江戸期版本を読む

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カテゴリ:井原西鶴 > 校訂西鶴置土産(1937刊)

校訂西鶴置土産(1937年刊)WEB目次

西鶴置土産 巻一 大全目録
一 大釜の抜き残し
古金屋が寝覚め  つらきもの傘無しの雨  情は藤崎が待つ夜
水は袖にかかる迷惑  互に裸物語  夢は明け方の風呂敷
二 四十九日の堪忍
これからは皆我が物  世には借銭を譲る親も  もて余したる一人
野秋があだ枕  太鼓持律義  都の島原へ流人
三 嘘も言ひ過ごして
契りの亥の子餅  ひそかに眺め候人  腰張りも銀に成る
金太夫がしかけ  いづれ心の外  とかく知れぬは命

西鶴置土産 巻二 大全目録
一 愛宕颪の袖寒し
  堺の島長花紅葉の遊び  壁の崩れより小判珍し
百に成りても女郎は腰つき  昼食無しの道中  小家も八朔の鱠
二 人には棒振虫同然に思はれ
  金魚が狂言も古し  江戸桜の返り咲き  息子が一つ着る物
朝顔の実を取る婆あり  御前の戸も茶の木と成り
三 憂きは餅屋 つらきは唐臼踏み
新町の夜店知らずめ  綿秋の貯まり銀  木半が身の上
座敷踊りに恋が廻る  紋所は昔を残す

西鶴置土産 巻三 大全目録
一 思はせ姿 今は土人形
毎日の芝居好き  女嫌ひとは言ひ過ごし  今見る者は小紫
太夫一つの掛け銭  空き腹の加賀津節
二 子が親の勘当 さかさま川を泳ぐ
茶屋に桔梗の紋  女郎に男草履取  扱ひは千五百両
手かけが本妻の悋気  江戸に鯉の刺身売り
三 算用して見れば一年二百貫目遣ひ
南都諸白卸  美食は辛子酢の鱶  小野島は我が物に
産まれ産まれの具足の着初め  明神も御存知の宮参り

西鶴置土産 巻四 大全目録
一 江戸の小主水と京の唐土と
金竜山の仕出し茶屋  女郎互に預かり男
青木屋の小藤にかかる時  人は知れぬ仕合せ  煙の末の煙草入
二 年越の伊勢参り 藁屋の琴
玉の盃当座に割り  美しき者金太夫
五條の市が物好き  長崎の鹿の声  吉野は生きた花
三 恋風は米の上がり 局に下がりあり
店に忍び駕籠  三日の日和見たし  椀久笑ひし人も
揚屋が宙積もり  大尽も変はる世や

西鶴置土産 巻五 大全目録
一 女郎が良いと言ふ 野郎が良いと言ふ
始末は宿での事  陰間芸尽くし  九軒に身は捨て小舟
世渡りは心太の草  石塔の施主まん
二 知れぬものは勤め女の子の親
目に見ぬ恋に皆になし  先は班女が心入れ  やまぬ通ひ路
取り沙汰の男め  死ぬなとの御異見  さる人に智恵あり
三 都も淋し 朝腹の献立
吉弥が藤見大濡れの浪  後世嫌ひあり
宇甚が破れ紙子  尺八は隣の迷惑  火を焚かぬ庵室あり


校訂西鶴置土産(1937年刊)WEB凡例

  1:底本は『西鶴置土産 』(片岡良一校訂 岩波文庫 1937年刊 国会図書館デジタルコレクション)です。
  2:校訂の基本方針は「本文を正確にテキスト化しつつ、現代の人に読みやすくする」です。
  3:底本のふりがなは全て省略し、底本の漢字は原則現在(2025年)通用の漢字に改めました。
  4:繰り返し記号(踊り字)、合字(合略仮名)等は、漢字一字を繰り返す「々」を除き、原則文字表記しました。
  5:句読点、濁点半濁点および発話を示す鍵括弧は適宜修正、挿入し、改行も適宜しています。
  6:かなづかい、送り仮名は、文語文法に準拠し、適宜改めました。
  7:校訂には『井原西鶴集 三』(谷脇理史、神保五弥、暉峻康隆校注・訳 小学館 1972)、『新日本古典文学大系77 武道伝来記 西鶴置土産 万の文反古 西鶴名残の友』(冨士昭雄校注 岩波書店 1989)を参照しました。
  8:底本本文の修正のうち、必要と思われるものは校訂者注で示しました。但し、以下の漢字は原則として、他の漢字あるいはかな表記に変更しました。

