江戸期版本を読む

江戸期版本・写本の翻字サイトとして始めました。今は、著作権フリーの出版物のテキストサイトとして日々更新しています(一部は書籍として出版)。校訂本文は著作物です。翻字は著作物には該当しません。ご利用下さる場合、コメントでご連絡下さい。

カテゴリ:井原西鶴 > 校訂評釈本朝二十不孝(1947刊)

娘盛りの散り桜

【本文】

 大和の国吉野の里に内裏雛を立て、娘友達集まり、弥生の節句遊び。菱の餅、桃の酒を贈れば、返す袂の色映えて、人は育ちにて形の見よげなるぞかし。
 ここに住み馴れて、晒し葛屋の彦六と言へる人あり。家栄えて何事に不足もなし。雑書の通り、娘の子ばかり五人、いづれも生まれ付きて美しく{*1}、女は仕合せの様なり。
 惣領、お春と言へるを、その里のよろしき方へ貰はれ、縁組の間もなく懐胎の身となれば、日を数へ月を繰り、産まれぬ先、乳乳母を定め、鶴亀の付きし小袖を拵へ、夜更けて松吹く風の戸に訪るるをも、「その事か。」と母の親、目も合はず気遣ひせしに、悲しや、腹痛みて身を悩み、五、七日も憂き目を見せし。常々、子安の地蔵に祈り、腹帯の明神に宿願かけし甲斐もなく、惜しや、命。十六の卯月一日{*2}の明け方に、無常鳥の鳴き出し、親兄弟に深く歎かせ、なほ袖の雨降り続き、五月の頃まで思ひに沈みしを、「世には、一人の子を失ふもあるに、いまだ数ある事なれば、愁へを晴らせ。」と、道理をよく考へし人に諌められて、思ひ流する吉野川、「泡の消ゆる習ひ。」と、それが事を忘れ。
 その次の娘お夏、程なく十六になりて、しかも風俗、姉に見まさりて、かれこれ焦がるる中に、この所の庄屋を捌き、婿にしても苦しからぬ方へ契約して、諸道具拵へしが、「当年は十六。姉が事を思へば、吉凶悪しき。」とて、その年を延べて、十七の正月に祝言取り急ぎけるに、これも懐妊して月を重ね、姉が如く、持ち籠りにして果てける。「いかなる因果ぞ。」と二親、これを悔やむ事限りなく、野辺の送りせし時、さる人のさし出て言へり。「かくある死人は、左鎌を打たせ、その身二つになさでは浮かむ事なく、後の世、覚束なし。」と言ふにぞなほ悲しく、沐浴、その通りに念仏講中を頼みける。女の身程、はかなきはなかりき。
 されども、「世上に住む習ひ。」とて、次第に後を忘れて、又、三番目の娘お秋と言ひしも、はや十五歳になりぬ。とりわき綺麗なる形。心ざしも、やさかたに情け深し。近所の人々取り持ちて、「由ある人の子どもに美男なるを、入り縁に取らせ、思ひ晴らしに。」と言はれけるに{*3}、何事をも打ち任せて、その男子を養ひ、程なく家督を譲り、夫婦一度に法体して、「世の楽と言ふ事、今ぞ。」と嬉しく、尊き寺へ参り下向の道に暮らしける。明くれば入り婿、孝を尽くし、遠き海魚をかかる山家に{*4}調へ、せはしき事は、よその吹く風に聞きなし、雪にも焚き火して、冬なき国の守をも恐れず。
 この上に願ひもなかりしに、いつの頃よりか、お秋、青梅を好けるにぞ、度々懲りてうたてく、諸神に祈誓をかけ、「平産は身の養生、これを大事。」と、事に慣れたる婆を雇ひ、腹帯の締め加減、庭働きに身をこなし、腰を少しも冷やさず、目通りより高く手を上げさせず、寝姿も足を伸ばさず、頭は関枕にてとどめ、身を固むるに残る所なく、喰ひ物をも改め、産み月を待ちけるに、これも五体をもだえ、十日ばかりも憂き事にあひて、眠る如くに息絶え、さりとては外聞もよろしからず。不憫は外になりて、死骸に重なり、「夫婦自害。」と見えしを、各々取り付き、色々言葉を尽くし、至極の異見を聞かせ、思ひとどまりて後。
 三十五日も経つを待ち兼ね、「四番目の娘、お冬をすぐにめ合はせし給へ。」と言へば、二人の親、「万事は人々の御料簡は洩れじ。」と。「何とぞ我々には聞かせ給はずとも、この首尾頼む。」と{*5}。先立ちし三人の娘のため、仏を尊み僧を供養し、着馴れし小袖の、皆々脇さへ塞がざりしを、幡、天蓋に縫はせ、「かかる歎きの又もあるべきか。」と、涙は袖行く水に経木を書いて、流れ濯頂を立て、親の身の子を弔ふは、さかさま川に沈みて死なれぬ命の辛く。
 お冬{*6}に縁組の事、各々言ひも果てぬに、声を上げて泣き出し、涙片手に挟箱の蓋を開けて、麻の衣の墨染、浄土珠数を取り出し、「自らが縁は、仏様に結ぶ心ざしなり。この度の愁への無き内から、夢幻と思ひ定めし世の中。姉様達の跡をも訪ふべしと願ひしに、この宿を出兼ね、又もや憂き目を見じ。乱れ心の黒髪ある故。」と手づから切るを、やうやうにとどめ、「さもあれば、親の不孝の第一なり。」と親類集まり、殊には下市の里に住まれし伯母たる人を呼び寄せ、様々に言ひなだめ、「せめては三日なりとも、男と言ふものにあひ馴れ、その後は、出家になりとも心任せ。」と涙にくれて、魂の入り替はるまで教訓して、押し付け合点させ、祝儀の事済みて、いつとなく契り深く、四年余りも過ぎ行けば、子細なく喜びしに、又、月止まりて、産み月に足らず、これも空しくなりぬ。
 「四人まで同じ最期なりしは、世に例なき事。前生にいかなる悪縁を結び、親と成り子と成り、今の難儀にあふ。さてもうるさし。」と、いよいよ菩提心を起こし常精進の身と成り、称名の暇なく香花を摘みて四人が跡を弔ひ、片蔭に取り籠りければ、母屋は昔と荒れて、野犬の臥しどと成りぬ。
 発心の身と成りても、心にかかる山の端は、乙女と言ひて五人目の娘、今は十五に成りぬ。これも、縁付き頃をうたてく、乙女に出家を勧め、「最前、お冬が心から願ひの道をとどめて、由なき男を持たせ、帰らぬ事を悔やみぬ。思へば思へばうつつの間なり。そなたは髪をおろし、姉どもが命日を訪ひなば、未来も悪しからじ。」と勧めしに、{*7}以ての外の心入れ。「たまたま人間に生を受けて、男といふもの持たでは口惜しかりき。親達の厄介にはならじ。」と忍びて庵を立ち退き、行方知らずなりぬ。
 これをも、親子の仲なれば深く歎かれしに、音信不通になりて、己と夫を定めける。しかもこの男、山だちをして渡世とす。或る夜、風荒く雨降りて、人音稀なる時を見合はせ、乙女が案内をして、男を連れて我が親の方に立ち入り、夫婦の寝られし上に{*8}畳を置きかけ、この苦しみの内に少しの貯へ物を盗み、岨伝ひに逃げ行きしに、この大悪、いづくまでか遁がるべし。踏み馴れし道筋の岩も人影と見えて、心のやるせなく、知れたる淵に飛び入り、男も女も眼前に恥を晒して、葛屋の名をくだしぬ。

