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カテゴリ:井原西鶴 > 校訂評釈本朝二十不孝(1947刊)

校訂評釈本朝二十不孝(1947年刊)WEB目次

本朝二十不孝 目録

巻一
一 今の都も世は借物  京に悪所銀の借次屋
二 大節季にない袖の雨  伏見に内証掃ちぎる竹箒屋
三 跡の剥たる嫁入長持  加賀に美人絹屋
四 慰み改て話の点取  大坂に後世願ひ屋

巻二
一 我と身を焦す釜が淵  近江に悪い者の寄合屋
二 旅行の暮の僧にて候  熊野に娘やさしき草の屋
三 人はしれぬ国の土仏  伊勢に浮浪の釣針屋
四 親子五人仍書置如件  駿河に分限風ふかす{*1}虎屋

巻三
一 娘盛りの散桜  吉野に恥をさらせし葛屋
二 先斗に置て来た男  堺にすつきりと仕舞たや
三 心をのまるる蛇の形  宇都の宮に欲のはなれぬ漆屋
四 当社の案内申程をかし  鎌倉にかれかれの藤沢屋

巻四
一 善悪の二つ車  広島に色狂ひの棒組屋
二 枕に残す筆の先  土佐に身を削る鰹屋
三 木蔭の袖口  越前にちりちりの糠屋
四 本に其人の面影  松前に鳴す虫薬屋

巻五
一 胸こそ踊れ此盆前  筑前に浮世にまよふ六道辻屋
二 八人の猩々講  長崎に身をよごす墨屋
三 無用の力自慢  讃岐に常の身持ならば長生の丸亀や
四 古き都を立出て雨  奈良に金作の刀屋

校訂者註
 1:底本は、「ふかず」。『本朝二十不孝』(1993)本文及び語釈に従い改めた。


校訂評釈本朝二十不孝(1947年刊)WEB凡例

  1:底本は『校訂評釈西鶴全集 第一巻(1947年刊)』(藤村作校訂 至文堂 1947年刊 国会図書館デジタルコレクション)です。
  2:校訂の基本方針は「本文を正確にテキスト化しつつ、現代の人に読みやすくする」です。
  3:底本のふりがなは全て省略し、底本の漢字は原則現在(2025年)通用の漢字に改めました。
  4:繰り返し記号(踊り字)、合字(合略仮名)等は、漢字一字を繰り返す「々」を除き、原則文字表記しました。
  5:句読点、濁点半濁点および発話を示す鍵括弧は適宜修正、挿入し、改行も適宜しています。
  6:かなづかい、送り仮名は、文語文法に準拠し、適宜改めました。
  7:校訂には『新編日本古典文学全集67』(松田修校注・訳 小学館 1996)、『本朝二十不孝 決定版 対訳西鶴全集10』(麻生磯次、冨士昭雄著 明治書院 1993)を参照しました。
  8:本文は底本全文を、【訳】【釈】は適宜抜粋しました。
  9:底本本文の修正のうち、必要と思われるものは校訂者注で示しました。但し、以下の漢字は原則として、他の漢字あるいはかな表記に変更しました。

漢字表記変更一覧

複数篇にわたるもの(五十音順 但し現代仮名遣い)
ア行
 明く→空く・開く 跡→後 植ふ・値ふ→逢ふ 丸雪→霰 碓→石臼 団→団扇 姥→乳母 懼ろし→恐ろし 駭く→驚く 各→各々 姥・姨→伯母 表屋→母屋
カ行
 海道→街道 貌・皃→顔 鎰・鑰→鍵 各別→格別 陰・影→蔭 借す→貸す 挊→稼ぎ 碓→唐臼 骸体・骸→身体 義・儀→議・儀 奇麗→綺麗 腐す→崩す 闇し→暗し 比→頃
サ・タ行
 噪ぐ→騒ぐ 執行→修行 身体→身代 直→素直 刹なし→切なし 先生→前生 撫育→育つ 焼く→焚く・炊く 徒・無直→只 中→宙 挑灯→提灯 突く→搗く 殿→天
ナ・ハ行
 中→仲 詠む→眺む 啼く→泣く 抛ぐ→投ぐ 悪む→憎む 廿→二十 袒く→働く 咄→話 独り→一人 隙→暇 二たび・二度→再び 不便→不憫 讃む→褒む
マ・ヤ・ラ・ワ行
 見世→店 村→叢 順る→巡る 本→元 檰→木綿 艶し→優し 弥郎→野郎 娌・娵→嫁

上記以外(篇毎 登場順)
 目次 㓟ぐ→剥ぐ 改ふ→変ふ 南良→奈良
 序 笋→筍
 1-1 気色→景色 年→歳 友→共 鑿る→掘る 真那板→俎板 井楼→蒸籠 湧かす→沸かす 奇→綺 大臣→大尽 入る→要る 旁々→方々 素湯→白湯
 1-2 角→隅 猛し→逞し 卜む→占む 聚む→集む 相坂→逢坂 暗む→眩む
 1-3 懐し→可愛し 午角→互角 昵み→馴染 疾む→病む 替はる→変はる
 1-4 形気→気質 匕→跳ね 基→元手 何某→何がし 設く→儲く 可惜し→可笑し 憔がる→焦がる 競ぶ→並ぶ
 2-1 鏐→黄金 穽る→掘る 翁→長 蚤む→速む 軟→柔 取手→捕り手 衢→巷 放す→外す 毀す→崩す 炬→松明 怨→仇 苛責→苛む 舳向→舳先 昼中→白昼 手便→手立て 野等→野良 詐る→騙る 伝受→伝授 煎る→煮る
 2-2 妻→褄 長卿し→大人し 進らす→参らす 傘→唐傘 縹る→辿る 困し→苦し 棉→綿 謬る→誤る 健→健気
 2-3 蜑→海人 手祐→助かり 鉱→粗金 竭す→尽くす 差→分かち 卅→三十 扱む→酌む 腥し→生臭し 結ぶ→掬ぶ 詫ぶ→侘ぶ 緊し→厳し 釣る→吊る 舳→舳先
 2-4 辱→恥 滅法→滅亡 跡識→跡職 艇→舟 訃音→告ぐ 俤→面影
 3-1 曝す→晒す 算ふ→数ふ 祖母→婆 養介→厄介
 3-2 境→堺 浦山し→羨まし 砲→鋲 直→値 挟気→吝き 心実→真実 虚→空 帰す→返す 食→飯 分野→有様 放埓→暴る
 3-3 琉黄→硫黄 破る→割る 抓む→掴む
 3-4 嶋→縞 偽→嘘 同前→同然 有→或る 打つ→討つ
 4-1 能し→良し 仕形→仕方 嘘く→吹く 念頃→懇ろ 牢人→浪人 夕部→夕
 4-2 猟→漁 懲らす→凝らす 閏纏→寝間着懸く→駆く 両→二人 邪見→邪慳
 4-3 蚊屋→蚊帳 鼻口→嬶 雷神鳴→雷
 4-4 単→一重 勢→背 見とむ→認む
 5-1 子→実 柯→殻 玉→魂 手束→束ぬ 介抱→育む 帯く→履く 懐く→抱く 子→御
 5-2 椙→杉 差す→刺す 白眼→睨む
 5-3 段子→緞子
 5-4 付く→着く 脇指→脇差 穢る→汚る 如在→如才 沈む→静む 倡ふ→伴ふ 向ふ→迎ふ 修む→納む 朶→枝

