江戸期版本を読む

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カテゴリ:井原西鶴 > 校訂武道伝来記 岩波文庫本

第二 按摩取らする化け物屋敷

 今の世は、人素直になりて信心深く、神国の風俗現れ、悪魔を払ひ、松に音無く海に浪立たずして、豊後の府内、静かなる舟着きとは成れり。
 以前、この所に化け物屋敷とて、同心町の末に歴々の屋形に、人住まずして荒れ渡り、梢の秋になりて紅葉の盛り、枝に見ながら、人も手折らず。萩、薄おのづからに乱れ、唐蔦、道を閉ぢて、狐狸の遊山所と成り、松に留まり烏も恐れて、百年もこの内を見た人もなく語り伝へり。その折節、新参の侍に梶田奥右衛門とて軍法者、当分三百石、御合力に下しおかれ、御国へ相勤め、町人の屋敷を借りて、いまだ妻子もなくて暮らしぬ。御家にありたき侍なれば、年寄中{*1}も懇意にして、「よろしき空き屋敷もがな。奥右衛門に申し請けて、ここに落ちつかせたき」内談あれども、幸ひの所も無し。
 或る時、化け物屋形の事を奥右衛門、承り届け、「この屋敷を申し請けたき」衛訴訟申し上ぐる所に、「仔細あれば、無用。」と老中、御取り次ぎもなかりき。再三言上申せば、願ひの通り下し給はり、急に屋普請して移りぬ。この心底強きに恐れてや、五、七日も別儀なく住み済ましければ、奥右衛門、武勇沙汰して、国中の誉め者なり。
 或る夜時雨れて、板屋に目覚めて、辺りを見れば、八角の牛の形せしもの、剣並べたる羽を広げ、枕近く寄る時、有様を見定め、「先年、人の恐れしは、これなるべし。」と刃物に心をつけず立ち出、「手どらへにして、おのれが形を見ん。」と。この一心通じてや、そのまま消えて、跡無し。その後、十四、五なる女と顕はれ、貞宗の刀、孫六の大脇差、拵へのありのまま持ち来りて、「みづからは、この御屋敷の片蔭に住む者なり。今までは人をたぶらかし、この打ち物奪ひ取りしが、何事もおぢさせ給はぬ御心中、又ためしなき御侍。向後、悪心去つて、世の人にわざを致さじ。このままに住み馴れ穴、御貸しあそばされ下されよ。」と尻声短く申すにぞ、奥右衛門、可笑しくて、「さては、年経し狸なるべし。その断りならば、許しおくなり。いよいよ人に形を見する事なかれ。今宵は殊更淋しきに、夜すがらこれにて語れ。」と嫌がるを引きとどめ、「無心なれども、頼む。」と明け方まで肩を打たせければ、後には狸、あくびして、おのづから面影まことを顕はし、身の毛立て、逃げ行く。それより何の事無く収まりし。
 ひそかに老中まで二腰の事、申しけるに、取り寄せ、各々改め給へば、「確かに見覚え。前にこの屋敷に住まれし{*2}風間治右衛門差し替へにまぎれず。」「奥右衛門は、あつぱれ勇者。」と御耳に立ち、同心三十人預かり、国中吟味役を仰せ付けさせられし。御眼鏡違はず、万人によろしく、「この人なくては。」と一家中、思ひ付く時。
 生国但馬より早飛脚を仕立て、遠親類の方より申し越す。「当月二日午{*3}の上刻の事、御同名奥之進殿、不慮の喧嘩。相手は戸塚宇右衛門{*4}。即座に討つて立ち退く。風聞仕るは、方人あまたの由。その者、分明ならず。宇右衛門{*5}は四国へ退きたるやうに沙汰あり。そこ元御心底、察し奉る。」の由。奥まで読むに暇なく、すぐに御前に出、段々敵討ちたき願ひ。御承引あそばされ、「尤も兄の儀なれば、堪忍なるまじ。首尾よく討つて、追つ付け帰参の時分は、先知一倍の御加増。」と有り難き御上意を受け、翌日、豊後を立ち、まづ伊予舟に取り乗つて、松山に上がりぬ。この所に、母人の妹、縁に付き、榎本才兵衛と申す人、叔母婿なれば、この元に忍び居て、土佐にも行き、讃岐にも越え、様々身をやつし、敵のありかを尋ねしに、深く身を隠して知れ難く、二年余り心を尽くせし甲斐ぞ無く、空しき年月をここにて送る無念なり。
 奥右衛門、武芸いづれ、おろかも無し。中にも軍者なれば、この国に逗留の内、ひそかに所望して、城取りの大事を各々伝授する事、これ武道の第一なり。その弟子の内に大津兵之介といへる美少人、今年十七。心ざし強くして優しく、人の思ひをかけし若衆なるが、いつの程にか奥右衛門と深く成りて、この世の外まで申し合はせて、心中残さず互にうち解けし上に、敵討つ子細を語りければ、兵之介、横手を打ち、「これには不思議。御仕合せあり。その戸塚宇右衛門は、私同名、越前にありし時の古傍輩の由にて、親仁存生の時分、両度まで尋ね来し。その面を見覚えければ、穿鑿すべき便り。」と喜ぶ事の頼もし。奥右衛門、猶力を得たり。
 又或る時、同国今治に居る由、告げ知らす者ありて、近日立ち越す折節、奥右衛門、散々腹中をいたませ、頼み少なき程悩みしを、「思へば惜しき命なり。」と兵之介、昼夜枕を離れず。大方に養生を仕立て、心に諸願を掛けぬれば、まづ礼参りに浦辺の八幡宮へ参詣の道にて、宇右衛門、忍び駕籠に身を縮め、両方にたくましき若党召し連れて、浜より小船に乗り移るを見付けて、「これは、天の与へなるに、奥右衛門ましまさぬ事の残念なり。」と身をもだえても、甲斐なし。
