江戸期版本を読む

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カテゴリ:軍記物語 > 校訂「曽我物語」(1922刊)

七 大見八幡が伊東を狙ひし事

 ここに、祐経が二人の郎等、大見、八幡はこれを聞き、「かやうの所こそよき便宜なれ。いざや我等、便りを狙はん。」と、各々柿の直垂に、鹿箭差したる竹箙取りて付け、白木の弓の射よげなるをうちかたげ、勢子にかき紛れ、狙ふ所はどこどこぞ。一日は柏が峠、熊倉が谷。二日は荻が窪、椎が沢。三日は長倉が渡り、朽木が沢、赤沢が峰を始めとして、七日が間、付き巡りてぞ狙ひける。しかれども、伊東は国一番の大名にて、家の子郎等多かりければ、たやすく討つべきやうぞなかりける。この者どもが心を尽くしける有様、譬へて言ふべき方ぞなき。

八 杵臼程嬰が事

 さてもこの二人の者ども、仁義を重んじ忠孝を励まし、心を尽くし狙ふ事を思ふに、昔、大国に孝明王といふ国王あり。並びの王と国を争ひ、軍をし給ふ事、度々なり。しかるに孝明王、戦負けて自害に及ばんとする時に、杵臼、程嬰とて、二人の臣下あり。彼等を近付けて、「汝等定めて、我と共に自害せんとぞ思ふらん。これまことに、順路逃るる所なし。さりながら、我に一人の太子、屠岸賈といひて十歳になるを、故郷にとどめ置きたり。我自害の後、雑兵の手に懸かりて命を空しくせん事、口惜しければ、汝等、いかにもして逃れ出て、かの子をはぐくみ育て、敵を滅ぼし無念を散ぜよ。」と宣ひければ、二人の臣下、異議に及ばずして、囲みの内を忍び出けり。孝明王、心安くして自害し給ひけり。
 さて二人の臣下、故郷に帰り、太子を誘ひ出して養育しけるぞ無残なる。かくて敵の大王、これを聞き伝へ、「末の代には、我が敵なり。かの太子、同じく二人の臣下どもの首を取りて来らん者には、勲功は所望によるべし。」と、国々に宣旨を下されけり。この宣旨に従つて、かの人々に心を懸け、「いかにもして怪しみ求めん。」と思はぬ者はなかりけり。しかれども一所の住まひかなはで、或いは遠き里にまじはり、深き山に籠りて身を隠すといへども、所なくして、二人寄り合ひ、「いかがせん。」とぞ嘆きける。程嬰申しけるは、「我等が君を養じ奉るに、敵こはくして、国中に隠れ難し。されば、我等二人が内一人、敵の王に出で、『仕へん。』と言はん時、『さる者。』とて、心を許す事あらじ。時に我が子、きくわくと言ひて、十一歳になる子を一人持ちたり。幸ひ、我が君と同年なり。これを太子と号して、二人が内、一人は山に籠り、一人は討手に来り、主従二人を討ち、首を取り、敵の王に捧げなば、いかでか心許さざるべき。その時、敵を易々と討ち取るべし。」と言ひければ、杵臼、申しけるは、「命長らへて、後に事をなすべき忍耐の精は、遠くして難し。今、太子と同じく死せん事は、近くして易し。しかれば杵臼は、忍耐の精少なき者なり。易きに就き、我まづ死ぬべし。程嬰は敵方に出ん事を急ぎ給へ。」とぞ申しける。
 その後程嬰は、我が子のきくわくを近付けて、「いかに、汝。詳しく聞け。我等は主君の太子、隠し奉らんとせし故、我々、汝等までも敵に捕らはれて、犬死をせん事、疑ひなし。しかれば、汝を太子と偽り奉りて、首を取るべし。怨むる事なくして、御命に代はり奉りて、君を安全ならしめよ。親なればとて、添ひ果つベきにもあらず。来世にて生まれ逢ふべし。」と申しければ、きくわく、聞きもあへず、涙を流して、暫し返事もせざりけり。父、この色を見て、「未練なり。汝、はや十歳に余るぞかし。弓矢取る者の子は、腹の内より物の心は知るぞかし。」と諫めければ、きくわく、この言葉を聞き、言ひけるは、「我が命、惜しきにより泣くにはあらず。まことに某が命一つにて、君と父との孝行に捧げ申さん事、露塵ほども惜しからざるものをや。嘆きの中の喜びなり。」と言ひもあへず、涙に咽びけり。父、これを聞き、「子ながらも優に使ひたる言葉かな。未だ幼き者ぞかし。まことに我が子なり。成人の後、さぞ。」と思ひければ、惜ししと言ふも余りあり。「我、心弱きと見えなば、もし未練にもや成りなん。」と思ひければ、流るる涙を押しとどめ、「弓矢の家に生まれて、君のために命を捨つる事、汝一人にも限らず。『最期未練にては、君の御ため、父がため、中々見苦し。』とて、一命を損ずべきなり。」と言ひければ、きくわく、涙を押さへて、「かほどに深く思ひ定めて候へば、いかでかおろかなるべき。心安く思し召せ。さりながら、さし当たる父母の御別れ、いかでか惜しからで候べき。最期に於きては思ひ定めて候。」と申しければ、父、心安くぞ思ひける。