 なお、底本には現代では差別的とされる表現がありますので、その点、ご注意ください。

井原西鶴関係記事 総合インデックス

【本文】

 雪中の筍、八百屋にあり。鯉魚は魚屋の生け船にあり。世に天性の外、祈らずともそれぞれの家業をなし、禄を以て万物を調へ、孝{*1}を尽くせる人、常なり。この常の人稀にして、悪人多し。生きとし生ける輩、孝なる道を知らずんば、天の咎めを遁るべからず。その例は、諸国見聞するに、不孝の輩、眼前にその罪を顕はす。これを梓にちりばめ、孝に{*2}勧むる一助ならんかし。

    貞享二二稔孟陬日

【訳】

 「昔、支那に孟宗といふ孝子があつて、親のために、雪の積もつてゐる藪に筍を求め得た。」と伝へるが、今日は、筍は八百屋にあつて、たやすく求める事ができ、又、「同じく王祥といふ孝子は、親のために、氷の張り詰めた河に鯉魚を得た。」と言ふが、今の世には、魚屋の生簀に生かしたものがあつて、いつでも鯉は求める事ができる。自然の道理に外れた事を願はずとも、各自の家業に励み、その利得を以て、あらゆるものを求め調へ、人の教への道を尽くして行くのが、今の世の人の常道である。この常道を勤むる人すら稀で、悪人が多い。生きとし生ける人間は、孝道を知らなければ、天の咎めを蒙るものである。その例は、諸国を見聞して見ると、不孝の輩がその罪を顕はしてゐる話が、眼前に沢山ある。これらの話を綴つて、版木に刻して世に出版する。これ、孝を世に勧むるの一助となるであらう。
    貞享四年正月

【釈】

(全文につきて)文章、その意を尽くしてゐないところがある。無理な省略を補つて訳しておいた。

校訂者註
 1:底本は、「教」。『本朝二十不孝』(1993)語釈に従い改めた。
 2:底本は、「孝をすゝむる」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。

今の都も世は借り物

【本文】

 世に身過ぎは様々なり。今の都を清水の西門より眺め廻せば、立ち続きたる軒端の内蔵の景色、朝日に映りて、夏ながら「雪の曙か。」と思はれ、豊かなる御代の例、松に音なく、千歳鳥は雲に遊びし。限りもなく打ち開き、九万八千軒と言へる家数は、信長時代の事なり。今は、土手の竹薮も洛中に成りぬ。それぞれの家職して、朝夕の煙立てける。「千軒あれば、共過ぎ。」と言へるに、ここにて何をしたればとて、渡り兼ぬべきか。
 五條の橋、弁慶が七つ道具の紙幟を年中書ける人もあり。又、子を思ふ夜の道、手を打ち振つて当てどなしに、「疳の虫を指先から掘り出します。」と言ふもあり。鉋を持ちて、俎板しらげに廻る。大小に限らず三文づつなり。念仏講の貸し盛り物、三具に敲き鉦を添へて、一夜を十二文。産屋の倚り懸かり台、大枕まで揃へ、七夜の内を七分。餅搗き頃の蒸籠、昼は三分、夜は二分。薬鍋一七日十文。大溝の掃除、熊手、竹箒、塵籠まで持ち来り、一間を一文づつ。木鋏かたげて、立木に依らず、作るを五分、継ぎ木一枝を一分づつ。一時大工六分。行水の湯沸かして一荷を六文。夏中の貸し簾。世智かしこき人の心、見え透きて、始末を所帯の大事と言へり。只居なく手足動かせば、人並に世は渡るべし。
 ここに、新町通四條下る所に、格子作りの綺麗なる門口に、丸に三つ蔦の暖簾かけて、五人口を親にかかりの様にゆるりと暮らしぬ。知らぬ人は、「医者か。」と思ふべし。長崎屋伝九郎とて、京中の悪所銀を借り出す男なり。騙り半分。」とも言ふに、これは、元日から人の寄る年を、「若うならしやりました。」と嘘をつき初めて、大晦日まで一つもまことはなかりき。されども、さし詰まりたる時、人のためにもなる者なり。
 又、室町三條のほとりに、隠れもなき歴々の子に、替名は篠六と言ふ人、いかに若ければとて、七年この方に、請け取りし金銀を若女二つに費やし、隠居の貯へあるに極まりし分限なれども、ままならず。俄に浮世もやめ難く、手筋聞き出し、長崎屋伝九郎を頼み、死に一倍の借り金千両才覚させけるに、都は広し、これに貸す人もありて、借り手の年の程を見に遣はしける。篠六、美男を俄に逆贅にして、身を見苦しうなし、今年二十六なるを、「三十一になります。」と、知れてある年をまざまざと五つ隠されし。世上の習ひにて、年若に言ふを悦びしに、さりとては不思議晴れざりし。銀貸す人の手代、つくづく見定め、「御歳は幾つにもせよ、こなたの御親父なれば、いまだ五十の前後なるべし。」と言へば、「私は、年寄られましての子なり。もはや親仁は七十に程近し。」と言ふ。
 手代合点せず、「この中も見ますれば、店に御腰を掛けられ、根芋を値切り給ふ言葉つき。大風の朝、散り行く屋根板を拾はせらるる心遣ひ。あれならば、御養生残る所あるまじ。まだ十年や十五年に灰寄せは成るまじ。死に一倍は貸されまじき。」と言ふ。「それは大きに思し召しの違うた事。持病に目まひ、殊に次第肥りは中風下地。長うとつて五年か三年、外に仕舞うてやる思案もあり。是非に貸して給はれ。」と言ふ時、諸々の末社、口を揃へ、「我々が思ひ入れにて、長うはあるまじ。これに相詰めし者どもは、あの親仁様の葬礼を頼みに、この大尽に御奉公申せば、時節を待たず、埒の明けさしましやう御座る。」と言ふ。「さもあらば、手形の下書。」と言ひ捨てて帰る。
 そもそも死に一倍、金子千両借りて、その親相果つると、三日が内にても二千両にて返すなり。手形は二千両の預かりにして、小判一両月一匁の算用に、一年の利金ばかり、かしらに取るなり。千両の二百両引きて、八百両にて渡しける。
 この内、借り次ぎの長崎屋、世並にて百両取つてしめ、手代への礼とて二十両取られ、相判に家屋敷のある人頼みしに、この二人に判代とて利なしに二百両借られ、「この程、この事に入用銀。」とて取られ、「この座に居賃。」と言ふ人もあり。「大分事首尾して、御祝ひ。」と貰はれ、はらりと切りほどきて千両の物を、手取りは四百六十五両残りしを、あまたの太鼓持、勇めて、「これはめでたし。大尽御立ち。」とすぐに御供申し、四條の色宿にて硯紙取り出し、払ひ方の覚え書き、久しく埋もれたる揚屋の届け、野郎の花代、茶屋の捌き。「大尽の御意にて、二階の天井仕りました。万事の払ひ、十両までは要らず。」と、遣ひ日記を御目にかくる。二、三年以前に、旅芝居の時損した事申すやら、覚えもなき奉加帳に取り出し、無縁法界六親眷属までに書き立てられ、悲しや。この金、物の見事に皆になし、一両三歩残りしを、「さもしや。方々、大臣に金子など持たしますは。」と、取つてからりと銭箱に投げ入れられ、うかうかと酒になる時、「あの夢のさめぬ内に。」と一人一人立ち退き、残る者とて、内よりつきし六尺一人。「御宿の戸を閉め時。」と連れまして帰りける。
 いよいよ親仁の無事を歎き、江州多賀大明神に参り、親の命を短く祈れど、何をか聞きし、この神は寿命神なれば、なほ長生きを恨み、諸神諸仏を叩き廻し、「七日が内に」と調伏すれば、願ひに任せ、親仁、目まひ心にて、各々走けつけしに、篠六、嬉しき片手に、年頃拵へ置きし毒薬取り出し、「これ、気付けあり。」と白湯取り寄せ、噛み砕き、覚えず毒の試みして、忽ち空しくなりぬ。様々口を開かすに甲斐なく、酬い、立ち所を去らず、見出す眼に血筋引き、髪縮み上がり、身体、常見し五つ嵩ほどに成りて、人々、奇異の思ひをなしける。
 その後、親仁は諸息通ひ出、子は先立ちけるを知らで、これを歎き給へり。欲に目の見えぬ金の貸し手は、今思ひ当たるべし。