 「これより又、いづくへか立ち退くべし。この時節に討たずは、又いつ巡り逢ふべし。」と前後を見れば、人もなく、取り急ぎて宇右衛門、舟に乗るを、「我、奥右衛門が弟なり。いつまでか逃るべし。余さじ。」と討つてかかれば、宇右衛門下人、進むを、切り放てば、これに驚き、皆々退きける。その内に宇右衛門、抜き合はせ、「奥右衛門が弟は、心得難し。しかれども、向かふ者を嫌はず。」と互に手を尽くして切り結ぶ。暫く戦ひ、両人ここに一命惜しまず、踏ん込みて相討ちに、兵之介、宇右衛門が左かひな打ち落とせば、宇右衛門、兵之介が左の手首切り落とす。両方に引き退き、息つぎの内に、宇右衛門家来、舟に抱き乗せ、岸を離れて押し出す。「互にこの身になりて、何とて命を惜しむぞ。返せ、返せ。」と言ふ声ばかり残りて、舟は沖遥かになりて。
 「是非もなき仕合せ。このまま腹かき切らん。」とせしが、「この段、奥右衛門殿に語りて後、切腹せん。」と長らへて嬉しからぬ身を関はり、切り落としたる宇右衛門が腕に、我が手を拾ひ集め、ひそかに私宅に帰り、そのまま、「この物語。」と思へども、折から奥右衛門、病中なれば、まづ思案をするに、「この事、聞かせらるるからは、よもや、そのままはおかれじ。気色に構はず駆け出、万一し損じありては、返らじ。本復の時まで相待ちて、この事を語るベし。」と甲斐なき命を繋ぎ、世間へ病中と申し成し、外科の上手、諸内玄庵を内証にて頼み、神文の上にて養生して、疵も大方治りぬ。
 一門限つて人に会はず、深く取り籠りてありしに、奥右衛門、気色よく、今日初立ちの杖にすがりて、兵之介屋敷に見舞ひければ、奥へ通して、只二人、この程積もる事のみ、語るも聞くも涙。仮初に申しかはせし事ながら、念友の深き意気地、女の契りとは格別なる事ぞかし。互ひの憂き晴らしに、盃かはして後、奥右衛門、扇拍子{*6}にして曲舞を謡ひ、兵之介に鼓所望。片手のない事、この時迷惑して、余の慰みにまぎらかしけるに、謡、猶やめずして、「常に好きの鼓なれば、是非。」と望む。「左は、そら手が痛む。」とて、外科の玄庵に持たせて、二人して打つ鼓は、鳴り悪しく、これも興さめて、又、「居相撲。」と言ふ程に、兵之介進み、「我が恋の関取。誰にても片手投げ。」と割り膝にしてかかる時、奥右衛門、抱きつきて、左の手のなき事を見出し、「これは。」と驚き、「いかなる事ぞ。」と気を取り乱す時、二つの腕を取り出し、宇右衛門に出合ひての首尾、ありのままに語りければ。
 奥右衛門、涙に沈み、暫し気を取り失ひけるを、やうやうに本性に成し、「大事の身の、敵を討たぬ内にその心入れ、弱し。」と叱れば、「いかにもいかにも、宇右衛門めを討ち取つての後に、分別あり。」とて駆け出でしを、袖にすがりて引きとどめて、「かねて助太刀の望み。殊更、この度の心掛かり。かれこれ以て、後には残らぬ所存。」と覚悟して、右の段々、一つ書きにして大殿様へ御訴訟申し上げしに、意気、道理を聞こし召し分けられ、御暇下し給はり、「首尾よく帰宅をすべし。一代無役、先知六百石、相違これなし。」と有り難き御意請けて。
 それより奥右衛門、同道して、中国に越して、知るべを求めて穿鑿するに、但馬の国入佐山の麓に、久松落月院といへる真言寺によしみありて、これに身を隠し、疵養生して無事になり、忍びて近在を歩く由を聞き定め、急ぎ但馬に立ち越え、落月院の一里離れし浅田村に仮寝して、ひそかに様子を見しに、「両門共に厳しく人を咎むる由は、いよいよこれにありしに極まれり。」と毎日、道筋立ち隠れ、逢ふ事を願ひしに、或る日、宇右衛門は、寺掛かりの浪人に日下源五郎といへる者同道して、頃しも初雪の朝、追ひ鳥狩りの道具を下々に持たせ、ここに来るこそ仕合せなれ。
 奥右衛門、飛び出るを、兵之介、引きとどめ、「宇右衛門、片手なき者を、そなたの御手にかけらるるも、おとなげ無し。ここは、私に給はれ。」と走り寄り、「奥右衛門討たせらるる汝なれども、いつぞやの遺恨あれば、命を我等、申し請けて討つ事なり。逃れぬ所。さあ、太刀を合はせ。」と声をかくる。さすが宇右衛門、速わざ者。抜き合はせ、一命極めて華やかなり。宇右衛門下人、浪人の源五郎、横合ひより打つてかかるを、奥右衛門、隔たり、まくり立て、切り払へば、五人ながら手を負ひ、この切先に驚き、散り散りに逃げ行く。兵之介は、宇右衛門を切り臥せて、「これ、申し。とどめはこなた様に。刺し給へ。」と言ふ。奥右衛門、うち笑ひ、「神妙なる御働き。」と宇右衛門が首打ちて。
 めでたく豊後に帰り、再びその名を上げて、兵之介を伊予国へ送り届け、これ、御前の御機嫌よく、衆道の情け、武道の誉れ、人の鑑、世語りとなつて、猶その後は、兄弟のちなみをやめず。国里は万里に隔てつれども、互に心を通はせける。
 これ武士の本意、かくあらまほしき事なり。

