江戸期版本を読む

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カテゴリ:井原西鶴 > 校訂評釈本朝二十不孝(1947刊)

枕に残す筆の先

【本文】

 都には今、四十の内外を構はず、法体して楽隠居をする事、専らに、はやりぬ。頭丸めしとて、金さへあれば、色里の太夫もそれには構はず自由になる。川原の野郎も猶。遊山に変はる事なし、世のむつかしき目に逢はぬがこの徳。何にかは替ふべし{*1}。されども、女心は愚かにして、嫁子に家を渡す事、いつまでも惜しみぬ。京も田舎も、見るに聞くに、その通りなり。
 土佐の畑と言ふ所に鰹屋の助八とて、漁船を仕立てて出す者ありしに、賢く世を渡る海の上を心に治め、次第に分限になりて、助太郎と言へる子を持ちける。「一人も一人から。」と、利発にして親の気を助け、諸人の褒められ者。親の身にしては、一しほ嬉しかりき。十九の時、同じ所の美なる娘を見立てて、何に不足なく嫁に取り、この上に思ひ残せし事もなく、母屋の裏に座敷造りて{*2}、助八、これに引き込み、よろづの鍵を助太郎に渡し、商売は律義なる手代二人、後見させければ、この身代、鬼に金持たせ根強い事、隠れなし。
 助太郎、夫婦合ひのよき事を、二人の親、限りもなく嬉び、この上に孫の顔見る事を願ひ、いまだ振袖の身なれば、下々も我が儘出して、台所そこそこに、始末の事も心もとなく、母親、幾度となく見舞ひて、末々まで気を付け給へば、あまたの下子ども、奉公を大事に、蔭なく働きぬれば、万事、艫の廻りて、「舟問屋の勝手は、これで持つた。かみ様の御飯貝。」と言へり。「朝夕可笑しき事ばかり仰せられ、御年は寄られても、御心ざしわつさり。」と、いづれも行く末頼もしく身を任せ、骨を惜しまず働きける。
 されども、嫁の習ひとて、これ程悪しからぬ姑をそねみ、春雨の降り続き、物の淋しき曙に、「久々の部屋住まひ。今といふ今、気を凝らしぬ。御愛しさ限りなきに、思ふ仲の別れ路。浮世とは、かかる事ならん。」と、長枕の端に書き残し、「男の夢に、もしも見られぬ内。」と、寝間着ばかりの乱れ姿にして、この宿を忍び出、身の行く末は定めずなりぬ。
 助太郎目覚めて、枕に筆の形見。「これは。」と男泣き、大方ならぬ歎き。各々驚き、尋ねけるに、山本近き比丘尼寺に駆け込み、「この身、出家の望みは無くて、只世を捨つる。」と言ふにぞ、「子細あるべし。」と様々詮議の折節、皆々、ここに尋ね逢ひ、庵の主によくよくこの人を預け置き、宿に帰りてこの事を申すにぞ、二人の親達安堵して、その後、迎ひを遣はしけるに、更に帰る気色なし。
 助太郎、この女を恋ひ焦がれ、親の事は外になして、かの寺に行きて、「夫婦は二世。」と戯れ、日数を重ね、宿に戻らず。科なき母親、邪慳の名を立てける。
 それにも構はず、「一人の子なれば不憫。」とばかり思ひ込み、「とかくは嫁、我をうるさく思ふ故ぞ。」と夜もすがら物案じて、「我さへ身を捨てければ。子の命の替はり。」と思ひ詰めて観念し、「心地悪しき。」と言ひ出し、その日より湯水も飲まず。十九日目に、はかなく世の夢と成り給ふ。
 助太郎は、「時節の死去。」と歎かず。女房は悦び、それより宿に帰り、昔の如く世間を勤め、一人の親仁をも、耳の遠きを幸ひに、あるに甲斐なく押し籠めて、顔見る事もなかりき。
 一年余りも程過ぎて、書き置きせし枕、取り出し見れば、母親の筆にして書き付けおかれし。「世を見るに、嫁、年寄りて姑となる。人の心の恐ろしきに、優しき狼を恐れる。子の可愛さ余りて、惜しからぬ身なれば、千歳も散らぬ花、嫁子に命を参らす。」と書き残されし。これを聞き伝へ、人の付き合ひ欠けて、おのづから取り籠りてありしが、夫婦刺し違へて果てける。

