江戸期版本を読む

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カテゴリ:井原西鶴 > 校訂西鶴置土産(1937刊)

一 愛宕颪の袖寒し

 京は山々近く、松の風も通ひて、冬空の気色。時雨、間も無く、雪も面白過ぐる程降りぬ。黒木売る声も常よりはせはしく、「今から日の暮るる事は、夢ぢや。宝船の打ち出の小槌も、何も持たぬ者が打つては、いかないかな、茶屋狂ひする程の銀も出ぬ世の中。なうて成らぬ物なれば、使ひ捨てぬ内に分別せよ。」と身に懲りたる人の異見も耳に入らず、皆になして合点の行く人、それは遅し。昔より女郎買ひの良い程を知らば、この体までは、成り果てじ。
 或る時、泉州堺の島長といへる大尽、初めは野郎に遊び、毎日に忍び御座舟に峰野こざらしを乗せて、恵比寿島の遊興。世の人のする程の事、し尽くして、いつの頃よりか都の島原に通ひ、大坂屋の野風に吹き立てられ、次第に下り舟。上りづめの女色、男色、この二色に身を成し、財宝皆になし、さすが名高き大尽の幽かなる身と成りて、四季小紋の重ね小袖も大変はりして、千種色の木綿布子の身狭にして、貸し家住まひのあはれに、やうやう手代どもが情け。上下三人の命を繋ぐ上荷舟の貸し賃を、一ケ月に四十五匁づつあてがはれて、これにて酢も味噌も茶も薪も、万事の朝夕を埒あけける。
 あはれや、世にある時、悪所へ遣はしたる文飛脚の通ひに記せしその賃銀も、一月には百目余り出しけるに、生きながらかやうに成り果つるは、我一人のやうに思はれて口惜し。それも時世なれば、この浦にて引く網の磯藻まじりの小鰯、一籠わづか五文六文を値切りて、「今日は祝ふ八朔なり。」と手づから膾にして、腹膨るるを楽しむは、住める甲斐なく思へど、その身に成つて舌も食ひ切り難し。科極まりて首刎ねらるる者も、その日の朝飯、箸持つて食ふは、人の命ほど惜しきものは無し。
 この隠者も何祈るらん。正、五、九月とて、二十四日に思ひ立ち、「愛宕参詣。」と一日二日の旅用意。小者に風呂敷包み、その身も草鞋はけば、下女は、つくづくこの風俗を見て、「あの鼻の高さにて、何の願ひかある。天狗も旦那殿には恥ぢぬべし。又、火の用心も、財宝ある人こそ、この地蔵を頼みて良けれ。留守預かるとて、空長持一つ。自然の時は、女の働きにても退くる身代。貧者無用の物参り。」と思ひながらも、主命なれば、機嫌良く門送りして立ち別れぬ。
 この大尽、「昔は、仮初の京上りにも、堺より六枚肩の夜駕籠。一人七匁に定まつて四十二匁出せば、宙を飛ばして、まだ夜深きに、淀の小橋の詰めなる嘘の仁兵衛が所まで、島原よりの迎ひ提灯を出させ、水車の如く廻らせし事も。」とうち眺めて、それが門をば少し足早に、編笠先下がりにかづき、鳥羽の馬牛をよけるも余程世話にて、程なく東寺より千本通に分かれ、廓の塀越しに揚屋町の裏を行くに、どう言うても都程ありて、物日の出掛け姿。柏屋、丸屋の二階に、衣装はとかく赤きがひとしほ目立つ物ぞかし。小歌聞こえて撥の音。「これは、何ともならぬ。今一たび千両ぎりに、しつこうせず、ここの気色を見たし。」と八文字屋の裏なる壁のこぼれより覗きぬれば。