【訳】

 大和国吉野の山里でも、都と同じく、内裏雛を飾る雛祭りといふ事をする。その雛祭りの三月節句には、所の娘達が集まつて遊ぶといふ習はしで、近所同士、菱餅や桃の酒を贈れば、それに返しをするのである。この娘達の翻す袂の色は美しい。「人は氏より育ち。」と言ふが、かかる辺鄙の娘でも、育ち次第で器量は見よくなるものである。
 この里に住み馴れて、所の名物晒し葛を売つて世を渡る、彦六といふ人があつた。この人、家は繁昌して、何事といつて別に不足もなく、結構な身の上であつた。『永代雑書』の三世相を見ると、この人は、「女の子を沢山持つ。」とあるが、その通りに五人の娘の子を持つてゐたが、どの娘もどの娘も皆、器量よしに生まれついてゐた。全体、女の子の器量の良いのは、一生の幸福の種である。
 長女のお春といふのは、同じ里の豊かな家に貰はれたが、結婚してから間もなく懐妊したので、里の親達は日を数へ月を数へして、御産の時を待ち、生まれぬ先から乳飲ませる乳母を約束し、鶴亀の模様の付いた小袖を拵へておき、夜更けて、松吹く風が雨戸に音づれて、ごとごと鳴れば、「産気付いた知らせでないか。」と驚き、母親は夜の目も合はぬやうに心配してゐると、悲しい事には、陣痛起こして苦しみ出し、五日七日にもわたつて憂き目を見たが、かねて子安の地蔵に安産を祈り、腹帯の明神に御願をかけた甲斐もなく、惜しや、十六歳の若盛りに、四月一日の夜明け方に、時鳥の鳴き声と共に、この世を去つてしまつた。
 親兄弟は、深くこれを歎き、両袖にかかる涙の雨は、五月雨の頃までも続いて、皆々悲歎の思ひに沈んでゐるのを、物の道理をよく弁へ知る人々に、「世間には、たつた一人しか持たぬ子を失ふ人さへあるのに、こなたには、まだ他に幾人も代はりがあるのだから、もう愁嘆はやめなされ。」と諌められて、漸くこの思ひをば、流し捨てる事ができた。そして、「吉野の川の水の泡の如く、消えるのが人の命の習ひである。」と悟つて、長女の事は忘れるやうになつた。
 その次の二番目の娘お夏が、程なく十六歳になつて、しかも器量は姉まさりで、焦がるる思ひを寄する若者の沢山ある中に、この里の庄屋を勤めてゐる人の息子で、婿にしても恥づかしくない人に、嫁入りの約束を固めて、嫁入りの諸道具を支度してゐた。ところが、「今年は十六歳。丁度姉が不幸の年に当たるので、縁起が悪い。」といふので、その年は延ばして、翌十七歳の年の正月に、取り急いで祝言を行つた。この娘もやがて懐妊し、月を重ねてゐたが、姉と同様に懐妊のまま死んでしまつた。「何といふ不幸せな運命だ。」と、両親はこれを悔やむ事甚だしく、葬式をしようとしてゐると、或る人が差し出て、「かうして亡くなつた人は、左鎌を作らせて、それでお腹を割いて子供を出した上で葬らないと、冥途へ行つても浮かべないと言ふから、このまま葬つては後生が心配だ。」と言つたので、一層悲しく思ひ、湯灌もその人の言ふ通りにして貰ふやうに、念仏講中の人々を頼んでして貰つた。女の身ほど儚いものはなかつた。しかし世間に住めば、かかる悲しみも、時の経つにつれて、次第に忘れるやうになつた。
 又、三番目の娘のお秋といふのも、はや十五歳になつた。この娘は、取り分けて器量よしである上に心根も優しく、人情も深い女であつた。「近所の人達の世話で、由緒正しい人の息子を婿養子に取つて、それで、これまでの悲しい思ひを晴らされたが良い。」と勧められたので、その人達に万事を任せて、その息子を養子にして、程なく家督を養子に譲つて、親達夫婦は同時に法体になつて、「これで、今こそ世間の楽人になつた。」と喜び、御寺参りをして日を暮らしてゐた。この婿養子は、明け暮れ親達に孝行を尽くし、かかる海遠い山家に住みながら、常に海の魚を調へて食はせた。忙しい用事は、「よそ吹く風。」と聞き流し、雪の日も暖かく焚き火して、冬のない国のやうに贅沢に暮らして、国守の殿様をも恐れない身の上と成り、この上の願ひは他になかつたが、いつ頃からか、お秋が青梅を食べたがつて、妊娠の兆しを見せた。姉達の事に懲りて、それがいかにも情けなく思はれ、諸々の神様に平産を祈り、「安産には妊婦の身の養生が大事である。」と、かういふ事に慣れた老女を雇ひ入れて、腹帯の締め加減を程よくし、庭仕事をさせては身を動かすやうにさせ、腹を少しも冷やさないやうに気をつけさせ、目通り以上の高さには手を上げさせず、夜寝る時も足を伸ばさせず、頭は関枕で止めるやうにし、妊婦の身の持ちやうに万事遺憾のないやうにし、食物も一々吟味して臨月を待つてゐたが、それでもやはりだめであつた。この娘も又、御産になると、五体を悶えて苦しむ事、十日ばかりも続き、ひどい目にあつて、とうとう眠るやうに息が絶えてしまつた。かう重なる不幸では、世間の聞こえも良くないので、死んだ娘の可哀さうなは外になつて、死骸に打ち重なつて、両親共に自殺しようとした。それを、人々が両方から取り付いて止め、色々言葉を尽くして、道理至極の異見を聞かせたので、両親も、やうやう思ひ止まつて後。
 お秋が亡くなつて、三十五日の経つのを待ちかねて、「四番目の娘のお冬を、すぐに縁付かせなされ。」と他から勧める人が言へば、両親は、「あなた方の御考へに御任せして、決して否やは申しませぬ。」と言ひ、「私ども二人には、一々御相談下さらずとも、よろしうございますから、何卒しかるべく、お冬の縁談をまとめて下さい。御頼み申します。」と言つて、両親は、先立つて亡くなつた三人の娘達の菩提のために、仏を信仰し坊さんを供養して、娘達の着馴れた小袖の、全てまだ振袖のままで脇を塞がないのを、御寺へ上げて、幡、天蓋に縫ひ替へさせて、「かかる悲歎が又、世の中にあらうか。」と歎き、涙は袖に行く水の如く流れた。その行く水に、経木に亡き娘達の法名を書いて流し、流れ灌頂といふ事して、親の方から子の菩提を弔うてやるのは、これは全く世の逆さ事である。川水に沈んで死なれぬやうな、辛い思ひをして、命を生き長らへた。
 さて、お冬の縁談の世話をする人達が、この事をお冬に言ひ聞かせようとすると、まだ言ひも果てない内に、お冬は声を上げて泣き出し、涙片手に挟箱の蓋を開けて、麻の墨染の衣や浄土宗の珠数を取り出して言ふやう、「私の縁は、世間の男達には結びません。仏様に結ぶ考へでございます。この度の歎き事のない前から、私は、人の世は夢幻のやうに儚いものと、覚悟致して居ります。それで、亡くなられた姉様達の後世菩提を弔うて上げたいと願つて居りましたところ、結婚してこの家に引き留められまして、又もや姉様達と同様に、憂き目を見るでございませう。かかる目に遭ふ事になりますのも、畢竟、心を乱すこの黒髪のあるためでございます。」と言つて、我が手づから黒髪を切らうとするのを、漸く制しとどめて、「そんな事をすれば、親不孝の第一に当たるぞ。」と、親類の人達が集まつて訓戒した。殊に、下市に住んでゐた伯母を呼び寄せて、様々に戒め、なだめさせて、「せめて三日でも、亭主といふものを持つて、親しんで見よ。その後は、お前が思ふ通り、出家になりとも心任せにしたが良い。」と涙にくれて、お冬の魂が入り替はつて、思ひを翻すまで教訓して、強いて承知させて、結婚の祝儀をさせた。結婚させると、夫婦の契り、いつとなく深くなり、四年余りも経過して、何の故障も起こらなかつたので、人々は喜んでゐると、この女も、姉達と同様に、月のものが止まつて妊娠したが、臨月に至らずして死んでしまつた。
 かやうに、四人の娘が一様に御産で死んだのは、又と世に例のない事である。そこで両親は、前の生に於いて、いかなる悪縁があつて、それがこの世に親子となつて生まれて来て、かうした苦しみを受けるのであらう。さてもうるさき世の中ではある。」と、いよいよ菩提心を起こして、出家の如く常住精進の身となつて、念仏暇なく唱へ、香を焚き花を手向けて、亡き四人の菩提を弔ひ、本宅を去つて、片蔭に小さい庵を作りて、これに引き籠られたので、本宅の方は、昔と変はり荒れ果てて、野犬の寝所となつてしまつた。
 発心の身になつても、只両親の心にかかるのは、乙女といふ第五女の身の上であつた。この娘、今年は十五歳になつた。この娘も、丁度縁付き頃であるが、四人の姉達の不幸もあつたので、親達には、年頃がかへつて心配の種であつた。そこでこの娘には、「縁付きする代はりに出家をせよ。」と勧め、「以前、お冬が出家したいと言ふのを、強いて止めて、つまらぬ縁付きをさせたため、取り返しのつかぬ夭死の不幸を見るに至らしめた事を、後悔してゐる。よくよく思へば、人の命は夢うつつの間といふやうに、僅かの間の事である。お前は髪をおろして尼と成り、姉達の命日命日の弔ひをしてやつたら、一人、亡き姉達の菩提ばかりでなく、お前自身の後世も助かるであらう。」と言つて、出家を勧められたところが、乙女は、以ての外の料簡で{*9}、「たまたま人間と生まれて来て、亭主といふものを持たないで、独身のままに死ぬ事は、残念でございます。御両親の御厄介にはなりますまい。」と言つて、こつそり庵を忍び出て、行方知れずなつてしまつた。かかる不孝を働いても、親子の仲であるから、両親は、乙女が事を深く歎いて居られた。
 乙女は、親達と音信不通になつてから、自分勝手に亭主を持つた。しかも、この亭主といふは、山賊をして暮らしてゐる者であつた。或る夜、風荒く吹き、雨の降つて、人音稀な時に乗じて、乙女が道案内して、亭主の山賊を我が親達の家に連れ込んだ。さうして、両親の寝てゐられる上に、畳を重しに載せておき、両親がそれに圧されて苦しんでゐられる内に、僅かばかりの貯へ物を盗み取り、岨道を伝うて山に逃げた。ところが、かかる親不孝の大悪を働いた者が、どうして無事に逃れよう。平常行き馴れてゐた道筋にあつた岩が、立つてゐる人影のやうに見えて、驚いた拍子に、勝手知つた淵に落ち入り、夫婦共に死んで、不孝大悪の報ひ、目前に来て、世間に恥を晒して、葛屋の名誉を下げた。