【訳】

 世間に、糊口の道は沢山ある。今の京都の町を、東山清水寺の西の門から眺め廻して見ると、立ち続いてゐる家々の内蔵の景色の見事さ。朝日の映じた白壁の色は、時節は夏であつても、「雪降り積もつた冬の曙か。」と思はれる。今の治世のためしとて、松吹く風の音もせず、鶴は雲居の空に舞ひ遊んでゐる。果てもなく四方に開いて繁昌してゐる町の家数の多さ。「九万八千軒ある。」と言つたのは、過ぎし織田信長時代の事であるから、今日の京都は、それよりは遥か多くなつてゐる事であらう。昔は土手で、竹藪のあつた所も、今は京の町続きになつてゐる。ここに住むおびただしい人々は、皆それぞれに職業を持つてゐて、それで生活を営んでゐる。「千軒あれば共過ぎ。」と諺に言ふ程だから、この京ならば、いかなる仕事をしても、糊口に窮する事のあらうか。五條の橋の上で、弁慶が七つ道具を背負つて牛若丸と戦つてゐる、同じ絵の五月の紙幟を一年中書いて、それで生活を立ててゐる人もあり、又、「子を思ふ夜の鶴。」といふ諺の親心を汲んで、夜道を手ぶらで歩きながら、当てども無くぶらついて、「疳の虫を小児の指の先から掘り出します。」と触れて、小児の疳を癒して商売にする人もある。鉋を持つて俎板削りをして廻り、一枚削つて三文の工銭を得て、糊口をする者もある。念仏講中の講の際に、仏前に供へる御盛り物の菓子、それに花瓶、燭台、香炉、外に敲き鉦まで添へて貸し付け、一夜の損料十二文を取る商売もあり、産室に用ゐる寄りかかり台、それに産婦用の大枕まで添へて貸し、七夜までの損料、銀七分取る商売もある。餅搗く時分に蒸籠を貸して、昼間は銀三分、夜間は二分と定めて、損料を取る人もある。病人の有る家に薬鍋を貸して、七日間の損料十文取る人もある。「大どぶの掃除をする。」と言つて、熊手、竹箒、ごみ取りまで持参して、それで溝一間につき、一文づつの賃銭を取る者もある。木鋏をかたげて廻り歩き、立木の種類に関はらず、何の木でも一本作つて五分、接ぎ木ならば一本に一分づつ、賃銭取る植木屋もある。又、一時雇ひの大工で、手間代六分取る者もある。行水の湯を沸かして、一荷六文づつに売る者もある。ひと夏、簾を貸して、賃銭取る人もある。いかにも当世の世智賢い人達の心が見え透いてゐる。これ程であるから、節倹は、世帯持つ者の大切な事である。いたづらに遊んでゐる事なく、手足を動かして働きさへすれば、人並の暮らしはできるであらう。
 ここに、新町通り四條下る所に、格子造りの綺麗な家の門口に、丸に三蔦の紋をつけた暖簾をかけて、五人家族の暮らしを親の仕送りでしてゐるやうに見えて、不足なく暮らしてゐた。その職業を知らない人は、外観だけから、「医者か。」と思ふであらう。この家の主人は長崎屋伝九郎と言つて、京都中の遊蕩者のために、遊蕩費を借り出す周旋を業とする男である。「騙り半分。」とも諺に言ふが、この男は、元日から老ける年齢を、「御若う御成りになりました。」と、世間並みの嘘の挨拶を言ふのを初めとして、大晦日まで一年中、嘘ばかり言つて、まことを言ふ事はなかつた。それでも、金銀に手詰まつた人のためにも成る者である。
 又、室町三條辺に、有名な金満家の子に、変名を篠六と言つてゐる人が居た。いかに年の若い無分別時代の事と言つても、七年の間に親から譲り受けた金銀を、男色女色の色遊びに悉く消費してしまつた。猶、隠居の親父の貯へてゐる多額の財産の、有るに相違ない身代であるけれども、それは、思ふやうにはならない。さうかと言つて、急に道楽をやめる事もできないので、縁故を聞き出し、それを辿つて、長崎屋伝九郎といふ男を頼み、死に一倍といふ條件で、金千両借り入れの工面をさせた。ところが、京都は広い所で、かういふ條件でも、「貸さう。」と言ふ人があつて、手代を篠六の年齢調べに遣はした。
 篠六は、元来美男子に生まれついてゐたが、俄に髪は逆鬢にして、容姿を見苦しくし、今年二十六歳になるのに、「三十一歳になる。」と、知れてゐる歳をまざまざと、五つも多く言つて騙した。一体、世間では、少しでも歳は若く言ふのを好むのに、篠六が五つも多く言つたのは怪しむべき事で、この疑問は晴れなかつた。「金銀を貸さう。」と言ふ人の手代が、つくづくと篠六の顔を見て、「御歳は幾つにしても、あなたの御親父ですから、まだ五十歳前後でございませう。」と言ふと篠六は、「私は、年寄られてから生まれた子供でございます。親父はもう、七十に間もなうございます。」と言つた。
 手代はそれでも承知せず、「この間も、御見受け致しますと、御店に腰を御掛けなされて、根芋を値切つていらつしやつた御言葉付きと言ひ、大風の吹いた朝、落ち散つた屋根の板切れを拾つていらつしやつた御心遣ひと言ひ、あの御様子ならば、平素の御養生も残るところなく、行き届いていらつしやいませう。まだ十年や十五年は、御命に別條はございますまい。死に一倍の條件では、御貸しするわけには参りますまい。」と言つた。篠六、「それは、大きに御見込みが違つてゐます。持病に目まひの病気がございます。殊に、年寄つて次第太りに太られますが、これは、中風に罹る前兆と申します。ですから、長く見積もつても、これから五年か三年の命でございませう。又、外に片付けてしまふ工夫もあります。是非、どうか貸して下さい。」と言ふ時、多くの幇間達も口を揃へて、「私どもの執念で、とても長生きはできますまい。ここに詰めて居ります私どもは、あの親父様の御葬式を当てにして、この大尽に御奉公を致して居る者でございますから、御定命の尽きる時を待たず、早く往生なさるやうに、しやうもございます。」と言ふ。「それならば、手形の下書を持参致しませう。」と言ひ捨てて、手代は帰つて行つた。
 そもそも、この「死に一倍」といふ條件の借金法は、「(まだ親がかり、部屋住みの者が、親に隠して)金子を千両借り、その條件として、借主の親が死んだら、三日の間に元金を二倍の二千両にして返済をする。」といふのである。証文の面は「金二千両の預かり。」といふ事にし、利子は、元金の小判一両に対して、月銀一匁を付する計算で、初年の利息金ばかりは、契約の当初に(天引きにして)貸主が取るのである。それで、千両の中から二百両を引いて、残額八百両として渡した。
 この八百両の中から、中間に立つた周旋屋の長崎屋が、「世間普通の習ひだから。」と言つて、周旋料百両を取つてせしめた。又、貸主の手代への謝礼として、二十両取られた。保証人に家屋敷を持つてゐる人を頼んだので、その保証料として、利息なしに二百両借りられた。この外に、この件に関する費用として引き去られ、又、「その座に居合はせた人達の立ち会ひ賃。」として要求する向きもあり、「切角、多額の借金に成功した御祝ひだ。」と言つては貰はれ、千両の包みをはらりと切りほどいて、その千両の内、篠六に手に入つたものは、たつた四百六十五両しか残らなかつた。それを又、多くの幇間がおだてて、「これは、めでたい事だ。さあ大尽、御立ちなされませ。」と、すぐに色茶屋へ案内した。
 さて、四條の色宿では、硯箱を取り出して、支払ひの方の覚書を作つて、一々支払ひをした。まづ、久しく未払ひになつてゐた揚屋の支払ひ金。野郎役者の花代、御茶代の支払ひ。かつてこの茶屋で、大尽篠六の言ひ付けで、二階の天井の造作をした時の諸事の支払ひ。「十両まではかかりませんでした。」と、その時の入費の日記帳を出して見せた。二、三年前に、芝居の旅興行に出た時の損した事を言ひ出して無心を言ひ、かつて覚えもない奉加帳を出して寄付金を乞ふやら、自分とは全然縁故もない者どもにまで、何やかやと書き立て請求されたので、悲しや、切角借りた金も見事に皆無になつてしまつた。僅かに残つた一両三分は、幇間等が、「少額ではあるし、かたがた又、大尽様に御金を持たせますのは、さもしい。見苦しい。」と言つて、その一両三分は、取つて銭箱の中に投げ入れてしまつた。うかうかと金銀は失くして、さて酒の席となる時分になると、「先刻の良い夢のさめない内に、御暇申さう。」と、既に篠六を見限つた幇間等は、一人一人逃げるやうに退散してしまつた。残る者は、邸から連れて来た駕籠舁一人であつた。この駕籠舁も、「もう御宅では、戸を閉める時分でございます。」と言つて、篠六を促して連れて帰つた。
 いよいよ親父は壮健であるので、それを歎いて、近江国にある多賀大明神に、「親父の命を縮めて給はれ。」と祈つたけれど、この神様は、長寿を司る神様であるから、いよいよ親父は長生きをされるので、それを恨めしく思つて、所々の諸神諸仏に参詣し廻つて、「どうか親父の命を七日の内に取つて下さい。」と調伏の祈りをすると、その願ひが叶ひ、親父は目まひを起こされた。家々の人達が駆けつけて行つたので、篠六は嬉しく思ふ一方には、「かねての計画を実行しよう。」と、片手に年頃作つて持つてゐた毒薬を取り出して持ち、「ここに気付け薬があります。」と、白湯を取り寄せて、自分の口に入れて、これを噛み砕いて飲ませようとして、知らず知らず飲み下して、毒薬の試しをして、一瞬の間に死んでしまつた。家の人達が驚いて、色々して篠六の口を開かせようとしたが、とうとうその甲斐なく、親不孝の報いで、天罰たちどころに到り、眼は塞がらず、しかも血の筋が引いて赤くなり、髪の毛は縮み上がり、胴体は平常の五倍にも膨れ上がつた。これを見て、人々は不思議がつた。その後、親父は呼吸の息が出て、快癒された。その子が自分に先立つて死んだ理由は知らないで、その死を歎かれた。
 欲に耽つて盲目的となり、この息子に金銀を貸した貸主は、今こそかかる親不孝に金を貸した非に思ひ当たつて、後悔するであらう。

