江戸期版本を読む

江戸期版本・写本の翻字サイトとして始めました。今は、著作権フリーの出版物のテキストサイトとして日々更新しています(一部は書籍として出版)。校訂本文は著作物です。翻字は著作物には該当しません。ご利用下さる場合、コメントでご連絡下さい。

カテゴリ:軍記物語 > 校訂「曽我物語」(1922刊)

校訂「曽我物語」(有朋堂文庫 1922年刊)WEB目次

緒言(校訂者 武笠三)

巻第一
011 一 神代の始まりの事  二 惟喬惟仁の位争ひの事
012 三 伊東を調伏する事  四 同じく伊東が死する事
013 五 伊東の次郎と祐経が争論の事  六 頼朝伊東の館にまします事
014 七 大見八幡が伊東を狙ひし事  八 杵臼程嬰が事
015 九 奥野の狩座の事  十 同じく酒宴の事
016 十一 同じく相撲の事
017 十二 費長房が事  十三 河津三郎うたれし事
018 十四 伊東が出家の事  十五 御房が生まるる事
十六 女房曽我へうつる事

巻第二
021 一 大見八幡を討つ事  二 泰山府君の事
022 三 頼朝伊東におはせし事
四 若君の御事  五 王昭君が事  六 玄宗皇帝の事
023 七 頼朝伊東を出で給ふ事  八 頼朝北條へ入り給ふ事
九 時政が女の事  十 橘の由来の事
024 十一 兼隆を婿に取る事  十二 牽牛織女の事
十三 盛長が夢見の事  十四 景延が夢合の事  十五 酒の事
025 十六 頼朝謀叛の事  十七 兼隆が討たるる事
十八 頼朝七騎落の事  十九 伊東の入道が斬らるる事
026 二十 奈良の権操僧正の事  二十一 祐清京へ上る事
二十二 鎌倉の家の事  二十三 八幡大菩薩の御事

巻第三
031 一 九月十三夜名ある月に一万箱王庭に出て父の事を嘆きし事
二 兄弟を母の制する事
032 三 源太曽我へ兄弟召しの御使に行きし事  四 母嘆きし事
五 祐信兄弟を連れて鎌倉へ行きし事
033 六 兄弟を梶原請ひ申さるる事  七 由井の浜へ引き出されし事
八 人々君へ参りて兄弟を請ひ申さるる事
034 九 畠山重忠請ひ申さるる事  十 ちやうしが事にて兄弟助かる事
十一 兄弟曽我へ帰り喜びし事

巻第四
041 一 十郎元服の事  二 箱王箱根へ上る事
三 鎌倉殿箱根御参詣の事  四 箱王祐経に遭ひし事
042 五 眉間尺が事  六 箱王曽我へ下りし事
043 七 箱王が元服の事  八 母の勘当蒙る事
044 九 小次郎語らひ得ざる事  十 大磯の虎思ひ染むる事
045 十一 平六兵衛が喧嘩の事  十二 三浦のかたかひが事
十三 虎を具して曽我へ行きし事

巻第五
051 一 浅間の御狩の事  二 五郎と源太と喧嘩の事
三 和田より雑掌の事
052 四 三原野の御狩の事  五 那須野の御狩の事
六 朝妻の狩座の事  七 帝釈と阿修羅王戦の事
053 八 三浦与一を頼みし事
054 九 五郎女に情け懸けし事  十 巣父許由が事  十一 貞女が事
十二 鴛鴦の剣羽の事  十三 五郎が情け懸けし女出家の事
055 十四 呉越の戦の事  十五 鴬と蛙の歌の事

巻第六
061 一 十郎大磯へ行きて立ち聞きの事
二 和田義盛酒宴の事  三 ふん女が事  四 弁財天の事
062 五 朝比奈虎が局へ迎へに行きし事
六 虎が盃十郎にさしぬる事
063 七 五郎大磯へ行きし事  八 朝比奈と五郎力比べの事
064 九 曽我にて虎が名残惜しみし事
065 十 山彦山にての事  十一 比叡山始まりの事
十二 仏生国の雨の事  十三 嵯峨の釈迦作り奉りし事

巻第七
071 一 千草の花見し事  二 小袖乞の事
072 三 生滅婆羅門の事  四 斑足王の事
073 五 母の勘当許さるる事
074 六 李将軍が事  七 三井寺の智興大師の事
075 八 泣不動の事  九 鞠子川の事
十 二宮の太郎に逢ひし事  十一 矢立の杉の事

巻第八
081 一 箱根にて暇乞の事  二 同じく別当に逢ふ事
三 太刀刀の由来の事  四 三島にて笠懸を射たる事
082 五 浮島が原の事  六 富士の狩場への事
七 源太と重保が鹿論の事
083 八 燕の国旱魃の事  九 新田が猪に乗る事
十 船の始まりの事
084 十一 祐経を射んとせし事  十二 畠山歌にて訪はれし事
十三 館廻りの事
085 十四 祐経が館へ行きし事
086 十五 屋形の次第五郎に語る事

巻第九
091 一 和田の館へ行きし事  二 兄弟館を替へし事
三 曽我への文書きし事
092 四 鬼王団三郎曽我へ帰りし事
五 悉達太子の事  六 兄弟出立の事
093 七 館々の前にて咎められし事
八 波斯匿王の事  九 祐経館を替へし事
094 十 祐経討ちし事  十一 王藤内を討ちし事
十二 祐経にとどめを刺す事
095 十三 十番斬の事
096 十四 祐成討死の事  十五 五郎召し捕らるる事

