江戸期版本を読む

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カテゴリ:井原西鶴 > 校訂評釈本朝二十不孝(1947刊)

慰み変へて話の点取り

【本文】

 「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。何もいらぬ浮世とは思ヘども、一日も喰はねばひだるし。人は盗人、火は焼亡。」と、舞舞ひの又太夫が言葉の末。さる程に、今時の出家気質ほど可笑しきは無し。
 智恵才覚には構はず、武士の家にては、弓馬の芸にうとく、又、病者にして勤めの成り難きを勧めて衣を着せ、町人は、算用おろそかに秤目覚えず、日記付けさへ成らざるを、「とても商人には思ひも寄らず。世を楽に墨染になれ。」と、親類了簡の上にて髪をおろさせ、生玉のほとり、高津の宮の片蔭、塩町の裏に合力庵を結び、初めの程は法師珍しく、朝水手向け、夏花摘むなど殊勝に、世間の取り遣りの物前にも、根付にする瓢箪の口を細工にしてゐるなど、「山椒は辛し。昆布出しは甘し。」よろづの精進物を覚え、昔の鰒汁も忘れ果てて、「面白や、この境界。」と思うたばかりにして、又の世の仏の道をも、心の駒の跳ね次第に知らず。衆生を勧める元手もなく、布袋肥えに斎米を費やし、婆婆塞げに今の世に多き者は、供一人連れし医師と道心者。さても坊主がちにぞなりにける。殊更近年、女の墨染も仏の身ならば、彼らが心底を聞きたし。後の世願ふは稀なるべし。
 只、夢なれや難波津の大湊、横堀辺りの問丸に塩屋の何がし、年久しく子の無き事を歎きしに、たまたま男子を儲け、花にも月にも眺め、大事に育てし甲斐ありて、十五歳にして脇を塞ぎ、六の年、角を入れて、しかも美男なれば、世の讃め草も靡き、二人の親も我が子自慢して、「この上の富貴に、何にても望みなし。この子が嫁なるべき容儀もがな。」と、やうやう尋ね、堺の大道、由ある人の息女を縁極めして、表屋作りの大普請、万事に清らを尽くし、離れて隠居拵へ、この霜月の吉日を待ちしに、その頃は、話作りて点取りの勝負はやりしに、折節の兼題に、「還り咲きの花の蔭に哀れに可笑しき物。初霜の朝に四人泣くは悲しき物。世の中にあれば厭な物、なければ欲しき物。初め恐ろしく中程は怖く後は好かぬ物。時雨の夜は後先の知れぬ物。」この五つの題を取りて、明け暮れ案じ入り、話程の事ながら心をそれになして、安達が原の鬼とも胸を燃やし、人の物を遣らぬ分別も出、「今も知れず。」と無常を観じ、「今日の首尾。太夫はいかに暮らしけるぞ。」と思ひ、様々に移り気。魂、我ながら定めかね、うつつに枕引き寄せ、寝入りもやらぬ耳近く、十月十五日の暁方に浮世念仏の連れ声。優しく殊勝に思ひ入り、明くるを待ち兼ね、「出家。」の書き置きして難波の寺に入るを、各々、言葉を世にある程尽くし異見を、聞き分けず。国遠して、面影もなかりき。
 二人の親、又も{*1}なく泣き焦がれ、五年余りも待つにおとづれ無きを、猶悔やみて思ひ死にの時、「誰に残して。」と、あたら財宝をなくなし、その家名絶えて後は、言ひ出す人もなし。
 難波を出て筑紫潟に下り、善導寺に勤めしが、又、心取り乱して、後を顧みず還俗して、上りの舟路にて精進を上げ、昔に帰る家もなく、心当ても大きに違ひ、せめては已前の家来に少しの合力を請けて、堀詰の新道に宿を求め、南京獅子笛の細工。土仏の水遊び、おのづから身削りし。
 無用の道心、何の見付け所もなく、尊き事をも弁へず、無我無分別の発心。親に{*2}思はざる外の気を悩ませ、これ、並びなき不孝坊と言へり。

【訳】

 「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。儚き仮りの世だから何も要らぬと、欲を離れて見ても、一日でも食事をしないと、ひもじくて堪らない。人を見たら盗人と思へ。火を見たら火事と思つて、油断してはならぬ。」と、よく舞舞ひの又太夫が言葉の端に言ふが、誠に油断のならない今の世の人心ではある。
 さて、今日の坊主の心根ほど、可笑しいものはない。智恵のあるなしに関はらず、武士の家に生まれて武芸に疎い息子や、又は、病身で武家奉公のできない息子は、側の人々が勧めて、衣を着せて坊主にする。又、町人であると、算盤算用もろくにできず、天秤の秤目を見て金銀を計る方法も知らず、日記帳さへできない息子は、これでは到底、商人にする事は思ひも寄らぬ。「世を楽に暮らすために墨染姿になれ。」と、親類中相談の上で、髪をおろさせて坊主にし、生玉の神社のほとりか、高津の宮の片蔭か、塩町の裏あたりに、家や親類からの仕送りの金銀で暮らしの立つやうに、小さい庵を作つて住み、初めの間は坊主の身の上も面白がり、朝、仏前の水を手向けたり、夏草の花を摘んで供へたりなどして、感心に身を持ち、世間の人の勘定に忙しい物日前でも、のんきに(印籠や煙草入れの)根付にする瓢箪の口の細工をしてゐるやうな有様である。
 「山椒は辛い。昆布出汁は甘い。」といふやうな、精進物の味も覚えてしまひ、昔食べた鰒汁の味も忘れ果てて、「坊主の境涯も面白いものだ。」とは思つたばかりで、後世のための仏道の事も、心任せにしてろくろく修行しないので、一向知らない。人々に信仰を勧めるだけの知識も持つてゐない。そして、体だけは布袋様のやうに肥えて、御斎に食べる御米を費やすだけで、世のためにはならず、ほんの娑婆塞げに生きてゐるばかりである。
 今の世の中に多い者は、供一人連れて病家を廻る藪医者と、僧侶である。さてさて、坊主頭の者の多い世の中になつたものである。殊に、近年は女の出家が多くなつたが、あれでも仏に仕ふる身と言へるなら、彼らが心の底をよく聞いて見たいものである。後世の事願つてゐる者は、滅多にあるまい。
 「津の国の難波の春は夢なれや」と詠まれた、その難波の大湊の横堀辺の問屋に、塩屋の何がしといふ者があつた。久しく子のない事を歎いてゐたが、幸ひに男子を儲けて、花とも月とも愛して大事に育てし甲斐ありて、事なく成長し、十五歳の時、衣裳も脇を詰め、十六歳の時から角前髪にして、しかも美男子であるから、世間の褒めものとなつた。両親は、この子の自慢をして、富貴も何も、この上の望みは持たなかつた。「この子の妻になるべき、相当の器量を持つた娘もがな。」と気をつけて、漸く相応の娘を探し出して、堺の大通りの由緒ある家の娘と縁談を取り決め、婚礼の支度に、母屋の大普請をして善美を尽くし、それと少し離れて自分達の隠居所を造り、その年の霜月の吉日を選んで式を挙げる事にして、待ち暮らしてゐた。
 ところが、その頃世間に、小話を作つて点取りの勝負を争ふ遊戯が流行してゐた。時節にかなつた兼題に、「返り咲きの花の蔭に哀れに可笑しき物。」「霜の初朝に四人泣くは悲しき物。」とか、又、「世の中にあれば厭な物で、なければ欲しい物。」「初めは恐ろしく、中程は怖く、後は好かぬ物。」「時雨の夜は後先の知れぬ物。」これらの五つの題を得て、「これについて小話を作らう。」と朝夕、考へに耽るのであつた。つまらぬ遊戯の話作り位の事ではあるが、心をその事に打ち込んでは、安達が原の鬼のやうな心を持つた人達も、その事に専念になり、又、人の物の褒美ではあるが、「人に取らせたくない。」といふ心も出、「人の命の儚き。今に死ぬかも知れぬ。」といふ無常心を起こしたり、「今日の都合はどうだらう。馴染の遊女はどうしてゐるかしら。」と考へたり、話を作らうとするために、色々な考へがそれからそれと、取り留めもなく浮かんで、我が心ながら我と定めかねて、枕を引き寄せてうつつ心になつて、全く眠りもせずに居る耳元近く、十月十五日の夜明け方に、十夜念仏の連れ声が聞こえて来た。すると、塩屋の息子は、優しくも又殊勝にも、深く感ずるところがあつて、夜の明けるのを待ちかねて、「出家をする。」といふ遺書を家に残して、難波の寺に入つてしまつた。人々が言葉を尽くして異見して、決心を翻へさせようとしたが、効き目がなく、遠方に行つてしまつて、行方知れずなつた。
 両親は、この上もなく泣き悲しみ慕つて、五年余も帰つて来る日を待つたが、何の音づれもないので、一層悔やみて、思ひ死にに死んでしまつた。死ぬる時、「残すべき子も居ないから。」と、あたら金銀、大切な道具、皆処分してしまひ、その家の名も絶えてしまひ、その後は、世間でこの家の事を言ひ出す者もない。
 息子は、大阪を出て九州に下り、善導寺といふ寺に入つて修行してゐたが、又、折角の信心を失つて、後の事も顧みず還俗して、上方に上る旅路につき、その途中、船中で精進上げをしてしまつた。折角大坂に帰つたが、帰るべき家はなくなつてしまつてゐて、大いに心当てが違つた。「せめては。」と、以前我が家に奉公してゐた者どもを頼り、少しばかりの補助を受けて、堀詰の新道に家を求めて住まひ、南京鹿笛を拵へて売つてゐた。「土仏の水遊び。」といふ諺の通り、自分で自分の身を削り細めて、かく零落してしまつた。
 無益な道心を起こして、何の悟りを得たでもなく、仏法の有り難い事を知つたでもなく、只無分別心からの発心をして、両親には思ひの外なる心配をかけた。「これは、世に類もない不孝坊主だ。」と世間で噂をした。

