身は後より続きしに、程なく暮れに及び、川越し瀬を踏み違へて、丹三郎、馬の鞍返りて、横浪に掛けられ、遥か流れて沈み、これを歎くに、はや行き方知れずなりにき。しかも岸根今少しになりて、殊に歎き深し。我が子の勝三郎は子細なく、汀に上がりぬ{*2}。
 式部、途方に暮れて、暫く思案し済まして、一子の勝三郎を近づけ言ひけるは、「丹三郎儀は、親より預かり来り、ここにて最期を見捨て、汝、世に残しては、丹後手前、武士の一分立ち難し。時刻移さず相果てよ。」と勇めければ、さすが、侍の心根。少しもたるむところなく、引き返して立浪に飛び入り、再びその面影は見えずなりぬ。
 式部は暫く世を観じ、「誠に人間の義理ほど悲しきものはなし。故郷を出し時、人も多きに、『我を頼む。』との一言、そのままには捨て難く、無事に大川を越えたる一子をわざと最期を見し事、さりとては恨めしの世や。丹後は外にも息子をあまた持ちぬれば、歎きの中にも忘るる事もありなん。某は一人の勝三郎に別れ、次第に寄る年の末に、何か願ひの楽しみなし。殊に母が歎きも常ならず。時節外なる憂き別れ、思へばひとしほ悲しく、この身もここに果てなん。」と思ひしが、「主命の道を背くの大事。」と面に世間を立てて、内意は無常の只中を観念して、若殿御機嫌よく御帰城を見届け、何となく病気にして取り籠り、その後、御暇を乞ひて、首尾よく伊丹を立ち退き、播州の清水に山深く分け入り、夫婦、形を変へて仏の道を願ひ、それまでは子細を人も知らざりしが、勝三郎最期の次第、丹後、伝へ聞きて、その心ざしを感じ、これも俄に御暇乞ひ請け、妻子も同じ墨衣。式部入道の後を慕ひて、その山に尋ね入り、憂世の夢を松風にさまし、涙を子供の手向水となし、不思議の縁に引かれて、菩提に入りし山の端の月、心の曇らぬ語らひ。
 類なき後世の友、行ひ澄まして年月を送りしに、その人も残らず。今又、世にある人も残らず。

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【輪講】

三田村 人間の定命といふものは、八十年と言ひ、六十年、五十年とも言ひ、色々に申しますが、ここでは定まつて死ぬる「天寿」とでも言ひますか、死ぬ時が来て死ぬ外に、義理のために死ななければならぬやうになるといふ事は、外の者にはない、武士の家の習ひである。その事も、この物語につけて幅広く言ふべき事で、義理は武士に限つた事ではない、町人にもある事ですが、命がけの義理立てといふものは、農工商の上にはなく、武士のみにある。それ故に、武士の義理が一番大きい。一番高い義理をする者は何かと言へば、武士である。さういふ義理に迫つて死ぬといふ事は、武士に限つた事だが、人の肝玉には、別に変はりはない。只、その場に臨んで、「己は武士である。」といふ覚悟があるから、見苦しくない最期を遂げる。
 その頃(戦国時代)、摂州伊丹の城主であつた荒木村重の家来に、神崎式部といふ人があつた。横目役(軍中警察)で、年久しく村重に仕へて、荒木の家を取り締まつてゐたのは、この人の筋目が正しいからである。
 或る時、村重の次男の村丸といふ人が、「東国から蝦夷千島のかけ離れた風景を見たい。」といふ思ひ立ちをされて、式部も御供を仰せ付けられた。式部の一子勝太郎も、やはり御供を願つてお許しを得たから、父子諸共に支度をして、東路に下つて来ました。時は四月の末で、日数を重ねて東路を下つて参ります内に、今日は嶋田の宿に泊まる予定なので、その時はもう五月雨の頃になりまして、雨はどんどん降つて居りますし、宵から中々雨が止まない。菊川のわづかな、ささやかな橋にまで、大きな波が立つ程に、水かさが増して居ります。その上に又、嵐模様で、御供の袖合羽は風に吹き煽られて、難儀千万な旅になりました。
 金谷で人数を整へ、人揃へをして大井川にかかる。跡役(しんがりをする役)の式部が見渡しますと、大井川は水かさが増して、渡りにくい。「危険であるから、もう一晩ここに御泊まりになつたらよろしうございませう。」と御留め申しましたけれども、何しろ年の若い、血気盛んな村丸の事ですから、この川を渡つて行く事がどうであらうが、そんな事は構はない。ただ一向に、「越してしまへ。」と言ひ切つて、大浪の立つてゐる大井川へ立ちかかられたので、忽ちの間に川流れが沢山できた。川を渡りかけて、中々渡れない。甚だ難しい事になつてきたが、元気任せで、後へは返されない。やつとの事で、先の宿へお上がりになつた。式部は、後を押さへて越して参ります。
 ところが、式部が国を出る時に、同役の森岡丹後の一子丹三郎、十六歳になる者が、「この度の御供で初めての旅立ちだから、何分よろしく頼む。」と言はれて来た。今、大井川を渡りがたい事になつて、「頼まれたのは、ここの事だ。」と思ひましたから、自分の倅の勝太郎を先に立て、その次に丹三郎を渡らせて、人馬共に十分に注意して、後からついて渡りました。何しろ後から行くのでありますから、もう暮方になつて参ります。どう間違へたか、深い方へ入つたので、丹三郎は馬の鞍が覆り、横波にさらはれて流れてしまひました。「これはしたり。」と思つて、その行方を悲しみましたけれど、どうにもならない。もう岸までいくらもない所へ来てゐただけに、殊に歎息に堪へない。一足か二足行けば助かつたかも知れないのですから、思ひ出は猶深いわけです。
 丹三郎は流れたが、自分の倅の勝三郎は、子細なく上り着いた。我が子が無事に着いたのを見て、式部は思ひ惑つて、暫く考へて居りましたが、覚悟がついたものと見え、勝三郎を呼びまして、「丹三郎は、親から預かつて来たのだ。ここで最期を見捨てて、自分の子が無事だとあつては、私に頼んだ丹後に対して、自分の武士の一分が立たない。もう一刻も猶予はならぬから、お前はここで死んでくれ。」と言つた。勝三郎は、さすがに武士の根性を持つてゐますから、少しも躊躇なく引き返して、大波の立つてゐる中へ飛び込みまして、二度と面影は見えないやうになつてしまひました。
 式部は、我が子が再び川へ飛び込んで、さうして姿も見えず流れて行くのを見て、暫時、世の有様を考へる。「誠に、人間の義理といふもの程、切なく苦しいものはない。大勢人があるのに、自分に「倅を頼む。」と言はれた。それがために、無事に大井川を越した一人の子を、わざと死なせなければならない。さりとは、世の中はうるさいもの、恨めしいものである。丹後には、まだ男の子もあるから、歎きは歎いても、外の子供に思ひ替へる事もできるだらう。自分は一人しかない勝三郎に別れたのだから、年を取つて行く末にも、子を老いの力とする事ができず、何の願ひ、何の楽しみもない。殊に勝三郎の母が歎きも並大抵ではあるまい。普通に死んで行く、所謂定命の死、決まりきつた、どうでもしなければならぬ悲しみと引き違へて、とんでもない時にかういふ悲しい別れをする事を思へば、それは更に悲しみが多い。かういふ悲しみを幾度か重ねる事を思へば、この身もここで果てようか。」と思つたが、「それでは、主君の息子に御供して遠方へ行く使命が果たせない。主命の重さに主従の道を捨てる事はできない。」腹の中はどうでも、表面は以前の通り武士を立てて、心の中には有為転変の事を忘れず、忍んで御供をする。
 若殿が御機嫌よく帰城されて、御用をすつかり果たした上、式部は「病気。」と称して引き籠り、それから御暇を願ひまして、都合よく伊丹を立ち退き、播州の清水といふ山へ入つて、夫婦共に髪を剃つて道心になつた。さういふふうに姿を変へて法体になるまでは、人にも洩らさなかつたけれども、発心してから世の無常を深く感じた訳を話したので、勝三郎の最期の次第も、森岡丹後の方に聞こえたものですから、丹後も式部の志に感心しまして、これも又、俄に御暇を乞ひ請けて、夫婦のみならず、子まで引き連れて、一同法体になつた。さうして、前に法体になつた式部の後を慕つて、清水へ尋ねて行つて、二組共に浮世を夢に、松風だけにしてしまつて、子を悲しむその涙を以て手向けの水とした。さうした逆の縁に引つ張られて、菩提の道に入る。山の端の月(真如)を入り口として、道心堅固に、この二人の人は、後の世を祈る道の友達として、行ひ澄まして山奥で暮らした。
 さうした両家の人々も、残りはしない。皆死んでしまつた。と言つてゐる人も又、誰も残るわけではない。
  「只、義理堅い物語だけが残る。」と言ふんでせうな。
三田村  さうです。義理話が残る。これなどは、義理としては、いい話で、一番初めのとこの話が一番いいと思ふ。
楽堂追記)「縁に引かれて、菩提に入りし山の端の月、心の曇らぬ」云々は、謡曲「夕顔」、又は「半蔀」の中より片々に取りて綴れり。
宵曲付記)この章、原本、初め「勝太郎」とあり。後は「勝三郎」とあり。作者の思ひ違ひなるべし。

