江戸期版本を読む

江戸期版本・写本の翻字サイトとして始めました。今は、著作権フリーの出版物のテキストサイトとして日々更新しています(一部は書籍として出版)。校訂本文は著作物です。翻字は著作物には該当しません。ご利用下さる場合、コメントでご連絡下さい。

カテゴリ:井原西鶴 > 校訂武道伝来記 岩波文庫本

思ひ入れ吹く女尺八

 安芸の広島へ、京より枯木内匠といへる鞠の上手、下りて、あなたこなたへ指南して、一家中に蹴鞠の柳なびかせ、風なき暮を急ぎて、沓音のせざる屋形は無し。惣じて、慰む業も、国のはやり物に心の移り、色になづみぬ。ここに福島安清とて、殿に{*1}筋目ある人なりしが、無役{*2}にて歓楽に暮らし給ひ、殊更鞠好きにて、その友を集め、七夕の興行ありしに、その中に鳥川葉右衛門弟、村之助といふ人、今年十八、角前髪ながら、美道の花の香残りぬ。
 やうやう暮も詰まりて、名残の高足、横切れして、藪垣を打ち越えて、隣の花畠に落ちける。村之助走り出、笹の葉分けて覗けば、鞠は唐萩の枝に留まりて、それより東の池の溜水の清げに、棚橋の架かる所に、隣屋敷の息女と見えて、紋羅の白きに紅の裏を付け、檜扇の散らし形、大振袖の豊かに、紫糸の組帯しどけなく結びて、乱れ髪の中程を金の紙の平元結に締め寄せ、房付き団扇に梶の葉見えしは、「今日、織姫の歌を手向けならむ。」と思ふに、案の如く沢水に浮けて立ち帰らるる面影、「天人の生き写しか。」と心も空になり、前後かまはず言葉をかけ、「慮外ながら、あの鞠に御手添へられて、こなたへ返し給はれ。」と言へば、草分け衣に露も厭はず、鞠を手に触れて、声の通ふ所へ差し出し給へる手を締めて、互に面を見合はせけるこそ恋の初めなれ。
 その内に、末の女のあまた来れば、村之助、是非なく立ち帰り、装束脱ぎ捨て、各々より後に残り、又、竹垣を見れば、かの娘も、殿珍しく、恋を含み、重ねて花園に立ち出しに、わりなく物言ひかはして、筆にて心を通はすまでもなく、「忍びて行かば。」と言へば、「それを嫌とは言はぬ女。」と男に約束深く、闇になる夜を待ちて、裏道より高塀を越え、身を捨てて通へば、女も偽りなく猿戸の鍵を盗み出し、人知れず我が寝間に引き入れ、二人が命をかけて、「二世まで変はるな。」「変はらじ。」と互に小指を喰ひ切り、その血を一つに絞り出し、女は男の肌着に誓紙を書けば、男は女の下着に書きかはして、後には恋の言葉も尽きて、逢ふ度に物は言はず、涙に更けて別れを惜しみ、次第につのるは、この道の習ひぞかし。情けの日数重なるを、天鵞絨の枕より外に知る者もなかりしに、思ひの種と成りて、雪中の花に見ながら、「青梅もがな。」と無い物好きをして、腹なり、可笑しげになりぬ。
 この息女の親は藤沢甚太夫とて、物頭なりしが、廻り番にて御江戸を勤め、帰宅の折節、遠州浜松に立ち寄り、同名甚左衛門二男甚平、十九歳になりて、しかも骨柄たくましく、殊に大力なれば行く末頼もしく、甥ながら子に貰ひて、娘の小督にめあはせ、追つ付け隠居の願ひを嬉しく、同道して本国に帰り、奥に始めを語りければ、悦び限りもなく、養子の御訴訟叶ひて後、祝言の事ども取り急ぎしに。
 小督、かつて勇まずして、母親に歎きけるは、「仰せを背くは不孝の第一なれども、思へば仮の宿りの夢と極め、仏の道の有り難く、後の世を願ふなれば、一生夫妻の語らひ捨てて、身を紋なしの衣に成し、いかなる山にも分け登り、修行に思ひ入りければ、甚平様へは外より呼び迎へさせ給へ。」と思ひ寄らざる事ども。母人驚き給ひ、内証にて色々異見積もれども、いかないかな承引せず。今は了簡尽きて、とやかくこの沙汰包むに顕はれ、甚平も少しは口惜しく、恨みを含む折から。