漢字表記変更一覧

複数篇にわたるもの(五十音順 但し現代仮名遣い)

ア行
 明く→開く・空く 跡→後 入る→要る 偽→嘘
カ・サ行
 影・陰→蔭 十五→囲 借す→貸す 替ふ・替はる→変ふ・変はる 蚊屋→蚊帳 傘→唐傘 花車→華奢 口舌・口話→口説 闇がり→暗がり
タ・ナ行
 大臣→大尽 中→宙・昼 挑灯→提灯 詠む→眺む 鱠→膾 悪い→憎い 
ハ行
 姨→叔母咄→話 祖母→婆 引く・挽く→弾く 隙→暇
マ・ヤ・ラ・ワ行
 見世→店 男子→息子 食→飯 本・許→元 物→者 者→物 屋→家 家→屋

上記以外(篇毎 登場順)

 目次 豕→亥の子 同前→同然 碓→唐臼
 1-1 婬→淫 木履→足駄 笠→傘 焼く→焚く 直→値 大夫→太夫 鬠→元結
 1-2 名誉→面妖
 1-3 如在→如才 帥→粋 始め→初め 貫→抜き
 2-1 素し→白し 碓→臼
 2-2 釣る→吊る 泪→涙
 2-3 妾→手かけ 拍手→拍子
 3-2 達→伊達 倅子→倅
 3-3 碓→石臼
 4-1 筑地→築地 内衣→湯具 そく才→息災 按擵→按摩
 5-1 鉦→銅鑼 移す→写す 已前→以前 鳴渡→鳴門 蜘→蜘蛛 立つ→建つ
 5-2 男子→男 閉づ→綴づ 相坂→逢坂 蠣→牡蠣
 5-3 尋ぬ→訪ぬ 素湯→白湯

 なお、底本には現代では差別的とされる表現がありますので、その点、ご注意ください。

井原西鶴関係記事 総合インデックス

 この全部五冊の書は、先師の書き捨て置かれける{*1}反故の中より出たるを、書林何がし、切に乞ひて、「長き形見にもや。」と言へるに{*2}、「跡は消えせぬ」と詠めるも、あはれに思ひ遣られて、かれに与ふるものなり。
    元禄六酉冬の日  難波俳林西鶴庵  団水

 世界の嘘固まつて、一つの美遊と成れり。これを思ふに、まことを語り、揚屋に一日は暮らし難し。女郎は、無い事を言へるを商売。男は、金銀を費しながら、気の尽きぬる飾りごと。太鼓は作りたはけ。遣り手は怖い顔。禿は眠らぬふり。宿の嚊は無理笑ひ。上する女は間抜けの返事。祖母は腰抜け役に酒の横目。亭主は客の内証を見立てけるが第一。それぞれに世を渡る業、可笑し。さる程に、女郎買ひ、珊瑚珠の緒締め提げながら、この里やめたるは一人も無し。手が見えて是非なく身を隠せる人、その限りなき中にも、およそ万人の知れる色道の上盛り、成れる行く末集めて、この外に無し。これを大全とす。
難波  西鶴
校訂者註
 1:底本は、「置れたる」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 2:底本は、「いへる跡は」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。