【訳】

 京では目下、四十歳内外の若さをも構はず、髪を剃つて出家姿になり、楽隠居をする事が大変流行してゐる。坊主頭でも金銀さえ持つて行けば、遊里の太夫も、そんな事は構はず身を任せて自由になる。又、四條河原の野郎役者も同じ事で、遊びといふ事に少しも差し支へはない。世間の面倒な事に遇はないで済むのが出家の一得で、この一得は、何物にも替へられぬものである。しかし、これは男の事で、女心といふものは愚かなもので、嫁に譲る事を惜しんで、いつまでも家事の面倒を見ようとするのが母親の常で、京も地方も全てその通りである。
 土佐の国幡多といふ所に、鰹屋の助八と言つて、漁船を所有し、それを仕立てて漁労に出す者があつた。海上の事をよく知つて、賢く世渡りをしたので、次第にその家富み栄えた上に、助太郎といふ子宝までも持つてゐた。諺に、「一人も一人柄。」と言ふが、この一人子の助太郎は、利口に生まれつき、親の心助けとなり、世間の人達からは褒め者にされたので、親の身にしてはひとしほ嬉しく思つてゐた。十九歳の年、同じ幡多の見目美しい娘を見立てて、何の不足もなく助太郎の嫁に迎へた。父親は、「この上に思ひ残すところはない。」と言ふので、母屋の裏に隠居座敷を造つて、自分はそこに引つ込み、家督を助太郎に譲つて、全ての鍵を引き渡し、商売の事は、正直に勤めてゐる二人の手代に後見させる事にした。それで、この鰹屋の身代は、鬼に金銀を持たせて保管させるやうなもので、その根強さは、世間によく知れ渡つてゐた。
 助太郎夫婦の仲の良さを見て、両親は限りなく喜んで、「この上には、一日も早く孫の生まれるやうに。」と願つた。「嫁は、まだ振袖を着る程の若さであるから、下々の雇ひ人達が我が儘心を出して、勝手向きの事に身を入れず、倹約を忘れるやうな事があつてはならぬ。」とそれを心配して、母親は日に幾度となく台所の方に出て来て、瑣末の事まで一々気をつけて注意されるので、沢山居た雇ひ人達は皆、「奉公大事。」と蔭日向なく働いたので、家事万端よく行き渡つて、「この舟問屋の勝手元は、このお上様の飯杓子で持つてゐる。」と世間では言つた。この母親は、朝夕人の面白がるやうな事ばかり言はれ、歳は取られても、性質がいかにもさつぱりしてゐるので、雇ひ人達は皆、将来を頼もしく思つて、この家に身を任せて、少しも仕事に骨惜しみをせず、よく働いた。
 しかるに、嫁の習ひとして、姑をうるさがるものであるから、この家の嫁も、これ程に良い姑をそねみ、春雨の降り続いて物寂しい日の曙に、長らく部屋住みの身をつくづくと退屈して、今といふ今、いよいよ厭になつてしまつた。そこで、「お愛しさは限りないが、かく思ひ合うた仲に別れねばならなくなつたのは、いかにも辛う思ひますが、これが浮世といふものでございませう。」と、長枕の端に、夫に宛てた書き置きを書き残しておいて、「万一、夫の目に触れてはならぬ。」と、寝間着ばかりの乱れ姿でこの家を忍び出て、行方知れずなつてしまつた。
 助太郎は目が覚めて、枕に残してある妻の書き置きを見て、「これは。」とばかり驚き呆れて、男泣きに泣いて、一方ならぬ歎きやうであつた。人々、これを見て驚き、処々方々を尋ね、探しに出た。ところが嫁は、或る山里近き所の尼寺に駆け込んで、「出家になりたい望みはないが、只、世を捨てたい。」と言ふので、尼達が、「これには何か理由があるのであらう。」と、色々詮議をしてゐるところであつた。丁度そこに、追手の人々が駆けつけて、庵主の尼に、よくよく嫁の身を頼み、預けておいて、引き揚げて行つた。家に帰つてこの事を話すと、両親も安堵して、その後で迎への使者をやつたが、嫁はさらに帰らうとする様子もない。
 助太郎は、この妻を恋ひ焦がれて、両親の事をさらに思はず、かの尼寺に出かけて行つて、「親子は一世だが、夫婦は二世の契りだ。」と言つて、ここに泊まり込んで、夫婦の戯れをなして、日数を重ねて一向家に帰つて来なかつた。そのために、何の罪もない母親に、世間では、「邪慳の母故に、若夫婦は家を逃げ出した。」と悪評を立てた。
 世間の悪評にも構はず、たつた一人の子だから、「倅、不憫。」とばかり思ひ込んで、「とかうは言ふまい。結局は、嫁が私をうるさがるためだ。」と考へて、母親は、夜もすがら色々思案に耽つた末、「自分さへ命を捨ててしまへば、後は丸く収まるに相違ない。子の生命に替へて、我が生命を捨てよう。」と決心し、「気分が悪い。」と言ひ出して、俄に作病し、その日から湯も水も飲まず絶食して、とうとう十九日目に儚くこの世を去つてしまはれた。
 助太郎はこれを、「天寿尽きて死なれたもの。」として、歎かない。嫁は、邪魔な姑の死を喜び、それから夫婦共に我が家に帰つて、以前の通り世間の交際などをした。さうして一人の父親をば、その耳の遠いのを幸ひにして、ある甲斐もないやうに隠居所に押し籠めておいて、めつたに顔を見る事もなかつた。
 一年余りも過ぎて、偶然、かの母親の書き置きを、入れておかれた枕を取り出して発見し、見ると、間違ひなく母親の筆跡であつた。「世間の様を見ると、年若い嫁が年を取つて姑となるもので、嫁はいつまでも嫁であり、姑は初めから姑であるものでない。優しい嫁も、姑となると、とかく嫁に邪慳になるものであるから、優しい自分でも、嫁はそれを狼のやうに恐れるのであらう。私は、我が子の可愛さの余りに、もはや年取つて惜しくもない我が身であるから、千年も若さの散らないやうにと願ふ嫁に、我が命を参らす。」といふ意が書き置いてあつた。
 この事を世間でも聞き伝へて、若夫婦を憎み、誰も交際する者もなくなつたので、夫婦は自然と家にばかり閉ぢ籠つてゐたが、或る日、とうとう刺し違へて、二人とも死んでしまつた。

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校訂者註
 1:底本は、「かゆべし」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 2:底本は、「造(つく)りして」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。

