江戸期版本を読む

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カテゴリ:井原西鶴 > 校訂評釈万の文反古(1947刊)

この通りと始末の書き付け

【本文】

 六日飛脚に無用の銭出して、御状、御越しなされ候。さし当たつて急ぎ申さぬ御身代の内談。そこ元、室町の絹荷物{*1}、度々下り申し候へば、いづれにても御頼みなされ候へば、賃なしに相届き申し候を、世の費えに罷り成り候事を、さてさて御存じ無く候。この覚悟からは、次第に不勝手御成り候事、尤もに候。せめて、いづれも御無事御入り、一段に存じ候。はた又、ここ元珍しき干し松茸一袋下され、忝く存じ候。
 さりながら、御心入れ、満足に存ぜず候は、我等、この方へ罷り下り申し候は、早十二、三年に罷り成り候に、終に御状も下されず候。私方よりはその時分、四、五度も書中に申し上げ候へども、一度も御返事無く、世の義理といふ事、御構ひなされず、今又御用の儀に文下され、この方、満足に存ぜず候。惣じて人に無心言ふ前には、懇ろにしかけ、又は音信物を遣ひ、様々軽薄言ふ事、上方の風儀に御座候。関東は、中々さやうの当座さばき、合点致さぬ所に御座候。常々親しく語り合ひ申し候人には、金銀はさて置き、命を捨て申し候。
 各々心底、親類とは申し難し。私、身代破り、そこ元を罷り立ち申し候時、道中の遣ひ銀、わづか三十目の事さへ御貸しなされず、結句、「世間をたはけ者。」との御申し成し。罷り立ち候宵に、御暇乞ひに参り申し候へば、我等の足音御聞きなされ、その儘奥の間へ駈け入り、「天満まで念仏講に参られました。」と御内儀、まざまざと留守御使ひ候は、今に今に忘れ申さず候。他人さへ住所の別れを悲しみ、叶はぬまでも大坂に留まる談合、頼もしき事に御座候。この衆中御事、日夜に存じ出し候。近年に罷り上り、それぞれに御礼申し上ぐべく候。
 貴様は、従弟の事に御座候へば、酒小半で機嫌良う暇乞ひを{*2}して給はり候へば、何の恨みも御座無く候。切なき事は、忘れもやらず候。しかも十月{*3}十一日の朝、夜番の久蔵が所より、茶漬け飯の門出。「さらばさらば。わづらはぬやうにして、道中息災に御下りなされ。」と言ひも果てずに戸をさす時、「せめて見送りて{*4}くれぬか。」と物憂く心細く、寒空に古袷一つの旅出立。
 やうやう町家を離れ、枯野の薄ざはざはと、しやれかうべの露にぎらつき、磔場、小気味悪く、夜天狗の長九郎、鬼飯の半八、提灯消しの万兵衛、これらは皆々、西国の巾着切りども、ここの土と成りぬ。「これ程あさましき身も、盗みといふ事はせまじ。たちまちあの如く成るは恐ろし。」と、我と誠の気に成り候に、折節、偽りの時雨降りて、今市堤の栴檀の木も、暫しの宿には{*5}成り難く、旅の憂き事始めに、これは情け無く、笠さへ持たぬ身を隠しかね、昼の出茶屋が日隠しの元に走り着けば。
 我より先に鉢坊主の、宵よりここを宿として、前後も知らず臥して、その年の程八十と見て損は行かじ。大方長らへてから、限り知れた身なれども、命は今日を送りかね、皆まで覚えぬ観音経を読みて、その品々見えて、「さても軽い境涯や。」とあはれに無常観じ申し候が、しきりに降る雨に、その儘、心変はりて、この法師がかづき捨てし筍笠を盗み、それのみか{*6}、手拭ひ一つ取りて、足早に立ち退き申し候。
 身の悲しき時は、盗人もせまじきものにあらず候。その方様、不断の念仏、殊勝に聞こえ申し候が、その口から、人を騙りも言ふものに候。とかく貧者程、思ひの外、心ざしの変はる者は無く候。これ程憂き難に遭ひ、小田原と申す宿より路銭なくて、二日は水ばかり呑みて、やうやう下り着き申し候に、天道、人を殺し給はず。五、六年に二千両余り稼ぎ出し、只今二十三人、我等の才覚一つにて、ゆるゆると養ひ申し候。
 この方も、世上賢く成つて、その銀程、利を得、徳を取り申し候。利発なる男の身柄下りて、埒のあく事には御座なく候。たとへば、御大名の馬屋に入れ申し候藁売り。末の綺麗なる処を花瓶の込みに仕立て、その末を花火線香の芯致し候やうに、せち賢く罷り成り、大方の事にて中々、銭は儲けさせ申さず候。まだも我々の見立て、手の良き餅屋仕出し、又は、貝殻の沢山なる{*7}所なれば、細工人を連れ下り、石灰を焼き申し候か、この二色より見立て申さず候。
 これ程も大分、元の要り{*8}申す事に御座候へば、貴様のならぬ事に候へども、よくよく手前迷惑と見えて、遥々、我を頼みに書状御下しなされ候。この方所存、書き付けにして遣はし申し候。この通り、少しも御背きなく御稼ぎなされ候はば、そこ元御仕舞ひ早々、御下りあるべし。我等、元銀取り替へ、口過ぎの成り申し候やうに、致し進じ申すべく候。
 まづ、朝は七つ起きして、自鬢に髪を結ひ、さて草鞋がけにて唐臼を踏み、香の物菜の朝夕。夜は細縄をなつて荒物屋に売り、雨の降る日は下駄、笠を売るやうにして、身洗ふにも日当たりに水を汲み置き、湯を沸かす事を世の費えとおぼえ、酒、煙草を呑みとまり、見物事は、銭の要らぬ辻放下にも目を塞ぎ、女の顔を四、五年も見る事無く、盆正月の遊ぶ時、灸を据ゑて身の養生を大事に、鼻で息する程働く合点ならば、替はり番衆に雇はれ、手前の路銀遣はぬやうにして御下り、待ち申し候。
 この外、始末の段々は、その時分、面談にて申し入れ候。以上。
    六月二十九日    大坂屋治郎右衛門{*9}
  豊後屋徳次郎様

  この文を考へ見るに、江戸に仕合せ良き従弟の方、身代の事頼み遣はしける、と見えたり。この書き付けの通りに稼がば、遥々の所を下り行くまでも無し。大坂にても口過ぎの成る事なり。