 さてまた二人、寄り合ひ内談するやう、「今、君の御ために討たるべき命は易く、残りとどまりて敵を討ちて、太子を世に立て申さん事、重きが上の大事なり。いいかがせん。長らへ功をなす事、堪忍、精なくしては成り難し。我まづ死なん。」とて、杵臼は十一歳のきくわくを連れて山に籠り、討手を待ちける心の内、無残と言ふも余りあり。その後程嬰は、敵の王の辺りに行き、「召し仕はれん。」と申す。敵王、聞き、「この者、身を捨て、面を汚し、我に仕ふべき臣下にあらず。さりながら、世変はり時移れば、さもや。」と思ひ、傍らに許し置くといへども、なほ害心に恐れて、許す心なかりけり。言ひ合はせたる事なれば、「我今、王に仕へて二心なし。疑ひ、理なれども、世界を狭められ、恥辱に替へて助かるなり。なほし用ゐ給はずば、主君の太子、臣下の杵臼もろ共に、隠れ居たる所を詳しく知れり。討手を賜はつて向かひ、彼等を討ち、首を取りて見せ参らせん。」と言ふ。
 その時国王、和睦の心を成し、数千人の兵をさし添へ、彼等が隠れ居たる山へ押し寄せ、四方を囲み、鬨の声をぞ上げたりける。杵臼は、思ひ設けたる事なれば、静まり返りて音もせず。程嬰、進み出、申しけるは、「孝明王の太子、屠岸賈やまします。程嬰、討手に参りたり。雑兵の手に懸かり給はんより、急ぎ自害し給へ。逃れ給ふべきにあらず。」と申しければ、杵臼、立ち出、「我が君のまします事、隠し申すべきにあらず。待ち給へ。御自害あるべし。さりながら、今日の大将軍の程嬰は、昨日まではまさしき相伝の臣下ぞかし。一旦の依怙に住すとも、終には天罰降り来り、遠からざるに失せなん果てを見ばや。」とぞ申しける。程嬰、これを聞き、「時世に従ふ習ひ。昔はさもこそありつらめ、今また変はる折節なり。さればにや、君も御運尽き果て、命もつづまり給ふぞかし。いたづら事に関はりて、命を失ひ給はんより、兜を脱ぎ、弓の弦を外し、降参し給へ。昔の情けを以て助くべし。」とぞ言ひける。
 十一歳のきくわく、「討手は父よ。」と知りながら、かねて定めし事なれば、父重代の剣を横たへ、高き所に走り上がり、「いかに、人々。聞き給へ。孝明王の太子として、臣下の手に懸かるべき事にもあらず。また、臣下心変はりを恨むべきにもあらず。ただ前業こそ拙なけれ。さりながら、その家久しき郎等ぞかし。程嬰、出で給へ。日頃のよしみに今一度見参せん。」と言ふ。程嬰は、我が子の振舞を見て、心安く思へども、忍びの涙ぞ進みける。「兵、怪しくや見るらん。」と、落つる涙を押しとどめ、「人々、これを聞き給へ。国王の太子として、優に使ひたる言葉かな。かうこそありたけれ。」と言ひけるが、さすが恩愛の別れ、包みかねたる涙の袖、絞りもあへず。よその哀れを催しつつ、相従ふ兵は、さし当たる道理なれば、共に感ぜぬはなかりけり。その後太子、高声に曰く、「我は孝明王の太子、生年十一歳。父、一所に迎へ給へ。」と言ひも果てず、剣を抜き、貫かれてぞ臥しぬ。杵臼、同じく立ち寄りて、「健気にも御自害候ものかな。某もやがて追つ付き奉らん。」とて、腹十文字にかき破り、太子の死骸にまろび掛かりて臥しにける有様、見るに言葉も及ばれず。無残なりしためしなり。
 さて二人が首を取りて、国王に捧ぐ。叡覧ありて、喜悦の眉を開き給ふ。今は疑ふ処なく、程嬰に心を許し、一の大臣に備へ給ふこそ、御運の極めとぞおぼえける。さても程嬰は、隙を窺ひて、敵の国王を討つて、速やかに主君の屠岸賈を世に立て、再び国王に備へしかば、元の如く程嬰を相臣に立てらるるによつて、杵臼、きくわくのために追善、その数を知らず。三年に、国悉く鎮まり畢りて後、程嬰、君に暇を乞ひて曰く、「我、杵臼に契約して、命を君に奉る事、遅速を争ひしなり。御位、これまでなり。今は思ひ置く事なければ、杵臼が草の蔭にての心も恥づかし。自害仕らん。」と申す。帝王、大きに嘆きて、これを許す事なし。されども暇を計らひ、忍び出て、杵臼が塚の前に行き、「君の御位は、思ふままなり。いかに嬉しく思ひ給ふらん。我また、かくの如し。いにしへの契約忘れず。」と言ひて、腹かき切り、失せにけり。哀れなりしためしなり。されば、大見、八幡が主のために、命を軽んじて伊東を狙ひし志、これには過ぎじとぞおぼえける。