巻第十
101 一 五郎御前へ召し出され聞こし召し問はるる事
102 二 犬房が事  三 五郎が斬らるる事
四 伊豆次郎が流されし事
103 五 鬼王団三郎曽我へ帰りし事
六 同じくかの者どもが遁世の事  七 曽我にての追善の事
104 八 禅師法師が自害の事  九 京の小次郎が死する事
十 三浦の与一が出家の事

巻第十一
111 一 虎曽我へ来りし事
112 二 母虎を具して箱根へ上りし事  三 鬼の子捕らるる事
113 四 箱根にて仏事の事
114 五 貧女が一灯の事  六 菅丞相の御事
七 兄弟神に斎はるる事

巻第十二
121 一 虎箱根にて行き別れし事  二 井出の館の跡見し事
122 三 手越の少将に遇ひし事  四 少将出家の事
五 虎と少将法然に逢ひ奉りし事  六 虎大磯に閉ぢ籠りし事
七 母と二宮の姉大磯へ尋ね行きし事
123 八 虎出逢ひ呼び入れし事
124 九 少将法門の事
125 十 母と二宮行き別れし事


校訂「曽我物語」(有朋堂文庫 1922年刊)WEB凡例

  1:底本は「曽我物語」(1922年刊有朋堂文庫 国会図書館デジタルコレクション)です。
  2:校訂の基本方針は「本文を忠実にテキスト化しつつ、現代の人に読みやすくする」です。
  3:底本のふりがなは全て省略しました。
  4:底本の漢字は原則現在(2026年)通用の漢字に改めました。
  5:二字以上の繰り返し記号(踊り字)はテキストにないため、文字表記しました。
  6:底本は適宜改行し、句読点および発話を示す鍵括弧は適宜修正、挿入しました。
  7:底本の漢文は適宜訓読を修正し、書き下して示しました。
  8 :底本の頭注は適宜抜粋しました。
  9:底本の修正のうち、必要と思われるものは校訂者注で示しました。なお、校訂には『王堂本曽我物語』(1939年刊岩波文庫 国会図書館デジタルコレクション)を使用しました。

校訂「曽我物語」(有朋堂文庫 1922年刊)WEB目次

緒言

 義経弁慶の武勇談、曽我兄弟の敵討は、我が国民の間に語り伝へられたる物語の中、特に勇ましく、特にあはれ深く、よく国民性に契合して人気あるものの一つにして、随つて、古来の文学美術の材をこれに採りたるもの、ほとんど指を屈するに堪へず。しかも初めてこれを結構塩梅して、趣味豊かなる一篇の詩的物語と成し、この英雄譚をして永く国民の間に不死ならしめ、後世の文学者美術家のために、好箇の題材を提示したるは、実に本巻収むる処の義経記曽我物語の二書なりとす。
 二書共に、従来室町時代初期の作物として認めらるれども、いづれもその作者を詳らかにせず。曽我物語は、真字本以下異本類本すこぶる多く、そのいづれが最も原作に近きかは、なほ大いに学者の討究を要すべき処たり。今は貞享四年の刊本を以て底本とし、参するに寛文三年本、和田信二郎氏の和州忍辱山本等を以てせり。義経記に至りては異本と称すべきものなく、類本も又稀なり。今は元禄十年の刊本を底本とし、同二年刊行の別本を以て参照せり。その他復刻につきての用意は、一に他の本文庫本に同じ。
 鳥野幸次氏は、本書の校訂につきて助力せられたる処多く、黒川真道和田信二郎二氏は、秘籍の借覧を快諾して校訂上多大の便宜を与へられたり。時に記して謝意を表す。

    大正二年一月    校訂者 武笠三

曽我物語

巻第一

一 神代の始まりの事

 それ日域秋津洲は、これ国常立尊より事起こり、宇比地邇、須比智邇、男神女神と現れ、伊弉諾、伊弉冉尊まで、以上天神七代にてわたらせ給ひき。また天照大神より彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊まで、以上地神五代にて、多くの星霜を送り給ふ。しかるに神武天皇と申し奉るは葺不合尊にて、一天の主、百王にも始めとして、天下を治め給ひしよりこの方、国土を傾け、万民の懼るる謀り事、文武二道に如くは無し。好文の輩を寵愛せられずば、誰か万機の政を輔けん。又は勇悍の輩を抽賞せられずば、誰か四海の乱れを鎮めん。かるが故に、唐の太宗文皇帝は、疵を吸ひて戦士を賞し、漢の高祖は三尺の剣を帯して、諸侯を征し給ひき。しかる間、本朝にも中頃より、源平の両氏を定め置かれしよりこの方、武略を振るひ、朝家を守護し、互に名将の名を顕はし、諸国の狼藉を鎮め、既に四百余回の年月を送り畢んぬ。これ清和の後胤、また桓武の累代なり。しかりといへども、皇子を出でて人臣に連なり、鏃を噛み鉾先を争ふ志、とりどりなりとかや。