前頁  目次  次頁

校訂者註
 1:底本は、「うつくしみ」。『本朝二十不孝』(1993)語釈に従い改めた。
 2:底本は、「ひとへ」。底本語釈及び『本朝二十不孝』(1993)語釈に従い改めた。
 3:底本は、「いはれけると。」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 4:底本は、「山家へ」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 5:底本は、「頼(たの)む。先立し」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 6:底本は、「お秋」。『本朝二十不孝』(1993)本文及び語釈に従い改めた。
 7:底本は、「以ての外の心入れ。」を、お冬の発話として訳している。本文は『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 8:底本は、「ねられしかへに」。底本語釈及び『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 9:底本は、「乙女は『以ての外の料簡(れうけん)であります。偶〻」。

先斗に置いて来た男

【本文】

 人の心ほど変はり易きは無し。静かなる浦に家の風を吹かし、浪の騒がしきも「身を治めぬが故。」と世間より指さされけるは、口惜し。殊に泉州の堺は、よろづに古風残りて、物事内端に構へ、律義を本として、人皆華奢に世智賢く、灸箸にて目を突く如く、そのせはしさ、息も鼻もさせぬ所なり。
 ここに大道筋の南向き二十七、八間、檜木造りの台格子に二重座の鋲釘を打ち輝き、奥深に豊かなる住居、見るさへ羨まし。何を世渡りとも知れ難し。昔、唐へ投げ銀して仕合せ、次第分限となつて、今この金銀儲けにくい世の中に、「仕舞うた屋殿の八五郎。」と言はれぬ。されども、「親に不孝。」と取り沙汰する程の事、悪人なり。不断の仕業、塩肴も目にかけて値段をし、計り芋も百を何程と数読みて買ひ、夢にも十露盤を忘れず、銭溜める分別ばかりして、袋町、乳森の遊女を知らず、夷嶋の常芝居見た事もなくて、世帯持ち堅むる鑑にも成りぬべき人なり。
 或る時、小家に集まり賀留多の勝負を始めける。かやうの人の、小判を二十両づつ先斗に張られしを見て、近所の人、これを驚き、「こなたには気が違うてや。かかる博奕業をあそばしける事、思ひも寄らず。」と言へば、かの吝き人、うち笑ひ、「その方の不思議、尤もなり。今時、何商ひをしても、一倍になる事、これより外になし。長崎へ銀を下すは、長々の気遣ひなり。これは、一思ひの早業。千両が忽ち二千両に成るものを、この年まで知らぬ事の残り多し。舟荷を積みて、住吉大明神に祈誓を懸けんより、金銀置きかけて、歌留多大明神を祈るが近道。」と真実からの顔つき。さりとは、知れぬものは人ぞかし{*1}。
 「これ皆、欲心よりの思ひ立ち。やむまじき。」と推量しけるに、案の如く親にうとまれ、この事、異見を聞かず。これに身を染め、おのづから人柄も賤しく成りて、世上の付き合ひも欠き、妻子を見捨て、人の物を只取る事面白く、この道のすつぱの皮に出合ひ、そろそろ取り上げられ、いつとなく、「内蔵、から大名。」と言ひ立てられ、互に貸し借りも成らず。久しき家に伝はりし諸道具を、夜市に出すは、「惜しき事ではないか、ないか。」と売り立てられ、銀目になる程の物は、年々の茶の湯振舞に出、親代に人も見知りて、眼前の恥をさらしぬ。
 後には一門も見限り、合力をせず。縁者に憎まれ、女房を取り返され、下々も暇貰ひ捨てて、季時を待たず出て行けば、伽藍の如くなる家居に灯一つ立て、正月に餅を搗かず、盆に鯖食はず。親子三人暮らし兼ね、屋敷を売りて、又その銀をその日より打ち出し、十日も立たぬに負けて、その後は、安立町の中程に借家住まひ。昔の名残、紫縮緬を着ながら、母親の手馴れぬに朝夕の飯を炊かせ、父親に水仙の早咲きを作らせ、又は山刀豆、胡瓜の種売らせ、己は勝間辺の街道端に出、渋紙を敷きて、曲げ物に一から十五までの木札を入れ、右の手に錐を持ちて、「天狗頼母子」と名付け、道行く人をたらし、馬奴、古着買ひ、味噌漉売りを招き、これも博奕業にて相取りを拵へ、愚かなる人の銭を取りて、仕合せなれば、すぐに出茶屋の女に戯れ、酒にその日を暮らし、宿には帰らず。年寄られし親には、浜近き塩さへ与へず。折節の寒空、霰松原の荒神の前も淋しく、割木の絶えて悲しき事思ひ詰めてや、夫婦、同じ枕に心元を突き刺し、遠里小野の霜とは消えぬ。隣に近き櫛屋、針屋、筆屋の駆け付け見しに、はや事切れて是非もなく、各々、不憫に思ひぬ。
 かかる時、一子の八五郎帰り、この有様を見ても更に歎かず。人々これを憎み、死骸の取り置きにも構はず、野辺に送る人もなし。八五郎一人して、空き葛籠二つに二人死骸を入れて、一荷にかつぎ、鳶田の墓に急ぎしに、岸の姫松のほとりにて、夜も明け方なるに、この所暴れ組、後ろより八五郎を切りて、葛籠を手毎に持ちて、安倍野に隠れぬ。
 この盗人の仕合せ、開けて悔しかるべし。