校訂者註
 1:底本は、「人なみ魂(たましい)に」。『武家義理物語』(1993)に従い改めた。
 2:底本は、「あかりぬ」。『武家義理物語』(1993)に従い改めた。

一 身代破る風の唐傘

【本文】

 幾春か身を祝ひ、若松の城主加藤肥後守殿に勤めて、本部兵右衛門とて、武の道けなげなる人なりしが、侍は住居定め難し。奉公盛りの花の時、俄に落花の如く会津を惣並に立ち退き、浪人ほど悲しきはなし。妻子は、かかる節の難儀。又、身代を稼ぐ内に、兵右衛門病死を歎き、惣領は{*1}、思ふ子細ありて、一子兵右衛門と申せしを、三番目の弟、武州にて磯貝何がしの家を継いで、磯貝藤兵衛と言へり。この方へ養子に遣はし、その身は高野に隠し、二尊院の門前に幽かなる草の庵。浮世の月をよそに見なし、いつとなく胸も晴れて、廟前の杉叢、心の針の尖りをやめて、今は千本槙の露を払ひ、観念の朝勤め。夕べは岩上にたたずみ、後の世を願へるの外なし。さて、名を岡本雲益と改めける。
 雲益差し次の弟、本部喜介と申せしは、蜂須賀の家にありしが、眼病気にて暇申し請け、阿州の片里に引き籠り、世を暇にして暮らしぬ。一子は磯貝藤介と言ひて、これも浪人分なり。喜介弟は出家して、同国真言寺源久寺に座りぬ。又、源久寺弟は、本部実右衛門と申して、これも阿州に安留次左衛門と言へるは、親兵右衛門と古傍輩なる故、そのよしみにて、これに掛かり人となりて、年月ここに暮らしぬ。
 実右衛門、或る時、新橋を渡り行くに、折節雨風激しく、前後も見えざりし時に、向うより嶋川太兵衛と申す人、これも渡りかかりぬ。両方共に、差し傘傾けて行き違ひしに、橋の中程にて実右衛門、唐傘を太兵衛差し傘に振り当てしに、太兵衛、「これは慮外。」と突きのけしに、実右衛門、「慮外と言はれては、断りも申されず。その方、何者にて推参なる言葉。」と言ふ。「推参とはいかに。見れば、安留次左衛門が家来の分として、詫びて通るべき事、本意なるに、かへつて雑言申す段、ここは堪忍なり難し。」と、抜けば抜き合はせて、暫く切り結びし。実右衛門、運命尽きて、終に討たれける。
 その時節、磯貝兵右衛門、同名藤介、この両人、太兵衛を狙ひしに、又者分の御沙汰に極まり、討つ事成り難く、是非に及ばず。所を立ち退き、武州に下り、同名藤兵衛方に居て、国元の様子聞き合はせけるに、太兵衛事、少し手を負ひ御奉公成り難く、御断り申し上げ、弟惣八に家を継がせ、その身は遠所の山里に逼塞して、名を本立と変へて、頭も散切になり、医道を心掛け、昔の如く栄花の望み絶えて、世の交じはりをもやめられける。
 兵右衛門は、江戸に罷りある内に、世間の事どもうち捨て、只一念に伯父の敵討ちたき願ひばかりに、朝暮武芸励み、毎日兵法の師の元に相勤めけるが、何とぞ武運にかなひ、嶋川太兵衛に巡り会ひたき諸願を掛け、忍び忍びに阿州の内証を聞くに、国を出でざれば、何ともせん方尽きて、気を悩みしに、その里の人、年頃別して語り、殊更内縁のよしみなりけるが、長病にて、所の療治尽きて、次第に退屈の身となり、上方の名医に会ひて相談ありたき願ひ。
 一門同心して、養生のため大坂に上れば、本立もこれを見捨て難く、気遣ひ絶えざる身なれども、常々懇ろの義理を思ひて、病人は斟酌すれども、「船中の気分、心もとなし。」と付き添ひ、大坂に着船して、南の御堂の前に借り座敷を調へ、主は四季折々の草花商へる店にして、「これも心の慰みなれる所。」とて、よろづに気を付け、本立も随分ひそかに町ありきして、人知れず逗留致せしに、右の子細を知る人は、無用の沙汰しける。

