江戸期版本を読む

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カテゴリ:井原西鶴 > 校訂西鶴織留(1927刊)

四 所は近江蚊帳女才覚

 嫁入道具の品々、世間にすぐれて念を入れければ、限りもなく難しう、国土の費えに成る事多し。
 上京中長者町の仕立物屋の弟子、手間取り、針筋を揃へて薄絹の蚊帳を縫ひけるに、都は目広き所ながら、立ち止まりてこれを見る人、次第に押しも分けられず。黒木売り来る女の難儀、ここ通り兼ぬるのみならず{*1}、痴れたる姿を笑はれける。木綿の二布、糊こはごはとして、やうやう我が身を隠すもあるに、この蚊帳を見れば、四角に赤地の唐織を菊の花形に切り合はせ、紅の大房に匂ひ玉を結び下げ、瑠璃、珊瑚珠の飾り、銀の鍵、金の輪。小縁ひと間ひと間に鈴の音成し、乳毎に五色の房を付け、裾に鴛鴦の戯れを様々に縫はせ、岸の柳に雪を持たせ、冬川の景色。見てさへ涼しきに、「あの中に寝ば、夏を忘るべし。」と羨ましく、「ここは内裏近くなれば、いかなる高家の御物好き。皆人、極楽と聞き及びし仏様の寝所も、何としてこんな事あるべし。さてもこれは。」と驚きける。
 時に亭主、この中へ入り、手枕して、「許し給へ。暫し仮寝の夢。これに浮世茣蓙、長枕。婿に成る人の果報は、前の世に良き種蒔きて、今、生へ出る恋草の初め。町人にも、かかる嫁入蚊帳。公家も大名も、大方{*2}の衆は成るまじ。この一吊りに二貫六百目要りける。いかに分限なればとて、これは奢りの沙汰。」と言へり。「面々の身凌ぐ為なれば、近江布の蚊帳に赤根染の乳、縁付けしを吊りても、無理に蚊が這入りもせず。」と、小さい気から言へば、一畳吊り程に成りて、身の置き所無し。
 そもそも近江蚊帳の出所は、八幡の町より仕出して、これ、諸国に広まれり。中にも扇屋といふ人、昔は少しの酒、片店に米商売しけるが、内儀、才覚にて、手づから弦掛け枡{*3}を持つて、米酒に限らず、わづか一升買ひする程の貧者には、利徳構はず量り良くして、手広う見せける。程なく一国に良き事言ひ触らして、在々所々、山家の末までも、この町の市に立つ人、帰さに、この家の両口より群衆して、よろづを調へて帰れば、一日に銭の山、白銀の洞も出来分限。後には、大方の咳気には、薬の代はりにここの諸白にて治しぬ。その家、富貴に成る時は、諸事吹き付けるやうに心涼しく、扇に家の風ぞかし。その後は、江州の布、高宮に{*4}買ひ取りて、国々に出店。殊更、京都四條東の洞院の店には、毎年、縞布ばかり千駄づつ売り払ひける。畳の表は大坂に店出し、次第に大商人と成りぬ。これより年々仕出しの蚊帳、何程といふ積もり無きに、世界の広き事、思ひ遣られける。
 毎日、蚊帳縫ひ女八十人余、乳、縁付くる{*5}女五十人、大広敷に並びたるは、さながらこれ、女護の島の如し。されどもこれ程の中に、都めきたる娘は一人も無かりき。玉に疵、杉に出尻、竹が口の広さ。朝夕の飯車とて、飯櫃に車仕掛けて、六尺三人引いて廻り、手盛の杓子、百足の足の如し。鞍馬毘沙門も、かかる台所を守り給ふべし。年中の事なるに、それぞれの人使ふ智恵も、あるものかな、二度の仕着せも一人一人の願ひ、染色、紋所まで付けて取らせける。この外、手代あまたなれば、早、八月より正月物を拵へし。万事は手廻し次第なり。
