江戸期版本を読む

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カテゴリ: 校訂六代勝事記

校訂「六代勝事記」(群書類従 1929年刊)WEB目次

01 序 高倉天皇
02 安徳天皇 保元、平治の乱  03 治承・寿永の乱
04 後鳥羽天皇
05 土御門天皇
06 順徳天皇
07 仲恭天皇 承久の乱  08 承久の乱(公卿処刑)
09 承久の乱(後鳥羽院隠岐配流)
10 承久の乱(二院二宮配流)


校訂「六代勝事記」(群書類従 1929年刊)WEB凡例

  1:底本は「新校群書類従 第二巻」(1929年刊 国会図書館デジタルコレクション)です。
  2:校訂の基本方針は「本文を忠実にテキスト化しつつ、現代の人に読みやすくする」です。
  3:底本のふりがなは全て省略しました。
  4:底本の漢字は原則現在(2026年)通用の漢字に改めました。
  5:二字以上の繰り返し記号(踊り字)はテキストにないため、文字表記しました。
  6:底本は適宜改行し、句読点および発話を示す鍵括弧は適宜修正、挿入しました。
  7:底本の漢文は適宜訓読を修正し、書き下して示しました。
  8 :底本の欠字は〇で示しました。
  9:底本の修正のうち、必要と思われるものは校訂者注で示しました。なお、校訂には『群書類従 第42-44冊(巻35-37)』(国会図書館デジタルコレクション)を使用しました。

校訂「六代勝事記」(群書類従 1929年刊)WEB目次

江戸期版本を読む INDEX

新校 群書類従 巻第三十六
検校保己一集
帝王部八

六代勝事記(記者未考)

 昔は、蓬壺の月に影を交じへ、今は蓮台の雲に望みを懸けたる世捨て人侍り。応保(二條)の聖代に生まれて、高倉の明時に仕りしかば、年齢やうやく傾きて、六十余廻の星霜を重ね、朝儀、頻りに改まりて、七代帝王の即位に会へり。六條院の御時は、いとけなくて過ぎ侍りき。安元(高倉)の頃より貞応(後堀川)の今に至るまでの事は、夢うつつとも思ひ分かぬ程ながら、見もし聞きもせし事。さまを変へ、衣を染め、弥陀を念じ、極楽を願ふに、ふた心なくなりにし後は、世事すべて厭はれ、文筆長くさし置きてしを、普天かき曇りし夕立の神鳴に驚きて、その事の忘れざる端々ばかりを書き集め侍り。心は権実の教法に会ひて、善悪二つの果を悟り、和漢の記録を伝へて、治乱二つの政を慎む。故に、いささか先生の徳失を残し、おのづから後生の宦学を勧めむ事、身のためにしてこれを記さず。世のため民のためにしてこれを記せり。

高倉院天皇  安徳天皇
隠岐院天皇  阿波院天皇
佐渡廃帝  当今

 高倉院天皇は、神武八十代の正統、後白河(七十七)仙院の二子、母儀、建春門院(滋子。贈左府平時信女)なり。五歳にして儲君に備はり、八歳にして帝位を継ぎ給ふ。二十一にして崩じ給へり。御宇十二年、徳政千万端。詩書、仁義のすたれたる道を興し、理世安民の絶えたる後を継げり。世上、文王の短祚を惜しむといへども、階下武将の大逆をなすに、逃れ給へり。晏駕の乱れざる、帝運のしからしむるなり。