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大節季にない袖の雨

【本文】

 桃は必ず貧家に植ゑて、花の盛り。山城の伏見の里、墨染といふ所に、昔は桜咲きて、都の人をもここに招きて入り日を惜しませ、上戸は殊更、下戸の目にさへ、行く春の名残酒。毎日、見る人こそ替はれ、この一木の蔭にて呑み懸け、間も無きしたみ、露より軽き事なれども、積もれば真砂の下行く川と成り、この根ざしに流れ込み、あたら桜は枯れて、名のみ残りて、墨染の水と言ふは、その庭にありて、秀吉公の御茶の水とも成れり。今はその時に変はりて、京街道の辻井戸と成り、町作りも次第に淋しく成りぬ。
 この辺り、荒れたる宿に住みなして、火桶の文助と言へる男、世を渡る業とて竹箒の細工騒がしく、風の朝夕も身を凌ぐ衣もなく、霜夜を埋み火に命を繋げば、彼が有る名は呼ばず、「火桶、火桶。」と呼びぬ。悲しや、年の暮も餅搗かず、松立てず。箒で掃きたるやうに薪棚絶えて、米櫃にいかな事、何にもなく、世に有る人の絹配り、丹後鰤の肴掛を羨み、夫婦こそは老いの浪、かかる憂き事も是非なし。せめて子どもが正月に太箸取らぬも、情けなし。身過ぎの常に定めなきこそうたてけれ。
 数年、この里に早桃と言ふを作りなし、梢の春より初秋を待ち兼ね、色もつかぬを枝に見て、京なる日暮らしの八百屋に遣はし、売り銭、大分に徳を得て、この幾年か、大晦日心安く越ししに、八月二十三日の大風。「諸木、根をうち返し、殊に年切れして世間並。」とは言ひながら、すぐれて我ばかり悲しく、板庇も榑止めのみ残りて、その後の時雨には、不思議に売り残せし長持の蓋開けて、親子五人、これに蹲りて、片隅に木枕をかい詰めにして、息出しの不自由さ。浮世の闇に迷ひ、「可笑しからぬ命。」と悔やむに甲斐ぞなき。我が家ながら、売るに買ひ手なく、さながら四間口、人に只も遣られず。「樽代に五十目か三十目おこせば、遣るに。この家も、京橋の舟の乗り場なれば、捨てても六貫目がものはあるに。十八町の違ひ格別。」と所を悔やみ、身を恨み過ぎにして、行く末を思ひ巡らし、「御上洛の有る事もがな。松は永代、この家退くまじき。」と我を出しける。
 この者、三人の子を持つ。惣領は文太左衛門とて、今年二十七になりぬ。しかも、すまた切れ上がりて大男。生まれ付きての頬髭、眼光りて、不断笑へる顔つき、余の人の喧嘩の時より怖ろし。しかも逞しければ、肩の上の働きしても、二親過ぐし兼ぬべきにあらず。形に人恐れければ、博奕の場ににじり込みて、にぢを言うても、口過ぎなるまじき身体にあらず。
 この男、大悪人。十六の夏の夜、妹にあふがせしに、いまだ七歳なれば、手先に力なくて、「団扇の風も、まだるき。」とて、首筋、逆手に取つて投げしに、庭なる石臼の上にあらけなく当たりて、息絶え、脈に頼みなく、当座に露と消えしを、母親歎くに限りなく、その死骸に取りつき、「身も果てん。」と思ひ極めしに、その妹、五つになりしが、童心にも袖にすがり泣き出すに、不憫まさり、前後を見合はす内に、近所の人、「いかに。」と間ひ寄るにぞ、気を取り直し、「時節の怪我なれば、是非なし。」と野辺の送りを急ぎ、その後は隠し済ましぬ。
 又、二十七の年、主ある人を横に、車道竹田の里に毎夜通ひしを、母聞き付けて、「命の程も。」と異見するに、或る暁方に帰りて、蹴立てけるに、母はそれより腰抜け、立居も心に任せず、空しく年ふりしに、妹娘、大人しくなり、湯茶をも汲みて孝を尽くしぬ。父親に世を稼がせ、己は楽寝して、朝顔の花、遂に見た事なく、「親仁、世は露の命。」とねめ廻して、「天命知らず。」と人皆、指を指せど、深く憎めど、ままならず。因果は親子の仲、これにも同じ家に置きて、「ない物食はう。」と言ひたい儘に月日を重ね、今といふ今さし詰まりて、一日を暮らし兼ね、水を湯になす生柴もなかりき。同じ枕に最後を極めぬ。
 かかる時にも、母親、娘を悲しみ、人置の嚊を招き、内証を語り、「これが命を助け、問屋町のよろしき方へ奉公に」頼みければ、人置も袖を絞り、「十分一は取らずに済まし申すべき。」と連れ行くに、足立たずして、やうやう負うて行くにぞ涙なる。智恵はあれども小さくして、銀貸す旦那なければ、「我ばかり身を助かりて、詮なし。」と又、親元へ帰り、かの嚊にささやきしは、「みづから賤しき形ながら、それぞれの勤めもあれば、傾城屋に身を売る事は。」と言ふにぞ、心ざし優しく、「いづれの道にも親達のためなれば。」とて、嶋原の一文字屋とかやへ連れ行きしに、子細を聞きて、情けをかけ、「女は、さもなけれど、その心根、末々頼もし。」と金子二十両、定めの年季にして貸しける。
 伏見に帰り、この金、親に渡せば、「世は類はあれども、子に身を売らせ、その金にて年とる事は。」と歎くを、人置、色々諌めて戻りし。後にて、子ながら思ひ入れを嬉しく、明くれば十二月二十九日、よろづの買ひ物、心当てしけるに、この事を聞き付け、商人の習ひなれば、米屋よりは一俵、庭に運ぶ。味噌、塩、酒屋より持ちかけ、久しく音信不通の肴屋も、「御用はなきか。」と尋ね来り、少しの内に、「銀ほど自由なる物は無し。」と喜びしその夜、惣領の文太左衛門、二十両の金子を盗み出し、行き方知れずなりにき。程なく明けて大年なれど、この仕合せなれば、買ひ懸かり済ますべきやうもなく、皆々取り返されて、又、夢の間の昔になりぬ。
 今は是非なく、夫婦、宿を忍び出、又の世の道しるべ、六地蔵のほとりに行きて、高泉和尚の寺近き野原に座を占めて、「遠くは過去慳貪の果なる事を思ひ、近くは求不得苦を観じ、当来を祈らんには。」と仏名繰り返し、舌喰ひ切りて、骸は山犬の物とぞなりける。諸人、文太左衛門を憎み、「この行方、東の方なるべし。逢坂の関を赦すな。」と追つかけしに、粟津の松原より空しく帰りぬ。
 知らぬ事とて是非もなし。文太左衛門は、手近なる撞木町に忍び入りて、正月買ひと浮かれ出し、あまた女郎を集め、七草の日まで一歩残らず蒔き散らして、不首尾顕はれ渡り、宇治の里に立ち退きしが、かの二人の親の最後所になりて、足すくみ、様々身を悶えしに、眼眩みて倒れしに、二親の亡骸を喰ひし狼、又出て、夜もすがら嬲り喰ひ、大方ならぬ憂き目を見せて、その骨の節々までを、あまたの狼くはへて、狼谷の街道ばたに又、人形を並べ置きて、文太左衛門が恥を晒させける。
 世にかかる不孝の者、例なき物語。恐ろしや、忽ちに天、これを罰し給ふ。慎むべし、慎むべし。