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校訂者註
 1:底本は、「又となく」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 2:底本は、「親も思はざる」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。

我と身を焦がす釜が淵

【本文】

 黄金の釜の掘り出し、今の世には無かりき。富貴にしても苦あり。貧賤にしても楽しみあり。一切の人間、応ぜぬ分限を願ひ、身を滅ぼす。古例、その数を知らず。
 さざ波や、大津の浦より矢橋に渡す舟長の身は、比叡の山風の灯と危ふく、入相の鐘を聴けば、命の内外の気遣ひ、俄に雲となり雨となる。鏡山も人顔見えず暮れかかり、旅人、心の{*1}急げば、「ここは一勢出し、艪を速めて。」など声々に頼めば、「我、老いの波六十に余れども、今時の若者、拙者が働き、思ひも寄らず。」と諸肌を脱ぎしに、肩先より手首まで切り疵、空き所もなく、枝を深山木の漆の如し。なほ背中に憂き目を見せける。「あれでも死なぬものかな。」と各々横手を打つて、「これは{*2}いかなる故に、かく又、身をあやしめけるぞ。」
 親仁、間はれて涙に袖蓑を浸し、「されば、人間、前生の因果を知らず。某、そもそもは石川五太夫とて、志賀の片里に住みなして、あまたの人馬を抱へ、物作りをして、世の中の秋にあひ、春を送り、しかも一子に五右衛門とて、すぐれたる大力。殊に諸芸に達し、老いの末々頼もしかりしに、己が農作を外に、無用の武芸を嗜み、柔、捕り手を稽古に、闇の夜の巷に出、往来の人を悩ましけるが、後は欲心起こりて、勢田の橋に出て水を呑み、盗跖、長範にまさり、国に盗人の司となり、類に集まる悪人、関寺の番内、坂本の小虎、音羽の石千代、膳所の十六。この四人を始め、その外、鍵外しの長丸、鞴の風之助、穴掘りの団八、縄すべりの猿松、窓くぐりの軽太夫、格子崩しの鉄伝、猫の真似の闇右衛門、隠し松明の千吉、白刃取りの早若。これらをそれぞれの役分して、近在所々に入りて、夜毎に寝耳を驚かし、万人の煩ひとなりぬ。
 「この事、次第につのれば、『天の咎め、世の穿鑿、いかなる憂き目にあひつらん。』と頻りに異見するに、かへつて仇をなし、現在の親に縄をかけ、『それにて思ひ知れ。』と捨て置き、己が宝を己と盗み、眷属召し連れ都の方に{*3}行きける。その後にて、日頃五右衛門に恨み深き狼籍者乱れ入り、『子の代はりに、この親を死なぬ程切れ、切れ。』と、この如く身を苛まれ、これにも惜しきは命。世の業替へて、生死の海の渡し舟。」
 「さりとはさりとは悲しき物語」の内に、舳先、岸に着けば、各々上がり、「かかる悪人もあるものぞ。天竺阿闍世、唐土の悪王にも劣らじ。」と、皆々涙になりて別れし。
 かの五右衛門は、都にて白昼に、鑓を三人、並びの手振りを先に立て、その身は乗り馬、後より挟箱持、沓籠。歴々の待と見せて見分に廻り、大盗みの手立てをして、仲間に子細あれば大仏の鐘を撞きならし、これ相図に集まり、己は六波羅の高薮の内に隠れゐて、「ここ、夜盗の学校。」と定め、命冥加のある盗人に、この一通り指南をさせ、前髪立の野良には巾着切を教へ、大胆者には追剥の働きを習はせ、人体らしき者には騙りの大事を伝へ、里育ちの者には木綿を盗ませ、色々四十八手の伝授を、印可までこの道修行するこそうたてけれ。後は、三百余人の組下、石川が掟を背き、昼夜分かちもなく京都を騒がせ、程なく搦め捕られ、世の見せしめに七條河原に引き出され{*4}、大釜に油を焚き立て、これに親子を入れて煮られにける{*5}。
 その身の熱さを七歳になる子に払ひ、とても遁れぬ今の間なるに、一子を我が下に敷きけるを、見し人笑へば、「不憫さに、最後を急ぐ。」と言へり。「おのれ、その弁へあらば、かくは成るまじ。親に縄かけし酬い、目前の火宅。なほ又の世は火の車、鬼の引き肴になるべし。」と、これを憎まざるは無し。