一 大釜の抜き残し

 世は外聞包む風呂敷に替へ帷子。夏は殊更、供の者連れずして、自由成り難し。昔は定まつて柳行李に物を入れ、鼓の調べの古きにて絡げ、これを持たせけるに、それは葬礼の時か、公事人の供なり。近年の大尽は、小畠染の両面、又はべんがらの大縞の風呂敷に、暑き時分も暮れ方の用意して、単物、袷羽織を入れさせ、利根なる小者連れたるは、古かね買ひに見せても、三百貫目より内の身代にはあらず。
 ここに、難波津の横堀川のほとりに、淫酒の二つに身をわけもなう、胸は煙の毎日、塩屋の藤崎といふ美君に焦がれ。
 銀で成る分け里の女ながら、後は勤め外に成し、「この男より誰にかは。」と黒髪の半ば切りて、世間にこれを隠さず。「いとしさにこの姿。」と名に立つ、年は十九の花の咲く頃。この里の色も香も一人して知つた顔、少しは憎い程なれども、いかにしても外の女郎の成るまじき事は、世にある客を見捨て。
 揚屋の門を闇にさへびくびくして、春の夜の一つ着る物、袖の嵐を厭ふに、因果は降る雨悲しく、宿りの軒下も人の提灯うるさく、この前取り出の時分、家買うて取らせたる太鼓が方へ走り込み、聞き知る声かすかに、「唐傘一本貸せ。」と言へば、女房が下女に言ひ付けて、「編笠ならばござる。」と言ふ。
 「さても足もとを見立てたる返事する。『足駄貸せ。』と言ふならば、『日和の良い時、御出なされ。』と申すべし。さりとては物知らずめ。米の百目する時、娘を八坂へやる談合。二十五日様の名号まで質に置き、後世を取り外す時も、金子十両の合力。前後遣つたる物を勘定すれば、家の時よりこのかた三貫七百目、小判四十七両。米十八石、着る物、羽織二十一。その外、ちよこちよこ心付けせし事、留帳にはつけず、覚え難し。これを忘れて、今度唐傘一本貸してくれぬは、さりとては、むごき仕方なり。これを思ふに、女郎ほど誠ある者は無し。言ひかはせし事を違へずして、身を忍び、命にかけて、一夜もあはれをとひ慰めぬ{*1}事無し。外の障りと成る事。」更に可愛くなりて、「とかく逢はぬがあれがため。」とて、雨に身細めて、気の尽きる軒伝ひ、やうやう宿に帰れば。
 町の年寄ども、念仏講の帰りと見えしが、我等が門に立ち止まりて、主が聞き居るとも知らず、「いづれこの家、二十四貫目には買ひ徳なり。この格子、取つて捨て、銭店か蝋燭を出し、裏の長蔵を小貸家に直し、角引き廻して、表の分は七分莚の算用にして、一ケ月に百九十目づつ納まれば、これぞ良き隠居屋敷。」と売りもせぬ先に、人の家の指図をするは、無念ながら、是非も無し。
 聞く程堪忍ならねど、家質の連判頼み置けば、「世上ほど自由にならぬもの無し。」と男泣きすれど、「万事は帰らぬ昔。」と思ふに、筋向かへの両替屋の親仁の言へるは、「親の庭好きして植ゑ置かれし蘇鉄は、今にあるか。」と言へば、「それはいつの事。とても売り家の覚悟して、岩組まで一つも以前の形は無し。あんな仕果て、世に又とあるべきか。既にあり様の婿になる筈を、首尾せいで御仕合せ。私の西隣にも、親に懸かり、若い子どもの風上に置く事も嫌。」と、鼻に皺寄せて、もの憎さうに言へり。
 「おのれ、後ろから踏み倒しても。」と思へど、さても世間は思案する程難しく、ひそかに戸を叩けば。五十余りの下女罷り出で、「良い程にて御帰りあれかし。八つの鐘聞いてからも、暫しの事。」と言ふ声ばかりして、暗がりなり。「火が消えたか。」と言へば、「油がない。」と言ふ。「それ程の才覚が成らぬか。」と火打ち箱探して茶の下へ焚き付け、その光の内に二階へ上がり、古き長持をこぼちて、夜もすがらこれを焚火して、一人、文など読みながら、宵の袖をあぶる内に、門を遠慮もなく叩けば、寝た顔も成り難く、「誰そ。」と言へば、色友達四、五人、無理やりに走り入り、「寒き夜の庭火、亭主が物好き。どうも言へぬ。」と、これらも唐傘無しの濡れ身を干して、「何も馳走は要らぬぞ。酒は一つ呑ませ。」と言ふ。