底本頭注
 八 杵臼程嬰が事
 ・杵臼程嬰――趙朔の臣にして、屠岸賈は、その敵なり。事実甚しく違へり。
 ・無残なる――二人の心中を哀れと察したる言葉。
 ・見苦しとて――誤脱あるべし。

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校訂者注
 七 大見八幡が伊東を狙ひし事
 ・鹿箭差したる竹箙――底本「鹿箭さげたる竹箙」。岩波文庫本(1939)脚注により改めた。

九 奥野の狩座の事

 さても両三箇国の人々は、各々奥野に入り、方々より勢子を入れて野干を狩りけるほどに、七日が内に、猪六百、鹿千頭、熊三十七、むささび三百、その外雉、山鳥、猿、兎、むじな、狐、狸、さい、狼の類に至るまで、以上その数、二千七百余りぞとどめられける。「今はさのみ野干を亡ぼして、何にかはせん。」とて、各々柏ヶ峠にぞ上がりける。「この程の雑掌は、伊東一人して暇なかりければ、持たせたる酒、人々の見参に入れざるこそ本意なけれ。いざや、山陣を取りて、頼朝に今一献進め奉らん。」「しかるべし。」とて、宗徒の人々五百余人、峠におりゐつつ、用意をこそはせられけれ。

十 同じく酒宴の事

 さる程に、柏ヶ峠に各々うち上がりければ、土肥次郎が申しけるは、「今日の御酒宴は、かねて座敷の御定めあるべし。若き方々の御違乱もや候べき。」大庭平太はこれを聞き、「これは芝居の座敷。誰を上下と定むべき。年寄らふ人の盃は、海老名殿より始め、若殿ばらは瀧口殿より始めよ。この人は、いづ方にぞ。」と申しければ、弟の三郎聞き、「兄にて候者は、熊倉の北の脇に鹿の来るを目に懸け、深入りして未だ見えず候へ。家俊こそ参りて候。」土屋が申しけるは、「三郎殿こそ瀧口殿よ。兄弟の中に、誰をか分きて隔つべき。その盃、三郎殿より始めよ。」と言ふ時、大庭聞き、「瀧口殿は、年こそ若けれども、さる人ぞかし。今来ると言ふを、少しの間、待たぬか。左右なく肴荒らすな。」とて、奥野の山口の方へ迎へを遣り、「瀧口遅し。」と待つ処に、瀧口は、熊倉の北の脇を過ぐるに、埒の外に熊の大きなるを見付けて、元の繁みへ入れじと、平野に追ひくだす処に、瀧口、大なる伏木に馬を乗り掛け、真さかさまに馳せ倒す。馬を顧みず、弓の元を左右の鐙に乗り掛かり、草隠れに矢頃少し延びたりけるを、三人張に十三束の大鏑矢つがひ、拳上に引き掛け、ひやうど放つ。遠鳴りして右のをり骨二つ三つ、はらりと射削り、鏑は割れてさつと散りければ、鏃は岩にがしと当たる。熊は手を負ひ、滝口に猛りて懸かる。勢子の者どもこれを見て、四方ヘばつとぞ逃げたりける。瀧口、二の矢をつがひ、絞り返して、月の輪を外さじと、ゐを掛けて射ければ、熊は少しも動かず、矢二つにてとどまりけり。
 その後、勢子の者ども呼び寄せ、熊を舁かせて、人々のおり居たる峠にうち上がり、急ぎ馬よりおり、「肴尋ね候とて深入り仕り、遅参申すなり。御免候へ。」と言ひて、笠をも脱がず、靭をも解かず、行縢ながら弓杖突きて立ちたり。吉川の三郎、俣野に居組みてありけるが、これを見て、「瀧口殿は、聞きしより見増しておぼゆるものかな。あつぱれ男かな。」と褒めければ、座敷に居煩ひたり。まことに気色顔にて、「何事がな力業して、なほ褒められん。」と思ヘども、芝居の事なれば、叶はでありけるを、弟の瀧口の三郎と船越の十郎が居たりける間に、青めなる石の高さ三尺ばかりなるを、「寄りて持たばや。」と思ひければ、するすると歩みけるを見て、弟の家俊、立たんとす。膝を押さへてはたと睨みて、「弓矢の座敷を片去るとは。我が居たる家を出て他所に居わたり、その家に人を置くをこそ、座敷片去るとは言へ。これ、ここなる石の二人が間にありて、詰まりやうの憎さにこそ。」と言ひて、右の手をさし延べて、後ろざまへ押しければ、大石が押されて、谷へどうど落ち行く。
 海老名の源八がこれを見て、「東八箇国の内に、男子持ちたらん人は、瀧口殿をよき物あやかりにせよ。器量と言ひ、弓矢取りては樊噲、張良なり。あつぱれ侍や。」と褒められ、いよいよ気色を増し、老いの末座敷より進み出、申しけるは、「只今の盃も、さる事にて候へども、余りにもどかしくおぼえ候。大なる盃を持つて、一つづつ御廻し候へかし。」と申しければ、「滝口殿の仰せこそ面白けれ。」とて、伊東の次郎貝といふ貝を取り出し、この貝は、日本三番の貝とて、院へ参らせたりしを、公家には貝を御用ゐなき事なれば、武家に下さるる。太郎貝をば秩父に下さる。提子五つぞ入りける。二郎貝をば三郎に下さる。しんすけ賜はつて、土肥次郎に取らする。殿上を許されたる器物とて、秘蔵して持ちけるを、折節河津三郎、土肥が婿になりて来りしを、引出物にしたりけり。内は己なりにして、外は梨地に蒔きて、磯なりにめをさしたり。提子三つぞ入りける。これを取り出し、瀧口が元より始めて、二度づつぞ廻しける。五百余人の持ちたる酒なれば、酒に不足ぞなかりける。
 後には乱舞して、踊り跳ねてぞあそびける。海老名の源八、盃控へて申しけるは、「これはめでたき世の中を、うつつとも定め難く、昔語りにならん事こそ悲しけれ。老少不定と言ひながら、若きは頼みあるものを。若殿ばらのやうに舞ひ歌はんと思ヘども、膝震ひ、声も立たず。劉石が塚より出て、伯倫が頽然とせしやうに、酒盛れや、殿ばら。あはれ、若くありし時は、これ程の盃、二、三十飲みしかども、座敷に臥すほどの事はあらねども、老いの極めやらん、腰膝の立たざるこそ悲しけれ。」ひとへに白居易が昔も、かくや老いにけん。今更思ひ出られて、哀れにこそはおぼえけれ。

底本頭注
 九 奥野の狩座の事
 ・野干――狐の事なれども、ここにては獣の総称。
 十 同じく酒宴の事
 ・芝居――草生に座する事。

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校訂者注
 十 同じく酒宴の事
 ・俣野に居組みて――底本「俣野に射組みて」。岩波文庫本(1939)本文改めた。
 ・劉石が…頽然と――底本「りうせきがつかより出でて、はんらうが茫然と」。岩波文庫本(1939)本文及び脚注に従い改めた。