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校訂者註
 1:底本は、「手寄中(としよりちう)」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 2:底本は、「住なれし」。『井原西鶴集4』(2000)に従い改めた。
 3:底本は、「牛」。『武道伝来記』(1992)本文及び語釈に従い改めた。
 4・5:底本は、「宇左衛門」。『井原西鶴集4』(2000)本文及び語釈に従い改めた。
 6:底本は、「扇拍手(あふぎびやうし)」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。

第三 大蛇も世にある人が見たためし

 行く春の桜鯛、堺の浦に限らざりけり。予州宇和島といふ所に、手繰りの綱を下ろさせ、女まじりに今や引くらん。
 五端帆の舟二艘を出島の宿の縁の先まで釣り揚げさせ、潮を湛へて数の魚を放ち、これぞ正真の沖鱠。入り日を金柑に見なし、浪の浮藻を水鉢に作り、この景色は下手な仙人より増しに、眺めの長じて小船に棹さし、盃流しの一曲を興じて歌ふ所に、俄に海上震動して、白浪、舟を揺り上げ、水より少し下に、五丈ばかりの龍、うねり廻るを、見る者、肝を消し。
 船頭をあらけなく叱りて、「こんな所へ乗せて来るものか。昨夜の夢見悪しきに、『来まい。』と言うたを、女どもが、『それでは約束の義理が欠ける。』と言うて、この様な怖い目をさせる。」と泣き出すと、着る物皆脱ぎて、大小にくくりつけ、褌まで外して泳ぎ支度をする。又、傍らより、「さても残り多い事は、瓢箪を持つて来れば、まざまざと水を飲んでは死なぬものを。」と悔む。「何も心にかかる事はなけれど、祝言してから十日にもならぬ女房が、晩から淋しからう。」と涙ながら我が屋敷の方を眺めやり、「とても、こちどもは、水心は知らぬ。」と手を懐に入れて、舷に寄りかかつて念仏繰り返し、「かの観音の力を念ぜば、浅き所を得ん。」と読み出すもあり。船頭を呼べば、「もう御許されましよ。目が舞ひまして。」と船底に息も立てず。
 その中に、石目弾左衛門、舳先に立ち上がりて、大身鑓を上段に構へ、大音上げ、「正体、いかなる物ぞ。この治まれる時津波太平の御代に、怪しき姿。あつぱれ曲者なるベし。」と海上を睨みつけたる有様のゆゆしき。不思議や、大蛇、淡路が島の方へ行くと見えて、気色静かに浪収まり、皆々、夢の覚めたる心地して、又、右の汀に漕ぎ戻し、からき命を我が物にして上がりぬ。
 その後、城下にこれ沙汰。或る時、弾左衛門手柄、美々しく話すにつけて、成川専蔵、木村土左衛門が臆病の事、言はずして顕はれしかども、誰先切つて評判する者もなかりき。されども、若き衆の悪口に、臆病なる事を、「昨夜の{*1}夢見、十日にならぬ祝言。」と、はやり言葉にし成しける。
 まだこの沙汰、しかと聞かぬ男の、由来を尋ねられし。その夜は、五月雨降りすさみたる、つれづれのしめやかなるに、小谷孫九郎、久米田新平、松川太郎八。亭主は井田素左衛門なりしに、この男、成川専蔵子息瀧之助と、わりなく言ひかはしたる中にて、「今宵は来るべし。」と宵より手紙に告げ越しければ、いづれもの長座、気の毒の所へ。
 早、瀧之助、ひそかに玄関までおとづれたるに、親専蔵、舟遊山の時、不首尾の品々、ふと耳に入り、はつと思ひ、暫したたずみて聞き届くれば、親仁、侍の一分も立たず、腰抜けの取り沙汰。座中大笑ひなれば、「これ堪忍ならぬ所。よしよし、これまで。」と降り続く雨にそぼぬれて、「座を立つを待ちかけ、物の見事に討ち果たさん。」と思ひながら、「いやいや。この事を言ひつのりて、かうなる時は、いよいよ親仁の引け、恥の上の恥辱。ここは分別所なり。かへつて不孝の科を逃れず。」堪忍ならぬ所なれども、胸をさすり、歯をくひしばり、「所詮、今の物語は、久米田新平。相手に不足無し。」と無念ながら宿に帰り、その後、素左衛門、新平に逢へども、色に出さず、時を過ごしぬ。
 その頃又、太田鬼卜といふ浪人、丹石流の兵法の師をして、一家中、弟子と成り、右の者どもも一所に集まり稽古するに、戸入りの請け太刀、折節、新平に当たりたる時、瀧之助、「幸ひの所。」と打ち太刀に出て、続けて二、三本したるに、「それでは止まる。」「止まらぬ。」と穿鑿し出しけるに、新平、おとなげなくせいて、「竹刀というては、疵がつかぬによつて、その証拠知れず。生若輩なる口より、言はれぬ事を言はんより、勢を出せば、つい知れる事。瓜の蔓に茄子はならず。」とつぶやくを、瀧之助、猶聞かぬ巧みなれば、「異なたとへを承る。殊に、『竹刀では証拠の知れぬ。』とは、真剣では拙者、得致すまいと思すか。弓矢八幡、逃し申さず。よく覚え給へ。」と言ひ捨てて帰り、最前の意趣をこれに巧み替へたる心底、武士の子程{*2}あり。
 その日の八つ時分に、新平方へ状をつけ、「今晩、椿が原{*3}にて仕合致すべき」由、言ひやりて、日の暮るるを松が根に腰をかけて、覚悟を極めける。その頃、新平が懇ろの弟分に富坂弁四郎、この事を聞きて、只一人ここに来るを、五月闇のあやめ知らず、新平と心得、「瀧之助なり。」と言葉をかけしに、弁四郎、わざと言葉をかはさず。新平に代はりて切り結び、互に数ヶ所手を負ひて、暫したたずむ所へ、新平来りて、「瀧之助はいづ方に。」と言ふに驚き、「さては、人違ひか。」と思ふ内に、「弁四郎、助太刀に参りたり。」と言ひ果てず、又切つてかかるを、飛びちがへて打つ太刀に、弁四郎が首、後ろに落つると、すかさず新平、抜き合はせける所へ。
 素左衛門、又、瀧之助が助太刀に来りて見れば、打ち合ふ度毎に、しのぎより出る火は、蛍の如く飛び乱れ、最前より瀧之助、あまた手負ひ、疲れ、足もたまり得ぬを、急に叩き付けられ、木の根につまづき、「南無三宝。」と転びながら受け留めて、危ふき所を、「素左衛門なるは。」と勢を付け、新平と渡し合ひて、二打ち三打ち打つと思ひしが、素左衛門、切り倒され、「無念。」と言ふ声を最期に残しぬ。
 瀧之助は、弁四郎が死骸を枕にして息をつきたるに、この音を聞きて力を落とし、「口惜しくも、ここにて両人共に討たるるこそ本意なけれ。何とぞして新平を手にかけ、本懐達すべく思へども、五体続かず。手を負ひて、早、太刀打ちも叶ふまじ。」と思案巡らし、小声になつて、「南無阿弥、南無阿弥。」と二、三遍唱へ、「誰かある。早くとどめを刺せ。」と言ふ声{*4}に、新平、気をくつろげ、「さては、し済ましたり。」と立ち寄るを、寝ながら横に払へば、高もも切り落とし、倒るる所を、起き直りて首を打ち、「まづ本望達したり。」と嬉しきばかりにて、次第に弱り果て、新平がむくろに腰をかけ、差添、腹に当てながら、切るまでは力なく、何ぞと問ひし白玉の、椿が原の露と消えけり。