 これとても、やうやう旦那と言はれて、親子四、五人の口を過ぐる外なし。如かじ、一人の働きにして数百人を育む事、大方ならぬ慈悲ぞかし。この心の徳故、下々も草木も靡きて、昔より住み馴れたる庭に、枝、もの古りたる松あり。北野の千貫松、淡路の万貫松にも劣らず、これ、千歳の眺め。
 されば、人の渡世程、様々なるものは無し。片田舎にさへ、かかる人もありけるに、万屋甚平とて、出生、京の寺町通三條にて育ちければ、腹の内より都の水を飲み、諸人の賢き事を聞き馴れ、身過ぎは何にしても、五人、三人は世を渡るべき事なるに、やうやう夫婦の口を過ぎかねしは、口惜しき事ぞかし。しかもこの男、手は、帳の上書きする程なり。算用は、難しき割り物も埒を明け、銀は、両替より折節は見せに来る事あり。何にても一分別させて、事の済まぬといふ事なし。長口上鮮やかに、少し料理も心掛け、謡も人の後にはつかず。碁、将棋も人の相手に成りかねず。我が一分の外、人の役にも立ちける。
 されども勝手悪しく、所にて商売成り難く、春は慰み本、夏は扇、秋は踊り道具、冬は紙子、その時その時の物を仕込み、この二十年ばかりも江州に通ひ商ひ。宿には一とせを二十日ばかりも、女房どもの顔を見る事ぞかし。京にはやる話、小唄{*6}を習ひ覚え、商ひする御機嫌取りに、夜昼、遊び物に成つて、つまる所は、夫婦の口を食ひて通る分なり。
 幾年か、二百目の元手、延びも縮みもせず年を越えけるに、千本通に母方の叔母、一人過ごして暮らされしが、愛しや、頓死致されしに、我ならで跡弔ふ者も{*7}なければ、この時の物入に銀三十目余り遣ひしが、随分始末しても、四、五年、この銀儲けかねて、何とぞ昔の二百目に成る事を願ひしに、旅宿の亭主に頼まれ、在所へ養子を肝煎りて、思ひの外なる銀六十目、礼を取りて、「一代の仕合せ、この度。」と喜び、極月二十五日に江州八幡を立つて、京都に幸ひの{*8}道連れ、ここの問屋より払ひ銀持ちて上る人、これ程、確かなる事無し。
 道中急ぎけるに、草津の宿の矢倉といふ所は、姥が餅の名物、勢田、矢橋の追分なり。近付きの茶屋に暫し休みて景色を見るに、鏡山の曇り晴れて、松に風絶え、海に浪の音無く、「今日こそ渡し船の乗り日和。」と言へば、甚平、中々合点せず。「各々は御勝手次第。我等はかち路へ廻り行く。その子細は、人の命に替へ無し。殊に、金銀の荷物を定めなき船に積む事無し。とかく、大事の身なれば、渡しは嫌」に極めける。問屋、若い者、腹立して、「遥々道連れ、ここまで参りて、この日和に何の気遣ひかあるべし。我等は小判千三百両持ちて、この渡しに乗りける。この身、そなたの身とて、何程の変はりあるべし。大分の銀持ち、身を大事にかけ給へ。」と言ひ捨て、矢橋の方へ行きける。
 茶屋、甚平に申せしは、「いつも船に乗る人が、何とてこの天気に用心し給ふ。」と言へば、「この度は仕合せ良く、五、六十目も銀子延ばしければ、身が大事に思はれて、いかにしても船に乗れぬ。」と胸落ち着けて、勢田に廻る。大津の戻り馬はあれど、これにも乗らず行く程に、石山の入相聞く頃、粟津野を行くに、松原より浪人らしき男二人出て、「近頃無心ながら、今時分の事なれば、よくよく差し詰まりたる事と思し召せ。年取る物を申し請くる{*9}。」と荷物に手を掛けしに、色々詫びても聞き入れねば、是非なく肌に付けたる銀取り出し、二人に八十目ばかり取られて、さても物憂き一人旅、身の程恨むより外は無し。
 「我一生、何程稼ぎても、銀三百目より内の身代に極まる」所を覚悟して、世を渡りぬ。