【訳】

 黄金の釜を掘り出したといふ、支那の二十四孝中の郭巨のやうな孝行者の例は、当世にはない。富貴の者にも苦しみはあり、貧賤の者にも楽しみはある。全ての人間、「自分の身分に不相応な富貴になりたい。」と願ふ、その欲心から、かへつて身を滅ぼす例は、昔から少なくない。
 近江の大津の港から琵琶湖を矢橋に渡す、渡し船の船頭の身の上は、譬へば比叡山風の前に置く灯の如く、いつ消えるかわからぬ、危ふいものである。入相の寺の鐘を聞けば、「今日の命はまづ無事であつたが、明日の命は測り難い。」と心配する。今まで良かつた今日の天気も、俄に雲が出て雨となつて、日も暮れかかれば、鏡山も見えず、人顔も見えぬやうになるので、乗合船の客達は皆心急ぎして、船頭に向つて、「ここは船頭殿、一精出して、艪を速めて漕いで欲しい。」などと頼むと、船頭は、「私も年取つて、既に六十を越えては居れど、今時の若い人は、私程の働きは思ひも寄りません。」と言つて、諸肌脱いだところを見ると、肩先から手首にかけて、切り疵が空き所もないやうに一杯で、譬へば、かの深山にある漆の木の枝のやうであつた。その上に、背中にも又大傷の痕があつた。「あれほど傷を受けても、よくも死なぬものだ。」と乗客一同、横手を打つて感じ、「これは又どうしたわけで、これ程に身を危ふくなされたか。」と問うた。
 問はれて親父は、着てゐた袖蓑を涙に浸しながら答へた。「さて人間といふ者は、前生からどういふ因果の糸を引いて生まれて来るか知らぬが、私は元、石川五太夫と申して、志賀の片ほとりに住んで、幾多の人馬を抱へ持つて農作を致し、秋の収穫を得て春秋を送り、豊かに暮らして居りました。しかも一子の後嗣もあり、五右衛門と申して、人にすぐれた大力者で、殊に諸芸にも上達してゐたので、私も老後を頼もしく存じてゐましたところ、この子は自分の仕事の百姓仕事を嫌つて、農家には無用な武芸を好み、柔や捕つ手の術を稽古して、闇の夜の街頭に出て、往来の人を投げたりなどしていぢめてゐましたが、後は人をいぢめるばかりでなく、欲心を起こして、瀬田の橋に出て、人目を忍んで悪事を働き、盗跖や熊坂長範にもまさる大盗賊と成り、遂に国の盗賊の首領となりました。
 「類を以て集まる悪人どもには、関寺の番内、坂本の小虎、音羽の石千代、膳所の十六の四人を初めとして、その外、鍵外しの長丸、ふいごの風之助、穴掘りの団八、縄滑りの猿松、窓くぐりの軽太夫、格子崩しの鉄伝、猫の真似の闇右衛門、隠し松明の千吉、白刃取りの早若といふやうな手下の者どもに、それぞれの役目をあてがつて、近在所々に押し入りをして、毎夜毎夜、所の人の寝耳を驚かして、多くの人の煩ひとなつてゐました。「かかる悪行が次第に募つたら、終には天の咎めを受け、世間の穿鑿にあつて、いかなる憂き目を見る事ともなるであらう。」と色々に異見をしましたが、その情けを仇にして、真身の親に縄をかけて、「これで思ひ知れ。」と言つて、そのままに捨て置いて、自分の家の財宝を自分で盗み、配下の者どもを連れて、京都の方に行つてしまひました。
 「その後で、かねて五右衛門に怨みを抱いてゐた乱暴者どもが、我が家に乱入して来て、「子の五右衛門の代はりに、この親を死なぬ程度に切つてやれ。」と言つて、かくの如く私の体を切つて苦しめた。かく切り苛まれても、人間にとつて命は大事だから、死にもされず、これまでの生業の農業をやめて、命を的の、海を渡る危険な職の船頭になつた。」と語つた。さてもさても、悲しい話。
 この悲しい話の内に、船が岸に着いたので、乗客達一同、陸上に上がりかかり、「これ程の悪人も、あればあるものだ。天竺の阿闍世太子や、支那の悪王にも劣るまい。」と言つて一同、涙を流して袂を分かつた。
 かの五右衛門は、郷里を去つてから京都に出て、日中は三人の鑓持を先に立て、その後から自分は馬に乗つて行き、又、後には挟箱持、沓籠持を連れて、立派な武士と見せて道を通り、夜盗みに押し入るべき家々を見て廻つた。もし仲間内に何か事でも起これば、大仏の鐘を撞いて、それを合図に集まる事に決めておき、自身は六波羅の竹藪の中を隠れ場所にして、ここを盗人のための学校にして、命の仕合せの良い配下の盗人を教師にして、盗みの術一通りを教授させた。十八、九歳の若い野郎には掏摸の術を教へ、豪胆に生まれついた者には追剥の法を習はせ、真面目さうに見える男には詐欺の手段を伝授し、田舎育ちの者には畑の木綿を盗ませ、かく盗賊の様々の手段の秘奥まで教へて、修行させるのであつた。誠に浅ましい事である。後は、三百余人の配下の者ども、五右衛門の指図に違背して、昼夜の分かちもなく京都中を騒がせ、乱暴を働くので、とうとう五右衛門も、その筋の手に召し捕られ、世間の見せしめに、七條河原に引き出されて、大釜に油をたぎらせた中に五右衛門親子を入れて、煮殺される事になつた。
 この場になつても五右衛門は、我が身の熱さの苦しさを暫くでも逃れようと、その子を我が下敷きにしたのを、見物の人々が嘲笑すると、「我が子の不憫さに、一刻も早く死なさうとするのだ。」と負け惜しみの言ひ訳をした。「自身に子のためを思ふ、さうした親心があつたら、かういふ浅ましい身には成り果てはすまい。親に縄をかけて苦しめた報いとして、すぐに現世に於いて、かく油に煮られる刑になつたのである。なほ来世では地獄に墜ちて、火の車に乗せられ、鬼の食物にもなるだらう。」と言つて、五右衛門を憎まない者はない。

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校訂者註
 1:底本は、「心いそげば」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 2:底本は、「是を」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 3:底本は、「方(かた)にに行ける。」。『本朝二十不孝』(1993)本文及び語釈に従い改めた。
 4:底本は、「搦捕(からめとら)れ。大釜(おほがま)に」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 5:底本は、「煎(にら)れける。」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。

旅行の暮の僧にて候

【本文】

 「雪こんこんや、霰こんこん。」と小褄に溜めて、里の小娘、嵐の松蔭に集まり、脇開けの寒けき事は厭はず、夕暮を惜しむ所へ、熊野参詣の旅僧、山々の難所を越え、漸々麓にさがり、この童子の方に立ち寄り、息も絶え絶えの声して、「人の住みかは、遠いか。」と、足腰ここを立ちかねしを見て、皆々、宿に走りぬ。
 その中に、岩根村の勘太夫が娘、小吟と言へるは、いまだ九歳なりしに大人しく、「今少し行けば、我が方なり。湯をも参らすべし。」と御出家に力を付け、道しるべして宿に帰れば、夫婦立ち出、小吟が心ざしを思ひやり、又、「旅人、哀れ。」と萩柴折り焚き、様々もてなしける。
 法師、くたびれを助けられ、喜び限りなく、心静かに油単包を改め、肩に掛けて、「某、国里は越前福井の者なるが、過ぎし年、二人の親に別れ、それより世を捨て、かく墨染の袖に涙は暫しも干し兼ねて、せめては死に跡の供養に諸国を巡りける身なれば、重ねて又もや。」と手を合はせて拝み、夜を籠めて立ち行く後にて娘、申しけるは、「今の坊様は、風呂敷包の中に小判のかさ高く、革袋に入れさせ給ふを見付けたり。御一人なれば、人の知る事にもあらず。殺して金を取り給へ。」とささやきけるに、思はざる欲心起こり、山刀を差して枕鑓ひつ提げ、後を慕うて追ひかけ行く。
 いまだこの娘、九歳の{*1}分として、かかる事を親に勧めけるは、悪人なり。殊更、熊野の山家なれば、干鯛も木になる物やら、唐傘も何のためになる物をも知らざる所に、小判といふ物見知りけるも不思議なり。
 かの出家、広野に枯れし草分衣の裾高にとりて、霜月十八日の夜の道、宵は月もなく、推量に辿り行くに、脇道より人の足音怪しく、立ち止まりけるに、大男、鑓の鞘外して飛びかかるを、これは悲しく、逃げざまに顧みれば、最前情けに預かりし亭主なり。言葉をかけて、「我、出家の身なれば、命惜しきにあらず。しかれども、何の意趣ありて、かく害し給ふぞ。路銀を取るべき望みあらば、命に替へて惜しまじ。」と小判百両、ありのままに投げ出せば、これを請け取り、「銀が敵となる浮世と思へ。」と脇腹を刺し通せば、苦しき声を上げ、「おのれ、この一念、幾程かあるべし。口惜しや、口惜しや。」と言ふ息の次第に弱り、野沢の汀に倒れしを、押さへて止めを刺し、死骸を浮藻の下に沈め、ひそかに宿に帰れど、世間に知る人もなく、その後は家栄えて、牛も一人して持ち、田畠も求め、綿の花盛り、米の秋、思ふままなる月日を重ね。
 小吟も、十四の春になりて、桜色なる顔を作れば、山里には殊更に目立ち、これを恋ひ忍ぶ人、限りなし。姿の自慢より男撰びして、終に夫を定めず。身をぞんざいに持ちて、浮名の立つ事、うたてし。様々異見するに、かつて親のままにもならず。「この富貴は、自らが智恵付けて、かやうに成りける。」と折々大事を言ひ出し、子ながら持て余しける。或る時、我と男を見立て、「あれならば。」と言ひける程に、「とかくは心任せに。」と人頼みして橋を架け、「世を渡る稼ぎに愚かならぬ婿なり。」と一しほ喜び、契約の酒事まで済みて後、この男の耳の根に、見ゆる程にも無き出来物の跡を嫌ひ、和歌山の伯母の方へ逃げ行きしを、所に置きかね、屋敷方の腰元使に遣はしける。その身いたづらなれば、奥様の手前を憚らず、旦那に戯れを仕かけて、いつとなく我がものになしける。さすが武士の息女なれば、「世にある習ひ。」と知らぬふりし給ひて過ぎぬ。
 小吟、募つてこの恋やめず。家も乱るる程になれば、世上の取り沙汰思し召して、この事、隔てぬ夫婦の仲に語り給へば、旦那、「今までの誤り」、至極の心になりて、それよりこの道堅くやめさせ給ふを、小吟、奥様を深く恨み、或る夜、御番の留守を見合はせ、御寝姿の夢の枕元に立ち寄り、御守刀にして心臓を刺し通しければ、驚き給ひ、「おのれ、遁さじ。」と長刀の鞘外して、広庭まで追ひかけ給ヘども、かねて抜け道拵へおき、行き方知らずなりにき。色々御身を揉み給ヘども、深手なれば弱らせ給ひ、「小吟めを討ち留めよ。」と二声三声目より幽かに、早、命は無かりき。御次に臥したる女ども、事過ぎて起き合はせ、「これは。」と歎くに甲斐なく、小吟が逃げ延びし道筋に追手をかけしに、女には健気に立ち退きし。
 「小吟が出るまでは、その親ども、籠舎。」とありて、憂き目を見せける。いよいよ出ぬに極まり、「霜月十八日に成敗。」と仰せ出されしに、この者預かりし役人、不憫に思ひ、「子故にかくは成り行くなり。臨終を覚悟して、又の世を願へ。」と夜もすがら酒を勧めけるに、この親仁め、機嫌よく、更に歎く気色なし。「外にも、科ありて命をとらるる者、我が悪は言はで歎きしに、汝は、子の代はりにかかる憂き事に。」と言へば、この者、出家を殺せし因果の程を語りて、「七年目に巡り、月も日も明日に当たれり。この筈。」と思ひ定め、観念したる有様。「悪は悪人にして、今この心ざし」を、皆々哀れに感じける。
 とても遁れぬ道を急がせ、首打つての明けの日、親の様子を聞きて、隠れし身を顕はし出けるを、そのままこれも討たれける。「いづくまでか、一度は捜さるる身を隠しぬ。おのれ出れば、仔細なく助かる親を。これ、例も{*2}無き女なり。」と憎まざるはなかりけり。