木蔭の袖口

【本文】

 曇りなき身を疑はるる程、世に迷惑なる事は無し。天、誠を照らし給ヘども、その時節を待たず身を失ふも悲し。心の浪風立つも、人の言ひなしにして是非なき事あり。
 越前の国敦賀の大湊に榎本万左衛門とて、百姓ながら商人半分の者あり。随分賢く立ち廻り、この所の市に出店。都の春の花をここの秋に咲かせ、馬引き、野人を招き、生き牛の目を抜き、亀井算などは宙括りに、巾着の口を締め、世間の人を腰にさげる程なれども、仕合せは思ふに儘ならず。する程の事、左前に成つて元手を減らし、裸に成りぬ。必ず悪事は続き、田畠も取り目なく、四、五年の荒野となりて、皆、御年貢に売り取り、悲しき中にも、無用の智恵ある顔を日頃出し置き、わりなく頼まれ、「人の公事沙汰にかかりがましき者。」とて、後には親類さへ音信不通になりぬ。猶又、連れ添ふ女房にも思ひをさせ{*1}、気を悩みて月日を過ごし、次第弱りになりて、二十六の五月の末に、浮世を闇と成りぬ。
 二人の中に万之助とて、いまだ乳房を忘れぬ一子ありて、歎きも一しほやむ事なく、それより四十九日までは、香花をとりて、万之助が枕蚊帳に寄り添ひ、暫しも夢は結ばず。泣き出す時、殊更に悲しく、摺粉、地黄煎を与へ、膝の上に抱き上げ、「とと、とと。」揺れども泣きやまず、夜は明けず、今の切なさ。「子といふ者、なくてあらなん。」と、嬶が事を思ひ出して、面影に立つ。
 男ばかりにして住み憂き事を思ひ当たりて歎き、身の苦しき時、子を捨つる薮垣を忍び出、半道ばかり野末なる念仏寺の門前に行きて、辻堂の内に万之助を捨て置き、立ち帰れば、人の身を離れて板敷の冷ゆるを覚えて、声を上ぐれば、魂も飛び出、又懐に入れて、「捨てねばならぬぞ。」と言ふ時、夜も明け方になりて、軒端なる雀の囀りて、おのが子を様々に育むを見て、「たまたまこの身を受けて、この心ざし。口惜しき。」と、又宿に帰り、五十日の弔ひ、精進をも上げて、その日より里々へ通ひ商ひの糟買ひも、身過ぎの種として、片方のふごに万太郎を入れて行く道すがら、涙を片荷に、漸々一村に入りぬ。
 この里、優しくもこれをいたはり、色々、「この子の人なる」事を申しぬ。折節、庄屋の広庭に女ばかり茶事して集まりしが、この中に似合はしき後家ありて、いづれも取り持ち、軽々しく{*2}縁組を急ぎぬ。この女房、見苦しからず、しかもしをらしき心底。夫婦の取り組み悦ぶに非ず。近き頃に子を失ひ、その乳の上がりもやらずあるなれば、人間一人助くる思ひをなして、我が子変はらず万太郎を育て、世の稼ぎを大事に、夕に織りて、朝に売り木綿して、三人共に飢ゑず寒からず。程なく家富みて、その後は下々もあまた使ひ、万太郎も十六になりて、角前髪のとりなりも、これを羨みぬ。
 されども形に心は違ひ、不孝第一の悪人。年中、親の気を背きしを、継母よろしく取りなし、ひそかに異見をする中にも、人の嫁など頼るを頻りに申せば、かへつて悪心を起こし、日頃の恩を忘れ、「継母の難を巧み、追ひ出すべし。」と思ひて父に申せしは、「迷惑ながら、言はねば天命を背くなり。母人、我への戯れ、さりとては面目なく、随分堪忍して今までは包みし{*3}。自然、脇から見し人あらば、罪なくて指さされんも無念。」と、満更無い事に涙こぼしぬ。
 父親、驚きながら、「よもや、さやうの事あるまじき。」と言へば、「御疑ひ、尤もなり。その証拠を御目に懸け候べし。宿を出給ふ体にて物蔭より見給へ。」と、親仁を外へ出し置き、「庭前の柿の盛りなれば、梢色づくを取るべし。」と言ひけるにぞ、母も立ち出、眺められしに、万太郎、よき首尾を見合はせ、木蔭に入りて、「頸筋、背中にいかなる虫か入りて、身を痛めける。早く取りて給はれ。」と言へば、母親、何心もなく左の袖口より手を差し入れ、暫く探して、「何も手に当たらず。されども心元なし。着物脱いで内を改めよ。」と言はれし。
 父親、遥かなる生垣よりこれを見て、「さては、それよ。」と一筋に思ひ定め、年月の恩愛、一度に忘れ、子細は言はで暇の状出され、「俄に飽かせ給ふは、いかに。悪しき事あらば、日頃のよしみに一通り仰せられての上は、恨みもなき。」と歎くに、万左衛門、聞き入れねば、「是非に叶はぬ身。」とて、黒髪切りて家を出、殊勝なる法師と成りぬ。
 誠に「悪事千里。」万太郎が仕業、誰言ふともなく所に沙汰して、諸人憎み立て、身の置き所もなく、上方へ立ち退きしに、七里半の道中にて、時ならぬ大雷。落ちたるとも覚えず行く内に、万太郎を乗せたる馬ばかり残りて、口引く男立ち帰り、この不思議を語りける。