 名も知らぬ女郎が、座敷離れて涼み所に拵へし置き床に、枕も無く寝転び、今時分、女郎の手には珍しき本の小判を、五両づつ四所に並べ置き、嬉しさうに眺めて、知れてある算用を幾度も数読むこそ可笑しけれ。「これは、京の客の金遣り時にあらず。九月二十日過ぎに時づけ届の小判。さては、田舎の白い人なるべし。何にしてもこの里は、あれを遣らいでは成らぬ所。」と思ふ内に、宿の嚊が、ひねり文に五両ばかり持ち添へ。
 「私の方へも、半九様より御書翰に預かりました。御返事に、よろしく御礼申して遣らしやりませい。遣手の任せに金に構はぬは、昔の事。今の二十両は、上代の二千両にもかけ合ひます。殊に北国衆は、文を国のひけらかし物に、人丸、貫之の筆より、各々様の書き捨てを大事にかけ、紙の損ずるをうたてく、裏打ちして巻物にし給ふとや。又、地の衆の、文は皆までも読み給はず、小宿にかいやり捨て給ひ、挽き臼の敷紙に成りて、太夫様の御名を小麦の粉に汚すも由無し。それと又、今の京の大尽、位ばかり取つて、勝手に成りませぬ。とても勤めの御身なれば、殿ぶりの御物好きやめにして、たとへ物言ひ悪しく、一座初心にござりませうとも、こんな御状参る方が大尽なり。惣じて、粋が女郎様方の役に立たぬもの。随分しやれたる男自慢の人、京、大坂、堺にもあまたあれど、無分別に使ひ捨て、揚屋の手前も味悪く、廻つて通るは、その心からのたはけ者。女郎狂ひばかりに片付けば、末長う遊ばれしを、又野郎に恋をまたげ、あたら身代を潰し、若盛りにあてがひ世帯。うごうごと生きて居て、何か面白い事ある。」と我を見付けて、かく当て言を言ふやうに。「これ、天性なり。」と身震ひして立ち退き、あの内儀が言ふ所、一つも違ひ無し。
 「橋本の渡し越えて、松の尾にかかり、まことの道筋を愛宕へ参れば、かかる憂き事も聞かざりしものを。この里、よそながらも見たくて、言はれざる京に廻り、身にこたへたる人の言葉」を合点して、都も面白からず。嵯峨に行けば、はや夕暮に成つて、人泊むる女の袖に頼れば、一夜はここに定めしに、筆屋と言ひて広座敷なり。折節の焼松茸に酒、様々もてなしける。女も、ふつつかに見えず。機嫌とりて、立ち振舞も、どこやら御町めきたる所あり。しかも、その女は年構へなるが{*1}、廊下走りやう、只者とは思はれず。
 口説き寄りて昔を語れば、申さぬ事か。島原の座持女郎、土佐といへる流れなり。いづれ、移り香常ならず。物参りの精進をうち破りて、木綿寝道具に侘びながら、太夫に逢ふ心地して、又、下向にも戯れ、御初尾の残りを有り切りに取らせ、山崎よりの舟賃なくて、拾ひ草鞋のかち路、昼食無しに帰りぬ。
 「これ程懲りて、この身に成つても、やまぬものは好色。」と会ふ人毎に語りし。

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校訂者註
 1:底本は、「年まへなるが、」。『新日本古典文学大系77』(1989)語釈に従い改めた。

二 人には棒振虫同然に思はれ

 上野の桜、返り咲きして、折節の淋しきに、これは春の心して、見に行く人、袖の寒風を厭はず、何ぞと言へば人の山、静かなる御江戸の時めきける。
 黒門より池の端を歩むに、しんちゆう屋の市右衛門とて隠れも無き、金魚、銀魚を売る者あり。庭には生け舟七、八十も並べて、溜め水清く、浮藻を紅くぐりて三つ尾働き、眺めなり。中にも尺に余りて鱗の照りたるを、金子五両、七両に買ひ求めて行くを見て、「又、遠国にない事なり。これなん大名の若子様の御慰びに成るぞかし。何事も見た事なくては、話にも成り難し。とかく、人の心も武蔵野なれば広し。」と沙汰する所へ。