【訳】

 六日飛脚に無駄な高い賃銭を出して、御手紙を下さいました。差し迫った火急の事でもない、御家計上の御相談ならば、そちらの室町から当方へは、絹物の荷物が度々下って来ますので、誰にでも御ことづけなされば、無賃で届けてくれますのに、無駄金遣ふ事を、さてもさても御存じないと見えます。こんな心の締まり無さから、次第に貧窮に落ちられるのは、当然の事であります。せめてもの事には、皆様御無事の由、大層結構の事に存じます。又、こちらには珍しい干し松茸を一袋御贈り下され、御懇切有り難う存じます。
 しかし、あなたの不人情には、私、不満足に存じます。その仔細は、私がこちらに下って参りましたのは、今から十二、三年の昔になりますのに、終に一度の御手紙も下さった事はありません。私の方からは、その当時、四、五度も差し上げましたけれども、一度の御返事もなく、世間の義理といふ事は御構ひなさらないのに、今は又、あなたの方の御用と言ふと、かやうに御手紙を下さいます。これが、私には満足に思へません。全体、人に無心でも吹っ掛けようとする前には、懇切ぶりの交じはりを仕掛け、又は遣ひ物など遣って、色々追従する事が、上方の習慣であります。関東の方は、さういふその場限りの軽薄は、中々承知する処ではありません。不断親しく交際してゐる中では、金銀を遣る事は言ふまでもなく、命までその人のためには捨てかねません。
 あなた方の御心(不人情の意)では、親類仲とは申されません。私が破産して、そちらを立ってこちらに下って参ります時、旅費と申しても、わづか三十匁位の事なのに、それさへ貸して下さらず、かへつて「世間の馬鹿者。」と吹聴なさいました。出立の前夜、御暇乞ひに参りますと、私の足音を御聞きつけなされ、急いで奥の間へ逃げ込みなされ、「天満まで念仏講に行って、留守でございます。」とおかみさんが、知れてゐる空事を言って、留守を御使ひなされたのは、今に今に忘れません。
 長く住み馴れた所を去るのですから、他人ですら、別れを惜しんで下さって、できないまでも、「大坂に留まってゐるやうに。」と色々相談に乗って下さったのは、頼もしい事でありました。かういふ御方々の事は、こちらに居ても、昼夜忘れられません。近年の内に、そちらに上って参って、それぞれに御礼を申し上げるつもりで居ります。まして、あなたは従兄弟仲の事ですから、酒の小半合も買って、気持ち良く別れて下さったならば、何の恨みなど致しませう。苦しい事は、長く忘れ難いものであります。
 しかも又、十月十一日の朝、夜番の久蔵が所から、茶漬け飯の出立膳食うて旅立ちをし、「さらば、さらば。わづらはぬやうにして御行きなされ。道中も御無事に御下りなされ。」と別れの言葉を言ひも終はらず、ぴしやりと戸をさした時は、「せめて少しでも見送ってくれる位の人情は無いものか。」と不快にも又心細くなって、寒い時節に古袷一枚の旅装で旅に出ました。
 漸く町家のある所を出離れて、野原に出ると、十月の事なれば、野は一面にうら枯れて、枯れ薄は風にざわざわと音立てて居り、仕置き場のほとりを過ぐれば、髑髏の、夜露に濡れて、ぎらぎらと光ってゐるのが気味悪く思はれました。夜天狗の長九郎や鬼飯の半八や提灯消しの万兵衛などといふ奴等は皆、西国筋を荒らした巾着切りの盗賊で、この仕置場で刑せられた者であります。「今ほど浅ましい貧窮の身に落ちぶれても、盗みといふ事は決してすまい。すればたちまち、かやつ等のやうに、刑場の髑髏と成り果てるのは恐ろしい。」と思ひ、我と我が心の真面目になるのをおぼえたが、丁度その時、時雨が降り出して、今市の土手の栴檀の木も、雨宿りする木蔭には間に合はず、これを旅のつらさの始めとおぼえて、情けなかった。
 道中のかぶり笠も持たぬ身には、雨をよける物も無く、昼間、旅人を目当てに出す掛け茶屋の、日蔽ひの下に走り着いて見ると、自分より先に鉢坊主が、昨夜からここを宿にして、前後も知らず眠ってゐた。その年の頃は、八十と見ても損はない程、老けてゐる。いかに生き長らへた処で、もはや先は知れたものであるが、それでも命は惜しいと見えて、今日明日を送りかねるやうな貧窮の中に、ろくに覚えてゐない観音経を読んで、銭米を貰って、その日その日を過ごしてゐる。これにも、世間に貧富様々な区別のある事が知られ、「さても手軽な境界の人もあるもの。」と深く人生の無常が感じられたが。雨はいよいよ降りしきる。何ともしやうのない苦しさに、たちまち我が心変はって、悪心生じ、この貧法師がかぶり捨てにしてゐた筍笠を盗み、その上に手拭ひ一つまで盗み取って、足早にここを立ち退きました。
 貧乏の悲しさには、盗みさへしないものではありません。あなたは不断、念仏を唱へておいでなさる。誠に感心な事ではありますが、その念仏を唱へなさる口で、人を騙るやうな事も言ふものでございますよ。とかく、貧乏人ほど意外な心の変はる者はありません。これ程の憂き目を見て、小田原といふ宿から、いよいよ旅費を遣ひ果たして、二日間、水ばかり飲んで、やうやう江戸にたどり着きました。ところが、諺にも、「天道は人を殺さず。」と申しますやうに、私も五、六年辛抱して稼ぐ内に、二千両の金銀を貯め、只今では二十三人の口を、私一人の知恵で、ゆっくり養ふやうになりました。
 こちら(江戸)も、世間の人が世知辛くなりまして、元手の高々程にしか金儲けができません。利口な男でも、丸裸で下って来ては、金儲けはできません。たとへば、御大名衆の厩に入用な藁を売り、その穂先の綺麗な部分を生花の込みに作って売り、又、その先を花火線香の芯に拵へるやうにして、世知賢くなりまして、並大抵の事では、容易に金は儲けさせてくれません。私どもの見立てる処では、体のいい餅屋を始めるなり、又は、ここは貝殻の多い所ですから、上方から職人を連れて来て石灰を焼かせるか、この二種より外、見立つべき商売はありません。
 この位の仕事でも、相当の元手の要る事ですから、あなたにはできない事ではありますが、よくよく手元御不自由と見えて、遥々の遠方、私を頼って御手紙を下さいました。ですから、私の考へ、書面にて差し上げます。文中の通り、少しも御違背無く御稼ぎなさるならば、そちらの世帯を御畳みなされて、早くこちらに御下りなさるが良い。私が元手金は立て替へて、御暮らしのできるやうにして上げませう。
 第一に、朝は七つ時に早起きして、人手を借らずに髪を結ひ、それから草鞋がけで唐臼を踏んで米を搗き、香の物を菜にして朝夕の食事を済ませ、夜は又、細縄をなって夜なべにし、それを荒物屋に売り、雨の降る日は下駄や笠を売りに出るやうにし、体を洗ふにも、日光の当たる所に、盥に水を汲んで置いて、その生ぬるくなったので間に合はせ、「湯を沸かす事は、世の贅沢。」と心得、酒煙草は一切やめ、見物などの慰み事は、たとひ賃銭のいらない大道の手品でも、目を塞いで見ないで通るやうにし、女の顔を四、五年も見ない事にし、盆や正月の人の遊ぶ時には、灸を据ゑて身の養生を大事にして、鼻で呼吸をする程に一所懸命に働く覚悟ができるならば、大坂勤番の方の番替はりの時、御供に雇はれて、旅費に懐を痛めないやうにして、こちらに御下りなさい。待って居ります。
 この外になほ節倹の色々は、御下りの節、御目にかかって申しませう。以上。
    六月二十九日    大坂屋治郎右衛門
  豊後屋徳次郎様

  この手紙を読んで考へて見ると、江戸に下って成功してゐる従兄弟の方へ、身代の事を相談してやったもの、と見える。この中の箇条書きの通りに稼ぐならば、遥々大坂から江戸まで下って行くまでもない。大坂に居ながらでも、暮らしはできるものである。

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校訂者註
 1:底本は、「絹荷(きぬに)たび」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 2:底本は、「いとまごひして」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 3:底本は、「十一月」。訳及び『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 4:底本は、「見おくりくれぬか」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 5:底本は、「せくざんの木もしばしの宿(やど)に成がたく。」。『新日本古典文学大系77』(1989)本文及び語釈に従い改めた。
 6:底本は、「それのみ」。『新日本古典文学大系77』(1989)語釈に従い改めた。
 7:底本は、「もたも我(二字以上の繰り返し記号)の見立手のよき餅屋仕し。又は貝がらの沢山(たくさん)所なれば」。『井原西鶴集 三』(1972)本文及び語釈に従い改めた。
 8:底本は、「元入申事」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 9:底本は、「治良左衛門」。訳及び『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 :底本は、「」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。

南部の人が見たもまこと

【本文】

 西国の珍説ども御聞かせ下され、長崎の事、見るやうに存じ候。貴様、そこ元に御入りなされ候一両年の内に、我等も罷り下り、又、上方と万事変はりたる大湊、一見仕りたく候。はた又、ここ元にて風聞仕り候は、艮竜の子飼ひ御座候由。何とぞ御才覚なされ、金子五十両までならば、御求め頼み申し候。川原に見世物、事を欠き申し候。春中に大分の銭を取り申す{*1}事に候。これに限らず、角のはえ申し候猿か、足の四、五本ある唐鳥か、何ぞ変はつて生き物を望み御座候。内々御心掛け下さるべく候。
 この程は、芝居へも本見物は出申さず、客宿も中々合ひ申さず、人々に身過ぎの分別致し候。京も次第にせち賢く、近き頃より東福寺のほとりに「献立看板」といふ物を出し置き{*2}、一分から二匁まで当座飯を仕出し、御汁、干し葉に蛤のぬき身。料理、膾は見合はせ。煮物、生貝、ぜんまい。焼き物干鱈、引き手。香の物{*3}。右は五分膳。品々、道具、綺麗さ。夜舟に乗る都人、これにて支度をして、伏見の宿へ寄らず下り申し候。惣じてこんな事に罷り成り、息も鼻もさす事にはあらず、切なき命を繋ぎ申し候。
 しかれども、都にて御座候。算用の大尽出申し候。合はぬものとは知りながら、又当年も、二千両までは請け合ひ、新芝居取り立て、大坂役者も良き者抱へ込み申し候。又、一花はいづれも見申すべく候。
 さて、是非もなき浮世と存じ候は、貴様、御目掛けられし川原町の利平、この六月十九日に、相手と内談して討ち果たし申し候。存知の外なる事に、かくは成り行き申し候。
 利平事、丹波の下村より孫八郎方へ、少しの銀子を持参致し、養子に参り、五、六年も過ぎ申し候ひて、その約束なれば、孫八娘こよしとめ合はせ、万事相渡し、夫婦は寺参りを浮世の仕事に仕り、喜び申し候折節、利平、京にて紙商売も、茶屋へ売り掛け思はしからず。染木綿を仕込みて奥筋へ下り申し候が、その時分、五月雨降り続き、道中の難儀思ひやる所へ、南部より上られし商人、孫八北隣の問屋に着きて、最上川の高水の話。往来の渡し舟、浪に打ち込まれ、人馬荷物、大分に損ねたる由を語り申し候程に。
 孫八郎、これを聞きて、利平が事、心元無く、年の頃、風俗を言ひて、「もしかやうの男などは、その舟に見え渡り申さず候や{*4}。」と尋ねられしに、「それは、縦縞の帷子に、黒き一重羽織の、紋所に山形に剣菱を付けて、色白なる顔に少し釣り髭ある人ではなかつたか。」と利平に一つも違はず申せば、孫八驚き、「さて、その人も死にましたか。」と言へば、「成程、最後を申し候。四、五度も高浪に浮き沈みして、念仏の声二、三遍せしが、その内に我等の乗りし舟は、やうやうこなたへ着きて、命を拾ひました。」と小者と口を揃へて申しければ。
 孫八、歎き出し、宿に帰るに足立ちかね、男泣きに世上を憚らず。持仏堂へ御明かしを上げ、花をさし替へ、香を盛りて、鉦を打ち鳴らせば、婆の涙の片手に御団子の拵へ。近所からは、思ひも寄らぬ弔ひ。娘は狂乱の如く身もだへ、見るさへこれは悲しく、わざわざ丹波へ人を仕立て、本の親の方へ知らせ申し候へば、存知の外諦めて、「それまでの事。」と言ひ、帰り申され候。
 「去る人は日々に疎し。」と早百ケ日も過ぎて、「この儘にて置かれじ。せめて歎きのやむため。」とて、辺りの人取り持ちて、縁組の事を言ひ出せば、こよしは思ひ切り、「後夫は求めじ。」と申し候を、「この家立たねば、二親への不孝{*5}。」と無理に合点させ、利平弟の利左衛門を丹波より呼び寄せ、「兄の跡をかやうに相続する事、世間にある習ひ。」と是非祝言させて、「三国一」を謡うて仕舞ひ申し候ひて、いまだ二、三日過ぎて、利平、仕合せ良く無事立ち帰り申し候へば、いづれも呆れ果て申し候風情、何とも落ち着きかね。
 日頃別しての方に行き、この首尾、段々聞き届け、「度々書状を上せしに、一度も届かざる事、因果にて御座候。」と何となく静まり、兄弟共に、「一分立ち難し。」と思ひ込み申し候か、「その夜ひそかに同道して、高野、熊野に参詣して、山中にて二人共に討ち果たしたる。」と沙汰仕り申し候。孫八娘こよしも、宿は出て行方知れず成り申し候。
 これ程情けなき兄弟の最後は御座無く候。最前の南部商人、「まざまざと見た」も、偽りは無き由を申し候。とかく、利平前生の因果に極まり申し候。以上。
    霜月三日    京 茶屋又兵衛
  長崎にて 林金五郎様