【訳】

 何の罪咎もない我が身の上について、他人に疑ひをかけられる位、世の中に迷惑に感ぜられる事はない。天は見通しで、善悪真偽を悉く照鑑されるから、いつかは真相の世に顕はるるものではあるけれども、まだその明白にならない内に死んでしまふ事がある。それはその人にとつて、誠に悲しむべき事である。告げ口などから、人の心に疑ひや怒りの波風の立つ事もあるが、それはその人にとつては、やむを得ない事である。
 越前の国敦賀といふ大きな船着きの港に、榎本万左衛門と言つて、農業に商売を兼ねた者があつた。随分利口に立ち働き、この港の市場に出店を出し、京の賑はいをここに見せて店を飾り、馬方や百姓の顧客を集めて、生きた牛の目も抜きかねないやうに利口に立ち廻り、亀井算などは、一々算盤を置かずに宙でやつてのけ、巾着の口はしつかり締めて入費を節約し、世間の人々をば腰に提げる程の力量を持つた人であるが、人の幸福といふものは、意の如くならぬもので、する程の事悉く齟齬して、身代も左前になつて資本を減らし、終には無一文になつてしまつた。悪い事はきつと続くもので、田畠の方も不作で、四、五年間といふもの、荒野同然であつた。穫れる程の物は、悉く年貢のために売り払つてしまひ、悲しい境遇になつて、折角の知恵も無用になつてしまつた。それでも、その智恵を看板に世間に出しておいたので、かういふ身の上になつても、人から無理に頼まれては、公事ごとに関係した。が、「いかにも言ひがかりでもしさうな、剣呑な人間。」と見られて、親類の者さへ音信不通になつた。その上に、連れ添ふ女房には、長い間種々心配をさせたので、次第に健康衰へて、終に二十六歳の五月の末に死んでしまつた。
 夫婦の間に万之助といふ一人の子があつたが、まだ乳房を離れない年であつたので、女房の死んだ歎きは一層強く、やむ時はなかつた。それから四十九日の中陰の間は、香を焚き花を供へて弔ひ、万之助が眠る時は、その枕蚊帳に寄り添つてやる事にして、暫く安眠する事もなかつた。万之助が泣き出すと一層悲しく、摺り粉に地黄煎を入れたものを与へて、膝の上に抱き上げたり、「とと、とと。」と鶏を呼んでゆすぶつて見ても泣き止まず、夜は明けず。その時の苦しさ切なさは、「いつその事、子供などいふものは、なければ良い。」と捨て鉢になり、死んだ女房の事を思ひ出して、すずろにその面影が眼前に浮かぶ。そして、「男は、独身では世に住み辛い。」といふ事がつくづくと思はれて、我が身の上が歎かれる。
 「我が身の苦しさには、可愛い子も捨てる。」と言ふやうに、万左衛門もひそかに我が家の藪垣を忍び出、半里ほど離れた野末の念仏寺の門前に来て、そこの辻堂の内に万之助を捨て子にして、置いて帰らうとすると、子は今までの暖かい父の懐を離れて、冷たい板敷の上に置かれたので、その冷たさを感じて泣き出すので、万左衛門は、魂もその身を離れるやうな思ひをして、再び我が子をその懐に抱き入れて、「可哀さうだが、このままにしては、共に餓死せねばならぬ。必ず共に、捨てられても怨んでくれるな。」と、まだ分からぬ子に言ひ聞かせる時、夜は既に明け方になり、軒端に囀る雀を見れば、我が子のために色々骨を折つて、食を求めて育んでゐるので、万左衛門は、「容易に受け難き生を受けて、たまたまこの世に人間と生まれて来て、鳥にも劣る業をしては相済まぬ。」と考へて、捨て子を断念して我が家に帰つた。それから五十日の新仏の弔ひ事も仕舞ひ、精進上げもして、その日から稼ぎのために村里村里を廻つて、行商の糟買ひを始めて、それを糊口の種とした。片一方のふごには万太郎を入れて、片荷にして、道々泣きながら、漸う或る村に着いた。
 この村里の人達は、優しくも万左衛門親子をいたはつて、この子を、「良い子である。」と褒めた。丁度その時、庄屋の屋敷の広庭で、女達ばかり集まつて、お茶を飲んでゐたが、その中に寡婦が居て、「年頃が万左衛門と似合ひ頃だ。」と言ふので、一同、これを万左衛門の後妻に周旋して、極めて手軽に急いで縁組をさせた。この女房は、容色も見苦しからず、しかも優しく、しをらしい心で、別に夫婦の縁組を喜んでしたわけではないが、近頃子供を亡くしてから、まだ乳も上がらないでゐるので、人間一人助けると思つて、万太郎をば、我が産みの子同様に可愛がつて育て、又、稼ぎの事もよく大事に勤めて、夕には機を織り、朝にはそれを売つて金銭にして、夫を助けるので、親子三人が飢ゑず凍えず暮らした。程なく金銀が貯まつて、それから後は雇ひ人も沢山使ふやうな身分になつた。
 万太郎も十六歳になり、角前髪の風体も、他から羨むやうに立派になつた。ところが、その心は容貌と違つて、親不孝第一の悪人で、年中、親の心に背き、悪い事ばかりするのを、母親は父親の手前は良いやうに取り繕つてやり、蔭で色々に説諭をした。中でも他人の妻女に言ひ寄る悪癖を頻りに戒められると、万太郎はそれをかへつて悪しざまにとつて、継母の日頃の恩も忘却して、「難癖をつけて追ひ出さう。」と計画して、或る時、父親に言ふやうには、「迷惑な事ですが、申さないと親子の道に背くわけですから申しますが、実はお母さんが、私に道ならぬ事を言ひ寄られますので、誠に恥づかしい事です。随分我慢して、今日までは隠して来ましたが、もしか他人に見られでもしますと、罪もないのに、人から指さして笑はれるのも残念です。」と、根も葉もない事を言つて涙を流した。
 父親はびつくりしながらも、「よもや、さういふ事はあるまい。」と言ふと、万太郎は、「御疑ひは御尤もです。それでは、その証拠を見せませう。家を御出かけなさるやうにして、どこか物蔭かに隠れて、見ておいでなさい。」と言つて、父親を家の外に出しておいて、さて、「庭先の柿の実が丁度食べ頃ですから、高い枝の色づいたのを取りませう。」と言ふので、継母も外へ出てそれを見てゐられると、万太郎は良い機会を窺つて、木蔭に入つて、「頸筋から背中へ何か虫が入つて、痛くて堪らぬ。早く取つて下さい。」と言ふので、継母は何気なく万太郎が左の袖口から手を入れて、暫くそこらを探して、「何も手には当たらないが、それでも気がかりだから、着物を脱いで、中を改めて見るが良い。」と言はれた。
 父親は、ずつと離れた生垣の間から、この様子を見て、「さては、倅が言つた事は、本当であつた。」と一筋に信じ込んで、年頃の夫婦間の愛も忽ち冷め果てて、理由は言はずに、三行半の離縁状を女房に突きつけた。女房は、「かう俄に飽かれたのは、どういふわけでせう。私に何か悪い事があつたら、これまでのよしみに、一通り言つて聞かせて下さつて、その上で去られるならば、私はいささか怨みを残しません。」と言つて歎いたが、万左衛門は断じて聞き入れないので、「それでは、何とも致し方のない我が身の不運と諦める外ない。」と、黒髪を切つてこの家を出、殊勝にも尼になつてしまつた。
 誠に「悪事千里。」の諺の通り、この万太郎の悪行は、誰が言ふともなくその地方に噂されるやうになつて、世間の人達から憎み立てられ、その身の置き所さへなくなつて、上方指して立ち退いたが、「七里半の道中で、時ならぬ大雷が起こり、別に落雷した様子もなかつたのに、万太郎を乗せた馬ばかり残つて、彼の姿は見えなくなつた。」と、馬方の男が立ち帰つて、この奇怪事を人に語つた。

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校訂者註
 1:底本は、「思ひをよせ」。『本朝二十不孝』(1993)本文及び語釈に従い改めた。
 2:底本は、「かる(二字以上の繰り返し記号)縁組(えんぐみ)」。底本語釈及び『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 3:底本は、「つゝしみし。」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。

本にその人の面影

【本文】

 無仏世界なる国里、和朝末々まで今は無かりき。殊更世の掟も静かなる松前の城下に久しき浪人、岩越数馬と言ひしが、近年、孔子頭に変へて、名も夢遊と改めける。世に住めば、夢にも遊ぶ暇なく、虫薬を合はせて今日を暮らしぬ。寄る年の口惜しく、奉公の望みも絶えて、七十歳にて入道し、その後は丸腰になつて武士の顔つきもせず。木綿着物の上に縮緬の一重羽織をかけ、三十年になる編笠、折り目を裏より紙子にてつづくりかぶれば、「日蔭者。」と言はれて、腫物、切疵の膏薬売りて、姿も心も町人になりぬ。
 内儀も歴々の息女なりしが、昔を捨てて朝夕の米を炊ぎ、手足もおのづから荒れたる宿に、是非もなき年月を送る内に、男子二人、作弥、八弥とて、悲しき中に漸々と育て、十七、十五に成りぬ。さすが生まれつき美しく、若衆盛りにして、執心の人絶え無く、門に市を成しぬ。後は、命をかけて作弥を忍ぶ人あり、八弥を慕ふ者あり。この美少、気の通りたる事、衆道の只中、情けを本としてその道理の弁へ、深く悩める人に心を移せど、親の夢遊、油断なく守りて、気の毒なる恋の関、儘ならぬ身を恨みぬ。
 夢遊、程無く名の夢に成り給ひ、作弥、八弥が悲しみ。殊更母人、歎きのやむ事なく、世間も恥ぢず、叶はぬ人を世にあるやうに、余り気うとかりき。この形、二人の若衆とは格別違ひ、背高く痩せ枯れて、色青ざめて顔長く、常さへ醜かりしに、この度愁へに沈み、髪頭をその儘に身を捨てければ、すさまじげになりて、他人は見るさへ嫌ひぬ。これも、その程無く夫の事を言ひ死にに、哀れや、無常野に送り、煙とは成しぬ。
 その夜は雨降りて物淋しく、近所に人の歎きを構はず、月待ちして音曲の数々過ぎて帰るに、臆病者ども、何が目に見えける。「作弥、八弥が母人の幽霊来る。」と仮初に言ひ出し、その後は、「我も見し。」「人も会ひつる。」と、由なき取り沙汰をして、夜に入れば往来止まりて、所の騒ぎとなれば、作弥、八弥が身にしては、世の外聞口惜しく、兄弟、寝覚にもこれを忘れず。
 その折から、窓の開け音ありありと、母親の面影、庭に認め、親子の仲ながら恐ろしく、兄の作弥は手を合はせ、「など成仏は、し給はぬ。さりとは浅ましき御事や。」と、涙を袖にしたしける。弟の八弥、甲斐甲斐しく、枕にありし半弓つがひ、放ちければ、形は消えて、はつと光あり。立ち寄りて見るに、年ふりし狸の鼻筋より射通し、いまだ息の荒きをとどめ刺して、騒ぐ気色も無く取り置きける。「これは、この所より東の宮山に住みて、今までいか程か人を悩ましけるに、この後、野道の子細あらじ。この度の手柄、八弥なり。」と。「いにしへの頼政、秀郷にも劣らじ。」と、これを褒めざる人は{*1}無し。
 この事、国守の沙汰に及び、文武の達者立ち合ひ、詮議のありしは、下々に思ふとは格別なり。「兄の作弥、再び見えし母を悲しむのところ、これ、武士の誠ある心底」を感じ入られ、「当分二十人扶持下し置かれ、末々御取り立てあるべき。」との仰せ渡されなり。「弟八弥事、変化にもせよ、親の形と見て、これに手づから弓矢の敵対。不孝の心ざし深し。」と御取り上げも無く、この国を立ち退きける。

