江戸期版本を読む

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カテゴリ:井原西鶴 > 校訂評釈万の文反古(1947刊)

桜吉野山難儀の冬

【本文】

 千里同風。そこ元、海居の難儀。難波風凌ぎかね、「隠れ家は吉野。」と見定め、山居も殊更、松風、紙衣を通し、焚火も一人坊主の貯へ絶えて、「降れる白雪」と詠みし本歌の眺めも、いかないかな、目に付かず、後世の事も外に成り候。「無用の発心。」と各々御留めなされしを{*1}、今は、悔しく候。
 桜時分見たとは、中々変はる飛鳥川。月日も長うおぼえて、さりとは明け暮れ、住み憂く候。私に限らず、折角結びし柴の戸を、いつとなく乱れ次第の野と成し、その身は、「狼に衣。」形は出家と見えて、心底はあさましき事に候。大方は京に暮らし、又、親類の里に行きて、住み所の吉野は忘れ、後に残られしそれぞれの仏達、何もない留守を預かり、彼岸、十夜にも、香花、叩き鉦の音も聞き給はず。同じ仏体ながら、ここの山住み、迷惑なる事に候。
 その中にも、行ひ澄まし、座禅に身を堅め、二六時中の勤め怠らぬ坊主は、稀に見え候。大方は世間僧、是非なく様替へし者なれば、世の噂話、もつぱら。四、五人寄りては読み歌留多。精進も落ち鮎の忍び料理。大酒の上の言葉咎め。付け髪拵へて芝居奴の口真似。かつて仏の道は、外より見るも構はず候。
 殊更近年、世上に女出家のはやり、都より人{*2}の嫁子、親に不足、或いは男嫌ひ、又は不義の言ひ分けに、浮世坊主の形とは成り候へども、昔残りて美なる面影を繕ひ、たまたま誠ある法師も、これに引かれて一大事を取り失ひ、又、若比丘尼の奇特に勤め澄ますを、悪僧頼りて、いつの程にかそそのかし、山を立ち退き還俗する人、数を知らず。この中に紛れて、我一人澄まし候へども、おのづからそれに心ざし移りて、嫌な事の目にかかると言ふも、早、いまだ仏心に至らぬ処、あればなり。
 しかし、愚僧事は、一生に妻子持つて殺し、遊女の野郎の戯れに身を成し、世に思ひ残す事も無く、無常を見ての発心。今日までは粗末なる御事、自身の取り合はせながら毛頭御座無く候。尤も、「仮なる世。」とは、かねて覚悟の処。「百年三万六千日、空しく胡蝶の春をとまるに似たり。とかく、夢。」と存じ、只、洞然として暮らす内にも、夏は蚊といふものに{*3}身を痛め、冬は夜嵐、袖に吹き込み、この難儀、白湯では凌ぎかね、飲酒は破つて、寝酒は少しづつ食べ申し候。これより外に、食物願ひも御座なく候。いかないかな、魚鳥は、匂ひも嫌に成り候。
 これは堪忍致し候へども、いかにしても、寝覚め淋しく候。近頃申し兼ね候へども、年頃は十五、六、七までの小者一人、御抱へなされ、御越し、頼み申し候。見良き生まれ付きなるは、中々山家へは及びなく候。髪の風良く、少し肥えたるを望みに御座候。色白にさへ候へば、たとへ物書かずとも、口上悪しくとも、阿呆にても苦しからず候。定めは、木綿着る物、生平の帷子、絹帯一筋。その外も、心付け致し候。五年程切つて、五十目ばかり、銀子貸し申すべく候。それも当分は、二十五匁か三十目相渡し、残り、年々遣はし候約束に御極め、頼み申し候。
 末々、その者の心ざし次第に目をかけ、もし出家などに成り申し候はば、この草庵、譲り申し候。御存知の如く、外に箸かたし取らする者、持たず候。大方、恰好は、そこ元、備前屋九郎右衛門殿に居申し候六三郎位なる者を望みに御座候。
 随分、世は捨て候へども、離れ難きものは、色欲に極まり申し候事、今の身に成り、思ひ当たり候。この心は、出家を勤め顔、その甲斐は無く候へども、せめて四、五年も、身を懲らし見申す願ひに候。この事、必ず外へは御沙汰なされ下さるまじく候。貴様御事は、兄弟の契約仕り申し候よしみに、心中を申し遣はし候。預け置き申し候銀子の内、又、便りに二百目御越し、頼み申し候。書物、調へ申し候。
 先日は、わけもなき事、御申し越し、御異見は悪しく聞き申さず候。尤も、ここ元へも陰間の子ども、参り候へども、近付きにもならず候。その段は、御気遣ひなされ下されまじく候。この紙包み、御内儀様へ進じ申し候。ここ元に沢山なる袋葛三。又、まげ物は、塩漬けの穂蓼にて御座候。
 近日罷り越し、万々申し上ぐべく候。その内、丁稚の儀、御聞き立て置き、頼み上げ候。以上。
    卯月十九日    吉野山 眼夢
  伊丹屋茂兵衛様 人々御中

  この文の子細を考へ見るに、貯へありながら物好きの発心、と見えたり。山居退屈して還俗心ざし。世間にかやうの分別無し、あまたなり。「魚鳥は堪忍成れども、色は。」と書きしは、あり事なるべし。