 田夫なる男の、小さき手玉のすくひ網に小桶を持ち添へ、この宿に来りぬ。「何ぞ。」と見れば、棒振虫。これ、金魚の餌食みなるが、一日仕事に取り集めて、やうやう銭二十五文に売りて、「又、明日持つて参るべし。」と下男どもに軽薄言ひて帰る。又、これを見れば、「ここも悲しく世を送れる人あり。」と物あはれげに、その者を見れば、これはこれは。伊勢町の月夜の利左衛門といへる大尽。我が家を立ち退き、いづくに暮らせしも知らざりしに、さりとては醜い姿には成りぬ。
 「いづれも昔語りし友達仲間に、汝を慕ふ事、大方ならず。知らぬ事とて、それよりの年月、かく浅ましく暮らさせし事は、是非無し。この後は、我々請け取り、貧楽に世を渡らすべし。」と言ひけるに、まだこの身に成りても、過ぎにし贅やまずして、「女郎買ひの行く末、かく成れる習ひなれば、さのみ恥づかしき事にもあらず。いかないかな、各々の御合力は受けまじ。『利左程の者なれども、その時に従ひて、悪所の友のよしみに今日を送る。』と言はれしも口惜し。面々の心ざしは、千盃なり。久しぶりに会ふ事。又、重ねて出合ふ事もあるまじ。一盃の茶碗酒、暫しの楽しみなるべし。」と先立つて出、茶屋に腰を掛けて、「これきり。」と、かの二十五文を投げ出しぬ。しかもこの銭は、宿なる妻子の夕を急ぎ、鍋洗うて待ちけるに、少しも引けぬ心根。
 皆々、涙に袖口を浸し、「時雨も知れぬ空なれば、いざ、そなたの侘び住まひに行きて、よろづを語りながら酒を呑むならば、ひとしほ慰みにも成りぬべし。今の内儀は、定めて。吉州と良い仲か。」と言へば、「この女郎故にこそ、かくは成りぬ。傾城も、誠のある時顕はれて、四年あとより息子を儲け、『とと様。かか様。』と言ふを頼りに、今日までは暮らしける。」と夢の如く語るを、うつつのやうに聞きて、谷中の入相頃に呉竹のざわつき、留まり雀の命も明日を知らぬ、餌差町の東の外れに着きぬ。
 「この裏にかすかなる住まひ。三人ながら這入り給はば、中々、腰の掛け所もあるまじ。それもよしよし、何か包むべし。」と案内して行くに、葭垣に秋を過ぎたる朝顔の、末葉も枯れ枯れに成りける蔓を探し、七十余りの婆の、その実を一つ一つ取りて、又来年の眺めを慕ひける。「されば、人間は露の命とも言ふに、この老人は。」と顔が眺められて、「婆様、ここを通ります。」と有り体の礼儀を述べて、埋れ井のはた越ゆるも危なく、蔭干しの煙草の引きはへたる細縄の下行く程に、窓より親の面影を見て、「とと様の銭持つて戻らしやつた。」と言ふ声も不憫なり。
 内儀は、昔の目賢く、同道せし人々を見しより、「御三人の中にも、伊豆屋吉郎兵衛様、これへ入らせ給ふまじ。残る御両人は苦しからず。」と言ふ。主を始め、各々不思議を立て、「いかにして、あればかりを咎め給へるぞ。」と言へば、「是非無きは勤めの身。あなたには只一度、仮なる枕物語せし事、今以て心に懸かりぬ。主に隠す事も由無し。」と玉なる涙をこぼしぬ。
 聞くに理をせめて痛はしく、亭主も誠なるを満足して、「女郎の身は、その筈の物なるに、これは優しき断り。」と時に胸を晴らし、「これは、我等が客なり。」と三人共に内へ招き、「まづ御茶。」と言ふに薪なく、吊り仏棚の戸びら外れてありけるを幸ひに、菜刀にて打ち割り、間を合はせけるも賢し。
