江戸期版本を読む

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カテゴリ:井原西鶴 > 校訂西鶴俗つれづれ(1927刊)

一 只取るものは沢桔梗、銀で取るものは傾城

 配り札を貰ひ、又太夫が舞を聞き果てて、皆、六十に余れる親仁三人、浜茶屋に腰掛けて足も休めず、さりとは昔作りの堅い穿鑿。味噌、塩、焚木、又は利銀の納まる話して、「今日の暑さを逢坂の清水にて凌がん。」と行く程に、久兵衛が西面の座敷。「入り日は障りなれど、風のためには折節の昼寝所。」と人々の心、羨ましかりけるに、いかないかな、人の家へは入りもせず。玉垣より外なる捨て石どもに休みて、浮藻かきのけ、岸には牛の足形も構はず、「これぞ日本に七所の名水。」と手して掬び上げ、腹膨るるばかり飲みて、野に働く男の火縄、煙管を借りて、しかも帰るさに、「仏の花に、これよ。」と、その儘しをれる沢桔梗を手毎に折りて、長町の裏道を眺め、今の難波の至り下屋敷に、中二階の簾巻き上げ、京から取り寄せたる大名行きの手かけ者、又は舞台子のしやれて、紫の手細取り捨て、男なりけるも面白し。髪切り姿は、加賀笠の小せんとや、隠れもなき者のある由。或いは男憎みの衣比丘尼。世は様々の遊興所。琴の遠音、一節切り。名の木薫りに墓の煙も立ち消えするなり。
 「久しく見ぬ内に、これはこれは。この東側の二、三丁目にて、二百目屋敷の時買うておけば、今、三貫目屋敷に売りて、良き商ひ事をするものを。」と、何につけても算用を言ひ行くに、笹垣のほのかに{*1}、小倉縮の帷子に段染の畳帯して、緋縮緬の湯具、龍田に紅葉ながら、女には嫌と言はれぬ良き物なり。黒髪、何の様子もなく一つに集めて、半紙の引つ裂きにて、つい取り上げて、かつて色作りたる風情は無く、浅葱緒の京草履に、片足は糸竹の男形はきまぜて、四十余りの飯炊きらしき女と並びて、葉人参の細かなるに、松菜などいふ物{*2}を揃へて、「醤油がけにしてよ。茶は我等が焚くぞ。」と火打ち石に男らしき音成して、上がり口に片尻かけて、着る物の裾乱れて、紅の内より雪を延べたる足首より、少し上まで見えける。
 三人の親仁、夢のやうに成りて、「今一度、美しき顔が見たいことの。最前の有様は、『君がため春の野に出で若菜摘む』と詠みし昔公家の娘も、これには。」となづみて、竹垣立ち去らねば、人も咎めける。「竹の子抜くにはあらず。あの上臈は、いかなる御方。」と問へば、「あれは、富士星の吉田殿。仔細あつての隠れ家。」とささやきける。