  この文を考へ見るに、急がぬ事を取り持ちて、是非もなき祝言に、三人まで{*6}命を失ひけるは、不憫なり。

【訳】

 御手紙で以て、西国の珍しい話など御知らせ下され、遠方の長崎の事を、ここ京都に居て目撃するやうに、面白く思ひました。あなたが御滞在の一両年中に、私もそちらに下って、上方とは又、万事違ってゐる大港の町を見物したいと思ひます。
 又、こちらの噂では、そちらには艮竜の子飼ひにしたものがあるさうですが、どうか御面倒を見て下さって、金五十両までに手に入るものならば、御買ひ求め下さるやう御頼み申します。四條河原の見世物も、種が尽きました。どうかそれで、来春中に大金儲けしたいと思ひます。この艮竜に限らず、角の生えた珍しい猿か、足の四、五本もある外国産の鳥か、その外、何ぞ変はった珍しい生き物が欲しいのでございます。どうか内々、御心掛け下さい。
 近年は芝居へも、立派に金遣ふ御客は来ませんので、引き手茶屋も、中々引き合ひが立ちません。めいめいに暮らしの工面をして居ります。京都も次第に、人心が世知辛くなりまして、先だってから東福寺の辺に、献立を記した看板を掲げて、一分から二匁までで、あり合はせの料理で飯を食はせる事がはやり出しました。御汁は干し葉に蛤の抜き身。鱠は付けません。煮物は生貝にぜんまい。焼き物の干鱈を引き物にして、外に香の物つけて、これで五分。御膳その外の道具も、綺麗です。淀川の夜舟に乗らうとする京都の人は、ここで支度を済まして、伏見の宿には立ち寄らずに下って行きます。全体がこんな風に世知辛くなり、窮屈で息も詰まるやうです。苦しい生活を致して居ります。
 しかし、さすがは京でございます。算用なしに金遣ふ大尽も出まして、引き合はぬ事は知れ切ってゐるのに、又今年も二千両までの元手を引き受けて、新芝居を興行する筈で、大坂役者の良い処を抱へ込む事になって居ります。又来春は、いづれ一繁昌する事でせう。
 さて、「儘ならぬ浮世だ。」と思ひました事は、あなたが目をかけておいでなさった、川原町の利平の上でございます。利平は、この六月十九日に、相手と相談づくで果たし合ひをして、死にました。
 この利平は、丹波の下村から孫八郎方へ、少々の持参金を持って養子に参って、五、六年も過ぎましてから、かねての約束で、孫八の娘のこよしと夫婦にして、家業その外、万事譲り渡し、孫八夫婦は御寺参りを浮世の仕事にして、楽々と暮らして居りましたのに、利平は、京の紙商売も、茶屋に売り掛けになって、思ふやうに代金も取れないので、染め木綿を仕込んで奥州筋へ商ひに出かけました。丁度その時分は五月で、雨が降り続き、家では、「道中の難儀、さぞかし。」と思ひやって心配してゐる処へ。
 南部から京へ上って来られた商人が、孫八の北隣の問屋に着いて、最上川の洪水の話をして、「往来の渡し舟が波を打ち込まれて沈没し、人も馬も荷物も大分遭難した。」といふ事を語られたので、孫八郎はこれを聞いて、利平の身の上が心配になり、その年頃、衣類の様子などを話して、「もしや、かやうな男は、その舟に御見かけなさいませんでしたか。」と尋ねました。するとその商人は、「その人は、縦縞の帷子に黒の一重羽織を着て、紋所は山形に剣菱で、色は白い方で、少し釣り髭のある人ではありませんか。」と言ひました。その言ふ処が利平に一つとして違ひませんので、孫八はびっくりして、「さて、その人も死にましたか。」と聞くと、「成程、その通り、最期を見届けました。四、五度も高波の中に浮き沈みして、念仏二、三遍唱へられる声が聞こえましたが、その内に私どもは、乗った舟がこちらの岸に着いて、やっと命を拾ひ、その後の事は知りません。」と、連れた小者と異口同音に話しましたので。
 孫八は、「それではいよいよ利平は溺死した」ものと思って歎き出し、家に帰るにも足が立たず、外聞も構はず男泣きに泣いて、持仏堂に灯明を上げ、御花をさし替へ、香を盛り、鉦を叩いて拝めば、婆も涙片手に御団子を拵へ、近所からは意外の不幸の弔ひに来る。娘のこよしは気狂ひのやうになり、身もだへして泣く。見るさへ哀れに悲しい有様でございました。わざわざ丹波の郷里へ使を仕立てて、実父母の方へ利平の不幸を知らせてやりました処、実家では案外諦めが良く、「これまでの定命でございませう。」といふ返事でございました。
 「去る人は日々に疎し。」と諺に言ふやうに、早、利平が死んでから百ケ日も過ぎてしまった。「こよしを寡婦の儘にしておくわけには行くまい。せめて愁歎の思ひをやめさせるために、後夫を持たせたら良からう。」と周囲の人達が相談して、再縁の事を言ひ出して見ると、こよしは、「私はもう断念して居ります。再びの夫は持ちません。」と言ふのを、「それでは家が立ち行かないから、両親に対して不孝となるぞ。」と強いて勧めて承知させ、利平が弟の利左衛門を丹波から呼び寄せて、「兄の亡くなった後に、寡婦と結婚して、亡き兄の跡を相続する事は、世間によくある風習だから。」と無理に結婚の式を挙げさせ、「三国一の婿取り済ました……」とめでたく謡うて事を済ませてから。
 まだやっと二、三日過ぎたばかりの処に、死んだと思った利平が、幸運にも無事に帰って来たので、一同びっくりして、呆れ果てた様子を、利平は見て何とも合点行きかね、かねて別懇に致してゐた人の所に行って、これまでの事情をよくよく聞き糺して、「旅から度々手紙を上せてやったのに、一度も届かなかったのが、事の行き違ひの原因であるが、これ全く、我が運命と思ふ外はない。」と考へて、何と無しに心も静まりましたが、兄弟とも、「かく成っては、人間の義理が立ち難い。」と思ひ込みましたものか、「その晩、ひそかに二人同道して、紀州高野と熊野に参詣して、山中で二人、互に果たし合って死んだ。」といふ噂でありました。孫八の娘こよしも、それから家出して、行方知れず成ってしまひました。これ程情けない兄弟の最期といふものはありません。
 前にも申した、「南部商人の『まざまざと見た。』といふ話にも、偽りはない。」と申します。とにもかくにも、利平が前生からの因果に相違ありません。以上。
    十一月三日    京都 茶屋又兵衛
  長崎にて 林金五郎様

  この文の意味を考へて見ると、急いでするにも及ばない、寡婦に後夫を持たせる世話を、周囲の人達がして、本人の進まない結婚を強ひてさせたばかりに、あたら三人の命を失ふ事になった、と見えるが、これは可哀さうな事である。

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校訂者註
 1:底本は、「取候事に候。」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 2:底本は、「出し候。」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 3:底本は、「かう物」。『新日本古典文学大系77』(1989)語釈に従い改めた。
 4:底本は、「申さずや」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 5:底本は、「不幸(ふかう)」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 6:底本は、「三人までの命」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。