【訳】

 仏法の信仰もない開けぬ里は、我が国の端々に至るまで、今はなくなつた。殊に世間の掟もよく守られて、静穏な松前の城下に久しく浪人をしてゐる、岩越数馬といふ者があつたが、近年、髪は総髪に結び、名も夢遊と変へてゐた。いかに隠退の身なればとて、世間に住んでゐる以上、その名の如く、夢にも遊ぶ暇はなく、小児の虫の薬を調合して、それで暮らしを立ててゐた。年もとつてしまつたので、残念ながら今は奉公の望みも捨てて、七十歳の時出家し、その後は大小、腰に差す事もやめて、武士の顔つきもせず、着物も木綿物の上に縮緬の一重羽織を引つ掛け、三十年も使ひ古した編笠の折り目の破れには、裏から紙を貼つて繕つてかぶれば、世間からは「日蔭者。」と言はれて、腫れ物や切り疵の膏薬を売り、姿も心も町人になつた。
 その女房は、元は立派な良家の娘御であつたが、今はその元の身分を捨てて、朝夕の炊事も手づからして、手足も自然と荒れてしまひ、荒れた家につまらない暮らしを立てて、月日を送る内に、作弥、八弥といふ兄弟の男の子を漸う育て上げて、今はその年も十七、十五になつた。さすがに素性とて、美しく生まれついて、今丁度若衆盛りであるから、慕ひ寄る人達が門に市をなした。後には命をかけて作弥を慕ふ人もあれば、八弥を思ふ人もあつた。この兄弟の美少年達は、中々粋で、男色の情けをよく知り、人情を本とし、物の道理をも弁へてゐるので、彼らに深く思ひを寄せる人達の情けを汲み知つては居れど、親の夢遊が少しも油断せず監督してゐるので、思ふ儘にならない身の上を悔やみ、恨んでゐた。
 親の夢遊は、その後程なく死んでしまはれ、後に残つた作弥、八弥、兄弟の子の悲しみは深かつたが、殊に母親の歎きは片時も止む時なく、世の人の思惑も恥ぢず、再び呼び返す事のできない亡き人を慕はれたのは、余りに過ぎて、いやらしかつた。この母親の容貌は、二人の子の青年とは大変な違ひで、背高く痩せ枯れ、色は青ざめて長顔で、常の顔さへ醜かつたが、この度の不幸の悲しみで、髪もよく結はず、身を捨てて構はないので凄まじくなつて、他人は見る事さへ嫌ふのであつた。この母親も、それから間もなく、亡き夫の事を言ひ暮らして死んでしまはれたので、野辺の墓場に送つて煙にした。
 その葬式の夜は、雨が降つて物寂しい晩であつたが、近所に、他人の歎きなど構はず月待ちをして、色々な音曲の数々に興じて散会となつたが、臆病な人達が、帰り道に何を見たのか、「作弥、八弥の母の幽霊が出る。」と愚かな事を言ひ出し、それからは、「我も見た。」「あの人も遇つた。」とつまらぬ噂を立てて、夜になると往来の人も絶えて、その地方の大騒ぎとなつた。
 作弥、八弥の身にとつては、世間の悪い噂を残念に思ひ、兄弟共に、日夜この事を忘れ兼ねてゐると、或る日、窓の開くやうな音がありありと聞こえたので、庭を見ると、母の在りし日の面影が目に見えた。いかに親子の間でも、それは誠に恐ろしく思はれた。兄の作弥は手を合はせて拝みながら、「なぜ成仏は、して下さらぬ。さても浅ましい事。」と涙に袖を潤はした。弟の八弥は勇ましく、枕上にあつた半弓を手に取り、矢をつがつて射放つと、母の姿は忽ち消えて、パッと光が見えた。そこに立ち寄つて見ると、年取つた狸が鼻から矢を射通されて、まだ死に切らずに息を荒くしてゐるのを、すぐにとどめを刺して、ちつとも動ずる色なく、その死骸の処置をした。
 この狸は、ここから東に当たる宮山に住んでゐて、これまで度々人を悩ました者であつたから、「これからは、野道を通つても安心だ。この度の御手柄は八弥殿だ。」といふので、「昔の鵺を射た源三位頼政や、百足を退治した俵藤太秀郷にも劣るまい。」と褒めちぎらぬ人はなかつた。
 この事、国の守の御耳に達し、その御指図で、文武両道に優れた人達を集めて、この事について評議をされた。その評議の結果は、下々の人達の考へとは大違ひであつた。それによると、「兄の作弥が、亡き母親の姿を再び見て、これを悲しんだのは、これ、武士の誠ある精神である。」として、「御感の余り、当分二十人扶持を下し置かれ、将来は武士として御取り立てあるべし。」といふ仰せ渡しであり、弟の八弥は、「たとへ化け物とはいへ、仮にも親の姿であるのに、これに手づから弓矢を射たのは、その不孝の心の浅からぬを表したものである。」として取り上げられず、この国を立ち退く事となつた。

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校訂者註
 1:底本は、「人なし。」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。