【訳】

 桃といふ木は、決まつて貧乏な人のうちに植ゑて、春にはその花の盛りを見せるものである。山城の国の伏見といふ里の墨染といふ所に、昔から墨染桜といふ木があつた。昔は、この桜の花時になると、都の人がここまで来て、花を見て楽しみ、日の暮るるを惜しむのであつた。上戸は言ふまでもなく、下戸の目にさへ、行く春の名残りは惜しまれ、この花の下に来て酒を酌む人が、顔は替はつても毎日沢山集まるのであつた。この一本の桜の木蔭にこぼす酒のしみは、一杯一杯の量は露の雫より少量であつても、積もれば砂の下には酒の川をなして、その根元に流れ込むので、惜しや、桜の木は終にそのために枯れてしまひ、その名のみを残す墨染の水といふのがある。その水は、そこの庭内にあつて、豊臣秀吉公の御茶の湯の水となつた。今は、その水も秀吉公の時代と変はつて、京街道の辻井戸となつてしまひ、そこらの町の様子も次第に寂れてしまつた。
 この辺の荒れ果てた家に住んで、世間からは、「火桶の文助」と言はれてゐる男があつた。この男、糊口の業として竹箒を作つて、忙しく日を送つてゐた。風の寒い朝夕にも、その寒さを凌ぐべき衣類も持たず、寒い霜夜を火鉢の火に漸く凌いで、命を繋いでゐたので、付いた名は呼ばれないで、「火桶」「火桶」と世間から呼ばれてゐた。哀れにも、年の暮れになつても、年とりの餅を搗く事もできず、門松立てる事もできず、箒で掃き清めたやうに、薪棚には薪が絶え、まして米櫃には一粒の米もない。世に時めく金持ちの家では、「衣配り」と言つて、多くの衣類を親類などに分配する。丹後の上等の鰤を肴掛に掛けるのを、「羨ましい。」と思つた。夫婦は、もはや年もとつてゐる事だから、かういふ貧乏の辛さを見るのも、「やむを得ない。」と我慢するにしても、せめて子供等に正月の雑煮食べさせる事のできないのは、実に情けない事である。暮らしの安定しないのは、全く厭な事である。
 数年来、この里には「早桃」といふ桃の木を植ゑる事が流行して、春の頃、梢に花を持ち、初秋に至つて実の熟するのを待ち兼ねて、まだ紅く色のつかない実の枝にある時分に、京都のその日暮らしの小さな八百屋に売却して、その売価で大分の利を得て、この幾年間か、大晦日を楽に越す事ができたのに、今年は八月二十三日に大風が吹いて、多くの樹木が根から吹き倒された上に、丁度年切れがして、ちつとも実がつかなかつた。これは、世間一体に受けた不幸ではあつたが、早桃を生活の当てにしてゐた彼にとつては、人一倍に悲しかつた。板葺の庇も榑止めの木材ばかり残つて、板は朽ちてしまつたので、その後、時雨の降る日には、不思議にそれまで売り残してあつた長持の蓋を開けて、親子五人、その中に入つて蹲つて居り、蓋の片隅の所には、枕を突つかひにして、息出しにして置いた。その不自由さ、世の中が真つ暗になつたやうに思はれ、「面白くもない命だ。」と悔やむ心も出たが、悔やんだとて何の甲斐もない。
 我が家だけれど、「売らう。」と思つても、買ひ手無くて自由にならず、四間間口の家を、いかに何でも、「只で人にくれてやる。」といふわけにはいかない。誰か酒代として、五十匁か三十匁よこしたら遣らうのに、それもない。「もし、この家が京橋の舟乗り場にあつたら、捨て売りにしても六貫目の値打ちはあるのに。あそことここと、十八町隔たつてゐるばかりに、大変の相違だ。」と言つて、場所の良くない事を今更悔やみ、我が身の不運を恨み恨みして日を過ごし、又、行く末の事をも思ひ巡らしては、「万一、将軍様が江戸から京都に上つて来られて、再びこの伏見を居城にでもされる事にでもなれば良い。そしたらこの家も、再び値打ちが出て来るであらう。永久にここは去るまい。」と意地になつた。
 この人は、三人の子を持つてゐた。惣領の子は文太左衛門と言つて、今年二十七歳になつた。(年頃も若盛りなる上に、)しかも股から下の長い大男で、生まれついて頬髭があり、眼は光つてゐて、平常の笑つた顔つきも、他の人の喧嘩面よりも恐ろしい。しかも体が逞しいので、天秤棒担いで労働しても、両親を養ふ事のできない男ではない。又、その容貌には人が恐れるので、博奕の場ににじり込んで、ねだり言言つても、商売にならない体つきでない。
 ところがこの男、大悪人で、十六歳の夏の或る夜、妹に団扇で煽がせてゐたが、まだ七歳の年若の事ではあり、その手先に力がなくて、「団扇の風がのろい。」といふので、妹の首筋を逆手に掴んで放り投げた。不幸にも、土間の石臼の上に手荒くぶつかつたので、息は絶え、脈もおぼつかなくなり、その場に儚く死んでしまつた。母親の歎きは限りなく、死骸に取り付いて、「自分も死なう。」と思ひ詰めたところに、その妹娘の五歳になるのが、童心にも察したか、母親の袂に取りすがつて泣き出すので、不憫さまさつて暫し躊躇してゐる内に、近所の人達が、「どうした事か。」と尋ね集まつて来たので、気持ちを取り直して、「物の拍子の間違ひから起こつた事であるから、仕方がない。」といふ事にして、葬式を取り急ぎ、その後は隠して、それきりにした。