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校訂者註
 1:底本は、「夕(ゆふべ)に夢(ゆめ)み」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 2:底本は、「子程(こほど)とあり。」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 3:底本は、「椿原(つばきはら)」。『井原西鶴集4』(2000)本文及び語釈に従い改めた。
 4:底本は、「勢(こゑ)」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。

第四 初茸狩りは恋草の種

 作州津山の古き城下に、沼菅蔵人子息半之丞、美少、並びなく、春は限り短き桜を欺き、秋は月の満つるを欠くると見るさへ{*1}、なづまぬは無し。この所は海遠く、久米の皿山と聞こえし麓に、初茸、数生ひて、草分け衣、露にそぼち、諸士、これに狩して勤めの暇を慰み、折からのつれづれをもなだめぬ。半之丞も、今日は霧の絶え間がちに、尾花吹く嵐静かなるに、若党わづか召し連れ、ひそかに立ち出、編笠をかづき、姿自慢の色香を含み、嶺の紅葉一枝手折らせ、渓に知るべの草の庵に立ち寄り、暫く休らひけるに。
 同家中、大道孫之進にかくまはれて、国の守を望みし竹倉伴蔵、これも茸狩に、片山団右衛門といふ男に誘はれて出しが、最前より半之丞を見て恋ひ沈み、後を慕ひて、同じ庵に頼りながら、卒爾に言葉をかくべきよすがもなく、たたずむ所に、半之丞、常々詩歌に心を寄せ、この庵の僧と、「楓林の月」といふ題の心を章句に二、三返。吟声の艶なるを聞くに、思ひのいや増しけるが、伴蔵も、かねてこの道を好けるやさ男にて、「かやうの推量は、高き卑しき隔てぬ習ひ。粗忽ながら。」と即座の対句に数の思ひを籠めて綴れば、「さてさて、忝き御心ざし。どなたは存ぜず。」と頂き給ふを調子に、竹縁にねぢ上がりて名乗り合ひけれども、顕はにしては、心の浅み酌まるるも恥づかしく、良い程に挨拶して帰り。
 その翌日、たまりかねて、半之丞方へ見舞ひ、折を伺ひ心底を語れば、「思し召し、千万忝し。さりながら、我等如き者にさへ、『構ひ申す者ある。』と申せば事可笑しく。されども、それ程の御深切、余り過分に存ずる上、せめては。」と玉の盃の、底意なく見えしを、伴蔵、付け上がりして、「御懇ろの御方は、どなた。」と問へば、「これは、異な事御尋ねに預かり、近頃迷惑致す。私、これ程の心ざしに{*2}、その御言葉は、御自分様には似合ひませぬ。いか程仰せられても、この段は申さず。」と念者をいたはるの心ざし、面に顕はれて、強く言ひ切るに、力なく、「承りかかるからは、承らねばおかず。又、存じたる者に聞きませむ。」と帰り、難なく聞き出しける。
 その男は、本町二丁目能登屋藤内とて、名を得し町六方の隠れなく、心だての結構なる御侍は、これが旗下に御機嫌取る程の器量。勿論、身代よろしきには構はず、「心底の潔き男。町人にはしほらしき。」と思ふ折から、御姿を見初め、「一命を御返事なき先に参らせたる」より可愛がらせられ、この三年の懇ろぞかし。
 又、この伴蔵は、生国加州の人なりしが、これも水野何がしの流れを汲むの武道磨きなりしが、尋ね行きて、藤内を門外に呼び出し、頭から刀の反りを返し、「町人には腰が高し。下に居れ。」と只一呑みに眼を見出し、ねめ付けたる気色。藤内、まづぎよつとして、「我にこれ程に物言ふ者無し。いかさま、公儀の権威もありや。」と三指になつて窺ひぬるに。
 伴蔵、刀に手を懸けながら、「聞けば、おのれめは、忝くも沼菅殿の御惣領を、勿体なくも兄弟分とする事。これを、摩利支天も憎しと思し召さむ。なれども、彼は形を見せ給はず。我、今、弓矢八幡大菩薩の神勅に任せて、ここに来る。殊に今日、半之丞様の御姿を拝み奉り、御流れを頂き、向後より恐らく、桓武帝の末孫竹倉伴蔵平正澄、御後ろ見を仕る。只今八月二十八日より、その方、かの御門外にも、からすね{*3}を運ぶ事を、堅く停止す。推参千万、言語道断。びくともせば、首と胴との後朝。さあ、只今返事は、返事は。」と大道に両剣を横たへ、白昼の往来、とどまつて見物す。さしもの藤内、この勢ひに胸轟き、雷の落ちかかる心地して、震ひ震ひ、「いかやうとも御存分にあそばし、私一命御助け、頼み奉りまする。」と涙を浮かべけるに、不憫まさりて、伴蔵は宿に帰りぬ。