胸こそ踊れこの盆前

【本文】

 「桃や、柿や、梨の実。」これぞ蓮の葉商ひ。七月十三日の曙、夕暮は麻殻の焚火して、世に亡き魂を祭る業の哀れは秋なり。
 露に涙に両袖の湊、筑前の国福岡の町外れに、辻屋長九郎といふ舟乗りありしが、長々筋骨を痛ませ、次第に老いの浪立ち弱りて、彼岸に眠る如く尽きぬ。その跡を後家、楫を取つて、世帯をよく持ち固めける。子、二人ありしが、惣領は長八郎、次は娘にて小さんと名付けし。これには入り婿を取りけるに、長八と心を合はせて、親の時に違はず、大廻しの渡海を乗りて、一人の母親を二人して育みける。
 思へば、波の上の仕合せ定め難く、内証の悪しきは阿波の鳴渡より渡り兼ね、盆も正月も宿にて年を取る事なし。この節季も留守ながら、借銭の淵は許さず。売り懸けしたる人々、庭に立ち並び、節供前とは格別、否でも応でも百貫に塗り笠一蓋。母親、せがむにぞ、身も置き所なく悲しく、戻らぬ婿、子を恨み、「せめて断り文なりとも下しぬれば、各々様の御腹の立たぬ事ぞ。」手を合はして詫び事。さてもさても切なく、「銭が一文御ざらぬ。」と入れ物を開けて、箱崎の明神を誓文に入れて、「二人の者の帰るまで。」との断り。漸々に聞き分け、四十五、六人掛乞ひ、とても済まぬ事に、提灯、蝋燭の費を算用して立ち帰りぬ。その中に、博多より通ひ商人、「味噌、酒の売り懸け取らでは帰らじ。」と、一人後に残り、角無き鬼の顔つきして、「埒が明かぬと鍋釜抜く。」と広敷に座を組みて、いつとなく眠りの出、人の物言ふもうつつに聞きぬ。
 母親、他人のあるとも知らで、「この国に、我ほど浅ましき者、又あるべきか。連れ合ひの仏棚も飾らず、蓮の飯を祝ふべき始末もなく、束ね木も絶えて、今朝よりは雨戸をはづして焚くなど。煎茶切れて煙草無く、灯し火の油も事欠き、嫁が轆轤引きより雫をしたみしが、今の間の光にて、頼み無し。これより先に命消えたし。」と母の歎きを構はず、娘は庭におりて、身振るひに色科やりて、明日の晩よりの踊りの馴らし。
 「いかに若きとて、さりとては心なし。人の手前、世の思はく、身の程も恥ぢぬべし。我が年は十八、嫁十六なれど、世間の思ひやりありて、あの如く身を捨てて内証を隠し、親里へもこれを知らせず。かかる前後を凌がるるは、女の鑑にも末々まで知らすべき、いとほしき人なり。いまだこの春縁組して、半年も経つや経たぬに{*1}、衣類、敷銀、手道具までを無くして。嫁なればとて面目なし。我とあの人がやうに、心ざしも変はるものか。」と言ひも果てぬに、娘は、履きたる雪踏を親に投げ付け、不断の寝間に行くを、母も今は堪忍ならず。手元にありし爪切り持つて立たれしを、嫁、抱き止めて、漸々にこれを詫び済まして、片蔭に立ち忍び、美しき髪押さへの挿し櫛、笄を抜き出し、玉子色の帯を細き組帯に仕替へて、この三色持ちて出しが、暫くありて帰り、右の袂より銭百四、五十取り出し、左の手に塩かます五つ、素麺二把、懐より白き餅を出し、姑に与へければ、四、五度も戴き、涙を流し{*2}、「この恩、いつ報ずべき。嬉しや、そなたの御心ざし。」と、丸団扇にて嫁を扇ぎ立て扇ぎ立て、喜ばれし。
 掛乞ひ、宵よりの事ども段々見て、袖をしたし、「かかる優しき女のあるべきか。さてもさても。」と感じ、暗がりより出ければ、各々これを忘れて驚き、「夜の明くるまでましましてから。只今才覚もならず。」と、又断りを申す時、掛乞ひ、涙にくれて、「不孝なる娘もあるに、この嫁御の心入れ、さりとては{*3}肝に銘じて、何と褒むべき言葉も無し。この上ながら、懇ろにし給へ。」と財布の口を開けて、銭二貫三百、細金五十目ばかりあるに任せ、「この嫁に進ずる。」と言ひ捨てて帰りぬ。
 孝ある故に天の与へ。憂き所を凌ぎし内に、長八も婿と一つに、思ふままなる仕合せにて{*4}、再び国元に帰りて、家栄えし。娘と嫁の善悪を語れば、長八、胸に据ゑ兼ね、この家を追ひ出し、婿には外よりよろしき人の娘を子に貰ひて、初めの如く夫婦と成し、「猶変はらずして生きの松、千代も。」と契りを籠めける。