 又、二十七歳の年の事である。亭主持ちの女と非道の契りを結んで、車道竹田の里へ毎夜通うてゐるのを、母親が嗅ぎつけて、「命にかかる危険な悪行だ。やめろ。」と異見をされた。それを怒つて、或る暁方に家に帰つて、母親を蹴つた。母親は、それが元で腰抜けになつてしまはれ、起居も不自由の身になつて、何事もせず年を経過して居つた。妹娘が年にませて、湯茶も汲んでやつて、孝行をしてゐた。父親に働かせて、自分は朝寝して、朝顔の花も終に見た事なく、「親父さん。人の命は朝顔の露のやうに儚いものですよ。働いたところで、何の用にも立ちませぬ。」と睨み廻してゐるので、世間の人達は、「天命知らずの極道め。」と指さしして笑へど、又、深く憎めども、思ふやうにはならない。因果な事には、親子の仲であるから、かういふ不孝者でも、同じ家に置いてやらねばならず、しかも倅は、「ないものまで食はう。」と、言ひたいままの我が儘を言つて、月日を重ねてゐる内に、今といふ今は、いよいよ切羽詰まつて、一日をも暮らしかねるやうな貧乏に陥つて、湯を沸かす生な薪すら無い有様であつた。それで夫婦は、「枕を並べて死なう。」と覚悟を決めてゐた。
 かういふ時には、母親は娘の身の上を悲しんで、雇ひ人周旋の嬶を呼んで、家の内情を語り、「どうか、この娘の命を助けて、どこか問屋町の良い家へ、奉公に世話して下さい。」と頼んだところが、嬶も涙に袂を絞つて、「周旋料は頂かずに御世話しませう。」と言つて、娘を連れて行かうとしたが、足が立たないので、漸く肩に担いで行つた。誠に涙ぐましい事である。
 この娘は、随分智恵づいては居れども、なりが小さいので、どこの家でも、「前借りを貸して雇はう。」とは言つてくれないので、「前借りができなければ、自分だけが助かる事になる。それでは仕方がない。」と、再び家に帰つてから、娘は嬶にささやいて言ふには、「私は、かういふ賤しい、みつともない器量ではございますが、遊女の勤めにも、色々の勤めがありますから、どうか遊女屋に、この身を売る事はできますまいか。」と言ふので、心根の優しさに感心して、「どちらにしても、親御達への孝行のためですから、それがよからう。」と言つて、嬶は島原の廓の一文字屋といふ遊女屋へ連れて行つた。遊女屋では、詳しい事情を聞いて同情して、「器量は、さして良くはないが、心根には、行く末頼もしいところがある。」と言つて、金子二十両、定めの年季十年として、前借りさしてくれた。嬶が伏見に帰つて、この二十両を両親に渡すと、両親は、「世間にかういふ例はあるけれども、我が子に身を売らせて、その金で年を送る事は厭だ。」と言つて歎くのを、嬶は色々に諌めて、その金を受け取らせた。
 その後で両親は、我が子ながら、その孝行の心を嬉しく思ひ、一夜明くれば十二月二十九日の事であるから、あれこれと多くの買ひ物の心当てをして居つた。この噂を聞きつけて、商人の常として、米屋から一俵、土間に運んで来る。味噌や塩を酒屋から送り届ける。久しく疎遠になつてゐた魚屋も、「御用はないか。」と御用聞きに来た。「少しの間に、金のあるとないとで、このやうに違ふ。世間に金ほど自由のきくものはない。」と喜んでゐたその晩、惣領の文太左衛門が、この二十両の金子を盗み出して、どこへ行つたか、行方をくらましてしまつた。程なく夜が明けて大晦日となつたが、この有様で、掛売の支払ひする方法もないので、折角持つて来た品物も、取り返されてしまつて、喜びも只一夜の夢となつてしまつた。
 今は何とも仕方がないので、夫婦はひそかに我が家を忍び出て、「死んでから、先の世の道しるべをして下さる。」といふ地蔵菩薩の名にちなむ、六地蔵の辺に行つて、高泉和尚の建てられた仏国寺の近くの野原に坐つて、かかる不幸を見るのも、遠くは過去世に於ける邪慳貪欲の心の応報である事を思ひ、又近くは、この世に於ける求めて得ざる貧の苦を観じて、「未来の救ひを祈るに如くは無い。」と、念仏を繰り返し唱へて、終に舌を食ひ切つて自殺し、死骸は山犬の餌食となつてしまつた。これを見て人々は、文太左衛門の不孝を憎み、「その行方は、きつと東の方に相違ない。逢坂の関を越えさすな。」と、後追つかけたが、とうとう追ひつかず、粟津の松原から引き返して来た。
 知らぬ事とて是非もないが、文太左衛門は、伏見の遊廓、撞木町に忍び込んで、遊女の正月買ひをして浮かれ、多くの遊女を揚げて、七草の日までに一分残さず、二十両を綺麗に撒き散らしてしまつた。ここにも、彼の不都合は顕はれて知られたので、宇治に立ち退いたが、彼の両親の最期を遂げられた所に来かかると、足がすくみて歩かれず、色々に身悶えして、とうとう眼も眩みて、倒れてしまつた。そこに、両親の死骸を食つた狼が出て来て、終夜、文太左衛門を嬲り食ひにして、ひどい苦しい目を見せた後で、その骨々を沢山の狼が口にくはえて、大亀谷の道端に、丁度、人間の形の通りに置き並べて、文太左衛門が恥を晒した。
 かういふ親不孝者の、例のない不孝物語。恐ろしや、天罰はたちどころに至つたのである。慎むべし、慎むべし。