【訳】

 人の心位、変はり易いものはない。「静かな海辺に住んでゐながら、家庭に風波を起こして騒ぎのできるのも、その主人が、よくその身を治めないためだ。」と言つて、世間から指さし笑はれるのは、誠にその人にとつて遺憾千万な事である。どこでもさうであるが、殊に泉州の堺は、万事に昔風の残つてゐて、物事を内端にし、正直を元として、人は皆風流で、しかも世智に富んで居り、灸箸で目を突くほど忙しくして、息もさせない位の所である。
 ここに、堺の大通り筋に南向きで間口二十七、八間、檜造りの普請で、表は台格子になつて居り、その格子には二重座に鋲釘を打つてあつて、その鋲釘が光り輝いてゐる。間口の広いばかりか、奥行きも深くして住みなしてゐる。只見てさへ羨ましい住居である。この家、何を商売にしてゐるか、外観だけでは知り難い。昔、外国へ手付け打つて、仕入れをして金を儲け、それから次第に富裕になり、かく大金持ちとなつて、現今の金銀の儲けにくい世の中に、「仕舞うた屋」と言はれる八五郎といふ人がある。この人は、家は富んでゐても、「両親に不孝な人だ。」と世間に噂されるのであるから、悪人である。この人の平常の仕打ちを見ると、塩を買ふにも一々秤目に掛けて買ふ位で、夢の間も勘定の事を忘れずに、銭を貯める工夫ばかりして、かつて袋町の乳森の遊女も見た事もなく、又、夷嶋の常芝居を見た事もない。世帯を持ち固むる者の手本にもさるべき人である。
 或る時、或る小家に仲間と集まつて、歌留多遊びの勝負を始めた。かかる堅い人が、その平常にも似合はず、大金二十両の小判を賭けて勝負したのを見て、近所の人が驚いて、「お前は狂気でもしたのか。どうしてかういふ博奕をなさるのか。思ひがけもない事。」と言へば、かのケチな人が笑つて言ふ。「お前の不思議に思はれるのも、尤もな事であるが、今時、何の商売をしても、元銀の二倍に当たる大利を得る事は、博奕以外にない。これまでのやうに舶来品の商売しても、商品の仕入れに手付銀を遣はして、その結果を待つ長い間の気遣ひをしなければならない。この博奕は、只一思ひの、勝つか負けるかの瞬時に決する仕事で、幸ひに勝ちを続ければ、千両の元銀が二千両となる。誠に利の早いものである。この年まで、かういふ事のあるのを知らなかつた事が、残念だ。商品を船に積んで送れば、『海上の災難のないやうに。』と、船魂様の住吉大明神に祈らねばならないが、そんな事をするよりは、むしろ一思ひに金銀を博奕に賭けて、歌留多の神様に祈る方が、金儲けの近道である。」と、真実の心から言ふ顔つきで言つた。さりとは人の心の変はり易き、将来どう変はるものか分からぬものである。
 「これと言ふも皆、欲心から起こる考へであるから、とてもやむ事はあるまい。」と推量してゐたところが、案の如く、この道楽やまず、後々は両親にも見限られ、人の異見も用ゐず、この遊びにその身を浸した。そのために、これまでの人品も賤しくなり、世間との交際もなくなり、妻子も見捨ててしまひ、人の物を只で取る博奕の事が面白くて堪らず、さうしてゐる内に、博奕仲間の詐欺賭博者にかかつて、段々金銀を取り上げられ、いつとなく財産を費消し尽くして、内蔵も空になつた。「あの男もカラ大名だ。」と世間に噂され、これまでのやうに貸し借りをしてくれる者もなくなり、久しくその家に伝はつた諸道具を持ち出し、これをせり売りの夜市に出して売り払つた。「惜しい事ではないか。ないか、ないか。」と言はれて売り立てられ、銀目の物は皆売られたが、これらの道具の中には、親の代に年々催した茶の湯の振舞に用ゐて、世間の人達の見知つてゐる物もあるので、眼前に我が恥をさらす事となつた。
 その後は、親類中でも見限りて、誰も金銭を恵む者もない。縁者には憎まれて、妻も実家から取り返され、下男下女も暇を貰ひ捨てにして、出替はり時を待たずに出て行つてしまへば、家は伽藍堂になり、家中に灯火たつた一つ灯すやうになり、正月が来ても餅も搗かず、盂蘭盆が来ても鯖も食べず、親子三人の糊口をなしかね、とうとう家屋敷を売り払つて、その金銀でその日から又博奕を打ち出し、十日も経たぬ内に負けてすつてんてんになつた。
 その後は、安立町の中程に借家住まひの身となり、昔の名残に紫縮緬の着物は着てゐながら、母親には馴れない朝夕の炊事をさせ、父親には早咲きの水仙を作らせたり、又は刀豆や胡瓜の種を売らせたりして、自分は勝間辺の街道端に出て、大道に渋紙を敷いて、その上で曲げ物に一から十五までの木札を入れておき、道行く人に、右の手に錐を持たせて、この木札を突かせ、これを「天狗頼母子。」と名付けて、馬方や古着買ひや味噌漉し売り等を寄せ、相棒を設けておいて、人々を騙して銭を取つた。もし幸ひに利益を得れば、すぐに出茶屋の女に戯れ、酒にその日を暮らして、銭を持つて家に帰る事はなかつた。
 年寄られた親達には、海近い所であるのに塩さへ舐めさせず、丁度寒い季節で、霰松原の荒神様の前も寂しく、薪もなくて、焚く物にも事を欠く悲しさを思ひ詰めたのであらうか、両親は、胸元を突き刺し自殺して、遠里小野の霜と消えてしまつた。近隣の櫛屋、針屋、筆屋などから駆けつけて見ると、もはや二人共に事切れて、何とも仕方がなかつた。人々は、「可哀さうな事。」と同情した。そこに丁度、一人息子の八五郎が帰つて来て、この有様を見たが、一向歎く様子もない。これを見た近所の人達は、八五郎の仕打ちを憎み、死骸の処置も構はず、野辺送りをする人もなかつた。
 八五郎は、只一人で空き葛籠二つ持つて来て、二人の死骸をこれに納め、それを一荷にして担ぎ、鳶田の墓場に急いだ。すると、岸の姫松の辺で夜も明け方になつたが、この地の暴れ組の者どもが後からつけて、八五郎を切り殺して、その葛籠を手毎に奪ひ取つて、逃げて阿倍野に隠れた。
 この盗人どもは、葛籠を開けて、その不仕合せを知つて、さぞ悔しく思ふであらう。

前頁  目次  次頁

校訂者註
 1:底本は、「しれぬ物ぞかし。」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。

心を呑まるる蛇の形

【本文】

 極月十三日の明け方より畳を叩き立て、春待つ宿の煤払ひ。小笹の当座箒も塵に埋もれ、人はなほ埃をかづきぬれば、水風呂を焚いて、入り加減、よしといふ女の言へば、男聞きて、「新湯は人の身に毒なり。まづ隠居の親仁を入れよ。」と、心にある事を口に出次第に言ひける。不孝はこれにてよろづも知れたる人、陸奥宇都宮といふ所に住みし漆屋武太夫といふ商人なるが、初めはわづかに硫黄、灯心を肩に置きて、山家に通ひて世を渡りけるが、未だ四、五年に出来分限、人も不思議立てける。されどもこの男、常々子細なき者なれば、さのみ人も疑はず。「大黒天の袋を拾ふか、狐福ならん。」と沙汰し侍る。
 人の仕合せは知れぬものぞかし。しかれども、分限に品々あり。世間に変はらず、その身相応の衣類を着て、朝夕も折節の魚鳥を味はひ、貧なる親類を取り立て、下々を憐れみ、神を祭り仏の道を願ひ、親に楽しみを与へ他人の義理を欠かず{*1}、万事素直にして富貴なるは、天の恵み深く、人の本意なり。世の有様を見るに、誠ありて世上に住む人、稀なり。それは、当分家栄えても、滅亡するに程なし。只正直にして、なりはひに一生を送らんは、心の取り置き一つなり。この武太夫、俄に楽しければ、昔を忘れ、時得て我が儘を振舞へば{*2}、所に憎み立てられ、人の付き合ひ絶えて、我が内の竃将軍、寒いも暑いも知らず暮らしぬ。
 そもそも有徳に成りけるは、山里に通ふ時、大隈川の水上に細き枝河の続き、その流れの元は谷深く、岩組するどにして、落ちかかる滝の音に耳を轟かしぬ。木立茂みて蔭暗く、葉末に白玉砕き、不断時雨の如し。水底、夏さへ氷を割りぬ。この川に、江鮭の魚住みけるに、武太夫、水練を得てこれに入り、手捕らへにして、度々人をもてなしける。或る時、淵と思ふ所を捜しけるに、黒き物、山の如く見えけるを、一掴み取りて上がれば、峰より年々流れ込みて固まりし漆なれば、忍びて器を拵へ、我が宝にして取りて帰り、これを商売するにぞ、只取る金銀、後には置き所もなかりし。人皆気を付けければ、なほ欲心深き巧みして、細工の上手に龍を作らせ、水中に沈め置きしに、さながら生きてはたらく如く、日数ふりてこれを見るに、口を動かし尾を延べ剣を縮め、それとは知りながら恐ろし。
 この事、宿に帰り親に語れば、「されば、人間は欲に限りなし。この上の願ひ、何かあるべし。平にやめよ。」と様々異見せしに、かへつて親に仇をなし、己が一子に武助と言ひし、十四になるを引き連れて、かの淵に行きて、次第を語り聞かせ、「我が如く取り習へ{*3}。」と親子とも入りしに、最前の龍に精ありて、武助をくはへて振ると見えしを悲しく、藻屑の下に身を沈め、二人共に息絶えて、二十四時を過ぎて体の上がりけるにぞ、見る人、「親の恥なり。」と憎み、「哀れ。」と言ふ者なし。
 この事顕はれ、「数年かやうの事を押領せし科。」とて、この家闕所せられて、親は所を立ち退き、漸々命を助かり、悲しき浮世に住みぬ。女は、親類とても無き者なれば、そのままの乞食と成りて、恥を顧みず人の門に立ちぬれども、「姑に辛く当たりし者。」とて、すたり行く水をもやらず、程なく飢死にあひぬ。