【訳】

 「雪こんこん、あられこんこん。」と歌ひつれて、この山里の小娘どもが、木枯しの吹く日、松の木蔭に集まつて、降り来る霰を、着た着物の褄を掲げて受け溜めてゐる。脇の下から吹き入れる風の寒さも厭はず、日の暮の早きを惜しんで遊び耽つてゐるところへ、熊野参詣に来た旅の坊さんが、山路の多くの難所を越えて、やうやうこの麓の里に辿り着き、小娘らの居る所に近づいて、息も苦しい絶え絶えの声に、「人の住みかはまだ遠いか。」と尋ねて、足も腰も立ち兼ね、ここを立ち去り兼ねた様子を見て、小娘らは恐れて、その家々に逃げてしまつた。
 その小娘達の中に、岩根村の勘太夫が娘の小吟といふのがあつた。まだ歳は九つに過ぎなかつたが、大層ませてゐて、「今少し行くと、私の家です。御湯でも上げませう。」と言つて、旅僧に力をつけて、道案内して我が家に帰つた。両親が立ち出て、一つには小吟の心を思ひやり、又一つには、旅僧を気の毒に思つて、招き入れて、萩の小枝の薪を折り焚いて、色々ともてなした。旅僧は、旅の疲れを癒す事ができて、喜ぶ事限りなく、心静かに油単包を開いて、旅の具など調べた上、それを肩にかけて、「私は、郷里は福井の者ですが、去年、親に死に別れて、それから世を捨てる心になつて、かやうに墨染の衣を着る身となりましたが、親の亡き後を慕ふ涙は、暫くもやみ難いので、遂に思ひ立ち、せめては親の亡き後の供養のために、諸国巡礼をしてゐる者です。重ねて又御会ひ申す事もありませう。」と言つて、手を合はせて拝み、夜道を行くつもりで、この家を辞して立つて行つた。
 その後で娘が言ふやうには、「今の坊様は、風呂敷包の中に小判といふものを沢山、革の金袋に入れて持つて居られたのを見ました。一人旅の事ですから、誰も知る筈はありません。殺してその金を御盗りなさいよ。」とささやいたので、父親も意外な欲心を起こし、山刀を小脇に差し、枕槍を提げて、旅僧の後を追つて行つた。この娘は、まだ九歳の小娘の分際で、親に対してかくの如き事を勧めたのは、悪人である。殊更に熊野の山家の辺鄙に育つて、干し鯛も木になるものやら何やら知らず、傘も何のために使ふものかも知らないのに、小判といふものを見知つてゐたのも不思議である。
 かの旅僧は、広野の枯れ草を踏み分け、衣の裾を高く絡げて行く。霜月十八日の夜道の事であるから、宵の間は月もないので、暗い野道を心推量に辿り行くと、脇道から人の来る足音がした。「怪し。」と思つて立ち止まると、大の男が槍の鞘を外して飛びかかつて来るので、「これは悲し。」と逃げざまに後ろ振り返ると、先刻もてなしの情けに預かつた家の主人である。それで、言葉をかけて、「愚僧は出家の身の上だから、命を惜しむのではありませんが、しかし、何の遺恨があつて、かく愚僧を殺さうとなされるか承りたい。もし旅費を盗らうといふ御望みなら、愚僧の命と取り替へて差し上げませう。」と言つて、小判百両をそのままにして放り出した。すると大男は、この金を受け取つて、「金が敵となる浮世だと思へ。」と言つて、旅僧の脇腹を槍に刺し通した。旅僧は苦しい声を上げて、「貴様、この怨みの一念、報いる時節も遠くはあるまいぞ。残念だ、残念だ。」と言ふや否や、呼吸も次第に弱り、野沢の水際に倒れてしまつた。大男は、それを押さへて止めを刺し、死骸は野沢の浮藻の下に沈めておいて、ひそかに家に帰つたが、誰も世間にこの事を知る人なく、その後は家も栄えて、耕作の牛も一人で飼養するやうな身分になり、田畠をも買ひ求め、木綿の花盛りを見せ、又、豊穣なる秋の収穫をも得て、思ひ通りの月日を重ね。
 小吟も、十四歳の春を迎へて、美しい顔に化粧するやうになると、山里一郷には格別に目に立つ美人で、恋ひ慕ふ若い男の数へ切れない程であつたが、小吟は、自分の器量自慢して男を選み、とうとう定まつた夫を持たず、引く手あまたに身を任せて、自堕落に身を持ち、悪い評判が立つやうになつたのは、誠に苦々しい事である。親達が、いかに異見を加へても聞かない。そして、「このやうに家が金持ちになつたのも、私が智恵をつけて上げた御蔭だ。」と、時々秘密の大事を口走るので、親も、我が子ながら持て余してゐた。
 或る時、自分に男を見立てて、「あの男ならば、結婚しても良い。」と言つたので、親達は、「かれこれ言はぬ。お前の考へ通りにしたが良い。」と言つて、人を頼んで先方との間に橋渡しをして貰ひ、「渡世の事にも愚かでない婿だ。」と、ひとしほ安心して喜び、いよいよ因みの盃事まで済ませて後、小吟は、亭主の耳の根元に、小さい、目に立つといふ程でもない腫れ物の痕のあるのを嫌ひ、和歌山に居る伯母の元に逃げて行つてしまつたので、郷里には置くわけにいかず、屋敷方に腰元奉公にやつた。浮気性の女だから、奥様の前も憚らず、旦那に色事を仕掛けて、いつとなく旦那を我がものにしてしまつた。奥様は、さすがに武士の娘であつたから、「かうした事は、世間にもある例だ。」と思つて、知らぬふりして、そのままにしておかれた。
 小吟は増長して、このいたづら事をやめず、そのために、この家に一騒ぎ起こる程になつたので、奥様は、「世上の評判となつては、御家の大事。」と思つて、親しい夫婦仲に、この事を言つて諌められると、主人は、「今までの事は、自身の過ち。」と至極後悔して、この事を固く思ひ止まられた。
 それについて、小吟は深く奥様を恨み、主人が御番の勤務に出られた夜、その不在に乗じて、奥様の休んで居られる枕元に近づき、御守刀を取つて、その心臓を刺し通した。奥様は、驚き目覚めて、「おのれ、逃すまい。」と言つて、長刀の鞘を外して、広庭まで追つかけられたが、小吟は、あらかじめ逃げ道を作つておいて、素早く身を隠し、行き方知れずなつてしまつた。奥様は、「追ひ討たう。」と色々身をもがかれたが、深手の事なれば、弱らせられ、「小吟めを討ち留めろ。」と二声三声言はれ、それから声も幽かになつて、間もなく落命してしまはれた。次の間に寝てゐた女達は、小吟が逃げた後で目をさまし、起き出て、「これは大変だ。」と歎いたが、もはや何の甲斐もない。小吟が逃げた道筋に追手をかけたけれども、女としては健気にも、とうとう逃げ延びてしまつた。「小吟が捕まるまでは、その親を獄に入れろ。」とあつて、両親は捕へられて、憂き目を見せられた。
 小吟はいよいよ出ないといふ事になつて、「霜月十八日、両親は死罪。」と御上の命令が出た。そこで、この両親を預かつた役人が、子の身代はりに殺される親達を憐れんで、「お前達は、我が子のためにこんな事になつて、命を失ふのだ。最期の覚悟をして、来世の救ひを仏に願へ。」と言つて、終夜酒を飲ませてやつた。ところがこの親仁め、機嫌よく酒を飲んで、少しも歎く様子がない。「この親仁の外に、罪科のために殺される者を幾らも見たが、それらの人は、自分の罪は棚に上げて、殺される事ばかり歎いたが、お前は子の身代はりにされるのに、一向愚痴を言はないのは、どうしたものだ。」と言ふと、この親父、かつて旅僧を殺したので、自分も殺される事になつた因果応報の理を話して、「その旅僧を殺してから、明日がちょうど七年目。しかも、月も日もそれに相当してゐる。自分が殺されるのは当然の事。」と言つて、よく覚悟を決めてゐる様子である。悪人は悪人に相違ないにして、今はかうした見事な心を持つてゐるのを知つて、一同感心した。そこで、到底免れる事のできない死出の道を急がせて、その首を打つてしまつた。
 するとその翌日、「親が、我が身代はりに討たれた。」と聞いて、小吟は今まで隠れてゐた身を世間に顕はしたので、すぐに捕へて、この女も討たれた。「いづくまで逃げたところで、罪ある者は、一度は捜し出されて討たれるものである。自分さへ出れば、わけなく助かる親達を殺させたのは、これ、世に類のない悪い女である。」と憎まぬ者はなかつた。