 「さて、御秘蔵の男子は。」と言へば、十四、五色も継ぎ集めたる布団に巻きて、裸身の肩をすくめて嵐を厭ふ風情を見て、殊更に哀れなり。「寒いに、これは。」と言へば、内儀うち笑ひて、「着る物は捨てて、あの如く。嚊と無理なる口説。」と言ひも果てぬに、「大溝へはまつたれば、裸になされて寒い。着る物が干上がつたらば、着たい。」と泣きける。
 主も女も随分心強かりしが、今は前後をおぼえず涙に成りぬ。いづれも暫しは物も言はれず。「さては、あの子が一つ着る物、替はりも無くてや。親の身として、子をかなしまざるはなかりしに、よくよく不自由なればこそ、かかる憂き目を見するなれ。」
 何語るべきも、歎き先立ち、各々帰る時、三人ながらささやきて、持ち合せたる少金を取り集めて一歩三十八、こまがね七十目ばかり、立ちさまに天目に入れて、これとは断り無しに出せしが、亭主も送りて出しが、「さらば、さらば。」と夕暮深き道を急ぎしに、又後より、かの金銀を持ちて追つかけ、「これはどうした仕方。神ぞ神ぞ、筋なき金を貰ふべき子細無し。」と人の断りも聞かず、投げ捨てて立ち帰りぬ。
 是非なく取つて戻り、それより二、三日過ぎて、色品替へて、内儀の方へ持たせ遣はしけるに、早その人は在郷へ立ち退き、空き家と成りぬ。色々穿鑿すれども、その行き方知れず。三人共にこれを歎き、「思へば、女郎狂ひも迷ひの種。」と言ひ合はせてやめける。
 「世は定め無し。異な事が障りと成りて、その頃の薄雲、若山、一学、三人の女郎の大分損。」と言ひ終はりぬ。

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三 憂きは餅屋 つらきは唐臼踏み

 諸色もその道に入らざれば、善悪の分かちを知らず。
 河州高安の山もと近き里人に、親の代より木綿売りける銀子を貯めて、固めて見ば、一番牛の寝た程譲り渡しぬ。いかやうに使へばとて、一代には減る事あるまじ。しかも深入りをせず、上町者の手かけ狂ひ。三十日に米一斗五升、六畳敷二匁の家賃して遣る分にて、「これよりは。」と浮世を楽しみける。
 或る時、京より西国に屋形奉公勤めて親元へ帰る、その時の人置き、大坂に来て、蔵屋敷より請け取りけるを、庄屋宿より聞き出し、一年銀五枚に極めて、白髪町観音堂のほとりに借り座敷して、年構へなる婆一人つけて、不断は露路の戸を閉めて、表に貧なる塗師細工せし人に折々心付けして、この手かけの横目を頼み、外より男の出入りは堅く吟味して、京より見舞に下られし親仁も、飯は振舞ひて、夜は脇宿を取らせ、淋し慰みに飼ひける三毛も男猫を見付け、これさへよそへ貰かしける。
 さりとは悋気深き山のねきの大尽、所の物頭もすれば、少しは小百姓の思ふ所を忍び、又は公用を昼は務めて、夕方より四里ある所を早駕籠にて、毎夜新町、東の門より西へ行き抜け通ひ、中々夜店の灯し火も目に暗く、明け暮れ三とせ余り身を運びしを、露路口の塗師屋が、この事、人に語りて、「遠い所を通ひ来る暇あらば、女郎狂ひをせぬも可笑し。しかも新町筋を越えて、手かけに大分の金銀を入れけるたはけもあり。」と一節切の指南する長崎勘十郎といへる遊び宿へ、大勢若き者集まりて、この話に大笑ひして、「その金持の百姓めを、何とぞ本色町へはめたし。我々は無ければこそ、面白からぬ茶屋、風呂屋。思ふやうにならぬ世の中。又今年も良き綿秋なれば、その庄屋が取り込む銀欲しや。いかないかな、身にはつけじ。木村屋の小大夫を、せめて三十日、天神の大和を付けて買ひたし。」と言ふ。