代筆は浮世の闇

【本文】

 帰雁、越路の春を慕ひ、代筆の文、ことづて申し候。
 御出家は、妙心寺の末寺に久しく御勤めあそばし、語れば、昔の女房に筋目ある御方。今又、重縁と存じ、後世の事ども導かれ、有り難く存じ候。御生国、越後の村上まで、この度、御通り成され候に付き、幸ひに申し入れ候。暮に及び申し候はば、草庵に御一宿あそばし候やうに申され、法義を御聞きなされ、いよいよ浮世の覚悟あるべき御事に候。
 誠に、兄弟と生まれ、行く末変はらず、互に親しみ深くするは、人の常にて御座候を、女の言ひ成しにて、外に無き弟を都にさへ置かずして、思ひがけなき道心起こさせ、年月の難儀、さぞさぞと悲しく存じ候。さりながら、今ではその身の仕合せ。誰か一人もとどまるこの世にはあらず。しかも、二親の菩提の種とも成り{*1}、殊勝千万に存じ候。惣じて女心の由無く、人の身の事申せし我が連れ合ひも、限りありて、四、五年あとに相果て申し候へば、これにも必ず恨みは晴らし給へ。
 これにつき、今までは隠し申し候へども、ついでながら申し通じ候。我が身の困果、歴然。さりとては恐ろしく候。
 昔の住宅、三條に、酒商売の外に紙店出し候に、次第に仕合せ良く、渡世もゆるりと送り、よろづ、願ひの儘なる折節、心掛かりは軒下の低き居宅。元和年中の普請なれば、一つとして気に入らず。「近年の内に、何ぞ銀儲け致さば、思ひの儘に建て直し、衣食住の三つに楽しみ極めん。」と存じ候処へ、大名の買ひ物使らしき侍の、挟箱持ち一人召し連れ、中奉書要る由にて、三百枚売り渡し、代銀請け取り、その人帰られさまに、一つ二つ狂言芝居の物語仕り申し候が{*2}、財布を取り残して行かれし。後にて引つ提げて見れば、しつとりと重きより、我、あさましき欲心起こりて、かの袋を深く隠して、さらぬ体に罷り有り候処へ。
 くだんの侍、足早に戻り、「最前、ここに金袋忘れ行く。それをたもれ。」と言ふ。「何もござりませぬ。」と争ふ。この侍、歯を喰ひしめ、「さりとては、この所に置き忘れしには疑ひ無し。則ち、その中に小判百八十三両、一歩が二十四、五、銀が六十目余り入れ置き候。これは、私の金銀にあらず。主命なれば、この粗忽、武士の一分立ち難し。是非に給はれ。この恩{*3}は忘れじ。」と二腰差す人の、町人に手を下げて様々詫びられしに、心強く隠し済まし、かへつて言ひ掛けのやうに申し成し候へば、せん方無く立ち帰り、一時ばかりも過ぎて又、かの侍、烏を一羽、生きながら持ち来り、「その方、隠すに於いては、行く末を見よ。」と言ひさまに、この烏の両目を脇差にて掘り出し、それがしに投げつけて帰り申し候を、世間の取り沙汰悪しきも構はず、その通りに済ましけるが、四、五日も過ぎて、その侍は、黒谷の奥にて、我と切腹して相果て申し候。
 これを伝へて、世上の人も何となく付き合ひ絶えて、あるにもあられず、家屋敷を売り払ひ、嵯峨の里人を頼み、景気良き所に庵を構へ、「せめては念仏申し、我が心の恐ろしきをひるがへさん。」と髪を下ろし、衣を懸け、身を懲らしめの山住まひ。「子のない事は、かかる時の喜び。」と、いよいよ仏の道に入り日の岡も程近く、或る時、夜に入りて、「我々、洛中の野等者{*4}。」と名乗りかけて、ここを知る事、不思議や。思ひ思ひに家探しして、一生の貯へ、残さず盗られて、今日を暮らすべき頼りも御座無く候へば、やうやう鉦を叩き申し、袖に握り米を集めて、命を繋ぎ申し候。
 これは、世に住む甲斐も無く、「とかく身を果たして、後の世を助からん。」と思ひ定め、或る夜、広沢の池に行きて、西の方の岸に立ちて、水底の深き所、「最後のため{*5}。」と見合はせ申し候時、いつぞやの侍、顕はれ出、松蔭より我に取り付き、「憎しや。おのれ、この世を逃れたき所存、思ひも寄らず。この一念の通ふ内は、眼前に恥をさらさせん。」と胸苦しき程絞め付けられ、又草庵に立ち帰り、只呆然と夢の如く、それより三日過ぎて、曙に、「舌食ひ切つて死なん。」と起き上がれば、かの侍、幻に見えて、我が頭をきびしく押さへ、「幾度にても、汝に自害はさせじ。我、執心の鬼と成つて、迎ひに来る火の車を待て。」と言ふ声、身にこたへ、骨も砕くるばかり悲しく。
 その後、色々一命捨てて見しに、我が命の我が儘に死なれざる因果、聞き伝へたるためしも無く、せまじき悪心、今歎きても返らず。瞋恚を燃やし、生きながらの冥途。「しからば餓鬼道の苦患。」と食物断つに、猶無事なり。
 この事、会ふ人毎に懺悔して、涙も血に染めし時、暮方の留まり烏、声淋しく聞こえしが、たちまち我が宿に飛び入ると見しが、両眼つづる間も無く、世界は闇と成つて、常に眺めし嵐の山桜の白いも、高雄の斑紅葉{*6}赤いも、月も雪も見る事絶えて、されども耳は昔にして、小倉山の鹿の声、清滝の岩浪、栂の尾の{*7}松風を聞くより外なく、今は都の友とせし人も、道替へて尋ねもせず。朝夕の煙も、柴木求むる便り無く、里童べの、山帰りに様々可笑しき小歌歌ひて、折々のなり物を貰ひ請けて、手の届くさざれ水に咽をうるほし、今日までは暮らしけるが、明日の身の程を弁へ難し。
 この御法師様ばかり、過ぎにし市中に紛れし時より、今に御見捨てあそばされずして、我が因果の道理、御聞かせあそばし、有り難く存じ候。兄弟のよしみには、相果てし後、必ず必ず一遍の念仏、頼み申し候。
 思へば、筋なき人の銀を隠し、人の命を取り申し候事{*8}、今後悔、身におぼえ申し候。さりとはさりとは死にかねて、是非も無き世に住み申し候。以上。
    三月晦日    嵯峨野 自心
  越前府中 浄行坊 参る