【訳】

 千里隔てた遠方でも、吹く風に違ひはないやうに、いづこも、住むに大した便宜の違ひはないものです。私は、そちらの海近くで、難波の浦を吹き渡る風を凌ぎ難く思つたやうに、町の住まひの煩はしさをうるさがつて、隠れ家を求めて、「ここ、吉野山が良い。」と見定めて、引つ込みました。ここに山居して見ると、殊更に山の松風が寒く、紙衣を通して迫り、焚き火も、貧しい坊主の身の上の貯へが少なくて、なくなつてしまふと、かの百人一首にある「朝ぼらけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れる白雪」と詠んである歌の通りの、この山の雪景色も、どうしてどうして、この寒さでは、目にもつきません。後世を願ふ信心も、よそになつてしまひました。無駄な信心から出家するやうになりました時、皆様が御止め下さつたのを聞かずに出家してしまつた事を、今になつて悔しく思ひます。
 桜の花時に見た吉野と、住んで見た吉野とは、大分違ひます。淵瀬の変はる事の早い飛鳥川の如く、月日の変はつて行くのは早いものだのに、かういふ淋しい所に住んでゐると、長いやうに思はれまして、さても明け暮れ、住みづらうございます。私に限らず、折角造つた草庵の柴の戸も、いつとなしに壊れ次第に壊れて、野原のやうになり、庵主の人達も、世の諺に「狼に法衣。」といふやうに、姿だけは出家で、心の内は誠に浅ましいものであります。
 これらの庵主達、大抵は京に暮らしたり、又は親類の居る郷里に行つて、我が住み所の吉野は忘れてしまつて居ります。その後に取り残された仏様達は、それぞれ何もない草庵の留守を託せられて、彼岸や十夜の折りにも、香を焚き、花を供へ、叩き鉦の音立てる者もなく、同じ仏体でおはしながら、この吉野の山に住み給ふ故、御気の毒な事でございます。
 その僧侶達の中にも、修行に専念して、座禅に坐り、二六時中の勤行を怠らない人は、稀に見るばかりであります。大抵の僧侶は俗僧で、やむを得ずして出家した人達ですから、寄ると世間の噂話ばかりしてゐます。四、五人も集まると、読み歌留多を取り、精進も、つい落ちてしまひ、吉野名物、鮎の料理をこつそりし、大酒呑んだ上の口喧嘩。付け髪を拵へて芝居に興じ、奴の口上を真似たりして、かつては信仰した仏教の事は、人目も憚らず、よそ事にして居ります。
 近年、世間には、女の出家する事がはやり、京都から人妻が舅姑に不足を感じたり、夫を嫌つたり、又は不貞操からのいざこざの言ひ訳のために、形だけの出家姿になつて、ここに来る者がありますけれども、出家前の美しさを残してゐる面影に、化粧を施したりするので、たまに有る真面目な坊主も、これを見ては、それに引かれ、迷うて、一大事の信仰を失つてしまつたりします。
 又、若い比丘尼の感心に修行し澄ましてゐるのを、悪い坊主が近づいて、いつの間にかこれをそそのかして、山を駈け落ちし、還俗する者もありまして、かういふ人が数を知らない位です。かういふ者どもの中に立ち交じつて、私一人は悪風に染まず修行して居りますけれども、自然、その方に心が移つて、嫌な事の目につくといふのも、まだ修行の足らず、悟りに至らない処があるためであります。
 しかし、私事は、これまでに一度持つた妻子に死なれてしまひ、遊女遊びも致し、野郎の戯れにも耽りましたので、もはや浮世に思ひ残す未練もなく、無常を観じての上の出家ですから、今日までの処、疎かな事は、自分の事を自分で弁解するやうですが、少しもございません。尤も、「現世は仮の世である。」とは、かねて覚悟致したものの、「百年三万六千日生きるとも、胡蝶が春の日空しくこの世に生きるに似たものだ。とかく人生は夢だ。」と考へて、ただぼんやり暮らしてゐる内にも、夏になると、蚊といふものが出て、身を刺すに苦しみ、冬は夜風が袖に吹き込んで、寒さ、耐へ難い。この苦しさは、只白湯を飲んで凌げるものではございません。そこで、飲酒戒は破つて、寝酒を少々呑んで居ります。この外には、何も食物好みはございません。決して決して、魚鳥の類は、匂ひ嗅ぐさへ致しません。全く嫌になつてしまひました。
 飲食の欲は我慢致しますが、どうしても寝覚め心が淋しくて堪りません。甚だ申しかねた御願ひですが、年齢は十五、十六、十七歳までの青年の雇ひ人一人、御雇ひ入れの上、こちらへ御寄越し下さるやう、御頼み申します。器量の良い生まれつきの者は、到底かういふ山中へは来てくれません。髪結つた様見良く、少々肥えた者を望みでございます。色が白ければ、たとへ無筆な者でも、ろくに口の利き方を知らない者でも、馬鹿でも構ひません。
 約定は、「木綿着物、生平の帷子、絹帯一筋だけは、仕着せとして遣はします。その外にも猶、心付けは致します。五年の年季を切つて、銀五十匁ばかり貸してやります。それも当分は、二十五匁か三十匁渡しておいて、後の残りは年々遣はします。」といふ約束に御決め下さるやう、御頼み申します。将来、その者の心がけ次第では、目をかけてやります。もし出家になる希望ならば、この草庵を譲つてやります。御存じの如く、外に財産と言つては、箸一本持ちません。体格は、そちらの備前屋九郎右衛門殿の家に居ります六三郎位な者を望みでございます。
 随分、浮世の事は思ひ切つて、捨てましたけれども、「人間の離れ難いものは、色欲が第一である。」といふ事を、今のこの身になつて、ひしと感ずるのでございます。この欲があつては、出家を勤め澄ました顔をしても、その甲斐はないものですけれども、「せめて(この上)四、五年も、この身を苦しめて見たい。」と願つて居ります。この事は、必ず他へは御洩らし下さいますな。あなたは、兄弟の契約を致したよしみに、心中を隠さず申し上げます。
 御預け申して居ります銀子の内、又の御便りに二百匁、御寄越し下さい。御頼み申します。書物を買ひ入れます。先日は、つまらない事について、御申し越し下さいまして、御忠告は悪くは承りません。尤も、こちらへも陰間の子供が参りますけれども、さういふ者には親しうも致しません。その事は、御心配下さいますな。
 この紙包み、御内儀様へ差し上げます。この地に沢山ある袋葛三袋と、又、曲げ物の方は、塩漬けの穂蓼でございます。近日、そちらに参り、色々と御話し申し上げませう。その内、どうか丁稚の事、御聞き合はせ置き下さい。御頼み申します。以上。
    四月十九日    吉野山にて 眼夢
  伊丹屋茂兵衛様 人々御中

  この手紙の意味を考へて見るに、貯への金銀を持ちながら、物好きな心から出家した人、と見える。吉野山の山住まひに退屈して、還俗同然の心になつてゐる。世間には、かういふ愚か者が沢山居る。「精進は我慢もできるが、色欲は我慢ができない。」と書いてゐるのは、さうありさうな事である。

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校訂者註
 1:底本は、「発心おの(二字以上の繰り返し記号)御留なされを」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 2:底本は、「かまはず候。近年世上に女出家(しゆけ)のはやり都(みやこ)より大の」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 3:底本は、「蚊といふ身を」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。

御恨み伝へ参らせ候

【本文】

 今更歎き申す事にはあらず候へども、余りなる御仕方、むごいともつらいとも恨みありとも御無理とも、分けては申し難く、とかく涙に筆は染めしが、手も震ひ、文さへ書かれぬに候。尤も、勤めは皆偽りの身に定め置きてから、それも、事によるべし。近う取つて、命を棄つるより外は無く候。神ぞ神ぞ、死にかねぬ女にて候。
 初めより、常とは格別の逢ひやう。方様、この里に御立ち入りあそばし候内は、「外の女郎に夢にも御逢ひあるまじき。」との御事は、そなた様より御申し出し、「それは、御気詰まりにて、かつうは御慰みにならず。我事は、御飽きあそばすまで可愛がりて、御訪ねあらば、微塵、如才に思はぬに候。まづまづ、末を頼みに御目にかかるに候{*1}。それより内に御見離しあそばし候おろかなる事も、あるべく候。随分詰まらん事の無きやうに、御気を取つて、その上は只、変はらぬ御情けに逢ふ女。馴染の男とては、外に無し。」と申し候。その時は、方様より外には無く候。
 されども、人も名を知る程に成り参らせ、過ぎし年よりは、暇日なく勤め申し候も、「まだしき時に、方様の御心遣ひ故。」と、それはそれは、あだに存ぜぬに候。今の身、はやるにつけて、同じ男に馴染を重ねしを、憎まれは致されぬに候。しかし、方様に思ひ変ふるなど、いかにあさましき身にても、さのみ御恩、忘れぬに候。
 この方に届けも無く、我等の定紋付けて見せかけられしは、少しうたてくは候へども、めいめいの物好き、この方から調へて遣はし候物にはあらず。気の毒ながら、ここは御了簡あそばし、御許し無くては、我が身、立ち難く候。この程、越後町扇子方にて、世間の見るを厭はず、筑後の衆に膝枕させて、鼻の上なるにきびを掘り候を御咎め、尤も。店に出て、ばつとしたるやうに思ふ目からは、方様へ伝へられし太夫様、良く存じ候。互に勤めなる身からは、さもしく思ふに候。
 人の事は見おろし給ふが、その身は口説の、暮方に提灯を持たされ、先に立つて、「天竺までも上り詰めたる男なればこそ、月夜に提灯持ちに成つて、東口まで送ります。」と良い加減に紛らかされしを、その客、川口屋の格子の先にて、「手の悪い女郎の過怠に、かくの如くこれを持たす{*2}。」と、この分けを言ひ散らして、「逢はぬ昔で御座る。各々、酔狂と思し召すな。今日に限つて小盃の徳右衛門と言ふ男。」と喚かれしを、小太夫様、八重霧様、井筒様も御聞きあそばし、隠れなき事なれども、人にこそ申さね、勤めの身には嬉しきは少なく、悲しき事、限りなく候。
 その太夫様に、京屋にて九日に御逢ひ候を、よくよく存じ候。一座に可笑しき人あるの由、「我が事、御忍び。」と思ひやりて、改め申さぬに候。又もや、恋にあそばし候は、堪忍ならず候。田舎人に膝枕させました事を御吟味強きは、方様には、少し愚かに存じ候。地の衆の名を知る男ならば、御せきも御尤も。この方にも、それには致さぬに候。口添へ酒さへ嬉しがり、過ぎにし菊の節句を勤め、又、正月の事を今から宿へ断り申し候。「外へ契約しやるな。」遣り手にもその通り聞かせ、「違ひなきやうに。先約は我等になり。」と銀遣ふ事に念を入れらるる、この律義なる男に、せめてそれ程の事は、気の凝りぬ事なれば、胸に手を入れ、額撫でて、喜ばし申し候。
 惣じて、かかる仕掛けども申さぬとても、分け知りの御身の俄なる憎みに候。御心一つにて、我が身、方様へ立て申し候事を、一つ一つ御思案あるべく候。そもそも、誓紙ばかり十三枚御取りあそばし候後、髷目の不自由なる髪を御切らせなされ候。その上に、左の手の肱に、方様の年の数二十七までの入れぼくろ。右太腿に煙管焼き。爪を離させ、小指を切らせ、血染めの袱紗物。方様の一日に千遍づつの夏書き。年中の日帳。昼夜に十二の一時文。女郎のする程の事は、残らず方様へ勤め申し候に、今又、その御仕方。いかにしても世上が立ち申さず候。
 その分けは、一日も暇のない身と、はやり申し候へば、いかないかな、御気の尽き申し候事は、申し上げぬに候。又、方様にも、三十日ながら御勤めなされかねまする分けにて、かく申すにはあらず候。我が身を只今まで、色々に刻まれ、その男に逢はぬ事は、成らず候。今より後、たとへばいかなる身に御成りなされ、人は見捨て申し候とも、我等は一日も御目にかからずば、この身を立て申さず候。女には似合ひたる剃刀、御座候。この御返り事次第に覚悟仕り候。方様には構ひなく候。只一人行く夢路の旅。脇道のない所にて、いつまでなりとも相待ち申し候。
 折節、勤め淋しく候はば、悪しき名の立ち申す事も、口惜しき御事なるに、この時節に相果て申すは、「女郎の運の尽きぬ所。」と神々を拝み申し候。今宵明けまして、昼より前に、この返し、駕籠吉右衛門より御越し。さ無くば、これより人遣はし申し候。今や、などかかる書簡、進じ申すべき事、思はぬ外の涙に候。心の騒がしき儘に、あらあら申し入れ候。もはや人の見候も、恥ならず。いつものやうに封じ目に印判は、押さぬに候。以上。
    十月二十一日    白雲
  名所屋七二様