前頁  目次  次頁

【輪講】

佐藤  幾春か身を祝つて、若松の城主加藤肥後守に奉公して勤めてゐた、本部兵右衛門といふ人がありました。武の道に殊勝な、優れた人でありましたが、士といふ者は、住居が定め難い。奉公の景気のいい、盛りの花のやうな時に、その花が俄に散るが如く、会津を一緒に立ち退き、誠に浪人ほど悲しい者はない。「妻子は、かかる時の難儀。」
三田村  邪魔者でせう。
佐藤  又、奉公の口を探してゐる内に、兵右衛門が病死したのを歎いて、総領は、思ふ子細あつて、一子兵右衛門と言つてゐたのを、三番目の弟が武州で磯貝何がしの家を継いで、磯貝藤兵衛と言つて居りましたが、そこへ養子にやつて、その身を荒野に隠しまして、幽かな草庵を結んで、浮世の月をよそに見なし、いつとなく心も澄み渡つて、廟前の杉の木立の中にすつかり落ち着いて、千本槙の露を払ひ、信心から朝毎の勤めをし、夕は岩上に佇んで、後世を願ふより外の事はない。そこで、名も岡本雲益と改めました。この雲益のすぐ次の弟に、本部喜介といふ人があつて、蜂須賀家に仕へて居つた。これが眼病に罹つて、御暇を願ひまして、阿波の片田舎へ引つ込んで、世の中を暇に暮らしてゐる。喜介の一子磯貝藤介といふのも浪人してゐる。それから、喜介の弟は出家して、阿波の国の真言宗の寺「源久寺に座りぬ。」
三田村  住職になつたのです。
佐藤  又、その源久寺の弟に、本部実右衛門といふ人がある。同国の安留次左衛門といふ人は、親の兵右衛門と元傍輩でありましたから、そのよしみで、ここのかかり人になつてゐる。ここで年月を送つてゐる内に、或る時、実右衛門が「新橋」を渡つて行つたところが、丁度、雨風が烈しく、前後もわからないのに、向うから嶋川太兵衛といふ人が渡つて参りました。両方共に傘を差し傾けて、行き違ひに橋の中程で、実右衛門の差してゐる傘を、太兵衛の傘に振り当てたものですから、「これは無礼である。」と言つて、太兵衛が突きのけた。実右衛門も、「慮外と言はれては、断りもできない。その方は何者で、推参なる言葉を申すぞ。」と言ふと、相手の太兵衛は承知しない。「推参とは何事だ。見れば、安留次左衛門の家来の分際として、詫びて通るのが本意であるのに、かへつて雑言を申すに於いては、堪忍できない。」かう言つて刀を抜くと、実右衛門も抜き合はせて、暫く切り結びましたが、実右衛門は運命尽きて、遂に討たれてしまひました。その当時、磯貝兵右衛門、同藤介の両人が、太兵衛を狙ひましたが、「又者分の御沙汰に極まり」。
  居候であるのみならず、身分が又者だからでせう。
三田村  士でなくては、敵討ちは許されない。討たれた人が士分でないから、敵討ちが許可にならないのです。
佐藤  さういふ次第ですから、是非に及ばない。所を立ち退きまして、武州の藤兵衛の所に来て、国元の様子を聞き合はせますと、太兵衛は、実右衛門との斬り合ひの時に、少し負傷して、奉公ができなくなつたので、その旨を主君に御断り申し上げて、家は弟の宗八に継がせ、自分は遠い山里に逼塞して、名も本立と改め、頭も散切になつてしまつた。さうして医道を心がけて、昔のやうな栄華の望みもなくなり、世間との交じはりをもやめたのであつた。兵右衛門は、江戸に居る内に、世間の事などはうち捨てて、只一途に、「伯父の敵を討ちたい。」といふ念願ばかりに、明け暮れ武芸を励み、毎日剣術の師匠の所へ勤めて居りましたが、「どうか武運にかなつて、敵の嶋川太兵衛に巡り逢ひたい。」といふ願をかけまして、忍び忍びに阿波の様子を聞くと、一向、国を出て来ないので、何とも仕方がなくて、気に悩んでゐたところが、その国の或る人が、年頃特別に嶋川と懇意にして語り、殊更内縁のよしみもあつたが、その人が長いこと病気をして、その国での療治の仕様も尽きて、次第に退屈で持て余すやうな身となり、「上方の名医に相談してみたい。」と言ふので、一門の人々も同心しまして、養生のために大坂まで上る事になつた。本立も、これを見捨てるわけにいかない。さういふ敵があつて、心遣ひの絶えない身だけれども、年頃懇意にしてゐる義理を考へて、病人の方は遠慮するのを、嶋川の方から、「船中の気分なども心配だ。」と言つて、付き添つて大坂に船で着いた。そして、南の御堂の前へ――これは、間借りしたんでせうか。
三田村  貸し座敷といふものがあつたのです。
佐藤  とにかく、そこの「主は、四季折々の草花商へる店」とあるから、無商売の家ではないやうです。
木村  「これも心の慰みなれる所」といふのは、うちが花屋だからでせう。
佐藤  万事に注意して、本立も随分ひそかに町歩きをして、人知れず逗留してゐたのでしたが、右の事情を知つてゐる人は、いりもしない評判を立てました。
三田村  「無用の沙汰」は、「よしたらよからう。」と言つたんでせう。この話は、最初、橋の上で突つかけられた時分に、実右衛門が、「その方は、どういふ者で、さういふ事を言ふか。」と言つた。かういふ場合は、身分の低い方から挨拶すべきなのです。「推参」は、昔の人のよく言つた言葉で、出しやばる事だ。「散切」は、髪を切つて撫で付けにするのです。「御堂」は本願寺ですね。
木村  芭蕉が亡くなつたのも、御堂前の花屋の裏座敷でした。これも、御堂の花売りと見たらよからうと思ふ。
三田村  阿波は、船に乗らなければならないので、ちよつと入る事が困難なのです。
佐藤  「慮外」。
三田村  法外な事をする。挨拶をすべき時に、「慮外」なんて言つたものだから、「何者なれば、かういふ事を言つたか。」といふ事になつた。もしさう言つた方が、上の人だつたら、そのままで済んだかも知れない。上士と下士といふ事が問題になつてゐるのです。「慮外と言はれては、断りも申されず。」といふのは、「咎められては…。」といふ意味だ。そこで、「その方は、どういふ身分の者なれば、大きな事を言ふか。」と言つた。『摂陽奇観』に貞享四年の事として出てゐる。
仙秀追記)一子兵右衛門の事で大分問題になつたが、本文に「伯父の敵」と呼んでゐるのと、『摂陽奇観』に「討人 紀州慈尊院村岡本雲益三男阿州侯家士本辺実右衛門甥 左手疵五ケ所 磯貝兵右衛門 左足疵一ケ所 同藤介」とあつた。そこで系図にすると、左の通り。