 村之助が忍び姿を見付け、浜松より召し連れたる小者と心を合はせ、木蔭に待ち伏せして、帰る所を何の子細もなく討つて捨て、さて穿鑿に成る時、小督、「これまで。」と思ひ定め、長刀振つて出るを、乳母抱き留めて、「敵は重ねて討つ品あり。まづは屋形を退き給へ。」と甲斐甲斐しくも手を取りて、どさくさまぎれに裏門より駆け抜け、行き方知れずなりぬ。村之助、密通隠れなく、「武命の尽き。」とさみせられ、甚太夫{*3}は面目にて遠慮、甚平は立ち退きける。
 小督は、乳母が働きにて広島を逃れ、播州明石の里に知るべありて、女の道も日数経て、この所に立ち越え、賤の屋の住まひして、手掛けぬ営みも見馴れて、縮布を織り習ひ、今日に送りぬ。月も早重なりて、取揚げ婆の寝覚め驚かせ、産湯沸かして待つ時、守り刀を身に添へて、「諸神も憐れみ給ひ、男子を喜ばせ、父村之助敵、甚平を討たせ給へ。もしも女子ならば、立ち所を去らず、腹掻き切つて果つべし。」と。この一念の通じ、初声強く男子を儲け、願ひのままの帯締めて、大事に育て上げ、名を村丸と髪置き、袴着。引き伸ばすやうに祈りしに、程なく九歳より須磨寺に遣はし、手習ひの時過ぎて、若木の桜色深く、「若衆のつぼみ。」と僧俗に眺められ、十三の春にぞ成れる。
 「今は昔を語り聞かせ、敵を討ちに出づべき時節。」と父村之助最後の有様を、あらまし話も果てぬに、「その甚平が生国浜松に立ち越え、首を土産に追つ付け帰りて、めでたく御目に掛からん。」と身拵へして立ち行くを、二人すがりて抱きとどめ、「我々一所に立ち行き、討つべき日頃の大願なり。かねて心懸けたるしるし。」とて、女ながら尺八を吹き習ひ、鎖の肌着に隠し、脇差、油単に仕込み、髪散切に深編笠。そのまま男の出立ちと成り、明石の借り宿を忍び道。波の音、松の嵐、子を思ふ夜の「鶴の巣籠り」といふを、三人の連れ吹き。
 鳴く音もおのづから哀れに物悲しく、息使ひは千年を{*4}祝ひ、鉄拐が峰に別れ、夢の浮橋、生田の里、布引川など渡りて、西国街道を淀より東路の逢坂山越えて、勢田の永旅に身をやつし、気を凝らし、石山寺に参詣して、紫式部が源氏の間を、長崎の道者開帳し給ふを、結縁に拝みて、「古は、かかる女もありし世。」と女の身には殊更に感じて、心静かに下向するに。
 年の程四十ばかりの侍、下人一人召し連れられ、旅装束軽く、矢立ての筆を速め、里人にここの名所を聞き書きしておはしけるが、村丸が面影を見給ひ、「さても眼ざし、鬢の縮みたる所、腰の付き、そのまま生き写し。」と後よりささやき給ひしが、下人が声して、「村之助様の幽霊なるべし。」と言ふにぞ、名も懐かしく{*5}立ちどまり、顔見合はせても言葉をかけかね、「この湖の八景より、国贔屓の目よりは、厳島の景色面白や。懐かしや。」と乳母に耳雑談すれば、かの男、近寄り。
 「各々は、広島の衆か。」と問はれたるに、まだ身を隠し、「播磨の者。」と言へば、「正しく安芸の言葉つきあり。この少人は、もしも鳥川葉右衛門殿の御親類にてましまさぬか。」と問はれて、返事しかねて涙ぐめば、この男もしほしほと、語らぬ先に歎き、「我は大谷勘内とて、村之助兄弟分の者なり。不慮にこれを討たせ、その相手を遠州まで尋ね、心のままに討ち取り、孝養にせんと遥々行きし甲斐なく、その者、今程は吉野の山里にありかを聞き出し、只今立ち行く。」と語り給へば、人々、勘内に取り付き、「その村之助が一子、村丸。」と心底、始めを語れば、皆々一度に泣き出し、「歎き、ここにして尽きぬ事なり。さあさあ、大和に越えて、甚平を討つての上の事ぞ。」と。
 それより吉野に分け入り、確かに見出し、勘内、後ろ見をして、村丸に願ひのままに討たせ、始終の首尾、残る所なく、無事にこの里を立ち退きけると、昔を今に語り伝へり。