十一 同じく相撲の事

 さる程に、「いにしへを思ふに、秀貞が若盛りには、鷹狩、川狩の帰り足には、力業、相撲賭けこそ面白けれ。若き人々、相撲取り給へ。見てあそばん。見物には上やあるべき。」と言ひければ、伊豆の国の住人、三島の入道将監、居丈高になりて、「石転ばかしの瀧口殿と、相沢の弥五郎殿、出て取り給へ。これこそ合ひ頃の力と聞け。さもあらば、入道出て行司に立たん。」と言ふ。瀧口聞きて、「坂東八箇国に強き者はなきか。かほどの小男を相手に指さるるは、馬の上かち立ちなりとも脇挟み、立たんに働かさじ。」と言ひければ、弥五郎聞きて、「伊豆、駿河、武蔵、相模に強き者はなきか。瀧口が背と力を羨むは、下臈の好む処にこそ。器量によりて荷をば持て。侍は、背小さく力は弱けれども、鎧一領肩に引つ掛け、弓押し張り、矢かき負ひ、よき馬にうち乗りて、戦場に駆け出て、思ふ敵に引つ組みて、両馬が間に落ち重なり、肝まさりて腰の刀を抜き、下に伏しながら大の男を引つ掛け、草摺を畳み上げ、急所を隙なく刺して、跳ね返し、押さへて首を取る時は、大の男も物ならず。」とあざ笑ひてぞ申しける。瀧口、たまらぬ男にて、「首を取るか取らるるか、力は他にもあらばこそ。いざや、老いの御肴に、力比べの腕相撲、一番取らん。」と言ふままに、座敷を立ち、直垂を脱ぎ、「何程の事の候べき。しやあばら骨二、三枚、掴み破りて捨つべきものを。」とて、つつと出けり。弥五郎も、「心得たり。ものものしや。力拳のこたへん程は、命こそ限りよ。」と言ひ、座敷を立つ。
 一座の人々、これを見て、「あはや、事こそ出で来ぬ。」と見るほどに、近くありける相沢が申すやう、「あまり早し、瀧口殿。相撲はまづ、小童、冠者ばらに取らせて、取り上げたるこそ面白けれ。大人気なし、瀧口殿。とどまり給へ。」と引き据ゑたり。吉川、これを見て、「弥五郎殿も、まづ抑ヘよ。相沢が弟の弥七郎に出よ。」と言ふ。少し辞退に及びしを、船越引き立てて、手綱取り替へ、出しけり。歳に於きては十五なり。姿を物に譬ふれば、まだ声若き鶯の、谷より出づるもかくやらん。「誰をか相手にさすべき。」と、座敷をきつと見廻しければ、瀧口が弟の三郎、「出よ。」と言ふ言葉の下より出にけり。歳に於きては十八なり。いづれも相撲は上手なれば、各々さし寄りて褄取りしたる有様は、春待ちかねて咲く梅の、雪を含める如くなり。我人、力は知らねども、雲吹き立つる山風の、松と桜に音立てて、鳥も驚く梢かと、諸人目をこそ覚ましけれ。弥七は力劣りなれども、手合ひは増してぞ見えにける。三郎は、力は優りてありければ、組まんとのみにて差し詰め結べば、捨てて抜け、投ぐれば、駆けて廻りしは、桃華の節会の鶏の、心を砕き羽をつがひ、勝負を争ふ鶏合はせも、これには過ぎじとぞ見えたりける。老若、座敷にこらへかね、「あつぱれ浮世の見事や。」と、上下暫くののめきて、東西さらに静まらず。されども弥七は地下がりへ押しかけられ、とどろ走りて素首を突かれ、終に弥七ぞ負けたりける。
 兄の弥六、つつと出、三郎をはたと蹴て、あふのけざまに打ち倒す。瀧口、無念に思ひつつ、弟の三郎が未だ起きざる先に躍り出、大力なりければ、弥六は手にもたまらず負けにけり。兄の弥五郎、弟二人負かして安からずに思ひ、袴の腰解くを遅しと引き切り、手綱二筋えり合はせ、強く収め走り出、近々とさし合ひ、力引きて見ければ、大の男が踏み張りて、少しも動かされず。「一定、我も負けぬべし。まことにや、相撲は力によらず。手だに優れば、みぎは優りの相手をも打つものを。」と思ひ出して、相沢、右の拳を握り固め、瀧口が鬢のはづれ、切れてのけと打ちければ、瀧口打たれて、左右の拳を打ち返す。その後、負けじ劣らじと、手を放ち張り合ひける。今は相撲は取らで、ひとへに当座の口論とぞ見えける。両方、さへんとする処に、弥五郎、隙なくつつと入り、瀧口が小股をかいて、はなじろに押し据ゑたり。勢ひたる瀧口、あへなく負けしかば、暫く相撲ぞなかりける。
 弥五郎は、高言しつる瀧口に勝ちて、「百千番の負けも物ならず。これに勝つこそ嬉しけれ。何者なりとも。」と思ふ処に、桂山の又七出て、手にもたまらず負けて後、究竟の相撲、五番まで勝ちて立つたる有様は、勢ひ余りてぞ見えける。ここに相模の国の住人、柳下の小六郎出て、相沢の弥五郎を始めとして、よき相撲六番勝つ。駿河の国の住人、竹の下の孫八出て、小六郎を始めとして、よき相撲九番打つて、入らんとする処に、大庭が舎弟、俣野の五郎出て、孫八を始めとして、よき相撲十番勝ちければ、「出て取らん。」と言ふ者なし。駿河の国、高橋の忠六、「いざや、取らん。」と言ふ。傍にありける海老名秀貞、「これこそ俣野五郎よ。道埋にて打ちけるぞや。」景久聞きて、「相撲が絶えて無からんにこそ。」と言ひければ、平太、これを聞き、「俣野も手一つ、我も手一つ。臆してばし負けけるか。彼体の相撲をば、十人ばかりも一掴みに思ひ、着る物を脱ぎ置き、手綱かき設け、負くれば乗り越え、打つれば入れ替へ、息をも継がせず、隙をもあらせず攻め倒せ。」「この儀、面白し。」とて、十人ばかり並み居て、負くればつと出、打つれば跳ね越え攻めけれども、究竟の上手の大力なれば、続けて二十一番勝ちけり。