040c

佐藤追記)正にこの系図の通りと思はれるが、「喜介」の子が「磯貝」を氏とする事由が未詳。又、「三番目弟」を「親兵右衛門」から三番目とすれば、「藤兵衛」の前に、何がしが一人入るわけである。

校訂者註
 1:底本は、「惣領(そうりやう)をおもふ」。『武家義理物語』(1993)に従い改めた。

二 御堂の太鼓打つたり敵

【本文】

 悪事四十里を走り舟。大坂の様子、阿波に聞こえて、鳴門の浪風もなく、磯貝藤介が方より人を仕立て、東武にありし兵右衛門方へ文通せしに、この状、貞享四の年五月十四日に着きて、兵右衛門内見して、その夜身拵へせしに、舟越九兵衛といへる浪人聞きつけて、「かねて語りしは、かかる時の事なり。」と、助太刀の事頼もしく申すを、色々辞退申せど、「是非同道。」と言ひ掛かつて引かざれば、喜び、両人上りしが、九兵衛、「存知入りのある。」とて、脇差一つになつて、家来分にて道を急ぎ、二十四日に京都に入りて、右の段を御郡代衆へ御断り申し上げ、二十五日の朝大坂へ下り着き、なるほどひそかに尋ね見廻り、六月朔日に藤介、阿州を発足して、同二日に難波の船着に上がり、兵右衛門、藤介に出で合ひ、「これは。」と勇みをなし、両人、敵討の御帳に付いて、首尾よく御屋敷罷り立ちて、早その日より、「もしも人立ちの所にあるべきか。」と、道頓堀の芝居の果てを心掛け、一人は嵐三右衛門が木戸につき、又一人は大和屋甚兵衛が表に立ち、一人は荒木与次兵衛が追ひ出し太鼓の鳴りしまふまで、田舎らしき人に気を付け、或いは笠の内に心を配り、出羽、義太夫が浄瑠璃の果て口、又太夫が舞を聞く人、竹田がからくりの見物、甫水が太平記を読める所、その外、浜芝居の小見世物、水茶屋の客までを吟味して、それより寺社の遊山所を見巡り、町筋の縦横、人家の末々までも見渡しけるに、この津の広き果てしなく、いつ会ふべきも定め難く、猶又、浜辺浜辺を探し、御堂の前を通りけるに、物には天理あり。
 嶋川本立、その日国元に下り舟、幸ひの日和。夕暮の風待つ人もありて、又舟より上がり、同道三人に立ち帰りぬ。この舟、そのままに出で行き、国里に帰り居ば、時節を待つとも知れ難し。とかくは道理にせめられ、立ち戻りしを、兵右衛門、藤介、ほのかに見付けしが、しかとはいまだ極め難く、殊更連れたる人々の迷惑を顧み、足場見合はせけるに、借り宿の花屋がうちに入りぬ。
 いよいよ見定めて付け込み、躍り上がりて喜び、「今日こそ恨みの晴らしどころなれ。少しもせく事なかれ。ここは往来の繁し。外の人に過ちなきやうに。」と申し合ひ、出るを待つに、久しければ、「旅宿に踏ん込み討つべき。」と言ふ。これも病人を憐れみ、「今暫く待ち請け、大道にして討つべき。」と、あなたこなたに立ち隠れ、とやかく内談をするを、近所の町人、不思議立つるもあり。
 さる小家に入りて、「我々は、待つ人ある」由言ひて、水など貰ひ、今日の暑さを凌ぎ、三人共に立ち替はり立ち替はり、様子見せなる草花に心を寄する風情して、「敵は、やがてしをるる罌粟の如し。我らは盛りの菖蒲太刀。風に花を散らすべし。」と思ふ心の色、外に見えて、後には亭主も、「異な事。」と思ひ、目をつけぬれば、少し又、南の方へよげて待つに、日影も西に傾き、お八つの知らせ太鼓打ちぬれば、浮世を盗みたる男、頭は夏の夜の霜を戴き、もじの肩衣掛けて行くもあり。嫁の嫌がる婆も一連れに七、八人づつ、置綿、手拭、扇に珠数を持ち添へ、後世の庭にも座を争ひ、「我遅れじ。」と急ぐ足音可笑し。これらは皆、行く先近く、仏を頼むも理なり。若盛りの男の、暇ならば遊び所もあるに、無用の御堂参り。子細らしくは見えてから、偽りのやうに思はれける。
 世は様々と見し内に、大勢の中に紛れて本立も参りける。三人、気をつけて、御讃談半ばにあまたの人を見分けしに、仏前の恐れもなく、柿の夏頭巾置きたる頭、来迎柱の順にちろりと見えけるを、北の縁側に廻りて、よくよく見届けしに、嶋川太兵衛に紛れなし。各々喜び、客殿に廻り、御寺預かりの人に右の内通して、「騒ぎ給はぬ心得のため。」を申せば、「神妙なる付け届け。」を感じける。「さりながら、御仏前にての事は、御用捨。」と頼まれければ、その段は請け合ひ、「然らば、裏御門はさし固められ、門一つの出入り。」と申しけるに、その段は又請け合ひて、早、裏の門は固め置かれぬ。
 三人は御門前の町に出、三方へ手分けをせし。まづ兵右衛門は、東への道筋あれば、その角に控へたり。藤介は北の方の門を固め、九兵衛は南の門に付きて、「ここぞ。」と待ち請けし有様、天を翔ける鳥も、逃るべきやうなし。「さあ、今果つると心得べきものなり。あなかしこ。」の声聞けば、惣立ちに人の山見ゆる中に、本立、編笠かぶり出るを、兵右衛門、駆け付け、「その方は、嶋川太兵衛と見請けたり。伯父の敵、やらぬぞ。」と言葉を掛くれば、本立も、聞きもあへず、「心得たり。」と笠脱ぎかけ、手ばしかく刀抜き合はせて、渡し合ひぬ。本立、身軽く、あつぱれ働きけれども、兵右衛門、利の剣以て開いて切り込み、両方共に早業、手を尽くして戦ふ。時に本立、編笠の緒、首筋に掛かりて、少しは働きの邪魔にもなりぬ。されども宙を飛ぶ如く、甲斐甲斐しく切り結ぶところへ、藤介駆け寄り、切りつけ、これに大方利を得て、畳みかけて切り立てける。
 時に所の町人、驚き、商売の店、戸をさし、騒ぐ。九兵衛、これに下知して、「騒ぎ給ふな。敵討なるぞ。只今首尾よく討ち留めたるを、各々見物し給へ。」と、さても落ち付きたる男なり。その内に太兵衛を切り伏せ、心静かに止めを刺し、その身を見れば、深手、浅手二十一ケ所、さりとはこれまで働き。「六月三日の入相の鐘に、御堂の前の花は散りける。」とながめし。
 兵右衛門は今年二十六歳、血気盛んの時を得たり。藤介は十八歳、前髪盛りの美児。薄手の血潮を自ら拭ひ、太刀を杖に突きながら腰掛に休らひ、三人、顔を見合はせ、息をつぎて礼儀述べ、「諸事の詰め開き見るさへ、武士の本意。」と勇めば、その身の嬉しさ限りもなく、まづは町に入りて養生致しぬ。藤介一か所、兵右衛門は五ケ所の疵平癒して、当分何の子細もなく、高野の方へ立ちける。