 「さては、気高きも理よ。諸々の神さへ従へ給ふ吉田殿。」と、これ有り難く思ひ込み、その中にも一人親仁、「あの女郎が心任せになる事ならば、五匁や三匁の銀は惜しからじ。」と思ひ切つたる事を言へば、「さても大気なる事を{*3}。」と二人笑つて、まことにせざれば、この男、少しせきて、前巾着を捜して、細銀五粒にて四匁七、八分もあるべきを、手の上に据ゑて、「後とは申さぬ。現銀にかくの如く。」といきる内に、一匁足らずの豆板一つ、大溝に取り落とし、「これは。」といふ声、響き渡り、身の汚るるを構はず、捜しても見えざりければ、二人も見かねて、二時余り尋ねしに、遂に行き方知れずなりぬ。
 この親仁、大方は狂乱して、「惜しや。今の銀の行方、我一代の仕損じ。」と世間構はず涙をこぼす。両人、笑止には思ひながら、いかにしても銀づくなれば、『合力。』とも言はれず。「とかくはこなたの損。」と足の立たぬを無理に手を引き、堺筋より過書町に帰り、猶この銀を歎き、鉢巻してうめき出し、総領、枕近くに呼びて、始めの次第を語り、銀落としたる所を細かに知らせて、「是非に若い目にて見出して参れ。」と言ひ付けられ、男に提灯持たせ、夜道の用意までして、親の気を背かず、そこに行きて、誓文のために溝を覗きて、「いざ、帰れ。」と言ふ時、かの吉田をちらりと見て。
 「かねがね我等が、『根引きにせん。』と思ひしに、早、人の物にして、ここは堪忍のならぬ処。井筒か小太夫かを掴んで、かかる下屋敷者にしておかでは、一分立たぬ。」と、それよりすぐに色町に立ち越え、頭からばつと出て、太夫請け出す談合に夜を更かし、いよいよ二人の内一人、さのみ馴染もなけれど、僭上ばかりに「請くる{*4}。」と言ひ触れて、女郎もそれ程に満足がらぬ事に、六百五十両の内証約束。「亭主、落ちつくため。」とて、紙入にあり合はせたる小判三十両渡して、再び返らぬ金子。「残りは四、五日に才覚して。御内儀、長町の家見に、何を持つて御出。」と笑ひ立ちにして立ち帰り。
 親仁の手前へ「やうやう捜し出した。」とそれ程の豆板一粒、久七と口を合はせて出しけるに、「これは。」と喜び、行灯近く寄せて、眼鏡を掛けてこの銀を覗き、「いかないかな、我等が心覚えの銀にあらず。二分ある豆板まで、三星の極印を打ち置きぬ。この銀は、吉の字、極印。親から譲りの取つて置き銀。これは不思議。」と内蔵に入りて穿鑿するに、その戸棚は軽く、大分、行き方知れず。この親仁、目を廻して、「これぞ因果の百年目。」と何か無しに叩き出され、わづかの事より悪所顕はれ、あはれや、身の置き所もなかりき。これ程吝き親の子に、かかる者もあるなれば、世の様ほど可笑しきは無し。
 今はせん方なくて、玉造出離れに草の屋借りて、埒もない女を定め、渡世の種もなければ、深編笠に大脇差。日頃抜き上げたる額口、今、似せ浪人のためと成り、家々に入りて、舌をなやして作り訛り。「これは、御合力買ひ。」とて、一文づつが{*5}灯心の突き付け売り。さてもはかどらぬ世渡り。
 恋の仲の、中の中宿より隠し衣装の物好き、山の端染に{*6}ななこ織の道服着て、「北様。」と言はれし事も、去年の五月まで。