  この文の子細を考へ見るに、分け里の口説の文は、知れた事。知れぬは、太夫に「白雲」といふ替へ名は、誰が事ぞ。これをひそかに思ふに、はやらぬ時に、良き男にのかれては、命も捨つるものなり。時めく身と成り、意気地にて「死ぬべし。」とは、いかにしても勤め女には優しき。我も人も、無分別に女郎を手に入れ、身に疵を付けさし、必ずのきさまに、埒のあかぬものにしなしける。これ皆、浮気の沙汰なり。とても、人にも勤めける身なれば、強う吟味立て、要らぬものなり。七二とは、いかなる九兵衛か、九右衛門か。本の名が知れずして、せめてもなり。

【訳】

 今更歎く事ではございませんけれども、あなたの仕打ちは、余りひどい仕打ちでございます。むごいとも辛いとも恨めしいとも御無理なとも、一々分けては申されません。とかく、涙に暮れます。その涙の筆を執つて、この御手紙を認めようと致しますが、その手も震ひ、御手紙さへ書けません。尤も、私の如き遊女は、「偽りで固めた身の上。」と世間では申して居ります。けれども、それも事によりませう。一概には申されません。かう成りましては、手つ取り早く命を捨てるより外に、道はございません。きつときつと、死にかねない女で(私は)ございます。
 あなたと私とは、初めから普通の(御客と遊女との)仲とは違つて居りました。あなたがこの廓に御立ち入りなされる間は、私以外の遊女には、決して会はないとの御約束は、元、あなたから御言ひ出しになつた事でございますが、その時私は、「それでは御窮屈な上に、御慰みにもなりません。私事は、御飽きになるまでは御通ひ下さるならば、いささかも不足には存じません。まづまづ、末を頼みに御目にかかるのでございます。それまでの間に御見捨てなさるやうな嫌な事も、起こるまいものではございませんから、随分つまらぬ事の起こらないやうに、御機嫌を取つて勤めます。その上は、ただ変はらぬ御情けを願ふ外ない私でございます。私に馴染の男とては、あなたより外にはございません。」と申しました。実際その時は、あなたより外には馴染の御客はございませんでした。
 しかしながら、その内に私も、人が名を知つてくれる程に出世致し、去年からは、体の暇な日も無く、御客を勤めるやうになりましたが、「これも全く、はやりません時分に、あなたが御引き立て下さつた御好意故。」と、それはそれは、あだおろそかには存じません。今、はやりつ妓になりましたにつけては、馴染を重ねて同じ御客に会ふ事は、遊女の身としては、憎まれる事ではございませんが、それでも、あなたを見捨てて外の客に付くなどといふ事は、いかに浅ましい身の上でも、そんな御恩を忘れる私ではございません。
 (或る御客が)私には一言の断りもなく、私の定紋を自分の物に付けて、世間に見せびらかされました事は、ちよつと嫌な事ではございますけれども、人にはめいめいに好き好みがございますもので、自分の好きでなさるものを、一々咎めもできません。私が拵へて遣はした物ではございませんからには、御迷惑ながら、この点は御勘弁下さつて、御許し下さらなければ、遊女の私は立つて行けません。
 先だつて、越後町の扇屋方で、人の見る前で筑後の御客に膝枕させて、鼻の上のにきびを掘つて上げたのを、御咎めなさいますが、それも、店に出て大つぴらにしたやうに思ふ人の目から見たら、無理もない事でございます。この事を、あなたに告げ口された太夫様の、誰かといふ事は、私はよく存じて居ります。御互に勤めの身でありますからは、隠してくれるこそ人情と存じられますのに、それをわざわざ吹聴したその人の仕打ちは、賤しむべきものと存じます。
 他人の事を軽蔑なされるその御本人が、馴染の御客と口説をした日の暮方に、提灯を持たされて、その御客の先に立つて、「天までも上せ上がつて大事に思ふ御客様なればこそ、月夜に提灯といふ、その提灯持ちになつて、東口まで御見送りをします。」と、いい加減にこの侮辱をごまかさうとしましたが、この御客が川口屋の格子先で、「たちの悪い女郎だから、懲罰として、かやうに提灯を持たせるのだ。」と、この分けを言ひ散らかして、「もう、かうなつては、こんな不都合な女は、逢はぬ昔と諦めて、捨てます。皆さん、酔狂の上の仕業と思うて下さるな。今日に限つて小盃一杯の酒も呑んではゐません。私は変名を『小盃の徳右衛門』といふ男でございます。」と呼ばはつて行かれましたのを、小太夫さん、八重霧さん、井筒さんも御聞きなされ、今はこの辺に知らぬ者もございません。けれども、私はそれを他人に告げ口などは致しません。口には出さなくとも、どうせ遊女の身の上には、悲しい事、辛い事ばかり沢山あつて、嬉しい事は少ないものでございます。
 その太夫様に、あなたは京屋で九日の日に御逢ひなさいました事を、私はようく存じて居ります。その御宴席には、面白い人も居られたさうでございます。それについて私は、『御忍びの御遊び。』と御推測申して、一々吟味立ては致しません。
 しかるに、私といふ者がございますのに、御斟酌もなく、その女と深い関係に御成りになつた事は、私も遊女の面目にかけて、堪忍できません。地方出の御客に膝枕さした事を強く御立腹なさるのは、あなたに似合はぬ愚かな事と存じます。当地の方で、ここら辺に名の知れた男ならば、私をせいて御会はせにならないのも、道理千万でございます。それで、私の方でも、さういふ人には決して致しません。私の口を付けた盃の酒さへ嬉しがつて呑まれ、過日の菊の節句には、私のために大金を遣うて下され、又、来年の正月買ひの事を、今から宿に申し込みなされ、「外の客には決して約束するな。」と言はれ、遣り手にも同様に言つておかれ、「間違ひのないやうにせろ。先客は俺だよ。」と大金遣ふ事に、一々念を入れて約束なされるやうな、田舎客の正直さを見ては、「せめて、それに報いるだけの事は、しなければならない。」と考へまして、別に難しい、気の凝るやうな事でもございませんから、懐に手を入れさせたり、額を撫でて上げて、喜ばして上げました。
 全体、遊女にかやうなる手管といふもののある事は、申しませんでも、粋なるあなたは、よく御存じの筈でございます。しかるに、それを言ひがかりにして、突然私を憎み出しなされましたが、御心の中でひそかに、私があなたのために致した事を、一々御考へ下さいませ。第一、誓紙ばかりでも十三枚、書かせて御取りなさいました。後で髷を結ふのに不自由なのに、髪を切らせなさいました。その上に、左の手の肘に、あなたの御年の数の二十七までも、刺青をさせられました。右の太腿には、煙管の焼き鏝を当てさせられました。小指を切らせて、その血で袱紗を染めさせられました。あなたの御名を一日に千遍、夏書きのやうに書きました。年中一々、日記を記して御見せしました。昼夜の十二時、一時一通の手紙を書いて差し上げました。およそ遊女のするだけの事は、どんな辛い事でも、あなたのためには致して来ましたのに、今になつて、あなたは不人情な御仕打ちをなさいます。それでは、遊女たる私の面目が立ちません。
 その次第を申しますれば、私は今一日も体の暇のないやうに、はやりつ妓となつて居りますから、決して気の尽きるやうな、窮屈な事など申すものではございません。又、あなたの方でも、毎月三十日、私を揚げて下さる事ができかねますから、かやうに申すのでもございません。私の体を今日まで色々にさいなまれたあなたに捨てられて、私はその儘になつては居られません。将来たとへば、あなたがどんな身の上に零落なされ、他人は皆、見捨てるやうな事がありましても、私は、一日も御目にかからないでは、この身の意地、面目が立ちません。
 女の自殺には似合はしい剃刀がございます。この手紙の御返事次第では、最期の覚悟を致します。しかし、あなたには関係のないやうに致します。只一人、冥途の旅につきます。冥途には迷ひ道はない筈ですから、私はいつまでなりとも、そこにあなたの百年の後を待つて居ります。現在、私がはやらない身の上ならば、定めし死後に悪評が立つでございませうが、それも残念でございますのに、はやりつ妓になつてゐる時に死ぬ事のできますのは、「遊女運の尽きない処。」と忝く、神々の御恩を感謝致します。
 今夜一夜明けまして、明日御昼前に、この手紙の御返事を、駕籠屋の吉右衛門方から御遣はし下さい。もし御返事がなければ、私方から使の者を差し上げます。今時、かういふ手紙を差し上げるやうな事があらうとは、予想外の事で、只、涙の外はございません。心が落ち着きませんから、あらあら申し上げました。もう今日となつては、人の見る事も恥とは存じませんから、この手紙の封じ目には、印判は押さない事に致します。以上。
    十月二十一日    白雲より
  名所屋七二様へ