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校訂者註
 1:底本は、「のみ、」。『西鶴織留』(1993)語釈に従い改めた。
 2:底本は、「久(ひさ)かた」。『西鶴織留』(1993)に従い改めた。
 3:底本は、「釣(つ)りかけ枡(ます)」。『西鶴織留』(1993)に従い改めた。
 4:底本は、「高宮(たかみや)買(か)ひとりて」。『西鶴織留』(1993)訳に従い改めた。
 5:底本は、「八十余(よ)、乳(ち)縁(べり)付(つ)ける」。『日本永代蔵 世間胸算用 西鶴織留』(1991)に従い改めた。
 6:底本は、「話(はなし)に唄(うた)」。『西鶴織留』(1993)に従い改めた。
 7:底本は、「跡(あと)弔(と)ふものなければ、」。『西鶴織留』(1993)に従い改めた。
 8:底本は、「幸(さいは)ひ道(みち)づれ、」。『西鶴織留』(1993)に従い改めた。
 9:底本は、「申(まう)し請(う)ける。」。『日本永代蔵 世間胸算用 西鶴織留』(1991)に従い改めた。

巻之二

一 保津川の流れ山崎の長者

 本朝は、天照大神元年より、今、元禄二年の初春まで、二百三十三万六千二百八十三年。この国、豊かに続きて、猶、君が代の松は久しきためし。富士を常住の蓬莱山、不老門の東に武蔵野の満月、外天の光に同じからず。御紅葉山の梢、千秋の色を増し、万歳の海亀、さざ浪静かに棲める。江戸は天下の町人、北村、奈良屋、樽屋を始め、諸国の総年寄、金座、銀座、朱座。この外、過書の舟持ち、世上に名を触れて、これ皆、「町人の中の町人鑑。」と言へり。
 時に、都の嵯峨の角倉は、その家栄えて長者の如し。しかも二十余人の子宝。いは井の水の高瀬川に、すぐなる道橋の渡り初めして、この流れに一棚舟を通はせ、俵物、薪を上し、洛中の助けと成り、竈の煙賑はへり。又、保津川の流れは、丹波の亀山に続きて、嵯峨まで二里余りの所、近代切り貫きの早川。これを自然と乗り覚えて、船頭、力も入れずして、岩角よけて滝を落とし、左は愛宕、右は老いの坂。この山間の眺め、松島を近うして見るぞかし。
 或る時、山崎宝寺のほとりに、油の請け売りして山家通ひの商人、この舟に来て下りしに、猿飛といふ険しき所を、群猿、数限りもなく渡りしに、二匹連れたるこけ猿が、栗の梢を伝ひ、この川を渡りかねたる風情見えしに、折節、狩人の廻り来て、鉄砲に狙ひ寄れば、先に立ちたる猿の、身を悶へて鳴き叫び、後なる猿に指をさして教へければ、狩人笑つて、「いかにおのれが身を助けむや。」と火蓋を切れば、哀れや、二匹共に落ちけるを、立ち寄りて見しに、一匹は弾に当たり、又一匹は身に子細なくて、手に一尺余りの木の切れを持ちける。これを、「不思議。」と見るに、不憫や、目くら猿なるが、涙をこぼし、殺されし猿の事を歎く有様。これがためには子猿と見えける。「親に心を尽くし、年久しく育みける。」と思はれ、早船をさし止め、各々これを悲しみしに、狩人は、かの目くら猿も即座に叩き殺すを、山崎の商人、銭二百文に買ひ取り、我が里に連れ帰りて、二とせ余りも飼ひ置き、随分いたはりける。
