慰み変へて話の点取り
【本文】
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。何もいらぬ浮世とは思ヘども、一日も喰はねばひだるし。人は盗人、火は焼亡。」と、舞舞ひの又太夫が言葉の末。さる程に、今時の出家気質ほど可笑しきは無し。
智恵才覚には構はず、武士の家にては、弓馬の芸にうとく、又、病者にして勤めの成り難きを勧めて衣を着せ、町人は、算用おろそかに秤目覚えず、日記付けさへ成らざるを、「とても商人には思ひも寄らず。世を楽に墨染になれ。」と、親類了簡の上にて髪をおろさせ、生玉のほとり、高津の宮の片蔭、塩町の裏に合力庵を結び、初めの程は法師珍しく、朝水手向け、夏花摘むなど殊勝に、世間の取り遣りの物前にも、根付にする瓢箪の口を細工にしてゐるなど、「山椒は辛し。昆布出しは甘し。」よろづの精進物を覚え、昔の鰒汁も忘れ果てて、「面白や、この境界。」と思うたばかりにして、又の世の仏の道をも、心の駒の跳ね次第に知らず。衆生を勧める元手もなく、布袋肥えに斎米を費やし、婆婆塞げに今の世に多き者は、供一人連れし医師と道心者。さても坊主がちにぞなりにける。殊更近年、女の墨染も仏の身ならば、彼らが心底を聞きたし。後の世願ふは稀なるべし。
只、夢なれや難波津の大湊、横堀辺りの問丸に塩屋の何がし、年久しく子の無き事を歎きしに、たまたま男子を儲け、花にも月にも眺め、大事に育てし甲斐ありて、十五歳にして脇を塞ぎ、六の年、角を入れて、しかも美男なれば、世の讃め草も靡き、二人の親も我が子自慢して、「この上の富貴に、何にても望みなし。この子が嫁なるべき容儀もがな。」と、やうやう尋ね、堺の大道、由ある人の息女を縁極めして、表屋作りの大普請、万事に清らを尽くし、離れて隠居拵へ、この霜月の吉日を待ちしに、その頃は、話作りて点取りの勝負はやりしに、折節の兼題に、「還り咲きの花の蔭に哀れに可笑しき物。初霜の朝に四人泣くは悲しき物。世の中にあれば厭な物、なければ欲しき物。初め恐ろしく中程は怖く後は好かぬ物。時雨の夜は後先の知れぬ物。」この五つの題を取りて、明け暮れ案じ入り、話程の事ながら心をそれになして、安達が原の鬼とも胸を燃やし、人の物を遣らぬ分別も出、「今も知れず。」と無常を観じ、「今日の首尾。太夫はいかに暮らしけるぞ。」と思ひ、様々に移り気。魂、我ながら定めかね、うつつに枕引き寄せ、寝入りもやらぬ耳近く、十月十五日の暁方に浮世念仏の連れ声。優しく殊勝に思ひ入り、明くるを待ち兼ね、「出家。」の書き置きして難波の寺に入るを、各々、言葉を世にある程尽くし異見を、聞き分けず。国遠して、面影もなかりき。
二人の親、又も{*1}なく泣き焦がれ、五年余りも待つにおとづれ無きを、猶悔やみて思ひ死にの時、「誰に残して。」と、あたら財宝をなくなし、その家名絶えて後は、言ひ出す人もなし。
難波を出て筑紫潟に下り、善導寺に勤めしが、又、心取り乱して、後を顧みず還俗して、上りの舟路にて精進を上げ、昔に帰る家もなく、心当ても大きに違ひ、せめては已前の家来に少しの合力を請けて、堀詰の新道に宿を求め、南京獅子笛の細工。土仏の水遊び、おのづから身削りし。
無用の道心、何の見付け所もなく、尊き事をも弁へず、無我無分別の発心。親に{*2}思はざる外の気を悩ませ、これ、並びなき不孝坊と言へり。
【訳】
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。儚き仮りの世だから何も要らぬと、欲を離れて見ても、一日でも食事をしないと、ひもじくて堪らない。人を見たら盗人と思へ。火を見たら火事と思つて、油断してはならぬ。」と、よく舞舞ひの又太夫が言葉の端に言ふが、誠に油断のならない今の世の人心ではある。
さて、今日の坊主の心根ほど、可笑しいものはない。智恵のあるなしに関はらず、武士の家に生まれて武芸に疎い息子や、又は、病身で武家奉公のできない息子は、側の人々が勧めて、衣を着せて坊主にする。又、町人であると、算盤算用もろくにできず、天秤の秤目を見て金銀を計る方法も知らず、日記帳さへできない息子は、これでは到底、商人にする事は思ひも寄らぬ。「世を楽に暮らすために墨染姿になれ。」と、親類中相談の上で、髪をおろさせて坊主にし、生玉の神社のほとりか、高津の宮の片蔭か、塩町の裏あたりに、家や親類からの仕送りの金銀で暮らしの立つやうに、小さい庵を作つて住み、初めの間は坊主の身の上も面白がり、朝、仏前の水を手向けたり、夏草の花を摘んで供へたりなどして、感心に身を持ち、世間の人の勘定に忙しい物日前でも、のんきに(印籠や煙草入れの)根付にする瓢箪の口の細工をしてゐるやうな有様である。