【訳】

 陰暦十二月の十三日の朝早くから、畳を上げ、その埃を叩き立てて、正月を迎ふる家々では、煤掃きといふ事をする。それに用ゐる、笹葉のついたその時限りの竹箒も、塵に埋もれ、煤掃きする人の体は猶更、埃をかぶつてしまふ。それで、据ゑ風呂を沸かして、一同これに入るのが習はしである。或る家で、「丁度湯加減が良い。」と、よしといふ下女が知らすれば、この家の主人がそれを聞いて、「人のまだ入らぬ沸き立ての湯は、人の体に害がある。まづ隠居の親仁に入らせろ。」と、心にある事を口から出任せに言つた。この男の親不孝者たる事は、この一言でわかる。
 この親不孝を以て知られた人は、奥州宇都宮といふ所に住んでゐた、名は漆屋武太夫といふ商人であるが、元は貧乏な、硫黄附木や灯心を担いで行商をして歩いて、山家などの不便な所に通うて世渡りをしてゐた者であるが、僅か四、五年の内に俄分限者になつたので、人々も怪しんでゐた。しかしこの男、別に悪事を働く者でもないので、さして人も深くは疑はず、「多分、大黒天の金袋でも拾つたか、又は偶然の仕合せに遇つたものであらう。」と噂してゐた。
 人の仕合せといふものは、分からぬものである。しかし、世の分限者にも色々ある。世間と違ふところなく、その身分相応の衣裳を着て、朝夕の食物も、時節時節の魚や鳥などを味はひ、貧窮してゐる親類があると、それを取り立ててやり、又、下々の者には憐れみをかけ、神を祀り、仏道を信じて菩提を願ひ、親を楽しませ、他人には義理を欠く事をせず、万事に素直にして、しかも裕福なのは、天の恩寵深い人で、又、人たるものの本意とするところである。然るに、世情を眺めて見ると、かういふ心に誠を蔵して世間に交じはり行く人は、滅多にない。さういふ人々は、よし一時はその家栄えても、遠からず滅亡するのである。人は只、正直にして、なるままに世を無事に渡る事は、その人の心の持ち方一つでできる事である。この武太夫は、俄に富んで楽になつたので、昔の貧しい時の事を忘れて、奢り、我が儘贅沢な行ひをするやうになつたので、所の人々には憎まれ、人の交じはりも絶えて、我が家の竈将軍になつて権威を振るひ、寒い目も暑い目も知らずに日を暮らしてゐた。
 そもそも、この男の富裕になつた原因を尋ぬれば、山里に行商に通つた時分に、阿武隈川の上流に細い支流があり、その水源は渓谷深い所にあつて、山の岩岨立ちたる所から滝を成して落ち、その音、耳を聾するやうであつた。この辺、木立茂つてその蔭暗く、葉末には滝のしぶきがかかつて、常に時雨の降るやうであつた。水底は、夏さへ水が氷のやうに冷たかつた。この川に江鮭の魚が住んでゐたが、武太夫は水泳ぎの上手であつたから、この流れに入つて魚を手捕りにして帰り、度々人に馳走してやつた。或る時、淵と思はれる所に入つて魚を探してゐると、その底に黒い物が山のやうに見えてゐるのを見つけて、それを一掴み取つて水から上がつて見ると、峰の方から年々この谷川に流れ込んで、自然に固まつた漆であつたので、こつそり容器を拵へて行き、漆を採取してその器に入れて帰り、それを自分一人の宝として、売り払つて商売をした。元より只で仕入れた品物なれば、金銀を只取るやうな商売で、後は、金銀積もつて置き所もない程に儲け貯めた。
 そこで、世間でもこれを怪しみ、気をつけるやうになつたが、それでも武太夫は欲心深く、深い巧み事して、細工物の上手に龍の形を造らせ、それを漆のある淵の底に沈めて、人を脅かす事にした。すると、この造り物の龍が、さながら生きて動くやうに見えた。日数経てこれを見ると、口を動かし尾を伸ばし、尾先の剣を縮めなどして、造り物とは知りながら、見ても恐ろしく感じられた。この事を家に帰つて父親に話すと、父は、「さて、人間の欲は限りのないものである。これだけ金持ちになつたから、この上の願ひはもう何もない。必ずこの上に漆を取る事は、思ひとどまれ。」と、色々異見されたが、武太夫は聞き入れないばかりか、かへつて親に仇をして、その一子武助といふ、十四歳になる者を連れて、かの淵に行つて、事の次第を語り聞かせ、「俺がするやうにして、漆を取り習へ。」と言つて、親子共に水中に入つたところが、かの龍に精が入つたと見えて、武助をくはへて一振り振ると見えたので、武太夫は悲しさに堪へず、水底の藻屑の下にそつと身を沈めたまま、両人共に息絶えてしまつた。
 二十四時を経て、自然と二人の死骸は水面に浮かび上がつて、この様を見る人達に、自分の恥ばかりか、親の恥までも晒したので、人々はこれを憎み、「哀れ。」と同情する者はなかつた。この事、世上に顕はれ、役人の耳にも入つて、「数年、かかる天下の宝を自分一人で横領したのは、不都合である。」と、その罪として財産は没収され、親は住所を立ち退き、漸く命だけ助かつて、悲しい余生を送つて世に住んでゐた。妻は、親類の頼るべき者も持たないので、そのまま乞食になつて、身の恥も顧みず、人の門口に立つて食を乞ふ身と成り下がつたが、「姑につれなくした不孝女。」と評判が立つて、いたづらにすたり行く水すら、恵んでくれる者もないので、程なく餓死してしまつた。

前頁  目次  次頁

校訂者註
 1:底本は、「かゝさず。」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 2:底本は、「振舞(ふるまひ)ば」。底本語釈に従い改めた。
 3:底本は、「取たらへ」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。

当社の案内申す程可笑し

【本文】

 縁付きに、改めて同じ宗門を願ふこそ理なれ。浄土は二十八日を祝ふに、門徒は精進日と言へり。今の世は後生の昼にさがり、西は極楽寺ぞ有り難し。
 相州鎌倉山雪の下と言ふ所に、藤沢屋の木工右衛門、旅人の留め宿をして世を渡りしが、娘一人ありて、後、木工右衛門夫婦、世を早うなりぬ。この娘、二十六、七{*1}まで縁遠き事、形思はしからぬ故なり。いつとなく軒荒れて、影洩る星月夜も一人寂しく、浮世も叶はぬから捨て心になつて、朝夕親の香花を取りて、涙に暮らしぬ。人皆不憫をかけ、「似合ひの事もがな。」と思ふに、幸ひなくて年経る内に、今日を送り兼ねし。
 その頃、若宮八幡の前に、才覚らしき男、鬢付き後上がりにして、上髭子細らしく置きて、木綿縞の袴に、馬乗り開けし長羽織に、割鞘の大脇差さして、神主にも非ず、地下人とも見えず。海の者とも山家の者とも知れぬ男、金太夫と名を付き、この所初めて参詣の人に先立ち、「当社へ{*2}御案内申します。」と早口に腰をかがめ、「これなる銀杏の木の葉は、頼朝の御内儀の丸鏡の下へ入れられし残りぢやと申し伝へました。あれなる切り石が、梶原様の唐臼部屋の跡。鶴が岡と申しまするは、昔、仏の蝋燭立てをここで鋳ました所と申す。これが、静御前の綿帽子掛けの松。小袋坂と申すは、大黒天の墓所なり。切通しと申しますは、土佐坊が読み歌留多を打つた所。扇が谷と言ふは、浅利の与市が出店。この岩に疵のござるは{*3}、朝比奈が下駄の跡。それに杉の大木の見えますが、和田の酒屋の跡。」と、酔うた顔付きして嘘八百、銭を取らぬと言ふ事なし。
 この者、生国は丹波の笹山の町人{*4}なりしが、親の心を大きに背き、旧里を切られてさまよひ、ここに来りて、口賢く近付きを求め、幽かなる片庇を借りて、一日暮しも気散じなる世なり。
 この男、小判を溜めて、人の思はくの外なる内証なれば、木工右衛門が娘の方へ入り婿取り持ち、首尾残る所なし。枕を並べ、親しく成りて後、この娘、毎日持仏堂を開けて御あかしを揚ぐるを見て、かの男、「これは何のためぞ。」と、散々仏前を荒らしぬ。女、心に悲しく、「いかに宗旨違へばとて、後世に隔てのあるべきや。自らに添ひ給へば、我が親もそなたの親同然。その位牌をうち砕き給ふは辛し。子のない仲ならば、身を投げ果つべきものを。儘ならぬ浮世。」と日数ふりて、この子、三歳に成りぬ。
 或る夜の寝覚に、枕元近き灯の油土器を引き傾け、酒の如く一滴も残さず呑みける。その後試しけるに、毎夜呑まざる事なし。これ隠れなく、あなたこなたにて呑ませ、「前代、珍しき事ぞ。」と沙汰せざる所なし。人、なほ不思議に思ひ、泣く時、「油。」と言へば、その儘に機嫌を直しける。
 程なく五歳になりて、常の人にすぐれて賢し。殊更、物言ふ事、大人の如し。夫婦悦び、花の春を時得て、袴の着初めさせて、近所ひけらかしけるに、この子、大勢の中に畏まり、申し出すこそ恐ろしけれ。「私の親は、灯し油売りが肌に金子八十両付けしを、この五年あとに切つて、それより手前よくなられし。しかもその夕暮は雨風のして、二月九日。虫出し神鳴り響き渡りし。」と正々と語れば、各々ぞつとして、この倅が顔を眺めし。「いかにも、いかにも。その頃、亀が井の谷にて油売りを闇討。色々御穿鑿、今に知れず。」と、有つて過ぎたる事を思ひ合はせて驚きける。
 物に因果あり。その中にその油売りが従弟ありて、この事を聞き咎め、「このままは置かじ。」と俄に親類を集め、内談するを聞きて、金太夫堪り兼ね、科もなき女を刺し殺し、己も同じ枕の見苦しく、最後を取り乱しぬ。
 その分に済みて、倅子はたたずむ方もなく、その日は我が家にありしが、暮天に行き方見えずなりにき。今に不思議の晴れざる事。