 その年の暮に成りて、この油売り、わづかの事に仕舞ひかねて、借銭の方へ有る物を渡して、身代畳む談合を夫婦ひそかに極めて、朝は所を立ち退く十二月二十七日の夜更けて、猿にも人間に言ふ如く、「浮世とて、我、かく成り行けば、一人ある子をさへ棄つる時節なれば、汝は、この家に残し置く。自らを恨む事なかれ。」と、せめて春までの喰ひ物、あるに任せて、節分の煎り大豆の余りに、黒米少し手元に置いて、夜の中にここを出て行く用意して、炬燵の上げに子を入れ、片荷に小鍋一つ、継ぎ継ぎの袋に粉麦、小豆など取り混ぜ、女は持仏堂を開けて数珠取り出して手に掛け、辻の抜けたる葛笠をかづき、「住み馴れたる我が宿の名残。誰かはここに世帯せん。思へば惜しき香の物桶。かくなるべきは知らず、この夏の瓜、茄子、塩の辛い物を食ふとて、無用の水の飲み置き。とかくに欲過ぎたる事はせまじきもの。」と、置かぬ棚までまぶりて、歯黒壺をうちこぼし、「見る程、よろづ、心に懸かれば、少しも早く家を出給へ。」と泣き出せば、男も涙ぐみ。
 「さりとは無念なる世間や。聞けば、この程も京には町人分として、一万八千貫目の借り銀、十年切りの年賦にして、利無しに済ますもあり。この家の年中の豆腐の通ひに、〆八百三十丁、この代、七貫七百六十二文の払ひ。家に応じて諸事の物入り、大分なり。我等は、この豆腐の銭を持てば、ゆるりと年を取りけるに。さても、是非なき仕合せ。」と、ひそかに立ち出るを、最前の目くら猿、女房の裾にすがりて歎く風情。人に別るる心地に顔を見返れば、この猿、口の内より虎の片し目貫を取り出し、内儀に手渡し致しぬ。
 男、これを見れば、金目三匁余りの昔目貫なり。「これは、優しき心ざしの嬉しや。昔日、舞太夫の幸若、越前より都に上る時、山中にて群猿舞を望みて後、太刀を一振、褒美に出しける。これ、猿太刀とて、幸若の家に伝へり。今又、これを我に与へしは、天の道に叶へり。これにて節季の仕舞ひは成る事ぞ。」と又、分別変はりて、夜抜けの事は沙汰無しにして、かの目貫を両替して、買ひ掛かりの方へ少しづつ渡して、世を飾り、松も歪みなりに年を越えて、明けの年は商売に油断なく、それより次第に家栄えて、後には手前にて締めさせけるに、おのづから正直の頭に付くる{*1}髪の油も良く、関の明神へ灯明上ぐれば、和光の影清く、十四、五年の内に山崎の長者と成り、内蔵にはよろづの宝寺。「打ち出の小槌は、目前の油槌。」と心得て、楠の木分限といふものに、ちくちく延びて朽つる事なく、一人の倅も十六に成りぬ。
 渡世の智恵付けに、年玉の扇箱を載せたる片木{*2}一枚に、銭二文添へてこれを渡し、「汝が工夫にて、商ひの元手にせよ。」と言ひ聞かせける。一子、暫く思案して、一銭にて紙調へ、一銭にて糊を買ひ、くだんの片木を張り立て、黒星を書き付けて、鉄砲的の角に仕立て、見せけるに、親仁、中々同心せず。「思ひ付きは良き細工なれども、これは、売れの遠き物なり。これを二つに割りて、袴の腰板二枚にせよ。」との教へに任せ、京の羽織屋の店に頼り、初めて銭六文に売りて帰り、それより我と才覚して、富貴になりぬ。
 親の譲りの金銀にて身を過ぎけるは、武士の位牌知行取つて暮らすに同じ。されば、人、出生してより毎日、銭一文づつ溜めて、百より一割の利を掛けて、六十歳の時は、六十貫目になりぬ。これを思へば、万事に始末をすべし。「銀子を貸して、利銀の重なるを思へば、これより良き事は無し。」と思案して、銀一貫目有る時、山崎の親の跡を捨て置き、京に上り、大名貸しの銀親へ頼みて、これを預け置きしに、元一貫目の銀を一分の利にして、三十年その儘に貸し置きけるに、元利合はせて二十九貫九百五十九匁八分四厘一毛になりぬ。この丁銀、箱入りにして請け取り、これより次第に貸し掛けて、程なく千貫目持ちと成り、それより一代の内に七千貫目確かに有り銀、広き都に三十六人の歌仙分限の内に入りぬ。
 そもそも親の手前より片木一枚、銭二文貰ひしを、かく長者になる事、町人の鑑なり。洛陽分限袖鑑の{*3}第二十八番目に山崎屋と見えしは、この人の事なり。子孫続きて棟を並べ、門の松を飾り、めでたき春をぞ重ねける。