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校訂者註
 1:底本は、「ほかに、」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。
 2:底本は、「いふのを」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。
 3:底本は、「ことよ。』と、」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。
 4:底本は、「請(う)ける。」。
 5:底本は、「一文(もん)づくり灯心(とうじん)」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。
 6:底本は、「山(やま)の端染(はぞめ)の魚子織(なゝこおり)」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。

二 作り七賢は竹の一節に乱れ

 見ぬ国の親仁ども、竹の林に遊んで、浮世を見限りて楽しみけるを、和朝の「難波津や」八軒屋といふ所に、家栄えたる楽坊主、同じ心の友二人、住みける。その身、世にある程の事に賢く、しかも歌道に志深く、人の鑑とも成れり。殊に渡世の業は、よろしく勤めける手代に任せ置き、何に付けても残る処なき身仕舞。諸人、これを羨みける。
 明け暮れ川岸に竹の腰掛を直させて、無芸の座頭、はやらぬ針立坊主、かれこれ心任せの目下なる友を集め、いつとても七人。唐様に構へて、頭は中刈りにして髭剃らず、朱骨の扇子に風を招き、棕櫚竹の杖つきて、居士衣の紐を高く結び、茶瓶に面々、天目を手に触れ、言葉に仔細を籠めて、古文めきたる顔つきして、法体の後、十四、五年も暮らされしに、世の人、この志を恥ぢ入つて、芝居、遊興の話さへ深く遠慮して、「これぞ和朝の七賢組。」とて物堅く見えしに。
 川舟に紫の帽子懸けたる野郎、あまた乗りて、大和屋座の囃子方ども、大方二階に上がり、四挺三味線を弾きかけ、一の屋の十郎兵衛節を声揃へて唄ひ、京帰りの辻と言へる大尽を、「夜もすがら佐太宮まで送る。」など言ひて、よろづは南江の座敷屋、砂の加兵衛承り、台所船に「四、五十人前の膳組、髭籠りの刺身一つで出す。」と見えて、才覚らしき男が、箸を打つて廻る。
 又、少し後より、小御座に幕を下ろして、人を忍び顔に、女中の声のみして、十二、三の少女、頭は常の島田に取り上げしが、いかにしても身ぶりの利根なるは、只者とは思はれず。付き付きの女までも、ぬるき風俗なくて、世間に幅広の帯のはやる折節、中幅の前結びは憎し。弥七、庄左衛門、都の末社交じりに、太夫様より禿、遣り手を見送りける。西南の二色遊び。栄花、これより上の有るべしや。
 島原よりは、三文字屋の男が付きて、太夫左門様の遣り手が、御機嫌の程見舞に下り、京へ連れまして帰るを、嬉しさうなる顔つきなり。
 この法師の、人間に変はる処は無きに、町人ながら銀持ちたる威勢にて、かかる浮世の面白い事に逢ひぬ。
 前の生で善き種を蒔き置きて、今、女郎に抜かする髭とは生え出けり。一人、目の開くまで膝枕して、公用の外は銀儲けの事にも起きず。「我一代に、せめて一蔵空けたし。」と随分、物の見事にさばきけれども、銀も遣ふ積もり有るものぞかし。終にこの大尽、一歩を人に遣る事を知らず。いつぞや茨木屋の茶漬け飯、勝手の急ぐにや、少し{*1}茶のぬるきやうに思はれて、「今一杯。」と言ふ時、その盆に小判十両入れて内証へ送られしも、この道の粋めきて可笑し。