  この文を考へ見るに、道を背きし銀袋を盗み、人の命を失ひ、その因果、目前に報い、出家せし弟の方へ、浮世の恥を顕はし、便りに人頼みして書き送る、と見えたり。

【訳】

 雁が北の方越前の方角に、その故郷の春を慕って帰り行く頃になりましたが、私も同じやうに、お前が恋しさに、遥々代筆の手紙を幸便にことづてて上げる。
 この手紙をことづかって下さる坊様は、妙心寺の末寺に久しく御修行なされる方であるが、御話して見ると、以前の我が妻とは御縁続きの御方であります。今、かく御懇親を願ふやうになったので、重縁の仲と存じ、後世の事について、色々御教へを受けて、有り難く存じ上げてゐます。この度、郷里越後の国村上までおいでになるにつけて、御地を御通りなされるので、幸ひの好便と存じ、この手紙を以て申します。もし御立ち寄りの時刻が日暮頃にもなったら、御前の草庵に御一宿下さるやうに御勧め申して、仏教の旨を色々承りなされ、浮世の覚悟をなされ、後世の幸せを御願ひなされるが良い。
 誠に、考へて見れば、人間、兄弟となってこの世に生まれては、老後まで変はらず、互に親しみを深くして行くのが人情といふものであるのに、私は、女房の口に乗せられて、たった一人の兄弟のお前を疎んじて、この京都にさへ置かず、勘当してしまひ、そのために、お前に思ひがけもない出家の心を起こさせ、長の年月、様々の苦労をさせた事と、今更悲しう思ひます。
 しかし又、よく考へれば、今になっては、お前が出家になったのも、畢竟、お前の身の幸福であったと思はれる。この現世といふものは、誰とても永久に留まる事はできないものです。しかも、子が出家を遂げるのは、両親の極楽に行かれる種ともなるものですから、お前の出家は、大層結構な事と思ひます。全体、女心といふものは、浅はかなもので、お前の事を悪しざまに申した私の女房も、定命限りあって、四、五年前に死んでしまったから、もう決してこの女も恨んでは下さるなよ。
 これについて、これまでは秘密にしてゐましたが、このついでに打ち明けてしまひます。私の身の上を考へると、因果の道理がはっきりと見えて、誠に恐ろしい事です。
 昔の住宅は三條にあって、酒商売の片手に紙屋をしてゐたが、次第に運が良く、暮らし向きもゆっくりとして、万事、心の儘になった時分、只一つ残念な事は、家の軒下が低くて、元和年中の普請の事だから、一つとして気に入るところもないので、「近年中に、何がな金儲けしたいものだ。さうしたら、思ひの儘に住宅を建て直して、人間の大事な衣食住の三つを心の儘にして、楽しくこの世を送りたい。」と思ってゐたところに。
 或る日、大名屋敷の買ひ物の御使とも思はれる武士が、挟箱持ちの下人一人召し連れて、店先に来て、「中奉書を求めたい。」と言はれたので、三百枚売り渡し、その代銀を受け取った上で、帰りしなに一言二言、狂言芝居の噂を致したが、武士は、財布を店に置き忘れて帰って行かれた。その後で、この財布を手に取って、提げて見ると、しっとりとして重いので、自分は、ふと悪心を起こし、この財布をば奥深く隠して、そ知らぬ風して居る処に。
 先刻の武士が足早に戻って来て、「最前、ここに財布を忘れて行った。それを渡してくれ。」と言はれた。「そんな物は、何もございません。」と言ひ張ると、この武士、歯噛みをして、「ここに置き忘れた事は、決して疑ひはない。その証拠には、中の金銀も、よく覚えてゐる。小判が百八十三両、一歩金が二十四、五枚、その上に銀が六十匁ばかり入れてある。この金銀は、自分の金銀ではない。主人の御使に出て、かかる粗忽を致した事なれば、この金銀をなくした儘では、武士の一分が立たぬ。是非出してくれ。さうしたら、この恩は一生、身に着て忘れは致すまい。」と大小差す武士が、町人の自分の前に手をついて、様々に詫び言言はれたが、心強くも隠し通し、かへつて自分に言ひ掛かりをされるやうに言ひ返してやった処。
 仕方なさに帰って行かれたが、一時ばかりも経ってから、かの武士は、烏を一羽、生きながら持って来て、「その方、どうしても財布を隠して出さないならば、後日、思ひ知れ。」と言って、烏の両眼を脇差でほじくり出して、それを自分に投げつけて、帰って行ってしまはれた。この事を世間で噂して、悪く言ったが、それも構はず、そのままにさしおいたが、四、五日も過ぎてから、その武士は黒谷の奥で、我と我が手に腹を切って、果ててしまはれた。
 世上にこの噂を伝へて、世間の人達との交際も自然と絶え、そこにも居づらくなって、家屋敷を売り払って引き払ひ、嵯峨の里の人を頼み、景色の良い所に庵を造って引き籠り、「せめての罪滅ぼしに、念仏を唱へて、恐ろしい我が悪心を改めよう。」と思ひ、髪を剃り、法衣を身につけ、「我と我が身を苦しめ、修行しよう。」と思って、山住まひの身となった。「子供のないのが、かういふ時の幸ひ。」と思って、いよいよ仏道に入り、「悟りを開くのも、遠くはあるまい。」と思ってゐた。
 ところが、或る晩、「自分らは京都の野盗である。」と名乗って、どうして金銀の貯へのある事を知ったのか、不思議にも思ひ思ひに家中を探して、一生の生活費として貯へ置いた金銀を、残らず奪ってしまって、たちまちその日を暮らしかねるやうな身の上になったので、鉦を叩いて托鉢し、袖にわづかの掌の内の米を貰ひ集めて、命を繋いでゐる。
 この貧乏では、生きてゐる甲斐もないので、「どうせ一命は捨てて、後世に極楽に行ったが良い。」と決心して、或る夜、広沢の池に行って、西の方の岸に立って、「水の深い所が、身を投げるに都合が良い。」と思って、「あそこか。ここか。」と探してゐる時、いつかの武士の姿が顕はれ、松の木蔭から我が身に取り付き、「憎い奴だ。貴様は、この世の苦しみから逃れようと思っても、それは思ひも寄らない事だ。我がこの恨みの一念が、あの世からこの世に通ふ限り、多くの人々の前に貴様の恥をさらしてやらう。」と胸ぐらを苦しい程に絞め付けた。
 そこで、詮方なく又、元の草庵に立ち帰って、呆然として、夢でも見てゐるやうに三日を過ごした。翌朝早く、「今度は、舌食ひ切って死なう。」と思って寝床から起き上がると、又、かの武士が幻に見えて、自分の頭をきびしく押さへつけて、「幾度死なうとしても、自殺はさせない。我が執念が鬼になって、お前を冥途から火の車を以て迎へに来るのを待ってゐろ。」といふ声が身にこたへて、骨も砕くるばかりに悲しく思った。
 その後、色々に一命捨てる工夫をして見たが、いつも駄目で、我が命ながら、我が思ふ儘には死なれない。かうした我が身の因果は、世間に聞き伝へた先例もない。「すまじきものは悪事である。」と今更歎いて見ても、その甲斐は無い。憤りを起こし、生きながら地獄に堕ちた心持ちになり、「この上は、餓鬼に堕ちた苦難を身に受けよう。」と食物を断って見たが、やはり死ねない。
 この事をば、会ふ人毎に懺悔して、血の涙を流すやうになった時、夕暮のねぐらに急ぐ烏の、声も寂しく聞こえてゐたが、突然、我が庵に飛び入って来ると見たが、我が両眼を閉づる間もなく、世界は闇に化してしまった。不断、馴れて眺めてゐた嵐山の桜の花の白いのも、高雄の斑紅葉の赤いのも、月も雪も全て、美しい景色を見る事もできぬ盲目となってしまった。しかし、耳は以前の通りに聞こえて、小倉山に鳴く鹿の声、清瀧川の岩に砕くる波の音、栂の尾山の松風の響きを聞くばかりになった。
 今は、都で友とし交じはった人達も、道を変へて訪ねてくれる事もなく、朝夕の煙を立てようにも、薪を得る便りがなく、この土地の子供等が山の仕事帰りに立ち寄るので、色々な面白い小唄を歌って聞かせて、その代はりに、季節季節の果物を貰って食べ、手の届く小川の水を汲んでは、それで咽を潤し、今日まではやっと命を繋いで来たが、明日の命もわからない。
 この御出家様ばかりは、以前、京の町に住んでゐた頃から、今日まで続いて御見捨てなく、御懇意にして下さって、因果の道理を聞かせて下さるので、有り難く存じてゐる。お前は、兄弟の仲だから、わしが死んだ後は、必ず必ず一遍の念仏を唱へてくれ。頼みます。
 思へば、道に背いて他人の金銀を盗み隠し、そのためにその人に命を捨てさせた事が、今になって後悔され、我が身にひしひしとおぼえます。さてもさても、死なうとしても死なれず、仕方なく生き長らへて居ります。以上。
    三月三十日    嵯峨野 自心
  越前府中 浄行坊様

  この手紙の文面を見て考へると、道理に背いて他人の銀袋を盗んだ上に、そのために盗まれた人に命を捨てさせた。この悪事の応報が、すぐに現世に於いて顕はれた事を、僧侶になってゐる弟の元へ、この世の恥を顕はに懺悔して、「幸便に託しよう。」と他人に頼んで書いて貰った手紙と見える。

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校訂者註
 1:底本は、「種(たね)とも。殊勝(しゆしよう)」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 2:底本は、「仕候が。」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 3:底本は、「御恩(おん)」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 4:底本は、「野等(もの)」。『新日本古典文学大系77』(1989)本文及び語釈に従い改めた。
 5:底本は、「最後(さいご)ため」。底本語釈及び『新日本古典文学大系77』(1989)語釈に従い改めた。
 6:底本は、「高尾(たかを)の紅葉(もみぢ)」。『新日本古典文学大系77』(1989)本文及び語釈に従い改めた。
 7:底本は、「栂(とが)の尾(を)松風」。『井原西鶴集 三』(1972)に従い改めた。
 8:底本は、「取申事」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。

開けて驚く書き置き箱

【本文】

 生死弁へたる人さへ、この別れは取り乱し給へば、まして愚かなる我々。「歎き申し候も理か。」と存じ候。
 兄甚六郎儀、先月二十九日、相果て申し候。即ち戒名「春雪道泉」と申し候。そこ元にても、御弔ひあそばさるべく候。最後の時分まで、貴様の御事申し出し、「この甚太夫、ここ元に居申され候ものならば、内証の談合相手に成り申し候人を、遠国松前までの旅商ひ。一門皆々、不甲斐なき仕方。」とくれぐれこれを悔み申され候。
 はた又甚六郎、臨終確かに自筆に書き置き致され、年寄、五人組の加判頼み、「一七日過ぎて内蔵を開き、親類中立ち合ひ、これを改め、それぞれに相渡し申せ。」との遺言。則ち目録の通り書き記し、貴様へもこの飛脚に所務分け送り申し候。確かに御請け取り下さるべく候。
 まづ、住宅に諸道具その儘、銀三百五十貫目、惣領の甚太郎。同町十一間口の家屋敷に銀二百貫目、二男の甚次郎。さて、泉州の新田、銀三十貫目、姉妙三。銀五十貫目、弟甚太兵衛。銀二十貫目、貴様へ。銀五貫目は、手代の九郎兵衛。この外、諸親類、下々、寺々まで残らず書き付け致し、「残る所もなき身の取り置き。」と、いづれも感じ申され候。
 時に、後家の事は、書き置きには何とも見えず。別紙一枚あり。「常々、両人の倅に、当たりよろしからねば、長持万事、随分損ねぬやうに、親元へ送るべし。いまだ若き者なれば、重ねて縁付のためなり。右に敷銀なければ、この度返すに別條無し。三十五日より内に返せ。」との言ひ置き。この段は、甚太郎、大人しく申し出候。「この度、親と名の付き申し候御事なれば、こればかりは御遺言を背き、この屋敷に御隠居を拵へ、御寺参り銀二十貫目進じ申したき。」との所存。いづれも涙をこぼし、「若年の人の、さりとては{*1}優しき申し分。」と各々、肝に銘じ、「これは後家御も満足なる事。」と町中、申され候に。
 少しも嬉しき顔つき無く、荒和布刻みさして、薄刃でまな板を叩きながら、「我が身は女の事なれば、どう片付いても苦しからず。死人の言ひ置きの、帰るが望み。その二十貫目の銀子も、申し請くる事、嫌なり。欲がましき言ひ事なれども、この五七年、我等の親里より幾度か銀金を取り寄せ、自分の用どもを調へたれば、せめてその代はりに、少しは心付け、あらばあれ。とかく今晩、親の方へ帰る。かく申せばとて、微塵も不義縁付の望み無し。身の収めやうを後に見給へ。」と言ひもあへず、小袖脱ぎ替へ、常は乗り物の送り迎ひも、この中なれば、歩み出られしを、「これは短し。」ととむる人あれば{*2}、一門の内にも、帰したがる人もあり。善悪、人間心々、歎きの中に声立てて、後家は帰られける後にて。
 年がましき人、了簡あそばし、「尤も、死人の不足あればこそ、片手落ち{*3}なる書き置きなれ。少しの所務分けしてから、世間に聞いて笑はぬ事。」と相談にて、銀五貫目、手近なる戸棚にあり合はすを幸ひに、諸道具付けて親里へ帰し申し、その後、蔵を開き、各々立ち合ひ、吟味致されしに、一円、銀箱のあり所知れず。「これは不思議。」と隅々まで改め申し候へば、昔長櫃の底より手形箱一つ取り出し、これを開けて見るに、銘々に付け札あつて、大分銀子皆、大名貸しの手形譲り渡され、当分の用には立たず、手に取るまでは確かならず。皆々、驚き入り申し候。
 手前にある銀は、後家へ遣はし申し候五貫目ばかりにて御座候。早、甚太郎、小遣ひ銀も無く、迷惑ながら私方より少しづつ取り替へ、まづ只今はその通りに御座候へども、大勢の者ども、酒作る元手なければ、埒のあかぬ事に存じ、さてさて思案に落ち着き申さず候。我が物大分ありながら、皆々貸し申され、紙に書きたる物、今といふ役には立たず。子どもの難儀仕り申し候やうに、兄者人、不覚悟致し置かれ候。貴様へまづ遺言任せ、銀五十貫目の手形、御町衆の指図によつて、わざと持たせ遣はし申し候{*4}。
 甚六郎事、かねて御存知の通り、少しも浮いたる事は致さぬ人にて御座候が、京の銀貸しども、大分限に{*5}罷り成り候を羨ましがり、あたら銀を捨てられし同然に御座候。右の外、芝居の銀親を{*6}せられ、三十貫目の手形見え申し候が、これは主も、「物にならぬ。」と思はれ候や、誰にも譲り置き申されず候。いづれ人の身代は、死なねば知れぬ{*7}ものに御座候。これ程、手前に銀子あるまじき事とは、ゆめゆめ存ぜず候。我々が親道斎、申し置かれしは、「町人、家質の外、金銀貸し申す事、無用。その上、有り銀三ケ一、出し申すべし。皆々は、確かなる事にも貸さぬもの。」とくれぐれ言ひ渡されしに、我が物、時の用に立たざる事にて、道斎の御事、思ひ出し候。
 さりとは世の移り変はる事、悲しき中にも、物笑ひ様々に見え申し候。甚六郎後家、いまだ百ケ日にも立ち申さぬ内に、早、近々に縁付の男を極めて送るの由。世の習ひとは申しながら、せめて、むかはりは待ちても、人の笑はぬ事に御座候。それも又、下々の共過ぎ女は、今日を暮らし難く、義理欠き申すも是非無く候。
 「この女房は憎し、憎し。」と存じ候折節、最前、荷物返し申し候時分、誰か、つどつどに穿鑿仕り候人も御座無く、道具蔵片隅に雑長持、一つ取り残し置き申し候を、事過ぎて取りに遣はし申し候を、私に申し来り候程に、「さやうの、暫しも預かり申し候事、うるさし。早くその使に相渡せ。」と申し付け候へば、下女ども二、三人、蔵に入りて取り出しけるに、中々動きもせず。その後、男ども手をかけても、少しもにじらず。錠前は念を入れ、しかも封印あれば、開け申す事も成り難く、これに難儀して、「雑長持には箴子、絹張などの入る物なるに、これは、石臼の二十も入りけるか。」と詮議する所へ行きて、この長持を見るに、蓋に小さき穴をあけしを、不思議なれば、子細なく錠前引き放ちて見申し候へば、「年々、みだけ銭を日夜に入れ置く。」と見え申し候。
 「さりとては、この女の欲心。男の養ひを請けながら、末の身構へして、これ程までは盗み溜め、自然と顕はれ申し候は、天理を背きたる故か。」と存じ候。大方目積もりにして、八百貫ばかりと見え申し候。{*8}かやうに甚六郎、鷹揚なる故に、万事勝手悪しく罷り成り候。この女房、かねがね別れを覚悟したる心中、むごし。世上にかやうの女心も、あまたありさうなるものにて御座候。これを思へば、夫妻の語らひ成しても、油断ならぬ世の中に罷り成り候。
 かの長持を取りに参り候程に、「嫁入の時分、二人してこれへ送れば、又二人して持ち帰る達者男を遣はし候へ。」と申せば、恥ぢてや、今に取りに参らず候。
 年内に御上り待ち申し候。万々語り申したく候。この御報、相待ち申し候。
    卯月二十二日    大津 甚太兵衛
  津崎甚太夫様 人々御中