二 惟喬惟仁の位争ひの事

 そもそも源氏と言つぱ、桓武天皇より四代目の皇子を、田村の帝と申しけり。これに皇子二人おはします。第一を惟喬親王と申す。帝、殊に御志に思し召して、東宮にも立て、御位を譲り奉らばやと思し召されけり。第二の皇子をば惟仁親王と申しき。未だ幼くおはします。御母は染殿の関白忠仁公の御女なりければ、一門の公卿卿相雲客たち、寵愛し奉られければ、これも又、もだし難く思し召されける。「彼は継体相分の器量なり。これは万機無異の人相なり。これを背きて宝祚を授くるものならば、用捨私ありて臣下唇を翻すによつて、すべからく競馬の芸を以てその徳、運を知り、御位を譲り奉るべし。」とて、天安二年三月二日に、二人の皇子たちを引き具し奉り、右近の馬場へ行幸なる。月卿雲客、花の袂を重ね、玉の裳を連ね、右近の馬場へ供奉せらる。この事、稀代の勝事、天下の不思議と見えし。皇子たちも、東宮の浮沈これにありとぞ見えし。されば、様々の御祈りどもありけり。惟喬の御祈りの師には、柿本の紀僧正真済とて、東寺の長者、弘法大師の御弟子なり。惟仁親王の御祈りの師には、我が山の住侶に恵亮和尚とて、慈覚大師の御弟子にて、めでたき上人にてぞわたらせ給ひける。西塔の平等坊にて大威徳の法をぞ行ひける。
 既に競馬は十番を際に定められ、「六番勝ち給ふ御方に、位を御譲りあるべき。」との御事なり。されば惟喬の御方に、続けて四番勝ち給ひけり。惟仁の御方へ心を寄せ奉る人々は、汗を握り心を砕きて祈念せられけり。惟仁の御方、右近の馬場より天台山平等坊の壇所へ、御使馳せ重なる事、ただ櫛の歯を挽くが如し。「既に御方こそ続けて四番負けぬるは。」と申しければ、恵亮、心憂く思はれ、絵像の大威徳をさかさまに掛け奉り、三尺の土牛を取つて、北向きに立て行はれけるに、土牛躍りて西向きになれば、南向きに取つて押し向け、東向きになれば西に押し直し、肝胆を砕きて揉まれしが、なほ居かねて、独鈷を以てみづから脳を突き砕きて脳を取り、罌粟に混ぜ炉壇にうちくべ、黒煙を立て、一揉み揉まれ給ひしかば、土牛、猛りて声を立て、絵像の大威徳は利剣を捧げて振り給ひければ、「諸願は成就してけり。」と御心を述べ給ふ処に、「御方こそは六番続けて勝ち給ひ候へ。」と御使走り着きければ、喜悦の眉を開き、急ぎ壇をぞ降りられける。ありがたき瑞相なり。されば惟仁親王、御位に定まり、春宮に立たせ給ひけり。しかるに延暦寺の大衆の詮議にも、「恵亮脳を砕きしかば、次弟位に即き、尊意利剣を振り給へば、菅相霊を垂れ給ふ。」とぞ申しける。
 これによつて、惟喬の御持僧真済僧正は、思ひ死ににぞ失せ給ひける。皇子も都へ御還りなくして、比叡山の麓、小野といふ所に閉ぢ籠らせ給ひけり。頃は神無月末、雪解の空の嵐に冴え、時雨るる雲の絶え間なく、都に往きかふ人も稀なりけり。いはんや小野の御住まひ、思ひ遣られて哀れなり。ここに在五中将在原業平は、昔の御情け浅からざりし人なりければ、紛々たる雪を踏み分け、泣く泣く御跡を尋ね参りて、見参らすれば、孟冬移り来りて紅葉嵐に絶え、りうゐんけんがとう寂々たり。折に任せ、人目も草もかれぬれば、山里いとど寂しきに、みな白妙の庭の面、跡踏みつくる人もなし。親王は端近く出でさせ給ひて、南殿の御格子三間ばかり上げて、四方の山を御覧じ巡らし、げにや、「春は青く、夏は茂り、秋は染め、冬は落つる。」といふ昭明太子の言葉思し召し連ね、「香炉峯の雪をば簾を掲げて見るらん。」と御口ずさみ給ひけり。中将、この御有様を見奉るに、ただ夢の心地せられけるが、かく参りて、昔今の事ども申し承るにつけても、御衣の御袂を絞りもあへさせ給はず、鳥飼の院の御遊興、交野の雪の御鷹狩まで思し召し出られて、中将、かくぞ申されける。
  忘れては夢かとぞ思ふ思ひきや雪踏み分けて君を見むとは
親王も取りあへさせ給はで、返し。
  夢かとも何か思はむ世の中を背かざりけん事ぞ悔やしき
 かくて貞観四年に御出家わたらせ給ひしかば、小野の宮とも申しけり。文徳天皇、御年三十にて崩御なりしかば、第二の皇子、御年九歳にて御譲りを受け給ふ。清和天皇の御事これなり。後には丹波の国水尾の里に閉ぢ籠らせ給ひければ、水尾の帝とぞ申しける。皇子あまたおはします。第一を陽成院、第二を貞固親王、第三を貞元親王、第四を貞保親王。この皇子は、御琵琶の上手にておはします。桂の親王とも申しけり。心をかけらるる女は、月の光を待ちかね、蛍を袂に包む。この親王の御事なり。今の滋野氏の先祖なり。第五、貞平親王、第六、貞純親王とぞ申しける。六孫王これなり。されば、かの親王の嫡子、多田の新発意満仲、その子摂津守頼光、次男大和守頼親、三男多田法眼とて、山法師にて三塔第一の悪僧なり。四郎河内守頼信、その子伊予の入道頼義、その嫡子八幡太郎義家、その子但馬守義親、次男河内の判官義忠、三男式部大夫義国、四男六條判官為義、その子左馬頭義朝、その嫡子鎌倉の悪源太義平、次男中宮大夫進朝長、三男右近衛大将頼朝の上越す源氏ぞなかりける。
 この六孫王よりこの方、皇子を出でて初めて源の姓を賜はり、上台を去りて人臣に連なり給ひて後、多田満仲より下野守義朝に至るまで、七代は諸国の竹符に名を掛け、芸を将軍の弓馬に施し、家にあらずして四海を守りしに、白馬なほ肥えたり。されば各々、権を争ふ故に、互に朝敵になりて、源氏、世を乱せば、平氏、勅宣を以てこれを征して朝恩に誇り、平将、国を傾くれば、源氏、詔命に任せてこれを罰して勲功を極む。しかれば近頃、平氏退散して、源氏おのづから世に誇り、四海の波瀾を治め、一天の防御定めしよりこの方、緑林枝枯れて、吹く風穏やかなり。しかれば叡慮を背く青葉は、色を雄剣の秋の霜に犯され、朝章を乱す白波、音を上弦の月に澄ます。これ、ひとへに羽林の威風、前代にも超えて尊重の故なり。しかるに青侍、意を潜めて政途の乱れを制し、私曲の争ひをやめて帰服せざるはなかりけり。