 常々、贅を申して、「何時なりとも御出あそばせ。内にさし合ひは無し、望み次第の食悦さすべし。」と、その言葉も、「是非に酒を呑まする所。」と徳利、手樽を探せども、いかないかな、一滴もなかりし。小半買ふべき銭も無く、この才覚、昼さへ成らぬに、夜の事なれば、ましてや分別出ざりしが、大庭に十七並べて、只一つ売り残せし大釜引き抜き、幸ひ横町に古金屋のあるこそ仕合せなれ。叩き起こして、銭の俄に要る子細を語り、潰しの値にして四匁にまけてやれば、銭渡しざまに、「夜中に釜は、何とも合点は行かねども、よもや、こればかりを盗んではござるまい。」と言ふ。神ぞ口惜しけれども、断り申して銭を請け取り、やうやう外聞を酒に包みて、この酔ひの余りに、「明日は、今宵の憂き晴らしに、道頓堀に出、中の大夫元にして、これの亭主振舞。」と言ふ。
 「忝し。」と約束固めて別れ、その明けの日、いよいよ御出の使。「追つ付け御後より。」と物の要らぬ事なれば、男作り済まして、夜前着る物、皺伸ばして、椛染の平帯、長柄の一つ差し、角倒さぬ大鶴屋が扇。見た所は、今も大尽なり。今日一日の雇ひ草履取に、奥縞の風呂敷かたげさせしが、この内へ、その名染め込み暖簾畳み入れ、「人目には、替へ着る物と見るらん。」と我が心の恥づかしく、真斎橋筋に歩みを南へ急げば、芝居の果ての人立ちに、小間物屋の男が打ち水に行きかかり、腰から下へ一絞りに成りて、着替へ無き身の悲しく、心腹立てて眼色変はれば、主走り出、「段々御尤も千万に存じ奉る。この男め、大和より二、三日後に、ここ元へ参り、土気の離れぬ者なれば、是非に御堪忍。」と亭主結構なる一言に、ねだるべき力なく、「侍衆にかけぬやうにしやれ。」と言ひ捨てて通れば、「これへ御腰を掛けられ、御着る物召し替へらるべし。さあさあ座敷へ。」と言ふ程、気の毒。「苦しからぬ。」とて、濡れながら三津寺八幡の前に行き、この辺りに、旅役者の笛吹きに伊勢の吉太郎と言ふ者、折節は子どもの一座に呼びて、二、三度も物取らせたる事あり。これより外の茶屋、役者、皆々分け悪しく、立ち寄る事は思ひも寄らず。
 裏貸し家住みの吉太郎に訪ね寄れば、丸裸にて立ち出、「御久しや、旦那。かかる埴生の小屋への御立ち寄り、かたじけありと言ふものぢや。」と俄に煙草盆の塵は払へど、裸で飛び廻るを見て、「これは気根強し。」と言へば、「只今、大酒致しました。」とは言へど、上気をして、「旦那も、この御小袖の濡れは。」と不思議を立つる。
 始めを語りて、「これを日当たりへ干せ。」と言ふ。大尽も丸裸になつて、「いづれ、今日は暖かな日ぢや。」と縁側に立ち並び、歯をくひしめて語り、「我らは今日に限つて、着替へ持たせて参らなんだ。その方が、いつぞやの郡内縞の着る物、少しの程借せ。」と言へば、「我が裸、何を隠しましよ。只一つの郡内、裏ばかり洗はせまして、隣へくけに参りし内、この仕合せ。」と語る。大尽、横手を打つて、「さても事の欠けたる内証かな。近日、着る物、羽織、拙者、はずむでござる。今日は、宿に首尾悪しければ、取りにも遣られず。」と二人裸で待つ内の身振、様々可笑しく、やうやう西日になつて、干したる着る物干上がりて、大尽、これを召せば、吉太郎、仕立て着る物も出来て、二人共に常の姿となつて踊り出、待ち兼ぬる振舞の方に行けば。
 膳は仕舞うて、酒の面白き所へ立ち出、「嫌と言はれぬ人に留められて、いづれもの手前、迷惑千万。」と言ふ。「今までの御暇入り。御飯は参つたか。」と言はれて、「いかにも食べました。」と言へば、その通りに済みて、空き腹の乱れ酒。肴の中にも生貝など食ひ尽くして、夜食までの待ち遠く、吸物の出るたび、「もし饂飩か。」と見れば、切りかけ烏賊の、しかもかすかに、これらに腹も膨れず。笛吹きの吉太郎は、気を尽くして立つて帰る。一座は衆道の色に、前後忘るる酔ひ心。我を覚えず、「これは寒い。」と言へば、御着る物の入りたる風呂敷取つて参つて、大勢の中にてこれを開くれば、紺染の暖簾に丸の内に仁の字付きたるを取り出せば、この座、興さめて、各々見ぬ顔するも、なほ可笑し。
 随分気強き者ながら、酒さめて、浮世の人を恥ぢて、これより「無用の色道。」と思ひ切つて、家財仕舞ひて、その身一人の草庵。昔の友に会ふ事絶えて、髭おのづからに伸ばし、手足、終に洗はず。渡世に江戸元結の賃捻りして、一日暮らしに難波の堀詰に身を隠し、大寺の桜は近きに、五年余り、春を夢と成し、蝶の定紋も付けず、木綿を浅黄にやつて、世は軽く暮らして埒をあけぬ。