  この文を考へ見るに、大名貸しの手形を所務分けしたるを、同じ貰ひ物ならば、当銀と思ふ心と、女房、常々の欲心顕はるる事と見えたり。

【訳】

 死の一大事について悟りを開いてゐる人でも、人間の死別には、心を取り乱して悲しむものでございますから、いはんや、愚かにして悟りを得ない凡夫の我々が、死別について歎きますのも、道理ある事かと存じます。
 兄甚六郎、先月二十九日に亡くなりました。即ち、戒名は「春雪道泉」と申します。そちらでも御弔ひ下さい。最期の時まであなたの事を口にして、「この甚太夫がこちらに居たら、家事向きの相談相手になるべき人だのに。遠い松前までも旅商ひに行かせるのは、一門中の不甲斐ない仕業だ。」と言って、くれぐれこの事を悔まれました。
 はたまた甚六郎は、臨終まで精神は確かで、生前に自筆で遺書を認められ、町年寄や五人組の人達に連判を頼んで残しておかれ、それを、「一七日が過ぎてから内蔵を開き、親類中立ち会ひの上、開き見て、指図通り、それぞれに相渡すやうに。」との遺言でありました。そこで、目録の通り書き記し、あなたにもこの飛脚で、遺産分けを送って上げます。確かに御請け取り下さい。
 さて、その遺産の処分は、まづ住宅に諸道具その儘付けて、銀三百五十貫、惣領息子の甚太郎へ譲る。同じ町内の十一間間口の家屋敷に銀二百貫目付けて、それは次男甚次郎に譲る。さて又、和泉にある新田に銀三十貫目付けて、姉の妙三へ進ずる。銀五十貫目は、弟の甚太兵衛に遣はす。銀二十貫目はあなたへ遣はされる。銀五貫目は手代の九郎兵衛へ。この外、諸親類や下々の雇ひ人ども、又、寺々へまでも、一々残らず形見を贈るとの書き付けでありました。「誠に、残るところなき、行き届いた死後の処分。」と人々、感心されました。
 時に又、未亡人の事については、一言も遺書に見えて居りませんで、別紙が一枚添へてありました。それには、「この人は常々、二人の息子に辛く当たってゐたので、我が亡き後は、長持その他全て、随分気を付けて損じないやうにして、道具共々、実家へ返すが良い。まだ年も若いから、再びの縁に付かせるためだ。持参金もないから、実家に帰すに、別に心配すべき事はない。三十五日以内に返せ。」といふ遺言が記してありました。この件について、甚太郎が大人しく、「いやしくも親と名の付く人の事なれば、こればかりは御遺言に背いても、この屋敷内に御隠居所を造り、御寺参りの御賽銭として、銀二十貫目を差し上げたい。」と申し出ました。一同、涙を流して感心し、「御若い人の、さても優しい御言葉。」と各々肝に銘じて、「これは後家殿にも、御満足なさる事でせう。」と町内の衆が言はれましたところ。
 少しも嬉しい顔つきもなさらず、あらめを刻んで居られる手を止めて、薄刃でまな板を叩きながら、「私は女の事ですから、どう片付いても致し方はない。仏の遺言通り、実家に帰るのが望みでございます。その二十貫目の銀も、頂くのは嫌でございます。欲がましい言ひ分ではございますけれど、この五年七年の間、私の実家から幾度か金銀を取り寄せて、自分の用はそれで調へましたから、せめてその代はりとして、少し位は御心付け下さるならば、して下され。とにかく私は、今晩の内に実家に帰ります。かく申せばとて、いささかでも不義な縁付きしよう望みはございません。今後の身の持ちやうを御覧下さい。」と言ひもあへず、小袖を脱ぎ替へ、不断は乗り物で送り迎へをしたが、この取り込みの際であるから、歩いて出て行かれたのを。
 「これは、余り短気。」と言って止める人もあれば、又、一門の中に、帰したがる人もあり、善と悪と、人間の心は違ふものかな。かかる歎きの中に、この未亡人は大声立てて帰って行かれました。その後で、年長らしい人が考へて言ふには、「仏に不足があればこそ、偏頗と思はれる遺言もなされたのではあらうが、少し位の形見分けはしたとて、世間に聞こえても、笑ひはせぬ。」と相談して、銀五貫目、手近の戸棚にあり合はせたのを幸ひ、それに諸道具を付けて実家へ帰しました。
 その後、蔵を開いて、皆で立ち会って吟味しましたが、すっかり銀箱のあり所が知れません。「これは不思議な事だ。」と蔵の隅々まで細かに詮議して見ますと、古風な長櫃の底から、手形入れの箱が一つ見つかりましたので、それを取り出し、内を調べて見ると、一々、札が付けてあって、「大名貸しの大金の証文を、それぞれに形見分けとして、人々に譲渡されたものだ。」といふ事が分かりました。証文では即座の用には立たず、現銀を手にするまでは、手に入るものやらどうやらわかりませんので、みんなびっくりしました。手元にある現金といっては、未亡人に遣った五貫目のみでございました。
 早速、甚太郎は、「小遣ひ銀にも困る。」と言ふので、迷惑ながらも私の手元から少しづつ貸して遣り、まづ只今のところは、それでやってゐますが、大勢の雇ひ人どもは、酒を造らうにも元手がないので、しやうが無く、何とも工面のしやうもありません。我が財産としては沢山ありながら、悉く貸し付けてしまはれ、紙に書いた証文では、今といって役には立たず、子供等の難儀致すやうにされたのは、兄貴の不覚でございます。
 あなたへはまづ、遺言の通りに銀五十貫目の証文をば、町内の方々の指図によって、わざわざ持たせて差し上げます。
 甚六郎は御存じの通り、これまで少しも投機などはしない人でございますが、京の銀貸し商売の人達が、銀の貸し付けで大金持ちになってゐるのを見て羨ましがり、大名貸しをして、あたら大金を捨てられたも同様の結果になりました。右の大名貸しの外に、芝居の資本主をされた時の、三十貫目の証文がございますが、これは自身にも、「到底返る見込みはない。」と考へられたか、誰にも譲られて居りません。結局、人の身代といふものは、その人が死んで見ないとわからないものでございます。これ程に手元に現金がなからうとは、夢にも考へませんでした。
 我々の父親道斎の言っておかれた言葉に、「町人といふ者は、家屋敷担保の外の貸し金は、してはいけない。その上に、手元の現金の三分の一まで貸すやうにするが良い。悉皆貸す事は、どんな確かな條件でも、よすが良い。」とくれぐれも申し聞けられたが、今、我が物ではありながら、即座の役に立たないので、道斎の御事を思ひ出しました。
 さても、世の栄枯盛衰の変はり易い事の悲しさよ。かかる悲しみの中にも又、可笑しい事も様々あるものでございます。甚六郎の未亡人は、まだ亡き夫の百日も経たぬ内に、早、近々に再縁先を決めて、嫁入りさせる由。再縁は世間の常とは言ひながら、せめて一周忌位は待っても、人の笑ふ事はございません。それも又、下々の共稼ぎの女ならば、すぐその日から糊口にも困るのであるから、義理を欠いて、すぐに再縁するのも余儀ない事でございます。
 「この女め、憎い奴だ。」と思ってゐる折柄、先だってその荷物を実家へ送り返した時は、誰も一々詳しく調べて渡した人もなかったので、道具蔵の片隅の所に雑長持のあったのを取り落としたのを、大分経ってから、「取りに使を寄越した。」と言ふので、私方に知らせ来ましたから、「そんな物は、暫くも預かっておく事は面倒だ。早くその使に渡してやれ。」と言ひ付けますと、下女どもが二、三人、蔵の中に入って運び出さうとしても、中々動くどころではない。その後で、男どもが手を懸けて持ち出さうとしたが、ずらす事もできない。錠前は念を入れてしてあり、その上、封印まで付けてあるので、開ける事もできない。
 これには困却して、「雑長持といふ物は、伸子や絹張などの入れ物であるのに、これは石臼の二十も入れたのか。どうしてこのやうに重いだらう。」と言って相談してゐる所に、私が行き合はせて、この長持を見ると、蓋に小さい穴があけてあるのを見つけました。いかにも不思議な事であるから、文句なく錠前を引つ外して、中を調べて見ますと、「年々、乱れ銭を、この穴から日夜の分かちも無く投げ入れておかれた。」と見えて、おびただしい銭が入ってゐました。「さては、この女めの欲心からの仕業と見えた。亭主から食はせて貰ってゐながら、その亡き後の身の振り方を考へて、これ程までに銭を盗み溜めたのに相違ない。これが自然と露見したのは、道に違った行ひをした天罰だ。」と存じられます。大方、目分量をして見ますと、八百貫文ばかりあるかと見えます。
 甚六郎は、我が妻に、かういふ悪事をされて、いつまでも知らずにゐた程に、万事鷹揚な人でしたから、うちの商売も暮らしも立ち行かなくなってしまひました。又、この女がかねてから、亭主死後の事まで考へて、自分が困らないやうにしておいた心底は、余りに不人情と思はれます。世間には、かやうな不人情な女心は、この女に限らず、いくらもありさうなものでございます。これを考へますと、夫婦の語らひをしてゐる仲でも、油断のできない世の中になりました。
 先方から使を以て、かの長持ちを取りに来ましたから、「嫁入りの際には、二人の男がこれを担いで来たから、今度も二人で持ち帰れるやうな、体の達者な男があったら御遣はしなされ。」と言ってやりますと、さすがに先方の女も恥じたものやら、今に長持取りには参りません。
 今年の内に、こちらにおいで下さいますやうに、御待ち申し上げます。色々と御話したう存じます。この御返事下さいませ。御待ち申し上げます。
    四月二十二日    大津 甚太兵衛
  津崎甚太夫様 人々御中