【訳】

 桃の実、柿の実、梨の実。これらは、盂蘭盆に蓮の葉に盛つて、仏前に供へる物で、これを商ふ商売は、その季節だけの一時的の商売で、世に言ふ「蓮の葉商ひ」である。七月十三日は、曙から精霊を迎へる準備をして、その夕暮は(、「魂迎へ」と言つて)、門前に麻殻を焚く(。これを「迎へ火」と言ふ)。かういふ盂蘭盆の亡き魂祭る業は、いかにも哀れであつて、秋の季節にふさはしい事である。この時は、亡き人の偲ばれて、涙と露に両方の袖を濡らす事である。
 「袖の湊」で世に知られてゐる筑前の国福岡の町外れに、辻屋長九郎といふ船乗り業者があつたが、この人、長々と筋骨の痛む病気にかかり、次第に年取るにつけて、体も弱りて、その秋の彼岸に、眠るが如く死んでしまつた。その亡き後の事は、寡婦が万事指図して、よく世帯を持ち固めて行つた。遺子二人あつたが、惣領は男子で長八郎と言ひ、次は娘の子で、小さんと名付けてあつた。この娘には、婿を迎へたところ、この婿、長八とよく心を合はせて家業に励み、親父の代に変はらず、遠方まで行く渡海船に乗つて、一人の母親に二人して孝養を尽くした。思へば、船乗り稼業は波の上の仕事で、その運は測り難いもので、この家も、常に暮らし向きが悪く、世を渡り兼ねて、二人は、安らかに家に居て盆をした事もなく、又、正月をして年を取つた事もなかつた。
 今年の盆の節季にも、二人は旅に出て不在であつたが、借金取りはそれでも見逃さず、売掛代金を取りに来た商人達が、土間に立ち並んで、他の節句前とは違つて殊に厳しく、「否でも応でも取らう。」と、百貫の抵当に塗り笠一蓋置いたもののやうに、母親を責めて請求するので、母親は、身の置き所もないやうに迷惑して、帰つて来ぬ婿や倅を恨み、「せめて倅や婿が、言ひ訳の手紙でも寄越してくれれば、皆様の御腹立ちもあるまいに。」と言つて、手を合はせて詫び言するのは、さてもさても苦しい事であつた。「この通り、御払ひしようにも、銭が一文ございませぬ。」と、金銭の入れ物を開けて、箱崎明神に誓文を立てて断り、「二人が帰つて来るまで待つてくれ。」と詫びたので、漸く納得して、四十五、六人の借金取りどもも、「この家は到底ダメ。」と諦め、「いつまで居催促したところで、結局は提灯の蝋燭損だ。」と考へて帰つて行つた。
 その掛乞ひ人の中に、博多から、この福岡へ行商に来る者で、「味噌や酒の売掛代を取らないでは帰るまい。」と思つて、一人、皆の帰つた後に残り、あたかも角のない鬼のやうな恐ろしい顔つきをして、「支払ひをしないと鍋釜を取つて{*5}行くぞ。」と脅して、板敷の間に座を組んで催促した。この人、いつの間にか眠気がさして、傍に人の物言ふのも、夢うつつに聞いてゐた。
 母親は、この人のゐる事を忘れてしまつて、「この筑前の国に、私ほど浅ましい不運な者はあるまい{*6}。亡き夫の魂の来られるといふ御盆に、精霊棚も飾る事ができず、蓮の葉の御飯を供へる事もできない。薪も無くなつて、今朝からは雨戸を壊して焚く始末。煎茶も切れ、煙草もなくなり、灯火の油も欠乏して、やつと嫁が轆轤引きに使ふのを、容れ物から僅かばかりしたんで灯したが、今の間にその油も尽きて、消えてしまふだらう。この光の消えない内に、早く自分の命が消えた方が良い。」と、掻き口説いて歎いてゐた。
 それにも構はず、娘の小さんは土間におりて、いかにも身振りに色科作つて、明晩から始まる盆踊りの稽古をしてゐる。母親は、「いかに年が若いとて、それでは余り人情が無いといふものぢや。他人の手前、世間の思惑に対して、その身の程を恥ぢたが良い。お前は年十八、嫁は十六だけれど、世間の思ひやり、人情もあつて、あのやうに自分の事を捨てて、家の苦しさを隠してくれ、実家へは隠して、かういふ時の凌ぎをつけてくれる。女の手本にも成るべき、可愛い人ぢや。まだこの春に縁組したばかりで、半年も経たぬのに、衣類も、持参金も、手道具類まで失くしてしまつた。いかに家の嫁だとて、面目ない次第ぢや。お前とあの人と、かうも志の違ふものか。」と言ひも果てぬのに、娘は履いてゐた雪駄を母親に投げつけて、平常の寝間に行つてしまつた。
 母親も、今は堪忍袋の緒を切らして、手元にあつた爪切り小刀を取つて、立ち上がられた。それを嫁は抱き止めて、娘に代はつて詫び言して、漸うに事を済まし、片隅の方に行つて、こつそり挿してゐた美しい髪押さへの挿し櫛と簪を抜き取り、してゐた卵色の帯を解いて、細い組帯にし替へて、この三種の品を持つて家を出て行つたが、暫くして帰つて来て、右の袂から銭百四、五十文取り出し、左の手に塩かます五尾、素麺二把を持ち、懐からは白い餅を取り出して、これらを姑に差し出した。姑は、四、五度もこれを戴いて、涙を流し、「この恩は、いつ報いる事ができるだらう。嬉しいお前が志ぢや。」と言つて、丸団扇で嫁を扇ぎ立て扇ぎ立てして喜ばれた。
 かの掛乞ひの男が、宵からの様子を段々見てゐて、同情の涙をこぼし、「この嫁のやうな、優しい心を持つた女もあるものか。さてもさても感心な女。」と感じて、片隅の暗がりから立ち出れば、皆々びつくりして、「夜の明けるまでおいでなさつても、只今といつて工面はできません。」と又、改めて詫び事を言ふ時、この掛乞ひは涙にくれて、「不孝な親身の娘もあるのに、この嫁御は他人ながら、立派な心を持つてゐられる。肝に銘じて、何とも褒むべき言葉もありません。どうか、この上ながら仲睦まじうしなさい。」と言つて、財布の口を開けて、中から銭二貫文と小粒銀五十匁ばかりを、あり合はせたに任せて取り出し、「これは、この嫁さんに上げます。」と言ひ捨て、これを与へて帰つて行つた。
 「孝行な故に、天が恵みを与へられたのであらう。」と、苦しい場合を凌いでゐると、その内に、倅長八も婿と一緒に、幸運に恵まれ大利を得て、国元に帰つて来たので、この家はそれから栄える事となつた。母親が、娘の不孝と嫁の孝行とを話して聞かせると、長八は、妹の所為を胸に据ゑ兼ね、家を追ひ出してしまひ、他家から立派な人の娘を養女に貰ひ受けて、元のやうに婿と夫婦にした。新夫婦も相変はらず仲良く、「千代まで。」と、めでたく契りを籠めた。

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校訂者註
 1:底本は、「半年もたゝぬに。」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 2:底本は、「流して」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 3:底本は、「さりとは」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 4:底本は、「仕合(しあはせ)にして」。『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 5:底本は、「取つく行くぞ」。
 6:底本は、「あるない」。