「山椒は辛い。昆布出汁は甘い。」といふやうな、精進物の味も覚えてしまひ、昔食べた鰒汁の味も忘れ果てて、「坊主の境涯も面白いものだ。」とは思つたばかりで、後世のための仏道の事も、心任せにしてろくろく修行しないので、一向知らない。人々に信仰を勧めるだけの知識も持つてゐない。そして、体だけは布袋様のやうに肥えて、御斎に食べる御米を費やすだけで、世のためにはならず、ほんの娑婆塞げに生きてゐるばかりである。
今の世の中に多い者は、供一人連れて病家を廻る藪医者と、僧侶である。さてさて、坊主頭の者の多い世の中になつたものである。殊に、近年は女の出家が多くなつたが、あれでも仏に仕ふる身と言へるなら、彼らが心の底をよく聞いて見たいものである。後世の事願つてゐる者は、滅多にあるまい。
「津の国の難波の春は夢なれや」と詠まれた、その難波の大湊の横堀辺の問屋に、塩屋の何がしといふ者があつた。久しく子のない事を歎いてゐたが、幸ひに男子を儲けて、花とも月とも愛して大事に育てし甲斐ありて、事なく成長し、十五歳の時、衣裳も脇を詰め、十六歳の時から角前髪にして、しかも美男子であるから、世間の褒めものとなつた。両親は、この子の自慢をして、富貴も何も、この上の望みは持たなかつた。「この子の妻になるべき、相当の器量を持つた娘もがな。」と気をつけて、漸く相応の娘を探し出して、堺の大通りの由緒ある家の娘と縁談を取り決め、婚礼の支度に、母屋の大普請をして善美を尽くし、それと少し離れて自分達の隠居所を造り、その年の霜月の吉日を選んで式を挙げる事にして、待ち暮らしてゐた。
ところが、その頃世間に、小話を作つて点取りの勝負を争ふ遊戯が流行してゐた。時節にかなつた兼題に、「返り咲きの花の蔭に哀れに可笑しき物。」「霜の初朝に四人泣くは悲しき物。」とか、又、「世の中にあれば厭な物で、なければ欲しい物。」「初めは恐ろしく、中程は怖く、後は好かぬ物。」「時雨の夜は後先の知れぬ物。」これらの五つの題を得て、「これについて小話を作らう。」と朝夕、考へに耽るのであつた。つまらぬ遊戯の話作り位の事ではあるが、心をその事に打ち込んでは、安達が原の鬼のやうな心を持つた人達も、その事に専念になり、又、人の物の褒美ではあるが、「人に取らせたくない。」といふ心も出、「人の命の儚き。今に死ぬかも知れぬ。」といふ無常心を起こしたり、「今日の都合はどうだらう。馴染の遊女はどうしてゐるかしら。」と考へたり、話を作らうとするために、色々な考へがそれからそれと、取り留めもなく浮かんで、我が心ながら我と定めかねて、枕を引き寄せてうつつ心になつて、全く眠りもせずに居る耳元近く、十月十五日の夜明け方に、十夜念仏の連れ声が聞こえて来た。すると、塩屋の息子は、優しくも又殊勝にも、深く感ずるところがあつて、夜の明けるのを待ちかねて、「出家をする。」といふ遺書を家に残して、難波の寺に入つてしまつた。人々が言葉を尽くして異見して、決心を翻へさせようとしたが、効き目がなく、遠方に行つてしまつて、行方知れずなつた。
両親は、この上もなく泣き悲しみ慕つて、五年余も帰つて来る日を待つたが、何の音づれもないので、一層悔やみて、思ひ死にに死んでしまつた。死ぬる時、「残すべき子も居ないから。」と、あたら金銀、大切な道具、皆処分してしまひ、その家の名も絶えてしまひ、その後は、世間でこの家の事を言ひ出す者もない。
息子は、大阪を出て九州に下り、善導寺といふ寺に入つて修行してゐたが、又、折角の信心を失つて、後の事も顧みず還俗して、上方に上る旅路につき、その途中、船中で精進上げをしてしまつた。折角大坂に帰つたが、帰るべき家はなくなつてしまつてゐて、大いに心当てが違つた。「せめては。」と、以前我が家に奉公してゐた者どもを頼り、少しばかりの補助を受けて、堀詰の新道に家を求めて住まひ、南京鹿笛を拵へて売つてゐた。「土仏の水遊び。」といふ諺の通り、自分で自分の身を削り細めて、かく零落してしまつた。
無益な道心を起こして、何の悟りを得たでもなく、仏法の有り難い事を知つたでもなく、只無分別心からの発心をして、両親には思ひの外なる心配をかけた。「これは、世に類もない不孝坊主だ。」と世間で噂をした。
校訂者註
1:底本は、「又となく」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
2:底本は、「親も思はざる」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。