 安徳天皇は、高倉の長子。御母儀、建礼門院(徳子。入道大相国平朝臣清盛息女)なり。三歳にして、譲りを受け給ひて、在位三ヶ年の程、天下穏やかならず、海底に入り給へり。
 大相国は、桓武の苗裔、刑部卿忠盛の男なり。去んぬる保元元年(後白河)、左大臣(頼長)、梟悪の謀り事を巡らし、狼戻の群をなして、天下を乱り、洛中を危ふからしむ。七月九日夜、太上天皇(崇徳。鳥羽の太子。後白河の同母兄)、ひそかに城南の離宮を出、忽ちに洛東の旧院に幸給へり。戦場をその所に占め、軍陣をその中に結ぶ。同十一日に、主上(後白河院)、官兵を遣はして凶徒を征するにや、日の旗、勢ひを添へて旗をなびかしつ。流れ矢の立たす所、左府、命を失へり。同二十三日、太上天皇を讃岐国へ遷し奉り、その余党、或いは刑官に仰せられて召し捕り、或いは王地に帰して降り来る。明法博士等をして、所当の罪名を考へ申さしめて、右近衛大将(兼長)以下十三人をば遠流し、合戦の輩、散位平長貞以下二十人をば、古跡を考へて首を斬れり。時に大相国(清盛)、並びに義朝等、法性寺殿(忠通)の教命に帰して、勲功を極めて殊賞を蒙り、その中に廷尉為義をば、男義朝、梟首せり。但し、勅諚によるなり。
 その後、永暦元年(二條)に、右衛門督信頼卿、左馬頭義朝朝臣を語らひて、謀叛を起こすに、大相国、これを追討して、信頼、義朝等誅戮し、伴類を配流せしより、源氏退散して、平家繁昌せり。朝恩に誇りて朝章を軽くし、万方を従へて万民を悩ますに、後白河法皇、安元年中(高倉)に、大納言成親卿、西光入道等に仰せて、謀叛を巡らし給ふに、多田の源蔵人がために、中言、国を傾けて、雲客月卿、地下北面、多く事に坐す。王化、全て脆きによりて、法皇の叡心、安からず。

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校訂者注
 ・中言、国を傾けて――底本「中言、国をたかむけて」。『群書類従 第42-44冊』により改めた。

 治承四年四月二十二日に、位に即かせ給ひて、同五月二十六日に、入道源三位頼政卿、高倉宮(以仁)に後従して、南都に零落の事あり。頼政卿、郎従、伊豆国武士、並びに渡辺の住人等をして、宇治橋を引いて平等院に休む所に、数千騎の官兵、追討す。一つの流れを隔てて百度戦ふ間、兵法、家の風を煽ぎて、鏃をかむといへども、無勢によりて、宮並びに頼政、同じく子息、家人等、終に討ち取られ畢りぬ。
 同六月二日、摂州の福原に遷都あり。而して、天台の衆徒、道理を以て再三愁へ申すによりて、同十一月二十六日、平安城に還御あり。
 同十二月二十六日、南都の大衆蜂起する故に、三位中将軍重衡、官軍として東大寺を焼き払ひ畢りぬ。
 養和元年(辛丑)、伊豆国の流人前右兵衛権佐源朝臣頼朝は、清和の後胤左馬頭義朝(贈内府)の男なり。甲斐、信濃両国の源氏等を語らひて、謀叛を巧むに、大庭の三郎、平家の重恩を報ずる心ざし浅からず、石橋の山に攻め戦ふに、佐々木四郎(後左衛門尉)以下、命を惜しまず戦ふ間に、佐、逃れて、土肥の次郎一人を具して、釣舟に乗りて、安房国を指して渡るに、三浦の住人等が、佐を助けに向かふに、畠山庄司次郎、稲木三郎等が、大庭の三郎に加はりて行く道に遇ひて、しばしば戦ひて、館に引き籠りたるを、庄司次郎等、翌日に襲へり。壮士、囲みを逃るる船中にして、佐の渡海に遇ひぬ。命の、義によりて軽からん事を嘆きて、上総権介に加はりて、下総国を巡りて、相模国鎌倉の館に着きぬれば、関東帰伏せり。