底本頭注
 一 神代の始まりの事
 ・神武天皇――葺不合尊の御子なり。御二方を一つにしたるは誤りなり。
 ・疵を吸ひて――呉起の故事を誤り伝へしにあらざるか。
 二 惟喬惟仁の位争ひの事
 ・田村の帝――文徳天皇
 ・翻すによつて――この下、一本「須く競馬にのせ其の勝負に従つて」の十五字あり。
 ・ありとぞ見えし――一本「ありとぞ思し召されける」。
 ・我が山――叡山。
 ・緑林枝枯れて――盗賊滅びて。

前頁  目次  次頁

校訂者注
 二 惟喬惟仁の位争ひの事
 ・すべからく競馬の芸を以てその徳、運を知り――岩波文庫本(1939)本文及び脚注に従い補った。
 ・文徳天皇、御年三十にて――底本「文徳天皇、御年二十にて」。岩波文庫本(1939)により改めた。
 ・今の滋野氏の先祖なり――底本「今のしげのこの先祖なり」。岩波文庫本(1939)脚注に従い改めた。
 ・源の姓を賜はり、上台を去りて――底本「源の姓を賜はり、正体を去りて」。岩波文庫本(1939)本文及び脚注に従い改めた。
 ・叡慮を背く青葉は――底本「叡慮を背くせいらうは」。岩波文庫本(1939)脚注に従い改めた。
 ・前代にも超えて…意を潜めて――底本「前代にも超えて、うんてうの故なり。然るにせいしをひそめて」。岩波文庫本(1939)脚注に従い改めた。

三 伊東を調伏する事

 ここに伊豆国の住人、伊東次郎祐親が孫、曽我十郎祐成、同じく五郎時致といふ者ありて、将軍の陣内をも憚らず、親の敵を討ち取り、芸を戦場に施し、名を後代にとどめける。由来を詳しく尋ぬるに、即ち一家の輩、工藤左衛門祐経なり。たとへば伊豆国に伊東、河津、宇佐美、この三箇所をふさねて、萳美の庄と号する。かの本主は、萳美入道寂心にてありけるが、在国の時は工藤大夫祐隆と言ひけり。男子あまた持ちたりしが、皆早世して、遺跡既に絶えんとす。しかる間、継娘の子を取りて嫡子に立て、伊東を譲り、武者所に参らせ、工藤武者祐継と号す。また嫡孫あり。次男に立てて河津を譲り、河津の次郎と名乗らせける。しかる間、寂心逝去の後、祐親思ひけるは、「これこそ嫡々なれば、嫡子の譲りあるべきに、異姓他人の継女の子、この家に入つて相続するこそ安からね。」と思ふ心、つきにけり。これ、まことに神慮にも背き、子孫も絶えぬべき悪事なるをや。たとひ他人なりと言ふとも、親養じて譲る上は、違乱の儀あるべからず。ましたこれは寂心、内々継女の元に通ひて儲けたる子なり。まことには兄なり。譲りたる上、争ふ事無益の由、よそよそにも申し合ひけり。されども祐親とどまらで、対決度々に及ぶといへども、譲り状を捧ぐる間、伊東が所領になりて、河津は負けてぞ下りける。その後、上には親しみながら、内々安からぬ事にぞ思ひける。されども我が力にはかなはで、年月を送る。
 或る時祐親、箱根の別当をひそかに呼び下し奉りて、種々にもてなし、酒宴過ぎしかば、近く寄り、畏まりて申しけるは、「かねてより知ろし召されて候如く、伊東をば、嫡々にて祐親が相継ぎ候べきを、思はずの継女の子来りて、父の墓所、先祖重代の所領を押領仕る事、よそにて見え候が、余りに口惜しく候間、御心をも憚らず申し出し候。しかるべくば、伊東武者が二つなき命を、立ちどころに失ひ候やうに、調伏ありて見せ給へ。」と申しければ、別当聴き給ひて、暫く物も宣はで、ややありて、「この事よくよく聴き給へ。一腹一生にてこそましまさね、兄弟なる事は眼前なり。公方までも聞こし召し開かれ、既に御下知なさるる上は、隔ての御怨みはさる事にて候ヘども、忽ちに害心を起こし、親の掟を背き給はん事、しかるべからず。神明は正直の頭に宿り給ふ事なれば、定めて天の加護もあるべからず。冥の照覧も恐ろし。その上、愚僧は幼少より父母の塵欲を離れ、師匠の肝心に入つて、諸説の教法を学し、円頓止観の門を望み、一念三昧に稼穡の艱難を思ひ、着る時、紡績の辛苦を忍ぶ。三衣を墨に染め、鬢髪を丸め、仏の遺願に任せ、五戒を保ちしよりこの方、物の命を殺す事なし。仏、殊に戒め給ふ。されば衆生の身の中には、三身仏性とて、三体の仏のまします。しかるに人の命を奪はん事、三世の諸仏を失ひ奉るに同じ。諸々以て思ひ寄らざる事なり。」とて、箱根に上り給ひけり。
 河津は、なまじひなる事申し出して、別当承引なかりければ、その後消息を以て、重ね重ね申しけれども、なほ用ゐ給はず。いかがせんとて、ひそかに箱根に上り、別当に見参して、近く居寄りてささやきけるは、「ものその身にては候はねども、昔より師檀の契約浅からで、頼み頼まれ奉りぬ。祐親が身に於いては一生の大事。子々孫々までも、これに如くべからず候。再応に申し入れ候條、まことにその恐れ少なからず候ヘども、かの方へ返り聞こえなば、重ねたる難儀出で来候べし。さればにや浮沈に及び候。」と、くれぐれ申しければ、初めは別当、大きに辞退ありけるが、まことに檀那の情けも去り難くて、大方領承ありければ、河津は里へぞ下りける。別当、心憂き事ながら、檀那の「頼む。」と申しければ、壇を立て荘厳して、伊東を調伏せられけるこそ恐ろしけれ。
 初三日の本尊には来迎の阿弥陀の三尊、六道能化の地蔵菩薩。檀那河津次郎が諸願成就のため、「伊東武者が二つなき命を取り、来世にては観音勢至、蓮台を傾け、安養の浄刹に引摂し給へ。片時も地獄に落とし給ふな。」と他念なく祈られけり。後七日の本尊には烏蒭沙摩、金剛童子、五大明王の利剣殊勝なるを四方に懸けて、紫の袈裟を帯し、種々に壇を飾り、肝胆を砕き、汗ものごはず面をも振らず、余念なくこそ祈られけれ。昔より今に至るまで、仏法護持の御力、今に始めざる事なれば、七日に満ずる寅の半ばに、伊東武者が盛んなる首を、明王の剣の先に貫き、壇上に落つると見てければ、「さては威験顕はれたり。」とて、別当、壇をぞ降り給ひける。恐ろしかりける事どもなり