 「この物好き、悪しからず。」とその座に八木屋霧山にあへる木半と言へる大尽、進み出て、「さりとはその男は、女郎の豊かなる楽しみ知らず。長門の萩の塩道といへる法師は、歌仙を請け出して宿の花に眺め、若衆は、松島半弥が色盛りに遊びける。白子町の播磨は、太夫の背山を我が物にして、これ一生の栄花。又、尼崎町の塩といへる大尽は、銀にて淵を埋めるが如く、有る程は捨てて、その後は浮世の暇と成つて、仏も無き天満の堂島に身を隠れ、おのづから淋しく、鼓、謡の拍子を教へ、やうやう碁会に今日を暮らし、一つの楽しみにせし太夫の金吾も、この男に恋が余りて出家に成りぬ。昔の勤めを思へば、今格別に引き替へて、これは殊勝なる収まりなり。惣じて女郎程、義理を面にして、情けを心底に含み、これ程面白き物はなきに、惜しきは、あたら銀にて磯狂ひ。何とぞその庄屋に勧めて沖を泳がせ。」と言ふ。塗師屋、頭振つて、「それは何ほど申しても、動くものではござらぬ。」と物堅う申せしが、物には時節のあるものなり。
 その七月の末より、揚屋揚屋の座敷踊りを始め、町より人の嫁子も忍び忍びに見物に行きしに、かの手かけ者も、「これを見たし。」との願ひ、中々合点せざりき。頻りに断り申し、「今日で仕舞の扇屋の大寄せとや。是非に見せ給へ。」と言へば、この庄屋、心には染まざれども、度々の所望なれば耳かしましく、西口の香具屋の新九郎といへる、この程取り出の太鼓を頼み、塗師屋の嚊まじりに各々引き連れ、見物に出しに。
 その頃はまづ、佐渡島屋に太夫揃へ。高間、奥州、総角、葛城、吾妻、紫。吉田も振袖の時。新屋の金太夫、小女房でも太夫めき、丹波屋の小薩摩がすらりとしたも見良く、井筒、只美しく、小琴が苦りの走りたるも、ひと子細ありて良し。明石屋の諸越、吉野。住吉屋の瀬川が鼻の先も、悪うは高からず。堺屋の君川がぬるきも、常の女郎の賢きに優り、又七が初瀬も大和の大尽が奢らせ、二十四人の太夫、十九人まで一つに集まり、この外、天神、囲、店の声ある女郎、並べて百三十二人皆、紫の帽子。揃うたりや、手拍子、腰つきに気をとられ、け返し、はね褄、引き足の麗しく、中の腰掛けには役者、末社、浮気大尽。これ面白き事、天竺にもあるべきか。
 日の暮れ行くを惜しむ折節、伏見屋の端局に勝之丞とて、一匁取りの女郎が、踊り装束して人の後ろより来て、大勢の中を押し分け押し分け入りて、かの庄屋が左の手を何心もなく締めて、「そこを開けて、中へ通し給へ。」とひたひたと身添ひける。この男、魂無く、力に任せ、辺りを突き退け、この女郎を踊らせけるが、これぞ恋の初めと成つて、石畳の浴衣忘れず、我が前廻る度々褒めて、踊り果つれば、手かけは先へ帰し、太鼓の新九郎を頼み、俄に馴染み出し、これを女郎の買ひ初め。
 「この意気地、とく知らざるは無念。」と、手かけはそのまま暇出して、貸し家は三十日ぎりの思ひ出。釜の下の塵も灰もないやうに仕舞うて、毎日に騒ぎて、いつの頃よりか太夫の越前に大飛びして、霧山にあへる木半にも一座して遊興。「これでこそ。」と互に言ひ合はせて、二とせ余りにすつきりと、無いが定なり。