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校訂者註
 1:底本は、「九歳(さい)のの分」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 2:底本は、「ためしなき」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。

人は知れぬ国の土仏

【本文】

 御経にも、「命は水上の泡の如し。」とあり。浪は風の立たせ、人は友の騒がしぬ。
 伊勢の国鳥羽といふ大湊に、出崎の藤内とて、貧家に煙を立て、海人の手業の釣針の鍛冶住みしが、藤助と名付けて一人の子を持ち、老いの立ち居の助かり、粗金の槌を打たせ、かかる浮世習ひにて、親は憐み、子は孝を尽くすを道なり。
 この浦辺に近年の出来分限、神部屋と言へる人、仕合丸とて大船を作りて、大廻しの江戸商ひ。この舟の上乗りに若き者の抱へられしに、藤助、家職を捨ててこれを望みしを、二人の親、深く歎き、「身過ぎは様々なり。万里の海上を行く事、一つの命を二つ物がけ。是非に思ひとどまれ。」と、大方ならず旅の名残を惜しみ、死に別るるが如く、涙は目の前の海とも成りぬ。この有様を構はず、「東路見るためなれば、この度ばかり。」と出て行く。
 その後は、風の夕暮、雨の朝を物案じして、諸神に大願、諸仏に歩みを運び、後世を忘れて現世を祈り、我が子の無事願ひしに、明くる年の春の風、舟は異なく湊に着きて、再び顔を見し事、悦びの酒の上に様々の誓言にて、「親たる人の心を背くなれば、重ねては思ひ寄らぬ舟の上。」と言葉にて安堵させしが、心底には中々思ひとどまる事にあらず。
 欲は人の常なり、恋は人の外なり。最前下りし時、伊豆の下田に舟がかりせしに、その苫の屋の女に仮初の誓ひして、古郷の住まひを捨て、各々に暇乞ひなしに、出船あるを幸ひに乗り行く。
 折節は、中の秋空恐ろしく、雲の叢立ちけるが、日和見も定めなく、この舟、沖に出ると、寅の刻より大風吹き暮れ、九日流され、月の光に昼夜の分かちをやうやうに覚え、夢心になつて行く程に、浅瀬に舟底さはると思ふ時、皆々魂を取り直し、目を開きて見しに、国里の草の形はありて、蘆の枯れ葉の芭蕉の如くなる中に、二角、後へ生へる獣。これぞ水牛ならめ。その外、人形ありて羽のある物。声はさながら犬にして、一丈余り、耳の長き物。一つも目馴れず物すごく、近づくに身を縮めける。山も里も見る事絶えて、船中三十二人、男泣きにして暮れぬ。
 米はあれども水を切らし、咽乾けば、伊丹、鴻之池の四斗入を酌み交はし、この中にても酔ひに憂きを忘れ、鹿の巻筆の小歌唄へば、観音経読むもあり。六字南無右衛門節の浄瑠璃を語るもあり。下戸は荷物開けて、旅硯に露を注ぎ、願状を書きぬ。又は{*1}一歩小判を取り出し、「四、五年に折角延ばしける甲斐なし。」と算用してゐるもあり。今果つべきも知らぬ命の内に、「足がさはつた。」と口論をする機嫌もあり。来年の正月の事を言ふもあり。人の心は様々に変はれど、この舟ここを去らぬ難儀、思ひ出せば惣泣きに、哀れは問ふ人もなく、伏し沈みぬ。
 なほ立波荒く、生臭き風吹きて、又この舟を散らし、遥かなる磯辺に着きて、岩組に上がれば、清き流れの幾筋かありて、これを掬び上げ、舟にも貯へをして命を繋ぎぬ。心静かに眺めければ、諸木、五色の枝を垂れ、玉敷く光に驚き、「我も我も。」と拾ひしに、不思議や、老いたる社人顕はれ、「一つも取る事、愚かなれ。やれ、舟に乗れ。」と有難き教へに任せけるに、藤助ばかり聞き入れず、玉拾ふ内に、どつと吹き来るは、これ神風ならん。波路、心に任せ、子細なく伊勢の大淀の浜に戻りて、藤助が身の上語りければ、夫婦の人、焦がれ泣き、五歳余り待ち侘び、二人共に儚く成りぬ。
 かの藤助は、島に残されありしを、見馴れぬ唐人あまた来り{*2}、取り囲みて連れ帰り、鉄門の厳しき人家に入りて、銅の柱に貫き通せし中程に、さかさまに吊り揚げ、手足の筋を取りて人油を絞られしは、生を替へずに地獄の責めに遭ひぬ。弱れば薬を与へて、生けつ殺しつ日数経る内に、日本より渡唐の僧、四百余州を巡りてこの所に来り、暫したたずみ、この有様を見給ふに、藤助、昔の形は眼ばかり動きて、右の小指を食ひ切り、左の袂に心の程を書きて見せける。「自らは、生国勢州鳥羽の湊、藤助と言ふ者なり。思はざる難風に逢ひて、ここに流され、かかる憂き事に身を責めらるるは悲し。この所は纐纈城とて恐ろしき国なれば、命をとられ給ふな。」と書き付けて見せしに驚き、ここを立ち退き、修行の後、帰朝し給ひ、この里に来りて、この物語あそばしける。
 聞く人、涙にくれて、「この藤助が身の難儀は皆、親の言葉を背きし罰ならん。」と思ひやりぬ。