四 同じく伊東が死する事

 さても伊東武者は、これをば夢にも知らで、時ならぬ奥野の狩してあそばんとて、射手を揃へ、勢子を催し、若党あまた相具して、伊豆の奥野へぞ入りにける。頃しも夏の末つ方、峰に重なる樹の間より、むらむらに靡くはさぞと見えしより、思はざる風に冒されて、心地例ならず煩ひ、心ざす狩場をも見ずして、近き野辺より帰りけり。日数重なる程に、いよいよ重くぞなりにける。その時、九つになりける金石を呼びて、みづから手を取り申しけるは、「いかにおのれ、十歳にだにもならざるを、見捨てて死なん事こそ悲しけれ。生死限りあり、逃るべからず。汝を誰か憐れみ、誰かはごくみて育てん。」と、さめざめと泣きけり。金石は幼ければ、ただ泣くより外の事は無し。女房、近くへ寄り、涙を押さへて言ひけるは、「かなはぬ憂世の習ひなれども、せめて金石、十五にならんを待ち給へかし。さればとて、あまたある子にもあらず。また、懸子ある仲の身にても無し。いかがはせん。」と嘆きけるこそ理なれ。
 ここに弟の河津次郎祐親、訪ひ来りけるが、この有様を見て、近く寄りて申しけるは、「今を限りとこそ見えさせ給ひて候へ。今生の執心を御とどめ候ひて、一筋に後生菩提を願ひ給へ。金石殿に於いては、祐親かくて候へば、後見し奉るベし。ゆめゆめ疎略あるべからず。心安く思ひ給へ。さればにや、史記の言葉にも、『昆弟の子は、猶し己が子の如し。』と見えたり。いかでかおろかなるべき。」と申しければ、祐継、これを聞きて、内に害心あるをば知らで、大きに喜び、かき起こされ、人の肩に掛かり、手を合はせ祐親を拝み、ややありて苦しげなる息を継ぎ、「いかに候。只今の仰せこそ、生前に嬉しくおぼえ候へ。この頃は何となく下説について、快からざる事にてましまさんと存ずる処に、かやうに宣ふこそ、返す返すも本意なれ。されば金石をば、ひとへにわ殿に預け奉る。甥なりとも、実子の如く思ひ、女あまた持ち給ふ中にも、万劫御前に合はせて、十五にならば男になして、当庄の本券、小松殿の見参に入れ、わ殿の女と金石に、この所を妨げなく知行せさせよ。」とて、伊東の地券文書を取り出し、金石に見せ、「汝にぢきに取らすべけれども、いまだ幼稚なり。いづれも親なれば、おろかにあるべからず。母に預くるぞ。十五にならば取らすべし。よくよく見置け。今より後は河津殿を、叔父なりとも、まことの親と頼むべし。心置きて憎まれ奉るな。祐継も草の蔭にて立ち添ひ守るべし。」とて、文書、母が方へ渡し、「今は心安し。」とて打ち臥しぬ。かくて日数積もり行けば、いよいよ弱り果てて、七月十三日の寅の刻に、四十三にて失せにけり。哀れなりしためしなり。弟の河津次郎は、上には嘆く由なりしかども、下には喜悦の眉を開き、箱根の別当の方をぞ拝みける。一旦の猛悪は勝利ありといへども、終には子孫に報ゆる習ひにて、末いかがとぞおぼえける。
 やがて河津は我が家を出、伊東が館に入りかはり、内々存ずる旨ありければ、兄のため忠ある由にて、後家にも子にも劣らず孝養を致す。七日七日の外、百箇日、一周忌、第三年に至るまで、諸善の忠節を尽くす。人、これを聞き、「『神を祭る時は、神のいます如くせよ。死に仕ふる時は、生に仕ふる如くなれ。』とは、論語の言葉なるをや。」と感じけるぞ愚かなる。さて金石には、心安き乳母を付けてぞ養じける。遺言を違へず、十五にて元服させ、萳美の工藤祐経と号す。やがて女万劫御前に合はせ、その秋、相具して上洛し、即ち小松殿の見参に入り、祐経をば京都にとどめ置き、我が身は国へぞ下りける。その後は、甲斐甲斐しき侍の一人も付けず、大人しき者もなし。所帯に於きては祐親一人して押領し、祐経には屋敷の一所をも配分せざりけり。まことや、文選の言葉に、「徳を積み功を重ぬる事、その善を知らざれども、時に用ゐる事あり。義を捨て理を背くこと、その悪を知らざれども、時に滅ぶる事あり。」「身の危きは、勢ひの過ぐるによる。災ひの積もるは、寵の盛んなるに立つ。」
 されども祐経は、誰教ふるとはなきに、公文所を離れず。奉行所に於きて身を打たせ、沙汰に馴れける程に、善悪を不審し、分別して理非を迷はず。諸事に心をわたし、手跡普通に優れ、和歌の道を心に懸け、酣暢の筵に推参して、その衆に連なりしかば、「工藤のやさ男。」とぞ召されける。十五歳より武者所に侍ひて、礼儀正しくして、男柄尋常なりければ、「田舎侍ともなく、心憎し。」とて、二十一歳にして、武者所の一臈を経て、「工藤一臈。」とぞ召されける。