  この手紙の分けを考へて見ると、遊里に於ける男女の口説に関する手紙である事は、言ふまでもない。分からないのは、この里の太夫で「白雲」と変名を呼ぶのは、誰の事であらう。ひそかにこの手紙について思ふに、はやらぬ遊女が、良い御客に見捨てられて命を捨てる事は、無理もない事である。時めいて、はやる妓が、遊女の意気地のために死なうとするのは、遊女にしては感心な者である。
  我人共に、無分別にも遊女を手に入れて、その身に疵を付けさせたりすると、きつと縁を切る時になつて、しやうのない事になつてしまつて困るものである。これ皆、浮気心から起こる事である。遊女といふものは、自分のためばかりに勤めをする者ではないから、あれこれと一々詮議する事は、要らぬ事である。この手紙の宛名人の「七二」といふ変名の男は、どこのいかなる人で、九兵衛といふか、九右衛門といふか、その本名の知れないのが、せめてもの幸ひである。知れたら、いい恥さらしをする筈である。

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校訂者註
 1:底本は、「じよさいにはおもはぬに候。まづまづすゑをたのみにお目にかゝるにて候」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 2:底本は、「持たぬと」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。

二膳据ゑる旅の面影

【本文】

 抱き乳母に気を付けて、角の入りたる挿し櫛、先のとがりたる笄、挿させ申されまじく候。
 この度、長市郎に思ひの{*1}外なる怪我を致させ申し候は、この出替はりより置き申し候乳母、今までは問屋方に居たと見え申し候ひて、風儀取り繕ひ過ぎて、中々目に立ち申し候へども、いづれにても四季に八十目。「同じ銀ならば、恰好の見良きが良い。」と存じ、置き付け申し候。
 姿とは万事違ひ、気立て良く、小間働きして、しかも傍輩付き合ひよろしく、嬉しく思ふ折節、長市郎を抱き上げしが、挿し櫛の角は鼻の先に当たり、笄にて左の目を突き、血は暫くやみ申さず。大方、死に入る程泣き申し候が、色々療治を尽くし、命は別の事も御座無く候へども、目は一つ潰し申し、これさへ悲しく存じ候に、又、右の方の目も、連れて悪しくなり、さても因果なる事にて、一人の孫、かくは成し申し候。
 生まれつきも大方なれば、「随分育て上げさせ、老いの楽しみ。」と行く末の事ども思ふ甲斐無く、さりとては悲しや。今は、世間の口とて、「蝉丸の落とし子。」と異名を付けて指を指され、腹立ながら、せん方も無く、身を燃やし申し候。
 今までは申さず候へども、長市郎が母の事、世に又も無き悪人。同じ所に密夫を拵へ、二年余りも忍び合ひしが、七十五度にも及びけるが、端々この沙汰致せしに、長之進、耳に入れども、少しも動ぜず。我が子ながら、落ち付きて一思案して、ひそかにその男を吟味致せしに、女房、この事を通じて、隠し男に長之進を闇討ちに致させ、その身もこれを歎き悲しみ申し候。それまでは、かかる巧みとは知らず、夫を討たれ、女の身にしては、不憫もひとしほまさり、各々、力をつけ申し候。
 女房、誠がましく、「是非に夫の敵を取つて給はれ。」とこの事、深く歎き申せば、御奉行も不憫に思し召し、色々御詮議あそばし候へども、知れずして、月日を過ごしぬ。世は定めなき俄後家と成つて、忘れ形見の長市郎を愛して、物思ふ風情、あはれに見えし折節。
 密夫、何とやら心がかりに成りて、世上より疑ふやうに思はれ、或る夜、駈け落ちして、大和より五日路離れ、勢州桑名の渡し場に着きて、夕風、思ふ儘吹けば、夜舟の心がけにて、旅籠屋に立ち寄り、「かけあひの飯を出し給へ。」と言ひて、座敷に通り、少しの内、仮枕。夢も結ばぬ内に、「所の名物。」とて、牡蠣の汁に焼き蛤を匂はせ、「申し申し。」と起こして、「御飯、参りませい。」と言ふ時、目をさまして見れば、膳二人前据ゑければ、「我一人なるに、二膳は据ゑける。一膳取れ。」と言へば、「最前、御両人御入りなされましたが、その御一人様は、どれへござりました。」と言ふ。
 「これは。」と不思議さうなる顔つきする時、亭主罷り出、「御前様と後先に今一人、成程、座敷へ御入りなされました。」と言ふ。「それは、風俗いかやうの者にてありけるぞ。」と尋ねければ、「年の程は三十四、五と見えまして、少し横太り給ひ、髪は縮みて中低なる顔。しかも、目の上に出来物の跡ありて、縦縞の袷に柿染の羽織召して。」と段々申すに、「これは。」と横手打つて、「成程、この方に覚えあり。」と赤面して、この男涙ぐむを、主、「いかなる御事。」と申せば、「とても相果つる身なれば、大事を包まず語り置く。
 「我、国元に長之進といふ者を、さる子細あつて闇討に致し、ひそかに立ち退き、『吾妻の方へ身を隠さん。』とこれまで参りしが、只今の話の男、我が手にかけし長之進がその夜の出で立ちに疑ひ無し。さては、我が身に付き添ひ、その執心離れず。かくあれば、いづくまでも逃るる所無し。我故、迷惑する人もあるべし。これより生国に立ち帰り、ありの儘に命を返さん。」と思ひ定め、こたび、大和にてこの段々を申し上げ、すみやかに首討たれし。女も、「逃れぬ所。」と身を菅田の池に沈め、目前に己が悪事さらし申し候。
 その子ながら、「長市郎は長之進が形見。」と思ひ、この年月、二歳まで育て上げしに、今又、盲目に致し、かれこれ憂き事にあひ申し候。これに付けても、長生きはせまじきものに御座候。生ある者を捨てもならず、せめて世を渡る芸能を授け置き申したく候。七歳ばかりに罷り成り申し候はば、大坂へ遣はし申すべく候。名高き御座頭に師弟の御契約、頼み申し候。後々は勾当に成し申し候程の貯へ、我、仕り置き候。いよいよあはれと思し召し、御取り持ち、頼み入り候。以上。
    十月二十一日    大和 長市郎 祖母
  多田屋利右衛門様