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校訂者註
 1:底本は、「付(つ)ける」。『日本永代蔵 世間胸算用 西鶴織留』(1991)に従い改めた。
 2:底本は、「片(へぎ)」。『西鶴織留』(1993)語釈に従い改めた。以下同様。
 3:底本は、「袖鑑(そでかゞみ)第(だい)」。『西鶴織留』(1993)に従い改めた。

二 五日帰りに御袋の意見

 六分に廻れば、大屋敷買うて貸し家賃取る程、確かなる事は無し。火難一つの気遣ひ、それは百年目。十四年には元銀取り返し、地は永代の宝ぞかし。近年、分限なる者ども、我が名代にして家を求めても、貸し屋の出入りを難しく、たとへば百貫目にても、その高に応じて帳切り銀さへ才覚すれば、何程にても銀子取り替へ、家の主となし、年寄、五人組の連判にて売り券状の上に、利銀は家賃分にして、これ、確かなる貸し物なり。又、借り手の心せはしく、しかも内証にて{*1}済む事にあらねば、町所へ外聞を包むにもあらず。「何が勝手に成る事ぞ。」と言へば、西国を引き請けて新問屋する人、又は請け判に立つ人、或いは在郷より敷銀の付け養子、又は嫁を呼び入るる思案にて、まづ居宅見せかけにして、自然と良い事をし済ましたる者もあり。
 今時の縁付け、仲人、十分一取るによつて、大方は騙り半分なり。娘の親の方には、偽り言ふにしてから、二十二、三までも振袖着せて置いて、十七の八のと年を隠す分にて、別の事なし。男の方に偽り言ふからは、頼み、言ひ入れの絹、巻物、包み銀も当座借りにして、婚礼調ひ、敷銀を請け取るといなや、乞ひ詰めらるる手形銀を済まし、早、五日帰りより物毎に品悪しく、仲居、御物師も、「今日までの約束。」と、祝儀の少なきに不足言ひて、嫁御の乗り物より先に立つて帰る。里への土産物に、菓子屋へ杉重取りに遣はしければ、「前々の銀子、大分なれば、又その上には掛け商ひ、ならぬ。」と言ふ。肴屋からは、ある鯛を、「ない。」とておこさず。やうやう紙屋を文作り、何にもかにも、杉原を進上物に嫁を{*2}送れば、介添、御乳は帰り帰り、不首尾一つ一つ御袋に告げて、「まだも{*3}足元明い内に御分別をあそばし、荷物取り返しに。」と言ふ。
 女の身の悲しさは、ここなり。早、自由{*4}ならぬ事ぞ。世の聞こえもよろしからねば、何事も沙汰無しにして、帰しざまに、「敷銀の事は是非もなし。『衣装、手道具を貸せ。』と言うて質に置かれては、取り返し無し。何事も、『母人に問はねば成りませぬ。』と、小袖一つも貸す事なかれ。もし姑がつらく当たらば、こなたへ見舞に来る度毎に、二つ三つの鹿子の物を、知れぬやうに風呂敷に包ませ、幾度にも長持を空き殻にして、縁を切る合点に身を取り廻したが良いぞ。とかうする内に、身持ちになれば難し。子ない時に、余の男を持ち替へたが良い。
 「男に飽かるる仕掛けは、朝寝して、髪結はず。『気が尽きて、立ちぐらみがする。』とて、昼も高枕して物言はず。朔日、二十八日にも無理に顔つきをして見せ、膾、焼き物も、『口に合はぬ。』とてせせり箸して、忙しき中に汁、粥を好み、一門付き合ひにも阿房気質に見られ、三日に一度づつ、『かかさま見舞。』と言うて帰れば、後には、いかなる男も退屈して、物言ひする時、『御気に入らぬ女房を一日も見てござるが悪い。さらりと埒の明く事ぢやに。世界に女日照りはせず。御物好きなる当世娘が何程にてもござる。私が横太りて風俗の悪いは、十貫目の敷銀と、今でもとと様のお果てなされましたれば、新地十間口の家、しかも浜にて、裏に貸し蔵まで建ち続きしを、所務分けに取ります。この家と銀とで見て貰ひます。」と我が儘に言ひつのり、まことのつまりには、この方から埒明けて、せかずとも黒髪の先少し切りて投げ付け、近所へ響き渡る程泣き出し、人集めして、その儘立ち帰れ。」
 親の身として、「世帯を大事にかけよ。」と言ふべきものを、「男憎みして戻れ。」と悪事を言ひ含めけるは、よくよく婿のし方のよろしからざる故なり。「女の大事、ここぞ。母が言葉を一つも忘れな。」と言へば、娘もこれを至極して、その心に成りて男の方に帰るに、一日づつ夜を重ね、なつかしげなる心、互に通ひ、「いかに親の御意なればとて、又、男を持ち替ふるも、人の本意にはあらず。」と母の手前を背きて、内証の勘当構はず、男と一つになつて、身の裸になる事はさて置き、後には手せんじする事、世にある習ひぞかし。昔の名残に有る程の小袖、一つ一つ質に置き上げ、人の帷子時に古袷を身に掛け、世上に綿入着る時、解き明け物に風を凌ぎ、世に有る時の形は無かりし。
 「物毎、後には合点の行く事あり。貧者になつて、当座逃れに質を置き、請け返すといふ時節なければ、当銀に売り捨てて渡世をすべし。」と年久しき小世帯人の語りぬ。とかく、年々積もりて恐ろしきものは、質屋の利銀ぞかし。生平の着古し一つ、加賀の茶小紋の夏羽織、この二色を、そもそもは元銀七匁五分借りて、秋より明くる年の夏まで預け、元利揃へて毎年請け出し、置いたり取つたり、十九年に十七匁一分の利を済まし、近年は次第に元銀下げて、やうやう五匁五分づつ借りて、今に預けける。