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校訂者註
 1:底本は、「とひ慰めん事」。『井原西鶴集 三』(1972)訳に従い改めた。

二 四十九日の堪忍

 「長者に二代無し。女郎買ひに三代無し。」と京の利発者が名言なり。
 洛中広きに、「歌仙分限。」と指されて、三十六人の中にも、左座の第一。「二文字屋の何がし。」とて、親より家蔵、諸道具の外に、十五百貫目書き置きせし時、連判の各々、これを改めて、「跡取りに相渡し候ふ事、実正明白なり。」これを請け取り、四十九日の朝は旦那坊主呼びて、夕飯に精進上げて、箸を下に置くと、宿を駈け出、島原に行きて、「丸屋の亭主、合点か。親仁が所務分け、見たか、見たか。」と小判を逆手に持つて撒き散らし、「この家内、繁昌。」と喜ばせける。これより心に任せ、太夫の石州を揚げづめにして、いかないかな、脇の男には緋縮緬の戸帳拝ませず。この女郎を「秘仏の太夫。」と名高く。
 その頃の太鼓、杓子の徳入といふ針立、この秘仏様を預かり、昼夜守りて、後生大事に目付する。これ、恋に心ざし無く、情けに望み無し。只妻子のため、「何も身過ぎ。」と療治を捨てて、一年一貫二百目の御合力に定め、我が宿ありながら、年越の夜も内に寝ず。目に正月させて、小気味の良き首尾聞きながら、妻無し千鳥と飛び歩く。
 引舟女郎の、帯解き、髪の損ぬるも構はず、「木枕が見えずば、良き物あり。」と空き重箱を横にして、誰に遠慮もなく足手を伸ばし、「後の助を呑むまいもの。」とうつつのやうに言ひ寝入りに、この面影、灯に移り、顕はに見えけるに、末の女郎ながら、白無垢の肌着に首筋麗しく、少し中低にこそあれ、薄皮にして小さき口元。この中で見ればなり、大津などの天職よりは見良し。「毎夜十八匁が物を。国土の費え。」と無常を観ずる所へ、やがて出前の禿、我が身を人の物にして、しどけなく腰まで裾のまくるるも構はず、酒に痛みて、「朝、雨が降つて、四つ時まで寝たいぞ。」とおぼえず言ふも可笑しき。「こいつも、わけを知らぬ様にも見えず。只置くも無念。」と又、次の間を見れば。
 太鼓女郎二人まで、九匁が所、弾き草臥れて、三味線の筒を枕に足もたし合うて、懺悔話を立ち聞きするに、苅藻といふ女郎、しかも好きさうなるに、「それに拵へて置く身も、自由に我が儘もならぬ事は、氏神稲荷様を誓文に入れて、去年の九月の十四日に、肥後の衆と床へ入つた儘。」と言ふ。「我らは、年明けて二、三度も、分けの立つ客に逢うた。」と語る。「さても不憫や。この女郎どもを買ひ捨てにして置くは、食はぬ殺生。罪にもなるべし。傾城の男珍しがる事、よもや世間に知るまじ。」