 世は様々に変はるかな。その霧山は、請けられずして行方知れず。越前は病死して、この二人の太夫、昔のやうに成りて、木半といふ大尽は、次第に醜うなりて、世渡り色々に替はりて、後は、茶碗焼き出す高原といふ所に、猿廻しと相住みして、その身は綿ざねの油屋に通ひ、金唐臼を踏みて、足手のだるき身にも、扇屋長津と口説をせし高話。今は無用の至りなり。
 又、河内の庄屋大尽は、持ち伝へたる野山、竹木まで売りて、おのが里住まひも成り難く、一家散り散りに立ち別れ、在郷の道筋は忘れず、玉造の末なる中道といふ橋の詰めにて、少しの餅屋をせしが、店に掛けたる暖簾の紋に梅鉢を付けしは、越前が定紋。さても、しやらくさし。

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一 思はせ姿 今は土人形

 御異見度々、尻に聞かせて、野郎狂ひのやむ事なく、明け暮れ四条河原に通ひけるに、「道橋の再々崩れけるは、この大尽の召し連れられし血気栄ん末社、役者、あらけなく渡りぬる故なり。」と、ここ承りの菱屋六左衛門が詮索し出しぬ。
 今の都の奢り男、しかも風俗すぐれて、見ぬ世の中将、中古の三左、当代の四六と、これを知らぬも無く、毎日の道中なるを、石垣のおやまども、まま食ひさして走り出、この面影を見れば、水茶屋の娘ども、天目、手から落として我が商売を忘れし。「東山の桜も、日々には見られぬぢやが、たとへばあの男、生きた如来様にもせよ、ようもようも眼が続く事ぢや。追つ付け目病みの地蔵へ七日参りをするであらう。何の銭一文にも成らぬ大尽。あれよりは、芝居見の出家衆に気を取り、札一枚読み込みても、三文、徳がある。難しい事では無し、笑うて見せても物になる事。」と銘々の母親、又は主人の叱るを聞けば、理ぞかし。これらは良き所に住み馴れて、諸人の色ある男を見るさへ、恋を含みぬ。まして地女房は、一幅帯の腰を抜かしける。
 たまたま男と生まれ出て、これは、備はつての果報なり。殊更、親は後家にて、銀持ち で寺参り好きにて、「世界は我が儘。」といふ大尽なり。人に借らずに有るに任せて、この川原に於いて水の流るる如く、良き物取らされければ、惣じての太夫元、木戸の者、雨蛙の芝居なる小見世物の猿までも、御顔を見知つて烏帽子を脱ぎぬ。この所をこれ程までしこなしけるは、一とせに千両とは積もられける。これ、違ひあるまじ。一日に金子百両撒き散らしても、誰か驚く者無く、御伊勢様へ十二灯上げたるやうな所、さのみ嬉しがる者も無し。
 この大尽、さりとは女嫌ひ。終に島原の景色、遠目にも見ざりけり。されども物には時節あり。野郎狂ひの異見し詰められて、是非なくやめ分の誓紙を書けば、諸神の手前を恥ぢて、その後は芝居を覗きもせざりき。「さては、年が薬。」と各々喜びけるに、又女郎狂ひに身をなし、明け暮れ今の唐土に出かけて、これをとめどはなかりし。人又、「無用。」と身のためを申せば、「我ら、この里へ通ふまじ{*1}との誓紙は致さず。」と悪賢き事に理屈を言へば、後には誰か咎める人なくて、心の儘に騒ぎて、「この町も面白からず。名に聞きし、武蔵野の色深き小紫を見に」下りけるに、江戸にも聞かぬ気の男、三木とやらが、根から引き抜きて、その行方知れざりき。
 「今少し遅く、このよねを見ざる事の口惜し。せめて、その紫に面影の似たるもがな。遥々ここに下りし甲斐に。」と穿鑿するに、これぞといふ女郎も無く、「見ぬ恋する。」と言ふは昔。今の世には無き事なるに、「人の物に成りける。」と聞けば、殊にゆかしく、「夢にもその姿を見て、京の物語にも。」と人頼みして尋ねけるに、さりとは知れざりけり。