 やうやうこの舟、八軒屋の浜に着けて、砂の加兵衛駆け上がり、この辺りの荒物屋を捜し、今二、三本足らぬ杓子を買ひ求めて、供舟に飛び乗れば、「良きついで。」と上がりて、垣根に立ちながらするもあり。「夕風、南の方をよけよ。」と幔幕を絞れば、物言ふ花ども顕はれ、中にも三瀬八十郎が手に触れし杯を、「その中で御あひ、頼みます。」と投ぐれば、吹田と言へる法師の前に落ちとどまりて、とかう言ふ間に、その舟はさし上して、思ひの外なる形見とは成りける。
 「これは一つ、飲み処。」と各々、一つ心に成つて、燗鍋で通ふ事、とけしなく、後は七輪取り寄せ、五升樽も大方に傾く六月二十日余り月の、「須磨の山の端に今少し。」と見しまで、色話に乱れ、身を固めし事も、浮雲の中をくぐりて、誰が人魂か、ひつかりと筋引きて消えける。
 いづれも常なりしに、伊丹と言へる法師のこれを見て悟り、「今も知れぬは人の身。分別する程、分けも無し。明日はとうからとうから狂言尽くし見ん。」と同じ心の二人法師、今日は移り変はりて、野郎に遊び、なほ又恋につのりて、丹波屋の小琴、小薩摩に逢ひ馴れ、或る時は頭巾無しに格子に立ち寄り、「をこと、をことと七声呼べば。」と人の聞くを構はず、目の上まで情けにはまり、恐らく泳ぐ泳ぐ、「瓢箪町に身は捨て小舟。引き舟つけて、一万日なりとも、この君達の年の明く日が廻向ぢや。この坊主ども、二挺鉦叩き上ぐる合点ぢや。」と外に変はりての物好き。
 揚屋器物では茶も酒も飲まねば、諸事物入りに仕懸け、老い木の花は喜ぶ程遣りて、つまる所の算用が、「一年に百貫目づつ。」と極めて、大晦日を驚かぬ内証。中々、女男の二つも、思はくの外し過ごし、人の指さす所を思ひ慮りてや、一人の法師、家は変はらず続きしに、「世が面白からず。」と時節ならぬ無理死に。さても思ひ切りける身や。人の惜しみしは、人に悪しからぬ故なり。
 又一人の法師も、「この友に離れて、何か甲斐無し。」と思ひ定め、その後は、世上をやめて人にも逢はず。唯茫然として月日を過ごし{*2}、「とかくこの世に、我が心に叶ふ人もなければ、片時も早く夢路を急ぎ、かの法師ならでは夜が明けず。」と灯し火の下に無常を観じ、是非を極めて、心に懸かる反古さらへて、既に最期の時。
 一子、七歳に成りけるが、人並よりは生まれつきて、道知る書物の端くれも、早、読み習はせて、末々楽しみなりけるを、思ひの外なる親の所存。近う呼び寄せて言ひ聞かせけるは、「我、仔細有りて自害する事なり。しかれば汝、後に残して、人々に沙汰せられ、顔眺めさす事も口惜し。人皆夢なれば、父と一つに死すべし。それも、『世に長らへたき。』と思はば、ともかくも。」と言ひければ、暫し驚きたる気色にて、涙をこぼしけるが、その座は立たず、さしうつむき、「私は、一人は死にかねければ{*3}、慮外ながら、刺し殺して給はれ。」と陶を開けて座を組めば、「男はそれよ。」と言ひながらも、刺し通す手も震ひ、目くれて、前後、心の闇なるが、死骸の血汐を洗ひ流し、豊かに枕させて、その身は確かに笛掻き切り、何か残る処も無し。
 「これ、さらさら乱気にあらず。覚悟の事。」とは言へど、思へば我が子に憂き目を見せしは、元これ、色道の乱よりは、かくは成りぬ。人の中の人、姿の人さへこれは、まして愚かなる人の慎しむべき一つぞ{*4}。