  この文を考へ見るに、我が嫁の悪心、密夫の因果顕はれ、己と命終はりたる有様を知らせ、孫の不憫を書き続けしは、誠に悲しき心ざし、とぞ思はる。{*2}

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校訂者註
 1:底本は、「おもひ外(ほか)」。『井原西鶴集 三』(1972)本文及び語釈に従い改めた。
 2:底本、この篇全篇を欠く。本文は『西鶴文集』(1914)に拠った。

広き江戸にて才覚男

【本文】

 長崎へ手代ども差し下し候幸便に、一筆申し入れ候。しかれば、紬縞半疋、御内儀様へ進じ申し候。不断着にあそばさるべく候。今程は、ここ元も結構なる衣裳、着申し候事、はやり申さず候。
 はた又、貴様、大酒成され候事、少し御とまり候や、承りたく候。世界に怖きものは、酒の酔ひと銀の利にて御座候。その方、常住の御身持ち、一つとしてこの方、合点参らず候。まづ{*1}、今時の商売、銀親後ろ盾なくては、中々分限にはなられず候。その覚悟ない事、不才覚に存じ候。世の人は賢きものにて、又、騙し易く候。
 さりながら、貴様の明石縮の帷子に黒縮緬の羽織、いまだ若い人の竹杖。そんな風俗にては、殊に堺といふ所、請け取り申さず候。中より下の身代の人は、鬢付、後上がりにして、奈良晒の浅黄帷子、二、三度も水に入れて紋所の上絵はげたるに、丸ぐけの帯に真皮の前巾着を下げ、折り目の切れたる扇を差し、二十七日{*2}八日を欠かさず御堂に参り、松の芯、下草取り合はせて三文ばかりがの、手に持ちて、夏も革足袋に雪駄はきて、人の確かに思ひつく身持ち大事にて、さて分限者に俄に取り入る事は、成らず候。
 いつとなく近づき、少しにても病気の時分、節々見舞ひ、いつぞの程より勝手までつけ入り、面の皮厚うかかりて、医者穿鑿の時さし出て、懇ろに内談して、このついでに毒ならざる肴物を贈り、御内室へ菓子を遣はし、おのづから親しみ、験気の時分、礼返し、又喜びに参り、とやかくする内に出入るやうに罷り成り、時分を見合はせ、確かなる質物など肝煎り、少しためになる事をさして、名代の若い者どもに取り入り、まづわづかの取り遣り、約束違はず返して、はづみを見て大分金銀取り込み、その大節季にも、差し引き三ケ一程は手良く残し、皆は済まし申さぬが良く候。これを綱にして、先繰りに借り込み、手広く商ひ仕掛け、手前者になる事、程は無く候。
 惣じて、商人の銀借り所拵へるを、第一に致し候。中々少しの手銀にては、はかの行く事にはあらず候。いかにしても、貴様、常々の手廻し悪しく、いつまでも同じ口過ぎ。しかも次第に淋しきやうに相見え申し候。
 我等事、各々に見限られ、堺を出し時は、江戸までの路銭さへ無くて、「伊勢への抜け参り。」と偽りを申し、大小路の両替屋にて借り取りして罷り下り、何に取りつく島も無く候へども、才覚して刻み昆布に取りつき、そこ元にそれまでは珍しく、忙はしき所にて候へば、「良き仕出し。」とはやりて、年四、五年に金子八十両延ばし、松前の昆布を引き請け、問屋に成り、次第に分限に成り申し候は、手に取るやうに覚え申し候へども、銀親無くて手詰まり申し候時、ここ元、歴々金持ちへ出入り申さるる医者を{*3}見澄まし、わざとわづらひ出し、その医者を少しの事に療治を頼み、薬七、八服呑みて、この礼、金子一歩ばかり遣はして{*4}良く候を、小判五両に絹綿、樽肴をきつと遣はしければ、この医者、心当てより格別なれば、「思ひの外、手前者」のやうに方々にて言ひ歩き、世間、買ひ掛かりも心の儘に罷り成り候時、かの医者を頼み、金子の要る内証を語れば、この医者請け合ひ、小判五百両借り請け、これより手廻し良く、いまだ二十四、五年の内に、財宝の外、金子ばかり九千両、この正月の棚卸しに見え申し候。金なくて金は儲けられぬ浮世に候。その心得あるべし。
 何と申しても、御江戸にて候。子供ども、悪気のつかぬ内に、御下しあるべし。盗人心さへ無くば、十年の内には小判三百両づつ持たせ、上せ申すべく候。その上は、銘々の手柄次第に御座候。ここ元、町人の風儀、中々軽行きに身を持ち申し候。我等、一万両の身代なれども、今に風呂屋へ供連れず、浴衣を自ら首に巻きて、入りに行き申し候。女房どもも、大勢の朝夕の飯を盛らせ申し候。見分悪しく候へども、この始末、年中に五十両やなどの違ひ、御座候。一日に二度杓子を持てばとて、手についても{*5}無く、又、香炉も持たれ申し候。「御上様。」とて打ち掛けして、大黒柱にもたれて細目遣ひしても、吾妻育ちの女の足の鍬平が直るにもあらず候。
 さてさて、世に金持たぬ程、悲しきものは無く候。嘘も軽薄も悪心も皆、貧より起こり申し候。貴様、今の世渡り、半分よりは偽りの増し候様に{*6}承り申し候。「口惜しく思し召し、子孫のために今一稼ぎあれかし。」と存じ候。
    八月十九日    松前屋権太夫 江戸より
  薬屋忠左衛門様