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【輪講】

  悪事は、四十里を走り舟のやうに早く伝はつて、大坂の様子が阿波に聞こえた。鳴門に浪風の立たないやうな中を、磯貝藤介の所から人を仕立てて、江戸に居る兵右衛門に文通して知らせた。その手紙が貞享四年の五月十四日に着きまして、兵右衛門はこれを見ると、その晩すぐ身拵へをした。それを船越九兵衛といふ浪人が聞きつけて、「かねて語り合つたのは、かういふ時の事である。」と助太刀の事を頼もしく言ひ出した。兵右衛門は、色々辞退したけれども、「ぜひ同道する。」と言つて、承知しない。そこで、喜んで二人で発足しましたが、九兵衛は、「考へた事がある。」と言つて、自分は脇差一つで家来のやうな形になり、道中を急いで、二十四日に京都に着いた。右の段(敵討)を御郡代衆に御断り申し上げ、二十五日の朝大坂へ着いて、できるだけひそかに尋ね廻つた。一方、藤介は六月朔日に阿波を発足して、二日に大坂へ船で着いた。兵右衛門は、藤介に出会つて大いに勇気を起こしまして、「両人、敵討の御帳に付いて」、「人の沢山出る所に居やしないか。」と言ふので、道頓堀の芝居のハネを注意する。丁度三人居りますから、一人は嵐三右衛門の木戸に立ち、一人は大和屋甚兵衛の表に立ち、又一人は荒木与次兵衛の追ひ出し太鼓が鳴つてしまふまで、田舎臭い人に気をつけて、かぶつてゐる笠の内を注意する。出羽、義太夫の浄瑠璃の果て口、又太夫の舞の聞き手、竹田のからくりの見物、甫水の太平記を読む所、或いは浜芝居の小見世物、水茶屋の客に至るまで吟味し、神社仏閣を見巡り、町筋の縦横、人家の末々まで見渡したけれども、何しろ大坂は広い所で、いつ逢へる事かわからない。猶浜辺浜辺を捜して、御堂の前を通つたところが、道理も通るべき世の中である。嶋川本立は、その日国元へ船で下る事になつて、「幸ひの日和、夕暮の風待つ人もありて」、又船から上がつて、三人連れ立つて帰つて来た。船はそのまま出て行つてしまふ。もし国へ帰つてしまつたら、時節を待つたところで、知れるものではない。その戻つて来るのを、兵右衛門と藤介がちらりと見かけたけれども、まだはつきり見極める事はできない。殊に、連れの人があるから、「その人に迷惑をかけてはいかん。」といふので、「いい場所を見つけよう。」と思つてゐる内に、例の花屋の借り座敷へ入つて行つた。いよいよ「ここ。」と見定めたので、皆躍り上がつて喜び、「今日こそ恨みの晴らしどころだ。」「少しもせいてはいけない。」「ここは往来が頻繁だから、外の人に怪我をさせてはいけない。」と申し合はせて、本立の出て来るのを待つてゐたが、中々出て来ない。「いつそ、宿屋へ踏み込んで討たうか。」とも言つたが、「それでは病人が気の毒だ。」といふので、あなたこなたに隠れて、何かと内談をしてゐる。近所の町人で、その様子を不審に思ふ者があるので、或る小家に入りまして、「吾々は、ここで待つてゐる人があるんだから。」と言つて、水などを貰ひ、今日の暑さを凌ぎながら、三人とも交はる交はるに、そこにある草花に心を寄せるやうな様子をして、「敵は、やがて萎れる罌粟のやうなものだ。我らは盛りの菖蒲太刀。風に花を散らさう。」といふやうな事を言つてゐる。その考へてゐる事が、おのづから顔に現れるので、そこの亭主も「変だ。」と思つて、この三人に目をつける。そこで、もう少し南の方へよけて待つてゐると、段々日影も西に傾いて、「お八つの知らせ太鼓」といふのは、御堂で打つんでせう。「浮世を盗みたる男」といふのは、何ですか。
木村  「生き過ぎてゐる」と言ふんぢやありませんか。
  嫁の嫌がる婆さんが、一連に七、八人づつ御法談を聞きに行くのにも、その席を争つて、一足も先に行かうとする。その足元が可笑しい。これらはもう前途が短いので、仏を頼むのも尤もであるが、若盛りの男が、暇なら遊ぶ所もあらうのに、無用の御堂参りをするのは、子細らしくは見えるけれども、何だか本気でないやうに見える。「世は様々のものだ。」と見てゐる内に、大勢に紛れて本立もやつて来た。三人が気をつけて、御讃談半ばに大勢の人を見分けると、仏前も憚らず、柿色の夏頭巾を着た頭が、来迎柱の順に、北の縁側に廻つてよく見届けたが、それは嶋川太兵衛に紛れもない。各々喜んで、客殿に廻り、寺預かりの人に右の事情を話して、騒がないやうに頼んだ。寺預かりの人も、神妙な付け届けに感じたけれども、「仏前での敵討は、容赦して貰ひたい。」と言つた。それは承知したが、「それでは裏門を固めて、門からだけ出入するやうにしたい。」と言ふと、先方もこれは承知しまして、早くも裏門は固めてしまつた。