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跡の剥げたる嫁入り長持

【本文】

 婿入り嫁取りに礫を打つ事、狼藉なり。「いかなる故ぞ。」と思ふに、これ、悋気の始めなり。人が良き{*1}事あればとて、脇から腹立ちけるは、無理の世の中の人心。我が子さへ、親のままならず不孝となり、女子、縁付の年の程ありて、人の家に行き、その夫に親しみ、親里を忘れぬ。この風儀、いづくも変はる事なし。
 加賀の城下本町筋に絹問屋左近右衛門と言ふ、所久しき商人、身代不足なく、その身堅固に暮らし、子二人ありしが、屋継は亀丸とて十一歳、姉は小鶴と名付け十四歳なるが、形すぐれて、一国これ沙汰の娘なり。不断も加賀染の模様よく、色を作り、品をやれば、誰が{*2}言ふともなく「美人絹屋」と、門に人立ち絶えず。折節縁付き頃なれば、あなたこなたの所望。この返事、母親も迷惑して申し延べし。手前よろしければ、かねて手道具は高蒔絵に美を尽くし、衣裳は、御法度は表向きは守り、内証は鹿子類様々調へ、京より仕付方の女を呼び寄せ、万事大人しく身を持たせ、「今は誰殿の嫁子にも。恐らくは。」と母親、鼻の高き事、白山の天狗殿も顔を振つて逃げ給ふべし。
 実にや{*3}、娘の親の習ひにて、化物尽くしの話の本の中程に、赤子を頭から噛り喰らふ顔つきなる娘も、花見、紅葉見の先に立てて、搗き臼のありく様なる後ろから、黒骨の扇にてあふぎ行くは、可愛きばかりには{*4}あらず。母の目からは、昔の伊勢、小町、紫の抱へ帯、「前から見ても横から見ても、とりなし良し。」と思ふ、可笑し。これさへかくあれば、左近右衛門娘に衣類、敷銀を付けしは、よい事ばかり揃へて、人の欲しがるも尤もなり。
 この娘の物好みに、「男よく、姑なく、同じ宗の法華にて、綺麗なる商売の家に行く事を。」と言へり。千軒も聞き比べ見定め、願ひの如く呉服屋に遣はしけるに、両方互角の分限。「馬は馬連れ。絹屋、呉服屋、さもあるべし。」と沙汰しけるに、この娘、半年もたたざるにこの男を嫌ひ初め、度々里に帰れば、馴染も薄くなりて、暇の状を遣はしける。間もなくその後へ呼べば、娘も又、菊酒屋とて家名高き所へ嫁入らせけるに{*5}、ここも、「秋口より物かしまし。」とて嫌がれば、「縁なきものよ。」と呼び返しぬ。
 その後、貸し銀して仕舞うた屋へ遣はしけるに、ここも人少なにして算用するうちを嫌ひ、名残惜しがる男を見捨て、恥をも構はず帰るを、親の因果にて捨て難く、三所四所去られ、長持の剥げたるを昔の如く塗り直して、木薬屋に送りけるに、男に子細もなく、身上に言ひ分なければ、暇状取るべき事もならねば、作病にてんかん病み出し、目を見出し、口に泡を吹き、手足震はせければ、これ見て堪忍なり難く、ひそかに戻すを悦び、親には、「先の男に嫌ふ難病あり。」と跡形もなき告げ口。この報い、あるべし。
 程無く振袖似合はず、脇塞ぎてからも二、三度も縁組。十四より嫁入りし初め、二十五まで十八所去られける。「女にも、かかる悪人あるものぞ。」と後に聞き及び、捨て所なく年をふりける。嫁入りの先々にして、子を四人産みしが、皆、女の子なれば、暇に添へられ、これも親に厄介を懸けて育てしに、夕に泣き出し朝に煩ひ、憂き目を見せて、このうるさき事。薬代にて世を渡る医者も、後には見舞はず、死に次第に不憫を重ねける。弟亀丸、女房呼び時なれども、姉が不義故、その相手も無く過ぎぬ。亀丸、是非もなき思ひとなり、二十三歳にて果てぬ。二人の親も、世間を恥ぢて宿に取り籠り、悔やみ死に。さぞ口惜しかるべし。
 その後は一人家に残れど、夫になるべき人もなく、五十余歳まで、有る程を皆になし、親の代に使はれし下男を妻として、所を立ち去り、片里に引き込み、一日暮らしに男は犬を釣り居れば{*6}、己は髪の油を売れど、聞き伝へてこれを買はず。今日を送りかねて、朝の露も咽を通りかね、目前の限りとなりぬ。花に見し形は昔に変はり、野沢の岩根に寄り添ひ、身比羅の如くなりて死にける。
 「惣じて、女の一生に男といふ者、一人の事なるに、その身持悪しく、去られて後夫を求むるなど、末々の女の事なり。人たる人の息女は、嗜むべき第一なり。縁結びて再び帰るは、女の不孝、これより外なし。もし又、夫縁なくて、死後には比丘尼になるべき本意なるに、今時の世上、勝手づくなればとて、心のさもしき事よ。」と、偽りを商売の仲人屋も、これは、まことを語りぬ。