  この文の子細を考へ見るに、泉州堺を身代破り、こたび江戸にて稼ぎ出し、昔の一門の方へ内証を申し遣はせし、と見えたり。

【訳】

 長崎へ店の手代を遣はしますので、その良いついでにことづけて、この手紙を差し上げます。さて、紬縞半疋、御かみ様へ差し上げます。不断着にでもして下さい。この頃は、こちらも贅沢な衣裳を着る事は、はやりません。さて又、あなたの大酒の癖は、少しはやみましたか、承りたうございます。世の中で怖いものは、酒の酔ひと借金の利息でございます。
 あなたの不断の御行状、一つとして私には賛成ができません。まづ、当世の商売をするには、資本主の後ろ盾がなくては、中々金持ちには成れません。あなたは、この点に御分かりのないのが、不覚と存じられます。世間の人といふものは、賢いものですが、又、騙し易うございます。とは申しながら、あなたの明石縮の帷子に黒縮緬の羽織着て、若いくせに竹の杖をついてゐられる様子。そんな風をなさつては、この堺では殊に、承知しません。
 中等以下の資産の人で、鬢の風、後上がりに結ひ、奈良晒の浅黄帷子を着、それも二、三度は洗濯したもので、紋所の上絵ははげた儘、丸ぐけの帯締め、それに真革の前巾着を下げ、折り目の擦り切れた扇を差して、月の二十七日二十八日は、欠かさず御堂参りをし、松の芯に下草を取り揃へた御花を三文ばかりが処、手に持つて、夏も革足袋に雪駄を履いて、人が見て、確かに信用してくれるやうに、身なりなどを大事にしてゐても、俄に金持ちに取り入つて、元手も借り出す事はできません。
 いつとなく、さういふ人には近づきになつて、少々でも「病気。」と言ふと、度々見舞に行き、その内には勝手元まで立ち入り、面の皮厚く仕掛け、医者の詮議でもする時は、差し出て親切に相談に預かり、この機会に病人の毒にならない肴を贈り、又、「奥への見舞。」と言つて、菓子を遣ひ物にし、かうして自然に親しうし、快気祝ひの礼返しを受けると、又、その喜びに出かけ、とかくする間に、その家に出入りするやうになると、機会を窺つて、確かな抵当の貸し金など世話して、少しためになるやうな仕事をさせて、主人の名代になる手代などに取り入り、まづ些少の貸し借りには、約束を違へないやうにし、いよいよ好機に乗じて多額の金銀を借り入れ、その年の暮にも、利を差し引いて、借り金の三分の一位は体良く残しておいて、全部は返さぬ方が良い。この残した借金を便りにして、先繰り先繰りに借り入れ、その元手で手広く商売を広げれば、金持ちになれる事は、間もない事です。
 全体、商人が元手の借り入れ処を拵へておく事は、第一必要な事で、手元にある少し位の元手で商売しては、金を儲ける事は、手ぬるい事です。何としても、あなたの不断の商売のやり方はいけません。それで、いつになつても同じ暮らししかできません。しかも、次第に衰微してゐるかに見えます。
 私事は、皆様に見限られて、堺を出ました時は、江戸までの旅費さへ無くて、「伊勢へ抜け参りをする。」と偽りを言って、大小路の両替屋で借り放しにして、こちらに下りまして、取りつく島もなくて困りましたが、やうやう工夫して、刻み昆布の商売に取り付きました。それまでは当地では、刻み昆布は珍しうもあり、又、忙しい土地でもありますので、「これは良い発明。」とはやりまして、年の四、五年も経つ内に、金子八十両儲け貯めました。それから松前昆布を受けて、問屋を致し、次第に利を得て金持ちになります事は、手に取るやうなものでしたが、何分、資本主が無くて、行き詰まつて居りました時。
 こちらの指折りの金満家達の家庭へ御出入りをして居られる医者に目をつけて、わざと作病し、ちよつとした事に、その医者に療治を頼み、薬七、八服飲んで、この御礼は金子一歩ばかり遣れば済む処を、小判五両。その外に絹、綿、樽、肴を添へて、立派にして遣はしました。すると、この医者、私をば「案外の金満家。」と思ひ込んで、方々で吹聴して歩きましたので、どこの店でも掛け買ひが自由にできるやうになりました時、その医者に金子入用の事情を語つて、「借り入れたいが、よろしく頼む。」と言ふと、この医者、それを引き受けて、小判五百両借り受けてくれました。
 これから資本の繰り廻しも良くなつて、まだ二十四、五年しか経たない内に、諸道具の類はさておき、現金ばかりでも九千両といふ高が、今年の正月の棚卸しの際に見られました。金がなくては金は儲けられないのが浮世です。その点、よく御了解なさるが良い。
 何と言つても(商人の働くべき所は)江戸でございます。あなたの子供達も、悪気のつかない内に、こちらに御下しなさるが良い。盗人根性さへなければ、十年の内には、小判三百両づつは持たせて、上方へ御返し申しませう。その上の儲けは、めいめいの働き次第でございます。
 こちらは、町人の気風が甚だ手軽で、地味に暮らします。私も、一万両の身代になりましたが、今に、供も連れずに洗ひ湯に通つて居ります。浴衣を自分の首に巻いて、入りに行きます。妻にも、大勢の一家の朝夕の飯を盛らせて居ります。見た処、体裁は悪いけれども、この倹約が年中に積もると、五十両位の違ひになります。一日に二度、飯杓子を手に持つたとて、手が減るでもなく、又、香炉のやうな華奢な道具が持たれるやうになるでもありません。「御うへ様。」と人に言はれて、打ち掛け姿で大黒柱にもたれて、細目遣ひをして上品ぶつても、田舎育ちの女の鍬平足が直るものでもありません。
 さてさて、世に町人と生まれて、金持たぬ位、悲しいものはありません。嘘も追従も悪心も皆、貧乏から起こります。あなたの生活を見ると、半分以上は偽りのやうに承ります。(これでは人と生まれた甲斐もありませんから、)「自省なされて、子孫のために今一奮発して、御稼ぎなさるが良い。」と存じます。
    八月十九日    松前屋権太夫 江戸より
  薬屋忠左衛門様

  この手紙の意味を考へて見ると、泉州堺の人が、身代が持てなくなつて江戸に下り、この度、江戸で金儲けして、以前の一門中の人の元へ、金儲けの内状を言つてやつたもの、と見える。

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校訂者註
 1:底本は、「まいらず候。今時」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 2:底本は、「廿七八日」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 3:底本は、「いしやをすこしの」。欠文は『西鶴文集』(1914)に拠った。
 4:底本は、「遣しよく」。底本語釈及び『新日本古典文学大系77』(1989)語釈に従い改めた。
 5:底本は、「手につゐえもなく。」。『井原西鶴集 三』(1972)に従い改めた。
 6:底本は、「まし申様に」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。