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校訂者註
 1:底本は、「すぐし」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)本文及び語釈に従い改めた。
 2:底本は、「過(す)ぎし、」。『西鶴俗つれづれ』(1990)語釈を鑑み改めた。
 3:底本は、「死(し)にかぬれば、」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。
 4:底本は、「一(ひと)つぞかし。」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。

三 まことの綾は後に知るる

 「三途八難の苦は、女人を根本。」と南山大師の法語なり。まことに女程、あさましきは無し。外面は菩薩に見えて、内心は夜叉の如し。されども世を立つる人の、男女なくては成り難し。今時の風俗、いかなる田舎育ちも、風俗{*1}、格別に成りぬ。「嵐もつらき」と眺めし桜が枝を焚き木になせる山人も、花の鏡と成る水に鬢櫛を浸し、汐汲む海人も、うね足袋はきて、羨ましき時世にあへり。
 備前の国は夕浪静かに、瀬戸の曙の美景は、西行法師が「これは。」と横手を打てる所ぞかし。ここに続きて牛窓の島崎は、人家ありて、しかも諸人の志優しく{*2}、次第に繁昌の津と成れり。この所に森村氏の何がし、始めは世渡りのために、漁船手づからに差し引き賢く、年浪を重ねて後、分限。この里に軒を並ぶる屋作り無く、棟高うして住みぬ。杉をしるしに、小島酒といふ名物の商売するに、正直の頭に松尾大明神も宿らせ給ひ、下戸も上戸もこの家に通ひ樽の道狭く、福徳の五十年、一代の内にこの浜の人の鑑と成りぬ。夫婦、貧家の時より互に稼ぎ出して、今、老い楽に、節季の寝覚めも気遣ひなしに、明け行く春を祝ひぬ。
 殊更一人の娘、美形にして、その名を錦と言へる事、浦人の子には、やさがたに聞こえ侍る。母親の才覚にて、京より御所方の作法心得たる女の諸礼者を呼び下して、錦、十一歳の頃よりこれを付け置き、万事、都を移しけるに、少しも鄙びたる事去つて、見し人、思ひの種と成り、かれこれの忍び文、一つ二つも千束と成り、「東路の錦木も、かくあるべき。」と思ひ合はせり。嬰児、総角の程過ぎて、当流の投げ島田。「女は髪頭。」と言ひ伝へし如く、この息女、十五の秋に見れば、山の甲斐無く、木々の錦は、この娘に眺め替へて、ふるされける。あまた縁の言ひ入れありしに、「一人の娘なれば、よろしき人を婿にもがな。」と世間聞き合はせけるに、我が住める里には無くて、阿波の城下、徳島の町に思ふ儘なる事ありて、約束極めて吉日に送りける。
 七月七日の夜、星の林も輝き、妻迎ひさざめきて、丸に花菱の紋提灯、鳴門の浪に移ろひ、天も酔へるが如し。「これぞいにしへ、奈良の都より唐土への嫁入りも、かくありぬべし。」と思ひ合はせり。既に舟着きより乗り物続きて、仲人、鼻高うして婿の元に入りて、引き合はせの杯事、数々の祝儀過ぎて、匂ひの玉を大房に飾り付けたる蚊帳の吊り手、長枕を取り乱す時、人を喚び生くる声々、せはしかりき。「気付けよ。水よ。灸、針も叶はぬ。」とて泣く声とめ難く、嫁君の事は外に成しける。心元なくて尋ねしに、「婿殿、頓死。」と言へば、女の身にしては、馴染ある人よりは、悲しさひとしほまさりて、人の取り沙汰を顧みず、勝手口より駆け出、死骸に取り付き歎きぬ。
 「これ程はかなき憂き目にあふ。前世の因果なるべし。」と我が身の上を悔み、「再び里には{*3}帰らじ。姿を変へて、夫のための後世、菩提の道に入るべし。」と一筋に思ひ定めて、下げ髪の中程を思ひ切りかかる所を、各々取りつき、やうやう教訓して、「四十九日目に、いかにもならせ給へ。召し連れられし女房ども、皆々御発心、御供仕るべし。とても道心の御願ひ、何か世の思はくを恥ぢさせ給ふぞ。御里に歎きかけ給ふは、これ、不孝の第一。」と諫めて、七日の仕上げ過ぎて、涙の海を是非なく帰る浪の、これぞ火宅の車舟。牛窓に上がり、一間の奥に取り籠り、外なく念仏に暮らしぬ。
 それ日数ふりて、親達、又も縁付の内談ありしに、離れ切つての出家の望み。色々とめても聞き入れざれば、後には意見の品を替へて、「汝、孝行の志、偽り無くば、後夫を求めてこの家を立つべし。親の心を背き、身を助かる仏法ありや。」と道理にせめられ、謝つて思ひとまり、その後、岡山より歴々人の次男を入り縁に取り、万事を渡して親仁は隠居仕舞ひ、世に思ひ残せる事も無し。
 この娘、入り婿に初めの夜、心底の程を語りて、「親孝行のため、かく夫婦の語らひなすと言へども、さりとは心に染まざりき。全く御主様を嫌ふにあらず。身を観ずれば、夢なるかな。錦のしとねを重ねても、人間、終の煙は免れ難し。とかく後世の心入れ。」つどつどに語り、至極の涙に沈めば、入り婿、これを感じ、「心安かれ。そなたの望みに任せ、二親一生の内は、随分懇ろに当たり、死去の後、我諸共、出家になるべし。」と二世かけて約束固め、表向きは夫婦の語らひして、同じ枕は並べながら、夢にも契りを籠めずして、十一年過ぎし内に、父は病死。母は残りて、久しく孫子の無き事、仏神を祈り給へど、さらにその甲斐も無い筈ぞかし。これも、寄る年の惜しからぬ程にして、空しく成り給へば、「今は、願ひ発心。」と夫婦一度に髪を下ろし、財宝、親類分けて、所を去つて、備中の国細谷川の奥山居して、昔の人に逢はず、二人とも仏道堅固に勤めける。
 この事、人皆、不思議の沙汰せしに、仔細を京より来りて、朝暮付き添ひたる女の語りて、聞く人感涙、肝に銘じ、「かかる事、世にためし無し。親の命を背かず、男は{*4}持ちながら、終に最愛の道を断つて、今の世の中将姫、これぞかし。殊に夫の心中、末代の語り句、これらなるべし。」