前頁  目次  次頁

校訂者註
 1:底本は、「殿(との)の筋目(すじめ)」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 2:底本は、「無紋(むもん)」。『井原西鶴集4』(2000)に従い改めた。
 3:底本は、「甚右衛門」。『井原西鶴集4』(2000)本文及び語釈に従い改めた。
 4:底本は、「千年(ちとせ)の祝(いは)ひ」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 5:底本は、「なつかしと立(たち)とまり」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。

見ぬ人顔に宵の無分別

 玄春後家とて、肥後の城下に名を得たる女の針立あり。夫、一流の上手なりしに、一子相伝の屋継ぎもなくて相果つる時、大事を女に伝へり{*1}。それより後夫を求めず、剃髪して妙春と改めて、療治に暇なく、殊更、「奥方の病中に重宝なる者。」とて屋形町、心安く出入り仕る。
 或る時、善連寺外記といへる人の妹に、おたねとて、十八まで縁遠く、部屋住まひの気尽くし、心地悩ませ、胸のつかへの養生に、妙春に針を打たせられしに、次第に験気を喜ばせられ、その後は朝暮御見舞ひ申し入れ、外よりは御懇意に預かり、折々の衣類まで召しおろしを給はり、その身は、飢ゑず寒からずして世を渡りぬ。
 又、同じ家中に福崎軍平といへる人、御使番を勤め、仁体すぐれて武芸に達し、今年二十六歳なるが、いまだ妻女もなかりき。かねての願ひに、容儀よく器用気質を人に尋ねられしに、妙春、これへもこの程より御出入りを申し、世間話のついでに、「縁付き頃の息女はあらずや。」と尋ねられしに、折に幸ひ、「かの外記殿の御妹君の御事、世に又もなき美女」のやうに、よろづをよろしく取り合はせを申すにぞ、見ぬ人を焦がれ、「その息女を我等に給はりなば、いかにもして申し請けたき」由を語り給へば、妙春、「この儀、私、御肝煎りて首尾させ申すべし。」と手に取るやうに談合。
 外記殿へ参りて、仲人口を出し、御内証へよくよく申し通じ、この婚礼を調へ、しるしの頼みを運ばせ、その霜月の十一日、「嫁取りの吉日。」とて、外記殿には送り用意、軍平殿には迎へ拵へ。妙春は先乗り物にて美々しく大座敷にざざめき、一代一度の花を飾り、銚子、加への千代の初め。軍平も心嬉しく、その面影を見しに、思ふに格別の相違ありて、姿ばかり尋常にて、横顔に幅広く、額上がりて髪少なく、しかも唇厚く鼻低う、付き付きの女に見比べてさへ、さりとは思はしからず。
 軍平腹立、胸を据ゑかねて、妙春を呼び立て、「世の昼盗人とは、おのれが事なり。女にあらずば、生けては帰さじなれども、命を助くる代はりに、あれをそのまま今宵の内に、外記方へ戻せ。」と思案もなく、無分別に申せば、妙春、挟箱の蓋を開けて金子二百両取り出して、「右に御契約は申さねども、あなたの御手前よろしき故に、この小判を送らるるなり。今の世の中は、かうした事が勝手づく。女房が良いとて、御身代の頼りにはなりませぬ。御ための悪しき事は致さぬ。」といかめしく見せければ、軍平、たまりかねて、妙春に縄をかけて乗り物に押し込み、長持、手道具残らず外記門外に積ませければ、おたねは、世に口惜しく思ひ詰め、宿には帰らず、軍平方にて自害して果てにける。
 外記、堪忍ならず、早馬にて駆けつくれば、軍平方には覚悟して、大門開きて待ち請け、外記、馬より下りて玄関前に走り上がるを、両方より長道具にてはさみ立て、心まかせに働かせず。やうやう若党二人切り臥せ、四、五人にも手負はせ{*2}、奥へ切り入る所を、石倉尉右衛門といへる浪人、軍平に掛かり人にてありしが、後ろより十文字にて突き付け、終に外記は討たれける。近所の屋形立ち騒ぎたる内に、手前早に立ち退きざまに、妙春も討つて捨て、一家、行き方知らず、空け屋敷になりける。
 その折節、外記弟、八九郎といへる者、熊野山一見の同道ありて、参詣せし留守の内なり。山は雪に埋み、大木小松に見なし、枝折の薄も葉隠れの道知れず、岩根づたひに行く末は鳥の声無く、風荒く氷を砕きて、息をつぎ、身を凝らして行く内に、和田林八といふ者、足を痛ませ、心ばかりは進みて、腑甲斐なく見えければ、八九郎立ち寄り、「日頃口程にもなき男。今からその如く腰抜けて、猶行く先の峰は、いかにして越ゆべきや。」と手を打つて笑ひ、「この度の参詣も、汝思ひ立つ故に、連れ立ちたる甲斐ぞなき。小者にあれまで肩にかかれ。それよりは、我等が抱きてなりとも越ゆべきを。」と林八に力を付くべきために、言葉荒らしければ、この者、これを無念に思ひ、「足は立たずとも、その方にまさる強き所をおぼえたり。八幡、逃さじ。」と刀抜きかざして打つてかかれば、八九郎も是非をここに極め、切先より火を出し、しのぎ削りて危ふき時。
 枯野より外記、常に変はりたる姿の顕はれ出、その中に飛び入り、「これは当座の言葉咎め。我は福崎軍平に討たれ、浮世を去つての亡霊なり。敵討たすべき者は八九郎なれば、大事の命悲しく、ここに再びまみゆるなり。この意趣やまずば、軍平を討つての後、互の思ひを成し給へ。是非に頼む。」と言ふ声の下より、消えて形はなかりけり。両人、眼前に驚き、暫し途方に暮れけるが、八九郎、涙に沈みて、「運命の尽きか。」とこれを歎く。林八、勇めて、「今は返らぬ事なり。天を分け地を返して、軍平を討ち給へ。助太刀は某。」と八九郎に力を添へ、本国に帰れば、外記、夢の告げに違はねば、八九郎、林八、すぐに肥後を立ち出、いづくを定めず尋ねける。
 かくて二年余りも心を尽くし、尋ね巡り、「信州戸隠山の社僧に内縁ありて、これを頼みにして、その山中に住みける」由聞き出し、やるせなく心の燃ゆる信濃なるその山に忍び行き、ひそかに様子を聞くに、軍平、道伝と名を変へ、世を逃れたる墨衣、仏もなき草庵を結び、東の山原に黙然として年月を送るは、さらに仏心にはあらず。臆病風に引き籠り、世上を恐れての山居ぞかし。
 八九郎、林八、笹戸を踏み破りて駆け入り、「軍平、今月今日、最後の覚悟。」と名乗りかけしに、昔の勇力出ず、手を合はせ降参して、「今はこの身になりて、外記殿の御跡を弔ひければ、命を助け給へ。」と言ふ。八九郎、庵を見廻し、「汝、心中に偽りあり。用心の枕鑓。形は墨染め、一心は以前に変はらじ。いかに逃るべき。さあ、立ち上がれ。」と責めかくれば、「叶はじ。」と鑓を取る手を打ち落とせば、甲斐甲斐しくも打ち落とされし手を左の手に持ち、林八が助太刀を打ち落とし、林八を切り伏せる所を、八九郎飛びかかり、切り倒し、とどめを刺し、林八が死骸に取りつき、歎くに甲斐なく、今は早、髻切つて発心し、津の国中山寺のほとりに身を隠し、外記、林八両人の後の世を弔ひけると。
 いにしへの名は朽ちずして、今に石塔のみ残れり。