 その時、土肥次郎実平、座敷を立ち、爪紅に日を出したる扇を開きて、俣野を暫しあふぎて、「よき御相撲かな。あつぱれ、実平が年十五も若くば、出て取らばや。」と言ふ。俣野聞きて、「何かは苦しかるべき。出給ヘ。一番取らん。相撲は年により候はず。」と言ひければ、土肥は、なまじひに言葉を掛けて、おめおめと言はれて、取るより外の事は無し。伊東の次郎が嫡子、河津三郎祐重をば、父伊東より人重く思ひければ、無二無三のあそびなれども、「出て取れ。」と言ふ人もなし。「伊東は三浦に親しく、河津は土肥が婿なり。土肥が今日の恥辱は、この一門に離れじ。」と思へば、老いの末座にありけるが、座敷を立ちて、舅の土肥次郎にささやきけるは、「今日の御酒盛には、老若の嫌ひなく候に、などや、『祐重、一番。』とも承り候はず。空しく帰り候はば、若き者のおいすげしたるに似て候。御計らひ候へ。一番。」と言ひければ、実平聞きて、「俣野の言葉の苦々しさにぞ、『取らん。』と言ふらん。さりながら、婿を負かしては面目なし。」とや思ひけん、返事にも及ばで、赤面してぞ居たりける。父伊東、これを聞き、「子ながらも力は強きものを。取らせて見ばや。」と思ひけれども、ためらふ折節、この言葉を聞き、「神妙に申したり。出て取れ。」と言ひければ、直垂脱ぎ置き、白き手綱二筋より合はせ、堅く収めて出んとす。
 「伊東方の者出て、御相撲に参らん、俣野殿。」と言ふ。景久聞きて、腹を立て、「『相撲はこれに候ぞ。出合はせ候へ。』と言ふは、常の事ぞかし。手相撲の座敷にて、左右なく相手の名字、呼ぶ事なし。氏と言ひ器量と言ひ、河津にや負くべき。小腕押し折り捨つべきものを。」と笑ひて出づるを見れば、菩薩なりにして色浅黒く、丈は六尺二分、歳は三十一にぞなりける。また河津が姿はさし肩にして、顔の骨あれて、頸太く頭小さく、すそぶくらに後ろのをり骨、臍の下へさし込み、力士なりにして、丈は五尺八分、歳は三十二なり。さし寄り、褄取り、ひしひしとして、押し離れ、河津思ひけるは、「俣野は聞きつるに似ず、さしたる力にてはなかりけり。今日の人々の多く負けけるは、酒に酔ひたるか、臆しける故なるべし。今度は手にも立つまじきものを。」と思ひけるが、心を変へて思ふやう、「さすがに俣野は、相撲の大番勤めに都へ上り、三歳の間、都にて相撲に馴れ、一度も不覚を取らぬ者なり。その故に、院、内の御目に掛かり、日本一番の名を得たる相撲なり。今ここ元にて、物の手もなく負かさん事は、かへりて言ひ甲斐なし。」と思へば、二度目にはさし寄り、左右の腕を掴んで、右手に坐したる雑人の上に押し掛け、膝を突かせて入りにけり。
 俣野はただも入らずして、「ここなる木の根に蹴つまづきて、不覚の負けをぞしたりけるや。今一番取らん。」と言ふ。大庭、これを聞き、走り出、「げにげに、これに木の根あり。真中にて勝負し給へ。」と言ひければ、伊東、聞きて申しけるは、「河津が膝、少し流れて見え候ぞ。根切りの相撲ならばこそ意趣もあらめ、只一座の一興に、負け申しても面白し。出合ひ申せ。」と言ひければ、河津はやがてぞ出にける。俣野も出んとしたりしを、一族ども、「いかに取るとも勝つまじきぞ。只、このままにて入り給へ。論の相撲は勝負なし。勝ちたるには優るぞかし。この度負けば、二度の負けなるべし。」と言ひければ、俣野が言ふやう、「河津は力は強くおぼゆれども、相撲の故実は候はず。御覧ぜよ。」と言ひ捨てて、なほも出んとする処を、暫しとどめて言ひけるは、「河津が手合ひをよく見れば、御分にみぎは優りの力なり。彼等体の相撲をば、左右の手を上げ、爪先を立てて、上手に掛けて待ち給へ。敵も上手に目を懸けて、伸さんと寄る処を、小臂をうち上げ、違ひざまに四つ居を取り、足を抜きて跳ね廻れ。大力も跳ねられて、足の立てどの浮く処を、捨てて足を取りて見よ。組んではかなふまじきぞ。もしまた組までかなはずば、内絡みにしとと掛けて、髻を地を掃かせ、一跳ね跳ねてしとと打て。何條、七離れ八離れは見苦しきぞ。侍相撲と申すは、寄るかとすれば勝ち負けあり。余りに速きも見分けられず。また、かやうのひね者をば、煩ひなくのし寄りて、小首攻めに攻めて、背こごめて廻る処を、大さか手に入れて、かい捻り、投げ捨てて見よ。真さかさまに負けぬべし。」と、細々と教へければ、「心得たり。」とて出合ひけり。
 河津は、前後相撲はこれが初めなれば、やうもなくするすると歩み寄り、俣野が抜けんとあひしらふ処を、右の腕をつつと延べ、俣野が前ほろを掴んでさしのけ、荒くも働かば、手綱も腰も切れぬべし。暫くありて、むずと引き寄せ、目より高くさし上げ、半時ばかりありて、横ざまに片手を放ちてしとと打つ。俣野はやがて起き直り、「相撲に提ぐるは常の習ひ。何ぞ御分が片手技は。」と言ひければ、河津言ひけるは、「以前も、勝ちたる相撲を御論候間、今度は真中にて、片手を以て打ち申したり。いまだ御不審や候べき。御覧じつるか、人々。」と言ふ。大庭、これを見て、童に持たせたる太刀押つ取り、するりと抜きて、跳んで懸かる。座敷、俄に騒ぎ、ばつと立つ。伊東方に寄る者もあり、大庭方に寄る者もあり。両方さへんと折り塞がり、銚子盃踏み割り、酒肴をこぼす。雑兵三千余人までも、「軍せん。」とてひしめきけり。
 兵衛佐殿、この由御覧じ、「いかに、頼朝に情けを捨てて、あだを結び給ふか、大庭の人々。」と仰せられければ、大庭の平太、承り、「田舎住まひの者どもの、出仕馴れ候はで、かかる狼籍を仕り候。相撲は負けても恥ならず。我が方人とは言ふべからず。一々に記し申すべきぞ。後日に争ふな。」と怒りければ、「大庭の鎮め給ふ上は。」とて静まりけり。伊東は、「元より意趣なし。」とて、やがて面々にこそ静まりけれ。これや、「瓊瑤は少なきを以て貴なりとし、石礫は多きを以て賤しとす」。人多しといへども、景義が言葉一つにてぞ静まりける。
 かかる処に、祐経が郎等ども、彼等に交じはり窺ひけるが、「あつぱれ、事の出で来よかし。間近く寄りて討たん。」とする由にて、「伊東殿を追つさまに射殺さん。」とてささやきけり。七日が間、夜昼つきて窺へども、しかるべき隙なくして、狩倉、既に過ぎければ、各々空しく帰らんとす。小藤太申しけるは、「さても、一臈殿の御心を尽くして、今や今やと待ち給ふらん。いたづらに帰らん事こそ口惜しけれ。いざや、思ひ切り、とにもかくにもならん。」と言ひければ、八幡三郎が申しけるは、「暫く劫を積みて見給へ。いかでか空しからん。」とぞ申しける。