 これ程に名を得し男だても、さすが長袖のわりなく、胸のほむらは塩釜の「うらみは半之丞。かの男と盃までせし事、思へば堪忍ならぬ所。世の思はく、人の嘲り、生きて甲斐なく」ぢきに屋敷に駆け込みて、半之丞に逢ひて、段々言ひも果てず、藤内、脇差切り付くるを、ひらりと退き、「さりとては、それには様子あり。まづ心を鎮めて物を聞き給へ。」と、とどむるをも聞き入れず、ひた打ちに打つ太刀に、半之丞、右の肩先を誤り、この騒ぎに、家老、家の子ども走り出、懸け隔たり、藤内を微塵に斬り砕き、「半之丞、深手に見えさせ給ふ。」と各々肩にかけ{*4}、内に入り、「藤内事は、慮外者故、討ち捨てに致したる。」と奉行所へ断り、死骸は弟藤八に下さるるにて済みぬ。
 半之丞、さまでの手とも思はざりし難儀、九月十二、三日の頃より験気を得て、「つらつら藤内仕方、余りに短気にて、仕損じ給ふ時、我、この手を負はずは、家来の手にかけてやみやみと殺させはせまじもの。悔みて甲斐なき事ながら、去年の明日の夜は、ひそかにおぬしの部屋に伴はれ、みづから東の窓を開け、南面の簾を巻きて、しめやかに語り慰み、二人が仲にかはす枕は、傾く月の桂ならでは知る者なく、籬の菊のしたたりを受けては、不老不死の仙薬を求めても、契り久しからむ事を誓ひしに、思ひの外の憂き別れ。その言葉も早、夢になりたるよな。この懐かしき心の中をば、つゆも知り給はず、はかなく消え給ふ時、さぞ某を恨みと思しけん。さうではない心底を、とても叶はぬ浮世に、竹倉伴蔵が憎き仕業故、まざまざ、かうし成し、『死なば共に。』と言へる人を先に立てたる始末。これは、いかなる因果巡り来て、今の悲しみ。思へば、兄分藤内殿の敵は、伴蔵なる者。南無三宝、後れたり。逃さぬ、逃さぬ。」と、いまだ疵の半ばも平癒せざるに、駆け出ては絶え入り、狂ひ出ては伏しまろび、うつつなき風情。親父蔵人を始めて、付き付きの者までも、興覚めながら押し静めぬ。この下心を知れる程の者は、殊更哀れに袖を絞りける。
 ここに、藤内弟藤八、今年十六になれるが、兄やみやみと討たれたるを無念に思ひ詰め、「所詮、敵は半之丞。年来の心底翻したる侍畜生。今は、駆け込んで一太刀恨みむ。今宵は忍び入らん。」とは思へども、「仕損じては、かへつて恥に恥を重ぬる。とかく時節を窺ひて。」と、これも常々、死に支度して時を移し。
 その年の十月十九日の夜半に、「沼菅半之丞、御見舞。」と言ふ。「さてこそ望む所。」と身拵へして、「尋常に討ち果さん。」と、まづ座敷に通し、逢ふより早く、半之丞、涙を流し、「こなたに御目にかかるも面目無し。今まで命長らへし事は、これをその方へ渡したく思ひし故。」と下着の片袖を引きちぎりて包みたる物を、投げ出して、前に臥すと見えしを、引き起こせば早、懐の中にて鎧通しを心元に刺し込みながら、息絶えぬ。
 さて、包みたる物を開くれば、竹倉伴蔵が首なり。「これは。」と切り目を見るに、血引かず。いづ方にてか洗ひて、落ち着きたる仕方。藤八、呆れ果て、「何事も前世の業なるべきを。これ程潔き心底知らずして、今まで半之丞を恨みたる。由なや。これを種として、二人の仏果を祈らんには。」と出家しぬ。

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校訂者註
 1:底本は、「見たへ」。『武道伝来記』(1992)本文及び語釈に従い改めた。
 2:底本は、「心ざしは其(その)」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 3:底本は、「御門外(もんぐはい)にもすねを」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 4:底本は、「かけて内(うち)に」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。