前頁  目次  次頁

校訂者註
 1:底本は、「つたへたり。」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 2:底本は、「手を負(おふ)せ」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。

身代破る落書きの団扇

 人の風俗、今ぞ髪頭、眉山の姿も見よげになりぬ。
 昔、阿波の国徳島に、奥田戸右衛門といへる人、都の北野に久しく浪人して居られしが、この家中によき親類ありて、身代取り持たれて、町打ちの鉄砲を申し立てに三百石下し給はり、空き所ありて、屋敷まで仰せ付けさせられ、首尾残る所なく相済む事、武芸の厚き故なり。この人、当年十六の娘一人を、月にも花にも京育ちにして、美形、田舎には目馴れず、見ぬ人まで聞き伝へて恋ひ偲びぬ。
 常々戸右衛門、心底には、「いかなる方にてもあれ、見立てて末子を貰ひ、娘にめあはせ、奥田の名跡を継がせたき」念願なれば、外より婚礼の内証あれども、取りあへず養子を望みしに、あなたこなたより、この家に入り縁の望み、あまたなり。その中に篠原文助といふ人、縁ありて、諸井頼母といへる人、肝入られて、極月二十六日に、文助、戸右衛門方へ入りて、祝言の事初め。めでたくその年も暮れて、明くる正月三日の事なるに。
 若き者集まりて、「いざ、文助に水掛け祝ひ。」と言ひ出れば、各々進みて、「無用。」と言ふ人、一人も無し。血気の男、手分けして、その拵への程もなく、金箔置きの手桶五十、銀箔の柄杓五十本、衣装尽くしの笠鉾十二本、落書きの大団扇に竹馬一疋、籠張りの立烏帽子、門口に持ちかけさせ、「祝ひましての御事。」と、きつと使を立てける。文助、聞き届けて、「御返事はこれより。」とその者を帰して、暫く分別する内に、家中、これ沙汰にて、見物立ち重なり、作り物の風流をどつと笑うて果たしける。
 老中の耳に立ち、「この儀は先年、御法度仰せ渡されしに、今又、掟を背く者、穿鑿すべし。」大横目両役人に申し渡され、吟味をするに、若手一人も組せざるは無し。「とかくはそのなりけりに済ませ。」とその道具を取り置かせ、水も浪風も無く、阿波の鳴門は収まりぬ。されども文助、堪忍せず、団扇の書き付けを見しに、尊円様の筆の歩み。「正しくこれは、千塚林兵衛が手跡に疑ひ無し。外の人だに心外なるに、この林兵衛は我等と従弟なるに、さりとは憎き仕方。」と腹立やむ事なくて、その夜、屋形に訪ね、子細言はず討ち捨て、すぐに立ち退きける。
 「団扇の落書きせしは、林兵衛にはあらず。杉森新蔵といへる人の書きしに、文助、心のせくままに早まりける。」と、ばつと沙汰をしけるに、新蔵、「さては、我が筆故、林兵衛は討たれぬ。この上は、文助を討つて林兵衛に手向けん。」と、いづくを定めなく尋ね出しが、船中より腹中を悩ませ、色々養生の甲斐もなく、やうやう大坂に着きて五、七日後、他国の土となりける。思へば惜しき命ぞかし。
 さて、林兵衛が一子、林太郎とて、その頃二歳になりしが、女房、生国は備後の福山の人なるが、この子を連れて親里に帰りぬ。「浮世に、武士の妻女程、定めなきものは無し。」と、見し人、これを歎きし。しかも継母なれば、何につけても思はしからず。殊更、この腹代はりの妹、三人までありてうるさく、随分如才なく名人をさばけども、心にかかる言葉も耳に入れば、元の母人の事をのみ思ひ出し、身の悲しきにつけて、連れ合ひ林兵衛の面影をうつつにも忘れは遣らず。「憎や。その文助めを、林太郎成人して討たせ給へ。」と諸神に大願をかけて、心の剣を削り、利道の一念、骨に通りて、「この勢ひ、千尺の岩屋に籠り、七重の鉄門を構へたりとも、安穏には置かじ。」と備後を忍び出、林太郎を抱き守りて、夜露、汐風を厭はず、磯づたひ行くに、備前の国瀬戸の曙に旅の姿を恥ぢて、唐琴の泊り定めず。
 牛窓の浜里に網引きの長九郎といふ者あり。これ、世を渡り奉公せし時、母人、不憫を加へられ、季を重ねて使はれしが、今は古里の営みしける。以前のよしみに、この男をひそかに尋ねしに、優しくも昔の御恩を忘れず、「これは。」と涙を流し、様子語るに哀れを催し、「この度の憂き事、せめてはこれにて晴らさせ給へ。」と、それに連れし女も懇ろにもてなし、蘆火焚くなど、鮑の酢あへ、飛魚の丸焼き、あるに任せてこの人をかくまへ、世間へは女房の姪あしらひに年月送りて。