【訳】

 娘が嫁入りをするには、婿の宗旨を吟味して、同宗門の信者の間に結婚を行はうとするのは、道理ある事である。浄土宗信者の家では、月の二十八日は祝日として、生臭を食べるのに、門徒の真宗信者の家では、この日を精進日として、生臭を忌む。かういふ習慣の相違があるから、異宗旨の間の結婚は不都合である。当世は、仏教信仰のいささか衰へた時ではあるが、この所の西には極楽寺といふ有り難い寺がある。(寺も有り難いが、西方にある極楽世界は有り難い所である。)
 相州鎌倉の雪の下といふ所に、藤沢屋木工右衛門といふ者があり、旅人宿をして暮らしを立ててゐたが、この男に一人の娘の子があった。不幸にして、この木右衛門夫婦は早く死んでしまひ、娘は一人ぼっちとなった。
 この娘は、二十六、七歳{*5}の年まで縁遠くして、縁付きをしなかったが、それは、生まれつき器量の思はしくないためである。その家は、いつとなく軒端荒れて、夜は星の影がその軒を漏れて、月夜も一人居寂しく、浮世の暮らしも心に叶はぬところから、世を捨てる心になって、只、亡き親の位牌の前に香を焚き、花を供へて朝夕を暮らしてゐた。世間の人達皆、この娘の孤独に同情して、「似合はしい縁談もあれかし。」と思ってゐたが、不幸にして良縁なく、空しく年月を過ごしてゐる内に、とうとう貧乏で、その日その日を送り兼ねるやうになった。
 その頃、若宮八幡宮の前に、智恵ありさうな顔つきの男があった。鬢を後上がりに結ひ、上髭を勿体らしく生やし、木綿縞の袴をつけ、背を縫ひ開けた長い馬乗り羽織を着、割り鞘の大脇差を佩きて、見たところ、神主でもなければ地下人でもなく、海の者とも山の者とも分からぬ、得体の知れぬ男であった。名を金太夫と言って、この八幡宮に初めて参詣する人を見ては、その先に立って歩みながら、腰をかがめて、「当社の案内を申します。」と早口にしゃべるやう。
 「ここにあります銀杏の木の葉は、昔、頼朝公の北の方が、丸鏡の下に入れられた銀杏の葉の残りであると申し伝へました。あそこにあります切り石は、昔、梶原景時様の屋敷の唐臼部屋の跡の切り石でございます。又、ここを鶴が岡と申しますわけは、昔、仏前の蝋燭立てを、ここで鋳て造りましたからでございます。この松が、昔、静御前が参詣の節、その綿帽子を取って掛けられた松でございます。小袋坂と申しますのは、福の神大黒様の御墓のある所であるから申します。切り通しと申しますのは、昔、土佐坊昌俊が読み歌留多を切られた古跡でございます。扇ヶ谷と申しますのは、昔、浅利の与一が浅蜊を売った出店の跡でございます。この岩に疵の見えますのは、昔、豪傑朝比奈義秀が歩いた下駄の力でついた跡でございます。そこに杉の大木の見えますのが、昔、和田の酒盛を致した酒屋の跡でございます。」などと、酒に酔った顔つきして、嘘八百のでたらめを喋り立て、八百文の銭を儲けない日はなかった。
 この男の郷里は丹波の国の篠山で、元町人であったが、親の心に大いに背いて不孝をし、勘当されて浪人となり、あちこちとさまよひ歩いた末、ここに流れて来て、口賢く人に懇親を求め、小さい片庇の家を借りて住み、その日暮らしに生活を営んで、気儘な世を送ってゐる男である。この男は、小判を貯へて、他から見て人が意外とする程、手元の豊かな者であるので、「木工右衛門の娘に入り婿になさう。」と世話する人があって、首尾よく調ひ、よろず遺漏なく済ませて結婚し、夫婦の親しみをなした。
 夫は、この女が毎日、持仏堂の扉を開けて、灯明を上げて拝むのを見て、「これは、何のためにするものだ。」と言って、散々に仏前の諸道具を打ち壊した。女は、女心にこの事を悲しく思ひ、「いかに宗旨が違ってゐると言っても、後生の幸ひを願ふ仏法の信仰に、違ひのある筈はありません。私を妻として連れ添って下さるからには、私の親はあなたの親も同様の者であります。それだのに、私の親の位牌を打ち砕きなさるのは、私にとっては誠に辛い事であります。まだ子供のない時ならば、身投げをして死ぬ事もできますが、子供があっては、それも思ふ儘にはなりません。儘ならぬが浮世の常。」と歎きながら日数を経てゐる内に、二人が仲の子供は三歳になった。
 或る夜の事である。夫婦が夜中に目を覚まして見ると、この子が枕元に近い有明行灯の油土器を傾けて、油を一滴も残さず飲み尽くすのを見た。「これは、不思議。」と、その後気をつけてゐると、毎晩油を飲まないといふ事はない。この事隠れなく、世上の噂に立ったので、あそこここで試しに飲ませて見て、「これは、前代未聞の珍事ぞ。」と、この噂をせぬ所はなかった。人々、これを一層不思議に思ひ、この上に、この子が泣く時、「油をやらう。」と言ふと、すぐに機嫌を直して泣き止んだ。
 間もなく五歳になると、普通の人より優れて賢く、殊に物を言ふところは、まるで大人のやうであった。夫婦は喜び、花の春の好時節にあった心持ちで、袴着の式を挙げて、近所に自慢をした。ところがこの子、大勢の人の中に畏まり出て、実に恐ろしい事を言ひ出した。
 「私の親は、灯し油売りの商人が肌に付けてゐた金子八十両をば、今から五年前に、その油売りを切り殺して奪ひ取って、それから金持ちになられたのであります。しかも、その殺された夕暮は、雨風の吹く二月九日の事であり、虫出しの雷鳴まで轟き渡りました。」と、まざまざと言ふので、聞いてゐた人々は、ぞっと寒気を感じて、恐ろしさにこの子の顔を見た。思ひ起こして見ると、いかにも。「丁度五年ばかり前に、亀が井の谷で油売りを闇討にした者があった。御上でも、色々犯人の捜索をされたが、今に至ってわからない。」と、過去の事件を思ひ合はせてびっくりした。
 物には因果の道理がある。「多くの人の中に、その油売りの従弟に当たる者があって、この小児の言葉を聞き咎めて帰り、『このままには捨て置かじ。』と、俄に親類を集めて相談を致してゐる。」といふ事を、近太夫、耳にして、「これは堪らぬ。」と、何の科もない妻を刺し殺し、自分も同時に自殺して、取り乱した最期の見苦しい様を人に見られた。
 事件は、当人が死んだので、そのままに済み、後に残った倅は、俄に両親を失って、たたずむ方もなくなった。その日は家に居たが、暮方になって行方不明になってしまった。今に至って、この不思議は晴れない。