底本頭注
 四 同じく伊東が死する事
 ・かけご――「懸子」にて、「かかり人」の意か。
 ・「昆弟の子は」云々――「兄弟之子猶子也。」は『礼記』の語なり。
 ・身を打たせ――身を苦しめ。
 ・一臈――首席。

前頁  目次  次頁

校訂者注
 三 伊東を調伏する事
 ・師匠の肝心に入つて――底本「師匠のかんじんに入つて」。岩波文庫本(1939)脚注に従い改めた。
 ・一念三昧に稼穡の艱難を思ひ、着る時、紡績の辛苦を忍ぶ――底本「一念三昧にかしよくの艱難を思ひ切るとき、法せきの辛苦を忍ぶ」。岩波文庫本(1939)本文及び脚注に従い改めた。
 四 同じく伊東が死する事
 ・何となく下説について――底本「何となくきせつについて」。岩波文庫本(1939)脚注に従い改めた。
 ・徳を積み功を重ぬる事…寵の盛んなるに立つ。――底本「徳を積み功をかさぬること、その善をなさざれども、時に用ゐる事あり。義を捨て理を背くこと、その悪をなさゞれども、時に滅ぶることあり。身の危きは勢の過ぐる所なり。災の積るは、てうのさかんなるを超えてなり」。岩波文庫本(1939)本文及び脚注に従い改めた。
 ・酣暢の筵に推参して――底本「かんてうの筵に推参して」。岩波文庫本(1939)脚注に従い改めた。