三人は、門前の町へ出て、三方へ手分けをした。兵右衛門は、東の道筋の角に控へた。藤介は北の方の門、九兵衛は南の門について待ち受ける。その有様といふものは、空を飛ぶ鳥でも逃れやうがない。「さあ、今果てると心得べきである。あなかしこ(御法談の終はり)」、山のやうになつて人が帰つて来る中に、本立は編笠をかぶつて出て来た。兵右衛門は駆けつけて、「その方は、嶋川太兵衛と見受けた。伯父の敵、やらぬ。」と声をかけると、本立は、すぐに笠を脱ぎかけ、手早く刀を抜いて切り結んだ。本立は、身軽く見事に働いたけれども、兵右衛門は、天理にかなふ刀を以て、両方早わざの手を尽くして戦ふ。その時に、本立の編笠の緒が首にかかつて、少し働きの邪魔にもなる。けれども、まだ宙を飛ぶやうに甲斐甲斐しく切り合つてゐるところへ、藤介が駆け寄つて切りつけた。これによつて大いに利を得て、畳み掛けて切り立てる。この様子を見て、その辺の町人は驚いて、商売店は戸を閉めて騒いでゐる。九兵衛はそれに注意して、「お騒ぎなさるな。敵討だ。只今首尾よく討ち留めるところを見物し給へ。」と言つたのは、さても落ち着いた男である。その内に、太兵衛を切り伏せて、心静かにとどめを刺して、九兵衛が自分の身体を見ると、深手浅手二十一箇所もある。「さりとては、これまで働き。」兵右衛門は当年二十六歳、血気盛んの時である。藤介は十八歳、前髪盛りの美少年であつたが、薄手の血潮を自ら拭ひ、太刀を杖につきながら腰掛に休んで、三人顔を見合はせ、息をついで礼儀を述べた。「かういふ諸事の詰め開きを見るのも、武士の本意である。」と勇んだので、当人たちも嬉しさ限りがなく、まづ町に入つて養生した。藤介の疵は一箇所、兵右衛門の疵は五箇所であつたが、平癒して何の子細もなく、高野の方へ立つて行きました。
 「来迎柱のじゆん」といふのは?
三田村  太い柱です。「じゆん」は、今の列です。
楽堂付記)「来迎柱」――仏堂に於いて、仏像を安置する位置の付近にある円柱。須弥壇の四隅にあり。(中村工学博士著『日本建築辞彙』)
佐藤  「鳴門の浪風もなく」は、兼好の歌がありませう。「世の中を渡り比べて今ぞ知る阿波の鳴門に浪風もなし。」でしたか。「今果つると心得べきものなり。あなかしこ。」といふのは、御文様の文句でせう。
  「御郡代衆」。
三田村  京都は町奉行のわけです。郡代が来てゐる筈はない。どこで敵を討つかわからないから、そこそこで届けるんでせう。大坂も町奉行です。敵討に出るといふ事については、国元で書付を出してくれるわけだが、これは、又者分だから、阿波で貰へないのです。一体、兵右衛門は会津の家来で、士分なんだから、その方から言へばできるわけだけれども、阿波へ来ては、安留次左衛門の居候で、資格がない。本来は資格があるが、証文は持つてゐないわけだ。そこで、この届をどうしたか。届が出してなければ、一応取り押さへて、町奉行が調べた上、それに相違なければ許される。この場合は、届ができないのだから、敵を討ちおほせて、「何の子細もなく、高野の方へ立ちける。」といつたわけには行かない筈です。実際問題として一応言へば、そんな事になる。
  「その身を見れば、深手浅手二十一ケ所」といふのは、太兵衛の事でせう。「さりとは、これまで働き。」「敵ながらも、よく働いた。あつぱれな奴だ。」と言つたんだらうと思ひます。
三田村  もしこれで本懐が遂げられなければ、国へは帰れない。浪人でぶらぶらしてしまふ。相手が死んでしまつても、やつぱり帰れない。
木村  「夕暮の風待つ人」は、必ずしも国元から出て来た人とは言ひ切れない。前から居た人かも知れない。
三田村  夕涼みの人ぢやないか。
楽堂付記)別に、風航を主とする夜船も出るため、それに乗るべく一便後らせたりとならん。
木村  とにかく、一旦船に乗つたが、思ひ返して上がつて来た。一旦乗つたが思ひ返して来るといふのは、よくせき道理にせめられたんでせう。
三田村  自然の道理ですね。仏教の因果応報から言へば、人を討つたんだから、自分も討たれなけれやならない。
佐藤  「浮世を盗みたる男」は、仏心ある人ぢやありませんか。
三田村  「人間五十年」を過ぎた人でせう。
佐藤  「お八つ」は、御讃談の始まる時ですか。
三田村  朝と昼と昼過ぎとあります。
佐藤  「来迎柱のじゆんに」は、順列ですか。
三田村  さうです。柱並ですね。
  この敵討は、瓦版でもありますか。
三田村  あります。
佐藤  「利の剣」。
木村  門跡様だから、弥陀の利剣を持ち出したんでせう。南の御堂とは、西本願寺の別院で、津村御坊と言ふのがそれです。