 林太郎も十一才になりて、母、嬉しさ限りなく、「又二年も過ぎば、諸国を尋ぬべし。」と明け暮れ人がましく育て給へども、浦辺の業を見習ひ、塩にてまてを取り、貝拾ふなど、姿から心まで賤しくなりぬ。なほ末々を思はれ、読み書きの道知るために、縁を求めて、津の国金龍寺に上し置かれけるに、さすが筋目を顕はし、外の児よりおとなしく、十四になれる春の花、開きかかれる若衆の盛り。和尚もなづみ深し。
 この麓の里に伊勢寺といふ所あり。これは、昔の歌人の伊勢が古里にして、草深き山蔭ながら面白き所に、篠原文助、兼田自休と名を変へ、散切にして身を隠し、林兵衛討つてのこの方、ここに住みなし、或る年の正月三日に、しきみ、枝ながら手折りて小者に持たせ、その身は十徳に朱鞘の大脇差一つにて、この御寺に詣で、和尚に対面して世の無常を語り出し、「今日の亡者、戒名もなく、千塚氏の何がし、十三年忌に相当たるなり。拙者ためには従弟づからなるが、不慮に相果てける。御弔ひあそばされ給はれ。」と涙をこぼす。
 折節、林太郎、薄茶を運びて、この物語を聞き済まし、小脇差を抜きて飛びかかるを、自休、早足利かして、その手を取つて引き伏せければ、和尚を始め、各々立ち騒ぎ、「これは、いかなる事やらん。」と詮議をしけるに、自休は少しも驚かず、いづれも静めて、「これには様子の御入り候事なり。汝は林兵衛が倅なるベし。林兵衛最後の時分、二才にてありしが、それより十三年過ぎぬれば、今年十四歳なるべし。かねて存じけるにも、『十五にならば、定めて我を狙ふべし。その節は、この方より名乗り出、心任せに討たるべき。』と諸神かけて覚悟せしに、今ここに居合はせ、某に出逢ふ事、その方、武運に叶ふなり。最前申し上げしは、この者の親が儀なり。林兵衛、草の蔭にて、さぞ嬉しからん。さあ、本望を遂げよ。」とて、林太郎が剣を持ち添へ、我が腹に刺し通し、目前の夢とはなりぬ。林太郎、とどめを刺して、親の敵を討つ事を悦び、その首を器物に入れ、御寺に御暇を乞ひ捨て、又、備前の国に下り、母人に御目にかけ、年来の思ひをこの時、晴らし給ひぬ。
 この沙汰、世に隠れなく、阿波に残りし文助後家、これを聞き付け、牛窓に忍び来て、林兵衛後家の仮宿に、名を知らせて切り込み、「夫の敵討。」と勇みける。「心得たり。」と林太郎、切つて出るを、母親引きとどめ、「互に女の勝負。構へて手を差す事なかれ。」と両人暫し戦ひ、薄手数々の働き。文助女房の太刀を打ち落とし、きつと引き伏せ、命は取らずして、その断り申すは、「いかに女なればとて、道理を聞き分け給へ。夫討たれての恨みを言はば、みづからこそこなたへ申すべけれ。元、林兵衛殿を文助殿、討つて退き給ふを、林太郎が親の敵討てばとて、我等をその恨みは、不覚なり。文助殿誤り給ふ心ざし顕はれ、この度討たれ給ふ首尾、さすが武士の正道なり。討つも討たるるも、先生よりの因果。今以て何か互に恨みは無し。かく手に入れければ、御命取る事、易けれども、さりとはさりとは、我は格別の心中。みづからを殺し給ふが本意ならば、思ひのままにし給へ。」と心の剣を捨てて、至極を段々言ひ給へば。
 文助後家、涙に沈み、「さても恥づかしき御心底。只今、肝に銘じ、義理に責められ、身のあさましき思ひ立ち、まつぴら御許し給はれ。」と、そのまま自害と見えしを、是非にとどめ給ひ、「それ程の思し召し入れならば、我々と一所に形を変へさせられ、文助殿の御跡を弔ひ給へ。夢は覚むる間もある幻の世なり。」と勧めしに、「猶有り難き御心ざし。」嬉しさ袖に余りて、涙おのづから手向けの水と成りて、二人の女、姿そのままに髪を切りて、この所も障りあり。」とて、それより播州の書写坂本に立ち越え、心のすむ良き山蔭を見立て、草葺の庵を結び、薄を枝折の道しるべに、分け入りしより里に出ず。常念仏の鉦の音、殊勝さ次第にまさり、外なく後世の一大事忘れ給はず、行ひ澄ましておはします。
 林太郎も髪剃つて、道林と法名し、里々巡りて托鉢し、二人の比丘尼をいたはり、朝に枯れ木の小枝を拾ひ、夕に谷の下水を掬び上げ、煙短き身を堅めて、一生無言の行者と成り、毎日たけ三寸の観世音を刻み、三年千体成就して、様々供養を成し、二人の御跡を弔ひける。