前頁  目次  次頁

校訂者註
 1・5:底本は、「二十六」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 2:底本は、「当社の」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 3:底本は、「御ござるは。」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 4:底本は、「笹山(さゝやま)なりしが。」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。

善悪の二つ車

【本文】

 良き友は少なく、悪しき連れはあるものぞかし。
 同じ心の海深く、安芸国の宮島に通ひ、遊女狂ひに身を焦がし、切り火縄一寸の内に、五里の所を早船にて、毎夜の騒ぎ仲間二人、心から姿からこれ程似たる人、世間広島にも又あるまじ。一人は備中屋の甚七、一人は金田屋の源七と言へり。この二人、親にかかりなれば、浮世の稼ぎを知らず。数年貯へ置かれし金銀、我が物を盗み遣ひ、「所の長者。」と言はれしも、家次第にさびて、十年余りに浅ましくなりぬ。
 親仁、若盛りに色々の艱難を砕き、今、老いの入り前、かかる身無し。朝夕も煙絶え絶えになりぬ。縁付き頃の妹ありて、母親、自然拵への衣類、手道具まで盗み出して売り払ひ、その銀も揚屋の物となりぬ。嫁も裸では呼ぶ人なく、哀れや、腰元使ひの奉公に出され、世上の兄親の優しき仕方を見て、一しほ恨みぬ。
 なほ、「日なたに氷。」の如く水ばかり残りて、後は火吹く力も無く、その年の波、胸に騒がしく、節分の夜暗きを構はず、甚七、源七、紙子頭巾をかぶり、棒組の口を揃へ、御厄払ひに出ける。誠に乞食に仕習ひなく、死なれぬ命の恥長く、「東方朔が九千歳。」と声可笑しげに喚けども、これにさへ仕合せなく、夜明け方まで駆け廻りて、漸々二人の中に銭十八文、煎豆二百粒ばかり。「これでは埒も明かぬ世や。」と、親達をさらりと西の国に捨て置き、源七、甚七、古里を去つて、備前岡山より路銭なくて、この所に足を踏み留め袖乞ひするに、いまだ昔の名残、額に見え、色白にして鬢つきの綺麗なれば、門立ちも不思議がりて、「通れ、通れ。」の言葉荒く、身の置き所もなく、過ぎにし奢りの事ども思ひ出し、男泣きの涙。豊嶋筵を持つて、よその見る目も恥づかし。
 その頃、備前は{*1}心学盛んにして、人の心も素直になり、主人に忠ある人、親に孝ある者は御恵み深く、おのづからその道に入りて、国の治まるこの時なれば、二人の才覚出して、足腰の立たざる野臥しの非人を語らひ、甚七は片輪車を作りて、七十に余る老人を乗せて、町筋に出るより涙ぐみ、「国を申せば安芸の国、年を申さば二十三。いかなる因果の報いにや、一人の親を養ひ兼ね、面を晒し勧進す。何も御慈悲は御ざらぬか。」と声悲しく、誠がましく歎きしに、人施して、銭米少しの内に山なして、後は車に積み余りぬ。
 源七も、年老いたる者を負ひて、その如くありきしに、人皆、心ざしを感じて情けをかけられければ、野末に篠竹を囲ひ、朽木のあるに任せて拾ひ集め、棟を並べて庵の形を作り、雨露我が家にて凌ぎ、「昨日までは雲を見て臥したる事を思へば、今宵の楽しみ、この上何かあるべし。」と、土釜に野沢の水を汲み込み、貰ひし物を一つに炊けば、搗かぬ米あり、新米あり。赤米、真搗き、小豆に限らず様々の色なして、天目に竹窓。「生あれば食あり。」と、腹膨るるに外の願ひもなし。
 甚七、老人に按摩をとらせ、夜もすがら蚊を払はせ、年寄りのくたびれを許さず。眠れば胴骨を踏み叩き、「とても腰抜け役のおのれめ。」と辛く当たるを、源七は格別にいたはりて、「さりとはさやうにすべき事に非ず。まづは親と名付け、しかもその蔭にて今日の身の上{*2}を助かれば、その恩は忘れじ。」と懇ろに当たるを、かへつて甚七そねみ、それよりは笹戸一重の中を隔てて、松火の取り交はしもせざりき。
 天、誠を照らし、善悪を咎め給ふにや。甚七、いつとなく人の慈悲を受けかね、渇々になりぬ。源七は、日に増し心の儘に勧進ありて、後は雨風の時は出ず、この老人をまことの親の如く孝を尽くしぬ。隣なる親仁の、これを見て世を歎き、甚七を恨み、「今日限りと、舌食ひ切つて果つべし。」と胸を定めし。
 この人、そもそもは賤しからず。越後にて名のある侍。「子細あつて浪人の後、身を隠し、今浅ましく成りぬ。」と昔物語を、甚七が留主の折から源七に聞かせて、是非もなき涙をこぼし、「我、空しくなりて後、何惜しからねど、せめて身体を犬狼のせせり捜さぬやうに、影隠して。」と頼まれけるにぞ、一しほ哀れまさりて、「自然の事ありとても、その気遣ひは、し給ひそ。我この所にある内は、悪しくは取り置き申すまじ。少しも心にかけ給ふな。」と頼もしく言ふにぞ、老人、手を合はして拝み、「さてもさても嬉しや。」と袖に玉を流しぬ。
 かかる時、旅人と見え、馬、乗り物を吊らせ、用ありげにたたずみ、この老人の面影を暫く見定め、「橋本内匠様か。」と取り付きぬれば、「金弥か。」と親子の縁切れず。
「これにて逢ふ事の悦び、限りなし。我事、武州に下りて随分身代を稼げども、有り付き遅く、あなたこなたを見合はせしに、望み叶ひて、先知五百石にて東国方へ相済み、この度御暇申し上げ、御迎ひに参りしに、五十日の訴訟なるに、尋ね兼ねて日数重なりしに、今日ここにて逢ひ奉る事、武運の尽きぬしるし。」と喜びぬ。老人、この程の難儀語り給ふにぞ、涙干す間は無かりし。
 かかる時、甚七帰りてこれを驚きぬ。金弥、捕つて押さへ、「情け知らずのおのれ、このまま置く者にあらねど、命を行く末に自然に思ひ知るべし。」と{*3}この庵を崩し、昔の野原と成し、源七は、この度の心ざしを感じ、「我、抱へ申すべし。」と、今一人の乞食も、老足なれば駕籠に乗せ、東路に下りぬ。
 残る物とて滅形合器、貝杓子。古筵の朝露、夕に風の身を責め、甚七が悲しさ。この事聞き伝へて、その後は所を追つ立てられ、なほ行く先迫りて、その年の雪の頃、播磨の書写寺の麓にて、立ちすくみて死にける。