 又、家質の事も、よき商ひを見掛け、手廻しの為に借る人{*5}は格別。親代よりその宿賃にて世を暮らせし人、子の代に成りて、無用のつづくり普請、又は、己に過ぎたる万事の奢りより、内証さしつまりて、同じ軒を並べて我が物食へば、何か恐るる事もなきに、加判して貰へば、五人組、年寄に口を垂れ、早、町中の思ひ入れ替はりて、町代も外程には腰かがめず。髪結も遅く廻り、心掛りの事ども、いと口惜し。物見、花見にも、友は変はらず誘へど、何とやら肩身すぼりて、覚えたる世間話さへ控へて、おのづから人の交じはりうとし。
 この家質置く時より、何して済ますべき分別無しに借りければ、程なく利銀一つ書き込み、手形仕替へて年を重ねし内に、売り出しも残らぬ程に成りて、その切りを過ぐれば貸し主より催促せられ、埒の明かぬ事に、幾度か町内へやかましき事を聞かすれば、最前は、「愛しや。」と悔みし年頃別して語りし人も、後にはうとみて、貸し方のせりたつるやうに内証言ひて、是非なく家を渡せば、老母、ひとしほ歎きて。
 「この町に井戸の一つもない時より、この屋敷を求めて、『二代も手のかからぬやうに。』とて節無しの六寸角。この年まで、この大黒柱にもたれかかつて、水貰ひに来る者に、『かみさま。』とて腰をかがめさせ、茶事の座敷へも三番と下がらず。連れ合ひの蔭にて人にもて囃されしに。『一人も一人から。』と、倅が一心悪き{*6}故、今となつて穴のはたを覗きかかり、『葬礼はこの家から。花を降らして浮世の門出。中戸の上の高いは、玉の輿の自由に出るやうに。』と、こんな事まで気を付けて置かれし所を、別るる事の悲しや。」と空き蔵を眺め、杓子掛けを引き放ち、庭に豊後梅の花落ち頃なるに、これも恨めしさうに、「毎年五月には、三斗四、五升も取りけるに。思へば惜しや。」と枝々を叩き落とし、「この木、我が涙、枯れいかし。」と無理なるし方。女心には道理千万と言へり。さぞ離れ難き心底、思ひ遣られし。一子、覚悟の悪しさに、かかる憂き目を見せける。
 しかし、人の身代、智恵才覚にもよらず。その廻り合はせにて、その家畳む時は、他国して再び稼ぎ出し、古里に帰り、妻にも錦を飾らせてこそ本望なり。女房に心引かれ、その所にて指をさされ、かすかなる住まひするは、人間にはあらず。
 その頃、大坂の西浜にて商売せし人、数年愚かなく、渡世大事にせしに、様々振り替へても思はしからず。「いまだこの身無事の内、遠国に立ち越え、身過ぎなるべき所を見立て、老いの楽しみは金銀なり{*7}。」と思ひ極めて行くに、中国路は上方に近ければ、諸事、都に変はる事なし。四国の内も思はしからず。九ケ国の内を残らず巡りて、薩摩国の城下に着きしが、長々の路銭に尽きて、旅寝の宿を借るべきたよりもなく、和泉屋町大小路といふ所は船着きに近く、いつによらず米、味噌、塩を売る為に、灯し火家々に、いまだ寝ぬ宿もあり。
 せめて餅屋を尋ね、門の戸を叩き、「餅買お。」と言ふ。夫婦ながら、今寝たと聞こえて、鼠の荒るるを追ひ廻しけるが、かかが聞き付けて、「餅は、いくらがの。」と言ふ。「五文がの売つて下され。」と言ふ。亭主が声して、「寝てからは、五文や十文がのは売らぬ。」とて、その後は返事もせず。「さても、この所、稼ぎて見たき湊なり。五文が餅を売らぬからは、商ひ事の有り余ると見えたり。」と。身上ここに極めて、一日暮らしに年を重ね、わづかの油売りより元手仕出して、次第に家栄え、「これと申すも、仏神の御恵みなり。」と信心深く、田の浦といふ所に祇園の立たせ給ふ、これに日参して祈りぬ。
 この浜の景色、諸木、岩組、常に変はりて、古代より「仙家有り。」と言ひ伝へり。或る夕暮に詣でけるに、十四、五{*8}なる艶女の近寄り、懐より古き絹一巻取り出し、「母を養ふたよりに致せば、これ、何程に{*9}なりとも求めて給はれ。」と言ふ。心ざし不憫に、「それまでも無し。」と、折節有り合はせの銀二十匁余り渡せば、「只は申し請けじ。」と、是非、絹を置いて帰る。されば取りて戻り、見る人に見せければ、「これ、小蔓といふ唐織。世に稀。」と言ふ。その後、かの女の元を尋ね、返しに行けど、知れ難し。
 「さては、祇園女御の与へ給ひし果報。」とて、都の人に黄金八十枚に代なしてより、次第に分限と成り、子四人それぞれに棟を並べ、「世渡りは雫もこぼさぬ油屋。」と、家名、その隠れ無し。財宝の外、隠居分とて有り銀三千貫目。大坂よりここに来ての住家、人皆見及び、その身一代の働き。これ、町人の鑑ぞかし。殊更、正直を本として、末々めでたきは{*10}、備はりし仕合せなり。
 これを思へば、商ひの道を知れる人の、うかうかと身を持ち崩し、貧乏神と相住みして世を果つる事、人の本意にはあらず。合点して見給へ。