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校訂者註
 1:底本は、「田舎育(ゐなかそだち)も格別(かくべつ)」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。
 2:底本は、「優(やさ)しくて、次第(しだい)に」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。
 3:底本は、「里(さと)へは」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。
 4:底本は、「男(をとこ)を持(も)ちながら、」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。

一 世には不思議の鯰釜
 
 名利の千金は、頂をなづるよりも易く、善根の半銭は、爪を放つよりも難し。
 昔、南都の大仏建立の勧進坊、諸国を巡りし時、大坂より泉州に通ふ木綿買ひ、阿倍野街道帰るに、住吉の里離れより、「一銭。」と勧めしに、この商人、聞き入れずして、先に立ち行くを、後を慕ひて気根比べに付け行けば、随分吝き者なれども、この御坊に我を折つて、天王寺の石鳥居にて、百さしより一文抜きて投げ出し、「これ信心の一銭にはあらず。これまで付かれし勢力を感じぬ。その志にては、大願成就すべし。」とせち賢き事を言ひながら、出茶屋に休みて、色作りたる女と暫く浮世の事どもを語りて、立ち帰る時、二十銭余り置いて行けど、この女は嬉しき顔をもせざりき。
 その大仏、久しく焼け野に立たせ給ひ、雨露雪霜に御首の朽つるも見るに悲しかりしに、今又一人の沙門、建立の願ひ、国々に通じ、奉加の志深し。
 ここに吉野の片里に、天の川の神主何之進とかやの召し使ひ下女、若年の時、両親に離れ、頼むべき一門も無く、この旦那を親にして、奉公に私なくて、主もひとしほ不憫かけて、末々は我が世を渡る縁の事までも聞き立てける。この所の習ひにて、総じて男は家にありて、打ち囃子に日を暮らし、女は山畠に出て鋤鍬を握り、或いは谷水をになひ、柴を戴き、牛を曳き、男の業に代はれり。
 この下女、常々、人毎に優しく、月に二日は「父母の命日。」とて野辺に茶釜仕懸け、嵐の落葉を拾ひ、これを焚火の種と成して、働く野女の咽の渇きを助けしに、皆々これを喜び、一つに集まり、田植歌を同音に、山も響き渡りて、いづれ余念は無かりき。この釜に面妖の徳有り。朝に仕掛け夕まで、重ねて水を差すといふ事もなくて、「数百人して飲まんか{*1}。」とも見えず。これ、重宝の一つなり。
 この事伝へて、里続きの山寺に盗み行きしに、常に変はる事無し。法師、腹立して、滝津川の淵に投げ入れしに、沈みて跡無くなりぬ。下女はこれを歎くに、年経し大鯰、これを担ぎ上げて、再び功徳茶を沸かしける。「いにしへ、念仏行者の亀鉦。今又、鯰釜。」と里人の言ひ習はせける。この女の世に亡き親に孝を尽くせる志をいたはり、田返し畠打つ事も、大勢の里女、営み助けしとなり。伝へ聞きし、見ぬ唐土の象、天性の恵みにも、これぞ劣るまじき万人の志、深し。
 その後、かの女、奈良の仏の寄進に、「これ両親のため。」とて朝夕、我が面影映せし丸鏡を上げて、「長者万金、貧女の一鏡。」とその光を奈良に顕はせしは{*2}、かの大仏、御首、その外損じ給ふを、鋳物師を以て鋳させ給へども、所々に穴あき、成就の形を見せ給はず。勧進の沙門、「いかが。」と案じ給ふに、或る夜の夢に、「三笠山より鹿一つ来り、かの鏡を、角を以て叩くふりを幾度もせし。」と見給ひ、「さては、志の深き鏡なるべし。」と、これを湯にし、鋳給ふに、たちまち満徳円満の釈迦の像と拝まれ給ふ。皆人、聞き伝へて、感涙を催しけるとかや。
 これ一重に、孝の深きより成す処なり。