底本頭注
 十一 同じく相撲の事
 ・手綱――褌。
 ・爪紅――縁のみ紅き事。
 ・老いすげ――老衰と同じ。
 ・劫――時。

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校訂者注
 十一 同じく相撲の事
 ・近くありける相沢が申すやう――底本「近くありける相沢に申すやう」。岩波文庫本(1939)により改めた。
 ・十人ばかりも一掴みに思ひ――底本「十人ばかりもと一掴みに思ひ」。岩波文庫本(1939)により改めた。
 ・伊東の次郎が嫡子、河津三郎祐重をば、父伊東より人重く思ひければ、無二無三のあそびなれども、「出て取れ。」と言ふ人もなし。「伊東は三浦に親しく、河津は土肥が婿なり。土肥が今日の恥辱は、この一門に離れじ。」と思へば、――底本「伊東は三浦に親しく、河津は土肥が婿なり。土肥が今日の恥辱は、此の一門に離れじ、と思へば、伊東の次郎が嫡子、河津三郎祐重をば、父伊東より人重く思ひければ、無二無三の遊なれども、出でてとれといふ人もなし。」岩波文庫本(1939)脚注に従い改めた。
 ・右手に坐したる雑人――底本「右手におはします雑人」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
 ・負け申しても面白し――底本「負け申して面白し」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
 ・内絡みにしとと掛けて――底本「うち絡にしはとかけて」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
 ・かい拈りて蹶捨てゝ見よ――底本「かい捻りて、蹴捨てて見よ」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
 ・相撲に提ぐるは常の習ひ――底本「相撲に負くるは常の慣」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。

十二 費長房が事

 「さる程に、劫を積みて望み叶へる譬へあり。昔、大国に費長房といふ者あり。仙術を習ひ得て、暗き処もなかりしが、天に上がる術を習はずして、未だ空しく凡夫に交じはり歩きけり。或る時、商用の事ありて、長安の市に出て、商人に伴ひしに、或る老人、腰に壺を付けて、この市に交じはりけり。知音は知る理にて、『この者、只人ならず。』と目を離さで見るに、この老人、傍らに行き、腰なる壺をおろし、その壺に出入りにけり。『さればこそ仙人なれ。』とて、その人の行方につきて行きて、費長房の曰く、『かの仙人に仕へん。』とて、三年ぞ仕へける。或る時、老人の曰く、『汝はいかなる志ありて、三年まで一言葉も違へず、我に仕へけるぞや。』費長房聞きて、『我、仙術を習ふといへども、天に上がる事を知らず。老人の壺に出入り給ふ事を教へ給へ。』と言ひければ、『易き事なり。我が袖に取り付け。』と言ふ。即ち取り付きければ、二人共にかの壺の中へと飛び入りぬ。この壺の中に、めでたき世界あり。月日の光は空にやはらぎ、四方に四季の色を顕はし、百二十丈の宮殿楼閣あり。天にて聖衆舞ひあそぶ。鴻雁鴛鴦の声やはらかにして、池には弘誓の舟を浮かべり。よくよく見巡りて、『今は出ん。』と言ふ。老人、竹の杖を与へて、『これを突きて出よ。』と言ふ。即ち、突くと思へば、時の間にをしみつといふ所に至りぬ。この杖を捨てければ、即ち龍と成りて天に上がりぬ。費長房は、鶴に乗りて天に上りけり。これも劫を積もる故なり。三年までこそなくとも、待ちて見よ。」とぞ申しける。