五 伊東次郎と祐経が争論の事

 かくて祐経、二十五まで給仕怠らざりき。ここに思はざるに田舎の母、一期尽きて、形見に父が預け置きし譲り状を取り添へて、祐経が元へぞ上せたりける。祐経、これを披見して、「こはいかに。伊豆の伊東といふ所は、祖父入道寂心より、父伊東武者祐継まで、三代相伝の所領なるを、何によつて叔父の河津次郎相続して、この八箇年が間、知行しける。いざや冠者ばら、四季の衣更へさせん。」とて、暇を申しけれども、御気色最中なりければ、左右なく御暇賜はらざりけり。さらばとて、代官を下して催促を致す。伊東、これを聞き、「祐親より外に、全く他の地頭なし。」とて、冠者ばらを放逸に追放す。京より下る者は、田舎の仔細をば知らで、逃げ上りぬ。一臈にこの由を訴ふ。「その儀ならば、祐経下らん。」とて出で立ちけるが、案者第一の者にて、心を変へて思ひけるは、「人の僻事するといふを聞きながら、又下りて、劣らじ負けじとせん程に、まさる狼籍引き出し、両方得替の身となりぬべし。その上、道理を持ちながら、親方に向かひ意趣を込めん事、詮なし。祐経程の者が、利運の沙汰に負くべきにあらず。田舎より、かの仁を召し上せて、上裁をこそ仰がめ。」と思ひ、当たる処の道理をさし詰めさし詰め、院宣を申し下し、小松殿の御状を添へ、検非違使を以て伊東を京都に召し上せ、まことの知行なる時こそ、田舎にて横紙をも破り、打擲ども言ひけれ、院宣を成し、重ねて堅く召されければ、一門馳せ集まり、案者口利き寄り合ひ、伴なひ談合するといへども、道理は一つもなかりけり。祐継存生の時より執心深くして、「いかにもこの所を祐親が配領にせん。」と多年心に懸け、「既に十余年知行の所なり。一期の大事。」と金銀を調へ、ひそかに奉行所へぞ上りける。まことや、文選の言葉に、「青蠅も水精をけがさず。邪論も百の聖を惑はず。」とは申せども、奉行の愛づるも理なり。また漢書を見るに、「水至つて清ければ、底に魚棲まず。人至つて善なれば、内に友なし。」と見えたり。さればにや、奉行、まことに宝重くして、祐経が申し状立たざる事こそ無念なれ。
 月明らかならんとすれども、浮雲これを覆ひ、水清からんとすれども、泥沙これを汚す。君は賢なりといへども、臣これを汚す理によつて、本券は箱の底に朽ちて、空しく年月を送る間、祐経、鬱憤に住して、重ねて申し状を奉行所に捧ぐ。その状に曰く、
  伊豆国の住人、伊東の工藤一臈平祐経、謹しんで言上。
  早く御裁許を蒙らんと欲する仔細の事。
  右件の條、祖父萳美入道寂心死去の後、親父伊東武者祐継、その舎弟祐親、兄弟の仲不和なるによつて、対決度々に及ぶといへども、祐継、当腹寵愛たるによつて、安堵の御下し文を賜はつて、既に数箇年を経畢んぬ。ここに祐継、一期限りの病の床に臨む刻、河津次郎、日頃の意趣を忘れ、忽ちに訪ひ来る。その時、祐経は生年九歳なりき。叔父河津次郎に、地券文書、母どもに預け置きて、八箇年の春秋を送る。親方にあらずんば、伺候の臣と申すべきや。所詮、世のげいに任せ、伊東次郎に賜はるべきか。また、祐経に賜はるべきか。相伝の道理について、憲法の上裁を仰がんと欲す。よつて誠恐誠惶言上、件の如し。
    仁安二年三月日  平祐経。
と書きて捧ぐ。公事所にこの状を披見ありて、「さし当たる道理に煩ひけるよ。」と、人々寄り合ひ、内談評定するは、「祐経が申し状、一つとして僻事なし。これは裁許せずば、憲法に背きなん。」また伊東、宝を上せて、「万事奉行を頼む。」と言ふ。しかれども、祐経は左右なく利運たる間、奉行所の私、成り難ければ、安堵の状二つ書きて、大宮の令旨を添へて下さる。伊東は、「半分なりとも賜はる処、奉行の御恩。」と喜びて、本国へぞ下りける。
 「書は言葉を尽くさず。言葉は心を尽くさず。」といへども、一臈は言葉を失ひ、「十五より本所に参り、日夜朝暮給仕を致し、今年八箇年とおぼゆるに、重ねて御恩こそ蒙らざらめ。先祖の所領を半分召さるる事、そも何事ぞ。『水上濁れる時は、清からん事を思ひ、形の歪める時は、影の素直ならん事を思ふ。』と、伽陀に見えたり。父祐継が代には、かやうにはよも分けじ。今何ぞ半分の主たるべきや。これひとへに、親方ながら伊東が致す処なり。我が身こそ京都に住むとも、前後はみな弓矢の遺恨なり。いかでかこの事、怨みざるべき。」とて、ひそかに都を出て、駿河国高橋といふ所に下り、木津川、船越、荻野、蒲原、入江の人々は、外戚につきて親しかりければ、二百余人寄り合ひて、「祐親討ちて、領所を一人にて進退せん。」と思ふ心、付きにけり。この儀、神慮も計り難し。たとへばさし当たる道理、顕然たりといヘども、昔の恩を忘れ、忽ちに悪行を巧む事、伊東が昔をも思ひ、てんじゆがいにしへをも尋ぬべきにや。第一、叔父なり。第二、養父なり。第三、舅なり。第四、烏帽子親なり。第五に、一族中の老者なり。かたがた以ておろかならず。かやうに思ひ立つ事ぞ恐ろしき。いかにも思慮あるべきものをや。あまつさへ領地を奪はん事、不可思議なり。かかりける事を祐親、返り聞きて、嫡子河津三郎祐重、次男伊東九郎祐清、その外一門老少呼び集め、用心厳しくしければ、力に及ばず。これや、「富貴にして善を成し易く、貧賤にして功を成し難し。」とは、今こそ思ひ知られたれ。その後、伊東次郎、この事、ありのまま京都へ訴へ申して、永く祐経を本所へ入れ立てずして、年貢所当に於きては、芥子ほども残らず押領する間、祐経、身の置き所なくして、また京都に帰り上り、ひそかに住まひぬ。とにもかくにも祐経は、伊東に悩まされて、本意を失ふのみならず、あまつさへ妻女をも取り返され、相模の国の住人、土肥次郎実平が嫡子、弥太郎遠平にぞ合はせられける。されば伊東が有様は、国にはまた並ぶ者なくぞ見えたりける。されども、「こうしやうなき不義の富は、災ひの仲立ち。」と左伝に見えたり。されば、行く末いかがとぞおぼえし。
 工藤一臈は、なまじひの事を言ひ出して、叔父に仲を違はれ、夫妻に別れ、所帯は奪はれ、身を置きかねて肝焼きける間、給仕も疎略になりにけり。さればにや、御気色も悪しく、朋輩も側目にかけければ、積鬱耐え難く思ひ焦がれて、ひそかにまた本国に下り、大見の小藤太、八幡三郎を招き寄せて、泣く泣くささやきけるは、「各々、つぶさに聞け。相伝の所領を押領せらるるだにも安からざるに、結句、女房まで取り返されて、土肥弥太郎に合はせらるる事、口惜しきとも余りあり。今は命を捨てて、矢一つ射ばやと思ふなり。顕はれては、せん事叶ふまじ。我また便宜を窺はば、人に見知られて本意を遂げ難し。さればとて、とどまるべきにもあらず。いかがせん。各々、さりげなくして、狩りすなどりの所にても便宜を窺ひ、矢一つ射んにや。もし宿意を遂げんに於きては、重恩、生々世々に報じても余りありぬべし。いかがせん。」とぞ口説きける。二人の郎等聞き、一同に申しけるは、「それまでも仰せらるべからず。弓箭を取り、世を渡ると申せども、万死一生は一期に一度とこそ承れ。されば、古き言葉にも、『破れ易き時は、逢ひ難くして、しかも失ひ易し。』この仰せこそ面目にて候へ。是非、命に於きては君に参らする。」とて、各々座敷を立ちければ、頼もしくぞ思ひける。伊東は、いささかこの儀を知らざりけるこそ悲しけれ。