前頁  目次  次頁

命取らるる人魚の海

 奥の海には目馴れぬ怪魚の上がる事、そのためし多し。「後深草院宝治元年三月二十日に、津軽の大浦といふ所へ、人魚初めて流れ寄り、その形は頭、紅の鶏冠ありて、面は美女の如し。四足、瑠璃を延べて、鱗に金色の光。身に香り深く、声は雲雀笛の静かなる声せし。」と世のためしに語り伝へり。
 ここに、松前の浦々の奉行役人に中堂金内といふ人、里々の仕置きして廻りし時、鮭川といへる入り海にして、夕暮に及び、横渡しの小舟に乗りて、汀八丁ばかりも離れし時、白波、俄に立ち騒ぎ、五色の水玉、数散りて、浪二つに分かりて、人魚、目前に顕はれ出しに、舟人驚き、いづれも気を失ひける。金内、荷物に差し置きたる半弓をおつ取り、「これ大事。」と放ちかけしに、手ごたへして、その魚、忽ち沈みける。それより高浪、静かになりて、子細なく陸に上がり、本国松前に帰宅して、村里の仕置きの段々、老中まで申し入れ、ついでに旅物語の中にも、鮭川の渡りにして人魚射とめたる事、ありのまま申せば、いづれも手を打つて、「これは、ためし少なき手柄なり。明朝、御機嫌を見合はせ、この儀、御披露申し上げん。」と言ひ合はされし時。
 その座に青崎百右衛門といへる、御留守番組して悪人なれば、今年四十一まで、いまだ婦妻もなく、世を面白からず渡りぬ。御家久しき者、殊に親百之丞、御用に立ちぬれば、先知を下しおかれ、日頃我がまま申すも、人皆、許しおきぬ。金内この度、人魚の事を、偽りのやうに申し成し、「惣じて、確かに見ぬ事は、御前の御耳に立てぬが良し。鳥に羽あり、魚に鰭あり。それぞれにその身賢く、自由にならぬためしには、拙者が泉水に金魚あり。わづか四、五間の浅水を楽しみとするに、この程、雀の小弓にて二百筋ばかりも射かけしに、これにさへ当たらぬもの。とかく生き物には油断がならぬ。世に化け物なし、不思議無し。猿の面は赤し、犬には足が四本に限る。」と検校の下座に相詰めしを物語の相手にして、無用の高声。
 大横目野田武蔵、聞きかねて、百右衛門に差し向かひ、「貴殿、広き世界を三百石の屋敷の内に見らるる故なり。山海万里の内に、異風なる生類のあるまじき事にあらず。古代にも、人王十七代仁徳天皇の御時、飛騨に一身両面の人出る。天武天皇の御宇に、丹波の山家より十二角の牛出る。文武天皇の御時、慶雲四年六月十五日に、たけ八丈、横一丈二尺、一頭三面の鬼、異国より来る。かかる事どももあるなれば、この度の大魚、何か疑ふべきものにあらず。」と分別顔にて申しければ、百右衛門、眼色変はり、「金内殿とても、御手柄ついでにその人魚、御持参なれば、並びなき首尾。」と言葉、やむ事無し。皆々、外の事にまぎらかし、泊り番衆に入れ替はり、屋形に帰りぬ。世間の人心なれば、「百右衛門、悪しき。」と沙汰するもあり、又、「金内、何事か申すも知れず。」と笑ふもあり。
 金内、聞き捨てには成り難く、「百右衛門を{*1}討ち果たさん。」と思ひしが、「しかれば我、いよいよ胡乱なる事を申せしと、後にて人のあざけりも口惜し。」と是非なき命を長らへ、「かの人魚の体を詮議して、武運尽きずは、これを一家中に見せて、その後、百右衛門めを安穏には置かじ。」とひそかに屋敷を出、鮭川に行きて、漁師あまたに金銀を取らせ、俄に大網を引かせけるに、その魚、更に見えざる事を歎きて、水神を祈りけるしるしもなく、明け暮れに浦々を眺め歩きて、磯に寄り藻を掻き探し、岸に流れ木を、「それか。」と心を尽くし、日数を重ね、これ、思ひの種と成りて、次第に胸迫り、あらけなき岩に腰懸けながら、入り日を西の方と伏し拝み、惜しや命、かけ浪の泡の如くに消えぬ。
 浦人の知らせ来て、屋敷に歎く者は、十六になりぬる娘より外は無し。この母親も、過ぎし年の時雨降る頃、定めなき浮世の別れせしに、又もや父に、かかる憂き事。袖はそのまま海と成して、「せめて、その御死に顔なりとも見て、後世の御供申すべし。」と思ひ定めて駆け出るに、いづれの女か後に続くは無かりき。金内、寝間の上げ下ろしせし女に鞠といへる者、二十一になりしが、年月の情けを忘れず、やうやう一人、御跡を慕ひ、野を内と成し、浪を枕の宿りもせず、女の歩み、はかどらず、三日といふ暮方に、父の最後の浦に着きて、すがりて歎くに甲斐なし。天を祈り地に伏し、様々身をもだえ、賤さへ笑ふも恥ぢずして、「今は、これまで。」と金内死骸を二人の女抱きて、海に飛び込む処へ、横目の野田武蔵、上意にて駆け付け、この有様に驚き、まづ引きとどめ。
 「いかに女なればとて、親に敵のあるを知らずや。」と言ふ。二人の女、合点をせず、「金内は病死。」と申す。「その病死は、百右衛門が言葉より。」と始めを語れば、娘、涙を流し、「その百右衛門は、みづからを縁組、しきりに申し懸けしに、金内、請け給はぬ恨みにや。これ、武士たる心入れにあらず。しからば百右衛門を討つベし。」と再び古里に帰るを、武蔵、道中を守護し、御前をよろしく申し成し、その後、手前にはごくみ置きし増田治平といへる浪人に後ろ見頼み、遊山の帰るさを付け込み、名乗りかけて、右の手を打ち落とし、左にて抜き合はすを、娘、長刀にして切り込み、たるむ{*2}所を、鞠、飛びかかり、心もとを刺し通し、思ひのままに本意達し、屋形の門を閉ぢて御意を待ち請け、「女ながら切腹申すべし。」と覚悟極むるこそ、さすが武士の娘なれ。
 翌日、御詮議の時分、各々、日頃に憎みあるなれば、老中、諸役人、口を揃へて悪しく言上申し、その家滅亡させける。金内娘には、伊村作右衛門末子、作之助を入り縁仰せ付けられ、中堂の名跡を継がせ下され、手かけの鞠事は、女と申し、下々には優しく思し召し、徒士目付戸井市左衛門といふ者に下され、有り難き仕合せぞかし。
 それより五十日程過ぎて、北浦春日明神の磯より、夜中に注進申し上げ、「目馴れぬ魚。」と最前の人魚、差し上げけるに、隠れなき金内が矢の根。皆々感じて、亡き跡にて侍の名を上げける。