十三 河津三郎討たれし事

 「されば、この帰り足を狙ひて見ん。」「しかるべし。」とて、道を替へて先に立ち、奥野の口、赤沢山の麓、八幡山の境にある切所を尋ねて、椎の木三本、小楯に取り、一の射翳には大見小藤太、二の射翳には八幡三郎、「手だれなれば余さじものを。」とて立つたりけり。各々待ちかけける処に、一番に通るは秦野右馬允、二番に通るは大庭三郎、三番に通るは海老名源八、四番には土肥次郎。後陣、遥かに引き下がりて、流人兵衛佐殿ぞ通られける。敵ならねば皆遣り過ごしぬ。
 この次に伊東が嫡子、河津三郎ぞ来りける。面白くこそ出で立ちたれ。秋野の摺り尽くしたる間々に、引きがきしたる直垂にまだらの行縢、裾たをやかにはきなし、鶴の本白にてはいだる白拵への猪矢、筈高に負ひなし、旃檀籐の弓の真中取り、萌黄裏付けたる竹笠、木枯らしに吹きそらせ、宿月毛の馬の五寸余りの大きなるが、尾髪飽くまで縮みたるに、梨子地に蒔きたる白覆輪の鞍に、連赤鞦の山吹色なるを掛け、含み轡に紺の手綱を入れてぞ乗つたりける。馬も聞こゆる名馬なり。主も究竟の馬乗りにて、伏木悪所を嫌はず、さしくつろげてこそ歩ませけれ。折節、乗替一騎もつかざれば、一の射翳の前を遣り過ごす。二の射翳の八幡三郎は、元より騒がぬ男なれば、「天の与へを取らざるは、かへつて咎を得る。」といふ古き言葉を思ひ出、「すは、射損ずべき。」射翳の前を三段ばかり、左手の方へ遣り過ごして、大の尖矢さしつがひ、よつ引き、暫しかためてひやうど放つ。思ひも寄らで通りける河津が、乗つたる鞍の後ろの山形を射削り、行縢の着際を前ヘつつとぞ射通しける。河津もよかりけり。弓取り直し、矢取つてつがひ、馬の鼻を引つ返し、四方を見廻す。「智者は惑はず、仁者は憂へず、勇者は恐れず。」と申せども、大事の痛手なれば、心は猛く思へども、性根次第に乱れ、馬より真さかさまに落ちにけり。
 後陣にありける父伊東次郎は、これをば夢にも知らずぞ下りける。頃は神無月十日余りの事なれば、山めぐりのむら時雨、降りみ降らずみ定めなく、立ち居る雲の絶え絶えに、濡れじと駒を早めて手綱かい繰る処に、一の射翳にありける大見小藤太 持ち受けて射たりけれども、しるしなし。左の手の内の指二つ、前のしぼでの根に射立てたり。伊東は聞こゆる兵にてありければ、「敵に二つの矢を射させじ。」と、大事の手にもてなし、右手の鐙におり下り、馬を小楯に取り、「山賊ありや。先陣は返せ。後陣は進め。」と呼ばはりければ、我劣らじと進めども、所しも悪所なれば、馬のさくりを辿る程に、二人の敵は逃げ延びぬ。隈もなく待ちけれども、案内者にて、思はぬ茂みの道を替へ、大見の庄にぞ入りにける。危ふかりし命なり。
 伊東は、河津三郎が臥したる所に立ち寄りて、「手は大事なるか。」と問ひけれども、音もせず。押し動かして矢を荒く抜きければ、いよいよ前後も知らざりけり。河津が頭を父伊東が膝にかき載せ、涙を押さへて申しけるは、「こは何と成り行く事ぞや。同じ当たる矢ならば、など祐親には当たらざりけるぞ。齢傾き、今日明日をも知らざる憂き身なれども、わ殿を持ちてこそ、公方、私、心安く、後の代かけても頼もしく思ひつるに、あへなく先立つ事の悲しさよ。今より後、誰を頼みてあるべきぞ。汝をとめ置き、祐親先立つものならば、思ひ置く事、よもあらじ。老少不定の別れこそ悲しけれ。」とて、河津が手を取り懐に入れ、口説きけるは、「いかにや、定業なりとも、矢一つにて物をも言はで、死ぬる者やある。」と言ひて押し動かしければ、その時祐重、苦しげなる声にて、「かくは度々仰せらるれども、誰とも知り奉らず候。」と言ふ。土肥次郎申しけるは、「御分の枕にし給ふは、父伊東の膝よ。かく宣ふも伊東殿。今またかやうに申すは、土肥次郎実平なり。敵やおぼえ給ふ。」と問ひければ、ややありて眼を開き、「祐親を見参らせんとすれども、今はそれもかなはず。誰々も近く御入り候か。御名残こそ惜しく候へ。」とて、父が手に取り付きにけり。
 伊東、涙を押さへて申しけるは、「未練なり。汝、敵はおぼえずや。」と言ふ。「工藤一臈こそ意趣ある者にて候へ。それに只今、大見と八幡、見え候ひつれ。怪しくおぼえ候。従ひ候ひては、祐経在京して、公方の御意、盛りに候なる。しかれば、『殿の御行方いかが。』と、黄泉路の障りとも成りぬべし。面々、頼み奉る。幼い者までも。」と言ひもあへず、奥野の露と消えにけり。無残なる有様とも、申すばかりぞなかりける。伊東は余りの悲しさに、暫しは膝をおろさずして、顔に顔をさし当て、口説きけるこそ哀れなれ。「や、殿。聞け、河津。頼む方なき祐親を捨てて、いづくへ行き給ふぞ。祐親をも連れて行き候へ。母や子どもをば、誰に預けて行き給ふぞ。情けなの有様や。」と嘆きければ、土肥次郎も河津が手を取り、「実平も、子とては遠平ばかりなり。御身を持ちてこそ、月日の如く頼もしかりつるに、かやうに成り行き給ふ事よ。」と泣き悲しむ事、限りなし。国々の人々も、同じく一つ所に集まりて、互に袖をぞ濡らしける。さてあるべきにあらざれば、空しき形を舁かせて、家に帰りければ、女房を始めとして、賤しの賤の男、賤の女に至るまで、嘆きの声、せん方なし。
 さても、かの河津三郎祐重に男子二人あり。兄は一万とて五つなり。弟は箱王とて三つにぞなりにける。母、思ひの余りに、二人の子どもを左右の膝に据ゑ置き、髪かき撫で、泣く泣く申しけるは、「腹の内の子だにも、母の言ふ事をば聞き知るものを、まして汝等は、五つや三つに成るぞかし。十五十三にならば、親の敵を討ちて、わらはに見せよ。」と泣きければ、弟は聞き知らず、手ずさみして遊びゐたるばかりなり。兄は、死したる父が顔をつくづくと目守りて、わつと泣きしが、涙を押さへて、「いつか大人しくなりて、父の敵の首取つて、人々に見せ参らせん。」とて泣きしかば、知るも知らぬもおしなべて、袖を絞らぬ人は無し。なほも名残を慕ひかね、三日までぞ置きたりける。黄泉幽冥の道は、いかなる所なれば、一たび去りて二度と帰らぬ習ひなれば、力及ばず、泣く泣く送り出し、夕の煙と成しにけり。女房、「一つ煙とならん。」と悲しみけり。
 伊東次郎申しけるは、「恩愛の別れ、夫妻の嘆き、いづれか劣るべきにはあらねども、憂き世の習ひ、力及ばず候。親に後れ、夫妻に別るる毎に、命を失ふものならば、生老病死もあるべからず。別れは人毎の事なれども、思ひ過ぐればおのづから、忘るる心のあるぞとよ。憂きにつけて身を全くして、後世菩提を弔ひ給へ。」とさまざまに慰めければ、「まことに理なれども、さし当たりたる悲しさなれば。」とて、悶え焦がれけり。夫の別れは、昔も今も多き処なり。別れの涙、袂にとどまりて、乾く間もなし。あと先をも知らぬ幼き者どもにうち添へて、身さへ只ならず。「『さまを変へん。』と思へども、尼の身にて過ぐさん処の体も見苦し。また、『淵河へ沈まん。』と思ふにも、『この身にて死しては罪深かるべし。』と聞けば、とにもかくにも女の身ほど、心憂きものは無し。」と口説き立てて、起き臥しに泣くより外の事ぞなき。一日片時も忍ぶべき身にてなかりしが、明けぬ暮れぬとせし程に、五七日にも成りにけり。