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校訂者註
 1:底本は、「内証(ないしよう)にも済(す)む」。『西鶴織留』(1993)に従い改めた。
 2:底本は、「娌(よめ)におくれば、」。『西鶴織留』(1993)に従い改めた。
 3:底本は、「まだ足元(あしもと)」。『西鶴織留』(1993)に従い改めた。
 4:底本は、「自由(じいう)にならぬ」。『西鶴織留』(1993)に従い改めた。
 5:底本は、「借人(かりて)」。『西鶴織留』(1993)に従い改めた。
 6:底本は、「わかきゆゑ、」。『西鶴織留』(1993)に従い改めた。
 7:底本は、「金銀(きんぎん)なると」。『日本永代蔵 世間胸算用 西鶴織留』(1991)に従い改めた。
 8:底本は、「十四、五歳(さい)なる」。『西鶴織留』(1993)に従い改めた。
 9:底本は、「何(なに)ほどなりとも」。『西鶴織留』(1993)に従い改めた。
 10:底本は、「目出(めで)たくは」。『日本永代蔵 世間胸算用 西鶴織留』(1991)に従い改めた。

三 今が世の楠の木分限
                                    
 吉田の兼好が東隣に、同じ北面の侍、榎木原信道と言へる人、屋形並べて住みける。いかに禁裏の役人なればとて、五十余歳まで銭に文字ある裏表をも見知らず。されば、短尺の上下をもおぼえず。公家にも俗にもならず男、明暮、碁に打ち入りて、三百六十日の経つ事を忘れ、大年の晦日には借銭に乞ひたてられ、その時代も覚悟悪き人の迷惑、今の世に変はる事なし。留守使うて戸を叩かれたる有様、松など灯し連れて、夜の明くるまで、「酒屋でござる。」といふ声。せはしき人の心を書き残せり。
 又、武蔵坊弁慶が馬大豆八斗の借状、尼崎に有り。伊勢三郎義盛が嵯峨の百姓に五百貫の借り手形も有り。これらは義経に仕へて、しかも弁慶は、禄重けれども、無用の七つ道具を拵へて、身代ならず。義盛は始末して、手前のよろしきと言へり。
 世に貧福の二つは是非なし。昔日、京に吉文字屋といふ家久しき手代二人、数年、親方の為に私無く、内外共に勤めければ、主人に備はる仕合せとは言ひながら、この二人が働き故、有り銀一万貫目と総勘定を仕立て、正月、初帳に写し、見せける。親方も、「かねての願ひ、一万貫目に叶へば、この上に望み無し。」と身の喜びをなして、今日より諸事を次の手代に渡させ、まづ両人は別家を持たせ、一日替はりに出入り奉公と定め、良き所、家屋敷普請までして、銀二百貫目づつとらせ、両方共に両替店を出しける。元より道を知りたる事なれば、貸し入れの取り廻し、小判の買ひ込み、銭の売り置き、一厘も損ずるといふ事なく、年々分限になる事、その身才覚{*1}ばかりにあらず。これ皆、且那より元手貰ひし故なり。
 一人はいまだ十箇年の経たぬ内に、早、五百貫の身代になりぬ。又一人は、親方に渡されし二百貫目、今に延びず。やうやう渡世をして暮らしぬ。この両人の内証を聞き合はせ、「同じ銀子を請け取りても、手廻しによつて、あの如く成るものぞ。」と指ざしせぬばかり、手代仲間にて沙汰しける。親方、この事を聞き付けて、「何か、愚痴のおのれら、身過ぎに賢き者の事を評判致しけるぞ。あれなればこそ、今に元銀減らさず世を渡りぬ。その子細は、我が世になつてこの方、仕合せ続きて、一つも障る事なし。又、一人は、世帯持ちて、その年より人の気づかぬ物入り相続き、迷惑しける。何の考へもなく人の身上を沙汰致す事、おのれらが料簡の及ぶ所にあらず。
 「この者、女房の頼みをやりける宵より、『あら、気の毒や。最早、いか程稼ぎたりとも、銀も延ぶまじ。』と高ぐくりに思ひしなり。汝等も知る如く、舅は、『八百貫目。』と世間に指したる分限者なり。娘は年若く、しかも町でも沙汰する程の器量良し。『我知らずの物入り有り。』とは、頭から知れたり。舅は、年中一分の利合にしても、八十貫目の男なり。婿は漸う二十貫目。たとへば、大勢の敵を小勢にて防ぐに、勝利を得る事は無し。終には追ひ倒さるべき事なれど、楠にも劣るまじき商ひの軍法者なればこそ、いまだ元銀にて城郭を堅めけるは、良き大将ならずや。」と言はれけり。
 手代ども、聞いて、「まことに、一生に一万貫目の身代となられける、あつぱれ良き大将。智有り、仁有り、勇有り。」と皆々頼もしく奉公を勤めける。

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校訂者註
 1:底本は、「その才覚(さいかく)」。『西鶴織留』(1993)に従い改めた。