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校訂者註
 1:底本は、「飲(の)み得(え)む」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。
 2:底本は、「顕(あら)はせし。彼(か)の」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。

二 悪性顕はす蛍の光

 都の辰巳、宇治の夏川涼しく、「蛍の火花、夜の眺めは吉野まさり。」と昼より催して、馬はあれどもかち路の友、木幡の里に待ち合はせ、休む重荷に小付けの樽。京の銘酒を揃へし。まづは花橘、井堰、重衡、柳、舞鶴。いづれか悪しからず。大宮人の御前酒、ここに住めばこそ地下人の口にも合へり。
 上戸仲間の長者町の各々、河原の役者交じりに立ち騒ぎ行くに、朝日山も夕暮近くなり、虹は映りて架け橋の詰めなる通円茶屋に、暫く川音を聴きしに、水の水上の清く、さし下し来る笹船に乗りて、さざ波の早き瀬に行きて、蝿頭のはや釣り{*1}。玉狭網に落としかけて、これを手づまの利きし人は、間もなく数釣りけるに、素人は一つもかからぬ事の口惜し。「これに伝受あり。」とて、祇園町清蔵と言へる者、花崎左吉に伝へて印可を渡しぬ。「この一流にて手の内を覚え、釣れず。」といふ事無し。
 「物毎に鍛錬有り。島原の局女郎に浅野と言へる者、爪を放つに細小刀にして二枚にへぎ、痛まぬやうに薄く指に残しける。この程は、太夫、天神に至るまで、この浅野を頼み、痛い目をせぬにて、弱き女も爪放つ事がはやる。」と大笑ひして、人の身の上を掻き捜しける。
 その中に品こそ替はれ、勤めは同じ野郎の口から、客の話を聞き覚えて、「無用の悪事。」といづれも聞かぬ顔して酒飲みけるに、この若衆、我が姿の浮き出る大杯に受けて、かれこれ、名の酒、数重なりて、我を忘れ、人も声高に成る時、蛍、暮待ちかねて飛び出るを、この野郎、扇に打ち留めて、「おのれも屁売りにここまで来たか。いまだ飛子さうな程に、律義千万に人任せに成り、素股の足のもぢりやうも知るまい。延べ紙の仕舞所は肌着の上替へ、褄先を綻ばせ置きて、これへ隠し、白い客に不思議がらす。」その外、痔の養生、糠味噌の行水。我が身の秘伝、くすね抜きの毛の穴までを、問はず語りの懺悔。後には聞く人、うるさし。
 これを思ふに、宵より過ぎたる手樽が物言へり。

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校訂者註
 1:底本は、「鯊(はぜ)釣(つり)、」。『西鶴俗つれづれ 西鶴名残の友』(1993)に従い改めた。

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