第一 太夫格子に立つ名の男

 吸ひ付け煙草の煙、富士を夜見る女郎町、安倍川の騒ぎ。三島屋が格子の前に立ち重なり、聞き耳を駿河なるはやり太夫、相模、吉野が連れ歌。かはりさんさの節も、色に映りて、人皆なづみ深く、身代「破れ菅笠」と歌ひしも、古き昔とはなりぬ。恋は闇こそ可笑しけれ。出家も頭巾の山深く、茶問屋の客も女珍しく、旅人も一夜切りの慰みに浮かれ、かざし扇をするもあり、編笠を人も咎めず。かかる悪所は、互に堪忍するこそよけれ。
 折節、同じ屋敷を忍びの友、青柳十蔵、榎坂専左衛門。この両人、供をも連れず、ひそかに浮世狂ひに乱れ歩き、宵に呑み過ごしたる酔ひの機嫌に正気を忘れ、無用の口論をして、日頃のよしみを顧みず、刀抜き合はせて切り結びしが、十蔵、首尾よく専左衛門{*1}討つて捨て、取り廻しよく立ち退き、屋敷に帰り、沙汰なしにして、世上を聞き合はせける。
 専左衛門弟専兵衛、その夜の明け方に聞きつけ、その所に行きて、様々穿鑿すれども、遊女町の者、相手は知らぬ極まり、辻番、ねだれて甲斐なく、まづ死骸を取り置きて、その後、屋形に立ち帰り、無念重なり、身をもだえて、討ち手分明ならねば、是非なし。しかも掟を背き、夜中に屋敷を立ち出、その上、所悪しき身の果て。かれこれ御立腹あそばされければ、御長屋にたまりかね、大横目衆、内証申し、立ち退きしが。
 専左衛門女房の歎き、殊に七歳になる専太郎。この二人、専兵衛介抱して、清見寺の近里に知るべありて、俄住まひの仮枕。夢さへ連れ合ひの事、面影に立ち添ひ、寝覚めに専太郎が、「とと様は。」と尋ねし時、猶又、心も乱れて、「世に長らへて物思ひ。身をあだ浪に沈めん。」と妻戸開くれば、浦淋しく、三保の松風吹き続き、月冴え渡る小舟に、海人の呼び声、女の声。子を思うての蘆火焚く、賤しき身にさへ心ざし殊勝に、清見寺鐘も耳に響き。
 「昔もこの里の母人、子を尋ね行き、近江なる三井の古寺の事ども」を思ひ出して、一しほ袖を絞り、「我、相果てなば、さぞ専太郎が歎くベし。女の心のはかなや。夜を日に継ぎて成人させ、是非に敵を討たせでは。」と覚悟し替へて、身堅め、愁へを胸に含ませ、面は鬼に見せて、その後、更に歎かず。専太郎が一人遊びのでくの坊、竹馬を捨てさせ、女房ながら打ち太刀して、兵法を励ませける。
 専兵衛は、安倍川のほとりに忍び行きて{*2}、喧嘩の次第、世の噂を聞けども、いよいよ相手は知れざりき。この事、無念なれども是非なく、色々思案巡らし、「かねて挨拶悪しき人もや。」と吟味せしに、その思ひ当たりし事も無し。分別尽き果て、世間の人に会ふも恥づかしく、脇道にさしかかり、傾城町より野を分けて、川辺、宝台院の前を過ぎて、狐が崎に暮れかかりしに。
 冬野の草枕して、乞食四、五人集まりて、「生あれば食あり。これを代なして、仲間の酒手せん。」と黒き羽織を一つ、袖を返して、「これを今、仕立てさせば、小判二両にては出来まじ。たけも二尺七寸あり。良い買ひ手あらば、捨てても三十五匁。五人に七匁割り。」と算用する声。聞きて立ち寄れば、専兵衛勢ひに恐れて、咎めぬ先に声を震はし、「これは、この程女郎町の喧嘩の夜、拾ひました。」と申すにぞ、取り上げて紋所を見しに、丸に水車。これぞ青柳十蔵が定紋なり。さては、敵知れての嬉しく、「この羽織を落とせし人は、いづ方へ行くぞ。」と尋ねしに、「それは存ぜず。人立ち騒ぐ中にて拾ひました。」と申すに偽りはあらじ。「この羽織、我にくれよ。」とて、あり合はせたる金子を取らせ、この紋所を証拠に十蔵を狙ひける。
 この沙汰、屋敷に聞こえて、十蔵、妻子もなき者なれば、立ち退き、行き方知れずなりて、専兵衛、猶悔みて、「おのれと知れぬ内こそなれ。天を分け地を探し、この本望遂ぐべし。」と一筋に思ひ定め、十蔵、生国出羽の山形の者なれば、ここに立ち越え、一年余りも狙ひしに、いまだ故郷へは帰らぬに極まり、又、駿河に戻りて、空しき年月送る内に。