 或る時、浅草の寺町の横筋を行くに、内の見え透く葭すだれ、住み荒れたる宿の棚に、「小紫すがた屋」と看板出して、土人形の細工する男を見れば、京にて立役勤めし嵐三郎四郎が、白無垢の上に破れ紙子、身をやつし芸に出しよりは、猶憎からず。「いかさま、子細者め。」と立ち寄り、「御亭主。この人形は、小紫ならば、まづ遊女にしては帯が狭し。殊に後ろのとりなり、まんざら人の御方めきたる。」と言へば、「要る気ならば、取つてござれ。一文に一つづつ売る物を、無理なる御吟味。それは、七十四匁に売る時の詮議。」と笑ひける。何とやらゆかしく、「されば、この女郎をその値段に、年の明くまで買ひ続けに、京より下りたる男。」と言へば、「さては、良い物は都までも知るる事かな。我らもこの女郎に思ひを懸け、この三とせ余りも焦がれしに、勤め女の事なれば、状文に歎くも愚かなれば、とかく銀貯めて只一つ買うて、年月の思ひを晴らさんと、この細き内より毎日三文づつ掛け銭をして、二とせ余りにやうやう七十四匁になして、一日二日の内に便りを求め、借り着も人の情け、揚屋定めて催しける内に、つひ請け出されて、さても無念、無念。」と男泣きにして語る。
 「恋は、これなるべし。」と哀れさに、「さて、その小紫が行方は。」と言へば、「さらば、京の人に今の様子を見せん。」と立ち行く方は、唐物町の横町に、棚も目に立たぬ程の内に、昔の残りたる女の見えしが、「あれが、三浦の小紫とや。今はその名も替へて、御梅と呼びける。」「人の女房に成つて、何か恋のあるべし。やれ、思ひ切れ。外にも恋はあるもの。」と男を友として、物の見事に三野に通ひ、今の高尾、薄雲に手を揃へて、髭の長兵衛が座敷を我が物にして、京より持参の三千両、いかないかな、一角も残らず使ひ上げて。
 又かの男と相住みして、「せめては、女郎が踏んだる土を、身過ぎの種。」と揚屋町の真砂を金竜山の真土に混ぜて、今は又、薄雲、高尾が姿を作りて、土人形の水遊び。次第に淋しく成つて、大方は火を焚かぬ日も見えしが、これにも腹の用捨無く、連れ節の変はり加賀。罪も無く銀も無く、世の人に恐れも無く、外の事無く外混ぜず、よね狂ひの意気地を語りて、埒のあきたる二人が仕舞。いまだ三十より内にして、一代の栄花。これから先の老いの入り前、何とか成るべし。
 この四六大尽、京都の大分の跡は、母にさへ見限られて、他人物に成しけるとや。

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校訂者註
 1:底本は、「かよひまじ」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。

二 子が親の勘当 さかさま川を泳ぐ

 「変はつた事を聞きました。とかく、宿に居るが悪い。ここに出かけたればこそ可笑しけれ。