八人の猩々講

【本文】

 波の鼓の色も良く、長崎の湊にして猩々講を結び、杉叢の内に松尾大明神を勧請申し、甘口、辛口二つの壺を並べ、名のある八人の大上戸、ここに集まる。大蛇の甚三郎、酒天童子の勘内、和東坡の藤助、常夢の森右衛門、三人機嫌の四平、鉤掛升の六之進、早意の久左衛門、九日の菊兵衛。この者どもの参会、元日より大年まで酔ひのさめたる時もなく、いつとても、千秋楽は酒呑み掛かる時謡うて仕舞ひ、とかく正気のある内は、身を酒瓶の底に沈め、よろづ世の楽しみ、これに極めける。外より羨ましく、随分の遊び好き、一つ成る口の男、この仲間に今まで幾人か交じりて身を崩し、命を酒に呑まれし者、その数を知らず。
 折節、豊前の小倉より、この所に宿を引きて、嶋絵を書きて世を渡る墨屋団兵衛と言ふ者、先祖より酒の家に生まれ、「あから呑み{*1}。」と言はれてこの方、終に上戸に出会はず。十九歳にて都に上り、三十三間の矢数酒{*2}。咽を通る勢ひ、「星野勘左衛門、和佐大八が弓勢にも、その道々にて劣らじ。天下の上戸。」と名も橘といふ酒屋あり。金箔置きの慰斗肴、これを出しけるに、金のざい心地して、それより呑み自慢して、長崎は酒所を望みて盃店を出しける。この所の下戸並みと言ふが、外の国の呑み大将にも負くる事にあらず。
 団兵衛、猩々中へ乱れ入りて、夜日十三日の続け呑み。兵の交じはり、弱い所顕はれ、少しくたびれつきて、無理に我を立つる時、母親、異見せられしは、「さりとては大酒をやめよ。そちが父親団右衛門も、不断好まれ、碁会の座敷にて宵より明け方までの酒宴。内嶋休卜と言へる針立と当座の口論。さのみ言ふ程の事にもあらぬを、互に酔ひの紛れに次第に言葉荒く、刺し違へて、あたら浮世を果てられしを、両方共に世上の笑ひ者。草葉の蔭までよろしからぬ名のみ残り、女の身にさヘ口惜しく、孫子に伝へて、『酒といふ物、一滴も呑ませじ。』と思ひしに、親ながら儘ならず。汝、幾度か人の言ふ事を聞かず、余にすぐれての酒興。命の程も危なし{*3}。向後とまりて、母が心を休めよ。しかれども、俄にやむ事も成るまじ。この一夏を断りて、日に三度、夜に三度の限りを定め、一度に五合づつ、一日一夜までは許す。」とあれば、団兵衛、親を睨めつけ、「そなたの煎茶を飲みとまる事は、成るべきや。世の楽しみ、これより外は無し。酒に捨つる命、何惜しからぬ。今にも我、往生せば、沐浴も諸白を浴びせ、棺桶も伊丹の四斗樽に入れ、花山か紅葉の洞に埋まれたし。春秋の遊山、人の吸ひ筒の滴りかかれる願ひもあり。後世さへかく思へば、まして現世にこの楽しみをやめまじき。」と、猶々呑み明かし酔ひくれて、五日七日も続けさまに寝て、世の事を外になしぬ。
 これを思ひと成りて、母果てらるるにも、枕を上げず、この死に目に会はず。遥かの後に夢さめて、歎くに甲斐ぞ無かりき。

【訳】

 波の色も美しい長崎港に於いて、猩々講といふ会を作って、杉の森の中に松尾大明神の祠を建てて祀り、甘口、辛口の酒壺を二つ並べ置いて、ここに評判の八人の大酒家が集まった。おろちの甚三郎、酒呑童子の勘内、和東坡の藤助、常夢の森右衛門、三人機嫌の四平、鉤掛け升の六之進、いらちの久左衛門、九日の菊兵衛の八人の集まりで、この人達は、元日から大晦日まで、酒の酔ひのさめた時はない連中で、いつも、千秋楽は酒宴の始まりに謡ってしまひ、とかくまだ正気のある間は、酒甕の底に身を浸すやうにして、全ての楽しみを、只この酒の楽しみの一つに極めてゐた。この様子をよそから見て羨ましく思ひ、随分遊び好きの、しかも一つ呑める方の男で、これまでこの八人の仲間に入って、身を持ち崩し、命までも酒に呑まれてしまった者が、幾人あったか。数知れぬ程である。
 丁度その時分に、豊前の小倉から、この長崎に家を引っ越して来て、西洋風の線画を書いて世を渡る、墨屋団兵衛といふ者があった。先祖の代から酒呑みの家に生まれて、「あから呑み。」と言はれて、呑み覚えた小児の時から、終に自分以上の上戸に出会った事がない。十九歳で京都に上り、「三十三間堂の矢数、星野勘左衛門、和佐大八が弓勢にも劣らじ。」とばかり、大酒家連と競争呑みして、「天下の大酒家。」と名に立った。橘といふ酒屋から、金箔を置いた熨斗肴を出して贈ったが、これは、矢数に出す金の采配と同様に思はれた。この事あって以来、大酒を自慢にして、「長崎は酒のはやる所だから。」と、望んでそこに行き、盃店を出した。この地の下戸と言はれる人でも、他所での大酒家と言はれる者にも負けない。
 団兵衛は、大酒家連中に入って、夜昼十三日間の酒の続け呑みをした。猛者連中の交じはりであるから、終に弱みを見せて、少しくたびれて来たのを、無理に我慢してゐる時、母親、異見して、「さて、その大酒をやめろ。お前のお父さん団右衛門殿も、平常、酒を好んで呑まれ、或る碁会の座敷で、宵から明け方まで酒宴のあった折、内島休卜といふ針医と当座の口論をなされた。さして言ふ程の事もないのに、お互に酔ひの上であるから、次第に言葉荒くなって、とうとう刺し違へて、あたら命を捨てておしまひなされたが、結局、御自分も相手も世間の物笑ひになり、死後まで良くない評判を流された。女の身の私でさへ残念で堪らず、孫子の代まで遺言して、『酒といふものは、一滴も飲ますまい。』と思ったが、親でありながら、思ふやうにならず、お前は幾度言っても言ふ事を聞かず、世間にすぐれた酒興を致す。それでは命も危ない。以後は酒をやめて、母が心を休めてくれ。とは言ふものの、俄にやめるといふ事もできまいから、この一夏だけは、昼三度、夜三度、そして一度に五合づつと決め、それも、一日一夜までの続け呑みは許さう。」と言はれた。
 すると団兵衛は、母親を睨め付け、「あなたは煎茶をやめる事ができませうか。世の中の楽しみ、酒より他にありません。酒のために命を捨てる事は、惜しいとは思ひません。今にも私が死にましたら、湯灌にも上酒を浴びせて欲しいし、棺桶も伊丹の四斗樽にして、花の山か紅葉の洞の名所に埋めて欲しい。さうしたら、春秋の遊山の人達の吸ひ筒から汲む盃の滴りが、墓の上にかかるのが{*4}望みです。死後の事さへかう思ひますから、生きてゐる限りは、酒をやめる事は厭です。」と、依然として呑み明かし、酔ひくれて、五日七日も眠り続けて、仕事を外にした。
 これが心配の種になって、亡くなられた母親の臨終にも枕上がらず、とうとう死に目にも会はず、数日後に目覚めて歎いたが、もう何の甲斐もなかった。

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校訂者註
 1:底本は、「呑」のふりがな判読不能。『本朝二十不孝』(1993)語釈に従った。
 2:底本は、「矢数(やかず)咽(のんど)を」。底本語釈及び『本朝二十不孝』(1993)に従い改めた。
 3:底本は、「雲落(あへなし)」。底本語釈及び『本朝二十不孝』(1993)語釈に従い改めた。
 4:底本は、「かゝのが」。

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