人の知らぬ婆の埋み金

【本文】

 御異見度々の御事。その時分は奢りの最中にて、悪所狂ひ、やめ申さず。今、遠国に勘当せられ、さてさて身にこたへ、後悔に存じ奉り候。
 さりとては山家住まひ、悲しく候。かねて承り申し候よりは、飛騨の国の万事不自由なる事、中々、筆には尽くし難し。口々に番所厳しく、出入りの者に手形の吟味、厳しく候へば、我が儘に上り申し候事も成り難く、いづれも、罪なうして流され人同然に御座候。所に住み馴れし人は、「世界は皆、かやうのもの。」と思ひ暮らし候。
 その淋しき事、明け暮れ、所の人より外を見申さず候。通り筋の本町にて、皆々立ち並び、昼中に鞠を蹴申し候に、人をよけるといふ事無く、終に目の青き鯛を、前代見た人無く、鯖もあぶれば粉に成り申し候を、朔日、二十八日に祝ひ、五節句遊ぶ日も、道近き山原に上がり、大木茂りてよそは見えぬ岩の平らかなる所に、茅葉筵を敷きて、石地の芋を塩煮にして、濁り酒を呑み申し候より、楽しみ無く候。いづくも謡の節は違はず、堅い座敷も乱れし時も、只「山姥」にて埒をあけ申し候。この程は、高野聖ども、ここ元の名物、縞紬を調へに罷り越し候が、宮川町にて聞きはつり申し候や、今のはやり唄も、そこそこを歌ひ申し候を聞くに、ひとしほ都ゆかしく存じ候。
 世間の親仁とは違ひ、いまだ二十年は確かに無事の生まれつき。それまで待ち暮らせば、我等も四十七、八にも罷り成り申し候。しかれば、浮世に何の面白き事も時分過ぎ、杖つきての栄花、楽しみ無く候。殊に葬礼待ちて、いつまでか定め難き心当てして山家住まひの切なさに、親より先へ死ぬるは、見えて御座候。もはやここの土に{*1}朽ち果て申す覚悟、極め申し候。命は今日も知れず候。後にて、少しの事に恥をかき申し候も、口惜しく候。そこ元、わけもなうし散らかし申し候内証、頼み申し候。揚屋、子供屋、手形借り、知れたる買ひ掛かりは、残らず親仁手前より相済まし申され候由。色里の外聞は、せめての事に御座候。わづかの事に我を恨み悲しむ者、いかにしてもむごき事に御座候。この分、御才覚なされ、埒御あけ、頼み申し候。
 新町通、銭屋と{*2}言へる質屋へ、久七が婆を使にて、対の珊瑚珠に三百目借り申し候。我等、堀川にて吟味致し、七百目に買ひ申し候。これを御請けなされ、伊勢講中の掛銭百七十目借り申し候を、この売り出しにて御済し、頼み申し候。又、石垣町茶屋のりんが浅黄無垢の肌着を、別れの朝、思ひの外の嵐なれば、つい下に重ねて帰り申し候が、小宿の庄八嬶が欲しさうなる顔つき。常々、何ぞ取らする約束なれば、人の物をかい遣りて、その替はりも遣らず、この首尾なり。いかにしても、その女の思ふ処もあり、一つ拵へて、このわけを御語りなされ御渡し、頼み申し候。
 はた又、東の洞院、森下久庵老へ銀子二両、遣はし申したく候。淋病わづらひ申し候時分、十四、五服食べ申し候。寺町の小間物屋八兵衛方へ、十二匁四分御渡し、頼み申し候。内に隠し申し候唐傘、八本調へ申し候。又、奉公人宿の御池の吉郎兵衛方へ銀一両御渡し、頼み申し候。これは、子おろし薬、買ひに遣はし申し候事、御座候。謡屋の武太夫殿{*3}へ二匁七分五厘御払ひ。これは、集銭出しの割り付けと御断り、頼み申し候。羽織屋の新五郎に、衣装縫はせ申し候賃銀四十匁程{*4}。丸山の林阿弥へ銭一貫、九月十三日の座敷賃。七匁二分、堀川牛蒡二十本の代、八百屋九助に御済まし、頼み申し候{*5}。小川の鼠屋へ六匁、柄糸の代。柳風呂へ二百三十目。仏師左京所へ二十五匁、観音の御光の手間賃。藤屋甚九郎方へ三十六匁、ふんどし二筋の代銀。
 駕籠の九市が方より銀八百匁の手形、貴様へ御内証申すべし。これは、遣らぬ銀子の子細は、四枚の名人をかけて、前後に四百両ほど取り申し候。寺ばかり十五、六貫目、春中に取り申し候。俄に家屋敷買ひ申し候は、近江屋の五郎作と我等との銀子にて御座候。
 六角の髭団兵衛が所に、弥介の鼓の筒、孫六の大脇差、預け置き申し候。金子一両二分遣はされ、御請け取りあそばし、御差しなさるべく候。団兵衛事{*6}、久々の浪人なれば、折々心付けして目をかけ申し候に、同じ浪人の娘をしかけ物にして、大分、我をねだらせ、金子百五十両取り申し候。さりとては憎い仕方にて御座候。
 又、大宮に九間口の屋敷を買ひ、裏に座敷を立て、万事に八貫目ばかり要り申し候。島原の中宿に、「丹波口もやかましき。」とて、末社どもが勧めて、「小耳徳右衛門」が名代にて、買ひ置き申し候。売り券状は、この方に御座候。我等、寝所の西の方の柱の節穴に、確か押し込み、入れ置き候と覚え申し候{*7}。御穿鑿なされ、御取り返し、頼み申し候。
 この外、御聞き合はせなされ、我等、分けの悪く、少しの事にてひけ申し候分は、見事に御済まし、頼み申し候。取り集めて五、六貫目の事に御座あるべく候。他人には、ゆめゆめ聞かさぬ事に御座候。腹こそ替はれ、兄弟の御よしみに、この儀は一重に頼み申し候。我等も、貴様御一所に御座候時、御奉公仕り置き申し候。
 この上に、何か隠し申すべし。近頃近頃、心掛かりの一つは、御隠居妙貞様の臍繰り金五百両。八十余まで大事にかけ、小さき茶壺に入れ、蓋を閉めて、随分人知れぬ取つて置き所、前栽の東の隅に、三本並びの杉の木の下に、昔よりこの屋敷に{*8}伝はりし稲荷小宮あり。この下の平石を上げて、かの壺を掘り埋め給ひしを、我等、髪置き年なれば、婆様、気遣ひし給はず、これを見せ置き給ひしが、三つにて見し事、金に事欠く時思ひ出し、ひそかに盗み、跡はありし如くに致し置きけるを、日に三度、夜に一度、「ある。ある。」と思し召し、見廻しに御出あそばしけるが、「この金のない事知らせ給はば、定めて目を廻し給はん。この頓着なきやうに、頓死をなされ候やうに。」と願ひ申し候。
 さて、母人、貴様は不憫をかけ、実子の私をしみじみと憎み、親仁の手前、一門中へも悪しく申し候事、世間とは格別に御座候。是非もなき仕合せに存じ極め申し候。以上。
    八月十九日    同宇右衛門
  山崎屋宇左衛門様