  この手紙の文面をよく考へて見ると、大名貸しに大金を貸し付けたその証文を、遺産として人々に分配したのを、受けた人々が、同じ貰ふ物なら現金で欲しいと思ふ心と、又、亡くなった人の妻が、常々、欲から不都合な事をしておいたのが、この際露見した事とが見えてゐる。

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校訂者註
 1:底本は、「さうとては」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 2:底本は、「あらば。」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 3:底本は、「片手(かたて)うち」。底本語釈及び『新日本古典文学大系77』(1989)語釈に従い改めた。
 4:底本は、「銀五十目の手形。お町衆のさしづによつて態(わざと)もたせ遣(つか)へはし申候。」。『新日本古典文学大系77』(1989)本文及び語釈に従い改めた。
 5:底本は、「大分限罷成候」。『井原西鶴集 三』(1972)本文及び語釈に従い改めた。
 6:底本は、「銀親(かねおや)せられ」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 7:底本は、「死ねばなれぬ」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 8:底本、ここ「かやうに甚六郎」から「油断ならぬ世の中に罷り成り候。」までの本文を欠く。欠文は『西鶴文集』(1914)に拠った。

京都の花嫌ひ

【本文】

 我、花に飽きて、春中は都を立ち退けば、人は又、東山の桜幕に、歌唄ひ、三絃を弾けるを、それ聞きにばかり上るの由。便りを求めて、まづ無事を知らせ候。貴坊御事は、常々、赤弁慶とある名を呼ばざるは、道心堅固の御身、めでたく存じ候。
 さて、愚僧が草庵、定めて鼠の会所と成るべし。さりながら、小鰯一つ残し置かず。貧僧、笑ひ申すべく候。籬の菊、萩、己に咲きて、やがての霜夜、見苦しく成り行くを、誰か名残を惜しむ人あらじ。鍵預け置き候御不祥には、妻戸御開けなされ、もし山帰りの少人、主は居ずとも見せたく候。北の方の竹縁の下に、栗、長芋など生け置き候。「その儘すたり行くも。」と思ひ出し申し候は、竹中氏より贈られし事。外へは沙汰無し、沙汰無し。美童は我等の持病。又、この度も恋のやうなる事に身を悩みて、疾くにも帰京仕るを、今までうかうかと暮らし申し候。
 過ぎし春、そこ元を罷り立ち、備前の岡山にしるべの人ありて、「暫くここに。」ともてなされしに、何とやら留まり難く、昔、西行法師が眺めになづみし瀬戸の曙に便船して、世をうら風の吹くに任せ、肥の後州に着き、清正の霊屋寺に連句の朋友ありて、これに尋ね休らふ。折節、夕嵐の袖に涼しき築山を眺め、巧みに石を直し、さざれ水を遣りて、仙家に地を縮めてもて遊ぶも羨まし{*1}。
 この寺の杉の茂みに、訛り無きほととぎすの一声は、都に変はらぬも可笑し。「これには一作。」と、胸に『三重韻』を繰り返す内に、誰の上人とやらん、「御見舞。」と付き付きの足音する中に、御側去らずと思しき二八に足らぬ{*2}美童。顔つきの美しさ、京にても終に見た事無し。「かかる西の果てにも、このやうな生きものもあるものか。さても、命は長らへてこそ、ためしなき者を見れ。」と、すずろに身の毛よだちて、「中々花やかなるを厭ひて来る鄙に、凡慮の外の悩みの種を見出す事よ。」と胸の煙の立ち騒ぎ、御茶過ぎて、「御立ち。」と聞こえし名残惜しく、槙の戸の暇より覗きて、猶ひとしほの思ひとは成れり。
 後にて、「今日の美人の名はいかに。」と問へば、「やんごとなき御方の御二男なりしが、末々、出家の望みありて、今の上人に預け人。」と語られしに、この君に腸を裂く心地して、うつつなく成れり。「あはれ、これ程の清僧を悩ます事ぞ。」と我ながら口惜しく、亭坊の思はくをも返り見ず、「せめて心は通じて給はれ。」と書簡紙に筆を染めて{*3}遣はしける。
 「昨日は御面影を見奉るに、天性の御生まれつき美麗にして、これやこの鄭桃が紫綸巾を石季竜に曳き、董賢が袞竜袖を漢の哀帝に断つものなり。見る者、李夫人に疑ひ、聞く者、楊貴妃にいぶかる。それ木石、無心にあらざれば、見聞、心を動かす。我も又、蟷螂が斧、蜘蛛の網、雲に架け橋といへども、今や拙き狂斐を綴り集めて、思ひを述ぶる。仮初に御顔ばせを拝みしより、胸は阿蘇の煙を焦がし、涙は白川の浪に滴る。そのまなじりは桂の輪を凝らし、御心、柳の糸の如し。さる程に、鶴が崎に着きしより、四海九州、花裏の牡丹と承る。しかし、熊本にやすらひて、多情一片は玉の内の琥珀と見る。真実、花に勝るると、底心、玉かと{*4}疑ふ。呉国寵愛の西施、日本名誉の小町、行平の若盛り、業平の再誕。夢にも忘れねば、覚めても恋しければ、ただ祈りを{*5}藤崎の宮に懸け、身を菊地川に投げんとす。御意には露命惜しからず。人間、百歳の生涯、半炊の夢を悟る。君一夜の手枕、千金の宵より貴し。起きて居ても、朝な朝な夕ベ夕ベ忘れやらぬは、大方ならぬ因果。」
 と思ふ程書き続けて遣はしけるに、先様、「これは。」と御情けの返し下され、それはそれは、言ふに足らず、筆紙には及び難し。「近き程の首尾に旅庵へ一夕、御まみえあるべし。」との御内証。いまだ御日ざし知れず。これを待つ内の物侘しく、「ここが恋の只中。」と思ひ暮らし申し候。
 この度、右の腕の六字、夢現書きたる入れぼくろ、用に立ち申し候。あはれ、近くばその夜の有様見せたし。御名は岡島采女様{*6}言ふなれば、御土器給はりて、夜すがら忝い事を御物語り申すところ、暫しこの国の烏、そこ元の祇園囃子へ預けたく候。この事、月西魔の草履取松之介に御沙汰あるまじく候。やがて罷り上り、話の種{*7}に書き残し申し候。以上。
    九月十一日    慶眼
  遊夕御坊