四 塩売りの楽介

 粟田口神明の宮のほとりに、軒端に手の届く笹葺の庵を結び、夫婦住み侘びて、六十余歳まで子のなき者の行く末の悲しさは、女房は男の手業の沓を作りて、窓の呉竹に結ひ添へ、大津に通ふ馬方に売りて、渡世の頼りと成しぬ。男は毎日、京に行きて、計り塩を商売して、やうやう今日を暮らし、明日の身の上を構はず。宿に帰れば、栗栖野小野の萩柴を折りくべて、山科の里芋に勧修寺の煎じ茶して、楽しみこれに極めて、世にある人の栄花も羨む事なく、只、年中を夢の如く、正月に餅も搗かず、盆に鯖も据はらず。九月の節句近付けども、栗、菊酒の用意もせず。取り集める掛銀も無く、人に済まする借銭もあらず。さても軽き身代、外より見ての苦しみ、内証の楽介、格別ぞかし。
 折節は九月八日、我人、「物前。」とて、足音、常とは変はり、かづきたる御所染姿の京女臈も、とりなり構はず、道忙しき世間憚りなく、中立ち売りの中程に、いづれの御服所とは知らず、表口十五、六立ち続きたる家普請。「今日、棟上げの祝儀。」とて、幕うち廻して、金屏、毛氈、色を争ひ、庭には樽肴持ちつどひて、帳付け、暇もなく、台所の役人、それぞれに承り、一門の女中、花を飾り、表客は松竹の島台廻して酒宴始まり、様々の芸尽くし。いづれも七杯機嫌の大笑ひ、やむ事なし。
 番匠は、鳥帽子装束を改めて、白幣をかざし、鬼門よける弓矢を供へ、拍子を揃へて棟の槌を打ち初め。「万歳楽。」と言葉を重ね、五百八十の餅をまけば、これを拾ふ人、大道も狭かりき。立ち止まりて見る人毎に、「かかる作事をして世を渡るこそ、長者なれ。あの如くして、子孫に渡したき」願ひ無きは、一人も無し。財宝に望みなき人は、何となくうち眺めて通りぬ。立ち止まる程の人は皆、人の宝を数へて、殊更、内蔵に目を付けけるは、何の用にも立たぬ欲なり。この主も、二十年以前までは提灯の張り替へして、火吹く力もなかりしが、何から分限にならぬといふ事なし。少しの事に気をつけて、渋油にきらを引いて、雨夜の提灯といふを始めて、今、「七千貫目持ち。」と世間の指図に違ひ無し。筬掻き、たごの手せし人にもあらねば、都にも、昔は大方に吟味して、歴々の縁組せし事。言ふもくどけれども{*1}、とかく、世は銀の光ぞかし。
 かの塩売りばかりは、家作りの望みもなく、良き声して小歌に、拍子踊りを面白く、暫く覗きて、見物皆々立ち退きける時、奥縞の財布を拾ひ上げて、「これ、落としたる主は無きか。」と言へば、年の頃五十余りの法体の人、「我、落としけるに、もらかし給へ。」と言ふ。「成程、返し申すべし。しかし、疑ふにはあらねど、中には何が入りけるぞ。」と言ふ。「細銀、百目ばかりあり。」と言ふ。塩売り、大きに眼色変へて、「年にこそよれ、さてもさもしき心底なり。中は金子なれば、その方の物にはあらず。これ落としたる人、我が宿に尋ね給へ。」と、紛れなく所を触れて帰りぬ。
 その夜、室町通西行桜の町、菱屋といふ絹屋の手代尋ねて、小判百二十両、西国問屋より請け取り、主人の手前、迷惑仕る段々、断り申せば、「百二十両との書き付けに相違なし。」とて、何の惜しげも無う、くれける。手代、涙を流し、喜ぶ事の限りもなく、「外の手に渡らば、よもや我には返るまじ。すぐに駆け落ちの身を、再び京都に帰る祝儀。」とて、その内小判五両、礼物に置きければ、塩売り、中々これを請けず。「これは、そなたの金子にあらず。主人の物を我に分けらるる故なし。申し請くる事、思ひも寄らず。」と度々返せば、是非なく取りて京に帰りぬ。
 この手代、その恩を忘れずして、それより後は、雨、風、雪の日の難儀、塩売り、京に出かねる日は、人を頼み置き、定まつて塩を二斗づつ買ひに遣はしければ、塩屋は、「天の与へ。」と喜び、かの手代が働きとは知らずして過ぎぬ。厚恩を忘れぬ心から、手代もその後は、我が世の仕合せ続きて、近年、書き絵小袖を仕出し、俄分限と成りぬ。
 その頃又、上京に隠れも{*2}なき名医の有りけるが、名人は必ず気随にして、御所方への御出入りを「むつかし。」と、これも粟田口に引き込み、静かなる片原町に、物好きの生垣、奥深に住みなし、ここも東海道なれば、諸大名の下り上りにも、王城の忝さは、高腰かけて鼻歌歌へど、誰咎むる事もなし。
 この法師、或る時、夕立しての後、下駄はきながら、我が門に立ちて遠見せられしが、かの塩売り、夕暮に京より帰るを見て、内に逃げ入り給ふを、各々、不思議を立て、「あの塩売りなどに、何として恐れ給ふぞ。」と尋ねければ、「あれは、今の世の聖人なり。聖人に足駄はきながら対面するも、恐れあり。又、近付きならねば、下駄脱ぐまでもなし。とかく、御目にかからぬが良い。」と申さるる程に、「あの者を聖人とは、いかなる事ぞ。」と言へば、「それを知らずや。今の世、金子を拾うて返す事が、そもやそもや、広い洛中洛外にも、又あるまじ。これ程の聖人、唐土も見ぬ事。」と仰せられける程に、いづれも、「尤も。」と合点して、この塩売りに恐れ侍るとなり。

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校訂者註
 1:底本は、「くどけども、」。『西鶴織留』(1993)語釈に従い改めた。
 2:底本は、「隠(かく)れなき」。『西鶴織留』(1993)に従い改めた。

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