 又、台所を見渡せば、柳まな板取り廻して、色めきたる下女ども、男まじりにうち臥しけれど、誰かこれらに目をやる人も無し{*1}。これを思ふに、吉野の麓に花の盛りを見ずに暮らし、山崎の人、郭公に耳塞ぐに同じ。ここもその如く、女房見飽きて、何とも思はぬと見えたり。
 「こんな所へ来て只居るは、うかとした事ながら、常々律義に思し召して、大事の御番を御頼みなされしに、微塵も自堕落する事にあらず。」と片隅に取りのき、小分別ありげに眉をひそめ、丸寝して、随分寒い目を堪忍して、夜明けを待ち兼ぬる時、大尽、起き合はせ給ひ、徳入が寝姿を見給ひ、「いつもその如く、一人寝するか。幸ひの手空きがあるに、さりとは無用の斟酌。さても残らぬたはけ者。ここで恋をせぬは、風呂へ入りて垢を落とさぬに同じ。冷え者、御免。どの懐へなりとも入れ。」と御言葉かかりて後、分際相応の遊興。「これ皆、御蔭、御蔭。太鼓持ほど有り難き世渡り、又もあらじ。」とおぼえける。
 この大尽、一代の奢り。行年七十四まで、腰の骨の続く程は色騒ぎ、その子、猶又、中頃の野秋にばつと出て、見事な差配し過ごし、これも知恵過ぎてやむるにはあらず。自然と面白さやみて、七十九の夏頃よりこの道をとまりける。二代共に名を流し、三代目は、「二清。」と言はれて、薫大尽なるが、程なく通ひ提灯の立ち消えして、次第悪く、やめにける。
 二代目に分散に極まりたる身代なりしが、舅の譲り銀、二百貫目の響き{*2}、天秤に掛け出し、今までは続きぬ。二清、身に当てては、三十四、五貫目使ひしに、悪い所を請け取り、あたら身代、この男が皆になしたるやうに沙汰せられ、婿にも養子にも談合の相手無く、何にも残らぬ身一つ、今日を暮らしかねて、やうやう長者町によろしき叔母の元へにじり込むを、ゆかりなれば見捨て難く、四、五人ゆるゆると世を渡る金銀取らせば、これも又、半年経たぬ内に、かの里へ運びける。
 「とかく俗を離れさせよ。」と圧状づくめに坊主に成せども、猶この道をやめず。「この上は、養ひ殺せ。」と座敷牢に押し入れ置くに、これも忍び出、気色を見るばかりに通へば、「いかなる事もや、し出しけん。」と賢き人に相談するに、「おのづからやめさする遠島あり。こなたへ任し給へ。」と島原の揚屋町の横手に、小さき貸し家を借りて、二清に渡し、家賃の外に、一ケ月の合力銀三十目。「何なりとも勝手次第に狂ひ給へ。」と言ひ捨てける。
 ここにて面妖。悪心変はりて、人に会ふも迷惑して、後には、はやり話の請け売りして、女郎様より物貰ひて、口惜しからず暮らしぬ。

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校訂者註
 1:底本は、「なかり。」。
 2:底本は、「ひらき」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。