 頼みし宿の主、一子に嫁を迎へけるに、草深き所なれば、祝言の作法も弁へなく、専太郎母人に尋ねける。この人、都育ちにして、万事心得給へば、銚子の取り廻し、末々の女に教へられし装ひ、昔の姿残りて、美しき生まれ付きなり。専兵衛は、まな板にかかり、結び昆布など拵へしが、その夜から出来心にて兄嫁を思ひ初め、武士の義理をも顧みず、寝間に忍びて、言葉数々尽くし、人の聞こえ、世の思はくをも構はねば、一生の迷惑、ここに極まり、涙、袂に余り。
 「さりとは天命背き、道ならぬ御事。思ひも寄らぬ御たはぶれ。いかに女なればとて、専左衛門殿に離れ、後夫を求むる心底にあらず。」と道理至極の断り。専兵衛、更に聞き分けずして、猶々無理を進み、夜着の下臥しする時、今は是非を一つに思ひ定め、肌刀を抜きて、専兵衛が脇腹を刺し通し、その刀にて胸を貫き、惜しや、二十四の春の夜の夢とはなりぬ。亭主、悦びの中にかかる難儀に逢ひ、この人の親類もなきがらを取り置きて、思ひも寄らぬ無常を見し事ぞかし。
 その後、専太郎九歳になれば、おとなしく叔父専兵衛を恨み、母を悲しみ、「長らへて詮無し。」と命を捨つるを抱きとどめ、「武士の子として、知れたる親の敵を討たずして、今空しくなり給はば、草の蔭なる父母、さぞ口惜しかるベし。」と様々申すを聞き分け、「この上ながら、頼む。」と涙をこぼすを見て、心なき野人まで、哀れみをかけぬは無し。
 それより、「世上を知るため。」とて清見寺の膏薬に遣はし、藤の丸屋の店に置きしに、美少なれば、旅人の目に立ち、すぐに通るはなかりし。年の浪、沖津に重ね、十三歳になりて、「当年は父専左衛門七年なれば、敵十蔵が行方を探し出し、首を仏前に手向けん。」と、いづれもに暇乞ひて、思ひ立ち行く心入れ。「さすが侍の子なり。」とて各々、涙に暮れける。召し連れし一人は、親専左衛門に使はれし吉蔵といへる小者なるが、昔の御恩に尋ね出、その時{*3}の後ろ見するこそ頼もしけれ。十蔵面も、この者見知れば、これを頼みに、まづ東路に下りける。
 この事、十蔵伝へ聞きて、「若年の気を尽くし、我を討つべき所存、専左衛門子なり。つらつら世の有様を観ずるに、とかくは夢に極まれり。我、専左衛門を討つて後、そのまま切腹すべきこそ武道なれ。さもしき心底起こりて、世を忍び、人のそしりを請けぬる事も、由無し。我が方より名乗り出て、仔細なく討たれて、専太郎が本望を遂げさすべし。」と遥々の国里を急ぎ、清見潟に尋ね上れば、「専太郎は東国に行く。」と聞きて、帰れば北国に廻り、西国巡れば南海に行き、一年に余り逢はざる事をとけしなく、「我が生国、出羽の羽黒山の麓寺、観音院にて待つベし。」と興津川に札を立て置き、その身は東に下りけるが。
 いつとなく疝気に悩み、様々養生するに頼み少なく、世の限りと見えし時、観音院を深く頼み、「我が事、常々申す如く、人に命を預かりし身なれば、今と成りての病死、さりとは武勇の本意にあらず。しかりといへども、時節の命なれば是非無し。死去の後、形をこのまま土中に築き込め、専太郎尋ね来らば、たとひ白骨となるとも、再び我を掘り出し、敵を討たせ給へ。」と確かなる言葉残して、終に空しくなりぬ。十蔵遺言の通り、その体を取り置きける。
 専太郎は、諸国巡り来て、興津の札を見るより、出羽の羽黒に立ち越え、観音院に名乗り入りしに、住僧、始めを語り給へば、専太郎驚き、「折角ここに下りし甲斐もなく、敵を手にかけざる事の残念なり。されども十蔵殿、心底疑ふまじきは、清見寺まで尋ね出られし所、男なり。この上の願ひ、その死骸を見ずしては、浮世に心の残れり。それ、見せ給へ。」と申せば、法師、おつ取り鍬して、塚のしるしを掘りのけ、形を見せけるに、早百日余りも過ぎけれども、ありし姿のさのみ変はらず、生ある人の眠れる如くなり。走り寄つて声をかけ、「榎坂専左衛門が倅専太郎なるが、親の敵の体なれば、討つ。」と言へば、十蔵死骸、眼を開き、笑ひ顔して首差し伸ばす。この心通を見て、猶潔く、差したる刀、脇差を見れば、刃引きにして、目釘竹を外し置き、専太郎に手向かひせず討たるる覚悟の心入れ。ためしなき男なり。
 「この後、恨みは無し。」と元の如くに埋みて、その跡、懇ろに弔ひ、「今は世界に望み無し。」と即座に髻切つて、観音院を師と頼み、出家堅固に勤めける。
 惜しや、盛りを待つ花の帽子、身は墨染の桜散る世語り。