前頁  目次  次頁

校訂者註
 1:底本は、「百右衛門と打果(うちはた)さん」。『井原西鶴集4』(2000)本文及び語釈に従い改めた。
 2:底本は、「切込(きりこみ)たるゝ所を」。『井原西鶴集4』(2000)本文及び語釈に従い改めた。

第一 人差し指が三百石

 菖蒲の節句は幟、兜の光を飾り、屋形町は殊更美々しく、中居、茶の間の女の手業に、綜の小笹は恋の山。
 出羽の国庄内に、昔日、徳岡伊織とて、中古、御家にすみて、七十三歳まで堅固に相勤めしが、それまで御用に立つ程の御奉公もなく、外様の番所に変はらぬ役目を承り、初知行三百石、今に立身なく、馬一疋、若党三人世並みに抱へ、身に奢り無く軽薄言はず、一子も無く養子もせず、我一代の覚悟。律義千万に物堅き昔作りの男なり。五日の未明より、家中残らず大書院に相詰め、大殿、唐獅子の間に御安座あそばされ、近習の諸役人、いかめしく列座して、一人一人召し出させられ、目見え受けさせられ、御手づから御菓子を給はる事、御作法なり。
 伊織、罷り出て首尾よく頂戴仕る時、右の人差し指のなかりしを御覧あそばし、「その方が指は。」と御意あそばされし時、後へしさりて、「若い時の過ち。」とばかり申し上ぐる。折節、御前に豊田隼人といふ大目付、有り合はせ、「伊織、指の儀は、古主、相州様に罷り有りし時、同じ家中、鳥本権左衛門と申す者の留守を考へ、夜盗あまた忍び入り、財宝を奪ひ取り、それのみか、その老母を刺し殺し、裏道を立ち退く節、伊織、野末を通り合はせけるに、権左衛門若党追つかけ、「それ、盗人。頼みます。」と声をかくる。伊織、二人捕らへ、両脇にはさみ、その男を待つ内に、身の切なきままに指を喰ひ切れども、離さず。子細聞き届けて縄をかけ、権左衛門屋形に渡し、この時の働き。伊織、十八の年。」と申し上ぐれば、「その頃、若年にして、よくも仕りける。」と即座に三百石の御加増下し給はり、面目、世の聞こえ、かれこれ有り難く、老後の思ひ出、この時なり。
 次第に行歩も不自由なれば、「是非に養子。」と懇ろなる各々、勧めければ、「ともかくも。」と人々にうち任せ置きしに、同じ組仲間、亀石仁左衛門末子仁七郎、今年十六。満足に生まれ付き、伊織、子にして恥づかしからねば、これを取り持ち、内証相済み、御前へ御訴訟申すまでの折節。
 山吹の色深く、岸の坊といへる真言寺の花盛りに、若盛りの人、酒に暮らし、おぼつかなくも藤村佐太右衛門といふ男、人の話を外になして、「まづ新しき事は、伊織養子に仁七郎、行くに極まれり。この若衆も、念者に指切つて取らせければ、又三百石御加増取るベし。十本切れば三千石がもの。飯は人にくくめられても、知行になる指を切り給はむか。」と大笑ひして、しかも下戸の口から人の身の上{*1}をあざけりしは、武士に浅ましき心底なり。
 仁七郎が念友、駒谷杢左衛門が耳に入りて、これ堪忍ならず。折から病後にて、足の踏みどもおぼえざりしが、堅固の時を待ちかね、仁七郎にも知らせず、佐太右衛門屋敷に状を付けて、風松といふ野原に待ちける。今は引かれぬ所にて、弟佐太九郎と心を合はせ、杢左衛門に渡り合ひ、そもそもより助太刀、後ろには下人を四、五人廻し置きぬ。杢左衛門、随分働きぬれども、病上がりにして気勢なく、初太刀は勝ちを得たれども、相手、大勢なれば、終に討たれて、哀れや。それより佐太右衛門は国遠して、丹後の宮津に重縁あつて、身を隠しぬ。