三 嘘も言ひ過ごして

 万事しやれて女郎狂ひの今ほど、面白き事は無し。
 香車の久米が、十四、五手づつ先を見透かし、「この大尽は、九月の節句過ぎより大年までは、長い内に、さのみ物入りのない時を考へ、良い事をして取り、正月買ひ、差し詰めに成り、逃げ道に、『伊勢へ年籠りに親仁の代参りする。』と師走二十日頃に言ひ出して、太夫様からはなむけに、二百目程要る肌小袖を取つて、置き土産に小判進ぜて、四十末社の者どもには、『少し子細ありて、やめ分なり。内証聞いてから、鳩の目一文の便りにならぬ事。うち遣つて置け。』と何事ぞありさうに思はせ、如才なき女郎に、粋仲間から讃を付けさすは知れた事。そんな前かたなる仕掛け、四も五も食はぬ事。十月の初め亥の子に、こなたから嫌と言はせぬ男。」昨日と暮らして、つひ冬の初めの朔日に成りぬ。
 大勢の付き合ひ見澄まし、京屋の主に遣手の久米が、「何か大尽様へ、恐れながら御訴訟事。」と申せば、その時、殿様は、置き頭巾して書院毛抜きを持ち、「一歩欲しき訴訟か。」と言ふ。「いかにも、それに似ました御事なり。亥の子の御かちんの米と申すも、さもしき事ながら。」と申せば、「いやいや、世間にする事は、したが良い。して、何ほど要るぞ。」「この時言うて取らいでは。」と正月の餅米まで算用して、「六石五斗。」と申せば、「女郎屋には大分、亥の子を祝ふぢやな。」と不思議がましき顔つきして、紙入を投げ出す。
 小判のついでに、十夜の盛物代、霜月は納めの庚申待ち、私小宿の水風呂の釜を仕替への御合力、何やかや取り集めて、春までの勤めども、残らず御無心申し、その上に、「正月の事、いまだ間のある儀なれども、外に申す方なければ。」とささやけば、この男、逃げる分別変はつて、「いかにも拙者、請け合ひ。」と確かに宿へ申し渡せば、亭主、「これは珍重。さても見事なあそばされやう。恐らく十月朔日に正月の極まりし女郎、新町広しと申せども、この太夫様の外にあらば、言うてござれ。この首、水もたまらず遣るは。こんな大尽の御宿には、今時分から仕着せ物が仕舞うてあるものぢや。」と無性にのぼされ、前後構はず、一座は柳にやつて立ちけるが、「風のなびきに変はるは大尽の心。てつきりと太夫様へ難儀を持つてござる所なり。時に、こなたから先に言ひ出し給へ。」とその段々、教へ置きしに。
 案の如く大尽、無理を持つて来さうなる顔つきの時、しみじみと深うしかけて、「今日、御出を待ちかねました。少し御内談致したき事は、この程、両度扇屋で会ひまする田舎の大尽が、こなた、嫌な程上り詰め、『指を切りたらば、根引きにして国へ連れて帰る。』と無分別に進めば、いづれも、『ここは、切り所ぢや。女郎の指は、盆、正月勤むる男にさへ切るもあり。言うてもこれは、小指一つに千両余り入用出して、借銭まで済まして、一生の苦患、逃るる事ぢや。殊には親方のため、これ程の事、又いつの世にかあるべし。是非に切れ。』と遣手の久米が薄刃あてがへど、『気に入らぬ男に連れられて、しかも知らぬ国へ行きて、大勢供連れて乗り物に乗る事、嫌ぢや。』と言へば、『さりとては、その根性でようもようも、太夫とは呼ばれさんす。あさましや。事によつて死ぬるもあるに。こなたには、何事があつても勤めの指は切らせぬ程に、身に疵つけずに女郎が成るものか。手柄に淋しうないやうあそばせ。太夫から二畳敷の住まひ、今まで幾たりか見た事。唐紙の模様は、立田川が目に立つものぢや。仁介様に煙草吸ひ付けて、ちと上へござりませいと、ぢきに言やる顔を見るやうな。』