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校訂者註
 1:底本は、「専左衛門をうつて」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 2:底本は、「行き喧嘩(けんくは)」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 3:底本は、「此時」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。

第二 誰が捨て子の仕合せ

 心の海を横渡しに、昔、島原の舟着きに辻岡角弥とて、浦の吟味役人してありしが、御奉公粗略して、明け暮れ奢りを極め、京より美女を取り寄せ、その上、「他国よりの縁組を、堅く御法度」を背き、泉州堺の手前よろしき町人の娘を呼び迎へ、様々我がまま重なりしを、家老中、ひそかに数度、異見加へられしに、一円承引致さず。女を幾人か手打ちにせし事、その外、十二ヶ條の悪事、横目役より言上申せば、御詮議極まり。
 柏崎茂右衛門、矢切団平、この二人に仰せ付けさせられ、角弥討つべき御科の御書き付け下し給はり、両人、上意請けて、角弥浜屋敷に案内なしに入りて、「仰せ渡さるる段々、聞き給へ。」と茂右衛門、書き付け読み仕舞へど、団平、遅れて不首尾の時、茂右衛門、抜き討ちに仔細なく角弥を、とどめまで刺して立ち退く時、団平、言葉荒く、「最前申し合はせて、くじを取り、その方は箇條書を読む役、この方、討つ役に極めしに、無用の出来しだて。八幡、堪忍ならず。」と眼色変へて詰めかくる。
 茂右衛門、少しも騒がず、「この儀、二人承れば、いづれか前後の論に及ばず。これ、両人の働きなり。角弥首尾よく討ち取るこそ仕合せなれ。御前の御機嫌なるべし。急ぎ給へ。」と首、羽織に包み{*1}、立ち退く所を、後ろより茂右衛門を切り付けしに、「卑怯者。」と抜き合はせ、団平に打ちかける太刀先下がりて、終に討たれにける。
 死骸、角弥が働きのやうに取り直し、立ち退く所へ、徒士横目千本勝五左衛門、駆け付けしに、我が手柄のやうに次第を語りけるに、物に馴れざる男にて、死人改めもせずして、団平口上の通りを、我が見たやうに申し上ぐれば、団平一人の働きになり、即座に百石の御加増下され、武士の面目、世の聞こえ、かれこれよろしく、家栄えける。
 茂右衛門妻は、知らぬ事とて、最後を悲しみ、「日頃は、人に遅れ給はぬ御所存なりしが、武運尽きぬれば、是非もなき。世の中に残りて住むも、由無し。」と二十一にて髪を下ろし、山居の身と成り{*2}、夫のための香花。今は心も開けて、出家堅固に勤めけるにも、明け暮れ夫の事のみ忘れ難し。茂右衛門、一子もなければ、その家絶えて、諸道具は、その兄茂左衛門方に取りのけ、後家比丘尼には、これよりはごくみを遣はしける。
 定めなきは世のなり、つらきは人の心ざし。団平、その後は世間のよきままに、いつとなく奢りて、人皆、これを憎みし。殊更、家来に情けをかけず、一人一人恨み申すぞ因果なり。或る時、若党の九市郎と申す者、紙細工言ひ付けられ、枕屏風を張り立てけるに、「仕立て悪しき。」とて散々「無調法。」と言葉あらけなく蹴立てられしを、主人ながら、気色、常に変はれば、長屋に追ひ込みおかれて、憂き目に逢ひける。各々詫び言すれども、聞き入れ給はず、近々に成敗極まれり。
 同じ屋敷に召し使はれて、腰元の久米といふ女、いつの日か九市郎と言ひかはして、二世の語らひ成して、末々一つの願ひ。年の明け行く事を待つ内に、この難儀悲しく、雨の夜、人静まりて後、九市郎追ひ籠められし長屋の窓に立ち忍び、互の憂きを語り尽くし、「我が命を取らるる程の事にはあらず。さりとはむごき仕方なり。この怨念、外へは行くまじ。そなたも、かく成り行く身の程、さぞ不憫に思はるベし。何事も主命なれば、是非も無し。されども、身に誤りなくて死する事、後の世までの迷ひなり。旦那にこの恨みを成して、この家失ふ事こそあれ。
 「いつぞやの上意討ち、柏崎茂右衛門殿、手に掛けて角弥殿を討たれしに、主人、遅れて首尾悪しき故に、茂右衛門殿を角弥、討たれし処を、切り伏せたるやうに御前へ披露申されしが、まことは、茂右衛門殿を旦那、騙し討ちにして、世には手柄触れける。これ畜生なれば、この事、茂右衛門殿兄茂左衛門殿に告げ知らせて、主人団平を無い者にせば、我、相果てても思ひは残らじ。」と涙をこぼす。とやかく歎く内に、夜も明け渡れば、別れの後、九市郎を引き出し、「慮外者。」の断り立つて、手討ちになりける。
 腰元の久米は、屋敷を抜け出、茂左衛門殿に駆け込み、この段々{*3}語り、舌喰ひ切り、夢よりはかなく消えける。この事、一家中の沙汰と成り、おのづから天命逃るる所なく、団平、非道顕はれかかれば、たまりかねて、その夜、屋敷を立ち退き、いよいよ悪人に極まれば、「その時の横目役千本勝五左衛門儀、無念。」に極まり、切腹。是非もなき仕合せなり。
 その後、茂左衛門、家老中まで御訴訟申すは、「茂右衛門事、弟ながら、これは格別の{*4}儀なれば、敵討ちたき願ひ」申し上ぐれども、「世の御仕置き立たねば、子方の者詮議して、討たせ。」との仰せ出されなり。茂左衛門にも娘ばかりにて、男子を持たねば、さし当たつて分別及ばず。御暇申し請けて浪人の身と成りて、諸国を尋ね巡り。
 二年過ぎての秋の頃、江州志賀、唐崎、この両里にある由、聞き出して、逢坂山を立ち越えて、関寺のほとりにして、いまだ誕生日も過ぎまじき捨て子を拾ひて、名を茂吉と改め、乳乳母に抱かせ、大津の屋形に行さて、「この倅、親の敵討」の御帳に記し、それよりありかを確かに見出して、八月十四日、時節を待つ宵の月見。所の人を誘ひ、団平、浜辺に出しを、名乗り掛けて討ち済まし、乳母抱きながら、茂吉にとどめを刺させ、あつぱれ働き、残る所無し。
 団平が首、器物に入れさせ、本国に帰りさまに、茂吉に金子十両付けて、薮の下の煙草切りの元へ養子に取らせ、茂左衛門は肥前の国に帰り、団平討ち取り、上方の首尾、所の御奉行よりの添へ状差し上ぐれば、殿の御機嫌よろしく、先知に二百石の御加増下し給はり、母衣大将に御役替へまで成し下され、武勇、この時、国中にその名を上げける。
 「茂吉事、筋目はいかなる者なりとも、茂左衛門が才覚にて、一度茂右衛門が一子に仕立てければ、急ぎ呼び下し、茂右衛門名跡を相違なく継がせ申せ。」との御意。有り難く、大津に人を遣はし、茂吉を呼び寄せ、九月九日の御礼日に御目見え済まし、家の悦びを重ね菊。酔ひを進めて千秋楽を謡ひ、柏崎の名を祝ひけるとぞ。

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校訂者註
 1:底本は、「つつみて立のく」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 2:底本は、「身なり。」。『井原西鶴集4』(2000)本文及び語釈に従い改めた。
 3:底本は、「段々(だん)(二字以上の繰り返し記号)を語(かた)り」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。
 4:底本は、「格別(かくべつ)義」。『武道伝来記』(1992)に従い改めた。

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