 仁七郎、聞き付け、北国に尋ね行き、まだ踏みはじめの磯道、天の橋立の里に忍び、敵知るまでの手立てに、京よりの小道具売りとなつて、小者に負ひ箱、目貫、小柄の品々持たせて、その身は一つ脇差に編笠かづき、近付き求めて見合はせ廻りしに、若衆頃と思ひをかけ、無理にたはぶれられて、商ひ物を小者が言ふ通りに、値切らずに買はるるも、下心ありて可笑し。「身に望みある故に、様々の難儀にあふも、これ皆、杢左衛門殿の御ためなれば、何事も口惜しからず。」と気を尽くして、やうやう佐太右衛門が有り所を聞き出し、心静かに討ちぬべき事を悦び、「この三月二十七日、祥月命日に相当たれば、是非に念願晴らさん。」と思ひ極めし内に。
 宮津の家中に、内海丹右衛門といふ者あり。中将棋の友として朝暮参会せしが、佐太右衛門、無用の助言言ひつのりて、丹右衛門と口論になる。両方共に怒りて、人のあつかひも聞かずして、既にその夜、野墓に出合ひ、討ち果たすの由{*2}、その内証を小者が聞き出しければ、さりとは悲しく、「もしも佐太右衛門、その者に討たれなば、年月の大願、あだに成り行く事の無念なり。」と身拵へするまでもなく、刀おつ取り出て行く。暮れての道の朧月、帰雁遥かに声続き、沢田の蛙、雨を乞ひ、岸に角ぐむ蘆の繁く、踏み越し足を痛ませ、心玉飛ばせて行けば、少年の塚のみ、立て竹の哀れに眺め、丸葉柳の蔭にして息を継ぎしに、所へ内海丹右衛門、下人あまた召し連れ、果たし眼にて来る。
 「これならん。」と立ち寄れば、丹右衛門、「何者か。」とあらけなく咎めける。仁七郎、礼儀正しく言葉を述べ、段々始めを語り、「某が兄{*3}の敵なれば、佐太右衛門を我に討たせて給はるべし。御自分の御事は、申しても当座の儀なり。御手にかけられ、討ち給はば、残念、後の世までの思ひの種。この事、御聞き分けあそばされ、御許し給はれ。」と手を下げて頼みしに、さりとは道理を弁へぬ武士にて、「その段、存じも寄らぬ事。この男が相手取りにする者を、この時に及んで断り申すは、慮外なる丁稚め。」と憎さげに申せば、仁七郎堪りかね、「おのれ、侍かと思ひ、色々言葉を尽くせし。この上は、八幡、逃さじ。」と打つてかかれば。
 丹右衛門、当惑して、「その儀ならば、相待つべし。」と言ふ。「今は、その返事遅し。死出の山に待てよ。」と飛びかかつて首を落とし、家来を追つ散らして、石塔の手向け水を掬び、口にそそぐ所へ、佐太右衛門、白衣に鉢巻、下人に長刀を持たせ、山の動くが如くここに来るを、仁七郎、名乗りかけて討つて出、暫くしのぎをけづり切り結びしが、仁七郎、運命強く、これも中腰を切り下げ、弱る所を畳みかけて切り立て、首尾よく{*4}とどめ刺す時、この働きに驚き、召し使ひの者、跡無くなりぬ。
 その後、気を静めて、佐太右衛門、丹右衛門が二つの首を、長刀にて小者にかつがせ、本国への家苞にして立ち帰りける。

前頁  目次  次頁

校訂者註
 1:底本は、「身うへ」。『井原西鶴集4』(2000)本文及び語釈に従い改めた。
 2:底本は、「うち果(はた)すよし」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 3:底本は、「それがし兄(あに)」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 4:底本は、「首尾とゞめさす」。『井原西鶴集4』(2000)語釈に従い改めた。

↑このページのトップヘ