と、さてもむごい事を、遣手の久米が言ひまする。私も、新屋の金太夫と言はれし者。好いた男ならば、命が何の惜しかろ。」ともたれかかつて泣き出せば、大尽、聞き届けて、「これは、あちらこちらの詮議なりける。今日は口説をしかけ、是非指を切らす心底にて来たりしに、思ひ寄らぬ事を聞くは、何の日ぢやぞ。我を頼りに語りかかるこそ因果なれ。ここは見捨て難し。」と、まんまと一杯食うて、「数ならねど、拙者が居るぞ。け憎い客を撒き散らせ。」と頭から大きに出て、我一人して万事を務めけるは、これ、大分の御はまりなり。
 この男も、北浜に源と言はれて、諸分け、宙六天にくくり、余り先繰りを仕掛けしに、又、女郎は、それを所作にする粋ごかしにあはされ、さてももろき身代。取り集めて二百貫、遣手の久米が追ひ立てける。若い女郎に付けたき者は、古き遣手なり。町屋の若代に家久しき手代あると同じ。
 この大尽にも、良き手代あらば、これ程までには成るまじきを、出入りの者も皆、悪所にして鶏飯を振舞はれて、羽織借り取りにして帰るもあり。家請けを頼みながら、畳の無心を申すもあり。喧嘩する秘伝書を預けて、金子十両、無理借りにするやら、寄る所触はる所にて取りひしがれ、財宝ざらりと埒あけて、昔の風俗、四、五年に変はりて、今は小谷といへる比丘尼寺のほとりに裏屋住まひして、いかないかな、硯箱が一つあらばこそ。ちんからりに欠け釜掛けて、汁無しの飯を炊き、有る時は餅に日を暮らし、無い時は帯締めて、「三月大根も腹膨るる便り。」とおのづから常精進の身と成れり。
 この北隣には、観音様を負うて勧進坊主住みしが、烏賊つくりて、わけぎ膾の香り。不断、塩魚切らすといふ事無し。南隣は三途川の御姥様の勧進に歩く男、古布子あまた拵へ置き、一夜を六文づつにて、貧家の嵐を凌ぐために借して、朝は片端から剥ぎて廻りて、目前にあの世を見せける。かかる所にも住み馴れて、その気に成れるは、惣じて人間の習ひぞかし。今は人置き仲間の使して、手かけ奉公人の着替へを持つて供するも口惜しからず。銭さへ取れば、堕ろしたる胞までも捨てに行く。人の果てこそあさましきものは無し。中々生きては何か甲斐の無き事ながら、その身に成りては死なれぬものと見えたり。されども昔残りて、さもしき心にて紙一枚ちよろまかすといふ事無し。
 或る夕暮に、盛りを惜しむ藤見帰りに、今橋の限銀といふ大尽、わづかの春雨にあひて、軒伝ひして行くに、かの男、破れ笠さして、われを見かけ、「この唐傘を御用に立つ。」と言ふ。心ざし優しく、その儘借りて見れば、「越後町京屋五十本之内。」と書き付け可笑しく、その男の帰る入口を覗けば、東窓の反古張り、皆々、奉書の仮名文。心を留めて見るに、疑ひもなく新屋の金太夫が書翰。様々もたれたる文柄、御定まりの奥の手。「我等命は、暫し貴様より借り物。」と書く事、誰にても嬉しがる行き方なり。
 何とやら可笑しく、押しかけて尋ね入り、内の様子を。腰張りも皆、太夫が筆なれば、「いかなるゆかりぞ。」と昔を聞けば、何の用捨も無く、「金太夫故に、この仕合せに成りける。」と語りぬ。「金太夫に、我等わけあつて逢ひけるに、この君が文ども、かくさらし置くは、由無し。」と文反古残らず所望して、金子三両取らせて立ち帰りける。
 「この大尽も、この男の如くに追つ付け成るべき心ざしなり。金太夫が文やら、鬼の手形やら、知らぬ裏貸し家なるに。」と笑ひぬ。

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