【訳】

 婿入りのある家や、嫁取りのある家には、近所の者どもが小石を放り込む習慣があるが、これは実に乱暴な事である。どうしてかういふ習慣があるかと考へて見るに、これは嫉妬心に原因するものである。他人に良い事があると言つて、それに傍の者が腹を立てるのは、無理な事である。かういふ無理な事の行はれるのが、世の中である。およそ世の中の人の心は、色々なもので、我が子でさへ親の思ふ通りにはならず、成長して不孝者になるものである。又、娘の子は縁付きをする年齢があつて、その年齢になると、他人の家に嫁ぎ、夫に連れ添ふやうになれば、実家の事は忘れてしまふやうになるものである。
 加賀の国の御城下の本通り筋に、絹物問屋の左近右衛門といふ者があつた。この人は、この城下に久しく住んでゐる商人で、身代に何不足なく豊かであり、又その体も壮健に暮らしてゐた。子供が二人あつたが、後継の男児は亀丸と言つて、今年十一歳、その姉の娘の子は小鶴と言つて、今年十四歳であるが、器量優れて、加賀一国に専らの評判の立つた娘である。平常も、加賀染模様の着物を着て、容色を作り、品を作つてゐるので、誰言ふともなくこの家を、「美人絹屋。」と言つて、門口に人立ちが絶えなかつた。丁度、縁付の年頃であるから、あちらこちらから、「貰ひたい。」と所望されるので、その返事には母親も困却して、言ひ延べ言ひ延べしてゐた。家が富裕であるから、かねて支度して置く嫁入道具の、手道具類は高蒔絵の美を尽くしたもので、町人の質素を命じた衣裳法度の趣旨は、表向きだけは守つて、内証では、贅沢な鹿子染の類を様々に調製し、又、京都から女を招いて躾をさせ、万事は大人しく振舞はせて、「今はどんな立派な家の嫁としても、恐らく恥づるところはあるまい。」と母親は鼻を高くした。その鼻には、白山に居るといふ天狗も、頭を振つて三舎を避けるであらう。
 実に、娘持つ親の人情として、化物尽くしの話の書物の中程に載せてある、赤子を頭から齧つて食ふ化物の顔つきした娘でも、花見や紅葉見には、一行の先に立てて歩ませ、臼でも歩いてゐるやうな格好なのに、後ろから黒骨の扇で扇いでやりながら行くのは、娘可愛さばかりから、さうするのではない。母親の眼からは、そんな醜い娘でも、昔の伊勢や小野小町や紫式部のやうな美人に見え、紫色の腰帯したその姿を、前から見ても横から見ても、立派な風采と思ふのである。可笑しなものだ。こんな醜い娘でも、親としてはさうであるから、まして左近右衛門の器量良しの娘には、沢山の衣裳を持たせ、持参金まで付けて嫁に遣るといふので、かう良い事ばかりが揃つてゐる以上、人々の嫁に欲しがるのは、道理千万の事である。
 この娘、望みが高くて、「男ぶり良く、姑が無く、自分と同じ法華宗で、かつ商売も、綺麗な商売をする家に嫁ぎたい。」と言つた。方々、千軒も縁付先を聞き合はせ比べ、いよいよ、「これならば。」といふ家を見定めた上で、望みの通り、呉服屋に嫁がせたところが、両方の家も丁度、互角対等の富裕であつたから、諺に言ふ「馬は馬連れ。」で、「絹屋と呉服屋ならば、丁度似合ひの縁である。」と世間でも噂してゐた。ところがこの娘は、嫁入りしてまだ半年も経たないのに、亭主を嫌ひ出して、度々実家へ帰るので、夫婦の間の親しみも自然薄くなつて、とうとう離縁になつてしまつた。
 間もなく男の方でも、二度目の嫁を呼んだので、娘も又、菊酒屋と言つて、評判の高い酒屋へ嫁入らせた。すると、ここも又、秋の初め頃から、「酒屋は、やかましくて厭だ。」と嫌ひ始めたので、親達も、「縁がないのだらう。」と呼び戻した。その後、金貸しを業としてゐる仕舞うた屋へ嫁に遣つたところが、ここも、「無人で算用ばかりする家は厭だ。」と言ひ出し、名残を惜しんで帰したがらない夫を見捨てて、世間の恥も構はずに、実家に帰つて来た。それでも親たちは、親の因果と見捨てる事もできず、家に入れた。かくして三軒、四軒、嫁入り先から離縁されては帰り帰りするので、長持も漆が剥げた。それを元のやうに塗り直した上で、又も木薬屋へ嫁入らせたところ、別に亭主に何もなく、身代に不足もないので、暇の状を取つて帰る事もできないので、作病して、てんかん病みの真似をして、眼玉を据ゑ、口から泡を吹き、手足を震はせて見せたところ、亭主もこれを見て、これでは我慢ができなくなつて、それとなくひそかに縁を切つて、送り帰した。女はそれを喜び、親達には、「亭主に人の嫌ふ難病がある。」と、全くの作り事を言つた。こんな悪い事をして、報いのない事はあるまい。
 程なく、振袖が似合はない年頃になつたので、着物は脇の下を塞いで大人仕立てにしたが、それからも二、三度も嫁入りして、十四の時から二十五歳までに、十八箇所も嫁入りをしては、離縁された。「女にも、かういふ不都合な者もあるものだ。」と、後では世間でも聞き伝へて、相手にしてくれなくなつて、年齢が老けてしまつた。嫁入りする毎に、先々で産んだ子が四人あつて、皆女の子であつたから、離縁の際に付けられた。それで、子供等までも親に厄介をかけて育ててゐたが、夕方に泣き出し、朝には患ふといふ有様で、憂き目を見せた。そのうるささは、薬代取つて世渡りをする医者も、呼んでもこの家には見舞はないので、命は天に任せておく外なく、いよいよ以て可哀さうであつた。
 弟の亀丸は、妻を娶る年配であつたが、かういふ姉の不都合に、世間で相手になる者もなく、そのままに過ぎてゐた。亀丸は、これを思ひ詰めて、二十三歳で死んだ。両親も、世間を恥ぢて、家にばかり引き籠つて、悔やみ死にに死なれた。さぞ口惜しい事であつたらう。
 女はその後、一人家に残つてゐたが、夫になつてくれる人もなく、五十歳の上までにあつた財産は、悉く使つてなくなし、親の代から使はれた下男を夫に持つて、住所を立ち去つて田舎に引つ込み、その日暮らしに生きて、亭主は犬を釣つて商売にし、自分は髪の油を売つてゐたが、その不埒な身持ちが評判に立つて、誰も買つてくれる者が無く、そのために今日の日を暮らしかねて、朝の露の如く、儚い身となつた。赤貧で、露さへ喉を通す事ができず、命の限りは眼前に迫つて来た。以前、花のやうに見えた容姿も、今は昔に変はつてしまひ、野沢のほとりの岩に寄り添つたまま、木乃伊のやうになつて餓死してしまつた。
 「全体、女といふ者の一生涯には、亭主といふ者は、只一人持つべきものであるのに、この女は、その身持ち悪しく、度々離縁されては、度々後夫を持ち持ちした。かういふ事は、貧乏人の女のする事で、相当な家の娘は、最も嗜むべき事である。一度縁付いて、再び我が家に帰るのは、女として親不孝この上ない事である。もし又、不幸にして夫の縁なくて、死に別れるやうな事でもあれば、尼になるのが女の道であるのに、今時の世の中は、我が身の勝手のいい事ばかりするやうになつて、誠に心のさもしい事ではある。」と、嘘を商売にする媒酌屋が語つた。こればかりは、本当の事を語つたものである。

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校訂者註
 1:底本は、「よい事」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 2:底本は、「誰いふ」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 3:底本は、「実や」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 4:底本は、「懐(かはゆ)きばかりにあらず。」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 5:底本は、「娵(よめ)らせけるに。」。『新編日本古典文学全集67』(1996)に従い改めた。
 6:底本は、「釣をつれば。」。『本朝二十不孝』(1993)本文及び語釈に従い改めた。

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