【訳】

 仏教の経文の中に、「人の命は、水上に浮く泡のやうに消え易く、儚いものである。」といふ意味の事が述べてある。浪の立つのは風のためであり、人の心を騒がすものは、その友のためである。伊勢の国鳥羽といふ大きな港に、出崎の藤内といふ者があつて、貧乏に暮らしてゐた。その職業は、漁夫の使ふ釣針を造る鍛冶屋であつた。この者に藤助といふ一人の息子があつたが、老後の仕事の助手として、相鎚を打たせてゐた。この世の習ひとして、かく親は子を憐れみ、子は親に孝を尽くすを、人の道とするのである。
 この鳥羽の浦辺に、近年俄に金持ちになつた神部屋といふ人が居た。仕合丸といふ大きな船を造つて、遠方の江戸まで廻漕させて商ひをした。この仕合丸の上乗りに、歳の若い者を雇ひ入れる事になつて、藤助がそれを望み、「鍛冶の職を捨てて、行きたい。」と言ひ出した。両親は、ひどくこれを歎いて、「渡世の業は色々あるのに、遠い遠い海に出る事は、たつた一つの生命を、乗るかそるかの冒険をするのは、よろしくない。是非断念せよ{*3}。」と言ひ、倅の旅に出る事に名残を惜しんで、死に別れでもするやうに、ひどく泣かれた。それにも構はず藤助は、「江戸の様子を見に行くのであるから、この度だけは許して下さい。」と言つて出て行つた。
 倅が出て行つた後は、風の吹く夕、雨の降る朝につけて、両親は倅の身の上を心配して、諸々の神に祈願し、又、諸方の仏にも参詣し、自分の後世の助かる願ひはよそにして、倅の無事ばかりを祈つてゐた。すると、翌年の春になつて、この倅の乗つた船は、何の災ひもなく鳥羽の港に帰着した。親子は、再び顔を見る事のできた事を喜び、祝ひの酒を酌み交はした上、倅は誓言の上で、「もう二度と航海に出る事は、両親の意に背く事だから、思ひ止まる。」と、言葉の上では両親を安心させたが、心の底では、容易に思ひ止まる事ではなかつた。
 さて、欲心は人々の常であり、恋は人の心の外である。この倅も、この前、江戸に下つた時、伊豆の下田の港に碇泊してゐた際に、この港の貧しい家の女と仮初の契りを結んで、夫婦の誓ひをしてゐたので、故郷の鳥羽の住まひを捨て、人々に暇乞ひもしないで、出帆する船のあるのを幸ひに、便乗して行つた。
 その時節は、秋の半ばにあたつて、空模様恐ろしく、雲が叢々と立ち込めてゐて、天候も見定める事ができなかつた。この船が沖の方に出ると、午前四時頃から大風が吹き出し、毎日吹き続いて、九日間漂流してゐたが、月の光の時々見えたので、漸く昼夜の区別を知り、夢のやうな心持ちになつて行く内に、船の底の浅瀬に触るのを感じて、乗組一同、漸く魂を取り戻して、目を開けて見ると、故郷で見たと草の形に違ひは無けれど、葦の枯れ葉がまるで芭蕉の葉のやうに大きい。その葦の中に、二つの角の後ろに生えてゐる獣が居る。これが、話に聞いてゐた水牛であらう。その外に、人間の形をして翼の生えた物が居る。声を聞くと犬の声そのままで、形は一丈ばかりもある、耳の長い物が居る。一つとして目馴れた物は無く、それらが近づいて来るので、恐ろしさに身を縮めた。山もなければ里もないので、船中三十二人の乗合皆、男泣きに泣いて日を暮らした。
 米は貯へが残つて居れども、水は使ひ果たし、喉の渇きを覚ゆれば、せん方なく積荷の四斗樽の酒を飲んで、かうした災難の際にも、せめて酒の酔ひで憂さを忘れて、鹿の巻筆の小唄を歌ふ者もあれば、観音経を読誦する者もあれば、六字南無右衛門節の浄瑠璃を語る者もある。下戸の者は、酒は飲めぬので、荷物を開けて、旅行用の硯に露の雫を注ぎ入れて、神仏への願状を書く者もあり、又は、一歩金を取り出して、「四、五年もかかつて折角これだけ貯めたのに、かういふ災難に遭つて、何の甲斐もなくなつた。」と言ひながら、勘定してゐる者もある。「今にも死ぬか知れない。」といふ際に、「ちょつと足が触つた。」と言つては、怒つて口論をする機嫌買ひもある。来年の正月の事を言ひ出す者もある。人の心は様々で、かく言ふ事なす事違つてはゐるが、この舟がここを離れず、故郷へも帰る事のできない儚さを思ひ出しては、総泣きに泣くその哀れさを、尋ねてくれる人もないので、人々はそこに泣き伏した。
 なほ波が荒く立つて、生臭い風が吹いて、この浅瀬に坐つた船を吹き散らし、吹き流して、又遠方の海岸に吹き着けた。海岸に散らばつてゐる岩の上に上がると、清い水が幾筋か流れてゐたので、「これ幸ひ。」と手に掬ひ上げて飲んだ上に、船にも貯へて、これで命を繋ぐ事ができた。さて、心を鎮めて四辺を眺めて見ると、色々の木があつて、五色の色した枝を垂れて居り、石といふ石は、玉の光を放つてゐるのに驚き、「我も我も。」と拾ひ集めてゐると、不思議にも年老いた神主の様をした人が現れて、「その石、一つも取つてはいけない。やい、船に乗れ。」と仰せられた。一同は、この有り難い教へに従つたが、藤助だけはそれを聞き入れず、やはり玉を拾つてゐると、どつと吹き出した風は、これ、神風と言ふのであらう。この風に吹かれて、船は風波穏やかな海上を、無事に伊勢の国の大淀の浜に戻つて来た。藤助だけ、見知らぬ浜辺に取り残された話をすると、両親は我が子を恋ひ焦がれ、泣き暮らして五年過ぎたが、とうとう待ち侘びて、二人とも死んでしまつた。
 かの藤助が只一人、島に取り残されてゐるのを、見馴れぬ外国人と見ゆる者が沢山来て、彼を取り巻いて連れて帰り、厳しい厳重な鉄門を以て堅めた家に連れ込み、銅の大きな柱に貫きを通してある、その貫きの中程に彼をさかさまに吊り下げて、手足の筋を切つて、人油を絞つた。これは全く、この世ながらの地獄の責めと言ふべきであつた。弱つて来ると、薬を飲ませて元気づけて、又絞る。
 かうして生けたり殺したりして、日数を経る内に、渡唐した日本の或る坊さんが、唐四百余州を巡つて、ここに来かかり、暫く立ち止まつて、この悲惨な有様を見てゐた。藤助は、昔の姿形は無く、変はり果てて、只目ばかり動いて、口もきけないでゐたが、やうやう右の小指を食ひ切つて、左の袂に心の内を書いて、この坊さんに見せた。「自分は、伊勢の鳥羽の港の生まれ、藤助といふ者であります。意外な難風にあつて、ここに漂着しまして、かういふ憂き難儀を見て居ります事、誠に悲しい事であります。ここは、纐纈城と申す恐ろしい所でありますから、あなたも命を取られなさるな。」といふ事を、血で認めて見せると、かの坊さんもびつくりして、ここを立ち退いて、それから方々修行して日本へ帰られ、鳥羽に来て、この話をされた。
 話を聞いた人は皆、涙にくれて、「この藤助が、知らぬ国でかういふ難儀にあつたのも、これ全く、両親の言葉に背いて親不孝をした天罰であらう。」と、遥かに不憫に思ひやつた。