 ここに、源氏三郎先生の野心をさし挟むに、佐の舎弟、蒲の冠者、八田の四郎武者(後、筑波守)、小山の四郎(今、廷尉)等をして、下野国能毛の宮の原に征戦せしむるに、春天、暴風、東南より起こりて、焼野の灰塵を吹き立て、雲霞の戦の西北より起こる人馬、眼路を失へる故に、わづかに千騎の勢を以て、数万の兵を滅しつ。これ、ひとへに天、力を与ふるなり。昔、周武王、殷紂を討たんとするに、冬天、雲さえて、雪降る事、高さ、丈に余りぬ。五車二馬に乗る人、門の外に来て、王を助けて紂を討つべしと言ひて去りぬ。深雪に車馬の跡なし。海神の天の使として来るなりけり。しかうして討つ事を得たり。又、漢の高祖、韓信が軍に囲まれて、危ふかりけるに、天、俄に霧降り、暮をなして、高祖、逃るる事を得たりと言へり。天の陰徳を顕はす、古今これ同じきものか。
 入道大相国、薨じぬ。その家嫡、小松内府のさいぎりて薨ぜし。世には賢相の名誉を惜しみ、家には武将の兵略を失へり。時に佐、木曽義仲、行家以下、余勢を起こして、一族の卿相、内大臣宗盛、按察権大納言頼盛、中納言教盛、中納言知盛、参議経盛、右衛門督清宗、三位中将重衡、三位中将維盛、従三位通盛、三位中将資盛等、都慮十人同心連署して、泣く泣く山王に祈請して、大衆に和与する趣。
  叡岳は、桓武天皇(五十代)の御宇に、伝教大師、円宗を広め、道場を開きしより、仏法盛りにして、国家を鎮護す。ここに、東国の源氏、党を結び、群をなして、公を抄領し、出貢を押妨せり。当時、弓馬の芸おろそかにて、累代勲功の跡、絶えなんとす。もし神仏の助けにあらずは、いかで凶徒の勝つに乗るを鎮めむ。つらつら臣等が曩祖を思へば、よろしく本願の余裔と言ひつべし。自今以後は、藤氏の春日社を氏神とし、興福寺を氏寺とせるが如くに、平家は日吉社を氏神とし、延暦寺を氏寺として、山門の喜びを一門の喜びとし、社家の憤りを一家の憤りとせん。願はくは七社の神明、擁護を垂れ給へ。願はくは三塔の衆徒、合力せしめよ。
となり。親しきも疎きも、情けあるも情けなきも、この事を聞く人、袂を絞らずといふ事なし。
 悪果極まりて宿運尽きぬれば、仏神、丹祈を受け給はず。保元の春の花、寿永の秋の葉と落ち果て、八條の蓬壺、六原の蓮府、暴風、塵を上げ、煙雲、焔を吐けり。龍頭鷁首を海中に浮かべて、波上に行宮、静かなる事なし。磯部の躑躅の紅は、袖の露より咲くかと疑ひ、五月の苫の雫は、古里を軒の荵に誤る。月を浸す潮の深き憂へに沈み、霜を覆へる蘆の葉の脆き命を危ぶみ、洲崎に騒ぐ千鳥の声は、暁の恨みを添へ、そばへにかかる楫の音は、夜半に心を砕き、白鷺の遠松に群れ居るを見ても、夷、旗をなびかすかと怪しみ、夜雁の遼海に鳴くを聞きても、兵、舟を漕ぐかと驚く。青嵐、膚を破りて、翠黛紅顔の粧ひ、やうやく衰へ、滄波、眼を受けて、懐古望郷の涙、押さへ難し。
  住み馴れし都の方はよそながら袖に浪越す磯の松風
 時に、法皇(後白河)の仙駕を天台山に催し、静謐を石清水に祈り給ひき。西海の逆浪、終に平らぎて、東都、安全を致せり。叡慮の余りに厳重の賞を下すに、且は将軍に仰せられ、且は執政に召し問ひて、筑前の国筥崎の宮を宗廟に寄進せられぬ。神明、威光を増し、都鄙、耳目を驚かせり。