三 松風ばかりや残るらん脇差

【本文】

 人の心ざしほど、格別違ひあるものは無し。
 信長公の御時、墨俣の川屋敷とて、夏を宗と造らせられ、風の松涼しく、御通ひ舟、御寝間のほとりまでさし入り、御物好きの面白く、絹もぢの障子の中に、京女臈の美しきをあまた召し寄せられ、折節の御遊興所にあそばしける。中にも月の夜、雪の夜とて二人の女郎、美形によつてひとしほ御不憫の掛かり、両の御手に花、紅葉の御寵愛。春秋もこれ故、御楽しみ深かりき。これを思ふに、両人、姿を争ひ、御奉公しがちの心もあるべき事なるに、世間とは格別の事にして、中々御機嫌のよろしきを恥ぢ合ひ給ひ、殿、度重なりて御入りましませば、俄に作病して、雪の夜は、風騒々しく申し上ぐれば、これをいたはり給ひ、月の夜に入らせ給ひ、明け暮れ御前よろしければ、「身に障りある。」などを申して取り籠り、わざと御機嫌を背き、両人共に、同じやうに年を重ねて御奉公を仕る。女のかかる事は、ためしもなき心底、前代未聞の名女なり。
 さすが俗姓卑しからず。雪の夜は、西国の国守の娘、月の夜は、さる貴人の息女なるが、二人共に子細あつて、町人の子分になりて、御奉公には出でられしとなり。これを見るに、筋目ほど恥づかしきはなし。卑しき者の娘は、無用の悋気に我が気を悩まし、人の身を痛め、又の世の苦しみも構はず、悪心、胸に絶えず。これらは、情けを掛けてもうるさきところあり。
 又、松風とて、尾州鳴海あたりの浜里に、漁人の娘なるが、浦育ちには面妖麗はしく、古代須磨の海人の松風の女には劣るまじき風儀なれば、卑しくも御前勤めを望み、これも川屋敷にありしが、近くは召されながら、終に御枕を直さぬ事を恨み、「とかく雪の夜、月の夜が、悪しくも申しての事ならん。」と女心に思ひ込み、この二人を狙ひ、時節待つ内に、「年珍しき曙、御謡初め。二日の夜、又、川屋形に御成り。」とて、嶋台飾りて、御酒宴重なり、女中も常よりはささ過ごして、前後知らざりき。
 松風、「今宵。」と思ひ定め、萩の戸の蔭にて身を固め、打掛け姿は人並に、国尽くしの間に居流れて、夜の更け行く首尾伺ひけるに、この女の立ち振舞、灯し火の影に見させられ、局頭の梅垣をひそかに召され、「あの菊流しの衣装の女、懐中に子細あり。捕らへて詮議仕れ。」との上意を請けて、松風といへる女をばたばたと取り巻き、懐中を探しけるに、案の如く肌刀を差してあり。
 「これは、曲者なり。いかなる存念あつて、かく御吟味の御前へ刃物は差し給ふぞ。是非言はせずしてはおかじ。身の難儀に遭ひ給はぬ先に。」と色々責めても、「無念。」とばかり言ひて、中々申さるる気色はなし。「これには様子あるべし。」と、この女の局を探して見しに、乱れ箱にうち入りて書置あり。次第を詮索すれば、月の夜、雪の夜、二人の女臈に恨みを含み、命を取るべき思ひ立ち。「さりとは恐ろしき女。」と沙汰極まりて、見せしめのため、御仕置になりぬ。これ、我が心からの悪事にて、一命を捨てける。
 その後、かの女の執心通ひて、人を悩ませ、女中は難病請けて、これを歎きぬ。いづれの女臈にも、額に鹿の袋角のやうなる物生ひ出で、美形、可笑しげになりて、外科、本道も、伝へ聞きたるためしもなく、この療治にあぐみぬ。表向きの番組の役人は、残らず取り殺されて、その後は久しく空き屋敷にあそばされ置かれしに、或る時、仰せ出されしは、「この川屋敷の内に、一夜を明かして見て参れ。」と、世に隠れなき武辺者大平丹蔵といへる男と、紛れもなき臆病者柳田久六、この二人を同役に仰せ付けられ、申し合ひて一夜を勤めしに、かの松風の女、昔の形は顔ばかりに残し、身は三丈余りの蛇体となつて、二人に取り掛かれば、久六は前後忘じて死に入りけるに、丹蔵、組み伏せて、正しく捕らへたりしが、そのまま消えてなかりき。
 その跡に松風が小脇差ありて、これをしるべに両人立ち帰り、御前へ右の段々言上申せば、御機嫌よろしく、手柄せし丹蔵に千石の御加増。又、死に入りたる久六に千五百石御加増下し給はれば、御年寄中、この上意を合点仕らぬ様体、御覧あそばし、「丹蔵は、これ程の儀、仕りかねまじき者なり。又、久六は、かねて知れたる臆病男。主命を重んじ、一夜を勤め、死なずに帰る事、丹蔵には増したる武辺者。」と仰せられけるとなり。
 その後はこの御屋形、子細なく、女中の難病も、常の面になりぬ。