底本頭注
 十三 河津三郎討たれし事
 ・射翳――猟師の鳥獣を射むとて柴など折りかけて身を隠す所。
 ・公方――おほやけ向き。
 ・身さへ只ならず――懐妊中の身なり。

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校訂者注
 十二 費長房が事
 ・この市に交じはりけり――底本、「此の者は市に交りけり」。「岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
 十三 河津三郎討たれし事
 ・あるぞとよ。憂きにつけて――底本、「あるぞとよ、と憂きにつけて」。岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
 ・さしくつろげてこそ歩ませけれ――底本、「さしくれてこそ歩ませけれ」。岩波文庫本(1939)脚注により改めた。
 ・古き言葉を思ひ出、「すは、射損ずべき。」――底本、「古き言葉を思ひ出でずは、射損ずべき。」岩波文庫本(1939)本文に従い改めた。
 ・立ち居る雲の――底本、「立ちよる雲の」。岩波文庫本(1939)脚注に従い改めた。

十四 伊東が出家の事

 かくて父伊東次郎は、さかさまなる事なれども、かの者の菩提を弔はんがために出家して、六道に当てて三十六本の卒塔婆を造立し奉る日、聴聞の貴賤男女、数を尽くして参詣する処に、五つになりける一万が、父の蟇目に鞭を取り添へて、「これは父の物。」とて引つ提げければ、母、これを見て呼び寄せて、「亡き人の物をば持たぬ事ぞ。皆々捨てよ。行く末遥かのものぞかし。汝が父は仏に成り給ひて、極楽浄土にましますぞ。わらはも終には参るべし。」と言ひければ、一万喜びて、「仏とは何ぞ。極楽とはいづこにあるぞや。急ぎましませ。我も行かん。」と責めければ、母は言ひ遣る方もなくして、卒塔婆の方に指をさして、「かれこそ浄土の父よ。」と言ひければ、一万、弟の箱王が手を引き、「いざや、父御の元に参らん。」と急ぎけれども、箱王は三つになりければ、歩むにはかも行かず。急ぐ心に弟を捨てて、卒塔婆の中を走り巡り、空しく帰りて、母の膝の上に倒れ臥して、「仏の中にも我が父はましまさず。」とて泣きければ、乳母も共に泣き居たり。その日の説法のみぎりより、一万が振舞にこそ、貴賤、袂を濡らしけり。四十九日には、八塔を供養すとかや。

十五 御房が生まるる事

 さても河津が仏事過ぎしかば、その次の暁方に、女房、例ならざれば、人々やがて心得しかば、九月半と申すには、産の紐をぞ解きたりける。「まことにこの程の嘆きには、いかが。」と案じけるに、何のつつがもなく、男子を生みけり。母、申しけるは、「おのれは果報少なき者かな。今少し疾く生まれて、などや父を見ざりけるぞ。蜉蝣といふ虫こそ、朝に生まれて夕に死するなれ。汝が命、かくの如し。わらはも、『尼になり、山々寺々の麓に閉ぢ籠り、花を摘み水を汲み、仏に供へ奉り、汝が父の孝養にせん。』と思へば、身には添へざるぞ。ゆめゆめ怨むべからず。」とて、やがて棄てんとせし処に、河津三郎が弟、伊東九郎祐清といふ者あり。一人も子を持たざりければ、この事を聞き、女房、急ぎ参りて、「まことや、『今の幼い人を捨てん。』と仰せらるる由を、ほの聞きたり。いかでかさる事あるべきぞ。亡き人の形見にも見もし給はず、捨て給はん事、罪深かるべし。また善悪の事も、それを節と思へば、折々に思ひ出す事の端に成るものを。しかも男子にてましませば、わらはに賜び給へ。養ひ立てて、一家の形見にもせん。」と言ひければ、「この身の有様にて、身に添ふる事、思ひも寄らず候。さやうに思し召さば。」とて、取らせけり。やがて心安き乳母をつけて養育す。名をば御房とぞ言ひける。さるほどに、忌みは八十日、産は三十日にもなりにけり。「百ヶ日に当たらん時、必ず尼になりぬべし。」とて、袈裟衣をぞ用意したりける。

十六 女房曽我へ移る事

 さても、河津が女房は、月日の重なるに従つて、いよいよ出家遁世の心を思ひ立ちければ、伊東入道、この由を伝へ聞きて、人して申しけるは、「まことや、姿を変へんとし給ふなると聞く。子どもをば誰に預け育めとて、さやうの事をば思ひ立ち給ふぞ。老い衰へたる祖父や姥を頼み給ふかや。それ、更に叶ふべからず。三郎なければとて、幼い者どもあまたあれば、露ほどもおろかならず。ひとへに祐重が形見とこそ思ひ奉れ。いかなる有様にても、身を窶さずして、幼い者どもをも育て、人と成し給へ。されば、今更にうとき方へましまさば、我も人も見奉る事、叶ふまじ。相模国曽我太郎と申すは、入道所縁ある者にて候。折節、『このほど年頃の妻女に後れて、嘆き未だ晴れ遣らず候。』と承り候。それへ遣り奉るべし。おのづから心をも慰み給へ。入道が辺りなれば、隔ての心はあらず。」と細々とぞ言ひける。さて女房には、やがて人をつけ、厳しく守らせければ、尼に成るべき暇もなし。即ち入道、曽我太郎が元へ、この由、詳しく文に書きて遣はしければ、祐信、文を見て大きに喜び、やがて使とうち連れ、伊東へ越して、子ども諸共に迎へ取りて、帰りけり。いつしかかかる振舞は、返す返すも口惜しけれども、さる事なれば、怨みながらも月日をぞ送りける。これを以て昔を思ふに、せいぢよは夫のためにきんごくにとめられ、はくえいは夫に後れ、えびすの住みかに馴れしも、心ならざる怨めしさ、今更思ひ知られたり。

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校訂者注
 十四 伊東が出家の事
 ・八塔を供養すとかや――底本、「八道を供養すとかや」。岩波文庫本(1939)本文及び脚注に従い改めた。

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