六 頼朝伊東の館にまします事

 かくて大見、八幡は、伊東を狙ふべき隙を窺ふ程に、その頃、兵衛佐殿は、伊東の館にましましける処に、相模国の住人、大庭平太景義といふ者あり。一門寄り合ひ酒宴しけるが、申しけるは、「我等は昔、源氏の郎等なり。しかれども、今は平家の御恩を以て、妻子をはごくむといへども、昔の事、忘るべきにあらず。いざや、佐殿のいつしか流人として、徒然にましますらん。一夜宿直申して、慰め奉りて、後日の奉公に申さん。」「尤も、しかるべし。」とて、一門五十余人出で立ち、人別、ささえ一つあてにぞ持たせける。これを聞きて、三浦、鎌倉、土肥次郎、岡崎、本間、渋谷、糟谷、松田、土屋、曽我の人々、思ひ思ひに出で立ちける程に、近国の侍、聞き伝へ、「我もいかでか逃るべき。いざや参らん。」とて、相模の国には大庭が舎弟三郎、俣野五郎、佐越十郎、山内瀧口太郎、同じく三郎、海老名の源八、荻野五郎。駿河の国には竹の下の孫八、相沢弥五郎、吉川、船越、入江の人々。伊豆の国には北條四郎、同じく三郎、天野藤内、狩野藤五を始めとして、宗徒の人々五百人、伊豆の伊東へぞ参りける。
 伊東、大きに喜びて、内外の侍、一面に取り払ひ、なほ狭かりければ、庭に仮屋を打ち出し、大幕引き、上下二千四、五百人の客人を、一日一夜ぞもてなしける。土肥次郎、これを見て、「雑掌は、百人二百人までは易かるべきに、既に二、三千人の客人を、一人に預くる事、無骨なり。」といふ。伊東、これを聞きて、「河津と申す小郷を知行せし時にも、いづれの誰にか劣り候べき。ましてや萳美の庄をふさねて賜はるものならば、などや面々に引出物申さであるべき。これ程の事、何かは苦しかるべき。」とて、山海の珍物にて、三日三夜ぞもてなしける。又、海老名の源八が申しけるは、「かかる寄り合ひに参りぬと、かねて存じて候はば、国より勢子の用意して、音に聞こゆる奥野に入り、物頭に馬相付け、鏑の遠鳴りさせざるが無念なり。」と言ひければ、伊東、これを聞き、「祐親を人と思ひてこそ、国の人々は打ち寄り、両三日はあそび給ふらめ。左右なく座敷にて勢子の願ひやうこそ心狭けれ。それそれ、河津三郎。勢子を催して、鹿射させ申せ。」と言ひけるぞ、伊東の運の極めなる。河津は元より穏便の者にて、心の内には殺生を禁ずる人なりければ、「いかにもして、この度の狩を申し止めなばよかるべし。」と思へども、多き侍の中にて親の申す事なれば、力及ばで、「あつ。」と答へて座敷を立ち、我と勢子をぞ催しける。「幼き者は馬に乗りて出よ。大人は弓箭を持て。」と触れければ、萳美の庄広くして、老若三千四、五百人ぞ出たりける。彼等を先として、三箇国の人々、我も我もと打ち出たり。
 伊東、河津が妻女、数の女房引き連れて、南の中門に立ち出て、打ち出ける人々を見送りける。中にも河津三郎は、余の人にも紛はず、器量骨柄優れたり。「この中の大将と言ひたりとも悪しからじ。子ながらも優に見ゆるものかな。頼もし。」と宣ひければ、河津が女房、これを聞き、「弓矢取の物出の姿、女見送る事、詮なし。内に入らせ給へ。」と言ひければ、「げにも。」とて、各々内にぞ入りにける。十月十日余りに、伊豆の奥野ヘ入りにけり。

底本頭注
 五 伊東次郎と祐経が争論の事
 ・御気色――御寵愛。
 ・案者――智者。
 ・得替――もと「交代」の意なれども、ここにては、所領を失ふ事。
 ・打擲――「罵詈」の義か。
 六 頼朝伊東の館にまします事
 ・ささえ――竹筒。酒を入るる器。
 ・「この中の」云々――河津の父祐親の言葉。

前頁  目次  次頁

校訂者注
 五 伊東次郎と祐経が争論の事
 ・萳美の庄広くして――底本「萳美の庄広くしく」。岩波文庫本(1939)により改めた。
 ・青蠅も垂棘をけがさず、邪論も百の聖を惑はず――底本「青蠅も水精をけがさず、邪論もくの聖をまどはず」。岩波文庫本(1939)本文及び脚注により改めた。
 ・一族中の老者なり――底本「一族なかの労者なり」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
 ・とにもかくにも祐経は…並ぶ者なくぞ見えたりける。――底本「伊東に祐経は悩まされ本意を忘れ、祐経が妻女とり返し、相模の国の住人、土肥次郎実平が嫡子弥太郎遠平に合せけり。国には又双ぶ者なくぞ見えけり」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
 ・夫妻に別れ、所帯は奪はれ――底本「夫妻の別れ、所帯は奪はれ」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
 六 頼朝伊東の館にまします事
 ・大庭平太景義――底本「大庭平太景信」。岩波文庫本(1939)本文により改めた。以下同様。

↑このページのトップヘ