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校訂者註
 1:底本は、「又一歩」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 2:底本は、「来りて」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 3:底本は、「断念せろ。」。

親子五人仍つて書き置き件の如し

【本文】

 人は皆、煙の種。富士の山烈しき風病はやりて、難儀を駿河の町に医師暇なく、旦那寺の門を敲き、無常はいつを定め難し。折節の寒空にも、経惟子一重を浮世の旅衣。
 ここに、呉服町二丁目に虎屋善左衛門とて、分限、国中に沙汰し、棟高き家あり。年栄えし{*1}時より法体しての十徳、名を善入と呼ばれて、何の役なし坊と成りぬ。惣領を善右衛門、これに家督を渡し、二男善助には殿方の商ひ、三男善吉に町屋、善八に寺方と、それぞれに商売の道筋をつけ、いづれも若盛りにして、器用にすぐれ、笛、鼓、太鼓を並べて、朝暮座敷能を、善入、太夫をし給へば、四人の子ども、囃子方を勤め、手代あまたあれば、ワキ、ツレ、地謡まで家内にて仕舞ひ、歓楽並びなく、いつ年の寄るべきものとも知らぬ身の、夕暮より風心と、少しの事の覚め難く、色々医術を尽くす験気もなく、次第弱りの枕に、四人の子、御機嫌の程を窺ひけるは、又もなく美々しく、人は、病家を他人に見せけるは、悲しきものなり。かかる時節には、妻子ならでは頼みなし。
 善入、「浮世の限り。」と思ひ定め、「書き置き状を残さん。」と、四人の子ども、近く寄せ、通ひ口の戸を閉めて、「我、この度絶命なれば、申し置く事、外になし。兄善右衛門を親にして、我に随ひし如く、何によらず、少しも背く事なかれ。さて、世間を思ひ廻すに、見分よりない物は、金銀なり。この家、久しく栄えて、外よりの思はくには、五万両もあるべきやうに見ゆベし。汝等先として、頼もしく思ふべけれど、人には聞かせぬ事、さりとは格別の内証なり。内蔵の鍵渡すなれば、諸道具改むべし。我が名跡を継がせぬれば、この屋敷、万事をこのまま善右衛門にとらすなり。有銀は、甲乙なしに四つに分けて譲るなり。
 「ここに秘密の内談あり。手前よろしき人には、大分の金銀をも預け、縁組のためにもなり、かれこれ勝手の良き多し。それによつて、我、分別して、世の聞こえばかりに、無い金子を書き置きする事ぞ。必ず、心にて済ますべし。漸々、小判二千両ならでは、浅間を誓文にて、外に無し。これを八千両にして、『一人に二千両づつ。』と書き置くなり。無用の僭上なれども、人間は外聞。」と申されければ、いづれも御心ざしに涙を流し、「たとへ御譲りなきとても、願ひ申すにあらず。自然御死去あそばすとも、兄、親の事なれば、随分御心に随ひ、世渡りを精に入れ、末々繁昌になし申すべし。」と、言葉を揃へて申しければ、善入、嬉しく、「今は思ひ残す事もなし。」とて、この通りに遺言状を認め、それより四、五日過ぎて、極まる往生を各々悲しみ、野辺の送り、花を降らし、「死に光り」とや、提灯、道を輝かし、葬礼までを人羨みける。地獄極楽の道も、銭ぞかし。
 四十九日までの弔ひ、諸僧の経の声絶えず。人皆、これを殊勝に思ひしに、二男善助、七日もたたぬ内より悪心起こり、香花をも取らず、十露盤枕にして思案を巡らし、善吉、善八を招き、「この程つくづく思ふに、いかにしてもこの家に二千両ばかりの有り金、世上にも誠にせぬ事なり。これは善右衛門、親仁をたらし、かくは書き置きをさせける。八千両金子あるに極まりし事なり。その上、大分の道具を取るなれば、是非、書き置きの通り、金子請け取れ。」と申し出せば、欲に目の見えぬ若者進みて、「段々親仁、仕方悪し。兄顔をして、善右衛門憎し。書き置きを証拠に、この金子請け取れ。」と、後先構はず談合しめ、この通り申せば、善右衛門驚き、「その方皆々相対にて、親仁、世にまします時、よくよく合点して、今更かやうに申すは、いかなる事ぞ。人に聞かすな、心元なし。」と言へば、三人、顔色変へて、「何か隠す事には非ず。親の遺言の通りに、金子渡し給へ。」と、詮議に及ばず責め付けられ、善右衛門身にしては、さても悲しく、「親の恥を顕はし、又断り申せば、家の滅亡。色々異見させても、中々聞き入るる気色もなし。証文の立つ世上なれば、是非もなき仕合せなり。由なき外聞を思し召しての跡職、忽ち難儀となり、我一人の迷惑。おのれらも、了簡の上にてこの首尾に済まし、偽りなき某を疑ふ事、天命遁るべきか。これを思ふに、大方ならぬ因果なり。世に長らへて嬉しからず。」と思ひ究め、「親の名を下す事、後の世までの不孝なり。命惜しからじ。」と、夜更けて宿忍び出、親達の墓に参り、この段々を歎き、卵塔の水舟に腰を掛け、四十二の十一月五日の明け方に、腹掻き割いて、夢とは成りぬ。
 野寺の坊主、告げ来りて、又もや愁へに沈みぬ。中にも善右衛門妻の歎き、理。せめて哀れにこそ。三人の弟ども、他の人の顔して、「死にたはけ。」と申しなし、乱気の沙汰に成りて済みぬ。その後、三人の者、蔵の鍵請け取り、吟味をするに、小判二千両の外に無し。この行方の詮議、やむ事なく、その夜は三人ながら、蔵なる金戸棚の前に臥しける。
 夜半に善右衛門、面影を顕はし、我が女房に心を残さず、まざまざと語りければ、夢の内にも胸を定め、目覚めてなほ一念やめず。枕にかけし長刀取り伸べ、蔵に駆け入り、善助、善吉、善八を漏らさず切り据ゑ、二歳に成りし男子を、乳母が添へ乳をせし懐より取り出し、自害せられし善右衛門脇差を持ち添へさせ、「目前に親の敵。討つぞ。」と、三人共にとどめ刺し、この事、乳母に語り置き、その身も心刺し通し、消えける。露の世の朝の霜、これ程はかなき事は無し。子細聞き伝へて、弟三人の大悪を憎み、兄の心底推し測りて、見ぬ人までも袖をひたしける。その後は、二つ子の善太郎にしらせけるとなり。
 家栄え、家滅ぶるも皆、これ人の孝と不孝とにありける。