【訳】

 良き友達といふものは少なく、悪しき仲間はいくらでもあるものである。
 同じ心の交じはり深く、海を渡つて安芸の国の宮島に通ひ、そこの遊女遊びに身をやつし、しかも切り火縄の僅か一寸燃える間に、広島から宮島に着くやうな早舟を仕立てて毎夜通ふ、道楽仲間二人があつた。この二人は心も容貌もよく似てゐて、これ程によく似た人は、世間広しといへども、この広島にも又と二人はあるまい。その一人は備中屋の甚七と言ひ、他の一人は金田屋の源七と言つた。この二人は、まだ親がかりの身であるから、世間の稼ぎの道を知らず、只遊び一方で、折角親が数年苦労して貯へておかれた金銀――それは結局、自分の財産となるべきものであるが――を盗み出しては、遊蕩費に消費して、その地方の長者と言はれた家も、そのために次第に衰へて、十年ばかりの間に浅ましく零落してしまつた。父親が若盛りの年頃に、色々と困難を凌いで折角作り上げた身代であるのに、今老境に入つて頼る身寄りもなく、朝夕に立てる炊煙も絶え絶えな、貧乏の身となつてしまつた。
 結婚頃の年配の妹が一人あつて、母親が、これまで目に立たぬやうに折々調へて来られた、嫁入り道具の衣類や手周りの道具までも、盗み出しては売り払ひ、その銀をも遊蕩費に使つて、悉く揚屋の物にしてしまつた。かく折角の嫁入り道具をなくしたので、妹も、道具なしに嫁にしてくれる家はなく、空しく婚期を過ごすやうになつたので、富家の腰元使ひの奉公に出された。世間には、我が妹に優しい親代はりの親切な兄のあるのを見て、妹は兄を一層怨むやうになつた。
 それでもやはり、日なたに出された氷の溶けて、後には水ばかり残るやうに、残る財産は何もなくなり、その後は赤貧になつて、その年も暮になつた。年末になつてはいよいよ心配で、節分の夜の暗いのも構はず、甚七、源七の両人は、紙子頭巾をかぶつて顔を隠し、二人仲間となつて、口上を揃へてしゃべりながら、厄払ひの乞食に出た。諺に、「乞食に仕習ひなし。」と言ふが、誠にその通りで、二人は死なれぬ命を生き長らへて、世に恥をさらしながら、ともかくも乞食をして廻つた。「東方朔が九千年も生きた。」といふ故事を引いた文句を、声可笑しく大声に唱へても、乞食してさへ幸運は無く、世の明け方まで市中を歩き廻つたが、二人の中に僅かに銭十八文と、煎り豆二百粒ばかり貰ひ溜めたばかりであつた。
 「これではこの世の暮らしはダメ。」と思つて、親達をそのまま西の国広島に捨てておいて、甚七と源七は故郷を立ち退いて、備前の岡山に出たが、ここで旅費が尽きたので、ここに留まつて乞食をした。ところが、元からの乞食でなく、以前立派な町人の息子であつた時の名残として、額の辺に上品なところが残つてゐた。色は白く、鬢付きは綺麗であるから、人家の門口に立つて食を乞うても、人々が本当の乞食とせず、胡乱者と疑つて、「通れ、通れ。」と言つて言葉荒く追ひ払はれるので、二人は身の置き所もなく、これまでの贅沢の事を思ひ出しては、男泣きに涙を流す。その涙、身につけた豊島筵を漏れて、他人の見る目も恥づかしい事であつた。
 その時分には、備前の国は心学が盛んに行はれてゐたが、その感化を受けて、人心も正直になつて居り、主人に忠なる者、親に孝なる者は、国守から賞せられて恵みを深く垂れられ、自然と人々は各々、その道に入りて教へを守り、国内はよく治まつてゐた時代であつたから、甚七、源七の両人は、その知恵分別を出して工夫をなし、足腰の立たぬやうに老衰して、山野に住む乞食を探し、それによく言ひ含めておいて、甚七は片輪車を作つて、七十歳に余るこの乞食を載せて曳き、通り筋に出ると涙ぐんだ声を上げて、「生まれた国を申せば安芸の国、年を申せば二十三歳。いかなる因果を身に受けたものか、貧乏に生まれ合はせ、たつた一人の親を養ひ兼ねて、かく人の前に恥づかしい面を晒して乞食をします。何も御慈悲を下さる者はございませぬか。」と、いかにも声悲しげに誠らしく物乞ひして歩くと、人々はこれを真実と思ひ、孝心に感じて米や銭の施しをするので、暫くの間に沢山貰ひ溜め、後は、その車にも積み切れぬやうになつた。
 源七も同様に、歳の老いた乞食を語らつて、これを背負うて甚七同様に乞食して廻つたところが、所の人々が両人の孝心を感心して情けをかけて、色々物など恵んでくれたので、野末に小さな竹を以て囲ひ、又、朽ちた木などのあるのを拾ひ集めて小屋を作り、二軒軒を並べてそれに住み、我が家で雨や露を凌ぐやうになつた。これまで野宿をして、雲を見ながら寝た事を思へば、今夜から小屋の中に住む事のできるので、「これにまさる楽しみは、世に何があらう。」と満足して、土釜に野沢の水を汲み入れて、貰ひ溜めた穀類を一緒に入れて炊ぐと、玄米もあれば新米もあり、赤米もあれば真搗きの精白米もあり、又、小豆さへあり、まだその他の物もあるので、実に色々な色の御飯に出来上がるのであつた。食器は天目茶碗、小屋の窓は竹窓。粗末ではあつても、諺に言ふ「生あれば食あり。」で、ひもじい思ひをする事もないので満足して、他に何の願ひもない。
 甚七の方は、その相棒の老人に按摩を取らせたり、又、夜もすがら蚊を払はせたりする。老人の事とてくたびれ易く、疲れても、手を休める事を許さない。老人が居眠りでもすると、怒つてその胴骨の辺を踏んだり、叩いたりしていぢめる。さうして、「腰抜け役に、これ位の事をさせても、おのれ、ろくにしない。」と言つて、大変つれなく当たるのに、源七の方は、それとは格別の相違で、大層相棒の老人をいたはつた。さうして、「甚七は、あのやうに老人を虐待するけれど、ああすべきものではない。まづ、仮にも親と名付けて物貰ひをし、その御蔭で今日のやうな、飢餓にも遭はぬ身の上となつてゐるのであるから、老人の恩は、自分は決して忘れまい。」と言つて、親切にその老人を遇するのを、甚七はかへつてそねみ、それからは、棟を並べた小屋に笹戸一重を隔てて住んでゐるに関はらず、二人の交際絶えて、松火の取り交はしさへしなくなつた。
 天は人の心の誠を照鑑あつて、善を賞し悪を咎め給ふものであらうか、老人を虐待する甚七は、いつともなく世人の情けの貰ひ物が少なくなり、ほとんど餓死するばかりの身となつた。それに引きかへ源七は、日に増して思ひ通りの多くの貰ひがあつて、後は、雨風の日には乞食にも出ず、小屋に居り、相棒の老人には真の親のやうに孝行を尽くした。それをば甚七の方の老人が見て、甚七が留守の折に、つくづく人生を歎じ、甚七を恨んで、「今日を限りに死なう。」と思ひ、我と我が舌を噛み切つて死ぬる覚悟を決めた。
 この老人は、元々素性賤しく無く、越後で相当の名のある武士であつた。「理由あつて浪人し、世間から身を隠して、今の如き浅ましい乞食の境遇に落ちた者である。」と、昔話をして源七に聞かせ、無理もない涙を流して、「私は、亡くなりましたところで、何も惜しい命とは思ひませんが、せめて死骸だけは、犬や狼に食ひ散らされたうありません。どうか死骸だけは、埋め隠しては下さいますまいか。」と頼むので、源七は一層可哀さうになつて、「万一の事があつても、後の事は決して心配なさるな。私がここに居る間は、決して悪くはしませんから、少しも心にかけなさるな。」と頼もしく言つてやると、老人は両手を合はせて源七を拝み、「さてもさても、嬉しう思ひます。」と言つて、袖に涙の玉を流した。
 かうしてゐる時、旅の人と見えて、馬を曳かせ、籠を舁かせて、用事ありげに小屋の前に立ち止まり、この老人の顔を暫しつくづくと見定めて、「橋本内匠様ではございませんか。」と言つて、老人に取り付いた。すると老人は、「金弥か。」と言つて、親子の名乗りをし、「親子の縁が切れず、かうしてここで巡り逢ふ事の喜びは、限りもありません。私事は、武州江戸に下り、奉公にありつかうと随分骨を折つて見ましたけれど、奉公の口見つからず、あなたこなたの大小名を聞き合はせまして、この度、かねての望み叶ひ、先知の五百石で、東国方の御大名に奉公叶ひ、今度御暇を願ひ出て、父上の御迎へに参りましたところ、五十日間の御暇の期限も迫りましたが、御尋ね出し兼ねましたところ、今日ここで御逢ひ申す事のできました事、未だ武運の尽きないしるしと存じます。」と、金弥は大いに喜んだ。老人は、これまでの艱難辛苦を語られるので、親子、涙の乾く間もなかつた。
 かういふところに甚七帰つて、この様子を見てびつくりした。金弥は甚七を取つて押さへて、「情け知らずの貴様、このままに許しておくべきものではないが、暫くこのまま見逃しておく。将来自然と、天命は悪を許されないといふ事を、思ひ当たるが良い。」と言つて、この小屋を打ち毀つて元の野原とし、源七は、「この度、老父をいたはつてくれた志を感じるから、自分が抱へて家来にしてやらう。」と言ひ、今一人の老人の乞食も、「老人の事なり。足が不自由であらうから。」と駕籠に乗せて、一緒に東国方へ下つて行つた。
 その後に残つた物は、壊れた合器や貝杓子や古筵で、朝に置く露、夕べに吹く風にさらされるその身の苦しさに、甚七はつくづく身の上を悲しんだ。この事が世間に漏れ聞こえたので、その後、所を追つ立てられた。猶行く先々に世を狭うして、とうとうその年の冬、雪の降る頃、播磨の国の書写山の麓で、行き倒れになつて死んでしまつた。

前頁  目次  次頁

校訂者註
 1:底本は、「其比心学」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 2:底本は、「身うへ」。底本語釈及び『新編日本古典文学全集67』(1996)に従い改めた。
 3:底本は、「思ひしるべし。此」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。

↑このページのトップヘ