  この文を考へ見るに、親に勘当致され、飛騨に追ひ込まれ、山家住まひに難儀の有様、京なる腹替はり兄の方へ{*9}言ひ越す、と見えたり。

【訳】

 御忠告、度々して下さいましたが、その頃は遊蕩の最中で、とうとう遊里通ひをやめませんでした。今、遠い地方に勘当の身となって住むやうになりまして、その時の御忠告が、さてもさても我が身にしみてこたへ、後悔致して居ります。
 さても、山家住まひといふものは、悲しいものでございます。かねて聞いて居りましたよりは、飛騨の国といふ所は、何事も不自由な所でございます。中々、筆では書き尽くす事ができません。出口出口に厳重に番所を設けて、出入りの旅人の旅券の取り調べが厳しいので、自由に京都に上る事もできません。皆、罪なくて流罪に処せられた人と同じ事でございます。かういふ所にも住み馴れた人は、「世の中といふものは、どこも皆こんなもの。」と思って平気に暮らして居ります。その淋しい事と言ったら、明けても暮れても、所の人の同じ顔より外は見られません。
 本町筋の大通りに大勢立ち並んで、昼日中に蹴鞠の遊びをしますが、別段に通行人をよけるといふ面倒もございません。目の青い、生きの良い鯛は、ここでは前代から見た人はございません。塩鯖も、火にあぶれば粉々になるやうなものばかりです。それも、一日、二十八日の祝ひ日に食べるだけです。五節句の人々の遊ぶ日も、道に近い高原に登り、大木の茂って目遠の利かない平たい岩の上に、茅葉筵を敷いて、石地の痩せ畑にできた芋を塩煮にしたものを肴に、濁り酒を飲む習慣になって居りますが、それを無上の楽しみに致します。どこでも謡の節は違はないもので、儀式堅い座敷でも乱れた酒席でも、只「山姥」一つで済まします。この頃は、高野聖どもが、この所の名物、縞紬を仕入れに参りますが、京の宮川町で覚えたものでせうか、当世のはやり歌のうろ覚えの怪しいのを歌ふのを聞きますと、ひとしほ京の事が恋しうなります。
 (親父は)世間一般の父親とは違ひ、まだ二十年間は無事息災に生き延びる事のできる強壮さであります。その死去なされて自分の時代になる時を待って暮らしたら、自分の年齢も四十七、八歳になってしまひます。さうなれば、年を取り過ぎて、浮世に何の面白い慰みもなくなります。杖ついて栄華した処で、楽しみにはなりません。殊に、父親の葬礼を待って、いつまで当てにならぬ事を当てにして、山家住まひをしませう。その内には、この山家住まひの苦痛のために、父親に先立って死んでしまふ事は、目に見るやうでございます。
 もう私は、この飛騨の土になって朽ち果てる覚悟を決めて居ります。人の命は今日明日に尽くるとも知れないものでありますから、死んだ後で、いささかの事で恥をかくのも残念です。そちらで無茶苦茶にし散らかした内証借りの借金の始末を御頼み申します。揚屋、子供屋の諸払ひや、証文入れた借金や、分かった掛け買ひの代金は、悉く父親の手元から支払って下さったさうです。遊里の名誉は強いて全うしませんでも、わづかばかりの金の事で私を恨み悲しむ者を、その儘にしておくのは、いかにしても残酷でございます。これらの分だけは、何とか御工面下さって、払ってやって下さい。御頼みします。
 新町通の銭屋といふ質屋へ、久七が婆を使に遣って、一対の珊瑚珠で三百匁の銀を借りました。この珊瑚珠は、私が堀川で品質を吟味して、七百匁で買ひ取った品でございますから、この品を請け出して(売り払ひ)、その鞘で、伊勢講仲間の掛け金百七十匁の借りになってゐるのを払って下さい。
 又、石垣町の茶屋女りんと申す者の、浅黄無垢の肌着を、或る朝の別れの際、余り寒い風が吹いてゐたので、つい下着に借り着して帰りました。ところが、小宿に帰って着替へをする時、その宿主庄八が女房がこれを見て、いかにも欲しさうな顔つきをしたので、かねて、「何か遣らう。」と約束をしてゐたのを思ひ出して、他人の物をその儘くれてしまひ、その替はりの肌着をりんに作って返す間もなく、勘当になってしまひました。この儘にしておいては、りんの思はくもあり、どうしても放っておけませんから、一枚拵へて、この次第を御話の上、御渡し下さい。御頼み申します。
 又、東の洞院の森下久庵老(医者)へ二両、遣はしたう存じます。淋病にかかった時、薬を十四、五服、服用致しました。寺町の小間物屋八兵衛方へ銀十二匁四分、御渡し下さい。御頼み申します。家に隠して傘八本拵へました。又、桂庵の御池の吉郎兵衛方へ銀一両、御渡し下さい。御頼み申します。これは、女中をはらました時、堕胎の薬を買ひに遣った事がございました。謡謡ひの武太夫殿へ二匁七分五厘、御払ひ下さい。これは、割り前勘定と断って下さい。
 羽織屋の新五郎に衣装を縫はせた賃金、四十匁程。丸山の林阿弥へ銭一貫文、九月十三日の後の月見の折りの座敷料。七匁二分、堀川牛蒡二十本の代金、八百屋九助へ御払ひ、御頼み申します。小川通の鼠屋へ六匁、脇差の柄糸の代。柳風呂へ二百三十匁。仏師左京が所へ銀二十五匁、観音像の後光の修繕料。藤家甚九郎方へ三十六匁、ふんどし二筋の代、御払ひ下さい。
 駕籠屋の九市が方から銀八百匁借りた証文がある筈ですが、あなたに内々の事情を申し上げて置きませう。この銀は払ってやるに及びませぬ。その理由は、四枚の名人をかけて、私から前後に四百両ほど巻き上げてしまひました。きやつが取った寺銭だけでも銀十五、六貫目、この春中に儲けた筈です。俄に家屋敷を買ひ取りましたが、その費用は、近江屋の五郎作と私とから巻き上げた銀でございます。
 六角通、髭団兵衛が宅に、弥助の鼓の筒と、孫六の大脇差とを預けておきました。金子一両二分御遣はしの上、御請け取り下され、御差し料に御使ひ下さい。団兵衛は、久しく浪人暮らしをしてゐますので、時々心付けを致し、世話をしてやって居りましたのに、同じ浪人仲間の娘を美人局にして、私を欺き、大分、私をねだらせて、金子百五十両も取りました。さても憎い仕業でございます。
 又、大宮に九間間口の屋敷を買ひ取り、裏の方に座敷を建て、その万端の費用が八貫目ばかり要りました。島原通ひをした時の中宿には、「丹波口も面倒だ。」といふので、幇間どもに勧められて、「小耳徳右衛門」の名義で買っておいたのでございます。その屋敷の売り証文は、こちらに取ってあります。私の寝室の西側の柱の節穴に、確かに押し込んで入れておいたと覚えて居ります。御穿鑿の上、御取り返し下さい。御頼みします。
 この外、なほ御聞き合はせ下され、私の不都合で、少々の事で不名誉になるやうなものは、立派に払ってやって下さい。御頼み申します。全て合はせて五、六貫目位でございませう。他人には、ゆめゆめ聞かさない事ですが、腹こそ違ひますが兄弟のよしみに、この事は一重に御頼み申します。私も、あなたと一緒に暮らした時分には、あなたのために尽くしておきました。
 この上に何を隠し申しませう。この頃、最も心掛かりの一件を白状致しますが、それは、御隠居妙貞様のへそくり金の五百両を、八十余歳になられるまで、大事にかけて御持ちなされ、小さい茶壺に入れ、蓋をして、めったに人の知らないしまひ所として、前栽の東の隅に三本並んでゐる杉の木の下に、昔からこの屋敷に伝はってゐる稲荷の小祠がありますが、その下の平たい石を上げて、かの茶壺を、その下を掘って埋められたのを、私は当時、髪置き年の三歳でしたから、「まだ頑是ない者。」と思って、心配もなさらずに見せておかれました。三歳の幼少で見た事を、金銀に困るやうになって思ひ出し、ひそかに盗み出し、跡は元の通りにしておいたのを、婆様は知らずに、毎日昼三度夜一度、これを見廻っては、「ある。ある。」と安心しておいでなさったが、もしこの金のなくなってゐる事を御存じになりましたら、きっと目を廻しなさる事でせう。「この心配をなさらぬやうに。頓死して下さるやうに。」と願って居ります。
 さて、御母様は、あなたを愛せられ、実子の私を深く憎まれ、御父様を憚り、又、一門中に気兼ねして、私を悪く言はれます事、世間通例とは大いに違って居ります。これは、「何とも致し方のない運命。」と思ひ、諦めて居ります。以上。
    八月十九日    同宇右衛門
  山崎屋宇左衛門様

  この手紙の意味を考へて見ると、親の勘当を受け、飛騨の国に追ひ込まれて、山家住まひになった人が、その苦しい有様を述べて、京都に居る異腹の兄に訴へてやったもの、と見える。

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校訂者註
 1:底本は、「土(つち)と朽果(くちはて)申覚悟(かくご)きはめ申候。揚(あげ)屋子ども屋」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 2:底本は、「新町通り銭(ぜに)屋いへる」。『井原西鶴集 三』(1972)本文及び語釈に従い改めた。
 3:底本は、「武兵衛殿」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 4:底本は、「四十程。」。『井原西鶴集 三』(1972)本文及び語釈に従い改めた。
 5:底本は、「頼み候。」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 6:底本は、「団兵衛久々の」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 7:底本は、「入置申候」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 8:底本は、「屋敷(しき)伝(つた)はりし」。『井原西鶴集 三』(1972)本文及び語釈に従い改めた。
 9:底本は、「兄へ」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。

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