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校訂者注
 ・流れを隔てて百度――底本「流れをへだてた百たび」。『群書類従 第42-44冊』により改めた。
 ・三位中将重衡――底本「三位中将軍重衡」。『群書類従 第42-44冊』により改めた。
 ・叡感の余りに――底本「叡慮の余りに」。『群書類従 第42-44冊』により改めた。

 隠岐院天皇(後鳥羽)は、高倉の三子。御母、七條院(殖子。贈左府藤原信隆女)なり。安徳の後を継げり。寿永二年八月二十日、御年四歳にして、位に即き給へり。御宇十五年。芸能二つを学ぶ中に、文章におろそかにして、弓馬に長じ給へり。国の老父、ひそかに、文を左にして武を右にするに帝徳の欠けたるを憂ふる事は、かの呉王、剣客を好みしかば、天下に疵を蒙る者多く、楚王、細腰を好みしかば、宮中に飢ゑて死ぬる者多かりき。その疵と飢ゑとは、世の厭ふ処なれども、上の好むに下の従ふ故に、国の危ふからん事を悲しぶなり。
 同七月二十八日に、義仲、行家等、花洛に入り替はりて、まづ左馬頭に任じ、伊予守を兼ぬ。しばしば朝敵追討の思ひを忘れて、頻りに都人滅亡の煩ひをなす。すべからく関東の兵略を待つべしといへども、近臣の短慮より出て、法皇、数万の官兵を召して、法住寺殿に楯籠り給へるを、同十一月十九日に、義仲、わづかに千余騎の勢を三つに分かちて、仙洞を襲ひ戦ふに、叡山の大衆、まづ敗れて、咸陽宮の煙、眼に遮り、姑蘇台の露、袖にあり。三條宮、明雲座主以下、道俗の命を絶つ事、数千人なり。首を懸けて堤を築き、血を流して河をなせり。冥顕の擁護を過ち、非職の兵杖を背くにあらずや。義仲、法皇を六條院に遷し据ゑ奉りて、郎従をして門戸を守る。
 元暦元年(甲辰四月改元)、佐、この事を聞きて、舎弟範頼、義経、並びに山道の源氏等を将として、正月十九日に義仲を征伐す。同二月七日、津の国の一の谷を攻め落として、数千の兵を誅戮し、次将三位中将重衡を生け捕りにして、東関より南都に移して首を斬らしむ。先年、東大寺を焼きたりし故なり。遺跡、しかしながら伽藍に施入す。重衡の後室、金銅を大仏に相加へて鋳る時に、その銅沸かずして、御身に和せずと言へり。
  昇りにし煙の闇や隔つらん人の驚く鐘の響きに
 文治二季(丙午)三月二十四日、身とをり、力疲れて、門司の関、破れぬ。入道大相国の後室、二品の局、天子抱き奉りて、九重の淵の底に入れり。名将は千万の軍旅に捕らはれ、国母、官女は夷の手に従ひて旧里に帰り、内府の生虜、棚引の雲に入りて、江州の粟津に帰りて、首を京に曝す。
  思ひきや花の都を散りしより志賀の浦風吹き絶えんとは
 征夷将軍二位家(頼朝)、西海の白波を平らげ、奥州の緑林をなびかして後、錦の袴を着て入洛、黄門、亜相を経て、羽林大将軍に任ぜり。拝賀の儀式、希代の壮観なり。仏法を興し、王法を継ぎ、一族の奢りを静め、万人の愁へをなだめ、不忠の者を退け、奉公の者を進め、あへて親疎を分かず、全く遠近を隔てず。
 建久三年(壬子)三月十三日、法皇(後白河)崩ず。(御年六十六)高年高運の君なり。御賀、御逆修、高野詣、御登山、勝地名所叡覧を極め、験仏霊社臨幸を尽くし、四明には大乗戒を受け、三井には密教を習ひ、東大寺は聖武製草の跡をとめて、金銅の霊像は、御手下して開眼し給ふ。叡心に背きし青葉は風の前に散り果て、朝章を乱りし白波は、うたかたと消えにしかども、分段の秋の霧、玉体を冒して、無常の春風、花の姿を誘ひき。往生極楽は、朝夕の御望みなりければ、臨終正念乱れず、瑜珈振鈴の響きはその夜を限り、一乗暗誦の声はその暁に終はりき。普天かきくらし、率土露しげし。草木愁へたる色あり。いはむや覇陵の松に於いてをや。鳥雀憐れむ声あり。いはんや洞庭の鶴に於いてをや。大宮人は、桜色に染めし袂押しなべて、卯月を待つに咲きかかる藤の衣にたち替へき。慈悲の恵み、一天の下を育み、平等の仁、四海の外に流れき。
  風吹かぬ御世にも猶ぞ思ひ入る入りにし月の春の面影
 同九年(戊午)正月十三日、将軍前右大将薨ず。長子左衛門督頼家卿、虎牙、職を継ぎて、狼戻を静む。百発百中の芸に長じて、武器武家の先に越えたり。
 景時と云ふ壮士ありき。執権、威を振ひて、傍若無人の気あり。比企の判官能員以下、数百人の違背によりて、景時が一族を滅ぼし、讒に帰して叔父阿野禅師を殺害し、因果の理少なくて、人の嘆き、煙を結びて、熱病を受けて絶入の日(出家)、外祖父遠江守時政、数千の兵を起こして、能員、親景、有季以下、金吾禅門の嫡子(一万君)扶持の軍を討ちて、禅門舎弟実朝を挙して将軍の宣旨を申し成して、禅門を深山に幽閉す。

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校訂者注
 ・同二月七日――底本「同二月二十日」。『群書類従 第42-44冊』により改めた。
 ・征夷大将軍――底本「征夷大将軍」。『群書類従 第42-44冊』により改めた。

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