 「揚屋町の入口の茶屋に桔梗屋といへる方の女房は、分別のまんとて、太夫八橋、夕霧につきし遣手の開山なるが、時節あれば我が世を経て、おか様と言はるる事も楽しみなり。この内に腰掛けながら、よね達の道中を見るに、嫌と思ふは一人も無し。これぞ又、動きが取れぬとなづむ程なるも無し。今の世の女郎、心はしやれて、位無し。昔の千歳、唐崎は、禿、遣手の外に、沓とて鬢切りしたる男草履取を連れける。これを思ふに、全盛の時なるかなや。孔子くさい人までも、朝に道を聞いて夕に通ひ馴れ、何の古文真宝。されば人間、死ぬるといふ道具落とし、これに勝つ男伊達も無し。少しの内も、浮世の暇さへあらば、この美君を眺め参らせ、長命丸といふ薬なり。仙家の不老不死の妙薬、取りに遣るまでも無し。近道に、これ程良い事を知らざるや。」
 「さて、最前の変はつた事の話の末はいかに。」
 「されば世に、『子が親に持て余し、とても悪所狂ひの異見、聞き給はねば勘当を切る。』とは前代ためし無き事。その親仁殿は、伊勢町の大盃といへる大尽。酒より乱れて猩々の抜き手切つて、足もとのよろつく掛物を喜び、揚屋の物好きは、『和泉屋半四郎が二階座敷良し。』と山本長左衛門が抱への小主水に深くあひ馴れて、内蔵の淋しくなる事、この二とせ余りなり。もまた六十に過ぎて鬢付たしなみ、『女郎と討死。』と極めて銀使ひけるを。
 「その子は二十八に成るまで、終に揚屋の畳を踏みし事も無く、七歳の時、かき初めに絹のふんどし買うて、中橋の叔母より贈り給はりしを、今にその一筋にて埒をあけ、世渡りの事のみ大事にかけ、わづかなる請け酒、今では江戸に並びなき酒棚と成りしは、この一子が働きなるに、親に大分使ひ果てられ、内証の続かぬ所を歎き、駒込の旦那寺、念仏講中を頼み、『息子が言ふ所、一つとして道理なり。世には不孝の子ども、親の死一倍といふ銀借る事は聞きしが、親の身として子を追ひ出し一倍といふ銀を借り給ふは、ためしなき仕方。向後、色町やめ給へ。』と様々の御異見聞かず。『いかないかな、この道とまり難し。両方思し召しての御扱ひならば、只今金子千五百両、倅が手前より貰うて給はれ。あの家を罷り出、一生親子不通の手形。』と望めば、願ひの通りに扱ひ済まし、小判渡して親仁を追ひ出しける。これらは、広き世界に又もあるまじきたはけなり。
 「これを思ふに、大伝馬町の綿棚に色好ける亭主ありしに、しかもこの内儀、美女なるに、外に又、手かけを拵へしを、内儀、情けにて、『男の通へるも、気尽くし。』と我が宿に呼び入れられしに、後には本妻を悋気して、色々に迷惑がらせ、程なく去らせける。さても珍しき、あちらこちらの世の中や。」
 「その大盃といふ大尽の収まりは。」と尋ねしに。
 「千五百両を手の物にして、角町の万字屋小薩摩買ひしが、後先の思案無しに、いかないかな、金子一両も残さず。これ程見事にすり切る事、たぐひ無し。今見れば、麹町の六丁目の横町にあはれなる借り棚して、鯉の刺身を造りて盛り売りに廻りぬ。『因果は皿の縁。』と人の笑ふも構はず。色里の文どもを包丁の包み紙にして見せけるも、この身にも贅をやめざる親仁。『いまだ心残りは、三浦の花紫に逢はで果つべき事の口惜し。是非この思ひ入れ、一生の内にあだには成さじ。我らはこの無事なれば、まだ三十年などは、たとへ不養生しても、長生きをおぼえあり。倅は追つ付け女房を持つと、三年五年の内に命勝負、見え透きたり。子の物は親の物なれば、この跡を丸取りにして、再び花紫の願ひなり。とてもの事に、一日も早く息子めに、逞しき嫁を授け給はれ。』と無理に結ぶの神を祈る、可笑し。この諸願成就の時もあるべきか。」

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