【訳】

 人は皆、一度は死んで、火葬の煙となつてしまふべきものである。
 或る年、駿河の国府の町に、烈しく風邪の病がはやつて、人々が難儀を致した。町医者達は治療に暇なく、又、ひつきりなしに旦那寺の門を叩いて、葬礼を頼みに人が来るといふ有様であつた。人間の無常は、いつを死期とは定め難い事である。寒中の時節にも、死人は経帷子一枚を、浮世から冥途への旅衣とするものである。
 ここに、呉服町二丁目に虎屋善左衛門と言つて、大金持ちといふ評判の国中に聞こえた、棟の高い立派な家屋敷があつた。老体になる前から法体して、隠居の身の上となり、身には十徳を着、名は善入と改めて、今は世に何といふ仕事もない、閑散な身であつた。
 惣領の子を善右衛門と言つた。この子に家督を譲り、次男の善助には武家屋敷方面、三男の善吉には町家方面、四男の善八には寺方面と、それぞれに商売の道筋を分けてつけてやつた。この子供達、いづれも若盛りであり、しかも物事に器用で、笛、鼓、太鼓等の技芸に優れて上達してゐたので、朝に夕に座敷能を催して、善入が太夫役を勤めて舞はれると、四人の子達は囃子方の役を勤める。又、手代も沢山居たので、これらの中でワキ役、ツレ役、地謡の役まで勤めて、家内中の人達で事は済んだ。歓楽この上もなくおぼえて、いつ年が寄るとも知らないやうな、結構な身の上であつたが、或る日の夕刻から風邪気味で、少しばかりの熱が冷めず、色々と医者の手にかけて療治を尽くしたが、更にしるし見えず、次第次第に弱つて行つた。枕元には四人の子達が付いてゐて、様子を見、看護をしてゐたのは、又なき麗しい事であつた。一体、病室を他人に見せる(病人を看護させる)のは、悲しい事である。病気の折は、他人の手では駄目である。どうしても妻子の手でなくては、満足でないものである。
 善入は、「もはや快癒は覚束ない。」と覚悟して、「遺言状を遺さう。」と思ひ、四人の子供を枕辺近く呼び寄せ、通ひ口の戸を閉めさせて言ふやう、「俺も今度は最期と思ふから、申し置かうと思ふが、それは外でない。俺が万一の後は、兄の善右衛門を親と思うて、これまで俺に従つたやうに、何によらず兄の指図を受けて、少しも背くなよ。さて、世間を見渡して見ると、外から見るやうにないものは、金だ。この家も、久しく繁盛してゐるので、世間では、『五万両もあらう。』と思ふであらう。お前らを初めとして、頼もしく思ふだらうが、人には決して聞かせるな。それは、実際とは大変な相違である。今、内蔵の鍵を渡すから、諸道具一切、調べて見るが良い。俺の名跡を継がせるから、この家屋敷は全てこのまま、惣領の善右衛門に取らせるぞ。現金は甲乙の差なく、四人の兄弟に平分して譲るのぢや。
 「それに、極秘密の相談がある。資産のしつかりした家には、世間から沢山の金銀の預け入れもするし、又、良い家と縁組もできるし、かれこれ都合の良い事が多い。それで、俺も考へて、只世間への見せかけばかりに、無い金高を遺言状の中に書いておくぞ。必ず心の内だけにしておけ。家の現金は、小判で二千両の他はない。浅間様に誓文立てて言ふ、これには決して嘘偽りは無い。それを、遺言状には「八千両」にしておいて、「お前達一人前、二千両の遺産。」と書いて置く。これは、無用な見栄だけれども、見栄といふものは、大切なものだ。」と言はれた。四人の子供達も皆、父親の有り難い心に感じて、涙を流して、「たとひ御遺産を頂戴しなくても、こちらからお願ひ申すべきものではございません。万一の事がありましても、兄は親同然の者でございますから、随分心がけてその心に従ひ、渡世の事に勉強致し、行く末はこの家を繁昌させませう。」と言葉を揃へて申した。これを聞いて、善入も嬉しく思ひ、「今は何も思ひ残す事はない。」と言つて、右の通りの遺言状を認めて、それから四、五日して、天命尽きて往生を遂げられた。一同悲しみ、野辺の送りを立派にした。「死に光り」と言はうか、提灯は道を輝かすばかりであつたので、葬式までを世間では羨んだ。
 地獄に行くか極楽へ行くか、冥途の道の定まるのも、金銀次第である。四十九日の法事まで、諸僧の読み上げる御経の声が絶えないやうに、丁寧に営んだのを、世間の人達は、「親孝行な事。」と感心してゐた。ところが、次男善助が、それから七日を経たぬ内に悪心を起こして、位牌の前に香を焚き花を供ふる事すらせず、算盤を枕にして色々考へた上、善吉、善八の両人の弟を招き、言ふやう、「先日からつくづくと考へて見るに、この家にたつた二千両の現金しかないといふ事は、世間でも誰も本当にはしない事だ。これは、兄貴の善右衛門が親父さんを騙して、あんな嘘の遺言をさせたものに相違ない。実際は、遺書の表にある通り、八千両あるに極つてゐる。兄貴は現金ばかりか、その上に沢山の道具までも譲り受けるのだから、我々は遺書の表通りに、二千両づつ受け取らうではないか。」と言ひ出した。
 すると、欲に目のくらんだ若い者の事とて、進み出て言ふやう、「これまでの親父殿の段々の仕方が間違つてゐる。兄貴顔をした善右衛門が憎い。書き置きを証拠として、その表通りの金額を受け取らう。」と、事の結果も構はず相談を決めて、その通り善右衛門に申し出たので、善右衛門は驚いて、「お前達も立ち合ひの上で、親父様がまだ御在世の内に、よくよく御熟考なされた上で、かういふ遺言状を御作りになつた事を、よく承知してゐながら、今更そんな無法な事を申し出すとは何事だ。そんな事を、決して他人には聞かせるな。それが心配だ。」と言ふと、三人の弟達は顔色を変へて、「何も隠す事はありません。親父様の遺言の通りに金子を渡して下さい。」と、言句なしに責め付けて請求され、善右衛門の身にしては、さても悲しい事である。
 「かうして親の恥を世間にさらし、又、出る所へ出て訴へれば、家の滅亡ともなる。人に頼んで異見して貰つても、到底聞き入れて心を翻す様子もない。証文が口をきく世の中であるから、親父様の遺言状がある以上、やむを得ない事である。つまらぬ世間の外聞を御考へになつて、御亡くなりになつた後の遺産の処置をつけようとなさつたのが、かへつてかう急にうちの難儀となつて、自分だけが迷惑を受ける始末となつた。自分等もよく承知の上で、一応事を済ましておきながら、偽りのない俺を疑うて、天罰逃るる事のできると思ふか。これを思へば、これは一通りならぬ我が身の因果といふものだ。この上は、世間に生き長らへても嬉しくはない。」と思ひ極めて、「かうして親の名を汚す事は、この世ばかりでなく、後世までの親不孝である。かうなつては、命も惜しくはない。」と、その夜更けてから我が家を忍び出、親達の墓参りをして、弟達の悪事の次第をかこち、墓石の水入れの上に腰掛けて、四十二歳の十一月五日の夜の明け方に、我と我が腹を掻き裂いて、一生を夢と散り果てた。
 野寺の僧がこれを見つけて、善右衛門の家に知らせて来たので、父親の亡くなられてから、再びこの不幸の歎きに沈む事となつた。歎く人々の中でも、善右衛門の妻の歎きはひとしほで、それも誠に道理千万の事で、可哀さうな事であつた。然るに三人の弟達は、他人のやうな平気な顔つきして、「馬鹿な死に方をしたものだ。」と言ひ、「善右衛門は発狂して死んだ。」といふ事になつて済んだ。
 その後、三人の弟達が蔵の鍵を受け取つて、蔵の中に入つて吟味をしたが、やはり二千両の小判以外には、現金はなかつた。「どうした事だらう。確かに八千両ある筈だ。どこに行つたのだらう。」と、その詮議が果てもなかつた。そこで三人は、その夜は、蔵の中の金を入れた戸棚の前に寝た。
 夜半になると、死んだ善右衛門が姿を顕はして、その妻の夢枕に立つて、その意中を残らず打ち明けたので、妻は夢の中にも決意して、目覚めても復讐の一念なほやまず、枕頭にかけてあつた長刀を取り下ろして、それを取つて蔵の中に駆け入り、三人の弟達を残らず切り据ゑ、まだ二歳の小さい息子を、添へ乳してゐる乳母の懐から連れて来て、父善右衛門が自殺に用ゐた脇差を持たせ、それを我が手に持ち添へて、「親の敵討ぞ。」と言つて、三人のとどめを刺し、この事の次第を乳母に話しておいて、自分も胸を刺し通して死んだ。露の如き人生を、朝の霜と共に、儚く消えてしまつた。これほど儚く哀れな事はない。この事を伝へ聞いて、三人の弟達の大悪を憎み、兄善右衛門の心中を察して、見ぬ人までも同情の涙に袂を潤した。後の家督は、二歳の善太郎が継ぐ事となつたさうである。
 家の栄えるのはその子の孝に因り、滅ぶのはその子の不孝に因るものである。

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校訂者註
 1:底本は、「栄(さかえ)ん時」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。

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