前頁  目次  次頁

【輪講】

木村  人の志ほど、各々異なつてゐるものはない。織田信長の時、墨俣の川屋敷は、夏の暑さを凌ぐために作られたので、松を吹く風も涼しく、川には舟も浮かべて、それが寝間近くまで差し入れられる、大変贅沢なもので、御物好きの様も面白く、京都から美しい女達を大勢召し寄せられて、折節の遊興にされた。その女達の中にも、月の夜、雪の夜といふ二人の美人が、両手に花、紅葉といふ御寵愛で、「春秋も、これ故お楽しみ深かりき」。二人の美人は互に姿を争ひ、「自分が勝たう。」といふ事があるべきなのに、これは又、世間とは格別に異つた事で、殿様が一方を御寵愛になるのを恥づかしい事に思つて、仮病を使つて、「風騒々しく」、雪の夜は月の夜に譲り、月の夜は又、雪の夜に譲るといふふうで、御寵愛が自分一人にのみ返る事を御遠慮する。さういふふうで、長年奉公して来たが、これは、女としては誠に珍しい心底で、前代未聞の名女である。さすがに俗性卑しからざる者だけあつて、雪の夜は西国の国主の娘、月の夜は、さる貴人の息女でありますが、二人とも子細があつて、町人の娘分になつて奉公に出たのである。これを思ふに、筋目ほど恥づかしいものはない。卑しい者の娘は、さういふ心がけがないから、無用の悋気に自分の心を悩まし、人を苦しめ、世間に迷惑をかけるのも構はず、悪心が胸に絶える事もない。さういふ心がけの悪い女には、情けをかけてもうるさいところがある。尾州鳴海の漁師の娘に、松風といふのがあつて、浜育ちには珍しく綺麗で、「昔、須磨に居た、行平卿に恋ひ焦がれた松風にも劣るまい。」と思はれる程の様子でありましたから、卑しい身ながらも御奉公を望み、これも同じ川屋敷に居りました。けれども、遂に枕席に召される事のないのを、「これは、雪の夜、月の夜が邪魔をするからの事だらう。この二人がなかつたら、自分が御寵愛を受けるやうになるに相違ない。」と女心に思ひ込んで、「二人を亡き者にしよう。」と時節を待つて居りました。丁度、正月二日の謡初めに、殿様は川屋敷へ御出になつて、御酒宴があつた。女中方も、いつもより酒を過ごして、前後も知らず眠つてしまひました。松風は、「今夜こそいい機会だ。」と思つたので、萩の戸の蔭で身を固め、特別の支度でなく、いつもと同じやうに、人並に打ち掛け姿をして、国尽くしの間に居流れて、夜の更けて行くのを待つてゐると、殿様が、この女の立ち振舞を灯影に御覧になつて、梅垣といふ局頭をそつと呼んで、「あの菊流しの着物を着てゐる女は、懐中に訳があるやうに思はれる。捕まへて詮議をしろ。」と言はれた。その御言葉に従つて、松風を取り巻いて懐を探して見ると、案の如く肌刀を差してゐる。「これは曲者である。どのやうな存念があつて、御前へ刃物を持つて出られたか。子細を言はさずにはおかぬ。身に難儀のかからぬ前に、白状してしまつたらよからう。」と言つて、色々責めたが、「無念、無念。」と言ふばかりで、中々あからさまに言ふ様子はない。「これは、子細があるに相違ない。」と言つて、その女の部屋を探して見ると、乱箱の中に書置がある。それには、月の夜、雪の夜の二人に恨みを含み、「命を取らう。」と思ひ立つた事が書いてあるので、「さりとは恐ろしい女である。これは、諸人の見せしめのために、御仕置にした方がいい。」といふ事になつて、心からの悪事によつて、一命を棄てました。けれども、その怨霊といふものが、この世に残りまして、あまたの人を悩ます。殊に女達は、難儀な病気を受けて、どの女の額にも鹿の袋角のやうなものが生えて来た。美しい姿も、妙な事になつて来たが、外科、本道も、これまでそんなためしを聞いた事がないので、その療治に困つた。表向きの番組の役人は、残らず取り殺される。とうとうその屋敷は、化け物屋敷といふ形で、久しく空けて置かれた。それから程経つて、殿様の仰せ出されます事には、「その屋敷の内に、その後もやはり怪しい事がある。」といふ評判があつたと見えまして、「一晩明かして正体を見届けて来い。」といふ事で、世に隠れもない武辺者の大平丹蔵と、これも又、間違ひのない臆病者の柳田久六、この二人を同役にして、空き屋敷で一晩勤める事になりました。さうすると、かの松風といふ女が、昔の形は顔ばかりで、身体は三丈余の蛇体になつて、二人にかかつて来た。久六は臆病者の事ですから、忽ち人事不省に陥つてしまつた。大平丹蔵は、偉い男なので、その蛇体を組み伏せて、確かに捕へたんですが、何しろ相手は化け物ですから、そのまま消えてなくなつて、後には松風が昔差して居つた小脇差が残つてゐる。それを印に二人が立ち帰りまして、殿様に右の段々を申し上げますと、大変御機嫌がよろしく、手柄を立てた丹蔵に千石の御加増、気絶した久六には千五百石の御加増がありました。つまり、化け物を仕留めた方よりも、何の役にも立たない方に、より以上の御加増があつた。御家老達も不思議に思つて、この思し召しが合点できないやうな様子をしてゐるのを、殿様が御覧になつて、「丹蔵は、元よりこれ程の事をしかねまじき剛の者である。久六は、有名な弱虫であるが、主命を重んじて一夜を無事に勤めて帰つた事は、大平丹蔵以上の武辺者だ。」と言はれました。その後は、川屋敷にも何の子細もなく、女達の顔も、昔のやうに治りました。――この義理といふのは何ですか。
三田村  月の夜、雪の夜、女二人の奉公ぶりが、義理ですな。「風騒々しく申し上ぐれば」は、雪の夜だから「風」と言つたので、うるさく申し上げる事でせう。これに対して、一方は月の夜だから、「身に触りある。」などと言つた。
木村  なるほど。洒落ですな。
三田村  信長に「二日の謡初め」なんていふものがあつたかどうか。これは、幕府の事でせう。
楽堂付記)御説の通り、全く江戸幕府の式例を持ち込みたるものなり。「二日」と言へるもしかり(後に「三日」となる)。「島台飾り」とあるもしかり。殊に島台の事は、江戸以前の謡初め式には無し。
三田村  「外科、本道」。本道は、今の内科です。臆病者と強い人と一緒に行く話は、『常山紀談』か『武家閑話』かにありましたね。
  物見に行く話があります。「松風ばかりや残るらん。」といふのは?
  謡曲「松風」の終はりの文句です。
佐藤  「御年寄中」。
三田村  老臣老女共に、「御年寄」と言ひます。これは、一種の人心収攬だね。
佐藤  しかし、この理由は少し屁理屈ですよ。不審に思ふのが尤もです。

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