  この文を考へ見るに、京の花見かしましく、西国に下り、思ひ寄らぬ美少なづみ、忍ばせたる状のあらまし、友とせる方へ知らせける、と見えたり。法師、似合ひたるなり。

【訳】

 私は、桜の花にも飽いて、この春の間は、京都を去って地方に参るのに、それとは反対に、東山の桜の花見に小袖幕など張って、そこで歌を歌ひ、三味線を弾いて遊ぶのを聞くために、わざわざ地方から京上りする人がある。さういふ人を尋ね探して、その便りに託して、まづ私が無事に暮らしてゐる事を御知らせ申します。あなたの事を、人が常々、御本名を呼ばずに「赤弁慶」と言ふのは、道心堅固な上に御壮健なためで、御めでたい事に存じます。
 さて、私の住んでゐた草庵は、(今は住む人がないので、)定めて鼠の集まり所になってゐるでせう。しかし、小鰯一尾も残してないので、鼠も私の貧乏を笑ってゐる事でせう。垣根に植ゑておきました菊や萩は、今は時節で、自然に咲いてゐるでせう。やがて霜夜の時節になると、枯れて見苦しくなるでせう。誰もそれに名残を惜しんでくれる人もありますまい。鍵を御預けしておいた御不祥には、妻戸を開けておいて下さい。「もし山から帰り道に(、『草庵を見たい。』と言ふ)少年があったら、主の私は不在でも、見せてやりたい。」と思ひます。
 北側の竹縁の下に、栗や長芋などを生けて囲って置きました。そのままにしておくと、腐ってすたるのも惜しいと思ひ出しました。それといふのも、実は竹中氏が贈ってくれた物ですから、この事は決して決して話して下さるな(。掘り出して食べて下さい)。美少年を愛する事は、私の持病ですよ。又この度も、早く帰郷致すべきに、今までこちらにうかうかと暮らしてゐるのも、その恋のやうな事に身を悩ましての事ですよ。
 今年の春、そちらを出発して、備前の国岡山に知人があって、立ち寄りましたところ、「暫くここに滞在せろ。」と勧めて歓待してくれましたが、何やら留まるのも遠慮されたので、ここを立って、かの昔の西行法師が佳景に心を惹かれた瀬戸の海を行く船に、或る朝便乗して、浦吹く風の吹くに任せて九州に渡り、肥後の国に着いて、加藤清正の霊舎のある寺に連句の友人が居るので、この人を頼って、暫くここに足を休めました。その折節は、夕風の袂に吹き入るのを涼しく思ふ時分で、庭の築山を眺めて、巧みに石を置き配り、さざれ水を引いて流した景色、仙人の住むといふ境地をこの庭園に縮め造って楽しんでゐるのを、「羨ましい。」と思ひました。
 この寺の杉の木立に、田舎訛りのないほととぎすの、一声鳴いて行くのを聞けば、京都で聞くのと少しも違はないのも、面白くおぼえました。「この声聞いては、一篇の詩が無くてはならぬ。」と思って、胸の中に『三重韻』を繰って、韻字を探して考へてゐる時、「某上人とかが、御見舞においでなさった。」と触れて、御付きの人達の足音がして来られる。その人々の中に、この上人の御側去らずの寵愛を受けてゐると思はれる、十六歳には足らぬかと思はれる年頃の美少年が混じってゐた。
 その顔つきの美しさと言ったら、京都でも終に見た事のないものである。「かかる西国の果てに来て、このやうな人形ならぬ生きた人間を見るものかな。さても命生き長らへてこそ、外に比類もない美少年を見るものだ。」とそぞろに身の毛よだってぞっとして、華やかな京都に帰るのも、嫌になりました。「かかる辺鄙に於いて、人間の思慮の外なる恋の悩みの種を見出す事もあるものよ。」と胸中の思ひ、立ち騒ぎ、御茶の饗応が済んで、「御上人様のお立ち。」と言ふ声が聞こえて、「もはや美少年も帰られるか。」と名残惜しく思はれました。槙の戸の隙間から、帰って行かれるのを覗き見て、又ひとしほの深い恋心をおぼえました。
 その後で、「今日、上人の御供して来られた美少年は、何といふ御名か。」と或る人に問へば、「貴い方の御次男ですが、将来、御出家なさる御望みで、唯今の上人に預けられてゐる方です。」と言はれました。それを聞いて私は、腸を断つ思ひをして、うっとりとなりました。「あはれ、私程の清僧を悩ます事ぞ。」と我ながら残念に思はれ、住持の思はくも顧みず、「せめて、私の心を先方に通じて下さい。」と書簡箋に筆を染めて、手紙を綴って遣はしました。
 「昨日は、あなたの御面影を(よそながら)拝見しましたところ、自然、御生まれつきの御容貌の美しく麗しい事。これこそは、かの石季龍の愛を受けた鄭桜桃や、漢の哀帝の寵遇を受けた董賢のやうに思ひます。それで、あなたを見る者は、「支那に昔から聞こえ高き李夫人や楊貴妃の如き貴婦人か。」と疑ひ思ふ程であります。それ人間は、木や石のやうな無情の物ではありませんから、見る物聞く物について、その情を動かす者であります。私も又、蟷螂が斧を振り上げて車に向かふが如き、蜘蛛が網を空に張って風をとらへようとするが如き、又、人が雲に梯子をかけて天に登らうとするが如き、思ひも及ばぬ事とは思ひますが、ここに拙き文章を綴って、我が思ひの程を述べて、あなたに差し上げようと思ひます。ふとあなたの御顔を拝見してから、私の胸は阿蘇の火山の煙のやうに、火と燃え立って居ります。涙は白川の波のやうに、絶えず滴ります。あなたの御瞳の美しさは、桂の輪のやうに見え、御心の和やかさ、まるで柳の枝のやうです。
 「さて、私が船で九州の鶴ヶ崎に着いてから、九州といふ所は世界中で、あたかも花の中の牡丹のやうに、優れた良い所だと承りました。しかし、熊本に足を休めて見ると、あなたに寄する一片の情は、多くの情の中でも、あたかも宝玉中の琥珀のやうなものと見えます。真実、花の美にも勝る御容姿と、心の底から深く疑ひ思ふのであります。呉国王の寵愛を受けた西施や、日本有名な美人小野小町や、在原の行平の若い盛り、同じく業平の再生かと思ふばかりです。あなたの事は、夢の中にも忘れず、又、覚めた時も恋しければ、只、祈りを藤崎の宮に懸けて、あなたに会はうと願ひ、会ふ事叶はずば、身を菊池川に投げて死なうと思ひます。もし私に情をかけて下さるならば、露の如きもろき命は、あなたに捧げるのも惜しみは致しません。「人間、長く生きても百年に足らぬ生涯は、黄梁一炊の間の夢の如きもの。」と言ふが、「それの半分にも足らぬもの。」と私は悟って居ります。
 「もしあなたが、一夜の手枕を私に許して下さるならば、それは、私にとっては千金にも替へ難き、春宵一刻にも勝るものでございます。起きてゐても座ってゐても、又、朝々も夕々も、一時もあなたを忘れる事のできないのは、尋常ならぬ因果が、あなたと私との間を結んでゐるものでございませう。」と、かう思ひのたけを書き綴り、この文を遣はしたところが、この手紙を見て、先方の方は、「これは。」と驚きなされて、御愛情の籠った御返事を下さった。その情の有り難さ、言葉で言っても言ひ足らず、筆紙で書いても書く事ができないのであります。その内に、「都合を見合はせて、私の旅宿に一夕、おいで下さる。」との内密の御約束。
 まだその日取りは分かりませんが、その日を待ってゐる内の待ち遠さ。「これが、恋の真髄か。」と思って暮らして居ります。この度の事に、私のかねて右の肘に致してゐる六字に、夢現と書いた刺青が役に立つ事になりました。ああ、近かったら、あなたにその夜の光景を見せて上げたい。その御方の御名は、岡島采女様と申します。その夜は、互に酒をくみ、采女様から御盃を賜る筈ですが、それから夜もすがら、嬉しい忝い御物語を致すでせう。それには、「寸刻も夜が長かれ。」と願ひますから、「この肥後の国に居る烏どもを、そちらの祇園の林に預けておきたい。」と思ひます。
 この事は、月西庵の草履取の松之介には内証にしておいて下さい。やがてそちらに上って参りたる際の、御話の種と、この余の事は残しておきます。以上。
    九月十一日    慶眼より
  遊夕御坊様へ

  この手紙の意味を考へて見ると、京都の僧が、春の花見頃の人出のうるささを嫌って、西国に下って、そこで意外の美少年に邂逅し、これに恋して遣はした艶書のあらましを、友人の方へ知らせて遣ったもの、と思はれた。僧侶には、似合はしい事である。

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校訂者註
 1:底本は、「うらやまつ」。『井原西鶴集 三』(1972)に従い改めた。
 2:底本は、「二八にならぬ」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 3:底本は、「筆をはめて」。訳及び『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 4:底本は、「底心むがううたがふ」。『新日本古典文学大系77』(1989)本文及び語釈に従い改めた。
 5:底本は、「但(たゞ)祈(いの)る」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 6:底本は、「采女(うねめ)さまといふ」。『新日本古典文学大系77』(1989)に従い改めた。
 7:底本は、「はなし種(たね)」。『新日本古典文学大系77』(1989)語釈に従い改めた。

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